企画解説『されど海……オホーツクのひとびと』について -第2稿-
…これは映画のテーマの流れを示すもので、構成案ではありません…
ー企画に先立っての考え方ー
北方領土問題は今、混沌として解決の道が見えがたい。
エリツィンの本年九月の訪日中止、そしてこの十二月の大統領令による北方領土のロシア主権の再確認と新布告(九〇年間租借地に認可、関税免除などの千島振興策など)により、半永久的に領土が固定化されたかに見える。日本政府の反発は九三年東京サミットに向けてさらに増していくであろう。だが現地北海道、根室海峡のひとびとは沈黙している。当然ながら、この問題については元島民は際立ってシャープである。半世紀近くにわたって返還運動の旗をかかげてきたはずの北方四島の元島民の今の静けさは注目に値する。この静けさにはかれら特有の洞察があってのことだとしたら、それは何であろうか。
(企画の現在時点)
この企画は北方領土問題の歴史を国際政治や日ソ外交史の観点から描くことには興味がない。それはほぼ明らかにされているからだ。この九月、日・ロ両外務省で『日露領土問題の歴史に関する共同作成資料集』が完成され、歴史的事実の主張の相違点は殆どなくなった。北方四島とそのひとびとの現状も(海、自然、漁業の分析は別にして)この二年間、新聞、映像としてある程度報道された。いわば「見るべきものは見つ」というべきだ。 のちに述べるようにビザなし渡航・交流によって元島民の意識も激変した。北方領土返還運動の先頭に立った右翼すら、その代表がロシアを訪問し、政府やアカデミーの要人と直接対話する時代になった。だが、北方四島についての展望が見えない。それはなぜだろうか。主には戦後47年のロシアの実効支配の既成事実の重みと、それとうらはらに元島民の47年の歳月の否おうない経過もあろう。時間は逆行しないからだ。
「日本の固有の領土」論(日本)や「法と正義」(エリツィン)も、ともにその時間の壁を前にして立ちすくんでいる。(もうこれらの言葉すら人びとは聞き飽きている)。
また、解決の先送りのこの事態はロシアの政権内の事情でも説明できよう。さらにソ連軍部の軍事的地政学的理由も報じられている。なにより北方四島を管轄するサハリン州政府は一貫して返還に反対の立場をとっていることが響いていよう。
だが、本質的には日ロの国家がともに、この地域のひとびとがどのようにして生きていけるかについて、そのビジョン(展望)を示しえていないことに帰着する。いかなる方針にも、現地のひとびとの生活をみつめた思考が基本的に欠けてはいないか。
(北方四島の当事者)
島の当事者とは国家であるのか。島は実体的にはそこに生きる住民のものであろう。
島が一つの「国家」であっても不思議はない。余談ながら択捉島だけでリュクセンブルグ、モナコ、シンガポール、ホンコンをあわせたより大きいからだ。
歴史上、先住民はクリル・アイヌである。異論の余地はない。そして当面の当事者は日本人の元島民とロシア人の現島民である。その当事者三者に今、共有できる生活幻想があるだろうか。(アイヌについては後段に述べる)
国籍、制度、言語、文化、生活とその水準、そのどれをとっても、政府のいう「一定期間の混住」すら容易に想像できない。いま、発想の転換が迫られているのはそこだ。
それには何から始めたらいいだろう。北方四島一括返還するまでは、自由往来も経済交流も極度に制限するという国の既定方針への批判はここでは棚上げにし、「まず海を見よ」であろう。その海の告知に耳を傾けることから始めてみたいのである。
この地の海は共生するに十分な豊かさを持っている。ここは北半球でもっとも自然資源を産み出す世界三大漁場の一つであり、幸いにも、「帰属不明」の半世紀の間、稀有にも乱開発と自然破壊を免れてきた「残された地」なのである。それは当事者たちなら知っている。だが、その思いはかならずしも明らかにされてはいない。この機会にこそ、その思いを語ってほしい。かりに「幻想」であってもよい。だがその「幻想」の依拠するところは揺るぎない海への思いであろう。『されど海』と題したのはそこに尽きる。あらゆる現象を「海」に映じて、考えを組み立てる。「されど海は?」というように。
(ゾーン<国境・ラインではなく>としての北方四島)
この海域を指して、地元根室の人は、「両島民にとって共有の『海の畑』」という。だが国境の壁は死角を作ってきた。いまは表現上、越境し、クロスし合う視界、つまり「ゾーン」としてこの地域を描きたい。だが、それは物理的にもむつかしい。国境の「軍事機密」性、そして漁業者の「企業秘密」性がそれに拍車をかけた。あとでのべる密漁や国際的規制に違反した操業の繰り返しは、さらにこの海を秘匿の色濃いものにした。両国間の科学的調査や自然保護のデ-タの交流も不振を極めている。
この企画は海をキーに統合し、その自然の姿を洗い直すものにしたい。
このゾーンの近未来、つまり「かくあるべき」海域と、ひとびとの真実へのアプローチがこの企画の主題であり、その意図は以上である。次に企画の骨格の考え方を述べる。
ー漁業からみる歴史の流れー
(北洋漁業の先端地・根室のひとびと)
国境の海・根室海峡は北洋漁場の一部、根室はその最前線である。百数十年にわたって、千島列島、カムチャッカにむけての開拓の拠点であった。むかしからのロシア人とのかかわりもここ根室漁業史に刻まれている(1792年遣日使節アダム・ラックスマン入津)
戦後のソ連とのかかわりの断絶は知られる通りだ。根室市への「ソ連人立ち入り禁止」が解かれたのはこのたかだか二、三年前からである。だが、漁業問題を通じて、この四十数年、一日たりとも、ロシアを意識しないではいられなかった。根室市民、元島民には根室海峡はもとより、北洋、オホーツク海出漁の体験があるからだ。
(島は北海道開拓の一部)
旧い写真でみる島の風景は今もそれほど変わっていない。そして写真で見る限り暮らしに特長はない。乱暴に言えば、北海道開拓そのものである。とくに道東オホーツク海沿岸漁家集落の過去の風景と基本的に変わりがない。回顧の映像に頼る必要は少ないだろう。
国策によって入殖したもの、一旗あげをねらった内地の漁家、農家の二、三男の開拓者からいわば食い詰め者や離郷者、漁場への出稼ぎの定着者などだ。そのほとんどが前浜の漁だった。戦前の道東の集落も「陸の孤島」であり、町にでるのに陸路はなく、便船しかなかった(羅臼)という。島で暮らすのと道東のそれとは五十歩百歩の差でしかなかった。
(北洋漁業と北方領土問題)
そもそも、近年の北洋漁業の移り変わりは、日ロ間の漁業紛争、熾烈な漁場の線引き、漁獲枠と入漁料交渉の政治折衝など、ジグザグした漁業協定締結の歩みが端的に語っている。その際、つねに日本側の既得権の縮小と後退、旧ソ連・ロシア側への譲歩といった、いわば負け続けの印象が強い。それが被害感を生んでいる。
それは北方領土問題の底流の一部にもある。島を取られた上に漁場を追われた…。
「魚に印はない。海の品物(魚)と親の仇は見たときにとれ」の漁民(元島民)の性(さが)は国境ラインでは許されない。根室海峡をめぐる漁船の拿捕、漁民の抑留への反発が北方領土返還運動の怨念の核にもなった。北方領土返還運動には被害者意識がついて回っている。漁民の被害者意識と元島民のそれとが二重になってエモーショナルな訴えとなった。その混沌とした情念はそのまま根室から発信された。
だが日本漁業の乱獲体質への国際的な批判はそれを仕分けしない。とくに近年の世界の海洋資源保護(海洋法)の声の前に、根室漁民の「悲劇」はかすんだ。拿捕事件が第三者国の同情の対象になることは一度たりともなかった。日本の略取型漁業への世界の批判の方がはるかに強かったのである。
元島民の一部代表は外国へのキャンペーン旅行でその「空気」を察した(千島歯舞諸島居住者連盟代表)。そこで北洋漁業のつけが回されていると知ったのだ。
(「魚か領土か」論の周辺)
根室の漁業の歩みは北方領土返還運動の動きからも鮮やかに透視できる。
1981年、鈴木首相による現職首相として初めての根室市訪問を機に、「魚か領土か」という言葉がシニカルに言われはじめた。むろん「領土のほうが大事」という事だ。ひとびとにとっては、「魚」を「暮し」に置き換えれば、根室では「暮し」(魚)に決まっている。だが、「魚」の事情(後述)も劇的に変わりつつあったのである。
元島民の北洋漁業の衰退の経緯を見る目は厳しい。資本力のない中小、もしくは零細漁民として島に入殖したかれらは、捕鯨や缶詰工場などで働くほかは大資本の営む北洋漁業とは無縁だったからだ(当時も漁業資本の所在地は釧路、函館、そして根室)。
1977年、200カイリが設定されるまでは、公海が残存するかぎり「領土問題」があろうと無かろうと、大資本の漁船群は北上した(1970年代前半まで)。根室はその北洋漁業の基地として空前の恵みを受けた。漁業界ではオホーツク、ベーリング海での大資本による操業が優先した。そのため、旧ソ連の漁獲割り当ての意向を伺う風潮が主であり、元島民の「住民要求(領土返還)」は、ときに結果的には傍流視されがちだった。
200カイリ設定以後、北洋漁場が狭まるにつれ北方領土に視線が注がれるようになった。更にアフガンへのソ連軍の進入で一気に高まった反ソ機運は、「北からの脅威論」になり、その勢いを駆って「北方領土を返せ」の大合唱となった。世論は「魚より領土」へと大きく傾いた。だが、根室漁民の本音が「領土より魚」にあることを元島民たちは知っていた。つまり「魚も領土も」だったのだ。だが、島の「当事者」としては領土返還運動の先頭に立たざるを得なかった。以来根室に隠微な亀裂が生じたといわれる。
(外洋型巨大資本漁業の凋落)
今年もサケ・マスの公海での違反操業がアメリカによって摘発され、その操業が政府、
(体験談から「空想」への飛躍)
すでに述べたように、年老いた元島民に向けられる「返還後、あなたは島に帰りますか」という質問ほど彼等を悩ませるものはない。もっと楽しい別の質問はないのかという苦しみが見てとれる。それに反し、島の思い出話には活気がある。その体験にはディテールがある。だがその聞き手がロシア人島民だったらもっと生彩を帯びるだろうと思わせる。
四島訪問時にそうしたやりとりをしてきた元島民がいる。「まるで私はかれら(ロシア人)の先生だった」。「魚やカニやコンブの話になると通訳ぬきでも話し合えた」「島自慢をし合ったあとに、友情を感じた」ともいう。温暖で資源に恵まれた島の自慢がロシア人の口から出ることも元島民にとっては思いがけなくも愉快なことだった。「一緒に仲好く暮らせたら」とあれこれ空想したという。だが混住はあくまで仮の話である。だが島や海、そして暮しや食い物の料理の話は具体的だ。その場での「空想」には島民にだけ通じあえる現実感があるのだ。
(元島民の「誇らしさ」)
多くの訪問記やルポは「経済交流の話は活発」と書く。それに対して国は「経済交流が独り歩きすれば、ロシアの島への固執は強まり、領土問題の政治的解決はさらに遠のく」と反発的である。だが、元島民はロシア人島民と経済交流の形にはめて漁や海の仕事をかった訳ではない。交流のなかでのドラマティックな話題は島への愛着であり、海の仕事についてであったに過ぎない。そこでは返還問題は持ち出されなかったという。そして「誰よりも現島民を理解できるのは元島民のわれわれなのだ」と自負するのだ。
なにから始めるかについての第一歩はすでに踏み出されてたといえないだろうか。元島民のアイデンティティーがここに島の先輩としての誇らしさをもって息ずいていた。
いま老いた元島民たちのなしうることが、島と海についてのいわば観念の遊びでしかなとしても、それには強烈にオホーツク体験、かつての島での四季の生活が裏打ちされている。国境を超えた対話の原型がそこにあるというのは言い過ぎだろうか。
(根室・花咲港)
根室の港でもロシアのカニ船などをめぐってさまざまな人間関係が生まれている。
根室の漁師はその新しい「国際交流」に戸惑っている。
密漁と拿捕の50年近い歳月の中で、のべ9000人の漁民が逮捕、抑留された。それには元島民も少なくない。島のどこにホタテ貝やカニがいるか熟知しているからだ。
魚相手の仕事には知恵も悪知恵もある。「漁師に少々の盗人っ気はつきもの」と漁民自身が笑う。ロシアの国境警備関係としか接しなかったかれらだが、今は、カニやウニの買い手として、運搬船のロシア人たちとの付き合いが始まった。恩讐の影が微塵もないのは不思議なほどだ。
漁師の目でみる時、ロシア人のカニやウニの扱いは見ていられないという。脚のもげたカニ、腹の開いたものや死んだカニははねられる。それが50%に及ぶこともある。ウニは時に80%もキャンセルされた。それらは帰りに海に捨てられるだろう。
活カニ、活ウニ、そして活魚でなければ引き取らない日本の市場である。日本の漁師はその市場の厳しさに鍛えられ、魚の扱いには熟達している。だから歯がゆくてならない。資源の無駄だ、なんという勿体ない扱いかと気を揉んでいる。もっと上手に金儲けのやり方があるものを、技術指導をしないでいいのか(それは島でも切実に要望されていることだ)。このままでは乱獲と資源の浪費になりはしないかと島のひとびとも気遣っている。元島民の思いも同じだ。かれらはわが子のことのように気になり始めている。
これは一例に過ぎない。気の遠くなるような漁業技術の差異が横たわっている。経済交流の進展にともなって問題は果てしなく出てこよう。しかし、だからといって北方四島が返還され、日本の漁業にとって代わればいいということではない。最高の電子計器を持つ日本の漁業資本が島に入れば、さらに危ういと危惧する漁民がいま主流だからだ。
(根室の漁業のありよう)
根室は沿岸漁業に回帰できるか。根室市には四漁協がある。根室、花咲、落石、湾中がそれである。ここでの地先漁業はコンブ、花咲カニ、ホタテ、カレイで知られるが、どちらかといえば、北洋漁業に執着してきた。その衰退をカバーしてきたのが北方四島領海に越境してカニ、カレイを獲るいわゆる特攻船(快速密漁船)といわれている。一回の出漁で 300万円の水揚げといわれ根室市の経済を支えてきた。つまり北方四島海域なしには存立しない漁業体質といえる。しかし「買う漁業」で潤うのはもっぱら仲買であって、現業漁民ではない。
国境の孤島、貝殻島のコンブは、「根室コンブ」のブランド性を高めた。だが一方では「もし元島民が島に帰ってコンブを出荷したら、数段品質の劣る根室コンブは値崩れする。だから島は帰らない方がいい」というジョークもある。それほど歯舞諸島や色丹島のコンブは良質である。海流の質が根室とは微妙に違っているのだ。
ロシア人もコンブは食べる。だがそこにはロシア人が採らない食用海草もあり余るほどある。ウニもロシア人は食べない。ならばかれらと合弁事業を組み、根室から船で島々へ通えばいいという夢をもつ人もいる。高馬力の日本の船足ならたやすいことだ。島のロシア人に下請けしてもらうのも悪くない。それはロシア人にとっても利益であろう。そう考えるのが根室なのだ。
根室は領土問題の圏外にある、北千島、カムチャッカとの合弁企業に期待をかけはじめている。漁業基地根室ならではのスケールが見られる。そこでの日ロ合弁企業漁業をやがて、返還をまって南千島に南下させようという新しい構想である。いずれにせよ外国領海域での国際協力か、自国の沿岸漁業の活性化か、この二つの選択肢しか残されていない。
(アイヌと北方四島)
海は美しい、自然は偉大だという。だがこれほど残酷なものはない。先住民アイヌの自然観が繰り返しここでは見直されるのも、オホーツクの風土の厳しさをぬきには考えられない。かれらの感性的遺産を折につけ反芻するのが道東のひとびとである。とくに北方四島との距離が狭められてから、道東の一市四町の若いひとびとの間でオホーツク先住民、メナシアイヌのことが語られはじめている。
アイヌ語でメナシとは「日いづる所」の意味という。蝦夷の東に在り、自由に移動しあったこのオホーツク一帯に、かつては近代国家のラインの概念はなかった。島国の日本、その鎖国時代には国境の概念より異域として把握されていた。ラインではなく「ゾーン」だったといわれる(ロナールド・P・トビ・イリノイ大教授)
(道東の若者たちの運動とその意味するもの)
この新しいゾーンとしての、国境をこえた交流を、「メナシ文化圏」ネットワークともいうべき発想から、北方四島を考え、かつてのアイヌのライフスタイルを復活させてみようというの運動が語られ始めた。北海道に衝撃が走ったあの「光のメッセージ」もそれと関連している。「光のメッセージ」とは、島の見える市の高台(開陽台)から強力な照明灯点滅でモールス信号で「愛と平和」の二語を対岸の国後島に向けて送るというものである。いくたびもの失敗のすえ、やっと国後島から島のコムソモールの青年により光の応答が返ってきた。その光の瞬きの交流はなんとシンボリックであろうか。
それは中標津の青年たちの(松村康弘氏ら)思い付きから始まった。この「光のメッセージ」の交換はやがて洋上の国境線での交流という画期的な試みに発展した。ジャガイモ、ラーメン、石鹸など一トン余が沖で渡された。今後もこの洋上交流は繰り返したいという。 (「アイヌのテリトリーを島に!」)
「アイヌぬきに北方領土問題の解決はありえない」とするアイヌ民族の声(ウタリ協会)はこのネットワークの青年たちにそれまでの北方領土問題とはまったく別の発想をいだかせた。世界の先住民運動に日本でもっとも敏感にならざるをえないのが北海道である。
折も折、カナダ、アラスカ、サハリンでは先住民のテリトリーとして広大な地域が復活、画定した。この地球的動向から、彼等は「島にアイヌのテリトリーを」というビジョンを描きはじめた。島々の帰属が未確定であるいまこそ、その夢を実現したいという。
一方、島々でもクリル(千島)アイヌの史跡が発掘され、博物館に納められているとの情報が、ビザなし交流で持ち帰られた。島々(色丹島、択捉島など)でのアイヌ探しによって、それまでのロシア人探検家止まりだった島の歴史の見方が変わった。そこには永住の地とし、ふるさととして島を見直す動きにもつながる。「アイヌの地を」という声は北方四島にどのように届くであろうか。また、この現在、ロシア人が日本人を理解するステップとして、遡ってアイヌとのつきあいを洗い直すことは至極順当なことであろう。ちなみに、アイヌの島への訪問はまだなされていない。
(島々の海の生態系調査と自然環境保護対策の今)
いままで、島を海の生態系や自然環境の視点から見ることはなかった。「戦後40数年間、開発を免れてきた北方領土の自然環境は、日本人にとってタイムカプセルのように貴重な存在」との専門家の指摘もある。旧ソ連時代から、幸い四島は自然保護地域に指定され、日本の知床国立公園の 2人にくらべ、国後だけで50人以上のレンジャーや専門家がいる。それでも学術調査は遅れている。ロシア側の専門家の間でも日本との合弁企業による漁場や浜辺の開発による環境破壊を憂慮する声があるものの、やはり、ここでも開発の論理が優先される。
日本側、とくに道東の漁民はコンブの胞子は北方領土から来るという。水深20m前後の海峡の海底は底棲動物の絶好のすみ家である。その幼生期のプランクトンは、島の岩礁があって繁殖するともいう。その生態系に注目しているのは、「育てる漁業」に活路を見出だした沿岸漁協なのだ。島とは臍の緒でつながっているようなものだという。その漁師の目には島の海はどのように見えるであろう。島にアイヌがそして沿岸漁民が訪れる機会が待たれる。
(オホーツク海はなぜ世界的漁場なのか)
上記の課題についての研究はさまざまなかたちで進められている。アムール川が栄養塩を海に運び、光合成によって植物性プランクトンが繁殖し、それが親潮(オホーツク海流)として南下し、黒潮と道東、北方四島海域で合流する。流氷が海底からの湧昇水を誘い出しプランクトンから成魚までの食物連鎖の輪を作る。これらは知られている。
最近、寒い冬季には微生物の活動は低下するとの常識が破られた。冬 2月、氷の下で、植物プランクトンの繁殖が夏に劣らない大量発生を見せるという研究(国立極地研、北大流氷研)が発表された。「流氷が魚を持ってくる」と説が学問的にも証明されたのだ。
これが、流氷期、結氷期の北の漁業の在り方を変えようとしている。冬は眠るほかない北の漁業であった。羅臼のスケトウ漁も永続的は冬季出漁が保障され、風蓮湖や湖の氷の下での操業も一地域の特異な現象ではなかったのだ。
今、地球の温暖化シベリア大陸の気温上昇によって流氷にも変化の兆しが現れた。北方四島、道東の漁業の未来は地球的な規模で考えなければならない時代になった。だが自然のドラマはどのように人類にほほえみ返すか、それは人類に問われているのだ。
(新しいオホーツク海の沿岸漁業)
根室から離れて周辺の漁業を見る。そこには根室と対照的に、もともと北洋や遠洋に縁のなかった弱小漁協が、その限られた漁場を生かして実績をあげているのを見ることができる。北海道沿岸漁業のなかでもっとも成功している漁協がオホーツク海に沿って連なっている。冬は流氷に閉ざされる最果ての地、野付半島から羅臼をへて知床半島をめぐり、サロマ湖にいたる海岸にある。開拓時代からいえば、多くの開拓者が離村し、破産し、僻地ゆえのあらゆる苦労を経て、この海に生き残ったひとびとが結束した漁協である。北方四島を目の前にし、その漁協共同体の固有の漁法を探したあげく切り開いた今があるのだ。 戦後、国境線が引かれてからは、ここでもラインをこえての操業による違反があった。沖の漁場は 3カイリ、12カイリと年を追って狭められた。しかも隣の漁協の漁場との境はきっちり決められている。冬季は出漁が出来ない。その中で海の様子にふさわしいキメ細かい漁法を見つけた。磯にすむいわゆるイソモノ、ホタテ貝やシマエビ、カキなどの栽培漁業やサケ・マスのふ化放流による定置網漁業がそれである。組合員への休漁、禁漁などの漁期規制はきびしく守られている。
この漁協の経営は「協同組合主義」そのもののような共同性をもっている。資源の育成から漁期の調節まで、いわば社会化が進んでいる。その寒冷な気象条件、長い冬季に合わせた漁業形態である。なにより最辺境の条件にあわせたユニークな出荷、流通、貯蔵の方式を作り出している。都会への産地直送も定着した。
漁協は加盟組合員の家族の生活、育児、教育、老後にわたる生涯の生活保障までを目指している。農村は嫁飢饉といわれる。漁村でも後継者難だ。その中で、これらの漁協は「花嫁の進んでくる漁村」になったと胸をはった。
これは四島がめざす「あるべき漁業コルホーズ」と似ていないか。ビザなし渡航で訪日したロシア人漁業関係者が栽培、種育施設の本格的な見学を熱望したというのもうなずける。北方四島の住民に独立国家になろうという勇ましい意見はあるというが、かれらが島の沿岸漁業での経験をこれら対岸の漁協に学び、成功したなら、それはけっして絵空事ではない。旧いコルホーズ型の営漁方法や缶詰製造にしぼられた加工、流通を変えたら、北方四島は豊かな生活を作り上げられるだろう。同じ海の仕事をしながら、かれらの生活水準が日本の10分の 1以下とは不条理極まる。この落差のままで、どうして混住などありうるであろうか。
資本主義のなかに社会主義的すがたが現れ、社会主義であるべき島々が資本主義化に苦悩している…。この世界的動向の縮図がオホーツク海をはさんで出現しているとも癒える。 ここでも北方領土への関心は強い。しかし根室とは異質である。ここでは島々はむしろ今のままで良いとする意見さえ見られるのだ。「北方四島こそ養殖池」との認識からだ。
(海の告げる声を聞く)
納沙布岬には島を見る大望遠鏡がある。だが足元の海を見ることは出来ない。
島への渡航とそこでの越冬も試みたい。水中撮影、撮影船を仕立てての海の描写は欠かせない。
この企画は、在るべき北海道と北方四島の共生のビジョンを求め、四季をたどり、ひとびととの出会いを求めて歩く、ある「旅の記録」ともいうべきものになろう。その海の告げる声が基調音である。絶えず海に回帰し、海に問う社会ドキュメントになれば幸いである。