コミンフォルム・ショック 「小河内工作隊」の記 「朝日ジャーナル」3月29日号朝日新聞社
組織と個人の関係が問われている。社会主義革命こそが唯一人間解放の道であり、それを実現するためには、前衛党に、さらにはその上の国際組織に帰依せざるを得ない、と、かつての学生は考えた。そしてそれが破綻したとき、多くの青年の心はさいなまれた。いやその半生が破壊された。あるいは一生も…‥
一九五二年四月、私は二年間留守にした早大文学部に足を運んだ。それまで毎日、東大にあった全学連書記局で常任活動家として活動していた。その一カ月前、「所感派」の諸君から、いっさいの関係を断つと宣告され、行くところもないまま、再び早稲田に帰ったのだ。
一九五一年秋から、激しさをましたトロツキスト追放キャンペーンで、全学連再建を叫ぶ所感派の学生活動家の傍若無人のふるまいに抵抗していた私は、五二年三月、東大農学部で開かれた拡大中執、いわゆる”追放大会”で「全学連が日本学生の結集する大衆団体であり、党の私物でない以上、自分の任務(財政、機関紙実務)を次の期にひきついでいく」と頑張ったが、どうしようもない凋落のみを味わった。追われた旧「全学連中執」の面々は、帰路、今後のことを語りあった。
だれもが寡黙だった。文学のブの字も口にしたことのなかった武井昭夫は「文学の批評でもやってみたい」といって私をおどろかせた。安東仁兵衛、柴山健太郎、守田典彦らは当時、常東農民組合で、党に対し独自の発言をもっていた山口武秀の下にいくことを決めていた。私は何も決めていなかった。早大を卒業するには、単位は全く不足しており、卒業後の展望は全くなかった。ただ「全学連」が終ったことでポッカリ胸に穴があき、念仏のように、「ボルシェビキ」「党員」とつぶやき、いかにしてそれに至れるかを考えていた
暗黒の中世
一九五〇年の初め、五〇〇人を擁していた早大細胞は、その五月の新宿地区委員会による解散以来、分裂していた。党指導による「再建細胞」は分派闘争の中から育った者と、坊主ザンゲ組のメンバーでようやく再建されはじめていたが、彼らは部室を失い、社研、歴研、唯研などに散らばっている状態で、大衆活動は、当然、戦後最低の状態に転落していた。
私は構内を歩きまわって拡散している旧分派の友人や、新人キャップ榊原喜一郎をさがすことから事を始めた。昭和二一年入党以来、一日として党のことを考えなかった日のなかった私には、人民日報建議(一九五一年九月三日)、コミンフォルム再批判(所感派と新綱領を支持する五二年八月の「恒久平和と人民民主主義のために」)で受けた「分派」という評価だけはすすぎたいという意地があった。しかし全学連書記局から離れて一人になると、やはり歴史的経過を越えて「分派」の負い目を感じる。それがやりきれなかった。
私はこの稿をおこす前に多くの旧友に会ったが、だれもその時期の全体像をつかんでいなかった。
それは彼らが当時、それぞれ狭い視野しか与えられず、上級下級の縦の構造で括動させられていたからである。私は、私の体験を語る以外ない。武藤一羊が「中世期」といったのは的確であろうが、私には最も暗黒の部分であり、未解決のまま強制冷凍処理をしてきた部分なのである。
一九五〇年のレッド・パージ反対闘争はその春と秋の二大闘争によって教職員の「赤狩り」を粉砕した。だが、その谷問の九月三日に発表された「人民日報社説」以来、学生戦線の混迷がはじまった。というより、共産党自体が混迷していた。五〇年一月のコミンフォルム批判が内政干渉であるとの所感を発表した野坂はじめ、徳田、伊藤(律)ら党の大物は、五〇年六月の公職追放でいっせいに地下へもぐった。彼らは非常事態を理由に、中央委員会にかけずに地下に臨時指導部をもうけた。いわゆる所感派である。いっぼうコミンフォルム批判をめぐって自己批判を要求し、潜行しなかった志賀、神山、中西らは統一を呼びかけ、統一派(国際派)と呼ばれた。
私は統一委員会の見解を支持した。すなわち、その論文は「党中央の下に団結」することを主に訴えたもので、半非合法状況を口実に中央委員会を分裂させ、臨時中央指導部をつくったことに対して、言外の批判をこめているものと考えたからだ。
統一派による全学連中執はかたい結束をもって一九五二年前半にまで進んだ。当時、全学連はベルリン・アピールに最も精力的にとりくんでいた。四月、東京都知事選挙に当って、日本共産党臨時中央指導部は、五大国平和協定に応ずる気配もない加藤勘十と政策協定抜きの統一選挙を行なったのに対し、われわれは、出隆東大教授を推して、知事選挙を闘った。「再び銃をとるな」「労働者よ武器をつくるな」というプラカードをもって、ベルリン・アピールの署名をしていた東大生十六人が軍事裁判にかけられた。全員黙秘で闘い、その法廷で「ベルリン・アピール」の意義を訴えつづけた。
私は分派闘争の密室的なふんいきから一気に解き放たれた思いで、そのときのパンフレット「わが友に告げん」を配布したものである。だが例によって、学生の活動の停滞する夏休み、八月に発表されたコミンフォルムの再批判によって局面は一変した。
面従腹背
共産党所感派は関西学連、北海道学連をすでに思いのままにしていたが、これを機に、全学連中執の最も太い脚である都学連の切り崩しにかかった。その九月から冬にかけての人の心の変貌の激しさは予想を越えるものがあった。
当時、新制東大の伝祐雄らが、所感派の先兵として勝ちほこった言動で殴り込みをかけてくるのはご愛敬であったが、われわれと仲間であった高沢寅男、家坂哲男、力石定一ら指導的グループが一夜にして見解を「君子豹変」させ、都学連をほぼその形態と構成のまま所感派の陣営に「変質」させた。それは決定的に中執を機能麻稗に陥れた。
それは学生連動として筋の通らないものであることを、どちらも百も承知の上のセクト闘争であったが、信条を一夜にして変え、その理由をよどみなく解説することには私は耐えきれなかった。所感派は自分たちにする国際的評価が定まったことによってサバサバと行動したのかも知れない。そもそも「思想」とはそのようなものであるかもしれない。しかし変らない側には、どうにもつらく、怒りといらだちが積るのである。もともと所感派の学生官僚に望むものはないが、二年間信条を共にしてきた同志への失恋をどうしようもなかった。
もはや論理ではなく、直観しか他者を判断できるものはなかった。その最終には、所感派と統一派の一部、自分をも含めそのいずれにも真の「党派性」を見失うという苦しみを味わった。
「面従腹背」という言葉がある。最も唾棄すべき「分派」の思想とされていた。しかし私はともかく復党したかった。失望しつつ復党する以上、私は裏がえしの意味で「面従腹背」のまま凍てつかざるを得ない。私はそれに気づかず、早大闘争に入っていった。
混迷のなかをメーデーへ
そこでは大衆闘争は衰微していたが、それと対照的に党員活動は小規模ながら奇妙な緊張をもって陰で進行していた。
いわゆる四全協の軍事方針である。
薄紙で、まるめてのみこめるレポが物かげで渡されたり、『球根栽培法』や『組織者』が危険物のように回覧されたのもそのころである。再建細胞の党員たちの多くは、五〇年以降に入党し、分派活動の中で育ち、非合法活動の手足として危い思いをしてきた新人たちで、学生運動の高揚期にみられたのびやかさは見られなかった。暗く、いつも緊張していた。一番権力をもっていたのは「人事防衛委員」で、たえず思想点検し、「党派性」、非合法活動のイロハをしゃべっていた。スパイ摘発のために終始目を光らせるといった様子で、鬱屈した空気が身辺にただよっていた。同時に「中核自衛隊」が組織され始めていた。忠実で大胆で、体力のある優秀な党員は、細胞とは別の系統、党軍事委員会によって直接指導され、大学内の闘争からは引揚げられ、自治会の立候補もとりやめて「軍事」に専念していた。私が、復党手続き中の「良い分派」として再び活動をはじめたころは、こうした笑い声も冗談も出ない張りつめた状況だった。
当時、新綱領の実践として、小河内山村工作隊が基礎調査活動(五一年一一月ごろ)から半定着活動に移っていたが、三月には森林盗伐、政令違反、公務執行妨害罪で第一次弾圧を受けた。「小河内へ」という字が、かならずビラに大書されていた。旧「全学連」追放過程で、東京におけるめぼしい学生運動はこのほか、二月二二日の渋谷駅事件(新制東大生による徴兵反対署名への弾圧事件)、同じく二月二八日の東大ポポロ事件などで、共通しているのは官憲による侵入、封殺に対する受動的な「憤激」事件であり、大学の中を満たしていたかつての学生のエネルギーが、極度に萎縮し、空洞化した状況を物語っていた。
単独講和発効と時を同じくして上程されようとした破壊括動防止法案は、旧治安維持法の復活を意味し、半非合法状況の共産党の危機感をあおった。
四月新学期、全学連新執行部は、破防法反対闘争を手がけ、ようやく四・二八、五・一ゼネストを打出した。
だが、なにぶんにも、党分裂と政治コースの混乱から多くの活動家は沈潜していたし、軍事委員会系統の諸君も表面に出られなかった。細胞活動家で動けるものは十数人に満たなかった。私はまだ復党をみとめられず、何の任務も与えられることはなかった。がそのことがかえって-種の”自由”を私に与えていた。自分の思うように動ける糸の切れた凧のような自由さがあった。
共産党、評価を変える
私は分派に偏見をもたない細胞キャップ榊原との友人づきあいの気やすさを手がかりに、文学部での組織にかかわった。一兵卒以上のことを背負うことはこりごりであるが、やることはやるといった無思想的な「ワセダ」独特のバターンがそこにあった。
四月二八日、全都下学生抗議決起集会は東大で行われた。三〇〇人以上の学生が、東大の門を破ってイチョウ並木を埋めた。
メーデーには早大から千人近く参加した。軍事方針下のメーデーと言われるが、準備から、会場、行進まで、いわゆる祭典スタイルと違った感じはなかった。少なくとも私には何も知らされていなかった。行進参加者の一人にすぎなかった私だけではなく、メーデー被告(無非判決)だったデモ副指揮者、滝沢林三(記録映画作家)や榊原も、その点では全く同様であった。ただ「人民広場」を解散地点として、デモの力で宮城前に入ることだけ決めていた。
その数日前の四月二八日、東京地裁の皇居前広場使用禁止は違法であるとの決定が出ていた。私たちは当然のことを行なった記憶しかない。そしてその広場で武装警官が発砲に至ったとき、私もモッブの一人として、出来る限りの応戦をしたにすぎない。
が、そのメーデー闘争のもつ意味は、その瞬間から共産党の方針転換とともにゆれうごいた。闘いの直後、非合法機関紙『組織者』はこれを「革命的愛国行動の発動」としてとらえ、軍事方針と重ねうつして見せた。
六全協の転換を体験して一八年闘った被告のひとり、滝沢林三は、「六全協で党の方針が変ってから弁論の視点も微妙に変った。が、統一メーデー被告団は、「俺たちは被害者であり、無罪なのだ」と一点で統一して、その後の政治信条の変化による差を出さないようにしてきた」と語っている。
このことは個的に私にある感慨をよびさます。私は小河内山村工作隊の被告として、全く別の体験へと歩み出したからである。小河内事件は、軍事方針の下で行われ、それを「新綱領」と「六全協」の下で、単なる弾圧事件とされただけでなく、党の政策からはずされた青い方針の生残りとして幕がおろされたからである。それはあとで述べる。
無党派として早大事件
五月八日、いわゆる「早大事件」はメーデー以後の一連の逮捕の進行の中で起るべくして起った。そのあとの学生運動史の中で、これはメーデーとともに官憲の暴力性のきわだった事件ということになっている。しかし、後になって分ったことだが、メーデー以後、学内の沈滞を転回させるために、再建細胞が党東京都委員会の学生対策部と検討のうえ、それは仕組まれたということだ。つまり「必ず学内にデカが入っているはずだ。東大ポポロ事件はワセダにもある。デカを摘発しろ」ということになり、「軍事委員会」を中心にデカ狩りが行われ、いとも簡単に、図憲館前に私服を発見、事件のいとぐちになったという。
細胞の力で連行された神楽坂署の山本昭三巡査を文学部校舎にひき入れてからの大衆行動は、文字どおりガソリンに火を投じたようだった。
午後四時から翌日の午前一時すぎの武力行使まで、ほぼ一〇時間、「詫び状」と文部次官通達の確認のための文書をめぐっての抗講集会が、武装警察の目の前で行われた。当時の報道陣が写真を撮っている。一、二メートル迫った武装警官に対して、少しも乱れずに胸をはってすわりこむ学生の姿は有弁に「早大事件」を物語っている。しかもその前列には、その日、はじめて闘争に参加したもののカが、歴教の活動家よりはるかに多く、しかもはるかに乱れてなかった。
対峙の一〇時間に「軍事委員会」はビラをまき、「暴力には暴力を」とよびかけたが、その姿は見せなかった。すわりこみの闘争形態は明らかに日和見主義として批判する文書が、まだ党員でもない議長土木のもとに発せられた。深夜五〇〇人の機動隊を前に一五〇〇人の学生とともに対特しながら、軍事方針がひそかにとびかう中で、私は、そのビラを読み、そのレポを知らせて、学生たちの討議にゆだねることにした。「党員」時代には考えもしなかった方法であった。
私の願いはメーデー参加者を含む一五〇〇人の学生の大量逮捕をふせぐことにあった。すでに深夜、その場がいかに戦闘的な空気につつまれていても、警察に包囲されて、町の市民とも、在宅の学生とも切断されている集会を、なんとか翌朝学生の登校時まで持ちこし、状況を突破することしか私の頭になかった。集会は、すわりこみと無抵抗戦術を、ただ一つの方法としてその討論の中で全員一致で選びとったのだ。
”戦場の鉄則だ”
大学の佐々木理事や滝口学生部長も学生の側に立つ態度を表明、大学としても謝罪文を要求する側に立ってつめよった時、警察の指揮者は武力行使を選びとり、学生の意図を事前に叩き砕くため、棍棒の乱打となった。
その未明から、吉田嘉清前全学自治会議長はじめ、多くの活動家が再結集した。早大生に都下大学の学生を加え、数千人が抗議集会を開き、状況逆転の転機をつかんだかに見えた。メーデーの負傷者も、五・八の負傷者とともに包帯姿をかくすことなく、大学に集れる情勢が開けた。大会は「官憲責任者と機動隊の処罰」とともに「島田総長の退陣」を迫り、中央抗議委員会を組織した。
党は早大事件をメーデー事件の官憲の暴力性を証明するものとして素早いカンパニアをうつ一方、学対は「すわりこみは消極的で敗北主義的な戦術」であったと、状況ぬきの軍事論で批判を加えた。
大学当局は早大出身政治家(浅沼稲次郎ら)を動員、「大学の自治」をうたう一方、政治的収拾にあたり、官憲の現場責任者を名目上解任させたうえ、学生の処分を行なって喧嘩両成敗にしようと図ったが、教授会の反対により進まなかった。
早大事件以来の学生の自然的高揚を見て、早大中央抗議委員会を党の全面的指導下におくため、党は私を上級会議に呼んだ。彼らの要求は、早大を、低調な全学生運動の突破口づくりの先頭に立たせ、各大学で開催困難な一連の全都内学生集会を、あいついで早大の中で行うよう指導せよということにつきた。
一九五〇年一〇月以来、大学はこの種の学内集会を禁止し、官憲導入、学生処分を用意している。私は五・三〇(破防法反対総決起大会)については、早大闘争にとって有利と判断して了承したが、六・一〇(破防法粉砕全都総決起大会)、六・一七(破防法粉砕統一ゼネスト)については断った。
その時点、私は党に復帰していず、中央抗議委員会だけにしか責任のもちようはなかった。部の学対責任者らしい男がその名も明かさず、「もし土本が出来ないというなら、早大の中央抗議委員会は動かない。先頭を切ってほしい。すでに決戦である以上、多数決でなく、絶対的に全員一致としたい。それが戦場での鉄則だ。きみの反対意見はしたがって認めない」といった。
私は、このやり方から、苦しみながら変質していった旧中執のあれこれの顔を思い起した。そしてそれは意外な論理ではなく、暗い党派の論理であることを、ずっと前から知りぬいていて、今あらためて耳にしているにすぎないと思ったりした。
「もう卒業は出来ないナ、四万円授業料払って損した。もしこうなれば、気違いのように六・一〇のために動くほかないな」と、とりとめなく考えた。その時、大学側がもっと先読みし、抗議運動をつぶし、出てきはじめた新たな闘いの結束軸をこわすために、手をうっていることを見ぬけなかった。
ドブに捨てられた小河内
私は五・三〇、六・一〇、六・一七と三つのカンパニアのために働いた。六月中旬、私を含む三人の活動家が、除籍、退学処分と敵った。私のあずかり知らない火炎ビン闘争が新宿駅を皮切りに出現した。五月三〇日、「軍事」は市ヶ谷のGHQ総司令部を襲撃した。
そして六月下旬、私はその「貢献」により小河内にゆくことを命ぜられた。「復党は早いだろう。そのため一週間でいいから」という。私はそれが懲罰であり、党への忠誠心の試しであることは感知出来たが、大義名分をふりかざし小河内の重要性を説く正体不明の「学対」の顔をみているうちに、一週間で何が分るか? 三カ月、行ってくる」と答えてしまった。
四月、早大にもどって以来、一兵卒以上に「指導者的な立場には断じてなるまいと決心していたにもかかわらず、五・八早大闘争からわずか一カ月余、私は新しい所感派幹部候補生としてイイ線いっているらしい自分の立湯を知らされた。そして本質的には「党員」としてでなく、せいぜいモラリストとして身を処しているだけの自分のさまを知っているだけに、「一週間」の小河内は、つじつまのあわぬ「免罪」行為に思えた。
私は中央抗議委員会の仕事が、大学のヘゲモニーによって夏休み以後、きわめて困難になることを予想していた。だから私の除籍という「不当処分」への反対闘争が、私にとって一種わずらわしくもあった。しかし大衆の唯一の結集点であった中央抗議委員会から私が立去るには、「小河内」にいくことしか残っていなかった。
私は親から勘当あつかいをうけ、それでもいまだ見知らぬ小河内に好奇心をもって出かけた。同じく元分派の同志と、同じく元分派の軍事委員、そして若手の美術家党員グループとともに、小河内村の根拠地にたどりついた。六月末のことである。
「行動を起すのだ」
当時小河内では、三多摩の軍事基地へ水と電力を補給する多目的ダムの建設がおこなわれており、村長木村源兵衛は、都下屈指の山村地主、製材業者で、安井都政への資金提供者として、村を支配していた。この根を断ち切ること、彼を打倒すること、山村を解放し、ダム建設を阻止することこそ、自民党売国内閣を打倒し、アメリカ帝国主薬の占領に反対することだという論理が語られていた。
ダム建設の請負い西松組には、すでに同志が潜入しており、内部から破壊工作をする、「軍事」は別に山に入りこみ、拠点設定をしていると教えられた。
その拠点「八畳岩」は見事な大岩で、その下に一五人ゴロ寝の余地はあった。渓流で洗面し、大鍋で麦九、米一の割合で炊いた雑炊を食べ、タバコは日に三本支給された。メンバーは女性問題をひき起して懲罰的に派遣されたといわれる岩崎元新宿地区委員長(当時拘留中、のち病死)はじめ、定着している旧レッド・バージ組労働者四人と元分派学生数人と、勅使河原宏、山下菊二ら版画グループ数人。共同生活が始った。
軍事基地のための、三多摩の社会・産業構造の変化は小河内ダムと無縁ではない。そして村民は戦前の買収方式のまま湖底に沈められる不安をもち、西松組労務者はきわめて低賃金で働いていた。が、小河内村民は、半年以上の工作にもかかわちず、胸を開こうとはしなかった。闘争は自慰的に空転していた。政治宣伝活動の系統と、軍事のそれと二つの組織をもつ小河内工作隊を農民は直観的に畏れていたことは想像にかたくない。
私はどこにいっても、農民からはじきとばされた。はじけさせたのはおたがいの皮膚感覚であった。それでも村民向けのガリを切り、版画グルーブが中国ふうの版画をそれに刷り入れ、配布する。それを日課として10日近くたった。
七月九日、ダムの労務者の経済要求がようやく芽ばえた。当時彼らの一日手取り二五〇円、残業二時間六〇円、それから食費、寝具、タバコ一個分計一九八円を差引かれる。お盆が近づいて、お盆手当五〇〇円、一日手取り三〇〇円に上げろという要求をぶつけることになった。その未明、ダム地点近くで細胞会議が開かれた。
「ダムの可燃物に放火する。この作戦のため、氷川、小河内問には「軍事」が岩を落して警官隊を阻止する。これを機に根拠地を固める。その支援と労農同盟のため京浜労働者三千人がすでに多摩川を越えた」。討論も論証の裏づけもない告示であった。パイプ印のマッチ一個を渡され、各自の判断で放火せよという。
私ともう一人の旧分派は強硬に二時間反対した。農民も労働者もその「軍事」の点で宣伝・教育工作もしていないこと、この日の闘争が放火請負い闘争ではないことを主張した。
しかしまたしても「多数決をみとめない。コト戦争に関しては全員の一致を求める」という論理がつづいた。
もはや驚かぬ
反対意見のまま、闘争に参加、逮捕第一号になり、短い山村工作隊の生活の幕を閉じた。私は早すぎた逮捕のため闘争の一部始終を見ていない。しかし、指導的な労働者出身同志をふくめ、だれ一人放火したものはいない。現実の労務者大衆の意識は、”まとまりやすい”お盆手当だけにしぼられていた。それが数カ月にわたって、苦しい工作をその飯場でつづけた同志のようやく獲得することの出来た成果であり、それ以上ではなかったのだ。
この事件で公務執行妨害、暴力等取締令違反で実刑を宣告(執行猶予)されたが、小河内事件第一次、第二次、第三次、計一五人の被告はだれ一人控訴していない。情勢は六全協によって全て変ったからである。
入獄中五二年九月の衆議院選挙で、小河内の投票が工作以前よりー票減り、七票にとどまったと聞いた(その選挙で共産党はすべての議席を失った)。その後も早大からの学生工作隊は弱まりながらもつづき、延べ一千人近くに及んだという。
当時の軍事方針は、アメリカを解放軍と規定して始った誤謬にみちた戦後史の中で、一帯のあやまった「極左冒険主義的傾向」として、振子運動の.狂いのように扱われている。これについての公然たる点検と稔括はなされないで今日にいたっている。現日本共産党指導部は、そのことを六全協とひきかえにドブに捨てた。今日の「軍事論」に何がだれに引きつがれたであろう。
「面従腹背」でしか生態学的に生きられなかった時期の自分をチョット毫も正しいとは思わない。多かれ少なかれ同じように裂かれたまま生き、闘った仲間は多い。その一人たちこそ六全協で、激しいショックをうけ、以後六全協ノイローゼがつづいたといわれる。私はいわゆる第一次全学連の解体期に、外も内も含めて、私にとっての党を見失っている。その後、日中友好協会で(執行猶予期間中)、一兵卒として働いたつもりである。だが六全協には、「なるほど今度はこう言かのか……しという感慨しかなかった。
それはよろこびでも悲しみでもなく、ショックでさえあり得なかった。「ボルシェビキ」 「党」は私の中でさらに希求の対象となる一方、現実の党がどのようになろうと、もはや驚き狂うことはなくなっていた。