NHK タイトル『オホーツクーわが映画発見の旅…極東ロシアの漁民像』 企画 土本典昭 1993,9 企画書 <1993年(平5)>
NHK タイトル『オホーツクーわが映画発見の旅…極東ロシアの漁民像』 企画 土本典昭 1993,9

 まえおき
 
 私は1967年、シベリアを題材に映画を撮った。そして今年、極東・オホーツク海を旅した(添付・地図)。企画・調査としてである。四半世紀を経た今、なぜ極東・オホーツクか、なぜロシアの漁民なのか。その間のこだわりと節目を述べ、趣旨とさせて頂きたい。
 まず、私には消し難いシベリア体験がある。映画の対象として凝視した辺境のひとびとの記憶が刷り込まれている(『シベリア人の世界』1968年、日本映画新社作品・未公開)。
 ソ連はブレジネフ書記長の就任まもない頃であった。開放的な“フルシチョフ時代”に企画が提出されていたためか、西側メディアとして初の入域取材が認められた。当時、「シベリア横断」「日本車・ナホトカ~モスクワ5000キロドライブ」などと喧伝されたが、撮影を許されたのはいわば点と点であった。極東、オホーツク沿岸部やアムール川などは国境地帯として撮影を許されなかった。八カ月に亘る長期ロケの間に冷戦に加え、中ソ対立が露わになり、ロケは難航を極めた。シベリアへの外国人の入域を警戒し、私たちのロケを許した事を後悔しているようだった。かろうじてシベリアの風土、ロシアの開拓者たちやアジア系のひとびとの生活の一端に触れるとともに、この映画の中でシベリアのひとびとが将来を託している自然改造計画、巨大水力ダムの開発も力をこめて紹介した。
 21年後の1988年、環境問題(「バイカル」フォーラム、座長・野間宏)を機に再びシベリアに足を運んだ。そこで、かつて映画で肯定的に描いた巨大水力ダムや当時計画中だった木材化学コンビナートが今、森林破壊、飲料水源(バイカル湖)汚染、水俣病様の重金属中毒を招き、「シベリアはソ連経済成長の犠牲にされた」と民衆の怨嗟の的となっていることを知った。以来、ソ連・ロシアを考えるにあたって、モスクワからだけではなく、シベリアなど極僻の地から見ることにした。

 70年以降、水俣病の映画を連作してきた。“事件”の記録なら一作で足りたかも知れない。“海とヒト”のテーマが重複してきた。魚で病んだ患者が、魚を食べ続ける…からだ。 水俣病患者の健康は回復し得ない。だが毒だらけの海、水俣湾にボラが湧くのを見た。岸辺の日陰に寄る稚魚の群れは神秘的でさえあった(映画『不知火海』)。以来「海は死んだ」といった類いの言葉は言えなくなった。「ヒトは滅びても、海の生き物は生きる」と得心したからだ。悲観とも楽観とも分かち難いが、私には海はそのように黙示している。
 84年、原子力船「むつ」母港化に反対する漁民の記録映画『海盗りー下北半島』(製作・青林舎)を作ったが、“海とヒト”の主題は同じだった。しかし、多彩な魚を採る水俣漁民の四季の営みと、越冬に生死をかける北方漁民の営みとの違いは大きかった。
 津軽海峡の漁業の主力はやはりサケ・マス。戦後の「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」の漁業政策転換により、北の零細農漁民はサケ・マスの漁期には雇われて北洋漁業へ出稼ぎに出るのが常であった。戦後、その歩合による手取り額は戦前より良かった。
 だが、1976年,200海里規制以後、漁業は遠洋から撤退、再び沿岸に復帰した。帰村した漁民の多くは自立資力が無く、脱落していった。しかし浜に居る限り日々の魚には事欠かない。家々の軒にサケの切り身やスルメを吊るし、冬に備える。やはり“在所”なのだ。
 漁協が母港化について分裂、抗争する最中にも、初夏恒例のコンブの解禁日が来た。出稼ぎの人達も一斉に舞い戻り、妻子供らとともにコンブを採る。村全体の喧騒のなかにも穏やかさがあった。海上安全の祈願と海への帰依の情が流れていた。

 昨92年夏、北方領土問題の調査のため北海道・道東の海辺を歩いた。その経過については添付資料・(『北方四島をめぐる領土問題』私学公論・92年12月号)に譲りたい。
 やはり観点は“魚と海とヒト”だった。根室・道東で出会った元島民の北方領土問題に対する洞察は、私の予想をはるかに超えていた。ロシア人気質を知っていたのだ。例えば、元島民は島を奪われてから45年余、その間、あるいはロシア国境守備隊に拿捕、抑留され、あるいは再開された北洋漁業に働き、オホーツク、ベーリング海に出漁し、ロシアを膚で知るいわばベテランだった。ロシア人を悪しきざまにいう口の根の乾かないうちに親近の情が出る。
 漁民たちは「元島民(漁民)で密漁しなかった者はいないだろう」と笑う。その反対にロシア人の密漁は見たことも、聞いたこともないらしかった。
 数年前までのロシア漁船の近海(日本 200海里内)操業も、こちらの大中漁業の北洋操業と引き換え条件(相互等量原則といわれる)としてであって“違反”操業ではなかった。
 東北の港に補給と休養のため寄港したロシア漁船に、全国の右翼街宣車が威嚇的言動をくりひろげたが、元島民は「根室には、ああした右翼は入れない」という。ロシアの 200海里の水産物を輸入し、加工する基地・根室では有り得ない事、というのだ。根室のひとびとは物流のなかでロシア、北方四島を見ていた。

 年々オホーツクでの漁獲枠は狭められ、92年からは北洋全体が禁漁区となった(添付資料・・記事『消滅に向かう北洋サケ・マス漁』・地図)。ロシアはオホーツクを内海として独占したかの観がある(後述)。日本はソ連の母川主義を認め、日本の 200海里内のサケ・マスすら規制され、協力金を支払う。ではロシア人自身、漁獲規制しているのか?
 敗戦後の北方四島で、ロシア人と混住し、一緒に働いた元島民に聞くと、「ノルマ以上に働かない。社会主義は計画経済だから…」と意表をつく答えが帰ってくる。さらに「ロシア人は漁業は下手だ。魚の扱いも旨くない」と続く。だがこの一二年の花咲港へのロシアのカニ船の急増を見て、彼等に危惧が生まれた。「獲ったら獲っただけ儲かる仕組みになったようだ」。ならば島の資源は危い。「日本人が密漁した場所で獲ればいいから、楽なもんだ」と苦笑する。根室・道東の漁民たちは島のカニ資源の限度をほぼ読んでいた。
 元来、ロシア人はキャビアやタラバカニは愛好するが、毛ガニは苦手、ウニもタコも食べない。カレイも下魚という。心配気な根室漁民の目をよそに、ロシア人漁船員たちはせっせと北海道名物「オホーツクの味」を運んでくる。帰り船に日本車を積んで島に帰る。
 だが日本漁民の尺度で見ているからか、私には一向に漁民の匂いがしない。元島民の墓参やビザなし訪問の土産話にも、魚くさい目撃談はない。それが不思議だった。
 冬、流氷期、北海道・道東の漁協を訪ねた。「流氷と魚」が映画のキーだったからだ。
 オホーツクが魚類の宝庫であることを裏付ける流氷研究はすでに発表されていた。多年にわたる極地研究の成果という(添付資料・ 新聞記事『食物連鎖の出発点ー植物プランクトン、春先、氷の下でも大発生』90,2,27)。“流氷が魚を運んでくる”という漁民の言い伝えに正しく符合するものだ。

 …流氷は晩秋11月、アムール川口に始まり、千島列島、北海道にいたる(以下、北大流氷研・青田昌秋学説の要旨)。道東は地球上で流氷が最も南に及ぶ所、その沖合で暖流・黒潮と交わる。シベリア大陸からの夥しい栄養塩は流氷(海氷)に含まれ、氷塊の底に付着した藻(アイスアルジー)の栄養になる。数カ月、太陽による光合成によって育った藻・植物性プランクトンは海あけとともに流氷から離れ、海に散る。それが産卵間もない稚魚類の絶好の餌になる。オホーツクが世界三大漁場のひとつといわれる所以である…。
 だが、 6年前から流氷はめだって少なくなり、各地沿岸の漁況に異変が出ていた。沿岸漁協は磯やけ対策に苦慮していた。コンブのつく岩礁は流氷によって擦られ、おのずと雑藻が取り除かれてきた。その流氷の接岸がなくなり、コンブが雑藻に負けたという(根室、歯舞漁協)。昨年はサケ・マスの回帰数も減少した。シロザケの魚体も例年より15cm小さい。その四年魚の鱗の年輪を見ると、うち一年間、海洋でプランクトンに巡り得なかった痕跡が見られる(標津サーモン館調べ)。人工孵化の過剰だろうか。シベリアからの栄養塩の流出の減少だからだろうか。流氷期の唯一の漁業スケトウ漁も、過去10年で最悪、最盛期の1/5になっていた。網走水産試験所に尋ねても、ロシア領オホーツクの資料と付き合わせなければ分からないという。各漁協からの営漁指導に頭を痛めていた。近々10数年間に勃興したスケトウ漁や、サケ・マスの孵化放流事業の前途に暗雲の兆しが出始めた。
 「オホーツクは氷で半年休むからこそ豊かなのだ」(青田昌秋教授)。なるほどそうかも知れない。アムール川からの流氷とそれに連なるオホーツク海の営みに大きな変りはないだろう。人類の生存を支える意味ではアマゾン熱帯雨林に匹敵する。
 先住民の血のなかに流れる自然への信仰は、現在、人類的財産としてとらえられ始めている。それはオホーツクからの声でもあるだろう。

 半年に及ぶ冬、ヒトの生きることを拒む極北は、流氷の下に生命を生み、食物連鎖を続ける世界である。この海洋に順応しつつ、ヒトはいかにこの海を生きたか。そして、われわれはいかに未来を生きようとするのか。この大きなフレームのなかに北洋開拓 300年の歴史、千島・北方四島の国境の問題を置いて見るとどうなるか。魚、海、そしてヒト。まずは流氷に結ばれたオホーツク沿岸全域のひとびとに会ってみいたい思いに駆られた。
 サハリンの前知事フィヨドロフ氏は「魚は金」と端的に述べた。また国後島の新聞は、「宝の海に住み、魚を目の前にしながら、それを獲る術、料理する術を日本人(元島民)に学ばなかった」とのロシア島民の声を伝えている。その後者に心惹かれる。
 魚とヒトのテーマ、漁業の切り口でオホーツク海を見、それを映像にしたいと考えるに至った。オホーツクへ。今回はそのシナリオを作る旅だった。
 以上
 
 <歴史的背景についてのコメント>
 
 かつて領海 3海里時代、公海は、いわゆる無主の幸、だれの手によって魚を獲ってもよい自由漁場と見なされた。日本人漁民はサハリン、千島列島、極東へと北上した。カラフトではアイヌ、オロッコ人、沿海州では中国、朝鮮、ニブヒの人たちの手を借りた。
 日本の仲買人や漁業者たちの足跡はオホーツク、千島列島、カムチャッカ半島沿岸全域に及ぶ。とくに日露戦争後、“露領漁業”は満鉄と並ぶ「二大権益」と謳われ、オホーツク海域での漁業をほぼ独占。明治末、北洋漁業の従業員総数 1万3000人に達した。
 北洋漁業経営のつまずきは1917年、ロシア10月革命に始まる。日本のシベリア出兵は 3年間にも及んだ。もともと帝政ロシアはオホーツクに、ラッコなど海獣の毛皮に巨利を求めた節がある。ソ連の新政権は違った。日本人によって極東漁業の将来性を知らされ、まず自力で開発可能な漁場から、その返還を求めた。日本はいくつかの漁場の漁業権を返しながらも、圧倒的な資本力を以て次々にオホーツク海沿岸にいわゆる魚工場を確保し、サケ・マス、カニを獲り続けた。金と引き換えに魚を獲るため“買魚漁業”とも呼ばれた。
 1928年、初めて日ソ漁業条約が結ばれた。その際、ソ連は「漁工場の雇用者の何割かを現地ソ連人から雇用する」という条項をその条約に入れるよう求めた。日本の漁業経営者たちは「ロシアは海洋国にあらず、ソ連人の漁業労働者は未熟なり」として猛反対し、遂にその条項を許さなかった。日本漁業資本は漁業技術のロシアへの移転を避けたのだ。
 溢れるほどのオホーツクの魚を眼の前にして、ソ連・極東ロシアは日本人に漁区の漁業権を貸して、租借料を得るに甘んじなければならなかった。この記憶は今も残っていよう。
 敗戦後、オホーツク海沿岸至るところに、無傷のままで残された缶詰工場や埠頭設備が、ソ連極東漁業の基礎になった。今回、その北洋漁業史の“現在”を辿ったといえる。

 ソ連の雪解けの時代、フルシチョフは「艦隊を漁船団に転換せよ」と、造船中の 1~ 2万トン級の艦船を新鋭漁業母船に改造し、極東に回送した。60年代後半からは南太平洋、インド洋にまで出漁、いわゆるソ連型遠洋・巨船母艦主義をもって、日本先進漁業の後を追った。とくにブレジネフ政権は魚食を奨励し、国民に必要な総蛋白の30%を水産物から摂取する計画を推進。70年代半ばには、ソ連は日本と肩を並べ、年産1000万トンの大台に迫る総漁獲量を揚げた。その40%はソ連・極東の漁業からの水揚げだった。同時に、日本も同じく水産性総蛋白の40%を北洋海域に依存していたのである。
 ソ連漁業の最盛期1977年、世界は200海里体制の時代に入った。そもそも 200海里経済水域の設定は日本の乱獲体質を縛るために立案されたといわれる。ソ連はアメリカとともに世界の 200海里体制の推進役を演じた。
 200海里体制は新しい資源の管理と利用の時代を招き、地球環境問題、発想転換の母胎ともなった。ソ連漁業もまたこれに縛られた。
 日本は沿岸を再開発、育てる漁業、「買う漁業」に転じた。ソ連も沿岸漁業に目を向けたが巨船母艦主義の陰にあって放置され衰微していた。そして社会主義経済はソ連とともに解体した。200海里を批准していない韓国、台湾などの漁船は、その空白・オホーツク公海部に集り、この海最大の資源、スケトウ(タラコ・すり身になる)を乱獲している。
 いま極東ロシアは資源をいかに生かし、市場化の時代に適応していくか、前例のない苦しみの最中にある。
 
 (主な取材項目)
 
 ー同行者・大津幸四郎、通訳、村山敦子・具文鍋。93,5,16~ 6,15ー1)ウラジオストク市。かつて漁業関係のロシア情報機関で働いた佐藤弘氏に「日ロ漁業交渉について」のインタビュー。氏の案内で極東漁業基地デオミード見学。「新船が作れない、石油もない。国家の資金の支えが切れ、民営化が軌道に乗っていない」のないないづくし。ソ連太平洋艦隊基地の空母も修理中とか、軍港ウラジオストクは91年から“解放”都市になった。そこでの市民生活を見る。もっぱら魚料理を食べる。安い日常雑貨は中国東北部から、中級品は韓国台湾から、車や高級品は日本からと、物の流れはすざまじい。

2)ニコラエスク・ナ・アムーレ市。オホーツクの流氷は初冬11月、ここから始まる。 5月下旬、ようやく海あけの季節、アムール川の沿岸漁業は春漁の準備期にあった。
 「オゼルパッフ」「ブリュヘル」(元コルホーズ)を訪ねる。いずれも暗中模索の状態にある。漁具、漁船、加工施設などは旧式のまま民営化し、独立採算を迫られ、日本との合弁にその活路を探っていた(女性“社長”インタビュー)。数名の先住民ニブヒ人が立ち働いていた。かれらの漁家集落は対岸にひとつ残るのみという(交通途絶期だった)。
 川口一帯は川を遡上するサケ・マスの宝庫。1906年、日魯漁業の創始者堤清七と平塚常次郎はこの地で出会い、北洋漁業の開拓を誓ったという伝説は『ブロンゲ岬の邂逅』として知られている。そして「尼港事件」(日本の軍民 100名がパルチザンによって殺された-1920年)の地でもある。(天草出身者犠牲者追悼のための訪問が、今年始めて実現した) 
3)オホーツク海の最古の都市、オホーツク(オコツクともいう)は、 300年前はカムチャッカ、千島列島進出の拠点だったが、ペテロパブルスク・カムチャッキーにその地位を奪われ、人口は村レベルまでに減った。村長は“北朝鮮”出身の朝鮮人二世だった。
 ここに日ロ合弁の「オホーツク水産」の工場が作られ“地域社会に貢献するタイプの合弁”として注目を浴びていたが、二年と続かず工場閉鎖に追い込まれた(添付資料・、新聞記事『業績不振で解散へ』)。ぴかぴかの真空パック製造ラインは遊んでいた。
 ここで幻の「北オホーツクニシン」漁に同行。町のすぐ沖合の定置網だ。青年、壮年の漁民大勢。それでも漁獲割当て(クォーター)を消化できない漁業集団も多いという。

4)ツンドラ(凍土)地帯での野菜栽培は極地生活では死活の問題といわれる。農業ソホーズは大半解体し、家庭菜園、とくに「ダーチャ(庭つき別荘)」菜園がそれに変わった。作物を盗まれないよう自警団も作ったという。「夫婦でともに働くのはダーチャ(野菜つくり)だけ」という。訪問のさきざきで、畑仕事(ビニールハウスから発電所の余熱利用等)を見た。アパートとそれに付随する集中暖房システムは極地生活の最低必須要件だ。
                                 
5)カムチャッカの東海岸にある、首都ペテロパブルスク・カムチャッキー市の国営漁業基地は極東最大。オホーツク海側の西海岸にもかつて北洋漁場が点々と数珠つなぎにつくられた。そのひとつ、名を知られた「オクチャブリスキー」漁業コルホーズは疲弊のどん底にあった。缶詰工場も原料不足。漁港には小船を揚げるウインチすらない。国営と沿岸との格差は想像を絶した。大規模漁法で獲られた魚は大陸ウラジオストクや日本の市場に直行する。僻地(北方四島・色丹島も同様だが)の缶詰などの加工部門は疎外され、一斉に転落を辿った。残る血路は未加工のまま冷凍した“原料魚”の輸出だ。そのためには冷凍施設・コールドチェーンの完備しかない。それには莫大な資金と技術の導入を要する。

6)ウラジオストク、サハリンで漁業関係当局、研究所(チンロ)へのインタビュー。
 極東海域での核廃棄物投棄については、私らより情報を持たなかった(添付資料・記事・地図)。コルサコフの漁業基地を訪ね、係留中のトロール船内部を見る。海の資源については、国・州の規制がある。重税への批判も聞かれた。「日本は極東のわれわれを原料供給者と見ないでほしい。漁業の最新技術がほしいのだ」との声はどこでも聞いた。

7)都市の野菜市場は韓国・朝鮮人がほぼ独占。かれらは経済力を蓄え、次第に社会的地歩を築いてきた(サハリン)。いわゆる「残留生活」も50年に近い。その子供や孫の時代だ。
 その代表的青年実業家、1000人の従業員を擁するゴン氏は「私はロシア人、ロシアの愛国者のつもりだ」と言いきる。韓国・朝鮮、日本とロシアそれぞれの異文化を併せ持つユニークな“層”を形成したのだ。韓国漁民ともオホーツク海について語る日が来るだろう。

8)北方四島、択捉島、国後島へ。島民はみずから、棄てられた民、領土問題の“人質”という。停電、食料不足、原料供給の途絶など、“缶詰コンビナートの島”の苦境が伝えられる。漁民指導者たちは「領土問題で腰の据わるわけがない。そこが他のオホーツク沿岸とは決定的違う」、心理的にいつも宙吊りの状況にされているという。中年の缶詰工場長は「おれの“定年”までに、この苦境から脱出できるかどうか。子供たちの代でも難しかろう」と嘆く。表向きには今も島出採ったカニを“サハリン産”として花咲港に輸出している。そのためサハリンの税関に余計な金を使い、ときにマフィアに脅かされる。
 知床の山々の見える国後島の最西端ゴロブイノ(泊)に、漁民たちが貯金を出し合って作ったテングサ採りの新会社を訪ねた。産品はもっぱら船でサハリンの寒天加工工場に運ぶ。海路を直行しても一昼夜はかかる。「もし、対岸の北海道に売るとしたらいくらで売るか?」ときくと、社長が試算して見せた干しテングサの売値は、日本の平均相場価格のの10/1 の値段だった。根室海峡対岸の知床・阿寒の残雪が鮮やかだった。

9)旅の終りにホルムスクのコルホーズ「プラウダ」を訪ね、たまたま労組の委員長にあった。まだ労働組合が生きていた。「市場経済だからこそ、漁民の立場にたつ労組の仕事が増えた」という。先頃、組合の提案でサハリンの客船をチャーターし、数 100人の組合員を乗せて、北海道に「買い物ツァー」に行ったという。入手した円を有効に使ったのだ。
  6月半ば、カラフトマス漁が始まったのか、女性たちが塩蔵工場で立ち働いていた。

 (付記)私たちはオホーツクの春しか見ていないし、漁民の生活の一端しか見られなかった。しかし新鮮な驚きと再発見があった。また、映画の構想を説明すると、かれらの眼は光り、膝を乗り出すのだった。私はこの手応えを表現出来れば幸いと思う。