映画「告発・70・水俣」ロケ記 『告発』 第16号 9月25日 水俣病を告発する会 <1970年(昭45)>
 映画「告発・70・水俣」ロケ記「告発」第16号 9月25日水俣病を告発する会

 いいがたい”抵抗感”を手がかりに

 あらゆる現存在には根太く重畳たる現実がからみあっていると思う。映画が水俣に焦点を合せようとする時、それが十七年の年輪をへて、更に深い奥行きと、濃縮された情念の堆積があろうと予想していたものの、都会育ちで近代合理主義にかなり侵されているわが体質と極端にちがった土着の世界に立ちむかうについて、性来もつ好奇心の強さをもってしても、たじろぐばかりの日々がつづいている。撮影以来二ケ月余、映画はほぼ半ばに辿りついたばかりである。映画が完成しないうちに語りたくないがプロセスを明かにすることは一向にに矛盾しない。それは欲求不満シリーズであり、自己撞着大会であり、試行錯誤の大滑降で、はためにもむごたらしく現実に切りつけられてほころび破れはてているのであり、その総集編こそ、一巻のドキュメンタリーになるのだと、果敢に思わずには、仕事にならない。
 東京で企画を実現させる前に、果して”生きる人形”をとれるか?という行ないの次元で、意識上の一つの峰をまたがなければならなかった。一体、どの立場に立って水俣病の死者、患者に向きあえるのか、一片のヒユーマニズムでは刃こぼれし、その自己矛盾に、レンズを伏せるに至ることは眼にみえているではないか?
 五年前、私がNTVのノンフィクション劇場で「水俣の子は生きている」という二十五分の番組取材のため、水俣に来たとき、”何故この子を写すのか?”という二人の親の問いに、万感こみ上げながら、ただ黙ってうつむいて、罪人のように頭を下げている外なかった自分、話した上でカメラを向けたのに、白いシーツのベッドのかげに、全身をかくして、髪の毛の一部しかカメラに映ることを拒否した娘の患者、そして、たしか湯堂の港で、どこにもカメラをむけようなく、生まれてはじめてこの選んだドキュメントの方向に絶望し、作家たることを疑い、カメラマンに物を言うこと自体、オドオドとした自分。そのように、カメラをもって現実に立ちむかうことの自信を、水俣ほど何が何やらわからぬ形で破壊したものはなかった。
 それはたった五年前の私である。今とどう変ったのか、どう変ろうとしているのか。一つにはプロ作家面をしてTV局の契約ディレクターとして働き、その著作すべてがTVに丸抱えにされていたあの時と、今、全くフリーな立場で、私事ともいえる製作の主体を得ているのとの違いはあるが、主要な問題はそこであろうか?

 何故撮るのか

 五年前、私は、この水俣にも、熊本にも、患者見舞訪問サークル以外のめだつ運動も見出せなかった。湯の児リハビリ以前の市立病院の一番奥の病棟に、人眼はばかるようにやさしく幽閉されているが如き患者に出遭うのが、やっとであった。いま、東京五月行動によって、地元水俣市民会議、熊本水俣病を告発する会の運動が全国的に広げられ、つみ上げられ、以前のように私の足の凍てついたままの時空とちがった、開かれた運動がある。その相違は何と大きいことか。
 しかし五年前の私の体験は再び五年の空自を深くかかわらせて、今度の映画に重ねざるを得ない。ということは、やはり映画を何故撮るのか、作るのかという”いかに”以前の問題との初源的な問いを脳中にへめぐらしての撮影の日々がやはり今もあるのである。
 私が、映画のひとであるより車を運転する人として、茂道に津奈木に患者さんの所用のため、市民会議の緊急な用のため働いた方か、はるかに私の心を解放させる素朴な運動感があるのであって、それを対象とし、レンズのあっち側において、「絞りは?ライトは?アクションは?」などと脳を動員することの彼岸性に腹立つこともあるのである。私は非プロ的であるという非難には屁でもないが、自分が映画として起こすことの運動と創造表現行為の二重性と、非同時性との葛藤をあるがままの日常体験として、この水俣、出月に棲み作ることに専念出来る当面ただ一つのスタッフ、ただひとりの人間としての自己認識を忘れることは許されない。
 水俣の総体、つまりチッソ工場とその子会社群とそこに働く労働者、チッソあっての市とその市民、患者であると共に市民であり、ときにチッソ労働者としてその一家を支えているケースさえある水俣病の人々、その水俣の総体が、いかに十七年水俣病を疎外してきたかを探りたいと思う。

 補償処理その後

 この五月、一任派とよばれる人々が処理案をのんでからの水俣の情勢はやはり矛盾を一層深めている。
 一任派であり、いま訴訟派の人々の正当な訴えを家庭訪問などで切りくずそうとしている人々が、かって、病床を同じうし、同病相憐れむといわれようと、その患者の痛苦をもってつながっていた人々である。一任派とよばれる人と訴訟派とよばれる人々との分裂が十数年の根をもつにせよ、別々の解決の途を選びとったのは、ひとりひとりの体験にもとづく直観的な選択であり得ても、理論や弁舌の完徹する話しの世界ではなかったはずである。それだけに、一任派の中の一部のリーダや、切りくずしの先頭に立って、「老いさき短いのに……」「こんな雨もりする家にいて……」つまりそれ故の煩悩で語らいにいかないわけにはいかない、という一任派の一部、彼らへの抵抗感は、チッソに対するよりも、市当局や、国に対するよりも時に血なまぐさい熱気を帯びる。遠い敵より隣りの敵を撃つことが、日々起るのか、水俣の情勢に見える。

 閉じられた世界

 私が単身、一任派の会長山本さんの家を訪れて協力を乞う。それは、その患者会の分裂の情況の中では、訴訟派に依拠する人間が、「映画のために」一任派にのこのこと訪問しくさるといった正当な誤解を尋常には解き放ち得ない。というのは、私の映画の立つところ二十九世帯に減り、それ故に鈍化された訴訟派にあり、その怒りの声につきうごかされて、この映画にかかわっていることは、一度もかくしたことはないからである。
 水俣の総体は患者さん相互を分け壁を作ることに一見成功したと私は見ないわけにはいかない。ボラかごをあみなから、山本会長が、「……何故三十四年当時、あなたは水俣にこなかったか、市民会議が何放、あの時に作られなかったか、もし作られていれば、自分たちは、その後十年も、こんなに苦しみつづけはしなかった。労働者すら、唾をひっかけんばかりじゃった。テントを組合から返せ!といわれて、坐りこみの時、寒さでがたがたふるえながら十二月末というのにふきっさらしで夜をあかした。女どもは、洗濯石ケンを三つ買って、テントを水俣川で洗って、返した。その時の口惜しさは誰も分らん……
 今回の補償は安いといわれるか、誰も反対だといっているものはおらん。みんな、五月、東京での私らの労を知っておってくれた……大阪ガスは昨日、今日の生々しい出来事だから千八百万だ、これをみて高い高いと云うが、水俣は死人が出てからそれなりに時間がたっておるからな…」
 話は恐ろしいまでに、新聞記事上の通説的批判までふんまえながら語られる。しかし、その冒頭に述べられた、弧立の話のときだけは、何回同じ事を喋っても、その都度、心中をふきあれるであろう怨みをもって、私をも責めさいなむのである。迫力にみちているのである。”補償処理”後ふたたび閉じられた世界に入りこみ、映画、新聞、マスコミにも閉鎖的でありたいという意向を結語にする立場を選びとった人間、山本亦由氏であればこそ、その怨みのことばは、いまもある他者への名状しかたい怨恨と重なってメラメラと燃えたつのであろう。私はその最も撮りたい一瞬に、映画としては間に合わない。耳朶に焼きつけながら帰ってくる。

 十七年の重み

 こうした閉された意識につながる壁はそも水俣では何か?直線的にチッソ工場のイメージや、またそのおぞましい排水口等とむすびつけることは出来ない。そこにはチッソのはりつめた負の連珠が詰め、めぐらされているーとしたら、その石を再び見なおすことしか、十七年の重みをとり出すことは出来ないだろう。その重みは、生身の一見、善男善女の現せ身を通過し、くもの糸をくり出され、患者のうらみを封じてきた以上、それは、肉体的に不快で、いやで、へばりつくような呪縛性をもったものであろう。それは山本さんが、私に対して霧出したあの一瞬のようなものであるに違いない。私はそうした、イヤな感じをカメラでじかに当ってみたいと思っている。