私の初期作品について ノート <1995年(平7)>
 私の初期作品について 
 
 時に、制約のある製作条件との戦いが、自由に作った作品と異なる出来になることがある。私の第一作の『ある機関助士』や『ドキュメント-路上』の場合がそうだ。ともにPR(注文)映画であり、シナリオの競合に勝たなければ受注しない。しかも、テーマは与えられたものであり、一旦、通ればシナリオの変更は許されない。その再現となれば、劇映画の手法しかない。
 『ある機関助士』は、昭和三七年に起きた常磐線の大事故(三河島駅での列車追突事件)の国鉄の“自己批判”として企画された映画であり、国鉄の安全イメージをPRするのが意図だった。事故直後から、その責任は機関士個人に帰せられていた。が、私は運行ダイヤの過密による構造的な事故と見ていた。だから、もっぱら機関車の労働の細部描写に力を注ぎ、それがこの映画の特色にもなった。
 『ドキュメント-路上』も警察庁お買い上げを当てにした交通安全映画だった。だがそのような“教育映画”で糊塗できる交通戦争の現実ではなかった。私は街を青酸ガスの瓶に見立て、タクシー・ドライバーをその中に描いた。二作とも形式はフィクションであり、シナリオ通りの映画であった。しかし安全映画に止まらず、矛盾の風圧にモロに曝された人間の描出はした気がする。この時の手法は、以後も私のドキュメンタリーの手法に残った。
 三十数年前、PR映画にしか入口のなかった映画志望者の私にとって、初期映画の二作がたまたまフィクションの形になったのは厳密なシナリオが映画の条件だったからだ。
 『留学生チュア・スイ・リン』は全くシナリオのない中で作られ、絶えず予見を裏切られながら、その過程の記録が映画になった。これを機に私の映画スタイルも変った。が、一方、映画の刻みの深さは、制約の強さによってさらに促されるとの思いが今もあらただ。