講演要旨ー深川高校
映画監督としてみた水俣病その四十年…反復される悲劇。中国、アマゾン・タンザニア。世界から見る水俣病。「世界のミナマタ」というけれど…。「いまだに患者の総数がわからない?」。この疑問は水俣病の矛盾の本質をあらわしている。
カナダインディアンの話。水俣病患者の詫び言。
日本の恥部として政府は世界に情報を発信・公開してこなかった。その証拠として私たちの作った水俣病映画の政府を通じての世界への頒布は皆無、外国上映は私自身で行ってきた。世界の被害地にビデオが上映されているがボランティアの手で運ばれている。
外国にいってどこでも環境汚染に出会う。水の汚染は工業の発展について回っている。水俣病事件の教訓を日本人は必ず問われるだろう。それに答えられるように準備すること。
水俣病の追跡にあたって、犯しがちな誤りには一定のパターンがある。
カナダの場合、中国の場合。
1)予兆は生活民によって発見されている。だが専門家の登場までは結論が出されない。
生活民、たとえば漁民の直感を軽視する。研究者は被害の実情から、被害民の側にたった調査を行い、一定の方向性をだす。疫学重視になっていくに従って行政・企業の壁にぶつかる。
(生活民は自分が水俣病であることを疫学から判断している。その「常識」に行政は一顧だに与えない)
2)行政は調査に着手するが、その因果関係については、企業が絡むので明言をさける。それが大企業であればあるほど行政は慎重になる。通産省の優位、厚生省の弱腰。行政と企業との癒着の構造。行政責任は徹底的に避ける。漁獲禁止すれば補償…補償回避(PPPの原則を盾にする)にきゅうきゅうとする。
3)原因企業は企業秘密を盾にして、調査に協力しない。社内で研究はするが有力な疑惑にたいする反論作りのためである。工場排水の停止が怖い。企業擁護が先行する。これに労働組合も心理的に荷担している。
生活民の抵抗と反乱。これに対し、権力的弾圧を加える。不知火海漁民闘争の例。
4)企業連合たとえば日本化学工業会が同じ利益擁護のために連合する。そして医学の権威、専門家を雇い、反論をださせる。産学一体化による「中和のため」の反論を行う。
清浦雷作「アミン説」大島某の爆薬説など。ご用学者。
5)原因について諸説ありということで行政は「調査」「検討」に時間をかける。そしてうやむやになるまで時をかせぐ。食品衛生調査会。池田勇人「早計」を戒める。立ち消え。
6)その間に「和解」の道を探り、調停の第三者を探す。見舞金契約の例。解決一時金といった金銭による解決を計る。これをもって幕を引く。あと8年の空白が続く。
官僚と企業による水俣病の原因かくしが水俣病拡大に直結した。
水俣病事件をうらからみれば、人体実験の歴史であった。
1957,8年、魚が有毒物(当時はマンガン、セレン、タリュウムなど)に汚染されているといると見当をつけられた時に、緊急避難的にも魚の漁獲禁止、販売規制、食用の禁止をしていれば…。57年当時、患者64人
1958年、排水口の水俣川への放流による被害のひろがりにより、水俣病が排水と密接な因果関係をもっていたことが分ったはず。この時に工場排水の停止をしていれば…。
当時、患者68人
1959年 7月、熊大の有機水銀説がでた時に水銀使用工程の施設の排水を停止していれば …。11月12日、食品衛生調査会、原因物質、有機水銀と厚生省に答申し解散。この時に行政が緊急措置をとっていたら
1959年10月、ネコ 400号の実験結果をみてアセトアルデヒドの操業、排水を停止していれば…。津奈木、芦北に患者発生。
1959年12月19日、サーキュレーター完成。吉岡社長、浄化水をコップで呑む。これがウソでなければ…。
59年当時、患者79人(これらは医学者の発見、診断による)。
1960年当時、患者90人。
この二,三年の動きに水俣病事件のすべてがある。だが厚生省、通産省の内部資料はいまだ公開されていない。いまでも遅くはない。「水俣病問題を考える市民の会」が公開を要求しているこれは意味がある。
空白の8年に慢性水俣病の原因である長期微量汚染が一般的になった。
1968年 9月の園田直厚生大臣による政府正式見解発表は水俣病事件の終息宣言だった。?・水俣病患者の出ていないこと。昭和35年・1960年終息説による。患者は 111名だけ。チッソとの間には「民事上の和解契約」が済んでいること。・アセトアルデヒド稼働停止。「だから水俣病問題は一切終わりました」というにひとしかった。
政府としては水俣病は終わったと考えたのはこの厚生省見解をふくめて3回。一回目は1959年の見舞金契約の時、二回目はこれ。三回目が現在の和解による最終解決なるものであろう。
ここで現在の問題に入る。
私の立場「現在、民間に医師の水俣病との診断書をもつ数千人の被害者を『水俣病』と認めて救済せよ」「政府は国の責任を認め、謝罪し、その因って来たった歴史的事実を公開せよ」という二点である。これは救済対象となったすべての患者の要望だった。
それに対し、政府の作った三党合意は
「水俣病の診断が蓋然性の“程度”の判断であり、公健法の認定申請の棄却は『メチル水銀の影響が全くないと判断したことを意味するものではないことに鑑みれば、救済をもとめるに至ることには無理からぬ理由がある」と書かれている上で、長官ないし首相が「救済対象者はニセ患者ではない」ことを明言するとある。
<ニセ患者の発言史>
ニセ患者発言は1975年以来20年使われてきた患者攻撃に武器であり、その先頭に自民党の県会議員や有力な国会議員がたっていた。これへの憤激から抗議した患者支援者の四名が刑事罰でさばかれた。このニセ患者視は水俣市民の7割がそう思っているというデータもあるほど広範な影の世論である。
なぜか。水俣病の知識がないからである。原田氏の反論の説明。慢性水俣病。
白木氏の全身水俣病説の紹介。
患者もそう言われていることをよく知っている。だがこれに対しては認定される事以外に名誉回復の方法はない。
<エピソード…津奈木の死後解剖の例、死者の三分の一が死後解剖認定だった。これを勧めたのは地元医だった>
患者はシビレのあとに来る障害を実地に見聞して、その不安に悩まされている。
例、坂本登の病状、佐々木伝助の末期に現れた急性激症型、田上義春の廃人化の状況など。
まとめ、はじめに国外での水俣病についての素朴な疑問にふれたように、水俣病でないものに国の資金(県債)を使って救済する事情はさらに分らないものだ。また水俣病とみとめることがニセ患者視されつづけた患者の唯一の「名誉回復」であること。
国の謝罪と責任ある対応を求めることは、水俣病事件を教訓とするために欠落部分を埋め、どこにも起こり得るこの種の事件の陥りやすい部分をはっきりさせるためである。
最後にもやいなおし、野仏のこと、火祭り、復活した慰霊祭など。
こんご世界を歩く若い人に水俣病をつうじて教訓を語れる人になって貰いたいのが願い。