自作を語るーなぜ十数作の連作をしてきたか ノート <1996年(平8)>
自作を語るーなぜ十数作の連作をしてきたか

1)与えられた演題は「表現と記録」ということだが、私の場合、表現とは映画であり、テーマは水俣病およびその事件であり、事実主義といえる記録方法だった。
 水俣病事件における表現という場合、それはジャンルも写真、絵画、文学、演劇あるいは建築と多岐にわたるが、私は自分の映画を語ることでこの課題に応えたい。
 ひとつの主題を三十年かけ十数本の映画を連作したことは結果であって、予定ではなかった。いつもその前作が次回作を規定してきた。一作を撮り終えると「さしあたってここで筆を擱く」ということになるが、水俣病事件はこの40年、連続的に続き、終わらなかった。そこで次の作品へ。これが連作を私に課したといえる。

2)今日のテーマである表現・記録について話するにあたり、水俣病事件の表現・記録が同時代に起きた他の公害事件や社会的事件に比べて、どのように広く紹介されてきたかを見てみる。
 たとえば写真について登場順にいえば、桑原史成氏を最初に、塩田武史、宮本成美、ユージン・アイリーン・スミス、芥川仁といったそうそうたる写真家が水俣病事件史の各段階を記録してきた。たとえばある胎児性患者については、その方の写真を各写真家の作品から年代別に拾うならば、およそ空白のない成長アルバムになるほどだろう。それほど切れ目なく患者をフォローしている。(その個性的な仕事…)

3)映画も私をはじめ一之瀬正史、小池征人、佐々木正明、香取直孝氏などが合計十九本の水俣にかんする作品を作ってきた。水俣病事件の初期を除き、水俣病裁判以後はほぼ記録され、その切り口も事件史から医学面、患者の個人史などと多岐、多彩である。だが共通するのは患者の側に立つ姿勢のあり方である。

4)テレビ作品は水俣病のごく初期、一九五九年のNHKの『奇病のかげに』が作られて以後10年近い空白があった。厚生省の公式確認のあった年からはほぼ毎年どこかの局で作られてきた。これもおよそ途絶えることはなく作られた。その多くは特別番組としてつくられ、話題をよんだ。
 熊本放送の患者の裁判前の揺れ動いた時期を記録した『111』-これは当時の患者数を題名にした番組、貴重な記録だし、NHKはその取材力を動員してつくった『埋もれた報告』や『空白の二十年』、最近では『工場技術者の証言』といった、いままで取材の困難だった体制側の内部を取り上げるなど、私の映画では果たせなかった仕事をしている。

5)絵画についても丸木位里、俊の大障壁画「水俣の図」をはじめ中村正義、秀島由己男、田部光子などが水俣をテーマに機会あるごとに作品を発表してきた。とりわけ大作『水俣の図』がそのスケールにおいて『原爆の図』の連作に劣らぬ濃密な作品であることは、今日紹介されて展示されているレプリカからも読み取って頂けるだろう。

6)演劇では一人芝居の砂田明さんの『劇・苦海浄土』が継続性・上演回数など抜きんでているが、はやくは新劇の泉座による『告発-水俣病事件』や劇団三十人会による『日本の公害』などが水俣病事件に光を当てている。 

7)文学ではなんといっても石牟礼道子さんの独壇場の感がある。第一作『苦海浄土-わが水俣病』をはじめ『天の魚』『流民の都』など水俣病事件に密着した著作のほか、『椿の海の記』『十六夜橋』など不知火海の世界を描いた著作がある。が今回は映像表現を中心にしたいので、表現・記録の紹介からは割愛させていただく。
 医学者、水俣病研究者の著作も多い。宇井純、原田正純、色川大吉氏らをはじめ枚挙にいとまもない。最近出された水俣病研究会の『水俣病事件資料集・上下巻』は、有馬澄雄氏の医学書『水俣病-20年の研究と今日の課題』と並ぶ記念碑的な集大成である。水俣病事件の網羅的な記録を目指している仕事だ。

8)…水俣との出会い。『水俣の子は生きている』。(TVとしてはNHKの『奇病のかげに』についで水俣病についての第二作目だった)。参考資料は桑原史成氏の写真集のみ。
 新潟水俣病発見はこのあと。厚生省による水俣病の原因確定以前のもっとも暗い時期。西北ユミさんの事。彼女の一生の仕事になる。
 湯堂での胎児性患者宅での失敗。最初の挫折を味わった第一作。肖像権とプライバシーについて考えざるをえなくなった。しかし、これが私のその後の水俣取材の教訓となった。
 桑原史成の写真についた目張りのテープを剥がして撮影。プライバシーを乗り越える試みに足を踏み入れた。患者との間にある壁との闘い。これが遺影収集にも続く基調音。ラストのコメント…「この子らの心まで水俣病にしたくない」。水俣病の差別へのバネ。

9) 5年後、再び水俣へ。『水俣ー患者さんとその世界』。
 表現と記録の一典型として、私が映画を本格的に撮る時期に発行されていた『告発』をあげないわけにはいかない。その「患者家族紹介」「深き淵より叫ぶ」赤崎覚、石牟礼道子、引地淳らの人間記録に感銘する。
 「映画を作ってくれ」という熊本告発の要請。導き手、石牟礼道子、渡辺京二両氏の存在。厚生省突入(70,5,25)。東京での劇的な日々を工作者として送る。逮捕される。より怖いものを体験して“水俣への怯み”からようやく脱却する。

10)『水俣ー患者さんとその世界』ロケのはじめの一、二か月はカメラを回せない。「死者を撮ってくれ」といわれる。田中徳義さん、の葬式、津奈木の患者の臨終を記録してくれとも。失敗と立ち往生。「患者の苦しんでいる分、映画も苦しまなければならない」と。
 ロケの初期、胎児性患者上村智子の撮影、見学見舞いの小学校生徒の訪問に合わせて撮るが失敗。最低のカメラワーク。焦点が定まらない。智子の目の引きつりに違和感を持つ。

11)『水俣ー患者さんとその世界』ロケ。
 訴訟派全所帯の撮影を決める。選択して代表的患者だけ撮影することはやめる。そこから出口が開く。全戸訪問、端から全部射程に入れるという行動様式がここから身に付く。
 最初は死亡患者の遺族のインタビューから。ついで大人の患者。小児性患者、最後に胎児性患者にたどり着く。田中実子の母親の涙。小崎君、叔母の介助。智子の家庭内の普段の顔、最高に美しい表情にたどりつくことができた。

12)「撮ってくれ、撮ってもいい」というまで待つ。働きかけはこちらの発見の新鮮さ、どこに感動したかを相手に伝えることで相手の“表現”の噴出を待つ。演技性が前提。
 尾上時義さんのたこ捕り。たこ捕りは名人芸の見せ場。
 渡辺栄一君らのステレオにタクトを振るシーン。カメラの存在を忘れ、指揮者になる。
 坂本マスヲさんの語り。よっぱらって、かきくどくときの言葉をとる。
 井戸掘名人、前島武義さんのリハビリ、名前書き。ここまで治った事の自己表現。
 坂本タカエへのインタビュー。女優のように美しくとれた横顔。

13)『水俣ー患者さんとその世界』の一作で水俣病の患者像は描け、そして汚染された海に生きる漁民の生業などは撮れた。しかし、患者の側から撮っているかぎり、加害企業や水俣病事件に敵対関係にあった権力の内部に記録の矛先を向けることはできなかった。反面、カメラが患者の側にあることを知っている支援のひとびとによって、カメラが患者の行動をその先端部分で記録することができた。その例としてチッソ株主総会での患者の社長への直訴を至近距離で撮影できたことが挙げられる。場を与えられて初めて撮影できた。

14)つぎは上映と普及、その全国的展開を考えた。次回作は全く考えなかった。
 国際的な上映の展望も開ける。スエーデンのストックホルムでの国際環境会議にむけ英語版の作成。そして欧州へ。イギリス、オランダ、西ドイツ、ソ連、フランスでの上映。反響の大きさに比例し、質問続出。とくに「医学面がない」と続編を期待される。

15)連作への自戒、次回作への安易な移行を警戒する心理状態にあった。ただし医学編は撮ろうと思う。1972年秋、パリから企画案をプロデューサー高木しに提示。水面下で動く。

16)73年、裁判の判決の局面にむけて、水俣病事件は大きく動きはじめる。それを告発ルートで予知できる立場になる。『実録公調委』は環境庁官僚との対決をその冒頭から描き、委任状偽造などの細部がとれ、特ダネ的な映像になる。る。いわば支援側の“ニュース映画”、それを意識して撮影してすぐに発表、記録映画というよりレポート速報になる。

17)73年 3月20日、水俣病裁判判決。この勝訴はほぼ予想。あとの潮の引くのに合わせて医学編を撮るつもりで、判決当日の撮影はそのプロローグのつもりだった。
 『水俣一揆』をひとつの作品にするとは予想しなかった。患者の一生を問う問題提起に一瞬戸惑う。いわば莫大な補償金を得てもなお、一生の補償を求める切実さを理解していなかった自分、他者の目を持っていることを自己批判する。

18)『水俣一揆』…この映画では窮地に追い詰められた会社側をある惻隠の情をもって描いた。患者はチッソ社長に頑固な父親を相手にするような心理が働く。それがぶつかって社長の外皮のしたの人間がでてきはしないかを待った。それが島田社長を人間的に描写するのに役だった。だが、何処までいっても患者との亀裂は塞がらない。患者の激しい怒りはときには暴力的ですら見えた。しかし患者に相手に人間を発見しようという優しさがあった(川本の宗教談義)。意思疎通への患者の触手は感動的だった。
 『水俣一揆』も手早く仕上げた。その完成と上映をもって、自主直接交渉の突破口をひらくことに役立てようとしたから。米画『12人の怒れる男』に似た密室で描く映画にした。

19)だがこの解決はこちらの予想より早かった。患者は事態を追い込んでいた。映画はニュース速報の域を超えて、水俣病患者の切実な心理が描かれた作品として上映された。
 この作品は『水俣ー患者さんとその世界』の続編となり、裁判中から判決、自主交渉の終わりまでの一段落をこれら三作でフォローしたことになった。ここで改めて医学編へと視座は移った。記録の表現としては『勧進』『死民の道』を入れればほぼ連続的な映画記録が出来ていた。

20)医学映画が本来、第二作となるはずであった。しかしすでに連作の様相を呈していた。また『医学としての水俣病』を作る際、『不知火海』ももともと予定にはなかった。『医学としての水俣病・三部作』に入りきれない状況とテーマを、後にこの『不知火海』に纏めたものだ。『医学としての水俣病』は医学の先端に焦点を当てた意味で高い山のぼりだった。その周辺の裾野を歩きつくして、頂きに上ったから、その裾野の記録の部分が『不知火海』としてつくられなければならなかった。

21)もともと『医学としての水俣病』は国際的な普及を視野に入れてつくった。ストックホルムでの上映以来、国際的にも求められている映画という認識があったからだ。だが通常の医学映画は短編がもっぱらだ。長編は世界の学会では使われない。そのギャップに思い悩んだ。三部作を各一時間にしようと思ったが長編になった。それは水俣病医学がこの時点では一致した医学的結論に達していたわけではなくやむを得ず両論の併記というスタイルをとったからだ。例、片麻痺、遅発性水俣病、合併症など。(これらはハンター・ラッセル症候群とは違うとして熊本県水俣病認定審査会の見解としては外されていた)。
 映画全体では審査会から保留になっているケースを多く題材に取り上げた。その説得力を確保するために患者のインタビューを重視した。それらが長編になった理由だった。

22)『医学としての水俣病』は『資料・証言編』『病理・病像編』『臨床・疫学編』の三部になる。協力研究者19人、それには学説をことにした学者をふくんでいる。しかし学用フィルムは貴重であり、その多くが患者と不信関係になった学者の研究室にあった。水俣病はその初期から映画フィルムに納められていた。その外見の症状はフィルムでしか記録性がなく、動物実験もほとんどフィルムとなっていた。そのフィルムは多く破損しており、手を加えて保存するには限界だった。これをすべて複写し、われわれの知的財産にした。しかし、水俣病認定審査制度にメスを入れることはできなかった。そういう現場に入る手掛かりをついに持てなかったからだ。これは『医学としての水俣病』の限界だった。

23)『医学としての水俣病』は三部作、のべ四時間半になった。そのフィルムの販売にあたっては、大学の医学部などから「水俣病はもう過去の一過性の事件である」として購入されないケースが続出し、結果としては大赤字になった。外国での需要はさらになかった。英語版をつくったがその分そっくり赤字になり、製作者は苦境に立たされた。水俣病映画がリスクを負うことは当然のように見られた。が、この『医学としての水俣病』は二度と作れない、限界状況を縫っての製作であり、二度と作れない意味で、その価値には貴重なものがあると思っている。

24)並行してつくった『不知火海』は五年前につくられた『水俣ー患者さんとその世界』と並んで、水俣病映画の連作のなかでは叙事詩的な構成をもつ作品になった。
 この映画の主題はよみがえりの兆しをあますところなく伝えるところにあった。トップシーンは最汚染の月浦の海岸の岩場にカキの付着しはじめた様子を患者の感嘆の声とともに撮っている。またラストシーンも御所浦沖のフグ漁で終わっている。不知火海はその内海ゆえにダメージは周辺の33漁協に及んだ。しかし打瀬船にせよツボ網漁にせよ盛大に営まれていることを描いた。魚が埋め立て地に埋められるときくと体が動かなくなるという杉本栄子さんの話は漁民の魚とのこころの交流、その交感をかたっている。

25)この『不知火海』では、とくに胎児性患者の意識についてえた、あらたな発見と驚きをもとに撮った。半永一光さんの車椅子をめぐる会話、加賀田清子さんの医師、原田正純さんへの質問などである。
 映画『不知火海』に、豪邸を建てた患者にインタビューするシーンがある。家には家電製品が溢れ、高級カメラや当時はまだまれにしか見ないビデオカメラや大型テレビの並んでいる部屋で、私は執拗に「これらはすべて空しくはないか」よいう底意地悪い質問をする。この患者とは永く付き合ってきたが、裁判も勝訴に終わり、補償金がでてからの生活ぶりに私がいささかの反感を持っていたというのが正直なところ。
 カメラマンは大津幸四郎だったが、ハイテクに取り巻かれ、ビデオを大人の玩具にしている様をこまかく描写した。そのままだったら悪意にみちた映像になっただろう。しかし、その患者から「こうでもしているほかないやりきれなさ」を十分にきくことができ、健康な人間にはわからない、生活の暗闇を聞き尽くしたとき、それまでの描写は反転して患者の苦しみを炙りだした。これは長期間水俣にかかわったものでなければ撮れなかったインタビューだった。

26)またこの映画ではじめて離島の水俣病に光をあてた。
 御所浦の潜在患者を最後に描くことで、水俣病映画ははじめて対岸、離島に目を転じた。このことが、のちに不知火海一帯の水俣病に関心をもつきっかけともなった。
 とくに住民の毛髪水銀検査値が日本では最高の 920PPM (松崎ナスさん)であったことは、ここにも水俣病の汚染の濃厚な地域であたことを示している。しかしこの地に水俣病に関する情報は水俣周辺より10数年も遅れていた。ここ離島での患者の生活は水俣のかつてを思わせた。以後、ここで映画を撮りたいという願いは一貫して私に残っている。

27)『水俣ー患者さんとその世界』から『不知火海』に至るまでの五年間に七本の映画を作って、ここで水俣病映画の連作は一旦、終わるつもりだった。これだけで上映時間はのべ十二時間に及ぶ。角度も切り口も映画の文体もそれぞれ異なるようにしてきた。一挙にみても飽きないでみられる工夫はした。しかし、その長さは通常の映画観賞の枠を大きくはみだしている。
 この矛盾に悩むなかで、1975年、カナダ・インディアンが来日。水俣病の発生したふたつの居留地の代表だった。水俣、新潟をみて帰るにあたって、フィルムのカナダでの上映を依頼される。その秋から冬にかけて、カナダ横断のフィルムツアーを試みる。この時、長編を数本、手で運んだ。これには疲れた。映画の長さが足をひっぱった。

28)この旅のなかで、カナダ・インディアンの映画の反応を掴み、一番多い質問の多い問題を解くような短編映画の必要性を感じた。たとえば遺伝とまぎらわしい胎児性水俣病や食物連鎖による水銀の濃縮などを描くこと。水俣病の発見期、中央の学者による水俣病否定の動きや企業の患者にたいする対応など、公害事件にはつきものの典型的な状況を織り込んで一本の映画にすること。こうしたなかでカナダのケベックのTVから水俣病のドキュメンタリーの製作の提案があった。それが『水俣から世界へのメッセージ』という45分の映画、のちに『水俣病-その20年』というダイジェスト版の原形が作られた。

29)『水俣病-その20年』は『水俣一揆』がベースになり、『医学としての水俣病』の資料・証言編が多用されたものだ。チッソ相手に意見を述べる患者の怒りは短縮してもなお激しい訴えをもっている。浜元フミヨの声、川本輝夫の言葉などを生かした。
 この映画は45分という短編の上映しやすさもあってその後、今にいたるまでのベスト・セラーになった。とくに移動映写や学校教育用に最適なフィルムである。

30)この『水俣病-その20年』はその後のフィルム上映を飛躍的に高めたが、それにつれて、私の行動様式も変化してきた。『不知火海』をもって水俣病映画の連作、つまり映画作家としての水俣病との付き合いを一旦、やめようと思っていたことが狂ってきた。この映画『水俣病-その20年』がいわば私を映画運動者に突き飛ばした格好になった。(当時、私が関わっていたのは色川大吉氏らの不知火海総合調査団の案内役であった)。

31)たまたまその時期、潜在患者は水俣周辺のみならず、天草にも予想できた。
 1977年、石原環境庁長官は駆け足とはいえ、政府の人間として初めて水俣と離島を巡りあるいた。これに刺激を受け、名付けて『不知火海巡海映画行動』に専心することになった。これは水俣病情報を受けたくもその機会を持たないひとびとの前に水俣病映画を移動上映してみてもらおうという計画である。その計画の実現の運びになったのは『水俣病-その20年』が手中にあったからである。この映画がなくしては巡海映画の着想はなかった。

32) 7月から11月までに、133 集落、65か所でのべ76回上映、8461人に見てもらった。
 映画のスタッフで。スタッフでなければ持ち込めない地域への巡回映画を時間をかけて組んだ。以後、天草、離島については「現地を知った人間」としてその地の水俣病について、絶えず関心をもつようになった。この時、本も出し、文章を書いて天草を含む広域な汚染を訴えた。その時言い出した「不知火海水俣病」とは水俣水俣病ではない広がりを訴えたいために私が提唱した呼び名である。

33)1970年代は水俣病にはじまり水俣病に明け暮れる10年だった。これが私の水俣病体験のすべてがこの間に凝縮されている。
 1978年『わが街わが青春-石川さゆり水俣絶唱』は胎児性患者の熱意によって作られた。水俣病映画としてははじめての胎児性患者の映画になった。石川さゆりの登場も映画に花を添えたが、成人を迎えたこれら患者の青春像が描かれた。この映画はのちに胎児性患者と組み合わされて、中、高校を回った。「自分たちの映画を見てください」。やはり中編で授業時間に組み込めたことが幸いして大いに活用された。

34)ついで80年代のはじめに丸木位里、俊の描いた『水俣の図』の一分しじゅうを撮った『水俣の図・物語』がある。これも表現者の表現を描いたもので、水俣病映画の本流とは言い難い。しかし、ここでの共有した主題は水俣のよみがえりであった。胎児性患者の女性が自分の子供を抱き締めるという丸木俊さんの母子像は架空の願いである。しかしその絵に託して水俣の若い患者の願望を描いた。それは残酷なモチーフであったが、絵でなければ描けないフィクションであった。表現者の表現を記録することから水俣の一面は描いた。丸木夫妻が水俣のどこに惹かれて障壁画を作ったかは伝わって来る。
 この映画の中で海の潮の満干をコマドリで撮ったが、不知火海に外洋から新鮮な満ち潮が日に二回も入ってくるこを描いた。これが海のよみがえりの指標に思われたからだ。
この映画は毎日芸術賞はじめ多くの賞をもらい、全国的に幅広く見られることになった。

35)私の水俣病映画連作は85年の『水俣病-その30年』で終わっている。この作品は失敗作である。短編のため言葉たらずになった。このころ『海は死なず』という仮題の映画を撮影していた。そのシーンが『水俣病-その30年』に用いられたが、経済的理由により、撮影は中途で挫折した。水俣病映画ということでは借金することが困難になったからである。水俣病事件の屈折も敏感に感じ取っている世間の目があった。
 その後10年、私自身がTV番組にでて水俣病を語ったことはあったが、自分が作ったものではない。
 水俣病問題は終わらない。そして水俣病映画の連作もまた続く…という構図にはならなかった。私自身、水俣病映画から身を引き始めたからである。ただし私の水俣への関心は薄まったとはいえない。機会をみては水俣に足を運んでいたし、最首悟を団長とする第二次不知火海総合調査団の案内役もつとめていた。だが映画は撮れなかった。なぜか。

36)水俣病が見え憎くなり、水俣からのエネルギーを感じなくなったからである。
 かつて言葉は運動によって届けられた。水俣病患者闘争は多くの声を伴っていた。しかし今、患者の運動は追いつめられて、さらに最近の和解の動きは患者の言葉を封じている。「もう時間がない」というのが精一杯の言葉だ。“水俣病患者”という言葉のない全面最終解決は有り得ないのだが、それがまかり通った。患者は納得していないが呑んだために、いわば失語症になっている。記録映画作家として、インタビューを多用する私にとってそれは痛い。
 連作を重ねるなかで私は支援者の色を濃くしてきた。支援の角度から見る限り、水俣の運動全体の波と無縁ではない。水俣のいわゆる運動もいまは再構築の時期で出口をもとめて戦っている。こうした閉塞状況から一歩引いて、水俣に何が起きているのかを見つめる目が必要だろう。私は済まなさ、悔恨を交えた苦渋のなかにあって解放されないでいる。表現者が支援者であって不思議はないが、狭い支援の世界から水俣をみることはもう不可能なのだ。私は映画作家としてふりだしにもどって考える時期にきている。

37)記録映画の表現にたちもどろう。
 私はもちろん自作の観客を不特定多数の方々に置いているが、第一の観客としては患者、被害地区、不知火海沿岸の住民を意識している。したがって描写にウソは許されない。どこからみても正確で真実でなければ全体の信憑性を疑われる。この縛りかたが映画の記録性を高めることになった。また実名を出し、現実の肖像と言葉を記録することから、匿名に逃れることは出来ない。そこでプライバシーの問題、倫理的な考えがでてくる。登場者には責任を負うことになる。患者の側、被害者の側に立つということを映画の基本に置くかぎり、患者を害する描写は出来ない。このことから偏った描写になることがある。だが、批判的な描写をしなければならないこともある。例えば、被害者、水俣病患者による患者隠しといった事実などである。

38)差別のなかでつくられた過剰なまでのプライバシーの乱用、あるいはプライバシーに名を借りた差別が水俣には見られる。記録映画が実名の世界であることから、差別を語ってもらいたいのが、そのことにさえ患者の自己防衛は働いて、深入りできない。水俣病患者の受けた受難には歴史があり、ただちには吹っ切れないのだ。

39)患者は体の苦痛のほかに三つの苦しみを受けている。水俣病は悪性の伝染病である…これは奇病といわれたごく初期の社会的風潮から引きずっているものだ。つぎに水俣病は遺伝する…これは水俣病の発見から七、八年して胎児性患者が確認されたときの記憶である。これが母親の胎内での水銀の曝露によるもので、汚染された魚を取っていなければこうした傷害はなかったのだが、記憶としては遺伝性疾患としてひとびとに残った。第三にニセ患者と見なされる苦痛である。これは水俣病が神経疾患として外見上は分かりにくいことから、ときに陰口の言われっ放しという事態をひきおこす。この三重苦に苦しめられた。そのすべてが絡まった社会的偏見から自由になるには水俣病そのものの知識、水俣病事件の歴史を学習し、体得するほかはない。こうした状況をまるごと描くドキュメンタリーを撮れないものであろうかと思う。これが遺影集めで得た展望である。

40)エピソード 水俣病が有機水銀によると熊大から発表された頃、ある町では最初の奇病患者が水俣病患者として入院するとき、これでこの一帯の奇病の原因が水銀中毒とわかって有り難かった、みんなで出征兵士を見送るような気分で入院する患者を送りだしたという。奇病が伝染病と流布されていた時代の話である(こうした話は劇映画の世界がふさわしいかもしれないが)。
 とかく水俣近傍の出身というだけで差別され、縁談も壊れるといった悲劇、ニセ患者視による誹謗や中傷から全く無縁であったという人はない。この苦痛に満ちた悲哀は訪ねる先々の患者からうかがわれた。水俣病が社会的な疾病でもあるといわれる所以である。

41)「死んで解剖してもらって水俣病と分り認定された」とニセ患者の謗(そし)りからは免れたという経緯を語る遺族もいた。死後解剖で認定というケースが、ある町では死者の三分の一にも及んでいた。それはほとんど地元医の薦めであったようだ。認定審査会に棄却や保留処分を言い渡されてきた患者に対し、地元医の機転からの処置だった。そうした医師の薦めのあった町では驚くほど高率の死後解剖認定が見られた。こうした事実は患者の実態としてあきらかにしたいが、死者のプライバシーの壁が立ちはだかっている。

42)まだ水俣病について記録しなければならないことが多い。が、もっとも困難なのは患者自身による水俣病隠しの現実にどう迫り、突破するかである。遺影も訪ねた782人の内、三分の一から拒否された。この拒否は水俣病患者であっていい目にあったことのないという体験からでたものだ。しかしこれがある限り、水俣病には黒い靄がたちこめているという印象を拭いきれない。みなが公然と自分たちの水俣病体験を公に出来るならば、水俣に新しい風が流れ込むであろう。

43)今回の遺影集めの仕事は再び水俣病を見つめるための行脚であったともいえる。私にまだ知らない水俣の世界を教えてくれるのではないかという望みがあった。その戸別訪問の試みは『水俣ー患者さんとその世界』のときもあったし、巡海映画のときにもあった。この足でくまなく歩き、目ですべてみてやろうという気持があってのことだ。

44)東京のものがなし得ることがあった。遺影集めは水俣の人間では出来なかった。水俣の人間であれば、その困難はあらかじめ知ることができた。私はそれを予想しなかったし、遺影あつめは当然あってしかるべきという思い込みで現地にはいったのである。その結果、被害者のみならず、水俣市民を苦しめている最大の問題は患者隠しに象徴されるある種のフィクション、虚構である。

45)水俣病の記録もこの虚構を打ち破り全貌をあきらかにすべきだろう。それなしには一分の先進的な患者しか描けないという現状に止どまるだろう。それでは水俣のすべては描いたことにはならない。
 今、表現したいのは、患者を呪縛している意識の解放とその過程である。それがよみがえりの中身ではないだろうか。記録映画の持つ困難はあるが、そこにまたチャレンジの快楽も潜んでいる。その記録はあるいは容易には出来ないものかもしれないが、そこに希望なくしてどうして記録映画をつくることができるか。そのことを問うているのが現状である。

46)水俣の今後の記録に期待されるのは水俣のよみがえりである。これほどまでに痛めつけられた人間と自然がいかように復活し得るか。そのプロセスは水俣病事件史の総括部分としていずれ記録する日がくるだろうことを自分に期待して終わりとしたい。

以上