公害の原点・水俣 ノート <1996年(平8)>
 公害の原点・水俣

 水俣病は1956年に九州、熊本県の南端、鹿児島県と接するチッソの城下町水俣市の漁村地帯に多発、発見されました。最初のころ、水俣病患者は漁業者が多かった。このひとびとはどういう暮らしと社会環境にいたかについてまずお話ししておきます。

 映画でご覧のように、とても綺麗なところです。水俣にはこんな言葉があります。「じょうじょうから芋、イワシのしゃあ」。さつまいもとイワシのお菜をたべていれば最低の暮らしは立つという意味です。温暖な自然の豊かさと生産力はこの地の人間に争いの少ないゆったりとした性格を育んできました。「一つの芋を分けおうた仲」という言葉があるほどです。漁村の共同体は生きていました。災難には結束して解決に当たることは当然のこと、茂道というところに七人墓という墓所がありますが、暴風の時、遭難した仲間を救いに足の早いせり船で救助に向かい、そのとき遭難した事件の七人をしのんで建てられものです。仲間のためには命を懸けるというモラルが伝えられているのです。

 人口の少なかった水俣に明治の末期、チッソができてから、天草などの漁民がここに暮らしを求めて、移り住みました。水俣の患者に先祖代々水俣に住んでいたという人は少なく、いわゆる天草流れ、鹿児島流れの人が多かったのです。このことが後に水俣病発生のころ、水俣の市民から「水俣病は貧しい流れもんが腐った魚を食べてなった病気だ」という風説を生んだ根拠でした。今日では水俣市民のなかに沢山の水俣病患者がいます。その偏見は少なくなったといえますが、かつてはだいだい水俣に暮らした人が水俣病となって、流れもんと同じ病気になったと気に病んで、誇り高い娘さんが恥じて自殺するというようなことすら起きたのでした。それほど水俣の地つきの人間と流れものの漁民との間には差別があったのです。水俣病患者がくるしんだのは病気に加え、この社会的偏見と差別でした。その苛酷さは水俣がチッソの支配のもとにあったことで決定的でした。

 その加害企業チッソの在り方を市民の側からみてみます。
 チッソは水俣のなかでは水俣市民の誇りでした。水俣には「会社ゆき」という言葉があります。チッソに働く人は一等格が上に見られていました。「会社ゆきなら娘をやろか」といわれたものです。しかし日本の新興財閥チッソのなかの社員と工員の格差は凄まじいものでした。
 東京帝国大学いらい「チッソには応用化学のトップクラスしか応募できない」と言われるほどの優れた技術者が集まりました。それはチッソの社風が「研究には自由で金に糸目をつけない」という若い化学者たちには魅力ある企業だったから、大学の最高のエリートが引きつけられたのです。その人達は水俣出身者ではなく、九州や全国から水俣にきました。戦前、水俣には正規の中学校も作られませんでした。低学歴の人間のほうが管理しやすいし、必要に応じ、採用後に工場で職工教育すればいいというチッソのいわば原住民対策があったのです。「会社ゆき」のほとんどは地元で採用された労働者です。かれらは一生働いても、係長補佐になるのがやっとでした。これも戦前の話ですが、そのボーナスは社員が数か月分あったのに、職工は日給の十日分に過ぎなかったといわれるほどでした。とくに高等小学校をでてすぐの少年工はボーイと呼ばれ、社員の家庭の雑事までまるで小僧のように働くのが当たり前でした。社員と職工との決定的な差別はチッソと水俣市民の間では長い間に培われた暗黙の了解でした。

 一家のなかでひとりはチッソに勤めるのが理想的でした。あとは漁業をやったり農業を継いだりする、いわば会社ゆきでありながら、実家は半農半漁というのが水俣の会社ゆきのひとつのかたちでした。それが極端な低賃金に甘んじることを許した図式でした。
 水俣病患者の家々を訪ねると、チッソに勤めていて、定年後は船を作り、一本釣りで生活し、ついには水俣病にかかったという人に会います。会社の仕事をしていたころですら、非番の時には魚をとっていたというのが少なくないのです。極端にいえば工場に勤めているときには水銀を扱い、その排水汚染の仕事に携わり、自分が魚をとって水俣病になったのも「自業自得だ」と言わしめるような例すらあります。かれらは在職中は水俣病とは名乗りません。定年退職してから時間をおいて水俣病の申請をします。チッソには気がねしているのです。そのため治療が遅れ、寿命を縮めるケースも少なくないのです。
 チッソは水俣では単一的支配でした。水俣ではチッソなしの水俣はありえないという市民の認識が支配していました。水俣病事件が激化すると、チッソは水俣撤退をほのめかします。もし水俣からチッソが撤退すれば水俣は一挙にさびれることは自明です。それに代る産業がないからです。「新幹線が水俣にくるのもチッソあってのお陰」というのが今も水俣の常識、そのなかで水俣病患者がいかに物を言いにくいかは想像を超えるものがあります。

 国の国策会社としてチッソを重視していた…。
 チッソは日本の戦前、戦後を一貫して国策会社の地位を占めていました。この会社が昭和初期から朝鮮に東洋一の大化学コンビナートをつくり、軍事産業の要であったこと、朝鮮のひとびとを日本人の三分の一の低賃金で酷使して巨額の利潤を得ていた事は有名ですが、戦後も欠乏物資だった肥料生産によって、石炭、鉄鋼にならぶ基幹産業になり、通産省との強いパイプをもっていました。
 水俣病発見の昭和31年、通産白書は「もはや戦後ではない」として、高度成長にむけて歩きだします。チッソはプラスチックの可塑材オクタノールの生産の三分の二をしめ、石油、エレクトロニクスにならぶプラスチック時代の基盤をささえる重要産業になります。時の通産行政はその後水俣病事件の進行に強い影響を与えました。水俣病がチッソの足枷になることを憂慮し、チッソの水俣病の原因究明のあいまい化を見逃し、チッソが窮地にたつことを避けるのに手を貸します。
 1954年11月、厚生省の委嘱した水俣病にかんする食品衛生部会が、事件発生後三年余にしてつきとめた「有機水銀説」の発表の翌日、同部会を解散させ、原因究明を大きく遅らせました。この究明に尽力した熊大は激怒しましたが、これで打ち切りになりました。
 熊大はたかだか“駅弁大学”ではないか。旧帝国大学医学部ならいざ知らずという軽んじかたがあったと熊大関係者は歯ぎしりしました。これは犯罪的ともいえる行政指導でした。
 池田勇人通産大臣は「有機水銀の工場流出の説は早計だ」して厚生省を強く牽制したものです。これによって、水俣湾での漁獲禁止はもとより、工場排水の停止という不知火海全漁協の要求も無視して、有機水銀の垂れ流しを許しました。
 厚生省はこの二年前にも地元からの食品衛生法による汚染魚の捕獲、販売の停止を求める陳情をしりぞけていました。二度にわたる誤りを犯したのです。後の水俣病の裁判で国家の責任が問われる判決がでたように、この誤りに法的解明がすでになされています。

 水俣病は高度成長の上でやむを得ない犠牲であったというのは誤りで、この犠牲を承知で高度成長を進めた、このことにかかずらっていたら高度成長は出来なかった、その意味で通産省の行政指導は、オクタノールのシェアー60%というチッソの独占体制を国家的に見たうえで、わるいことは百も承知のうえの見逃しであったということでしょう。
 NHKのすぐれたドキュメンタリー『工場技術者の証言』という番組が去年放映されましたが、このなかで元経済企画庁の担当官は「上の意向がつよくて、とても工場排水の停止などはいえなかった。その意味では停止しないということでは確信犯だった」と述べています。水俣病における国家責任が露骨には問われなくなった今にして初めていえるのでした。これがいままでの裁判で証言されていたら、国家責任の解明は大きく進んだはずです。
 歴史家は「事件後、20年、30年経たなければ真相の出ないことが歴史にはある」といいますが、40年後になって「確信犯だった」ということがちょろっとでてくることは恐ろしいことです。もし水俣病が東京湾で発生していたらどうだったでしょうか。僻地・水俣に対する差別、そのなかでも差別されている漁民、地元労働者。その犠牲にたいしチッソの地域支配の強さを読み、そのひとをひとと見ないような企業の横暴を許したうらには、水俣の幾重にもある差別構造もあったのです。

 チッソの過失が万単位の被害者を生んだこと、被害の拡大の責任には企業の論理がありました。その最たるものはネコ 400号実験の隠匿とサーキュレーター設置による排水の無毒化というウソがあります。熊大が原因物質を特定したころ、チッソの内部では水俣病の発見者細川一氏によるネコ実験により、アセトアルデヒド工程に排水に発病原因物質があることが判明しました。しかしチッソはその実験を外部に出す事を妨げました。もしこの時に排水を停止していたら、水俣病患者の発生はもっと少なかったはずです。水俣病事件が排水にあることを意識したチッソはサーキュレーターを設置して汚濁をとり、無毒化したと称して、その完成のとき、社長は排水を呑んでみせるという芝居をうった。このことで排水停止の要求はやんだのです。これはのちに裁判のなかで、有機水銀の除去にはまったくやくだたないのみか、そのような構造をもってつくられてはいなかったことが暴露されました。このウソは後にチッソに致命的な打撃を与え、加害者であることをはっきりさせました。だが、これによってその設備をスクラップにする1968年までの八年間、排水を垂れ流し、不知火海を微量といえ、長期にわたって魚を汚染し、それを食べた沿岸住民を慢性の水俣病症状をひきおこしたのです。

 国、県、チッソの責任と言われるものは、この三者一体の水俣病の発生、拡大なくしては今日の水俣病の万単位の発生はなかったからです。政治的に作られたのが水俣病といえます。これが過失にせよ殺人傷害罪を構成していることは、チッソにたいする刑事裁判ですでに判例として明らかになっています。が、国・県レベルでは問われていません。国の賠償責任を問う六つの裁判の半数が国に責任があったと指摘していますが、国はこれを不服として控訴し結論をえないまま、昨年、和解交渉に入り、政府は「遺憾に意」を表明することで国家の責任には立ち入りませんでした。これについては後で触れます。

 水俣病を振り返って、三つの時期に区分できるのではないかと思います。 主に第一期は水俣病の発生から、1960年ころまでの 4,5年、有機水銀が原因とはされながら、その加害責任はチッソにあるとはされないでうやむやのまま幕を引かれた時期です。この時期に水俣、不知火海漁協の歴史に残る大闘争があり、1959年の年末には患者の捨て身の座り込み闘争がありました。これに対しチッソは県を動かし、第三者の介入を求めたうえで、悪名高い「見舞金契約」を結び、死者30万、生存者大人年10万、こども年3万という低額の年金を支給し、「患者は将来、水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においてもあらたな補償金の要求は一切行わないものとする」という一項をいれるというものでした。
 チッソとしてはサーキュレーターをもって排水対策は終わったとしたことはすでにお話した通りです。
 この時期にもっとも悪質な役割をはたしたのは中央の学者を動員しての有機水銀説をくつがえそうという策動です。東工大の清浦雷作の「腐った魚を食べて発症した」というアミン説や、戦時中、海中に投棄した爆薬の溶解によるという爆薬説などが相次ぎ、熊大の正しい究明を攪乱しました。チッソの責任は遠くかすみました。「水俣の原因物質は諸説紛々」という流説をつくりだしたのです。そして熊大の水俣病の責任者であった徳臣教授は「水俣病は1960年にほぼ終息した」と発表して、水俣病は発生もやみ、被害者へのチッソの見舞金もでた、サーキュレーターも稼働した、これで一応事件は落着したとしました。それからさらに八年、水俣病には沈黙の時期がおとずれました。
 第一期は水俣病の原因が不明なままの混迷と漁民、患者の決起、そしてチッソの工作の成功による終息というひとつのうねりを経ていました。

 第二期は1968年の厚生省の水俣病に対する公式見解発表によって始まります。もともと政府はこれが水俣病始末の仕上げだったのでしょうが、被害者にとってはチッソが加害者であることを国が認めたということでそれまでの不満と不信が一気に噴き出ることにないました。水俣病第一次裁判が提訴され、その公判中にあらたに認定された患者によるチッソを相手とするじかの自主交渉が一年七か月にわたって闘われます。1970年は水俣病事件を先頭にあらゆる公害問題、大気汚染や環境汚染が明るみにだされ、その対策に追われた政府は公害国会を開くにいたり、いわゆる公害元年といわれた時代にはいりました。
 この時期に水俣病事件の初期の事実関係はほぼあばかれました。裁判はそのために格好の舞台になりましたし、文学、報道、写真、映画などあらゆるかたちでの表現が表れました。私たちの水俣病映画もこの時代の産物といっていいでしょう。
 また環境庁はあらたに発掘された患者を考慮にいれ、認定基準を明らかにしました。大石長官の残した唯一の善政といわれるものですが、それまでの認定審査会のよりどころであったいくつもの症候のそろった場合に認定するということをやめ、いずれかの症状があった場合「当該症状の発現または経過に関し、魚介類に蓄積された有機水銀の経口摂取の影響が認められる場合には、他の原因があっても、これを水俣病の範囲に含むものである」という事務次官通達が出されました。その枠が広げられたことにより、多くの申請者がでてくるきっかけになり、水俣病のひろがりは目にみえる形で分るようになりました。
 この時期の闘いは被害者によって行われました。既成政党や既成組織の手をへない闘いでした。それを支援する水俣の「市民会議」や、熊本の「水俣病を告発する会」などができましたが、けっして患者を指導したり、ひきまわすというかつての運動の体質を持ち込みませんでした。
 長い沈黙のあとの爆発ともいうべき闘いの時期は 4,5年続き、患者はチッソに完全に勝利します。これが日本の公害の原点・水俣という評価をかちえたのです。第一期の屈辱と敗北の歴史は、この第二期でほぼ教訓化するこができたといえます。
 企業と権力の癒着構造、高度成長第一主義、科学者、医学者の権威主義、さらには便利を追い求める大衆化社会の歪み。これらが水俣病の原因だったことを知ったのです。

 ゆめ政府のいうことを鵜呑みにするな。ゆめ加害企業のいうことを信用するな。ゆめ医学の権威を信じるなといったことが教訓でした。

 水俣病事件の第三期は今日までつづいています。それは膨大な被害者の出現、申請者の万を超える出現にたいし、認定制度は破綻し、患者は10年15年と放置され、その上棄却があいつぎ、未認定患者と行政の対立があからさまになってきた時期です。そしていま、全面的最終解決案・和解工作によって、チッソ・国・県との訴訟やチッソとの直接交渉が取下げられるに至りました。最も困難な闘いの時期でした。それが20年にわたりました。

 このなかで水俣病の病像が繰り返し問題になりました。認定審査会は認定とみとめれば補償金を支払うことに繋がることから、チッソの体力を考えたのか、極端に患者を切り捨てました。その理由に患者の病像が補償に足るものではないとしました。
 患者にも変化があります。40年経って、かつての急性激症型の患者は見られなくなりました。その多くは水俣病が終わったとされたことから不知火海の魚を再び食べ始めたことによる長期、微量摂取による緩慢な被害、慢性型の水俣病としてあらわれているものが大部分です。また水俣病がどういうものであるかわからず、掛かり付けの医師も見過ごしてきたために、申請が大幅に遅れたというケースも少なくありません。
 たとえば水俣の対岸にある離れ島の御所浦町の場合がそれです。水俣から18キロの地点にありますが、ここに毛髪水銀の調査をした記録が未発表のまま残っていました。それは水俣病が一旦終息したといわれた1961,2年におこなわれ、12年後に明るみに出た貴重な資料でしたが、そのデータには 920 ppm、600 ppm という世界一高い毛髪水銀量があったことが分かりました。水俣ではそのころは魚を食い控える雰囲気だったから、その数値は最高でも100ppm台に下がっていたのですが、海ひとつ隔てたこの島では、水俣病にかんする情報は流れてこないし、魚を食べるなという行政指導もなく、普通に食べ続けていたのです。
 ネコは狂い、魚を与えていた豚も死ぬということがありながら、水俣病とは考えなかったのです。また漁業で暮らしを立てていた島ですから、水俣病の発生を忌み嫌っていたことも申請の遅れにつながったのです。いま人口7000人の島に申請者は1300人という「遅れてきた患者」を生んでいます。世界一の毛髪水銀所有者を生んだ島ですからそれは不思議でもありません。
 水俣病は有機水銀が原因物質ですが、それをそのまま摂取したのではなく、それを体内にとりこんだ海の生物を食べて起きた疾病です。その病気の表れ方は、たとえば有機水銀を殺菌剤につかって生産していた化学工場の現場の労働者、技術者の被爆とは違っています。イギリスでつき止められた有機水銀中毒は純粋に毒物を呼吸で取り込んだものでした。その発見者の名をとってハンター・ラッセル症候群といわれています。その症状は手足の感覚障害、運動失調、求心的視野狭窄、言語障害、難聴などでした。水俣でも急性激症型の頻発した時期にはこれらの症状のそろった患者がいました。そのほとんどは狂い死にしたのですが、その時期ですらこれらハンター・ラッセル症候群が全部揃った患者は少なかったのです。有機水銀に汚染された魚を食べて発症する例は水俣病以前にはなかったし、このような毒物の取り込みについては水俣病を分析して組み立てるほかはないのです。水俣病の前に水俣病なし。病像は患者に聞けといわれる所以です。
 このなかに慢性水俣病というものがあるということは初期から分っていました。手足のシビレだけがあるという人もいます。もしそうならそれは軽症と言えるかもしれません。しかし多くの解剖例から手足のシビレのあったひとには、ほかに肝臓、すい臓、循環器などのにも有機水銀のダメージがあったことが分ってきました。水俣病は脳中枢だけではなく、全身病といわれ、重い軽いはあっても障害を受けているのは普通です。シビレしかないなら他の病名でも説明がつくと認定審査会はいろんな病名をつけて棄却してきました。しかし、検査の方法によってはシビレのあるひとから他の症状も取り出せるはずだというのが数千人の患者を見てきて、水俣病にかんする経験のもっとも豊富な民間の医師ら(原田正純、藤野糺氏など)の意見です。患者が「うちへ来て下さい。私の一日の生活を見て貰えば分る」というのは日常生活のうえでの失われて機能を見てほしいということなのです。

 この慢性型水俣病の未認定患者にたいする誹謗、中傷がおこなれたのが第三期の特徴です。自民党国会議員、県会議員が「お金ほしさのニセ患者。水俣では神経痛ならみな水俣病だ」と再三にわたってニセ患者発言が繰り返されました。もちろん患者側は反駁しました。県にたいする抗議の際には小競り合いになり、患者ふたりと支援者ふたりが後日暴力事犯で逮捕され、「患者は暴力派だ」と言い立てられました。
 「患者のなかにはニセ患者がいる」という漠然とした疑惑はじつに水俣市民の七割に上っているという世論調査もありました。これは患者を深く傷つけました。
 事実ニセ患者に見られることは患者にとって最大最高の中傷であり人格攻撃です。水俣病の申請は本人申請主義をとっていて、水俣病と訴えでるのは患者側です。このほかに方法がないのです。それを「自称患者」と中傷する町長もありました。結局かれは辞職に追い込まれましたが、その発言の効果は生きて一人歩きしていきます。本来は水俣病事件発生当時から継続して、追跡調査をし、行政側から患者を発掘すべきであったのですが、それは一度もまともにはされませんでした。本人申請主義は患者には不愉快極まるものでした。
 71年にだされた環境庁の事務次官通達はその時の新聞に「疑わしきは救済」と大見出しされ、この受け止め方に悪意はなかったとしても、ニセ患者発言の契機になりました。これが78年、環境庁の新次官通達によって、二つ以上の症状の組み合わせとハードルが引き上げられたことで、ニセ患者防止策として認定審査会の棄却を増加させていったのです。
 患者は認定審査会を「棄却審査会」と呼び、その対立は深まりましたが、対抗手段は法廷で争うことしかなく、裁判が相次ぎました。その裁判はどれも10年以上になり、「生きているうちに救済せよ」という言葉が患者からでてきました。裁判所は弁護団とのあいだで和解による解決を模索しはじめ、国もその和解のテーブルにつくように勧告しましたが、数年たって去年、ようやく政府は最終解決案を発表、患者にその受諾を求めました。この案には地元への振興策も資金的に盛り込まれたものでした。

 問題が多いのですが、救済対象にする患者の病像をどうみるか、つまり水俣病は水俣病としてみとめて解決するのかどうかが一点、それに国家が水俣病事件の責任をどう取るのかが二点でした。患者のほとんどは民間医の診断書を持っています。とくに水俣病に経験の深い原田、藤野氏らのカルテをもち、自分を水俣病と考えています。その診断がこの救済に参考にされるのかどうかがありました。結果的には民間医にカルテは参考にされましたが、ついに水俣病という言葉は使われませんでした。

 「(水俣病とはかけないが)水俣病の診断は蓋然性の程度の判断であり、公健法の認定申請の棄却は、メチル水銀の影響がまったくないと判断したことを意味するものではないことに鑑みれば、救済を求めるに至ることには無理からぬ理由がある」と記述したうえで、長官または首相が「救済対象者はニセ患者ではない」と明言するという持って回った最終解決案の文面となりました。これは言外に「救済対象者はニセ患者とすれすれの存在であるが、政府はそうは取らない」といったニュアンスすら感じます。
 患者もまた「自分は外見から見るとニセ患者と思われているかも知れない」と悩んでいるふしもあるのです。からだの障害の軽い時には働きもしますし、買い物にもいく、集まりがあれば踊りの輪にもはいる。それがリハビリでもあるのですが、そのような生活の一面をみて人ななんというか。そうした気持の底にあるやりきれなさをすくって「ニセ患者といわれるいわれはない」と政府が言う時、その論理にふっと救われた思いがしたのでしょう。このやり口は水俣病事件の歴史を見ているものにとっては、卑怯に思えます。それは私にとっては羞恥心なしには語れません。自分のなし得なかったことに跳ね返ってくるからです。水俣病という言葉をはずした救済、しかもこの案には地元の振興策への資金供与もセットされ、最終解決案を否定することは、地元に対するおこぼれも切ることを意味し、患者の孤立を一層深める構造になっているのです。もし患者にたいする 260万円という低額な回答一本だったら、患者はもっとつよく反発したでしょう。「地元への振興策とセットだからやりにくい」という患者の言葉は当たっています。
 これが第三期の20年の闘いのはてにたどり着いた決着でなのです。新聞やテレビが「あいまいな解決」「死ぬまで待てぬと受諾」「選択肢のない選択」と一斉に批判したのは当然です。しかし患者はこれを呑みました。「時間に負けた、老齢化が一番こたえた」といいます。それは事実です。今回の救済に死者はおろそかにされました。「あらたな資料が出ない限り、死者の救済はみとめられない」ということで、死者は死に損になったのです。
 水俣病40年のなかで、患者が勝利したのは第二期だけでした。第三期は見舞金契約を飲まされた第一期と同じではないかと思います。そして最終解決案はほとんどの裁判の取下げ、自主交渉の打ち切りを意味し、いまでは関西の県外患者の訴訟を除いて、ほぼ終わりを告げました。

 いま患者団体は主にふたつのことを今後の問題として掲げています。医療体制、とくに看護、介護体制の整備と、それと水俣病の教訓をいかに残すか、です。
 とくに看護、介護の充実は切実です。水俣病の晩年のイメージにはまわりにいくつもの実例があります。比較的元気にしていたのに、急に病状が悪化し、硬直、痙攣がはじまり、急性激症型と同じ断末魔で死んでいくのを見ていますから、その不安はだれにもあります。加齢性水俣病という年をとると脳細胞の脱落が激しくなり、若さでささえてきた能力を一挙に失うという症状も医学的にあきらかになっています。そうした場合、肉親もまた水俣病であり、ひとりの病気の急変が家族では支えきれなくのです。これは水俣病にかぎったことではなく、介護問題として普遍的ですが、水俣病の場合とくに特異な表れ方をするだけに、経験ある医療者による援護を望んでいるのです。
 水俣病の経験を残す。世界に水俣病の教訓を伝えるというのは患者の使命感になっています。「こんな苦しみは水俣だけでもうたくさんだ」というのが犠牲者の声です。カナダに水俣病が発生し、その被害者インディアンの代表が来た時、「われわれの力不足で未然に防ぐことができなかったのを済まなく思う」と患者はいったことがあります。
 一部の患者はその思いを石(魂石)に託して、埋め立て地、かつてのヘドロの海につくられた野原に地蔵さんを数百体、患者個人の思いを刻んで建立したいという計画を立てています。本願の会という患者と市民の会がつくられ、運動をはじめました。石なら半永久的に残せる、埋め立て地の一角に並んだ野仏から、水俣病の時代を振りかえってもらえるのではという狙いです。これには現役で漁業を続けている患者が中心になっています。自然あいてに暮らしを立てている人たちです。「海を怒らせた。それが水俣病だった。海に許しを請わねばならない」といいます。その海に向かって患者のひとりひとりが野仏を置くという発想は水俣ならではのことでしょう。
 また五年前から、水俣病発見の日、五月一日に埋め立て地では慰霊祭が、三年前には秋に火祭りが行われるようになりました。その趣旨は水俣病の死者、魚、ネコを含むいきもの鎮魂の場としてみなで祈りを捧げたいということです。火祭りは今後水俣病の名物にしたいと張り切っているひとびとの中心に水俣病患者がいます。
 「水俣うまれのものが水俣病にこころをわずらわせて、水俣に背を向けようとしてきた。水俣は水俣病をこう克服し、誇りを回復したというところまで持って行きたい。水俣うまれであることが胸をはっていえるようにすることがこの時代の私たちの責任だ」というのです。
 その二つの精神的運動にかかわる数人の患者、数人の市民、支援者、その中心に作家の石牟礼道子さんがいます。「水俣でなにかを作りだそうとする創始者…ものごとの初めを担うひとびとが見える」と石牟礼さんはいいます。確かに数十年後の水俣をにらんだ患者の行動かもしれません。

 水俣は変わりつつあります。かつては水俣病患者の発言の場はありませんでした。それは市の発展にとってむしろ有害とすら考えられてきました。水俣のまち興しのために大学の誘致や、スポーツ施設の誘致など懸命の努力をしてきましたが、水俣病から目を逸らすことには患者は反発してきました。まして水俣病の幕引には反対してきました。市は水俣病を取り込むことに方針を転換したのでしょうか。そうでもあり一時の現象に終わるかもしれません。しかし、今、患者が、えらばれてこれら行事の中心になることで、水俣は水俣病の教訓を残す仕事に傾いています。
 一部の患者の努力ですが、患者の40年にわたる水俣病体験の凝縮をここに見る気がします。水俣病事件のうねりはいま精神的な宗教的な地点でうねっています。現実には政府も県もチッソも水俣病の教訓を残すことに民衆の英知を集めることはありませんでした。結局「患者が引き受けていく」というところでしょう。
 むすびとして…
 万をこえる水俣病の被害者たちがこれからも水俣、不知火海に生きています。水俣を離れ大都会に出たひとびとにも水俣病は影をひずっているでしょう。そのひとびとが亡くなるまで水俣病事件は終わらないといわれます。汚染をほしいままにしたチッソ企業は生きつづけています。水俣病の原因は物質である有機水銀ではありません。それを隠してたれながした人間がいたことが原因です。このなかに便利とよりよい生活を願った私たちが投影していることも事実です。高度成長はたしかに私たちをゆたかにしました。しかし水俣病の存在は「それでよかったのか」という疑問をたえず投げ掛ける問題です。
 水俣病は「ノーモア水俣」ではありません。カナダ、中国、最近ではブラジルのアマゾン、タンザニアにも深刻な水銀汚染の実情は伝えられています。みなよりよい生活を求めることに違いはありませんが、自然を犯して、その自然から罰せられた実例として水俣病ほど鮮明な記憶はほかに少ないでしょう。あとはチェルノブイリがありますが。開発とか発展とかという言葉の反語として「そこにミナマタはないのか」と問う習性を身に付けるべきです。
 今回、国の真の反省が聞こえてこないことは残念です。どうしてここまで深刻な事態をまねいたか、事実にのっとって教訓を導きだしておかないと、また薬害エイズのように国家の誤りをそっくり繰り返すでしょう。
 水俣と同様な出来事は今後も文明の発展の影にかならずついてまわるものだと考えた方がいい。それを最小にとどめることしか今の私たちにはできません。そのためにはミナマタという四文字を人類の記憶に刷り込む、遺伝子に達するまで肉体化していく必要があるのではないでしょうか。それを水俣の時代に生きた私たちは可能にしたいものです。