『されど海』シナハン日誌4-8 ノート <1993年(平5)>
『されど海』シナハン日誌ー4(93,2,15~2,17 紋別・サロマ湖)

1993,2,15(月)小雪、紋別にて。
 終日、ワープロ、日誌整理と、おもには札幌・ロシア総領事館あての竹村孝章氏への依頼状・ファックス原稿を夕方までかかって書き、根室市及び札幌のホテルに送稿。青木征雄プロデューサーあてに同文を送る。
 流氷は沖合遠く、砕氷観光船も出番がなく、休航とのこと。

1993,2,16(火)小雪、時々晴れ、紋別にて。
 午前10時、道立オホーツク流氷科学センターにゆく。ホタテ船は陸揚げされ三月末の海明けに備え、修復されている。漁の動きの全くない港に連なって新設されたオホーツク流氷科学センターはSF的なモニュメントだ。内部も時間をかけて遊べるテレビゲームのようなディスプレーシステムがふんだんにある。よびものの全天周映像は工夫されているが、流氷のメカニズムについては、網走の流氷館のほうが詳細に思われる。係員や案内嬢はいたるところでサービスに努めている。地元の若い女性の勤め先としては格好のものだろう。ついで私立紋別博物館にいく。無料だけあって小学校の一角に展示を並べてようだが、丁寧に説明をつけてならべれば埋蔵量は相当なものに思われた。

 港に寄る。飛び入りでマルハ大洋のシーフード工場に立ち寄る。大洋は富良野(DG)、釧路、標津、十勝、ホロベツにも水産加工の工場がある。マルハ印だけではなく三越や東京生協などなど、レッテルを貼って出しているとのこと。アラスカのタラバカニも時にやる。工場では独算性のためかブランドは現場の営業で才覚して出荷しているようだ。
 工場の古川主任の話
 ここで製造中のホタテの原料は今の時期は、雪のないイブリ、豊浦、長万部、八雲から陸送で冷蔵車で持ってくる。今、浜は底引き船も回送してここにはいない。
 海…この海区の水深 200~300mmまで。あまり深くない。ホタテ貝の場合、水深37~50m のジャリとドロのところに漁場(畑)がある。海区を別けて、年ごとに海区をきめて採る。ホタテの漁期は 6月10日から12月まで。とくに6~ 7月が全盛期。海明けからそれまで(前期)は漁場造成のため、前年に取り残した古い貝をさらって揚げる。
 全盛期には 8尺の桁で引く。1回で 3~ 4t、 3回で10トンは採る。
 工場の従業員は女性80名、1月は休みであと 2月から年末までの季節工。ほかに男性15名。地元の主婦の労働力に負っている。若い女性は都会に出て、ここには来ない。人件費が事業費の一番の出費という。
 昼食後、懇切な案内でホタテ、サンマの缶詰の工程を見学。
 1日、20~30トンの原貝(玉)を処理している。貝柱を10分(大は13分)茹で、あと数10分真水に晒す。面白いのは消費者の観念が「ホタテの貝柱は白い」と思い込んでいるので、晒す。ウマ味のグリコーゲンはやけて褐色になる。その方が旨いのだが、まずくなっても、白くしなければ消費者には受けないという。目方の計量、サンマの開き、カンの消毒( 3回)、すべて機械だ。
 ほとんどがオートメ化されているが、ホタテの崩れを防ぐには人手、慣れた指先の作業である。サンマのカバ焼(年産1300t出荷している)もカンに詰めて、たれを馴染ませる工程(充填機)だけが人手でなければうまくいかない(ロシアにそれも機械処理できるものがあるというが)。各プロセスの機械は1基3000万円くらいはするという。ここの工場の施設全体で10億円という(工場長)
 工場長の話。
 10年ほど前からソ連に技術指導に行っているという。
 ソ連のコルホーズの主な魚種はズワイガニ、タラバガニ、ツブ、毛ガニなど。
ソ連の製造の欠点は選別、ボイル、保存設備に不良がある。加工船に冷凍の設備がない。船体が古く、電力が足りない。加工には真水が必要だが、それを作る装置がない。飲料用のものがあるだけだ。これでは水を使っての急冷はできない。ファンで冷ましている。
 ソ連・ロシアの良い点は資源の取り尽くしはない。年間 5万箱のノルマならそれだけやれば操業を打ち切る。日本のように「もっと」採るということはないからだ。
 ソ連は魚の加工もしている。干物、塩蔵、燻製(スケソウ)など。ムルマンスクでは魚肉ソーセージをアジから作っている。すり味加工もしているが、モスクワまで無葢車で10日もかけて送るようなことではロスが多い。
 加工技術は北欧製のものが優れている。ソ連はそれを買ってきた。日本との合弁での問題は出資しても買うものがないという事だ。資材の不足も障害だ。韓国やベトナム(日本が後ろにいる)との合弁が早まっている。日本の合弁企業の定着にはまだまだ時間がかかるだろう。

後 3時すぎホテルに帰り、休む。すこし疲れが溜まり、風邪気味、喉が痛い。

1993,2,17(水)快晴のち曇り サロマ湖にて
 午前 9時、紋別セントラル・ホテルを出発。海岸に近い北大流氷研に表敬訪問。
 午前10時、サロマ湖・芭露に、湧別漁協員でカキの養殖に成功した石本武夫氏を訪ねる。海に面し、船着き場から荷揚げのスペースがあり、作業場に土足で入れる絶好の立地だ。 ここにはホテルはないが、漁師の家でも泊めて、うまいものを食べさせるという。
 石本武夫氏の話
 氏は昭和22年生まれ、北海道入殖の四代目、46歳。貧しい漁家の生活だった。父も漁師をやれよと自信をもって言えない時代だった。中学卒業後、名古屋の鳴海、トヨタの下請けに12年働く。お金を溜めることしか考えなかった。
 祖母の米寿の時に帰郷し、ホタテの地蒔きで「食える」漁業になっていたので、Uターンした。
 ホタテは自分の海、サロマ湖で種が採れるというのが強味だった。いまはどこでもホタテをやるようになってあまり現象になってきた。これはピークではないかと思った。家ではホタテの前はカキを養殖していたのを思い出した。当時、カキは底値がなくてやっていなかった。資料を調べると、カキは厚岸でやっていた。カキとの二本柱にしようと思った。 当時、国鉄線が廃止になって、転勤した人が「もうここのカキは食えないな」というので送ってやることにした。その折も折、郵便局ではふるさと小包が出来た。その局員の斎藤清光とこれでやろうと考えた。「うちの局は特定郵便局だから、人員削減になるかもしれないからやってみよう」。
 (ここは冬はチカつりのメッカだ)
 カキは昔は、積み込みに二日もかけ、仙台から一週間もかけて送ってきた。それから芭露駅からリヤカーで引いてきた。それでもタネカキは生きていた。と、いうと「いまは女満別から夕方の四時に送れば、東京都内には明日の昼間には着くから」というので、面白いからやってみることにした。網走では流氷の鳴き声のテープと氷塊だけでも金になる時代だから中身のあるだけ売れるぞ、ということになった。
 これを実現するためにも、漁協の理事会に計ることにしたが、反対が多かった。「出戻り」の「内地かぶれ」が調子に乗って何いうかと目のかたきにされた。つまり「漁師が商人みたいなことをする」というのに反感を持たれたのだ。自分の息子たちには理解された。が、年寄りは封建的そのままだった。
 理事会は大荒れに荒れた。そこで芭露漁業青年部をつくってUターン組も入れて始めた。 初めは口コミでお得意が増えた。また、地元特定郵便局の全面的な営業活動があってトントン拍子に軌道に乗った。北海道新聞やNHKで放送するや、郵便局のふるさと便に電話が殺到した。箱が無くなるほど来た。カキは1か月で1200箱、1戸当り、日に 100箱だしたこともある。
 郵便局員が宣伝ポスターを手書きで描いた。暖かみがあるということで、今でも手書きで通している。特技のある連中や人材、そして時流に恵まれた。現在出荷組合は15軒だ。昭和60年、ユウベツ・常呂・サロマの3漁協でやるようになり、昭和63年、郵政大臣賞をもらった。いまは殻つきカキ、むき身カキ合わせて道内一の生産高になった。十年一昔というが九年目でようやくここまで来た。
 カキは餌が要らない。板についた種カキを垂下式で吊す。ホタテ貝は三年かかるからカキの方が良い。出荷組合で年間 3億円揚げている。オホーツク沿岸はほかはホタテ貝だけ。道内でも厚岸、函館ほかいくつもないから有利だ。
 
 だが許可漁業権は二つは取れないように漁協で制限している。誰かが段とつに捕ってはいれない仕組になっている。全漁家が平均してほどほどになるようにしている。祖父が「ここサロマ湖は魚の宝庫だ」と言っていたが、まさにその通りだ。
 反面、ホタテの成功によって漁民の心が貧しくなった時期もあった。この後、ホタテの余り現象もあって、もとに戻るようになったが…。猿払なども大打撃をうけた。ようやく 3万トン台に回復したが。
 自分たちの年代までは極貧の時代を知っている。だが若い連中はこれが当り前という考え方だ。女満別空港に高級車で乗り付け、札幌市にでて、すすき野で一か月も豪遊するような奴もいる。だがここでは跡継ぎはいる。次男も仕事はあるから残る場合が多い。とくにガンガラ漁(ホタテ)は良い。大した金になる。
 改良すべきこととして、去年まで捨てていた小さい貝をカゴに入れて海に戻し、育てて採るようにしている。最近は種カキ不足になってきた。農業や牧畜と違い、海に餌は要らない。農家と違って一作ではない。ここが強みだし、生き延びられる。
 ホタテは 4万トンの余りといわれる。だが、スーパー値段は浜の 3倍だ。おかしい。
 「漁業者も商人になれ」と私は言っている。例えば観光に5万人来たら、食わせて帰すようにすれば、どんなに儲かるか。
 ここで漁業ができるのは周年なんでも漁がある。えぞばふんウニ、北海シマエビなどがある。ホタテ貝、カキ、サヨリ、アキサケの定置網、ホッケ、毛カニ…。ウニは天然ものだ。サロマ湖は外洋より塩分が強い(?)。

 資源保護のために
 エビの一日のノルマは30キロ、ウニは一日、70キロまで。毛ガニは通年何千トン。だから資源は減っていないと思う。
 漁の暦
4月20日、海明け。ウニ漁 4月25日から 6月19日まで。札幌まつり( 5月連休)時が最高。(残念なことにサロマ湖のウニのブランドはない、厚岸のウニになる。ここでは折りに入れるまでの加工が出来ないからだ。街の人口6000人、その60%が50歳以上、労働力はホタテに取られるからだ)
4月20日~ 8月まで、毛ガニ漁。15トン船による籠漁、餌はタコ。外洋30マイルまで。
朝 2時に出港、うす明るい 3時半ごろ篭をあげる。レーダー・プロッター( 170~ 180万円)で人口衛星ノアで位置をTV画面に写す。電子機器は安くなっていて一網分の揚りで買える。
 北海シマエビは 7月 1日~ 8月13日。湖内の浅瀬で操業する。網の目を大きくして稚エビは漏れて逃げられるようにしている。(別海の野付漁協は打瀬網漁の風情を売りに売ったので止められない。稚エビが船に揚ってしまうと戻しても死ぬ。資源が減少気味で、サロマ湖から北海シマエビをまわしている)
 エビは茹でてから 急速冷凍にする(加工者60軒)。油やけしない。竜宮台まつりには観光客に茹で立てをくわす。
 クロガレイは 6月 1日から11月末まで。サロマ湖で刺し網。 2~ 3トン船で捕る。
 湖内ホタテ養殖。まず稚貝放流 5月20日~月末まで。
 外洋に稚貝を全組合で何百万粒も撒く。壮観だ。どこにこれだけの船がいたのかと思うほどだ。稚貝の20~30%が成長する。それを15トンの桁網船が採る。屹水線すれすれまで貝を積んで帰る。
 ホタテ貝の種採り。 6月28~30日にホタテ貝を吊り下げ、10月に種を採る。一年ものの稚貝(個人用?)の販売は 5月末。
 アキアジ 6か統。むかしながらの番屋がある。かつて青森などからの出稼ぎはここに定着している。いま出稼ぎはない。
 結氷期は氷下漁がある。コマイ、チカ、キュウリウオ、ニシン、クロガレイ(刺し網)。これらは高値。コマイ18キロ…6500円、クロガレイ18キロ…20000円、チカ…8000円。

 流氷の温暖化による変化。この 3,4年は昔の経験があてにならない。むしろ電子計器の読める若いものの方がよく取る。温度変化のないときは昔の人のカンが当る。最近はエビが深みに住む。藻の中にいたのが泥の中にいる。近年アマモが増えた。
北方四島は岩場で回遊魚の通り道だ。ここでアキアジを取られたら北海道、道東はやってはいけなくなるだろう。またここに日本の最新式の漁船をいれたら一時代もたずに海はやられてしまうだろう。自然管理型漁業に徹すれば長持ちする良い漁場だろう。

 サロマ湖養殖センターにて
 午後1時過ぎ、サロマ湖養殖センターの研究員藤芳氏に会う。謙虚な人柄だ。自然保護運動が自然に手をつけるなというなら、サロマ湖は人工の海だ。それに人間が依存して生活している以上、それを手付かずの自然に戻すことはできない。ならば人間がこの環境と資源保護に責任を持つべきだというのが持論だという。
 サロマ湖はここの生命線だ。この内海では環境を守ることと、漁業を進めることが一致している。全国的養殖は餌をやる養殖、つまり蛋白質を転換して高級魚にしているが、本来、養い殖やすことだ。餌をやる養殖は自然にもとる。
 太陽エネルギーから光合成によって植物性プランクトンを、それから動物性プランクトンをという流れを生かすことだと思う。有機物を水面から取り上げるのが眼目だろう。その自然の許容量から養殖の規模をきめている。
 そのためサロマ湖全体の生態系を10年に一遍見直し、 5年に一遍小さな見直しをする。そこで漁獲量を割出している。根つけ漁業については 3年に一遍見直している。
 このサロマ湖は人工的に鹹水化した。昭和 4年と52年の二回にわたって湖口を作った。塩分は外洋より少し低い程度、干満差は約1m20、 8日間で潮が入れ代わる計算になる。総水量は12億トン。
 サロマ湖では稚貝 6億6000万個を採り、 6億を外洋に撒き、6000万を湖内に撒く。外洋の沿岸35kmに 4海区があり、 4輪性で毎年1海区を採る。その実経費を差し引いて配当する。
 外洋で操業するガンガラ船は全船組合所有。普通で年1500~2000万円の配当になる。
 湖内のホタテ6000万枚は個人の利益だ。ほかにサケ定置網も共同漁業化されている。
 ホタテ貝柱は 6割が乾燥貝柱として主に香港に売られる。これの加工は漁協から加工業者に委託のかたちだ。組合の管理下にある。
 組合員には漁業の種類によって持ち点制度のような形で、収入の均衡が計られている。漁協が許可権をうけ、各自が行使権を持つ。水揚げは管理され、他への横流しには厳しい罰金が課される。だから違反は滅多にない。だが非組合員の暴力団などの「特攻船」はいるし、カゴごと盗む密漁はあるので頭を痛めている。
 みんな船は二隻は持っている。15トンタイプと2,3トンのサロマ湖で使う船と。
 ここの今日の盛況は昭和40年代からだ
 日本の水産業において科学が本当に役にたったのはサケ・マスの人工ふ化放流とホタテ養殖だと思う。元水産試験所の職員木下とらじろうだ。だからここでは学者を大事にしてくれる気風が残っている。

  流氷について
 流氷のメリットは四か月間海がストップすることだ。その間、自然の調整機能が働くという点だと思う。海明けと同時に生物の活動も、餌の繁殖も急激にはじまる。年間に餌がコントロールされる。生まれる、育つが明確に決まっている。つまり計画生産が出来る。例えばコマイは冬、氷の下で産卵する。そして海明けのときにふ化する。流氷のもってくる水がその栄養源になっている。
 海氷には底にアイス・アルジー(苔)がある。それが植物性プランクトンだ。
 湖畔のアマモは殖えている。秋に卵を抱えたエビはそこで春に産卵する。

 その温暖化のためサロマ湖の結氷がない。だがもっと長い時間で見なければ分からないことがあるだろう。
 流氷の氷塊がホタテの養殖施設を引き倒す被害が出る。そのため、今後湖口に流氷防止のワイヤーを張る計画もある。
 汚染について
 ホタテ貝の糞の問題があるが、バキュウムで掃除するといった急激な変化をみる方法では無く、ナマコを放流してそれらを摂取させるといった方法のほうが、私はすきだ。ゆるやかな変化が自然界ではいいと思う。ここは最大水深20m、風による拡散もあるので、まだ被害はめだたない。
 周辺は隙間なく牧場がある。観光客も生活廃水を流す。そのためこの施設は先駆けて浄水施設を作ったが、とても全体に取り付けるわけにはいかない。水争いではいつも下流が弱い。

 羅臼のスケソウ漁。スケソウの卵は氷と一緒に流れる浮遊卵だ。羅臼には産卵にやってくるのだと思う。(最後に網走水産試験場の案内をしてくれる)

  3時半、東急リゾートにチェックイン。予想通り、娑婆と隔絶した特権的観光のスタイルだ。しかし流氷研のなかば指定のため止むおえない。青田昌秋氏の宇宙開発事業団との打ち合わせの済むのを待って、面会する。理学者のため生物や海洋学には踏み込まない。近く子供むけに流氷についての本をだすとのこと。参考になるかも知れない。
 アイス・アルジーについての水中撮影は遠隔操作装置が紋別市内の建設会社にあると教えてくれる。顕微鏡撮影についてはサロマ湖養殖研究センターの藤芳氏に頼んだほうが良さそうだ。
 <青田昌秋氏…山邨伸貴記>
 植物性プランクトンがスケトウと結び付く環境を海水は作っている。
・アイス・アルジーが成育しやすい状況が氷の世界にありそうだ。光合成をする植物性プランクトンなので、光が必要だ。他に栄養塩も必要。栄養塩を豊富にしている原因も氷にある。氷の下の光は植物性プランクトンの光合成に、ある程度充分な光がきているらしい、ということは大体分かっている。だから、植物性プランクトンは海の生産力の基本を決めるので、すべて海の生き物がこれと結びついているのは確か。
 基礎生産力、基礎生産量というものはそれで決まっている。食物連鎖から考えても、これがなければ次がない。
質問、アイス・アルジーの研究はサロマ湖で最初に?
 これは極地研の工藤氏が受け持っているが、星合高雄(ホシアイタカオ?)極地研所長が20年前からここに来て研究していた。南極が主だったが、ここでやろうと…去年はカナダから沢山人が来た。私は研究というよりマネージャーだ。
質問、氷の中のアイス・アルジーの変化を顕微鏡では?
 難しいかも。東京の仲間で電子顕微鏡でやっているものもいるが、連続的に見るのは難しいかもしれない。
 氷をひっくり返して見ると、黒いドロドロがくっついているだけ。それが春になるとバーッと降りてきて、クモの巣がいっぱい天井からぶらさがっているような観になる。それが増殖の時期らしい。私は大分前に潜って見たことはある。だが「植物性プランクトンが増殖しているなあ」というのは難しい。非常に汚いんです。
 氷をひっくり返して見ると下(底)の方が茶色「着色層」になっている。映像にするには、この汚らしいものを分離機にかけて濃縮して顕微鏡で見ると「やっ生き物じゃないか」という感激はあるかもしれない。
質問、そういう撮影は今までされていない?
 …と思います。そういう点を突いて貰わないと、薄っぺらな間違いがよくある。アムールから流氷がやってきて…といった…。
 顕微鏡でみれば藻類ということは分かる、春になり氷が溶け出するとクモの巣のようになるということは分かると思います。それが海の基礎生産力を高めているというのは間違いないと思うし、また出来ると思います。
 藤芳氏…藻自体は動かない、植物性プランクトンだから。しかし模様は見える。ここでも撮れますよ。肉眼でも見えます。ただしその時期をよく把握していないと…。ある程度、氷が安定して発達していたものの末期というか。氷の底にヒゲみたいなものが出るには、安定した時間がないと。
 青田昌秋…どんどん分散するわけですから。コロニーを作るみたいに。頑張ってくれれば見えるって事でしょうね。
質問、その氷は海氷か?
 青田昌秋…いや、外海よりサロマ湖で張った定着氷の方に一番着いている。だからアムールの流氷が栄養物を持ってくるという話ではない。
 アムール川からは淡水の供給が多いということです。川の水ですから、川に含まれている燐とかカリとかが全部流れこんで海を作っている訳ですから、プラスの要因としてはあるが、一番大事なことは、オホーツクを二重構造にしているという事です。塩分の薄い水が入り込んで、同じ緯度なのに日本海側もアリューシャン側も凍らない。ここオホーツク海は表面に薄い塩分の氷の層50cmをつくる。深海層との対流がストップするというのが、アムール川の大きな役割だ。
質問、氷の下に藻類が着くのは法則的ですか?
 青田昌秋…いや、一つには物理的条件がある。光のある所でしか光合成はおこなわれないから、氷の下の近い方に光が多い。氷が40~50cm張れば、普通の海だったら 200m位の暗さになる。光合成がおこなわれるのはそのあたりまで。上へ、上へと生存できる条件というのは狭まる。となると、勢い氷の下になると思う(私見ですが)。
 もう一つは塩分の状況が影響している。凍るというのは不純物を排斥する仕事をしている。といえば塩分。だから溶かして飲むと水っぽい。ということは「濃い水」がどこかに追い出されていく。濃い水は重いから沈む。沈んでいくと、下の水が上にあがっていく。そして下の栄養塩がもういっぺんリサイクルする。海の中にはいろんなバクテリアなど栄養を持っているのが少しずつ少しずつ沈んでいく。落ちた所をかき混ぜると、栄養塩がもういっぺんあがってくる。
 もうひとつは付着しやすいのが大きな原因だと、生物屋は言っている。藻類ゆえ付着しやすい性質がある。むろん流れが強ければ流れてしまう。だから氷に下が物理的要因とすれば1)流れ、2)光、3)塩分の濃度、4)温度、5)エンチョク?混合が起こりやすくて、栄養塩が豊富であろうと思われる。
 栄養塩などはいっぺん上がると、落ちるまでに時間がかかる。そういう点では北の海は栄養塩としては豊富。
 その例としては証拠があって…熱帯地方の海は表面がもの凄く暖かい。そして下に冷たい水がある。太陽熱で表面が暖かい。ということは対流しない。故に、熱帯地方の海の表面はいつも栄養失調状態。
 その反論もある。熱帯地方にも好漁場があるじゃないか? それは南極やグリーンランドの沈んだやつが1500年も旅して上がってきていると。だから狭い目で見たら、上下のエンチョク混合が、凍る海では起こりやすい。
 今度は冷たい水(深層水)が沈んでいって深層流となる。これは南極でもウェッテル海とグリーンランドの南にある所を潜っていって、太平洋あたりで合体し、上がってきて、栄養塩をバアッと。だから熱帯地方でも好漁場がある。それが氷の恩恵。
 (南極のオキアミも?)同じです。世界の好漁場はみな氷のそばにある。例えば、密漁など獲り過ぎて問題になるのがベーリング海、三陸沖、親潮向き、釧路沖など。オホーツクの水が流れこんでいる。カナダの北もタラ戦争をやっているように、氷で三大漁場が決まってしまう。僕が「統計的に」というのは、とにかく魚が捕れる事が証明しているが、疑問点はあり、研究中だ。
・植物性プランクトンのクモの巣にはエビの幼生も見られる・そうした氷の厚みは熱的に計算すると40cmがせいぜい(平年)、定ジョウ的な観察はできない。
(サロマ湖の塩分濃度は?)やや薄い程度。湖口をつくったのであまり変わらない。
(流氷期は海が休む。それが魚の生産性を高めている?)
 漁師の話を聞くと、ホタテ貝の実入りがここ何年か少ないという。またサケの回帰率が少ない。しかし確証はわからない。それが 4年つづくと、これは流氷の影響を調べるチャンスの信号になる。
(温暖化はある程度推定できるか?)
 ここは、赤道に一番近い凍る海。イコール辛うじて凍っている海。だから温暖化がすすめば最初に解けてしまうのはこの辺りになる。だから地球温暖化のシグナルになる。
(NASAの写真は公表されているか?)気象庁、ひまわり衛星でも出している。(合成カイコウレーダーの話は略)
(何か助言は?)かつて海明けはー暖かい言葉だがーあれは失業の裏返し。冬、失業して皆都会に行ったり、他の海に行った人がオホーツクの海が明いたから帰ってきたぞ、という言葉だった。(中略)
 稚内でタコが捕れるのは四島で捕らなかったからだ。水産関係者に言わせればアンタッチャブルだ。
 流氷の被害の予測、サハリンには石油の問題がある。海上油田の櫓や港湾の掘削施設が流氷に破壊されないか、葛藤がある。

 『されど海』シナハン日誌ー5(93,2,17~2,19 サロマ湖・釧路)

<93,2,17つづき>
  7時過ぎ、ホテルで夕食。品数からいって特に高いわけではないが、落ち着かない。明朝は朝食抜きで出発にすることにする。熊本日日新聞から電話でインタビューの申出がある。三月に水俣に行く機会ありと返事する。

93,2,18(木)小雪、晴れ、雪。
 青田昌秋氏のサロマ湖での実験は、人工衛星の写真の分析の精度を確かめるため、実地の雪、氷に計測をしておくためのもの、付き合う必要はなくなった。サロマ湖から網走に移動。朝食をドライブインでとる。
 釧路港は見事に流氷に覆われていた。オホーツク人の遺跡、モヨロ古墳を見学し、サンパークホテルに入る。
 未整理資料を処理するのに、時間が一日浮いたのは好都合だ。山邨君はスケデュールの調整、確認、アポイントをとることにする。釧路サンパークホテルに一泊。ワープロを深夜まで打つ。

93,2,19(金)快晴、釧路にて。
 昨夜来、風邪気味のためか喉が痛む。薬を買って飲む。やや気怠くなる。
 午前10時。道釧路支庁経済部水産課に行く。漁政課長西村陽一氏、漁業管理係長中村慎一氏ほか専門の諸氏が応対に出られる。
 以下、概要…網走、紋別の漁業は昔から沖合漁業だった。サケ・マス、コンブが積み上げてきた。水揚げは上がっている。サケ・マスのふ化、放流の結果、その回帰率が高いことに因る。
 管内の水産の 8割がホタテ(40%)、サケ・マス(30%),スケソウ、毛ガニである。
 北海道の水産の割合は日本海-1、太平洋-2、オホーツク-3。ここオホーツクでは国際的影響力が(北洋ではないため)比較的少なかった。海の自然力を使い、増養殖をしているので、投資は少なくて済んでいる。かつ資源管理のサイクルがはっきりしている。例えばホタテ貝は 4年周期、毛ガニは1500トン(内、釧路管内は 750トン)決まっている。噴火湾のホタテは垂下式だが、ここは地撒きである。
 内水面漁業も網走湖のワカサギ、シジミは豊かだ。
 ここでは結氷期は漁業を休む。スケトウ漁もしない。
 四島との関係は根室のように強くはない。コンブで言えば宗谷系で、根室や四島のようにナガコンブではない。
 この管区の水産の発展は、魚の値段をいかに高くするか、付加価値を付けるかだ。魚の浜の値段は上がっていないのに、消費指数は経済成長につれて上がっている。その分、魚は相対的に安値のままだ。サケ・マスも安い合弁ものが入ってくるし、ホタテの輸出も香港の中国復帰後に不安がある。

 午後 1時。道立網走水産試験場に行く。漁業資源部長渡辺智視氏、増殖部大槻知寛氏ら。
 概説…1991~ 2年のオホーツク(羅臼以南を除く)のスケトウ漁は 150万トンで水揚げは下がり放し。スケトウダラは水温 2~ 5度で産卵する。水深 200mの深さで産卵するのを流し網で捕る。 4~ 5歳で体長30cm。沖合いの大陸棚での底びきは年間通してやっている。 124トン船17隻。日帰り、または1泊程度での「かけ回し網」漁である。この網目は大きめである。これに比べ、「オッタートロール」漁は脇の板の揚力を利用し、中層魚を捕り、その網目はややこまかい。
 この管区でのスケトウ漁の減少は、魚価の安さから減船(29隻~17隻)したせいもある。だが、資源量そのものの減少、流氷の暖冬による変化、乱獲もある。産卵直前から産卵期のスケトウのは、他の時期に比べ高価なため漁獲が集中し過ぎている。またロシアとの共同研究がなされていず、ロシア水域の状況が分らない。つまり釧路だけではスケトウ漁のことは解明しがたい、これが結論のようだ。
 ホタテ貝の地撒きは過密だが、外洋であるため問題がまだ出てはいない。しかし、中国で競合的になるのはスケロープだろう。
 毛ガニの漁期は 3月下旬~ 4月初め、脱皮期をおいて、 7月~ 8月。毛ガニには割り当てのノルマがあり1500トン前後で推移している。ロシアとの合弁は民間の毛ガニの協議会がロシア水域でとっているほか、稚内沖で洋上買い付けもしている。
 毛ガニは底の砂を吸い込んで、プランクトンを摂取している。カニ籠に冷凍のスケトウやスルメイカ、雑魚を餌として入れる。甲長 8cm以上( 5歳~ 6歳)でなければ捕ってはならない(ポスターで徹底してPR)。脱皮したての柔らかいカニも捕らない(普通のは固カニ)。だがこっそりと小さいカニも民宿などでは出すため規則が破られがちだ。毛ガニは「食用」か「観光用」か分からないところがある。
<ロシア人研修生>去年、サハリンのチンロからビクトル・セルゲインコ研究員が研修にきた(OFCFの資金)。無脊椎動物が専門で、かれの担当するブッセ・ラグーン湖(半鹹水)でのホタテ養殖の可能性を調べに来た。こちらとしては塩分濃度の不足を指摘、外洋での地撒きを勧めた。戦前、サハリンのアニア湾でホタテ貝(自然発生種)はあったからだ。 問題は、ロシアでホタテ貝の種がを採る技術があるかどうか。外洋での小型船(作業用)がないが、どうするか。資材、資金などネックが多い点、実現を心配している。
 今、試験場の<課題>はホタテ貝の成長の差、健康の差(質の良いものを取り出すため)が何故出てくるかを調べている。
 汽水湖でのワカサギ、シジミの研究もしている(カキは汽水ぎみの方が甘い)。

 午後 3時、水産試験場を辞し、小清水、斜里を経て、羅臼に向かう。峠越えは雪のため道路閉鎖。海に流氷が着岸している。
  5時半、暮なずむ中、羅臼に到着。港にはスケソウ漁から帰った19トン船がこうこうと明りをつけて底流し網のたぐしをしている。不漁のためか漁師さん達に愛想がない。スケソウはタラコを持っている。一日に二操業と決まっている。ここの鋼鉄船は船首に砕氷性を持つ独特のカーブをもっている。流氷がさらに来ても、朝 6時頃には出ていくという。
 町はずれの温泉、ホテル峰に泊まる。漁船員が銭湯がわりに湯に入りに来ている。若い男のいる町だ。冬場のオホーツク沿岸を見てきた目にはここは唯一操業している海に見える。
 この日、山邨君、中標津、別海、根室方面のひとびとにアポイントメントを取る。
 竹村孝章氏は「文章が良かったのでロシア総領事に、書かれたものはすべて渡した」とのことだ。

『されど海』シナハン日誌ー6(93,2,20~2,25 羅臼、中標津、野付、根室、別海)
1993,2,20(土)快晴。羅臼、そして中標津へ。
 朝10時、羅臼町教育委員会・文化財保護係長涌坂周一氏に会う。
 氏の解説。北海道には稲作時代に見合った弥生時代がなく、続縄文文化、プレ・アイヌの擦文(土器)文化が出現している。 7~ 8世紀に樺太から渡来した。それとは別にオホーツク人がある。北の他部族に圧迫され玉突き式に押されて南下し、アジアのバイキングになったようだ。
 アイヌは海のほか内陸、河川ぞいに、その上流に暮らしたが、オホーツク人は海から離れない。ツングースの黒水(アムール川)マッカス族で、いろいろな漁具を持ち、大陸の交易品を持って、サハリンから道東、北方四島にまで流氷とともに南下した跡がある。
 13世紀頃の遺跡からは熊送りの儀礼の跡が発掘されている。海辺にすんで熊も取るが、クジラ、トド、アザラシ、沿岸のサケ、カレイ、ウニを食べていた。14世紀頃までだ。
オホーツク人と擦文人とは違う。アイヌはアワ、ヒエを作って食べていたが、オホーツク人は魚だけを食べていた
 アイヌは和人を繋がっているが、オホーツク人は和人とは繋がらない。だが彼等は次第にアイヌに吸収されて行ったらしい。中国の古銭や鈴を持っていた。土器の壺にはソーメン紋がある。擦文人は甕をつくったが、その甕に擦文にソーメン紋を混合した模様もある。 熊は山の神、海の神はシャチだった。それが骨の細工に残っている。焼け焦げの熊の頭部が写実的だ。
鋭い矢じりや皮剥ぎ用の石器が白滝、置戸からでる。
 オオワシはカムチャッカ、沿海州で繁殖し、羅臼の前浜で越冬する。 2月20日頃が最も多く、 3月には帰る。世界最大の集結地が羅臼だ。ほかにエゾシマフクロウ、オジロワシがいる。
 氏の見る羅臼の魚況。スケトウの資源…ロシアの漁船のオッタトロール式漁法は中層魚も取る。
 4年魚まで獲るので資源に影響している。羅臼の漁民は 200カイリに反対デモまでしたが、スケトウの魚価が上がったので止めた。
 スケトウ漁は12月まで釣り、はえ縄。
 1月末から 3月中旬まで本格的刺し網漁。
  7月20日からコンブ漁。 4月だけやっていない。

 午後 1時、羅臼漁協、千島歯舞諸島居住者連盟羅臼支部、高岡唯一氏にあう。
高岡唯一氏…「ここ羅臼では朝日は国後からのぼる」
 スケトウ漁の不漁…底引きトロールは禁止の海だが、自分たちも獲り過ぎた。外国では魚卵はあまり食べないが、日本人はタラコ、スジコに目がない。放卵、ふ化の時期にとっている。遅きに失したが、今月末には1)操業形態、2)漁民の意識が変わるだろう。(流氷が来ればスケトウも来るのだが)。
 ここでも 200カイリ規制以前は流氷の時期は休んでいた。

・羅臼漁協( 700人)各魚種別漁期
 今、操業しているスケトウ漁の19トン船は 1月12日(これまでは 7日)~ 3月までと決まっている。
 (?~1/20までできる船型と?~2/10までできる船型があり小型船はこのいずれかしか 来年から漁ができないかもしれない)。
  4月から、4,5トン船、 3~4人でスケソウの刺し網。これはここ2,3年漁獲高増す。ただし、来年からの漁は不可能になるかも知れず。
 小型船の人々は4~9月の間ホッケ、カレイの刺し網。その他タラ漁も。この人達は19トン船には乗らない。ただしコンブ漁(200戸)に従事する人々はこの限りではない。
 コンブ漁は 7月20日前後から 8月いっぱいまで、朝 6~ 8時の 2時間である。
 ここでの養殖コンブは天然の 2,3割。水深 7~8メ-トルのところが主。 200戸が権利を持つ。
今は全戸、乾燥機で製品にしている。
 ・9/1~11/25秋アジの定置網。おもに銀サケ。
・カレイの最盛期は春秋、とくに 9月から12月一杯。
・カレイの種類(マガレイはkg2000円、ほかにソウハチガレイ、アサバガレイ、スナガレイ、イシガレイ、カワガレイなど)。4,5トンの船で家内工業的。漁場の水深 7,8m。・ 9月~(19トン船に限る)キンキ、深海にいるカレイ(アブラガレイ、サメカレイ)
・ 9月~12月(19トン船)イカ漁(釣り)が91年より急速に増える。イカ漁の許可はスケトウ船だ。そのため19トン船はこの時期イカ漁か、キンキ(深海魚)、サメ、カレイ漁にわかれる。この漁は 3,4人でなされるが、箱詰めに人手がかかる。
 イカは夜の漁、いさり火でとる。その発電機の設備にも3000万ほど掛かる。スルメイカのとれ過ぎで、相場は92年は91年に比べて1/3の値となる。
・かご漁はツブ、エビなど数船。
 ・羅臼の船籍、19トン型 140隻,小型船20~30隻。

<サハリン、北方四島の印象>…色丹島穴間でシケで40時間停泊したおり、釣りをしたが、磯にいる魚、カレイ、コマイ、アブラコがふんだんに釣れた。ロシア人は食べない魚らしい。刺身にして食べた。
  6月、サハリン。10月、色丹島にいったが、物がない、活気がない。
 11月に沿海州(ハバロフスク、ナホトカ、ウラジオストック)に行ったが、大陸だから道路、鉄道は良い。物はある。自由市場には金さえあれば何でもある。ウラジオストックには中国からの物資が入っている。ナホトカの領事館「日本のマスコミはオーバー」。
<レポ船体験の人は?>…昭和20年代に、利尻、礼文、道南の漁船が干上がって羅臼沖に来て(海に不案内なため)レポ船まがいのことをしたようだが、羅臼の人間は気は小さいから、ようしなかったと思う。
 今でも年に 1,2回拿捕されるが、昔と異なり、ビザなしで着物を届けることが出来た。<羅臼の若者は>…若者の定着率は良い。車の人口比では多い方だ。派手だ。
 結婚は地元同士が多く、しかも若年(男児25歳、女子20歳)。 4~ 6月の大安吉日、羅臼神社での挙式が多い。その後、漁協ホール公民館での披露宴。3500円。
 「四島には森林、鉱山、漁場など資源が豊か。開発しないで欲しい。元島民に優先権があるとは考えていない」

 ホテル・ウィングインに投宿。
 午後 7時半、みち花にて、中田千佳夫さん、武田信一さんに会う。
 中田千佳夫さんの話…豪州からの渡り鳥がトキシラズ(サケ)のはえ縄に掛かっている。道東、根室市には剥製屋が多い。漁師さんが網に掛かった鳥を持ち込むからだ。アメリカのネイチャー誌に「刺し網やはえ縄で死ぬ鳥はホナの数より多い」とあった。私見だが千島全体をラムサール条約で網を掛けてもらえないか。この近辺でもカムチャッカに熊撃ちにいくという人がいる。
<人脈>
・国後のコムソモールのアレクセイ・ザジラコ(ラジザコ?)。光のメッセージの相手。
 サハリンのオーレクス・グーゼリ。コムソモール、光のメッセージの相手。
 「ナ-ルベージュ(国境にて)」の記者・ミランチェフ。
・通訳にUHBのポテトジャーナルの三浦エミリア(札幌市)
・北海道新聞、和田トシマサ。
・毎日新聞、根室支局、本間氏。
・根室市、魚谷氏、ナオエ石油店。貝殻島のライトアップのメンバー。
・「むつごろう」氏。ジュンコ夫人。中標津 2-9939または3399。
<洋上交流>…年 2,3回やって 6回目になった。これには「ビザなし交流」の枠では来れない人、行けない人が参加する。「釣り」船交流と言っている。わきに海上保安庁が待機している。

1993,2,21(日)曇天。中標津にて。
 午前中、資料整理。
 午後 3時、松村康弘氏の会社でミーティング。中尾邦幸氏、中田氏、標津の疋田哲也氏と。ビデオを見せる。夕食後、松村康弘氏とさらに懇談する。

1993,2,22(月)小雪。中標津。夕方野付を経て根室市へ。
 午前10時、萬屋努氏と廣木建設にて会う。
 萬屋努氏のコメント…北方四島へのビザなし渡航については、92年の 7月のプレス週間あったので、それ以外の渡航は困難だろう。経費の点、ピースボートのグループが「四島案内」の地図を作りに訪れたが、二人で 6日間に島内旅費込みで80万円かかった。
 但し、ビザなし渡航の枠は総体では拡がっている。総務庁と外務省の予算が今年から付いた。日本からの子供の交流が目玉だ。船中泊、キャンプ、ホームステイなど。
 島では交通手段にアメリカから大型ヘリを入れた。さらに各島ごとに通関できるようにしたがっている。
 航行時間は、花咲港~国後島… 6時間。国後~色丹島・穴間… 4時間。色丹島~択捉島…12時間。国後~択捉島…11時間。潮の関係で差が在る。 四島の最近の変化…ロシアが島民に北方四島についての教育、宣伝を一切していなかったことがはっきりロシア島民にも分かったこと。
 サハリンもそうだが、四島には大陸からの出稼ぎが奨励されてきた。ウクライナ人は帰国したがっているが、引っ越しのコンテナがないので帰るに帰れないでいるのが実態。
 色丹島の漁業コンビナートが原料、電力不足で困っている。
 羅臼のスケトウ漁が不漁で悩んでいるが、これを沖取りしているトロール船は四島の船ではない。魚は四島には揚がらない。ソ連時代も島にはメリットが少なかった。缶詰製品は本国に送られた。いま、島での自立には魚を自分たちで売り、島のインフラ整備に使いたい。それが島の変革の時期だろう。
 私見だが、まず主権の問題を確定せよ。友好の問題だけでは、突っ込んだ援助もできない。米・ソの冷戦は終わった今日、ロシアが四島を持つ利便が薄れてきた。
 領土問題は国家間の問題で両政府の間で確定していくことだ。だがロシアは広いし、いろいろな国境問題を抱えている。モスクワ周辺ではヨーロッパの領土問題しか考えていないし、あまり真剣じゃない。ロシア政府に四島の認識をしっかり持ってもらうためにもロシア島民と元島民の触れ合いは間違いではなかった。その中でどう世論作りをしていくか。自分は返還運動の視点に立ったものでなくては協力できない。
 根室市の返還運動を見る場合、元島民が今、何で食っているかを見るといい。その違いが意見の違いになって現れている。花咲港のカニ船が国後島から来ていることは皆が知っている。資源の枯渇を憂いてはがゆがっている。このカニの問題を突っ込むと返還運動の奥が見えてくる。合法的な合弁だが完全な密漁だ。領土問題が未解決のために起きている。「昔、レポ船、今、合弁」が密輸の形だ。中標津の人間だから見えるし言えもする。
 合弁企業のやり方を見ているとまさに「死の商人」だ。
 島の見方。
 ジャーナリストは四島の自然を称えるが、知床、阿寒の自然を見ずに言っている。森林資源は荒らされている。彼等の住宅の作り方は、自分が建設屋だから一目で「木をふんだんにつかった建て方だ」と分かる。アパートはインチで組み材料を浪費するやり方だ。森林の木をきってもあとに植林をしていない。だから川も荒れている。
 日本でも元島民の漁業権その他の未解決の問題があるが、私は今それを前面にだすことは、返還運動の妨げになる、金欲しさに運動をやっているのかと見られるから、と言っている。
 今回の番組に協力するが、立場上、違法まですることは出来ない。自分の意見はサハリンでも述べた(そのコピーあり)が、フィヨドロフ知事が評価していた。

 午後 1時、北海道サケ・マスふ化場根室支場。技術専門官・稲垣和典氏に話を聞く。
 標津川河口より 4,5kmの所で捕漁。陸送して中標津事業場へ。
 採卵後、稚魚は真っ暗な所で 0,5gくらいまで飼育(この間、撮影出来ない)
 標津ふ化場では 5月末~ 6月(サクラマス、カラフトマス)。時期を変えることによって回帰率を高める。羅臼での放流は 5月末~ 6月上旬。ただし前浜の水温が 5,6度以上であること。 4度では動物性プランクトンが発生しない。
 去年はサケ・マスの回帰が根室海峡では悪かったが網走、ウトロ方面では良かった。
 人工ふ化は90%以上、10%以下の天然は溯上する場がない。
 溯上の時期は太平洋系はサケ( 9月中旬~12月まで)、カラフトマス( 9月一杯)。
 回帰するサケは4000万匹がいいのか、3000万匹が妥当か。北方系のサケをどれだけにするというラインはまだ無い。
 ふ化の状況を撮影したい場合は札幌本場(tel 011-822-2131)管理課に申し出る事。
 サケ・マスは、その95%が定置網に、 5%が溯上する。これは漁民への経済効果を考慮した「北海道海面漁業法」の施策の結果。

 午後 4時、別海町、野付漁協に宮越充氏にあう。
 宮越充氏のレクチャー
 平成 4年は事業計画を達成出来なかった。ここ数年流氷がない。栄養塩が不足か。
・ホタテ…流氷が来ず、栄養失調で肉質劣る。全道で36,5万トン、プラスむつ湾分で合計40万トンで供給過剰になった。
 前年度のホタテ貝の単価 361円で総額59,5億円、本年度は単価 246円で総額39,14億円で20億円減になった。来年度の見込み単価は 200円とさらに落込むだろう。
・秋サケ…前年度は10000t(30,4億円)だったものが、本年は目標7000tに対し、5500t(31億円)。かように「育てる漁業」ですら、努力しても計画通りにはいかなかった。

<漁期> 野付湾の干満差 1,5m。
  1~ 3月、ホタテのみのケタ網船。
  4月末~ 5月 越冬貝(1等貝の地撒き分?)。稚貝は室蘭や有珠から買う。
  5月~ 6月,ウニ漁業にも参加(場所によっては 3月にも)。
  5月~ 7月,ウニのケタ網漁業…10トン未満の船で根室沖に日帰り。( 3月から出る) 6月中旬~7月末、10月一杯…うたせ網(帆船)一人で。採るエビは 8,5cm以上(網目で調整、稚エビが網の目から漏れるのが水中撮影で見えるはず)。網の袋部はチョンマゲ方式、ファスナーで網の口を開く。
  7月10(?)日~ 8月10日、ケタでホタテの生産を上げる。個人所有のケタ船をチャーターし、成貝を取る。取る場所は 4か所に区分、順々に取る。沖合で16隻操業。
  4月~ 7月半ば、 9月~11月…アサリ漁( 7月半ば~ 8月は禁漁)。漁師40人、日雇いの母さんたち25人による手掘り。
 11月末~12月中旬、ホタテ(当年貝)の外洋地撒き。

 去年から 8単協はロシアと協定、三角水域でのカニ、タラなどの「調査事業」をしつつ、水揚げして収入を得、ロシアの調査料金を払っている。カニは水揚げの30%、タラ(はえ縄)などは15%。去年はカニ90トン( 2億2500万円)だった。この調査事業を継続しつつ、北方四島の資源を含めた共同管理の仕組みが作られなければ、道東の「育てる漁業」も安定したものにならない。(昭和48年までは島から 3カイリのところまでいけた。ウニは四島に近いところほど豊かだ。だから最近も越境事件を起こしてしまった)>
 北海シマエビは総量25,610トン、金額 7,535,480円だった。
 ホタテも希少価値のある、質の高いものにし、単価を 350~360円位にしたい。
 ただし、単に生産を上げ、経済的な面だけを追及してはキリがない。生産もほどほどにし、心豊かな暮しを守るのも漁協の役割。
 保育所、老後の福祉施設、生涯教育としての「野付漁業大学」。「嫁さんの来る町」であり、税金を治める能力は別海町一。ここ尾岱沼に別海町役場の支所を作る計画だ。尾岱沼は本町、西春別(自衛隊)についで第3の町だから。
 一軒当りの年収は1000万円~1500万円。年齢構成は30~40代が77,6%を占める。今後は二、三男対策も必要。
 収入のバランスを保つため、1点当りの配分金を決め、各人の持ち点でかける。
 平成 4年の場合、(配分金)26300円×(持ち点) 100点= 263万円となる。
 加工業・冷凍工場などは 6軒、高校卒が就職する。パートの女性は足りないから近隣から来てもらっている。組合の加工工場は30~40人規模( 7,8割はよそから)。
 ホタテ貝(玉冷凍、生玉、缶詰の委託)、秋サケ(フレーク、スジコの塩、醤油味付け)、エビ、ホッキ、アサリ、ホヤ(塩干し)などの付加価値を付けて物販したい。そのための物産館の建設(当初より縮小されたが)が決まった。

  収入の均等化の方向…点数制。
 平成 4年…1点あたり配分 26,300円。 100点満点で 260万円。総利益の80%は全組合員に、20%は組合収入にしている。
 組合員1軒当り平均、水揚げ2500万円。経費を差し引き、所得(1000万~1500万円)>
 男子の労働力は道全体の「老齢化」のなかでは若いし後継者には事欠かない。
 20代… 6名、30代…61名、40代…75名(以上77,6%)、50代…76名、60代…42名、70代以上…13名。計273名。(元組合員の会、全58名)

 魚付き林のため 240ヘクタールを購入、婦人部が植林している。植林の時期は 5月から6月。ふ化場のある春別川の周辺を守るため。この試みは常呂、サロマ湖のほうが早い。
 夜、朝日新聞根室支局小泉氏に連絡。明日のカニ船は来ないとのこと。

1993,2,23(火)雪
 午前10時、朝日新聞支局小泉氏を訪問。
 松井氏、合流。
 午後 2時半から松井氏と細目の打ち合わせ。
 夕方、松村氏、ホテルにくる。28日の標津の横路知事の来訪にあわせて合流の打ち合わせ。

1993,2,24(水)小雪
 午前中、今後の演出アプロ-チ方法について打ち合わせ。午後、荷物整理等。 3時より 根室漁協にて、理事木根繁氏(色丹島出身)にあう。サケ・マス中型船の船主である。
 ー今年は「日ロ合弁元年」。これを継続するにはガラス張りにし、信頼されることが大切。ロシアの資源を利用するゆえ、GIVE&TAKEが必要。
 サケ・マス全船にロシア側監視員。去年、19t船は 6隻参加。これには道の監視船がついた。木根氏の中型船 127t1隻。
  5月~ 6月 サケ・マス
  7月~ 8月半ば 公海でのイカ流し網
  8月半ば~11月 サンマ漁棒受網(裏作)
 ピレンガ合同(サハリン)…日本側「北洋水産合同」=全鮭連。この傘下で請負契約。操業区域・日時・監視員などすべて指定を受ける。
  5月中旬~ 7月中旬までに 3航海に出る。1回20~25日位。花咲港からは33隻(富山、石川のも)。厚岸からは10隻、釧路からは19隻、計60隻のうち、総指揮船があり、これに同乗可能かもしれない。
  インサルタットのTEL(どこへでも通話可能)。設備費1000~ 2000万円。
 減船の推移…全鮭連を組織した頃は 400隻、合弁前は 117隻、現在60隻。
 減船の方法。1)完全にやめる。2)2,3人で1隻減らす。(この際、ポーカーのように、相互に金を積んで決する)。「辞めるも地獄、残るも地獄」。
 使われない船はスクラップ(減船補償あり)。広島で潰したり、バーナーで切り刻む。「見ていたら涙が出る」。
 サケ・マス合弁の時の減船補償金ー上限1隻3000万円。(かつては国とトモ補償で5000  万円から6000万円になった)
 アカイカ流しをやめる時の減船補償金ー上限1隻1000万円。サケ・マスの網で出来た。
 (ここ三年位の実績を調べられているから飲む。「放っておいても辞める」)。
 遠洋を辞めて沿岸漁業に参入したくも、沿岸は過密で、二、三男ですら入れない。

 ロシアからのカニは去年、相当入り、6000円/kgから3000円/kgに暴落し、日本のカニも安くなった。もうカムチャッカかサハリン周辺にしかカニは居なくなるのでは。

 設備ー1)GPS走りながら位置や航跡を確認でき、自分の籠の位置をインプットできる。かつては 100万~ 200万円したが、今は20~30万円。
 2)レーダーは 2,3台供える…近距離用・遠距離用・スペア用。
 3)その他。… GPSはジャイロコンパス・レーダーとも連動。自分の位置が分かり、プリンター機能もあるNNSS(10年前空)とも一部連動している。
 かつては甲板長が漁撈長になったが、今は通信長がなるケースが多くなった。

 午後 1時より根室信用金庫理事長大畑繁雄氏にあう。
 1990年、相互主義から脱出し、総領事夫妻が根室で除幕式に出席。同年、ロシア漁船の入港を認め、カニ船 7隻入港。91年度、78隻。92年度 460~ 470隻。
 領土問題の風化…文化の違う相手と、出来るだけ接触することによって解決されていく。根室管内の漁業生産は 900億円(昨年は 800億円)>
1)育てる漁業ー知れている。
2)買う漁業ー(極東、アラスカ、カナダ、ロシアから)…われわれの最も必要なもの。3)獲る漁業(合弁・資源の調査)ー付加価値を高める。
 根室は今後、日米加ロによる調整の中で生かしていくほかない。ロシアのカニ運搬船からの去年の輸入(カニ、ウニ、貝類)は20億円。
 羅臼のスケトウ漁は 3,4年前には 220~230億円の水揚げがあったものの、 4年前からロシアのトロール船も操業を始め、去年は前年の45%に、今年は去年の半分になった。
 根室に流氷が来なくなって 5年目、海が変わり、ホタテ貝も痩せた。この現象は今後も続く。毛ガニは戦前は食べるものではなく、魚粕の材料だった。いまは高値だが。
 海は長い周期で変わることもある。昭和30~40年代にはイカが捕れていたが、一時姿を消し、最近また捕れるようになったのもこの例。しかし流氷が来ないと、雑藻が繁茂し、それに負けて正コンブが育たない。今まで流氷が岩を洗い、雑藻を削っていたからよかったが。地球の温暖化で、ここは北風が少なく、西風が多くなる。
 スケトウ不漁で羅臼名物のオジロワシ、オオワシが根室のほうに飛翔してくるようになった。
 「コスト」「減価償却」という言葉はロシア語にはなく、自由主義経済に馴染むまでは、各国に魚介類を売るしか生活する術がない。
 戦後、引揚げ者は空いている所(野付、標津、羅臼)に入っていった。
 人物紹介を受ける。
 落石漁協…浜谷久組合長。浜屋満・浜屋水産社長(個人としては全国一)。
 歯舞漁協…織田常務、松永参事(市議・コンブ店も経営)。
      板沢組合長、温厚で毎年モスクワに貝殻島でのコンブ交渉に行く。
 温根元…ほんだ清一さんは世話好きな漁師。
 根室漁協…松沢マサオ組合長(いわば全国区)。サケ・マス船を持っている。
 湾中漁協…沿岸漁業(ホタテ、ホッキ、アサリ)。沖ではカレイ、サケ・マスも。
      高橋組合長(若いが生産額を増やしている)。
 (片言のロシア語を話す人)
 飯作鶴幸…元国後島民。漁協外でカニを輸入。去年、サハ リンにレストラン「湖」を      開店。かつて、何度も拿捕されるうちにロシア語を身につけ た。
 田中勝蔵… 150t船所有。合弁で深海漁業を営み、クロガレイをとる。調査操業にも。 石田さん…歯舞漁業。大きな船を所有。大声でロシア語の片言。
 昭和52年の 200カイリ以降、毎年減船、海域を狭められている。残ったのは合弁企業。その他、南太平洋、アメリカ沿岸、大概は千島列島へも。毎年、根室市の人口は 500~600人減っている。
 根室における加工業。
   根室水産協会会長・斎藤幸雄(共立貿易)買う漁業へ。
   その他のグループ(コマイなどを扱うが規模は小さい)。
1993,2,25(木)晴れ
 午前10時半より別海町役場にて佐野力三町長にあう。
 4,5年、流氷来ず。2月に野付からワイングラスにみえる朝日あり。全国三千何百町で元島民(国後)町長は自分のみ。S20の 8月~12月(小五)にロシア人と混住。しかしモスクワからの指令で脱出。父は残った日本人の代表として食料を求めたために、罪人としてシベリア送り。S30, 12月、日ソ共同宣言により帰国。東沸の出身。思い出は山、裏に池、基地など。
 昨年、ビザなしでポキ-ジン来訪。酪農を見て、教えてほしいと。ビザなし一便で来日し、二便、三便で帰国すれば一ヶ月位滞在可能、これに対し外務省は「弾力的に運用せよ、北海道の考えで良い。」別海町では15年前から中国人の研修を受け入れており、大きな酪農家では実習生を受け入れる家庭がたくさんある。宿泊費、食費は働くのが代価。初め小規模でも徐々に大きくしていく(前夏)。交流は日本人と暮らすまでつなげていく。横路知事も同じ考え。バタ-、牛乳ないに等しい。しかもモスクワからの供給なし。四島に牧畜コルホ-ズあるが、牛、 500~ 600頭位。人の行き来だけでは交流にならず、技術交流などで新しい世界が開ける。国の政策がありつつも、許容度一杯の交流とはなにか「北方領土隣接協議会」(略称、北隣協)で検討。1,酪農技術指導 2,子供達の交流 3,食料援助などが課題。国策として経済交流、貿易は駄目だが善意のプレゼントは良い。いわゆるバ-タ-取り引き的ではあるが、交換物として魚類、木材などが想定される。四島での漁業は日本の技術が入り、進んでおり、コマイ、カレイ、サケ、コマエ、マス、エビ、コンブ、カニが対象となろう。
 昨年12月、ポキ-ジン、テレシコら10名来日。根室で昼食会をし、本年のビザなしの打ち合わせをした。1,酪農 2,じゃがいもの種いもの提供 3,食料品、衣料品の提供などが話し合われる。(その結果?)拿捕はほとんどなくなった。
 本年 3/1より町内三ヶ所でロシア語講座開校。対象を小学六年以上にしたのは、大人より子供のほうが覚えがいいから。先生は千葉大学性のタマラさん。各所とも定員30名。四島は町造りできていず、人々は住んでいるだけ。しかし、ウクラライナから来た人が多く、今は二代目もおり、故郷と思う人もいる。返還されたら大陸に帰る人もいよう。渡辺外相装は1.主権は返還 2,施政権は日ロに及ぶ 3,中国式の特別区的な提案をしているが、ロシアは今でも「戦勝国」の意識を強烈に持っている。
 四島との交通路としては1,船の場合、野付と国後間が16kmと最短。今のところアクションは起こしていないが、貿易港の指定をを受ければ、町が助成して作った(漁協の?)指導船、野付丸や根室、野付間を孝行する観光船「ベニスランス号」を使うことも考えられる。2,空路の場合、中標津と国後間はYS機で20分の距離となる。
 昨年、四島の子供が二泊したが、泣きの涙で別れた。小中学生によって新しい価値観が生み出されてこよう。中学生の場合、ロシアの子供達は煙草を吸うのが問題だが。ロシア民族は基本的には人なつっこい。
 別海より根室に戻る途中、別海町奥行にて停車跡を訪ねる。午後 2時よりホテルにて竹村氏と会う。
『されど海』シナハン日誌ー7(93,2,26 歯舞・ウニ種苗センター)

1993,2,26(金)快晴、納沙布より国後まで良く見える。
 午前 9時半、珸瑶瑁漁港に寄る。コンブ船のほかに見るべきものがない。
 午前10時、歯舞漁協に織田勝二氏を訪ねる、指導部養殖課の田塚不二男氏にビデオの水中撮影を見せて貰う。昼食をはさんで午後 2時まで話す。
 個人史的に…昭和30年に漁協に勤め30年余り。昭和38年から貝殻島のコンブを生活の糧にするため、漁民は拿捕を覚悟した。
 ここは昭和36年まで歯舞村。コンブへ強行出漁するかどうか、臨時総会で生死の意志決定の場面もあった。「おれだけは拿捕されない」という信念だけで、霧の中を手探りに出漁、ロシア船と衝突事故を起し、二人行方不明。翌朝、霧の中を救助にむかったが、ロシア取締船に救助された事が判明、ハバロフスク経由でシベリアへ過酷な労働を強いられた ひとびとも少なくなかった。
 昭和36年の夏休み、家事を手伝う高校生が貝殻島で拿捕された。
 大日本水産会の会長が納沙布の浜に立ち、ソ連に乗り込み談判。
 昭和51年までの14年間、貝殻島での操業が出来るようになる。
 昭和52年、ソ連から「専管水域」が設定され、再び「悲劇の海に」「強行出漁せず」との議決。代替え漁場の第2貝殻礁を作ってくれたが、成功せず、どん底に。
 昭和53年、ソ連共産党中央委員会は社会党訪ソ団(川村セイイチ参議団長、石田ヨシカズ事務局長)を招待、東京水産大広沢豊教授らとともに織田氏も指導部長として参加。ソ連の窓口はスースロフ。モスクワーレニングラード-エストニアーハバロフスクーウラジオストックの旅となる。
 国際局ウィリアムスキー副局長に貝殻島出漁再開を願う。
 昭和56年、大日本水産会などの協力を得て、「平和の海」をとり戻すことができ、現在に至る。しかし、次第に対ロとの流れから、漁獲量の減、減船により北洋の灯は消えた。
 200カイリに残りたい19t船、イカの大型船も無理な操業から、多大な設備投資をした遠洋、そして沖合から沿岸へと撤退せざるを得なくなった。栽培漁業としては、根室市、国の援助によってウニの種苗センターを作り、市内の四単協が協力し、沿岸漁業の再生を企てている。また野付を含む五単協でホタテ貝の漁場つくりもしているが、昨年は全道的な過剰生産に加え、貝毒などの問題を抱え、価格は下落した。今年も採算が合うのか疑問。そのため、攻めの姿勢で漁民に展望が拓けることを目標にしている。その骨組みが健全化、合理化である。
 歯舞は昭和35年春までは陸の孤島だった。氷と霧に閉ざされる冬は米、石炭、薪を蓄えての穴ぐら生活だった。漁協が組合員に助成金を出す際には、要望の1/2,1/3に査定していくしかなかった。別海町西別生まれの氏は、故郷の親戚にデンプンを貰いに行ったこともある。歯舞は厳しく淋しい土地であった。氏は水産学校卒業後、組合の経理で 2年過ごし、昭和33年に飼料部へ配属さる。その後休職し、漁協の基礎を学び、31年間勤めているが、そのうち17年間は指導事業である。ホタテ、サケなどの密漁対策、レポ船対策など大変な道のりであった。
 マイカ(スルメイカ)の変遷。
 昭和40~45年は大量収穫。とくに昭和42年に出来た冷凍工場でも処理できないほどの量が水揚げされる。しかし、昭和47年、イカが姿を消し、その20年後に再び現れた。
 秋ザケは去年の3800万トンから、本年2700万トンと約1000万トンの減産。
 氏は昭和47年に冷凍部から指導部に戻り、組合員間の貧富の差を是正するため、漁業調整の政策に着手。昭和47~48年に漁業調整の骨子を作り、昭和49年には漁業調整を制定し、実施。
 秋サケ定置網の漁業権は組合が持っていたが、定置網は山師もんだった。彼等が成功してきた時に全漁民に解放を迫るのは難関であった。漁業権管理委員会でこれを克服。
 秋サケの定置網に全員参加でき、所得の格差を是正し、漁業権の公平が実現した。現在も 593名全員が参画している。しかし、本年、歯舞で秋サケは前年比40%減。資源管理は充分しているが、天然(別種の)資源が出現しない。2,3月の秋サケは一人100万円位の水揚げで冬の貴重な収入源であったが、いまや一人50~60万円で、不安定な漁業となった。これをウニの種苗センターでカバーしたい。
 冬の期間、歯舞では 300人が出稼ぎに行き、一冬平均 200万円の収入が 100万円に落込んでいる。うち50~ 100人が羅臼のスケトウ漁に行き、好調時には月50~70万円の収入だったが、今年は最低保証の30万円/月となった。「羅臼は不漁なら歯舞も風邪をひく」。
 歯舞はソ連との海峡で耐えた。北方領土への思いは他の地区には分からない。しかし、管内 8単協は互いに協調しあっていかなくてはならない。
 貝殻島のコンブが無くなれば、浜中町は(自分たちのコンブの値打ちが上り)喜ぶかもしれないが、それでは相互扶助の良さを潰す。隣村のために尽くせるものは協力したい。
 コンブ漁場の荒廃は進んでいる。対応策として砕石を入れたり、爆破による雑藻駆除を試みたが、漁場が広いだけに人為的には限界がある。
 昭和63年から、ある土建業者による技術開発の案を今も続けている。一昨年、青森県で実験された噴射型の雑藻駆除がそれである。去年の12月、歯舞でも実験、予想以上の成果があった。
 本年2月23日に、道にも要望、編成事業のメニューにこの春から大々的に入れて貰うことになった。釧路のチリップでも実験をした。
 本格的実施の第1弾は、今年の 4,5月(凪の日に)、歯舞のコンブ漁場は 900ha、その半分がすでに荒廃していると見られる。「荒廃」とは雑藻が生えるだけでなく、岩石の表面に石灰層が付着している状態を言い、これらを噴射により、飛散せしめるものである。今回は行政の援助も仰ぐが、永続的にできるように、このための積立金も考えている。
  850人×1万円/年× 5年で5000万円。
 育てる漁業でなくては漁業は生きられない。北方領土は厳しい現実だが、「宝」である。その宝の資源が取り尽くされるのを見逃していいか。ソ連(四島)からのカニの輸入増により、カニの単価は去年の半額になった。四島の海は絶え得るのか。島を返せの運動を続けるのか。どのような取組みが必要なのか。 8単協で 100人委員会(21名の幹事会)で、13の課題を検討中(詳しくは根室市商工会議所、大山専務に)。
 北海道には 130の沿岸漁協があるが、その内、赤字組合が91年度には20,92年度にはその倍となる。
 主な不漁魚種は秋サケ(水揚げ92年18億、今年10億弱)。ホタテ(水揚げ92年 2億3000万円、今年8000万円)、イワシ(これは一昨年の1/5)。そして水試によれば、後続して捕れるものはないとのこと。 8単協は三角水域で調査事業をしているが、これは等域での漁業を構築するための前哨戦でもある。
 昨年、大矢市長がセベロクリリスクを訪問。課題を投げ掛け合い、本年 3月 3日~ 8日セベロクリリスクからの訪問団が来根。実務担当者で話しあうが、その中に19トン船の転換策も考える。
 貝殻島のナガコンブ…サオマイ(成熟する前の間引き)は新芽で柔らかく、全国的に歓迎されている。この根を絶たれると生活できない。ロシアの監視はたまに来るが、日本の指導船を通じてやっている。
 立派な港が出来た時に、船は無くなっていた。 100トン級の船が消えた。歯舞では82年の水揚げが 240億円だったものが、92年には 130億円。
 歯舞漁協スタッフ+古平(ふるびら)ダイビングサービスによるビデオ試写。長方形の鉄骨の床部に18本のノズルが付けられ、そこから 150気圧の海水が噴射される。
 コンブは 2年で刈り取られるが、駆除前の水深 3mくらいの海底には、長いコンブが、ホンダワラの中に隠れるように生育し、岩肌にはエゾ石ゴロモという石灰層がこびり着いている。ここに 2平米づつ 4,5秒ほど噴射すると、 6~7割が駆除される。これだけでも結構効果があるとの事。 5,6月には2000平米くらい試す。
 水深50~60mでのホタテの稚貝撒き( 5月)もビデオで見る。
 太平洋での養殖は初の試みで、 100万粒を放出、 4年後に収穫、成育率は20%見込み。植物性プランクトンを食べることから 5枚/平方mが適正な配置と見られるが、移動するため、途中で移植も必要。天敵はヒトデである。(海中でのウニの種苗の放流のビデオも)カメラを据えっぱなし(水深 4,5m)にし、 7,8mmのウニがホンダワラに着く。
 これまで15mmまで生育してからでないと、海中で育たないとの定説があったが、これでは効率が悪く、当漁協では 5mm以上あれば育つことを実証した。
 餌はケイ藻のウルベラで、まず種苗センターで 5mm以上に育ててから海に放流することになる。その第1回目の試みが91年 2月25日から 7,8mmのものを 240万粒を放出ん、本年 4,5月一杯にかけて25mm以上に育てたウニをダイバー 5人で 7か所にある海藻の陰に移植、95年に収穫することになる。
 去年、種苗センターでは、 5mmサイズのものを 670万粒。今年は1100万粒の計1800万粒を育てている。これを 4単協に配分するが、歯舞はその48%を得て、海中に放流している。
<そだてる漁業のさまざまな試みに加え、水中撮影し、編集し、字幕や音楽をつけるまで出来る態勢を作ったことに驚かされる>
 組合の体質を改善もし、現在80人体制。貯蓄運動は 5年間、全道一、貯金残高は全国一である。共済事業は42年の歴史をもつが、全国ではじめて生保 200億円に達した。
 昭和36年 6月17日、貝殻島へ出漁強行。その様を氏は納沙布からペンタックスで覗く。ロシアの監視船が漁船を追尾、水を浴びせる。当時の漁船の焼き玉エンジンの煙突に水が入ると、船は止まってしまう。拿捕保険もあったが、強制ではないので、入らない人もいて、そんな人に限って捕まった。この時の写真は竹村征三さんの妻、和江さんが持っている。拿捕された多田清さんはシベリアの石山で強制労働させられた。
 去年 500隻近いロシア船が寄港、沿岸は打撃を受ける。四島が返還された時、資源があるだろうか。一昨年、三角水域で調査事業。2000籠のうち1000くらいが無くなっていた。抗議したら 200籠が戻ってきた。
 いずれ国後、択捉は平和の島にし、21世紀のビジョンを以て市民が肉づけをする。人口減の現状からも混住は望ましい。根室高校にロシア語も。
 現在、長期も中期にい、中期を短期へと展望を前倒しにし、北方四島を第一歩にして実践すべき時、予算がないと大矢市長が言うなら、出来る人に変ってもらう。
去年、イルクーツクでの会議でロシア側「韓ロ協定は政府の問題」に対し、氏は「われわれの根っこの問題」と反論。モスクワ漁業委員会「第三国の操業の可能性あり。民営化したにせよ、国同士の秩序を持ってやる」。ロージン漁業省第一次官「基本的には自国で生産・加工し、余剰を輸出。95年まで第三国との合弁をやるが、これ以降やる場合はロシア国旗が必要」。
 日本の船を賃貸することは、ふ化場のように、ゆくゆくはロシアに買い取られてしまうことになるのでは。
 歯舞漁港の船溜りは温根元、ゴヨウマイ、歯舞、沖根婦(オキネップ)、友知の 5港。
 午後 2時、根室市ウニ種苗生産センターを倉又一成氏の案内で見る。
倉又一成氏の話
 エゾバフンウニは最高級品。産卵時期は 6~ 7月であるが、親ウニから卵と精子を海水で掛け合わす人工受精を行っている。まる1日でふ化し泳ぐが、 2~ 3月は浮遊している。ここでは水温を人工的に高め、 3週間でウニに変態するようにしている。餌のウルベラは元々アワビの養殖に使っていた餌を転用、これは 3,4月に準備する(藻・植物プランクトンの付いた板に 5mm厚さほど)。
 ウニが成長する過程での変化をとらえるのは10日目~21日目くらいにかけて 4腕、 6腕 8腕の頃。時期は 5,6月頃。
  5mm以上に成長したウニは、区画の海を決めるが、ねろっとした所や、隠れ易い小石の下などが適地。ここに 1年置くと 3cm位に成長する。さらに移植し、2年位すると 5cm以上になっている(受精後 4年)。
 同センターにあるスクリー型顕微鏡はNIKON V-12A。

 午後 3時過ぎ、花咲港に四島からのカニ船を見にいくが、来ていないらしい。かもめの大群に混じって、オオワシがいる。
 夕方よりワープロに集中する。

1993,2,27(土)快晴のち曇り。
 午前10時、落石漁協、板倉弘専務、大山清副組合長に会う。            
落石漁協、板倉弘専務
 記憶は定かでないが、 3才くらいの頃、水晶島から脱出し、根室にきたことをうっすらと覚えている。父は富山の岩尻から出稼ぎにきて釧路沖の鮪を追ううちに、水晶島のコンブと行き合った。引上げ者は現在 105名(当初は 150~ 160名) 2~ 3世はその 3~ 4倍いる。
 S52の 200カイリ法などによ遠洋はなくなるだろうと予測。当漁協が有する43kmの海岸線の有効利用を考えた際、「ここに行けばアイナメ、サンマがあるだろう。」等の長老の勘に頼るのでは不充分。そこで6000万円を投じ、海域調査をし、「漁場基本図」を作る。大きくは岩石、砂礫、砂と三つに区分され、ホタテ(S57~地撒き、昨年 117万粒)ホッキ(資源管理しっかりしている)ウニ、コンブの増移植をしている。ホタテ(またはコンブ)は歯舞と比べると数量少ないが、 800トンを生産。太平洋側はサケ、マスが主体であるが、規制があるため、一定量しか取れない。

大山清理事(T12生れ、70才)
 コンブ漁の基本は昔から伝えられたように、「土曜の丑の日から取る」ことを守ることにある。乱獲せず、根っこまで取らないことはいうまでもない。ゆえに減産もない。雑藻を少なくするには間引きが原則。ジェット噴射は周辺のカニなどの生き物にどういう影響を与えるか不明。コンブ漁は7/10~10月いっぱい。「空き缶、網は海に投げるな。持っていったものは持って帰ってこい。」昔はむしろ、ロ-プで腐ったが、今はビニ-ル、缶で腐らず。ウニ船は去年19隻だったが今年14隻に。潜水夫が11月~12月に収穫。種苗センタ-のものは 3,4年後、故に今は天然ものが 100%である。

<漁期>
 サケ、マス 3月、前浜での割り当てはロシアとの協定により 340kg  5~ 6月、合弁
 秋サケ(定置) 9~11月上旬
 タラ 周年(ただし前浜は 5~7月と11月)
 イカ 8~11月頃
 カレイ 周年
 コマイ 5月
 カゴ 4~5月と 9~10月
 チカ 秋冬
 花咲ガニ 8,9月
 毛ガニ 3,4月
 ホッキ 3,4月
 ウニ 11, 12月
 コンブ 7~11/10
 イワシ、サンマ 7~ 9月(釧路にいる)、 200カイリ関係なし、中型の場合、四日で帰港。漁場近い所は夕方に出て朝に帰港*巻き網の権利は組合長がもつ

 ユルリ島(五万坪)…昔、四島からの引き揚げ者が夏だけ住んで、コンブ漁をした。その面影も若干残っており、川や水もあり。当時、馬でコンブを運んでいたが、野生化し、荒くれとなった種馬一頭がいる。高山植物があり、時々、釣人も上がる。島周辺ではウニも採れるし、網も四ヶ統あり。七つ岩が南に見える。ここには神社もあって、高田嘉平が津波の後、御神体を択捉へ移した。(?)ここはエゾピリカ、ゼニガタアザラシの生息地でもある。なお、ここでの撮影は根室市の許可が必要。島へは漁協の指導船( 5トン)をつかっても良い。月に一回、島の灯台にいく。秋の風景がきれい。浜松の岬からの光景も最高。
 現在、大型船はタラ漁のため、花咲港に行っている。当漁協の保有船は 401隻。内訳は 100トン以上25隻、20(?)~ 100トン 2隻、10~20トン27隻、 5~10トン18隻、 3~ 5トン88隻、 3トン未満13隻、船外機 228隻。組合員(正) 207人、(準)13人となっている。漁業調整は各組合同様 9月位に見直す。総水揚げが、78,6億円.コンブとホッキだけで一千万漁家を築くのが理想。
 ホッキの資源管理は1,許容量の調査、2,グル-プ分けで集団操業することにより、「果実」の平等配分を目指す。(例)ここに 200トンのホッキがあるとして、40%採っても再生産が可能なら80トンのホッキを23グル-プで均等割りして採るようにする。
 サケ、マス減船の推移、S34~35年に70%になり、S47~48年に40%になり、サケ、マス用の船は現在16隻。減船はスクラップになる。
 流氷は 7,8年前まで来ていた(かっては釧路までも)。それにより雑藻も適度に除去され、二年藻のコンブを収穫し得ていた。                      
 午後 1時、松井君と山邨君、会食。あとで土本、合流する。
 午後 3時、山邨君、稲葉君は湾中漁協へ。土本、ホテルで資料整理。

 根室湾中部漁協組合長、高橋敏二氏
 ´60(?)まで三角水域、国後水域を漁場としていたが、そこから締め出され、魚種が亡くなった。ホタテの養殖は野付の前浜二ヶ所、根室の前浜一か所で一年中行っている。海明け早々にはカレイの刺し網、ウニのケタビキをし、サケ、マスは 5~6月。 8~11月んはイカ、サンマ、貝類(アサリ、ホッキ)は 4月 7日解禁で 6月いっぱいまでと 9月にも収穫。八単協の中でも湾中の特徴はホッキ(潮を吹く)の手掘りにある。干潮のとき、瀬を叩いていくと穴があいて、ホッキが出てくる。ここほどホッキにいい適地は道東にはない。ホッキは資源管理されており、一人23日(?)、 1トンを限度としているが、他の漁に出て採らない人もおり、残ったものは来年採取することになる。
 道、国の予算で漁場(ホッキ用)の造成も行う。収穫は手掘りの他、ケタビキでも行うが、前者のほうが趣がある。一般市民も潮干狩りにきて、楽しみながら資源を大切にしてもらう。去年、ホタテは低迷したが組合員の年収は大体安定し、1000万~1500万食らいになっている。3/1からは毛ガニの試験操業、 9~11月は花咲ガニを採る。
 
 若松義則総務部長
 ここは干潮時の干潟面積が広い。ホッキの漁法は漁船によるケタビキと手掘りの二種。ホッキにはクワ、アサリには熊手を使い、組合員 2名が一組。兄弟、夫婦でやることもあり。採取時間は明治期より、干潮で瀬が出て、潮が満ちてくるまでの間。潟に藻がはいって根を張り、かたくなってしまうことあり。これを除去して柔らかい潟にするために、トラクタ-で、耕運するが、時期は潮が一番引く 5,6月か 9月である。

 午後 5時、標津の「まちづくりフォ-ラムin標津」に向かう。主な行事は終わっており、あと飲み会とのこと。中標津に泊まる。    
1993,2,28(日)晴れのち小雪
 午前中、宿にてミーティング。構成についての検討を行う。
 昼食後、「まちづくりフォーラム in標津」会場へ。シンポジュームを聞く。主題は「北方四島との交流を考える」だけに焦点を絞ったパネラーの発言があった。
 ・標津・大圃(おおはた)氏…不法占拠の島を帰してほしい。洋上交流したが、島からの船は「環境調査船」だった。今後、相互乗り入れの交流の実現を目指したい。横路知事には、沿岸漁業の低迷の時期、北海道独自の外交を、実りある四島訪問に期待する。
 ・羅臼・川村氏…羅臼は漁業で成り立っている。当初は国後の 3マイルまでの操業ができたが、 200カイリ以後は中間ラインを越えてはいけなくなった。国後にいた元島民は多く、まさに望郷の島である。
 この数年、その海峡にロシアの1000トン級のトロール船が10隻~20隻はいってスケトウ漁をした。そのためドル箱のスケトウは去年は一昨年の1/3,今年はさらにその1/3に減った。横路知事より数年前に「魚がさらに取れなくなる」と警告されていたがまさに当たった。漁民には中間ラインを越えての操業を認めて欲しいとの意見が芽生えている。
 自分としては経済交流より文化交流のほうが早くできると思う。
 ・中標津・松村氏…問題をつねにグローバルな視点から考えていきたい。地域分法の解決にあたって、地域住民が話合うということは画期的な事例だ。洋上交流には誰でも参加してほしいが、金儲けの事を考える人には遠慮願いたい。まずロシア人との間に相互信頼を作ること。日本が真に多民族国家になるように運動を進めたい。
 ・別海・宮越氏…まず返還を認めないと進展は難しい。日本の主権を認めれば、もっと交流ができる。四島が戻ることに直接のメリットは考えないほうがいい。価値観の共有を目指したい。
 ・根室・滑川氏…1931年の米国人リンドバーグの水上機の着水を記念しイベントを組んだ。自由渡航は願うが「信号は青でなければ渡れない」の気持で時間をかけたい。

 荒井信雄のコメント。
 1991年のゴルバチョフ大統領の来日により「領土問題に未解決の問題がある(択捉島、国後島を含め)」との共同宣言がでるまでは、いわば「黒の時代」だった。その後には「白の時代」が来ると思った。だが黒の時代が終わっても、白の時代は始まらず、灰色の時代になった。だから灰色の時代の知恵が要る。その知恵が出し尽くされていないのが現状だ。ビザなし渡航は成果があった。交流することで相手が見えてきた事だ。相手の情報が見えてきた。
 一年間で物価が26倍、生活水準は半分、このことは北方四島でも言える。
 例えば、東洋一といわれる色丹島の缶詰工場は49%しか操業出来ていない。四島周辺は豊かな漁場で、70万トン以上の水揚げがあるが、その 5%のみ島内の水産加工工場で加工。後の95%が島外に持出され花咲港に来ている(カニ船など)。四島周辺の豊かな資源が島民の生活にはねかえらない。
 ロシア全体の漁獲量が1985年には1100万トンだったのが、92年には半減以下の 500万トンに、しかも輸出は 4倍の 250万トンになり、この何年かの内に 4倍になる。そのためロシアの国内の消費に向けられるボリュームは 7年前の1/4になってしまった。ゆっくりと市場経済、自由経済に移行するはずだったロシアの経済は不時着状態。
 こうしたロシアの事情が見えてきた。
 ビザなし交流で四島住民は目と鼻の先のこちら側日本の漁業、酪農の進歩を見た。同じカニが自国の 4倍の値段だ。自分たちは困っているがモスクワは助けてくれない。自力で生活向上を目指しており、日本の手助けを期待している。政経不可分の原則で経済交流を断ると、彼等のフラストレーションは溜まる一方だ。
 今、合弁企業をこれ以上作っても漁獲割当てはもう何処にもない。サハリン州の水産輸出の40%が合弁企業を通じ、日本に運ばれた。地元のコルホーズは少しも良い目をみていない。
 この1月のプラウダに載った投書によれば、極東ではこの 1年で漁船の燃費が 300倍に、魚の卸値が80~90倍になったが給料は30倍になったに過ぎないという。この窮状の中で元気のいいのは合弁企業だけだ。最近、モスクワでは「元気のよい」合弁企業に対する規制が始まっている。「良い合弁」(地元還元)と「悪い合弁」(還元なし)とを区別しようという動きがある。
 こうした事から、つねに新しい情報で考えていかなけばならない。それを基に討論を進めて欲しい。
 …最近、九州・山口を歩いた。それらの地域が韓国、中国と経済交流を初めている。大企業のそれだけではなく、地域が国境を越えている。ここが「国境」だったら話は簡単だが、「中間ライン」であることが悩みだ。カムチャッカには釧路、斜里の人が出向いている。
 この1,2年の間にロシアではかつてのコサックが復活した。彼等は民族主義の流れから択捉島に集団移住し、領土を死守するといったが、択捉島民の反対署名の手紙がこちらにも届いた。「コサックが最後の血の一滴まで」というが、われわれはこの問題は「一滴の血も流さないで解決したい」と思っている。だから来て欲しくないという。こういう人たちとは心を開いて話し合えるだろう。
 …千島の環境調査について2,3年前、朝日新聞が「生物・環境調査」を計画、これに金をだし、東海大が調査船を出し、ロシア側からは科学アカデミー極東支部が参加し共同で、という話もあったが、話が大きくなった段階で外務省から延期の要請があった。
 スポンサーと専門家の積極性で突破、またはロシア側の独自の調査を、取材し資料提供を求めるといった方向があるだろう。いずれにしてもデータを掴んで討論しなければならない。
 四島の返還は確かに前提だ。しかし最終的な返還を前提として、日本が基盤整備(インフラ整備)を始めるなど、島のひとびとを刺激することは避けるべきだ。島には「島を返したくない」という人がいるということを忘れないように。国境があり、文化、歴史、言葉が違うことを認識し、国内での議論と島へのそれとを区別すべきだ。
 言葉の壁の打破が語られているが、サハリンで今、総合大学になろうとしているユージノサハリンスク教育大東洋学科への留学を考えるのもいいだろう。ロシア語の勉強をし、学費、下宿代すべてで 1年間8000ドル( 120万円)だ。安いと思う。
 横路知事のコメント
 かつては東京はモスクワ、あるいは共産党中委だけ見ていれば話は済んだ。ゴルバチョフのペレストロイカ以後もそういう時期はあったが、民主化は進んだ。四島島民やサハリンのことを考えるようになったのはソ連の方が先だ。90年,6月サハリン訪問、この時、同年1,2月に行われたロシアの世論調査の結果資料をもらう。極東では漁業関係者が返還に反対している。モスクワの政府部内でも漁業と軍部が反対している。ビザなし渡航でロシア人島民は日本の繁栄にショックを受けて帰った。色丹島などのひとびとは日本の主権下で生きても良いと考えている。とくに北海道との交流熱が高まっているのは確かだ。エリツィン大統領の方針で外国との経済交流への優遇策がでたが、日本は政経不可分ほ原則で物事が進んでいない。だがオーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、韓国などは関心をもっている。外国資本をバックにした動きもある。
 昨年末の島の代表者との会談の席で出た要望…日本語の教師、教科書がほしい。日本語教育のためにTVで日本語講座をやってほしい。ロシア語のニュース番組や天気予報もどうかという。私は日本語の教師を送ってはと思う。政府に建て前があっても、その中で知恵は出せる。領土問題のための交流は進めるべき。
 漁業調査、資源調査が日ロ合同委員会で極東(  )を持つことにしている。
 漁業問題について中央の管理が強まりつつあるようだ。
 北海道に入ったロシア船は91年、1000隻、92年、2800隻、来た人数は根室に7000人、稚内に 15000人、全道で 4万人に上っている。
 …今ビザなし渡航は限られているが、子供の交流などの枠は拡げたい。オジロワシやオロロン鳥の共同調査や道立高校にロシア課程を作ることはやっている。
 今年の島の訪問の際は公共施設、港、ホテルのことも話して来たいし、ホームステイも希望している。

 午後 4時、リーダー会議を傍聴。
 1市 4町の地域リーダーに人材が豊富だ。「北方四島は日ロの共同の国家にして、特別の言葉を作ったらいい」という意見もあった。
 後、知事に挨拶。名前を知っておられ、名刺を交換。あとは秘書の棟方氏に諸事を頼むようにと、引き受け方を指示。山邨君も秘書氏と面通しする。改めて道庁に撮影項目、要望、希望日時を連絡するむね求められる。
 夕刻、ここで朝日新聞の小泉記者を別れる。かれは羅臼に行き、いぶき太鼓のグループなど、地域のネットワークの連載の取材に行くという。たまたま読売新聞の根室通信員恒次徹氏に紹介される。学生時代に水俣の実践学校に行き、水俣映画を見ており。是非話したいという。根室市に帰る。夜、ホテルに亜理子より電話。

『されど海』シナハン日誌-8

1993,3,1(月)小雪。
 午前10時、読売支局に恒次徹氏を訪ね、三角水域の調査船、レポ船など、多くの情報を頂く。
  8単協による調査事業は三角水域で行われ、 6~ 9月はカニカゴ、10~12月はタラ漁。サハリンの漁業規制局から監督官二名が同乗。調査船は根室港からの一隻で、去年は祥栄丸。責任者は「根室地区日ロ漁業協同組合協議会会長」の松沢根室漁協組合長。担当窓口は井上参事。今年は三年目になり、一回目はカニ、二回目からタラが加わっている。ロシアとの契約は北海道水産会がし、道水産部、釧路水試がバックアップしている。水揚げ時には根室市、釧路水試もチェックする。
 去年の報道週間以降、四島にはいったマスコミは、月刊朝日(島田雅彦)、世界(井出孫六)
 ロシア通としては飯作鶴幸氏(50代)。根室漁協所属、富樫衛氏(80位)。社会党系の友好親善協会理事長、北島しげる氏(根室漁協、北島漁業)タラはえ縄業者、北千島方面に詳しい。レポ船についてある程度しゃべるかも。浅井誠氏(光洋町在住)、飯作氏同様カニ輸入業者。ややマイナ-だがレポ船について。
 大手水産業者で釧路、稚内、根室にベ-スを置く人にもロシア通多し。全鮭連副会長、大坂光明氏。レポ船のバイブルとして「忍従の海」読売新聞社刊。ここにはレポ船の親玉として故村井しげる、故石本の二大勢力があり、両者で7000隻の船を保有していたことなどが記されている。前記、浅井誠氏はその末裔に当たる。そのほか、伊藤宏氏は市内で喫茶店「季の実」を経営している。
 92年12月、モスクワ(?)で日ロ漁業委員会(日ソ漁業交渉)で国境警備隊に発砲許可を与えたことが伝えらえる。この委員会は東京、モスクワで交互開催されるが、 3月のサケ、マス交渉には関わらず。91年、92年はダリルイバが代表として割り当てを決めていたが、92年からモスクワの漁業委員会が割り当てを決めるように揺り戻された。これは日ロなどの合弁にも影響を与える。即ち、荒井氏の言を借りれば、「悪い合弁」が日本とサハリン間、「良い合弁」が日本とモスクワ間にも例えられるからだ。
 日高アイヌは秋辺氏。阿寒アイヌは豊岡氏。
 クナシリ、メナシ追悼の祭り… 8月ノサップの手前にあるノツカマップで行われ、釧路からアイヌの人々が来る。そのとりまとめは、釧路アイヌ文化懇話会の松本成美(しげみ)さん(63~ 4才) tel 0154-57-4367。
92年1,2月釧路で旧島民(箭波氏)とアイヌとの公開対話。アイヌ側は理論武装しており、箭波氏を圧倒。
 今年のビザなしは国主催のものがあり、総理府は現島民を東京や大阪にも招こうとしている。「返還運動をやってます」とアピ-ルするのが狙いのようだが、外務省は「不法占拠民になぜそこまでやるのか」と予算の争いを含めた縄張り争い化している。
 松竹は『寅さん、知床慕情』のロシア語版を作り、四島へのフィルム貸し出しを考えている。 モスクワから四島への調査団が入り、取材をし始める。
 午後。土本、ワープロ整理。

 午後 3時半、山邨・稲葉、歯舞漁協に織田氏を再訪。撮影の根拠地として特別の協力を要請する。三角水域での調査事業については北海道水産会(tel 011-271-5051 住所 中央区北 3西 4)の所司(ショジ)副会長を訪ねること。 100人委員会による13の課題の中間報告は商工会議所の大山専務に聞くこと。
 ビデオ水中撮影は松田裕司氏。(tel 0135-42-2405)、読売の恒次氏より聞いた富樫衛氏はS29年いっぱいまで、組合の常務、専務を歴任。S30道議(革新系)選に出馬し、退任。歯舞の歴史を語るにふさわしい長老とのこと。
 尚、貝殻島のコンブ漁の撮影にはロシア大使官又は領事館の許可が必要。目的(例えば、日本の零細漁民を撮影したい)、いつからいつまでの間かを申請しなくてはいけない。国境警備隊の船を撮る場合も同じ。
 コンブ漁はナギが悪くない限り(悪い場合は順延)、6/1。前日か前々日に「貝殻島区域コンブ採集漁船出漁証明書伝達式」が納沙布岬の高崎達之助氏の顕奨碑前で行われる。北海道水産会からの(パスポ-ト?)交付式で注意事項などが述べられる。大矢市長ら市の政財界のTOPが参列する。
 6/1早朝、我がA班は他の報道陣と共に中間ライン手前で海上保安部の巡視船に乗り、 375隻 750人のコンブ船を待ち受ける。後、魚協の指導船に我々のみ乗り換え、コンブ船と共に中間ラインを越える。納沙布岬ではB班が 7時頂度のタイミングで花火、サイレンと共に組合長の振る大漁旗を撮らえる。海上ではそれを合図に一勢に漁が始まる。本田精一さん、76才も10mはある檜の木を突っ込みコンブを上げる。水深 5mの海底から、コンブがたくし上げられていく。長さ 5m以下のものは棒先から離れて再び海底に沈んでいく。こうして未成長のコンブは保存されることになる。チェルノブイリを体験したソ連は、甲状腺ガンを防ぐため、大量のコンブを必要とした。彼等はコンブの根さえ残しておけば、再び蘇生するものと考えている。故に潜水夫を海底に下ろし、未成長のコンブをも大量に取り尽くしたという。
 午前十時、納沙布岬で大漁旗が振られ、サイレン、花火も。漁停止の合図である。操業を停止した船は岬の北と南の二手に別れて港へと向かう。B班は急遽、岬の北の温根元(オンネモト)漁港へ移動。既に、爺さん、婆さん、母さん、子供達が船の入港を待ち受けている。A班は 200隻もの船団と共にこの小さな港へ入港する。港の中は二重、三重の停泊の船でごったがえし、続々とコンブが荷揚げされ、トラックに積み込まれていく。そして乾し場へと移動。家族中でコンブが広げられていく。 
 S36,6/17,貝殻島での密漁が発覚し、国境警備隊の船に追われて、13隻もの漁船が大量拿捕された。このもようをつたえたNHKのニュ-スフィルムは今も歯舞の人々の心に強く残っている。顕奨碑にある高崎達之助氏はこの問題でソ連と談判。S38の協定成立に力を注いだ人でもある。

1993,3,2(火)晴れ。移動日
 午前 9時、イーストハーバーホテルを車で出発。午後 7時過ぎ、札幌市のルナホテルに入る。前田さん・亜理子に電話。

1993,3,3 (水)晴れ、札幌市
 午前10時、柳原彰一郎、大井博一君に会い、道議を紹介してもらう。
 道新サハリン支局の島田氏は実際上は何度も四島に行ってる節があり。夫人は生活クラブ活動に関わっている。稚内では 7,8年前から漁師や有力者の声として「建て前を言っていたのでは駄目。島は実際にはいらない。誰でも行き来できるようにすべき。」との声あり。これも視野の中に入れてはどうか。81年根室にいた朝日の増子記者は 2年半の滞在ではあったが、鳥取出身のヤクザによるレポ船取材をしたりアイヌ問題にも取り組み、アイヌと飲んで喧嘩もできる。ウタリ協会はニブフを招待している。萱野茂は自らを「山のアイヌ」と自称。アイヌの中でも四島に関しては方針は一貫せず。「一人一方針」とも言える状況であるが、ニブフとの関わりでは協力してくれるかもしれない。

 資料整理。夜、前田家

1993,3,4(木)晴れ、札幌市
 終日資料整理、ワープロ。アイヌの参考書 2冊を読む。
 午後 2時、山邨・稲葉、北海道道庁道議会にて道議会議員、佐藤寛一氏を訪ねる。
 室町時代、富山や佐渡ではスケトウが献上品であった。富樫衛氏は貝殻島に灯台を付けるべく、ソ連に直訴しようとした。S29、ひとめをはばかるように歯舞から和田村まで自転車で行き、汽車、船を乗り継いで、ストックホルムそしてモスクワへ入って、直談判し、その後、当時、中ソ関係が良かったこともあり、中国を経由したが、中日関係が断絶後、インドから帰国した。S31または32年、色丹沖でサケ、マス漁船が座礁したときも、奥さんの実家から焼酎カメを持ってソ連と掛け合った。極東に五隻の監視船が配置されており、佐藤氏は三年前、その一隻「コマンド-ル」に同乗。元々日本船で60億の建造費がかけられたものだが、拿捕され、ソ連に使われている。速度は45ノット(60km/時)、IBMのコンピュ-タ-搭載。レ-ダ-は80キロと50キロの二基。設計はドイツで建造はハンガリ-、60人分の二段ベット。佐藤氏はこの船は拿捕した人々の洋上裁判所とみる。ヘリは二台あり、ヘリポ-トは二重構造となっており、一台を船員の病気で飛ばしても、もう一台は密漁を監視できるようになっている。この船はまた資源調査にも使われている。資源分布図も確認されてはいないが、存在しているようだ。資源調査はスロ-かもしれないが、確実にあり、そのデ-タに基づいて日ロ漁業交渉は進められていると思う。というのも、交渉の場にロシア側は学者を出席させているが、日本側はそうでもないからだ。

『されど海』シナハン日誌-6(札幌市、帰京まで)

1993,3,5(金)晴れ、札幌市
 企画書第2稿に着手。終日原稿書き。

1993,3,6(土)晴れ、札幌市。
 企画書推敲。
 午後 4時、青木プロデューサー、宗像君来札。
 午後 5時、打合わせ。
 夜、予約のレストランで会食。青木プロデュサー、他のスタッフと二次会行き。

1993,3,7(日)晴れ、札幌市
 青木プロデュサーと宗像君、朝未明まで泥酔。
 午前 9時より二日酔いの青木プロデューサーとスタッフ会議。
 頭から「(企画)から下りる相談ですか」と絡んでくる。妙な迫力である。一同唖然。
 北方四島について…フジテレビとしてはビザなし渡航以外の枠以外はロケを認めないと確言、アム-ル川からの流氷やオホーツク海に主題を置いての企画と思っている。四島については資料映像で挿入したらいいではないかと詰め寄る。泥酔あげくのからみに辟易する。ギャラを申請せよとも。8000万の予算は削られることがあっても、増えることはない。
 希望の額を言えと「1000万ですか、 500万ですか、只ですか」。全員沈黙。「三人で3000万円でもいい。8000万円から差し引いた残りでロケの日数を割り出せば、××日分しかないが…」という。「 8mmビデオでとるなら一年でも根室に張り付いて存分に撮ってくれてもいい」。ギャラを今言ったら、引き算の論理に嵌まるに違いない。絶対額が分母だ。すると、「宗像はボーナスを入れて年額いくらだ、言ってみろ」。渋々かれは「 500万円ちょっと」という。青木氏は「私は1500万だ」。だからそれを目安に言えというのか理解に苦しむ。「言わないならこっちで勝手に(値段を)つけてもいいですか。それともただですか」。こちらが「契約はスタッフ全員が決まった段階で一本契約の額をいう。いまは企画の段階だ。只でいい」。というと氏は一瞬言葉を失い、あおざめた。気を取り直して宗像君にひろげた手帳に「いいか、ギャラ、土本は只、ゼロと書いとけ。書かんか、ゼロと」。宗像君は「書かなくとも、ちゃんと聞いています」と逃げる。氏はさらに荒れる。
 一同持て余し、黙っていると「お通夜みたいだ」。そして最も弱い立場の稲葉君を徹底的にいじめる。例えば「おまえにはギャラは勿体ない」と無能扱いが露骨だ。山むら君には一目置いている。弱いものいじめに怒りに震えた。
 「オホーツクの企画はいい。こんなスケールの考え方があるのかと感心したもんだ。北方四島などは付けたりでいい」とわめく。宗像君にむかい「アムールの河口から、流氷に乗って、お前が流れてこい。それを追っかけるだけで番組になる。それがテレビだ」
 氏の言動は本音と聞く。オホーツク海の流氷物語に勝手にテレビ屋の触手を動かしたに過ぎない。企画当初から「ネイチャーリング」とたけもとが牽制した。それを振り切り、「それならもっと適した作家がいる。私は引き受けない」といって、はっきりと断った「自然のドラマ」に先祖返りだ。これがフジテレビの本音なのかも知れない。
 わざわざ根室よりロシア総領事との話しあいに招いた竹村氏との午後の会談には「私は出ない」という。こちらも「出ないでよろしい」と言うほかない。青木プロデュサーは企画の打ち壊しに必死だ。挑発の限りだ。侮辱と暴言に耐える。
 スタッフ全員、席を外し、企画から下りる決意をして、たけもと、山上に電話。「帰京まで結論を急ぐな」と慰留される。
 午前10時、中標津、松村氏ホテルに来訪。標津の荒井信雄講演の要旨を聞く。その間も青木プロデュサーは荒れ、話を中絶せざるを得なくなる。
 宗像君が詫びて回る。
 午後 2時、竹村氏と宗像君、スタッフと会談。青木氏欠席。竹村氏、敏感に気配を察し、明日のアブドラザコフ総領事との面会を憂慮するが、その予定は変更せず。
 夕食、全員会食。安食堂でお通夜のような食事、酒を飲めないまま、考える時間が欲しくなり、ひとりホテルに帰る。あと稲葉君が荒れ、喧嘩を売り、一転、裸踊りをやったという。青木プロデューサー、深夜まで宗像君と酒を飲む。

1993,3,8(月)、晴れ。
 午前10時半、プリンスホテルに竹村氏を迎えにいき、稲葉、宗像君を残し、総領事館へ。警察の警戒厳重を極め、氏名、用件を聞かれる。竹村氏がインターホーンでじかに連絡、門が開く。やはり東京とは違い、国境を接する北海道ならではである。
 国際婦人デーで女性職員はいない。アブドラザコフ総領事が直接出迎えてくれる。
 竹村氏と総領事との懇親さは氏のいうとおりであった。かれのエスコートなしには、気が休まらなかっただろう。本題にはいる。ただし北方四島入域の話は愚か、テレビ局としての合意もないまま、表敬訪問の枠で、ぎりぎりの意向表明の機会にする。『シベリア人の世界』以来の北方ロシアへの関心の開陳から始まり、オホーツクでの共生のイメージを心ゆくまで話す。アブドラザコフ総領事は企画意図に全面的に賛意を表し、シベリアの全環境破壊の憂慮にまで及ぶ。10分の予定の面会が 1時間余にわたる。別れぎわに総領事は母国キルギスを映画にする気はないか、ともいう。竹村氏に「いい人物を紹介してくれてありがとう」といった。青木プロデュサーは終始無言。印象をきくと「大成功でした。あなたの話があまりに広がるので、足をつついてサインを送ろうとしたが、相手が聞いているので止めた」ともいう。このやりとりで氏は初めてこちらの構想を端で聞いてつかんだことになる。なんたるお粗末か。
 あと竹村氏の気配りでプリンスホテルで話あう。北方四島への入域が国法を犯すことであることに言及しながら、だが最後まで希望を失うなと青木氏にとっては謎をかける。こちらにはロシア側にはこれでテストに完全にパスしたとのサインである。
 午後 2時、三浦エミリアさんと会う。明朗で利発そうだ。あいまいに「面接」したに過ぎない。しかしこの人しか花を持った感性の通訳はいない。工藤幸雄、久代夫妻に幼い頃会ったのが日本との縁に繋がったという。
 午後 4時、UHB(北海道文化放送)のスタッフにあう。「北方四島に行かなければ、この企画は成立しないだろう。局のだれかが叱られればいいのでは」といわれる。青木プロデュサーは返す言葉もない。
 夜、形だけのお疲れの乾杯。借りてきた猫のようにおとなしくなった青木に、映画とテレビの違いをディテールにわたって話す。氏は神妙に聞くだけだ。余り飲まない。突然、稲葉が嘔吐する。かれは状況の混濁についてこれない。それがよく分かった。

93,3,10(火)晴れ。
 千歳空港より帰京の途に着く。機内で昨夜も宗像君相手に飲み続けた青木氏はひたすら眠っている。羽田からリムジンバスで新宿へ。「もしフィルムの予算で計算が苦手なら、私の友人としてシグロの山上が個人的に助けてくれると思うから、その場合は山むら君にいうように」というと、「その人が全部やってくれれば…」と弱々しい声。ムカッとするが、黙って別れる。

 追記
 以後、青木プロデュサーには会っていない。最後に会ったのは 3月30日、制作中止の通告に土本の仕事部屋にきたときである。