一つの旅を終えて「苦海」12月15日号東京・水俣病を告発する会
映画フィルムとテープと一台の車をもって、私たちは五カ月近く、水俣に生活し、その日々を、一日一日を記録した。チッソ株主総会までの道は、患者さんたちにとって、決して平坦ではなかった。弁護団が、強いブレーキをかけてきてから、はじめて支援グループと弁護団の思想のちがいを見たときに、ひとびとは、とまどい悩んだ。訴訟にふみきったときと同じように誰もまじえず、患者さんひとりひとりの中で腑に落ちるまで考えての上で一株を手にうけとった。ひとりひとり、厳密な唱和を求める田中義光老人のガンコさに手こずりながら、ご詠歌を覚えに、夜毎、一つの屋根の下に集まった。そして、高野山ゆきを「グリコのオマケ」のようにたのしみにして、大阪への途についた。その途は十七年の長さに見合った心ふるえる道のりであったろう。
大阪のホームについたとき、そのホームの端から端までうずめた黒旗と「告」「発」「怨」の文字は、その旅のはてについに見ることのできた支援の実態であった。
映画は、抑制をもはやすてて水俣の地からひきずった、部落からの視座で大阪をとりまくった。チッソの株主総会において起きた激しいドラマは、計算をはるかに超えたものであった。患者さんの一念が矢のようにその中核部分に放たれ、飛んでいく一瞬をカメラにとどめながら怨念のいく分か果されていくその力が、私にはかつての世なおしの中にいくたびもみえかくれしたであろう「狂気」を見た。私はその旅の終りを映画の終りとして、放心したようにナイーブな水俣の映画にしたいと思っている。私たちのみたものから、また何かが身内に新たに生起するのを感じながら、来年二月の発表に向けて、編集の作業に入ることになろう。多くの人びとのねがいをそのまとめのプロセスの中にもぬりこめていきたいと念じている。