企画書・第2稿 1993,3,6 改題『母なる島ー海の告げる声』 企画書 <1993年(平5)>
企画書・第2稿 1993,3,6

改題『母なる島ー海の告げる声』

<はじめに>
 北方四島の問題の現在的関心から出発した現企画のための今回の調査によって、見えてきた問題点は次のようなものである。ほぼ確定的な事から述べる。
 1)島の主権についての日本政府の決意と、元島民のいわゆる返還運動の建て前は依然として今も持ち越されている。しかし、現地の流れは交流を全面的にうちだす方向にあり、従来の返還運動の枠を破りつつあり、政府のいう「政経不可分の原則」はなし崩しに破られつつある。だが、特にマスメディアの取材に対しては「不法占拠の島へのビザあり渡航は認めない」の閣議決定により、制限されている。
四島撮影の可能性は本年、数次組まれるビザなし渡航のマスコミ枠への参入しかなく、その申し込みの時期は昨年11月に決定されており、それへの参加の可能性を見つけることが第1。第2にはロシア(サハリンなど)側のメディアとの提携の道である。北方領土への入域には上記の条件をいかにクリァーするかにかかる。
 2)海の「国境線」も同様である。中間ラインと呼ばれるこの国境、あるいはロシアの規制のもとでの洋上の取材は、日本側の合弁企業の漁船ですら、後難を恐れてか、メディアの同乗取材をは許していない。これには映像の「証拠性」についての、彼等の危惧が払拭されないからだろう。彼等には、昨年、問題を起こしたサケ・マス操業の違反事件刑事訴追の後遺症がある。
だが、一方、「今年はガラス張りで操業する」というサケ・マス業界の新しい姿勢をPRする意味で一転して業界が「実情」の公開に踏み切る可能性もある。同じ様に、洋上の操業のひとつ、四島周辺の「調査船」操業についても、その可能性はなしとしない。だが、日ロ合弁企業の操業をふくめ、いまもメディアへの開放的姿勢を取ることは極めて難しい状況ある。「調査船」での許可を得ることに集中したい。
 3)ロシアの情勢と経済的困難による、撮影上の物理的、経済的障害は予想を困難にしている。これは日ロ関係のすべてに言えるが、撮影においても大きく左右されるざるを得ない。つまり現象的な手続きが読めない。取材に必要なさまざまな人脈についてリストを入手したが、それは小人数で限定的、短期な取材には向いているが、四島の社会の全体像を正面から描こうとする時、それが有効に働くと判断できなかった。第1項後段で述べた方法に加え、ロシア領事館ルートを通じてのアプローチにより、州政府などの行政の上からのトップダウン方式に頼って撮影の手順を開拓していくこと、また日程、諸経費などの検討材料も、そのルートからの指示を待つやり方が良いと判断した。
 4)反面、この企画意図に対する北海道横路知事ほか現地自治体の首長、元島民、返還運動関係者、そして各漁協の協力の取付けに成功し、その寄与は十分に期待できる。その主な期待は、ともすれば近視眼になりがちなこの問題の取材枠を越えて、全国的TVネットワークにより、いかなる展望を描かれるかに寄せられている。 
 5)試みに『されど海』を上記に改題した。その理由は次のようなものである。
『されど海ーオホーツクのひとびと』の題名にはいささかの屈折感や、ネガチブな印象を持たれがちだったし、「ーオホーツクのひとびと」はこの企画を「人類学」的に受け取るきらいがある。この企画はあくまで北方四島を中心軸にすえ、海と人間の未来を描くものである以上、改題『母なる島ー海の告げる声』のほうが簡明で焦点がくっきりすると考える。
「母なる島」とは島に関わりのあるひとびとの潜在意識と言える。先住民のアイヌも勿論、日本人元島民、現ロシア島民にとって、そして島の未来を語る北海道のひとびとにとっては幻想の島であろうと、その海と自然への関心を呼び覚ますキーワードはそれぞれにとっての「母性のふるさとなるもの」であろう。また『ー海の告げる声』としたのは、海が地球的な、かつ21世紀的な展望を辿る「道しるべ」である事に変りはないからだ(偶然だが歯舞とはアイヌ語で「母なる所」の意であった)
 6)以上のほか、いわば企画の「設計変更」は、やや楽天的に見ていたオホーツク海に抱く、沿岸漁民の危機意識の抬頭である(それは流氷にも関わる)。
その危機意識には二つある。ともに、浜での生活に響いているものだ。
■この数年の温暖化現象による(のか定かでないが)流氷の変化である。その到来 時期は遅れ、規模が縮小し、流氷の南端が後退し、しかも従来の着岸と拡がりを 見せなくなったことである。これによりサケ・マスの沿岸への回帰に異変が起り、水温変化の変化も加わり、育てる漁業(計画生産)にもマイナスの影響を見せ、各漁協が対応に困惑している。(冬季のスケトウ漁も1/4の水揚げに転落)。
 自然現象への地球的な危機意識につながる不安がオホーツク沿岸に出現した。こ の現象が今後もジワジワ強まるのか、その危機意識をロシア側に、アムールは?、サハリンは?と問いたいが、それが出来ないでいる。一方、島の漁場に目が向く。■この海の水産秩序が一大転換期にある…。サケ・マスの沖取り禁止に続く減船に より、港々は恐慌状態の時期にあること。さらに、日ロ合弁企業の活動の全貌が見えず、四島からのカニ、ウニの過剰供給によって値崩れが起きた。
 日本の円とロシアの水産物の急激な流動が、島々の資源を枯渇させないか。
つまり、オホーツク海は豊かだという観念を修正する画期に立ち会っているのだ。これが、北方四島の問題に地球的環境保護の視点から見ることを促し始めた。
 例えば流氷期には海を休ませた習慣は、スケトウ漁の場合、ロシアのトロールに競合して出漁し、破られ、今は減収のパニックにあえいでいる。自然の掟に背いたことがアダなのか、ロシア領海での資源乱獲なのか。かなうことなら、ロシア人にじかに「そちらはどうなっているんだ」と、その情報を掴みたい気持に駆られている。
 7)締め括り。この企画の重点は、仮に政治が動き情勢が変化しても、すぐさま変わりようの無い、海と島の共生への探求に置かれよう。と同時に島は誰のものかを超えて、どういう存在であってほしいかの、願望のシンボルの様相を強めている。その願望には差がある。だが誰にとっても「母なる島」にしくはない。島の姿が急速に変貌しないことでは共通している。その水位からこの企画を描いていきたい。オホーツク海の危険信号の明滅のなかで島々を浮かび上がらせたいのである。いままで暗いイメージに彩られた四島を、未来的に希望に満ちた「母の島」に描きたい。

『母なる島ー海の告げる声』

 <撮影希望項目ー構成順不同> 
1)根室市。『北方領土を返せ』のスローガンを、国道に、牧場に、湖畔に、街々の角ごとに見る。その「門」を潜って市内に入る。市役所にも大書してある。根室市は返還運動の最前線の街である。その中にロシア語が聞こえる。ロシア人船員がいる。子供のビザなし交流のチームも、婦人たちも。それが奇異ではなく馴染んでいる。
花咲港には歓迎のキリル文字の表示板。カニ船が入って来る。ロシア色の濃い街でもある。去年はビザなし渡航ではあったが、根室市はロシア人との「交流元年」をむかえていた。このドキュメントはこの時点から始まる。
2)近づくことの許されなかった島々。北方四島は超望遠鏡で見る世界だ。納沙布岬でも、野付半島、羅臼の展望台。厳然として「中間ライン」がある。国境ラインなら話は簡単だ。税関、検問所があればよい。
海上保安部の船がラインぎりぎりを巡回している。ここに自衛艦が出たことは一度もないという。船のレーダーには数知れない船影が映っている。「日本固有の領土」に連なる海とはいえ、中間ラインの侵犯は直ちに日ロの外交問題になる。国境線は海図とレーダーの線に頼る。侵犯ギリギリの日本漁船に注意を喚起するのが主な仕事だ。その船の上から望見する島々。
3)「国境」に最も近い歯舞漁協。旧歯舞村がそのまま漁民の街になっている。ここに多くの元島民が引揚げ者として帰って来ている。拿捕された過去を持つ漁民も多い。
この漁協の海図には歯舞諸島が今も書き込まれている。現在の地先の海は貝殻島から 3,5km、その中間にラインがある。根室半島の中でも、最も四島に関係が深い。
ここだけでもそれぞれの個人史が語られれば、故郷の島、その海への思いが限りなく出てくる。漁協の指導者の記憶…国境操業の離れ業のような難行苦行の過去が語られる。日本のいわば辺境の一漁師の口から、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックとかロシアの漁業交渉相手の大臣クラスの名がつぎつぎに出てくる。この無名のひとびとが日ソ漁業交渉の影の人物たちなのだ。
4)オホーツクの海。その海流に乗って魚が来る。コンブが育つ。赤く塗られたコンブの許可船が特異だ。
6月 1日。国境の島、貝殻島でのコンブ漁解禁日だ。この街の生命はコンブに託されている。コンブ漁には全漁民が出る。そのコンブ採りは無造作のように見えるが、あとの幼コンブは残こすようにさばく熟練した手の動き。資源の枯渇を防ぐため 5m以上の成コンブしか捕らない。まして根からもぎ取ったら、コンブの再生は遅い。
(漁協にはさまざまな魚種保護のポスター、「密漁禁止」の標語が気づまりな程)
6) 6月、サケの稚魚の放流の時期でもある。海に放たれるときの生物科学的手順の緻密さ。 4年魚に成長して母川に帰ってくる。92年は激減した。その 4年前には、すでに流氷が道東のオホーツク沿岸に現れなくなっていた。上昇の一途だったサケの回帰率が一気に下がった。これが自然の大きなサイクルなのか、人為的な地球資源の乱獲のの結果なのか。海の答はこの稚魚の回帰する 4年後に分かる。
7)オホーツク海に異変の影。ホタテの過密やコンブ礁の磯焼け。流氷で耕されていた海底。カニの資源の減少と「四島からのカニ」による打撃。すべて悪材料が襲っている。その中の打って変わったのんびりとした風物詩が野付の打瀬網である。帆の風力でエビ網を引く。 8,5cm以上のエビしか採ってはならない。それは網目の大きさに工夫がある。稚エビは引かれる網からこぼれるように逃れて、海の底に帰る。浅瀬の内海野付湾の生んだ採取方法である。干潟になればアサリの手掘り。その人数も時間(潮の引く数10分)も限られている。海の幸は浜辺で十分、といえる暮らし方がここには残っている。春の花がその世界を飾るように咲きほこっている。
8)元島民たち。仮に引揚げ者てきた根室半島には元島民の過半数がすみついた。その 4割はすでに故人となり、若いといわれる元島民も老境にさしかかっている。
その島への思いと痛い記憶と50年近い歳月が語られる。だが「島に帰る」には年をとり過ぎた。錯綜した戦後史、そして返還運動の論理と私情・望郷の思い。とくに少年時代に島に育ち、ロシア人とも混住した人たちの「母なる島」への望郷の念は強い。島では「米、みそ、醤油」があれば、山の山菜、家まわりの菜園の野菜、そして浜の魚やカニは要る分だけ採ってくれば良かったという。
9)オホーツク海を望む草原にアオギアヤメが咲き( 6月下旬、北方原生園)、春国岱にハマナスの大群落、そして渡り鳥がやってくる。
10)いまは無人島になっているユルリ、モユルリ島。歯舞諸島の島々にそっくりの盆を伏せたような台地状の地形だ。水晶島や志発島などの原形がしのばれる。カモメの群生地、岸辺はコンブの宝庫。ここに放牧の後、置き去られて数十年、今はすっかり野生化した馬、数10頭が群れている。その沖は黒潮が流れ、世界三大漁場がひろがる。
11)サケ・マス船が帰る( 6月)。秋にはオホーツクの沿岸にサケは回帰するのに。なぜ沖に出て、母なる川を目指すサケ(トキザケ)を追うのか。なぜ高価で珍重されるのか。やわらかい魚卵が金になるからだ。それを求める消費層があるからだ出漁者はいう。すじこ(イクラ)が浜の市場にあふれる。
北海道の初夏、観光客はカニやイクラを買い求める。納沙布は賑わう。
12)投機のように北洋で稼ぎまくった昭和30年代。さかのぼる、千島開拓経営時代の拠点・根室市。大型の遠洋漁業のびっしり港を埋め尽くした写真の面影はまったくない。減船の結果、廃船処分の船が解体されている。
13)根室市は日ロの歴史を追想することに目覚めた。 200年前のロシア人ラックスマンの顕奨の動きが復活した。その当時の復元画の中に、アイヌが描きこまれている。
だが先住民メナシアイヌの記録は、納沙布にある受難碑の中に、日本人への反逆者として記されて、修正も今日的な視点での解説も無い。まして、千島から追われた歴史をそれに読み取ることはできない。その斬殺されたアイヌの首は塩漬けにされ、首実見のために松前に送られたという。国後アイヌの最後の戦いといわれる。根室の歴史からはきれいに消されている。千島開拓の最前線根室市の陰りの歴史であろうか。
夏、全道のアイヌのひとびとは岬のノカマップに集い鎮魂の式行われている。
14)ある博物館準備室(羅臼)。ここには道東で発見されたオホーツク人、アイヌの文化と生活具があり、釧路のモヨロにはオホーツク人に遺跡がある。魚と海獣との交わりを語るもの。
ここ羅臼は国後島を前庭にした漁村。ロシア当局がここだけは国後の浜から 3カイリまでの操業をとくに認めてきたほどの近しさがあった。浜はコンブ漁(羅臼コンブ)、その沖はカニ籠漁、カレイの刺し網漁だ。船はいつも国境の海にある。越境ギリギリだ。
15)アイヌの「自治の地を島に」というアイヌのリーダー。例えば色丹島をアイヌに解放し、アイヌの自然にたいする価値観の実践を思うまま試みられる島にしてほしいという。「アイヌのライフ・スタイルは『旧土人法』以来、日本式農耕文化の強制によって壊滅された。もはや、その生活を当時のまま島で継続することではない。アイヌの今も抱く、自然との共生の哲学を、いまこそ日本人は学ばなければならないのではないか」との呼び掛けである。そこにはロシア人も含め、さまざまな先住北方民族も遊び、暮らしをともにし、お互いに交感しあう天地があるのでは、との夢がある。暗い四島のイメージを逆転させるひとつのロマンがある。文明の病に疲れ果てたひとびとにとって、その呼び掛けにある21世紀の地球家族の実験は、このように身近かにあるかもしれないとの思いに誘われる。そうした人々が増えこそすれ、減ることはない。その目で見る島の望遠。さまざまの光線に映える島影。
16)初夏、四島から、ビザなし交流で来たロシア人たち。交流2年目。初対面、初体験の感動は薄れ、交流の「次」のステップへの思いが彼等にある。「平和友好」では済まなくなっていはしないか。今まで、根室はロシア語がこれほど必要になる日を予想もしなかった。その事情はロシア人の側も同じらしい。隔靴掻痒の思いだ。
去年のロシア人の子供の招待は、その後、道東の子供に文通などの付き合いを残した。この夏は相互訪問、道東にロシアの子供が、道東の子供たちが初めて島を訪れる。
初対面ではない、再会である。
17)「北海道は夢の国」とは去年の話だ。羨望だけではもはやフラストレーションがたまるだけだ。それが迎える側にも伝わる。今年はどういう交流であろうか。
全国でもただひとり元島民出身の別海町町長は、ロシア人島民の酪農の研修志望生を、このビザなし交流の枠のなかでもいい、どうやって希望通り長期滞在させるかについて心を砕いている。「最初のビザなしで来て、最後のビザなしで帰れば数か月OKだ」これはアイデアの遊びだろうか、ビザなし渡航の体験がもたらした「次」への真摯な試みだろうか。この夏の道東になにがはじまるだろうか。
18)四島へ。子供たちの訪問団が行く。横路知事の三島訪問も実現する(これには随伴するか、できれば島からの視点でこれらを受けとめたい)。
横路知事はここでは「となりの国、北海道の最高権力者」である。その片言隻語も聞き漏らすまいとするひとびとに取り囲まれるだろう。いままでの元島民、返還運動関係者、外務省関係の友好と儀礼とは違う緊張した出会いが出現するだろう。
19)島に独自取材できる場合ー島のひとびととその生活。その海、その浜辺、そして色丹島の漁業コンビナート、択捉島のふ化場など。島の漁業生産の仕組みは? カニの漁獲は? 資源保護策は? 自然保護は?そして誰にも「この海に異変はないか」と聞きたい。
特に、島の子供たちの世界にカメラを遊ばせたい。元島民のふるさとへの思いをそこに見られるだろう。子供の世界に入り込んだ「日本」、かりに日本人との混住のイメージを問うた時、大人の場合、子供の場合、その答は同じだろうか。
20)島々に小さな博物館が篤志家の手で作られている。その出土品はクリルアイヌの生活と狩猟、漁撈の道具だ。
2年ほど前、四島を訪れたただひとりのアイヌ女性は「ロシア人はアイヌを千島の先住民として待遇した。子供も私の民族衣装を見てアイヌと呼んだ」と語る。先住民としての彼女への敏感な対応に、北海道のアイヌは日本人は違ったロシアの国民性をみたようだ。それがアイヌに島への夢「母なる島」へのイメージを呼び覚ました。
21)秋、四島の川にも、対岸の道東にも秋サケがやって来る。流氷の来なかった年に大洋に放たれたサケである。その鱗の年輪から成長を読み取る。餌不足で小柄なサケがいる。「このサケは回遊の 2年目に飢えてようだ。餌不足の 1年を過ごしているようだ」とサーモン館の学芸員は顕微鏡で捕らえた情報を分析する。回帰率はいかに変化しているか。昨年は激減した。「その回帰の水準がむしろ自然なのかもしれない」と彼はいう。
人口ふ化率90%。全河川は採魚場となり、沿岸にサケの定置網が連続する。
道東の海はサケとの取組み一色の時節になる。河口と打って変わる上流のサケの数。内陸のアイヌの主食・サケはここで絶たれ、自由な採取を押さえられたという。
22)初冬、北サハリンでは流氷が訪れた。サハリンの漁業コルホーズ(アレキサンドロスク・サハリンスキー、またはホルムスク)、漁業資源保護再生産業規制局(サハリンルイブォート)で、そしてオホーツク海沿岸の漁民に、彼等の漁業の現状を聞く。
ここ極東でも、漁業の水産高は半分に近く激減していると聞く。
道東の流氷の変化をここではどのように把握、分析しているのか。
北洋漁業の世界的リーダー国のロシアの漁業、漁船団と漁業コルホーズの巨大な組織はオホーツク海の資源保護に関して、どのように見て操業しているのか。今のサハリンにおける日ロの合弁企業はどのように動いているのか。(それが基地や、港での荷役、水産物の出荷からも、オホーツク海の一端を知ることになろう)。
23)同じくサハリンで、先住民ニブヒ族に解放された自治区を訪ねたい。人口はアイヌの1/10といわれる彼等に、ロシア人はどのように民族としての処遇をしようとしているのであろうか。(多民族国家として70年の経験を経た旧ソ連・ロシアが先住民抑圧の歴史がなかったとはいえないだろうが、彼等が極端な少数だっただけに、今、復権の動きを見せていることに強くひかれる)。日本人のアイヌの先住民の処理の歴史を思う時、さらにアイヌから「島に自治区を」と言われている今日、その現状に触れたい。(魚食民族といわれる彼等。海との生活はいかに保持されているであろうか)。
24)同じく、サハリンで在留韓国・朝鮮人たちがやむなく送った戦後50年の体験から、今のロシア人社会での生活と文化の違いをかかえての混住の体験に耳を傾けたい。彼等の民族としての誇りは蘇っているのか。ハングル新聞やハングル放送はあるだろうか。今、かつての支配国家の日本人が、彼等を通訳として必要とし、しばしば四島を訪れ、商売し、「友好と平和」、さらに「混住」を口にする時、かれらは何を日本人に感じ、何を告げたいだろうか。日本語とハングルとロシア語を知る彼等は今、サハリンで新たなアイデンティティーを持ち始めている。日本人としてお詫びとともに学ばなければならないことが山ほどあるだろう。
25)サハリンの流氷は南下している。その中をスケトウ漁の船団は動いているだろうか。冬の海を休まているのか、どうか。スケトウの群は冬のオホーツクが餌場である。そして、ロシア極東の魚の漁獲量の73%がタラという(1988年)。
26)気象衛星によるアムール川からの流氷図。この10年の推移があれば何がみえるだろう、27)冬、風蓮湖にはシベリア大陸から大ハクチョウ、数千羽が飛来する。
28)根室市(道東)の中のロシア語教室。さまざまな年齢層だ。
ある貿易業者、元漁民でしばしば拿捕され、そこで覚えた片言のロシア語で、サハリンに合弁でレストランを開き、ロシアの水産物の貿易を営んでいる。逆縁とも言うべき人生の切り開き方をした人だ。そのしたたかさに根室でしか生まれない人間を見る。カニ船の船員相手の中古車のセールスマン。ロシア人の来る飲み屋(ともに花咲港)港は実に自然に「国際化」している。
12月、カニ船は歳暮、正月の需要に向けて、つぎつぎに荷を揚げている
29)おなじ頃、沿岸漁協も、勢いづいている。
サロマ湖畔の生カキの宅急便が最も忙しい時期を迎えている。家の前が海、まさに辺境の生活を送った開拓者の跡継ぎが、都会からUターンして着想したのが、地域の郵便局と組んで始めたカキの産地直送だった。それは安く新鮮で消費者に喜ばれた。
「漁師が商いに手をだしてもいいと思う」という。交易が北の民の生活だったが。
今、沿岸はその海域だけで生きる知恵を急速に身につけ始めた。その分、公平が鉄則になった。そして、海の資源(ホタテ)を「育てる漁業」にまとめ、漁協としての平均的な生活向上に向かっている(サロマ湖は流氷の時期には結氷する)。
30)新たな流氷の研究(流氷研究所、養殖研究センターなど)。流氷の底に付着した苔類・植物性プランクトンが、真冬の水温にもかかわらず、海氷をとおして注ぐ太陽の光で繁殖、動物性プランクトンを育て、魚を引き寄せているメカニズムが説き明かされている。「氷が魚を育てる」「流氷が魚を運んでくる」という浜の古老の言葉が在る。温暖化による流氷の変化は漁業に重大な影響をもたらしかねない。それは沿岸漁民にもシベリアの温暖化や、地球の温暖化にも目を向けさせている。
大自然を謳歌した北海道。だが牧場の乳牛のし尿の汚染処理、湖畔の森の保持にも気を配りはじめた。
31)ホタテ貝の身が痩せ始めた。過密で値段が暴落したうえに重なって現れた異変の兆しである。歯舞漁協では水中ビデオで海の底の点検を始めた。海が畑に見える映像だ。技術に頼る若い世代が、そのハイテクによって栽培漁業の限界を見詰めている。野菜には肥料を、養殖魚には配合飼料を与えればいい。だがオホーツクの海に餌をまくことは出来ない。この海の増殖力しか期待できないのだ。
32)元島民ですら、現在も沿岸(管理)漁業を営む人は島を「魚の繁殖、増殖の地」と見ている。船の上で漁船を駆使しながら漁師はいう。「おれは漁師だから分かる。日本の漁船の実力なら島の資源は一年で採り盡くしてみせる」。日本の漁船ーそれは高度のレーダーと人工衛星にネットしている。もはや漁師の勘の時代ではない。その船が広い海に点在する漁具をばらまいていく。
漁具は時に移動する。日本の拿捕船が船名そのまま、島で使われている。カニ籠もいつの間にか、向こうの海で使われている。効率のよい漁法がただちに移転してゆく。33) 2月 7日、「北方領土の日」恒例の中学生弁論大会が根室市で行われる。祖父、祖母の年齢に当たる元島民たちを前に、中学生の北方四島への夢が語られる。そこには年々、返還運動の理念が薄れていっている。島と現島民との自由な往来への希望がかたられよう。島のロシア人中学生の両親には島で生まれた世代もいる。ロシアの友人は島の二世、そして自分は元島民の三世の世代である。
34)流氷が近づいて来る。船は次々に陸に引上げられる。船のいない海。そこに観光客を満載した観光船がゆく。海は休みの季節を迎えた。かつてこの氷原を鹿が島に渡ったという。オットセイ、トドが氷の漂流に身を任せている。
海の凍る朝、太陽は地平線の空気のレンズ作用によって、四角やワイングラスの朝日になる。幻想的な野付の朝だ。
35)流氷の海へ。羅臼のスケトウ漁が沖にでる。網から上がるタラは卵(タラコ)を抱えている。産卵直前に海から引き上げられたタラたち。その表情。
カムチャッカからのオオワシの群がその上を舞っている。凍った海に餌を求めてついにスケトウの浮き魚を狙い、北の渡り鳥はここに集まり、世界一の集合地となった。道東のネットワークのひとびとの洋上交流が企てられはじめる。手紙で一か月、電話でも数時間しないと島に通じない。この国境の海での両国民の交流にも月日がたった。初めは光モールス信号の「ラブ&ピース」で充分だった。今年は何を伝えるか。その討議の中に、島の未来像についての突飛な意見が続出する。それにはある勢いがある。そして当日、釣り船仕立ての船が行く。すべて合法的に、しかしギリギリの線でやるのがネットワークをまとめるルールでという。
その洋上でのドッキングと交流。ここには旧友交歓ののんびりした場だけがある。海の町角、ささやかな広場をいった雰囲気だ。共生とはこんなものから始まるかも知れない。「血の一滴も流れない国境紛争の解決があることすら異例の時代に生きる」とはそのリーダーの言葉だ(島に遊びにいった日本人が向こうの船にいることもあ得る)この時ばかりは日本の海上保安船も、ロシアの国境警備船も海上の安全を見守っているだけだ。
36)流氷は消え、海明けのころとなった。船は下ろされ、漁師の冬は終わった。
残る氷塊の底の汚れが蜘蛛の巣のよう。そこにさまざまなプランクトンが寄生している。海は一斉に賑わいだした。
37)島から朝日がのぼる(羅臼)。人気の無い展望台に、島にに向けて超望遠鏡が立っている。島影が逆光の中に輝く。一編中の言葉が選ばれてこれに重なる。