2時間46分‥‥‥仕上げの穎末 『告発』 第21号 2月 水俣病を告発する会 <1971年(昭46)>
2時間46分‥‥‥仕上げの穎末「告発」第21号 2月水俣病を告発する会

無数の人の感動
 水俣の浜元さんの家で、現像されたばかりのフィルムをトコと16映写機にかけていると、近くの患者さんがそっと見ていてくれて、共感の相づちうつたり、言葉すくなに感想をいったりする。それを手ごたえとして、どんなに次に生かそうかと考えたりしたのだ。十一月十八日、いよいよロケも終りの頃、西日本新聞と朝日新聞の水俣支局の人たちのすすめで、「未完成フィルム」による「サヨナラ映画会」を市公堂で開いたとき、私の活弁で解説をききながら、暗い客席におこるざわめきや静粛をきき、どこがいまここの二百数十人と対話でき、感応できているかも確かめていた。その事情は、十数時間のマラソンに似た長時間上映の中ではもっと強かった。
 帰京して、編集録音の作業の中で、少なからぬ人たちが、素材としてのフィルムについて、卒直な感想をのべてくれた。「水俣における人間の生が見える」、或いは「この映画をみると、俺の女房・子供のことを、しきりと思う」と言う。それは映画についての評ではなく、水俣そのものへの対話の跡である。
 私たちは、そうした無数の人々の感応を手ごたえにして、映画をしあげてきた。ひとり作家の私の作という、のがれられぬ個的なものであると同時に、映画「水俣」がその誕生以前からもつたある明確なモチーフの共有があるーその意味で、”船頭多きがゆえに、舟、陸に上った のだと思う。(映画は、舟が海でなく、陸に上ったときに、映画になるという意味で)

記録映画の初心
 「告発」の前号に、高木隆太郎が、土本とともども二人の盲になって、喧嘩ばかりしている……という映画の編集過程の中間報告を書いていたので、一言それに触れると、実は、私の映画づくりにとっても難しい所に来てしまったとつくづく思うが、撮ったものをそのまま見せたい。NG(失敗)も含めて、あるシーンの次に、何故このシーンをとつたかという、幕間の想い、行間の心も露わに表出してそれで語ることが出来たら、この水俣の場合、最もふさわしいフィルムに対する私の所ではないか……という考えから解き放れなかったのである。それは大げさに言えは、記録映画の初心みたいなものであって、上映時間やフィルムの規格や、上映の方法、場所の選定など、映画が作ることと観られることを共に「映画」 の性質としている長い歴史の中での「手ごろな値段の品物」に包装されてきた映画産業の商品のような過去イメージから、映画が自由になり、映画の意味を新たにとりかえすためには、一度、とりっぱなし映画に固執してみたかったのである。といっても撮り流した二十時間ではなく、選びとった上で撮りたかった時間がフィルムに残った以上、それは当然であろう。
 「そんなことは分っている」という高木ではない。高木は、二十時間にせよ、七時間にせよ、それを絶対的な映画の長さとして身勝手に固定して、何かをサボルのは許さんぞ、と眼をクワッと見開いて終始、喧嘩の態勢で、正面に仁王立ちになって、それに応えたのだ。幾日吼え合ったか。私はそこで再びフィルムと自分との一体性をメスではぐように切り開く作業に入った。それぞれのシーンの選択を強いられた。その時から、再び、浜元フミヨさんの家でのラッシュの時からの人々の声が重なって、私を水俣についての映画の真実につよく引きつけていったといえる。私は自分の望むところ、自分の作り上げたいところに従って、二時間四十五分の録音を終えることが出来た。最後の夜、ラストを録音しつつ、何故か終ったという感じがしない。クワーという終末感がなく、ある一日が、終ったという想いでしかない。「その日日を撮った」と私たちは思った。「その日日」の感じなのである。

そして今もなお
 編集・録音の作業中も、犯罪現場・チッソ工場で水銀が発掘されたとニュースは報じ、テレビ最終版で患者さん連の緊張した顔がみえる。昨日も公判で元工場長がついに有機水銀についての因果関係に若干でも言及せずにはいられなかったこと、それを一歩前進としてうけとめている患者さんや弁護団の人々のニュースをみながら、まだ終っていないことを思う。鬼塚さん(チッソ第一組合員)が、撮りつづけているだろうなと思い、懸命にフォローしているそのグループの皆さんのことが思われてしきりである。
 道子さんが上京され、新宿のノアノアで、「告発」のメンバーやマダム若槻と一しょに飲んだ時、私は次に水俣でとるべき映画について、つい喋っている自分に気がついた。それを聞きながら、本心かどうか重い錘を痛くの瞳孔から私の中に試みに垂らしているような石牟礼さんの眼つきに気づくのと同時だった。
 ああまだ終るどころか、始まったはかりだと思う。私が最後まで映画の仕上がり時間が言えなかったため、東京の読売ホールの券は上映予定時間欄が空自のままであった。一月二十六日、フィルムが三時間二分切ったので、ゴム印は、午後一時、四時、七時、三回上映、と数万枚の特別試写会の券に手でスタンプされた。そういう訳で、上映予定日までに四十日余しかない。この上映に、あらゆる意味で成功するとき、全国的に流動していくこの映画の運命にとって、一つの水圧位がマークされるだろう。私は徹夜ダビングのあと二日程のひる夜、目下、上映活動にかかっている。それも始まったはかりだ。