自作を語る『されど、海 存亡のオホーツク』 ノート <1995年(平7)>
自作を語る『されど、海 存亡のオホーツク』
この度、出版された拙著『されど、海…存亡のオホーツク』は、映画化を念頭にして歩いた下調べの旅日記を軸に、いわばオホーツク日ロ漁民のドキュメントとして書きました。カメラマンの大津幸四郎氏と同行、かれの八ミリビデオの記録から、『存亡のオホーツク』と題して、NHK・ETVで二夜連続放映しました(九四年二月)。しかしその時間枠には入りきれなかった見聞を、構想を新たにし、書き下ろしたのがこの本です。「たとえ映画に撮れなくても、これは書いて置きたい」という願望がありました。
今回の旅ではオホーツクの日ロ漁業者に限定して調査しました。取材メモのほか、映像記録、録音テープは回り放し、その質量は膨大なものになりました。
私の書き方はやはりフィルム編集の方法、たとえば三十時間のラッシュを二時間の映画に圧縮、構成する作業と似ていました。文字に起こしたインタビューやメモ素材をラッシュに模して、構成し、編集する点で同じでした。しかし、今回ほど執筆に当たって迷いに迷ったことはありません。
「自分の見聞は“事実”なのか」と。私の知り得たのは個別、寸断された見聞で全体像ではありません。いわば「全身の合わせ鏡」がない焦燥感というべきかも知れません。
ちなみに九五年の現在ですら、オホーツク海の今日を記録した類書は出されていません。
ところで、オホーツク訪問以前、まず根室、道東の北方四島の元島民の調査に当たりました。予想していた「北方四島返還、望郷の元島民」というパターンは、現地で見事にくつがえされました。国民運動的な世論に支えられた北方領土問題の焦点の地、根室で聞くのは「望郷の念はあるが、帰島は、ナイ」という声でした。根室海峡に残された茫漠たるフィクションに引きずられてきた思いでした。ここに元島民の記録がないのも“謎”です。
戦後五十年、北方領土問題はビザなし交流で劇的に変わったかに見えました。しかし変らないのは日本外務省であり、その枠組を甘受しているメディアです。北方四島についての新聞・テレビの自由取材はいまだにに解禁されていないのです。
オホーツク各地に旅程を組むに当り、さらに困惑しました。現地事情の専門家と思しき人やジャーナリストにも当たって見ましたが、かれらにとっても未踏の地でした。オホーツクの漁民社会に関する文献やデータベースは水産大学にも少ないのです。あるいは大手商社の調査レポートはあるかもしれませんが…。戦前の北洋漁場と知られるアムール川のニコラエフスク、オホーツク(旧称オコック)、カムチャッカの西海岸など現状についての邦訳文献は皆無のようでした。五十年近い冷戦期の空白を思えば無理もありません。
サハリン上空で大韓航空機が撃墜され、オホーツク海全域が武装された国境軍事地帯であることを思い知らされたのは近々十年前のことです。
のちに歩いて見て分りましたが、ロシアの漁村(沿岸コルホーズ)もまた情報途絶の孤立を強いられていました。社会主義の崩壊のなかで、孤立しているだけに必死に生き残りに腐心するロシア沿岸漁民のリーダーたちに努めて会いました。
「なぜここまで会いに来たのか?」とかれらは問います。「オホーツクの映画を作る」という話は格好の情報交換の契機になりました。「ロシアのテレビもきたことがない僻地」の漁民たちは私たちのオホーツク各地の話題、北海道漁業の近況に耳を傾け、日本との経済格差に考え込むのです。「オホーツクは豊かな海だ。新規蒔き直しできる。だが、おれの生きている時代に間に合うかどうか」。かれらも海を介しての話題には熱中しました。
世界的なニュースになったソ連原潜のオホーツク、日本海へ核廃棄物海洋放棄すらロシアの漁業者たちは知りません。すでに、「ウチの裏庭(海)にゴミはダメ」という意識が世界的な合言葉(NIMBYーノット イン マイ バックヤード)にまでなっていますが、モスクワからみればオホーツクは裏庭であり、且つ「宝の海」なのです。なぜか? オホーツクの町々を横につなげる、生活と情報のネットが欠けているからでしょう。自分の漁場汚染には真剣です。「まさか!」。これには予想を超えた怒りがありました。
流氷がオホーツクのもたらす生態系の再生産力には特記したつもりです、だが一方、国際的乱獲、船団規模の大密漁による回遊魚群の攪乱、枯渇も事実です。さらに加えて北半球の「南北問題」といえる貧富(矛盾)が露わになってきていることに目を瞑ることはできません。まして先住民漁民の在りようも見ないで済ますことはできないしょう。
近年、魚と海に繋がれた日ロ漁民の関係はすでに爛熟を見せ始め、国境を超えて日本の円市場経済がオホーツクに作用しています。それが“マフィア漁業”となって日ロ漁民の内部を腐触させ、ひいてはオホーツクを「病める海」にしていく危惧は残りました。
「海は今ヒドイことになっている。が、されど、海…ではないですか」。これはこの本の書き手の楽天かも知れません。しかし、海への帰依として読み取って頂ければ幸いです。
(一九九五・八・二八)
オホーツク海沿岸住民の死活は日ロともども漁業如何に掛っているからです。
地球上の公海を漁場とした遠洋漁業の時代は七〇年代(二百カイリ設定)で終り、日本の大漁船団方式を追随したソ連邦の「海に浮かぶ工場」といわれる“大艦巨砲主義”も沿岸二百カイリに帰らざるをえなくなりました。オホーツクは戦後、日本人としてははじめての地、ロシアのメディアすら見放した辺境・沿岸漁業の地へ足を延ばしました。「なぜここまできたのか?」。その問いには受容と期待がありました。ほとんど飛び込み同様の訪問でした。オホーツクの漁民社会について、コージネーターや現場に明るい専門家が介在しなかったからです。しかし公式訪問の形をとらなかったことで、オホーツクの素顔に接しられたことは幸いでした。
「モスクワテレビが九五%、地元ニュースは週に一時間」(ウラジオストクテレビ)。独自取材の旅費にも事欠くのが新設のローカル局の内情でした。「サハリンのことは日本のテレビ人に聞け(かれらのほうが情報を持つ)」(サハリンテレビ)。極東は極端なまでに情報の過疎地でした。
こうした飛び込みにかかわらず、漁民たちの本音を求めて立ち向かえたのは、「オホーツクの海への思い」がおたがいの気持にあったからです。海なるものへの楽天、海への帰依、海の行方についての関心度は水俣で自然に身についたものです。漁法や漁業の細部までは分りませんが、漁民の気質、習性にはカンが働きます。ただ、日本の漁民とロシア漁業コルホーズの歴史的差異は想像を絶します。社会主義時代、「魚はソ連の国家的資源だ。一匹たりとも勝手に獲ったら罰せられた」。としばしば聞かされます。そのいわば超自然法的な拘束から、集団的密漁へ。さらに「魚は金」への価値転倒のさなかにホンネが出てくる。「同じ漁業にたずさわりながら、日本人漁民の生活の数十分に一の収入しかない」と。国境の存在を、「生存の脅威」と考えるのは、日本人漁民よりむしろロシア人漁業者たちのほうが切実でした。
(九五・八・三一)