水俣病に関する報告 ノート <1998年(平10)>
 水俣病に関する報告
                               
 はじめにあたり、今回、チェルノブイリの事故により広範な被害をこうむったベラルーシのみなさんに、日本でおきた最大の公害、水俣病事件について報告できますことを感謝します。最先端の科学産業が引き起こした災害としてチェルノブイリと同じ問題を提起していると思うからです。水俣病事件はいくたの教訓を残しました。それをみなさんにご報告したいと思います。

 みなさんには水俣病のことについて、あるいはどこかで耳にしたことがおありでしょう。水俣病の水俣とは地名です。この地に発生した大規模な有機水銀中毒症状を水俣病といいます。その被害者は今日一万数千人に及んでいます。その毒物は化学工場からの排水中に含まれた有機水銀でした。水俣病は、それによって海が汚染され、プランクトンなど微生物から魚まで犯し、それを怪しむ事なく食べた多くの住民に激しい有機水銀中毒をもたらした事件です。

 この水俣は日本の南、九州の端に位置する小さな街でした。この街は内海、不知火海に接しています。この海は豊かな漁場であり、さまざまな外洋からの魚の産卵の地でした。また貝類や海草にも恵まれていました。
 この海からの収穫物は住民の食卓に欠かせないものでした。温暖な気候から芋、小麦、野菜、果物がよく出来ました。芋とイワシがあれば生活できることから、自給自足の半農半漁の暮しがありました。この貧しいけれども食うに困らない生活、その意味で楽園のような街に肥料工場・現在のチッソ会社ができたのはいまから80年ほど前でした。
 この工場の水俣進出を水俣のひとびとは歓迎しました。工業のもたらす繁栄を信じたからです。街には不似合いなほど規模の大きいチッソはやがて街の経済と政治を握るようになり、君主の威光をもって水俣に君臨しました。水俣はチッソの城下町といわれ、チッソに盾つくことはできないようになっていきました。

 しかし水俣病の発生以前から工場内では労働災害を重ねてきた歴史がありました。新技術を実用化するにあたって、十分な安全対策を立てず、実験や試験的装置をつくって点検することなく、一挙に装置をつくり稼働させ、何十回となく事故や爆発を繰り返してきました。多くの労働者が死に傷つきました。この工場に採用されたいと望む青年には「命の危険もあることを承知しておけ」といった告知がなされたといいます。創業者は「労働者を人間と思うな。牛馬と思って使え」と公言したといわれ、その人命軽視こそこの工場の飛躍的な成長のかげの部分であったのです。こうした企業の「人を人と思わない」体質がついには環境汚染を引き起こし、多くの周辺住民を水俣病に陥れたのです。

 水俣病がおきたのはいまから45年前ころからです。はじめに海辺に異変が起こりました。魚が死に、貝が腐り、空から海鳥が落下し、やがて猫の狂い死にが見られるようになりました。猫は鼻をこすり逆立ちしてぐるぐるまわり、海に飛び込むものもあり、『猫踊り病』とか『猫の自殺』といって恐れられました。その次に人間に症状が表れました。ひとびとは最初、猫の伝染病をうつされたと思いました。
 突然口がかなわなくなり、手足が痺れこわばり、全身の痙攣と運動失調による奇怪な行動をあらわし、視野がせばまり、奇声をあげてのたうちまわるという姿で悶え死んでいきました。末期症状の患者は犬の遠吠えのようなこえを発して「まるでけだもの」とみなされました。その死亡率は初期には40%でした。
 ひとびとは恐怖し、その伝染を恐れ、患者との接触を絶ちました。初期の医学者も伝染病と見なして、隔離し、その住居や井戸を徹底的に消毒しました。しかし伝染病ではなく、海の魚貝類を食べて中毒していたのです。水俣市の漁村から多発したこの狂気にみちた病気の印象はいまもひとびとのなかに伝染病として記憶され、水俣病患者を忌み嫌う心理構造を引き起こしたのです。患者は孤立し、市民から差別されつづけました。

 もちろん水俣病の原因究明はいち早く始められました。猫と人と同じ症状を呈することから魚が疑われました。海辺の生き物の死滅はチッソ会社の排水口近くから外にひろがっている。しかも会社の排水は刺激性の強い臭気をただよわせ、黒く時には青や黄色や「七色あった」といわれるほど汚れたものでした。だれもが工場からの排水を疑いました。とくに漁民は経験的に排水こそ元凶だと直感していました。

 水俣病が起きてからは「工場排水を止めよ」というのが漁民らの合い言葉になりました。一方、科学者、とくに地元の熊本大学の水俣病研究者も、水俣病をなんらかの重金属汚染と考え、その発生源は水俣ではチッソ会社しかないと断定していました。そして研究は絞られ、3年かかって、ある種の有機水銀が原因物質であることをつき止めて行きます。これにチッソは猛然と反発し、工場の排水停止の声には耳を貸しませんでした。それというのも、工場はもっとも利益をあげていた時期だったからです。
 かれらは「たしかに無機水銀は触媒として使用しているが、有機水銀は存在しない」というのです。熊本大学の水俣病研究者も無機水銀が有機水銀に転化するメカニズムについては解明できませんでした。この有機水銀がほかならぬ工場のアセトアルデヒド工程で生成されていたことを突き止めるのに8年の歳月を要したのです。その間の排水の放流は続きました。

 水俣病発生当時から国・政府の水俣病対策はチッソを救うことを前提としていました。排水停止に通産省は「原因物質がいまだ不明だから」といって反対しました。当時、チッソは最先端企業として政府の優遇を受けていました。とくに水銀を使っていたのはアセトアルデヒド工場でしたが、このアセトアルデヒドは塩化ビニールとその可塑剤にはかくことの出来ない原料で、チッソは全国一の生産高を持っていました。そのチッソの操業停止は国策である有機化学振興策に大打撃をあたえるものだったのです。
 時代は鉄文明からプラスチック・ビニール文明への転換期にありました。チッソはその高度成長を支えていました。日本の奇跡といわれる大発展のかげで、政府は水俣病患者の発生を阻止する手立てを打たなかったのです。ただ漁民による自主的な漁獲規制があるのみでした。
 水俣病の原因が不明の時期は続きました。その間、水俣以外の漁民の密漁もあり、汚染魚は食べ続けられていたのです。政府の責任が問われたのは当然ですが、政府はつい最近までその責任を認めようとはしませんでした。

 もし水俣病が東京湾で発生したとしたらという仮説があります。政府はただちになんらかの手を打ったはずです。水俣は東京から千数百キロ離れた日本の辺境でした。情報も流れず、汚染の現状は見逃されてきました。ここに中央と地方の差別は歴然としています。
 中央の政治家が直接に現地を視察したのは、水俣病公式発見(1956年)の3年後でした。この機会をとらえて不知火海漁民は一斉に陳情デモに立ち上がりました。工場の排水口を実力で封鎖するほどの勢いでした。しかし、工場の一部を破壊するのみで、デモは失敗しました。水俣市民はチッソの壊滅は水俣市の壊滅とうけとって「チッソを守れ。漁民の暴力を許すな」と大合唱を展開しました。警察は漁民のデモ指導者を逮捕し、徹底的に締め上げました。

 のちに二つの重大な事実が明らかになりました。この騒乱の前後に起きたことです。
 第一はこの一か月前、チッソは秘密裡に行っていた猫実験で、アセトアルデヒド工程の廃液を混ぜた餌を与え、ネコが水俣病になることを認識したのです。有機水銀が工場のなかで生成されていたことを実証する実験でした。この結果を伏したまま、東京から権威ある化学者を招いて、「水俣病の原因は腐った魚をたべたからだ」とか、あるいは「敗戦直後、海中に投棄した爆薬からの毒物散乱」といった説を流しました。これが地元熊本大学の突き止めた有機水銀説を否定する役割を演じたのです。つまり原因には諸説があり、チッソをただちに犯人とはしがたいという政府の言動を大きく助けたのです。

 第二は「排水口を封鎖せよ」という世論に押され、チッソは工場排水の排水の浄化装置としてサーキュレーターを突貫工事で建設しました。たしかに真っ黒な排水の色は薄められましたが、肝心の有機水銀を含む廃液はそこには通されていませんでした。起工式が大々的に行われ、これで排水は浄化されたとして、社長がその水を飲んで見せました。このことから漁民は排水口を止めろという要求は有る程度満たされたと信じたのです。ネコ実験の結果の隠蔽といい、このサーキュレーターのまやかしといい、チッソの加害者としての故意とその責任は動かす事ができません。
 このごまかしの期間を通じ、アセトアルデヒドは史上最高の生産をあげ、一方患者は不知火海の各地に発生したのです。チッソの重大な責任、それを助けた科学者の責任、チッソを後押しした政府の責任は明らかです。この間に水俣病の犠牲者はたとえば数百人ですんだかもしれないのに、垂れ流しを続けたことで、数万人もの被害者を生む結果を招いたのです。これが犯罪でなくてなんであろうか。公害企業の本質を見たのです。

 水俣病は人類がはじめて受けた受難です。しかも治癒する医療法はないのです。
 地上にはむかしから幾多の毒物があり、これにたいする対応は何億年の人類史のなかでそれなりにできている場合があります。たとえば無機水銀なら口に含んだだけで吐き出すとか胃の洗浄などでこれを防ぐ知識もあります。しかし有機水銀に汚染された魚は味も匂いも変わらず、口から入ったら最後、すべて吸収されるのです。
 有機水銀は20世紀に人工的に作られた毒物です。人類に生来備わった毒物への対応力が利かないのです。たとえば古来から毒物である無機水銀は、人体のメカニズムにより侵入防御のプラセンターバリアが働き、脳と子宮には侵入することは少ないのですが、有機水銀は選んで脳細胞に集まり、子宮を通じ胎児に蓄積されます。これが先天性水俣病、つまり胎児性水俣病患者を生みました。これは胎児の時期にへその緒を通じた食中毒です。これが遺伝でないことが唯一の救いですが、水俣病は親から遺伝するという誤解をひとびとに与え、さらに差別を助長しました。

 ご承知のように脳はほかの臓器とちがって再生されません。その脳の細胞の消滅によって、人間の人間的機能に決定的なダメージを受けるのです。手足の感覚を失い、視覚、聴覚をおかされ、運動失調や言語障害など、人類が数億年、数10億年かけて作り上げてきた人間的な能力を破壊するのです。

 水俣病以前に水俣病なし、人類のはじめての経験であり、原因が有機水銀と判明したとき、治癒不可能であることを知らされたのです。これはチェルノブイリの放射線被害とおなじではないでしょうか。その原因物質が20世紀の人工毒物である点でも一致します。科学技術への人間の過信のつけが今われわれに回されているのです。

 水俣病は45年の経過をもっています。現在、生存している患者は初期にみられた急性水俣病ではなく、長い間の微量の水銀摂取による慢性型水俣病となって苦しんでいます。かつてのように、すべての症状が揃ってはいないが、水俣病以外には考えられない自覚症状をもっています。しかし厄介なことに今日、慢性型の水俣病は外見では分かりません。脳の中枢が犯されているのであって、一見普通の体躯をしています。ときに脳性小児麻痺に似ており、老人性の中風、痴呆症状をも似ています。しかし黙っていれば患者かどうか見分けがつかない人も多いのです。経験ある医師は「話をしその日常生活迄立ち入ったとき、症状の現れがわかる」といいます。痙攣や筋肉の引きつり、頭痛、手足の触覚、味覚の喪失などです。しかしかつての初期の患者のように典型的ではない。そのことから患者はみずから患者と名乗りでることに、ある困難を感じています。たとえば他人から「補償金ほしさに患者といっているのではないか」と中傷される、つまり「ニセ患者」扱いされることへの恐怖です。それは人格的な批判になります。
 この差別構造は水俣病の症状の特異さが生んだものです。つまり患者にしか分らない自覚症状が慢性型水俣病の特徴だからです。こうしたことからいまなお水俣病患者として社会的に現れないでいる人が少なくないのです。差別を生みつづける水俣病の悲劇はいまも続いているのが現状です。
 水俣病事件発生当時、汚染された海で生活をしていた人は20万人、ながされた総水銀は 600トンといわれ、それは2億人を発症させるに足ると指摘されています。それにも関わらず、公的に水俣病と認定されている人は2000人にすぎません。その枠に入らない一万人のひとびとは差別のなかで水俣病を訴え、あるいは裁判で、あるいはチッソとの直接交渉を求めて10数年争ってきました。その争いがながく続いた原因は政府がその責任を認めようとしなかったからです。やがて国民的な世論は政府の償いを求めました。そこでようやく政府は一昨年、広範な患者に一律約2万$の一時金を支給し、医療費をチッソがみるという形で40年にわたる水俣病事件を政治的に解決しました。たしかに患者も合意の署名をしました。その多くは慢性型の患者であり、ニセ患者と差別されてきたひとびとです。それにも関わらず、政府はかれらを水俣病患者とはしないで、「その傾向があるひとびと」といった曖昧な処理をしました。「お金さえだせばいいだろう」という処理策です。そして今後の申し出る患者は一切認めない、これで打ち切りと宣言しました。それでは水俣病の差別の歴史のなかで声を上げ得なかったひとびとは切り捨てられることになります。すくなくとも不知火海沿岸20万人が影響をうけた事件としては、一万数千人の被害者で止どまることはないのです。このひとびとが死に絶えることで水俣病の終りとするつもりでしょう。あと50年もたてば今の患者は生物学的に死滅するからです。

 そもそも海は無限の包容力をもつと思われてきました。チッソの首脳は「海の希釈力を信じて汚水を有る程度放出してきた」と告白しました。しかし水俣病は海もまた病むことを教えてくれました。
 事件発生後45年、チッソと行政は汚染源の水俣湾を浚渫し埋め立て地を造成し、厖大な水銀ヘドロを封じこめました。地底にヘドロをあつめ土をかぶせています。その結果、湾内の魚の水銀値も低まり、ながく続いた水俣湾内の漁獲禁止もいまは解かれました。しかし日本は世界有数の地震国です。もし大地震があれば、護岸の壁はさけ、地中にある数千PPMのヘドロが液状化現象にとって噴出し、汚染が再び不知火海全域に広がる危険性がないとはいえません。いまの埋め立て工法は50年もつことを基準として決められています。水俣病患者がこうした対策にたいして不安と懐疑の念をもつことは当然です。科学技術への不信は消えていないのです。

 海をもとの自然に返すことは不可能です。しかし自然の復活力への希望を見失う事なく、すこしでも良い方向を目指して努力するしかなく、たとえ百年、数世紀かかろうとも水俣病の終わりとはいえる日の来る事を期待するほかありません。
 水俣病とはなんであったか、人間の奢りが自然を怒らせたのだと思います。事件を体験した私たちには、あと数十年の持ち時間がないかもしれません。水俣のいまなすべきことは、未来の世代にこの事件の真実を伝えることです。水俣病を繰り返してはならない。しかしアマゾンでもタンザニアでも水俣病の発生が憂慮されています。水俣病の苦しみはもう終らせなければなりません。そのために水俣病の教訓を世界に語り伝えていきたいと思います。この水俣病事件がみなさんのご参考になれば幸せです。
 ながいあいだご静聴ありがとうございました。