TV企画の提出にあたって
以下の諸企画は主に新聞からヒントを得たものですので、人脈の開拓は今後のことになります。しかしある程度見当のついているものばかりです
第一案『幕ひき後の水俣-はたして普通の街たり得るか』
第二案『プルトニュウム半島-下北半島・六ヵ所村の変貌』
第三案『地雷への回路-カンボジャで日本人のできること』
第四案『アメリカから見た沖縄-元駐留兵士たちのインタビュー』
第五案『アフガニスタンの日本人医師-僻地医療の現実』
詳説
第一案『幕ひき後の水俣-はたして普通の街たり得るか』
1、幕引きは患者の期待でもある。『いまさら水俣病のことなぞ』と。水俣病事件を忘れたい患者、自分が患者である事を隠したい患者、すべては過去に流していく患者たち。水俣病を後世まで語り継いでいくという積極的な患者は例外であり、数名しかいない。
2、チッソが憎しみの対象ではなくなった、『チッソはもう恨んではいない』という患者、むしろ、よくぞここまで年金を支払いを続けていると内心チッソに感謝する気持ちすらある。したがってチッソ倒産の声に最も敏感なのは当然かれらである。胎児性患者にはさらに強い。かれらの今後の寿命は格段に永いからだ。だがそのことを意識していない。
3、水俣病闘争の指導者だった緒方正人さんの患者運動からの離脱は1985年であった。申請者であることを自ら取り下げた。これは申請者の認定の運動を続けていこうとするものにとっては衝撃だった。かれは『チッソも人間として自然を汚染した罪を自覚せよ、患者もその点では人間として同じ地平にある』とのべた。だが『チッソを許す』風潮に、かれなりの荷担をしたことはあきらかだった。だがかれを公然と批判する患者はいなかった。
4、緒方正人さんは自ら水俣病患者に“認定”し、その及ぶ範囲の活動をしている。しかしチッソ、行政、国は敢えて相手とはしない、自分のおもった通りにすると公言することで、患者世界に個の運動をもちこんだ。団体依存ではなく個人の実行力の行使で、である。それがかえってチッソや行政のかれに対する丁重な引き腰の応対をもたらした。かれに続き数名の患者は行政の患者対策になくてはならない特別の厚遇を受け始めたといってよい。
5、1995年以来、水俣病事件の始末は急速にすすんだ。和解路線に国もチッソ、県とならんで解決にむかうようになったからである。
自己批判のもっとも早かったのは水俣市であり吉井市長の声明に市の責任がうたわれた。そして機会あるごとに水俣市の繁栄のためにはこれまでの差別と偏見を払拭することがかたられた。患者のこころは和み、市長への信頼は動かしがたいものとなった
6、チッソは『患者救済の責任を全うしたい』として県債をもとめた。それは満たされ、チッソは倒産を免れている。チッソの負担はさきの見えるものになった。すべき対象がかたまり、この長期の闘いのなかで患者の半分以上は死んだ。患者の平均寿命70歳、その死去と同時に水俣病は終焉を迎える。『死ぬまで待てというのか』とは患者の合い言葉であった。今回の補償金(一時金) 260万円、その数字は弁護団との永い地下工作で決まったものである。患者もこれを呑んだ。水俣病事件はこれにより実質的に幕引となったのである。
映画はこの時点から始まる。
もやいなおしの館。乙女塚。ほたるの家。石彫り場。ゴミの分別収集。高校生の演劇。緒方正人の生活。吹っ切れた杉本栄子。水俣市の様かわり。吉本哲郎-川と森の再発見。火祭り。慰霊式。メモリアルオブジェ。水俣病資料館。水俣病研究センター。安川夫妻。反農連。がいあ。水俣病センター相思社。埋め立て地。竹林公園。ハゼの木館。愛隣館。石飛部落。川本輝夫。浜元二徳。田上さん。胎児性患者たち。写真集をだした半永一光。機を織る坂本しのぶ。孤独な加賀田清子。個性的な金子雄二、鬼塚勇治、好奇心の強い長井勇。松村守芳、佐々木清登。鬼塚巌。はぐれ雲工房。石田勝。