企画『水俣の復活』ノート 企画書 <1999年(平11)>
 企画『水俣の復活』ノート

 -プロデューサーへの手紙-
 この一文は明快な意図をもつものではありません。ただ、いまの心境を綴り、自分の陥っている閉塞状況から逃れ出ようとするささやかな営為と思って下さい。
 寝ても覚めても一途に「仕事がしたい」と毎日懊悩しているのが現状です。いろいろな企画が新聞などから脳裏に浮かびますが、間もなくテレビのドキュメンタリー番組でそれが取り上げられ、まがりなりにも情報を拾い上げて、こちらの出鼻を挫いてくれるといったことの繰り返しです。例えば六カ所村周辺、動燃問題、北朝鮮事情などがそうです。いろいろ考えてもいつも振り出しの水俣に戻り、次回作はやはりこれしかないのではないかと思うのです。人生の総括めくかもしれませんが、水俣で映画生活の大半を過ごした私にふさわしい最終段階の企画はやはりそれなりに凝視しつづけた水俣しかないと思うのです。
 私が水俣病につきあってから約三十年になったことはご承知のとおりです。そのうち映画に関わり、みずからの作品を作ったのはそのなかばの十数年、『水俣病ーその三十年』(一九八六年)以降はテレビの仕事、しかもその“出演者”としてです。(『十六本目の水俣』(九二年)、『記録することの意味』(九六年)など)。その間九四年からは水俣・東京展の遺影あつめで一年間水俣に滞在、三十時間分ほどのビデオを撮ってきましたが、『遺影あつめ・四十年目の水俣』として、私本人の解説で水俣・東京展に一回発表したほか、いわば未完成のまま置いてあります。ひとつの作品にするにはインタビューがほとんど撮っていないし、構成を考えて撮影したものであったことと、遺影あつめが主目的であり、ビデオ撮影はやはりその余暇の仕事だったからです。
 これまでの水俣病映画の連作は「水俣病いまだ終わらず」が基調でした。しかし水俣病事件は九五年の政府の救済策を患者は受け入れることで画期を迎えたことは事実です。水俣病事件をここまで引き摺ってきた認定制度との闘いは終わりといっていいでしょう。しかし水俣病患者がなくなったわけではありません。患者は「自分の死ぬまでは水俣病は終わらない」と誰もがいいます。患者は死ぬまで補償を必要とします。その最も若い現在四十代の胎児性患者がその一生を終えるまでとして、あと四、五十年間は水俣病は終わったとはいえないでしょう。もしチッソがその間、経営不振に陥って補償責任を放棄したら、患者はふたたび闘いの場に追いやられるでしょう。そうなれば今度は直接国家が相手の困難な闘いになり、社会的にさらに少数者になるだけに先鋭な問題提起になります。チッソの存続に地元が必死に延命を望んでいるのもその潜在的危機感があるからです。またチッソも県債ほかの企業への救済策を期待し、患者の補償責任を主たる名目にその存続を維持しようとするでしょう。もはや水俣病問題は一民事事件をこえて国家レベルの構図のなかに取り込まれています。この危機感が水俣を突き動かす原動力であり続けるでしょう。

 水俣の状況はこの数年大きな変化を見せています。水俣病発生いらい、永く患者を疎外したままの市政が続いていました。これが転換の兆しを見せたのは水俣病公式発見から三十年経ったころ、具体的には岡田市長の時代からです。例えばヘドロ埋め立て地の完成、水俣病資料館の建設であり、毎年五月一日の慰霊式の年中行事の復活などです。さらに岡田市長の後を継いだ吉井現水俣市長はさらに患者に顔を向けた施策を打ち出しました。慰霊式ではっきりとそれまでの水俣病への市の姿勢の足らなかったことを率直に表明し、水俣病の解決に事件のもたらした市民の差別意識の払拭を訴え、市の水俣病問題への取り組みを実現していきました。毎年秋の埋め立て地での火祭りなどがそれです。同時に市の提唱する「もやい直し」がやがては市民の意識に影響を与えてきました。水俣病の最終解決に盛り込まれた「もやい直し館」の建設そして落成は建設地域周辺にそれなりの変化を生むはずです。これまで水俣市のこうした変化について目を向けてはきませんでした。しかし、市の流れはいわば大きく転換し、患者の長年の不信感は解きほぐされています。首長のリーダーシップはやはり自治体を動かすものでした。人口三万人余という水俣市の規模の自治体にとって首長の人格はある程度反映できるものだということを教えられました。
 目に見える事物の変化は人の意識を変えていきます。かつてのように水俣病を隠す方向ではなく、水俣病を忘れ去ることのできない歴史をして、水俣がこれを引き受けていく姿勢への変化がそれです。ただしこれをある脈絡をもって映画に取り上げることはしてきませんでした。数年前までは私には国県の行政のすること、なすことが「水俣病の幕引きを策すもの」と見え、水俣病をなかったものにする作為に思えました。その最たるものはヘドロ処理にともなう埋め立て地の造成でした。この景観の変化は見事に幕引きの効果をあげました。しかし市立水俣病資料館の建設は私の予想を超えました。市が「水俣病の教訓を後世に残す」という意義を掲げるまでに転換することはかつての水俣市の水俣病隠しの姿勢からは考えられないことだったからです。九二年の開館以来五年間で来館者は十万人を超えました。この頃からタブー視された水俣病について市民と一部の患者との間に対話が成立するようになりました。しかしそれはほとんどの患者の意識の解放にはつながりません。患者の側のタブーへの囚われは依然として残りました。水俣病資料館に地元の市民が足を運ばないことが悩みの種と館長は言います。まして患者で来館した人はごく少ないといわれます。慰霊式にも患者の参加は少なく、完成されたメモリアルの中心にある患者死亡者の名簿に名を連ねる同意者も現在百名前後、全死亡者(申請者のみ)の一割にも達していません。水俣病隠しは患者自身の選択になっているのです。

 患者はさらに変りました。時に裁判を頂点にいくつもの紛争のあった時期にはかれら自身の声、表現がありました。世の中に物をいう状況があったのです。しかし、九十五年の「最終解決」という政府の救済策を受容して以後、ほとんどの患者はものを言うことをやめるようになり、ことに写真や映画に進んで証言しようとする人はほとんどいなくなりました。プライバシイーの壁は強固になり、「もうよか。静かにしておいてくれ」というのが大勢です。そのなかで自分をさらして生きる人のほうが例外的でしょう。…ごく少数の患者は事件の歴史を引き受けていく生き方を選んでいます。川本輝夫氏はその代表的な存在です。また下からの運動もあります。たとえば緒方正人、杉本栄子、浜元二徳の各氏などの「本願の会」がそれです。埋め立て地に野仏を建立したいとする動きですが、これらは患者の自立した運動として目に見えるかたちになっています。こうした動きは変化の兆しに過ぎないのですが、内発的発想だけにやむことなく続くでしょう。これらはいま特記に値するもののひとつです。
 胎児性患者の諸君は中年期に入りました。最近、支援者の尽力もあって、半永一光の写真集『もやいなおし 撮るぞ』が出版されたことはひとつのニュースでした。カメラを手にして数千枚を撮っていたことがニュースではありません。かれの「写真集を作りたい」という要望を適えて、それを実現させた支援者の仕事がニュースでした。ここに支援者の存在が水俣の深いところに根ざしていることを知らされたからです。
 また支援者の中には水俣市の中枢に参画を促されている人材も現れてきました。人口三万余の小都市のなかに数十人のよそものである支援者が、運動者ではなく生活者として地域に根づき、十年二十年を経て、ようやくその存在をあらわにしてきたことはやはり画期的なことではないでしょうか。かつて水俣映画の連作にあたって敢えて支援者を描くことはしないで、あくまで患者を中心にして作品にしてきました。支援者は運動が節目をむかえれば去るものあり、いつかは消えていくものと考えていたからです。それが違いました。定住の生活がかれらを変えたのです。水俣もかれらを必要にしはじめた。かれらもそれに応えて順応している。有能な真摯な人材がどちらかといえば過疎の町に残った。これは水俣病事件の落とし子でしょうか。生活のしかたからうかがい知るかれらには新しい価値観、つまり自然思考、環境重視の考え方に立つ生産的な生き方が共通しています。かれらの多くは水俣の将来にその一生を賭けてみる価値を見出だしているようです。これはほかの公害事件史にはあまり見られなかった現象ではないでしょうか。水俣病史の四半世紀の時間を経て見えてきた支援者たちの記録があってしかるべきでしょう。
 水俣の知られざる一面にゴミ問題についての取り組みがあります。その徹底した分別方式、ガラス瓶にしても色分けしてだすやりかたはすでに数年の経験をへて全市に定着し、いまや日本で最もすすんだゴミ処理方式を達成したといわれています。水俣病事件の教訓を生活に生かすことを考えた市役所の一担当者の発想でした。市民にとっては煩らわしかったに違いないのですが、達成されたことは水俣ならではの市民の環境問題への意識が育っていたかです。これも今の水俣を語るに足るものでしょう。
 最近、水俣では川が再発見されはじめています。水俣川は水俣市内に源流をもち飲料水や農業用水だけでなく、川べりを整備、復元して、市民の生活の場の一部として見直されました。また源流から流域の森林から運ばれる栄養分が魚資源にとって切り離せないものとの認識が漁民にも伝えられるようになり、傾きかけた林業にたいしても行政サイドをふくめ関心がもたれています。これは海彦・山彦の発想であり珍しくはありませんが、いままでの映画が水俣病事件を海を主舞台に描いてきたことの偏よりを知らされました。

 時間の持つ作業力は圧倒的に思われます。水俣病の風化は確実に進むでしょう。水俣湾のヘドロ処理にあたって、再汚染をおそれ、住民・漁民による工事差止め仮処分の訴訟がありました。これは敗訴におわり、最汚染水域は埋め立てられ、その結果、魚類の汚染値は年々減少してきました。もし埋め立てがなかったら、仕切り網を撤去しなかったし、事態の改善は遅々たるものがあったでしょう。このことでは顧みて埋め立ての非を言うことはできません。
 「海は漁民からみても確実に蘇っている」といわれる(杉本雄氏)。九七年夏の仕切り網撤去は海の自浄力と時間の経過による自然の復元力を無言で伝えたものといえます。人間の政治的かけひきや思惑をこえて、この半世紀近くを経て海は蘇ってきたといっていいでしょう。水俣の未来はこの埋め立て地で失ったかつての海と景観の代償に、ここを“聖地”として残すという試みを貫くべきです。現状は患者のその思いを左右する政治の力如何にかかっています。

 水俣の蘇りは畢竟、人が蘇がえるかどうかにかかっています。公害の原点といわれてから久しいが、のべ数万人の被害者群像から、どのような思想が生み出されたのか。それは前に挙げた数人の患者に絞って抽出することができるかもしれません。それに加えて市民のなかからある典型的な人間を探し、かれらの水俣の未来像を引き出せないでしょうか。
 とくに水俣の若い人、ここでは水俣の高校生に焦点をあててみたいと思います。水俣高校演劇部は数年前に劇『たびだち』を作りました。これは修学旅行で他校の生徒から「水俣病は汚い」「感染(うつ)る」と言われて悩んだ高校生の体験から作られた創作劇です。これをその練習から舞台稽古まで追ったらなにが描かれるでしょうか。就職、結婚の際に差別された水俣出身のひけめが高校生の意識に重なってくると思います。

 こうしたテーマを軸にした未来志向の映画を作りたいというのが企画の狙いです。
 しかし、いざとなるとその実現のめどの立ち難いことに苦しみ、壁に突き当たっているのが実情でです。「いまさら水俣でもなかろう」という否定的な声が聞こえてきます。
 このごろしきりに「作家は前作に報復されるものである」と感じるようになりました。かつての水俣映画の連作がある以上、「また水俣か」という反応は必至です。テーマの持続は反復と紙一重、よくも悪くも新作の鮮度を低めます。また前作を超えるものでありたいという作り手の願望は自縄自縛をもたらし、その心理的負担は少なくありません。「今、なぜ水俣か」という設問に対し、「水俣病映画を撮ってきた人間としての自己総括と、水俣の未来に対する責任を映画で果したい」というだけでは人々を納得させ難いでしょう。この点に怯み、まだそれに応えるだけのイメージが熟成していない自分を率直に認めざるを得ません。またこのために予想される撮影体制、長期ロケになるであろうこと、その間のスタッフの確保、人件費を筆頭に製作費のことを考えると、普通の五、六人態勢で考えれば数千万円規模になるでしょう。それを考えると企画を進めることにある躊躇があります。はたして作品的に成功したとしても、元手の出費を回収するだけの上映収入の見通しがあるかといえば、この「水俣病事件は終わった」とされる今日の情勢のなか、かつてのような時代の順風を期待し難いでしょう。まずは困難とみてそれなりの製作体制の思い切った工夫が要るように思います。
 残された可能性は演出者がカメラ、この場合8mmビデオカメラを回し、助手に録音を担当してもらい、ふたりで水俣に暮らしながら、無理のないスケデュールで現場を処理することです。その上で本格的にスタッフの必要なシーンは短期間に集約して撮るといった方法を考えるほかありません。
 演出者がカメラをまわすことには技術的に問題があります。本来なら最低のスタッフが必要ですが、その悪条件をむしろ映画の作り方に取り込み、日記風な映画、私映画風にしていくことは可能性はないでしょうか。私たちの条件では残された道はそれしかありません。いま考えられる私の手持ち予算は一千万円です。これは遺影集めの一年滞在分から推定して、助手青木基子さんとふたりなら十カ月はやれる金額でしょう。この中からインタビュー撮影として一カ月ほど撮影部、録音部のロケと人件費の費用を捻出できると思います。できればビデオテープで最終仕上げしたうえでフィルムにして完成したい…その仕上げの数百万円分は別途必要になろうかと思います。つまり総額千五百万円です。

 考えてみれば間もなく六十九歳になります。体力、知力的にいって、あと数年仕事をできればよしとしなければなりません。残り時間は少なくなりました。水俣が最後の仕事である、といった気持はさらさらありませんが、もしそうなるとしても思い残すことはないでしょう。ひとりの人間のできることには限りがあることが分かります。その範疇のなかで映画の可能性を考えて、その企画意図の一端を述べた次第です。