『ぱるちざん前史』の背景とキーワード 2000,10,27 ノート <2000年(平12)>
『ぱるちざん前史』の背景とキーワード 2000,10,27

* この映画の舞台はおもに関西、とくには京大である。
 1968年、東大医学部の改革運動は他の学部を巻き込み、「反大学全共闘」運動へと発展し、並行して闘われた日大全共闘運動が全国各大学の学生運動を牽引した。その運動は新左翼の10年のたたかいの帰結であったが、運動組織は日本共産党のアンチテーゼと進んだ。1969年 1月、東大全共闘の安田講堂占拠は数日にわたる権力の攻撃によって敗北したが、いぜんとして全国各大学の闘争は続いていた。
 セクトは八派に区分され、各全共闘はそのいずれかの影響下にあり、セクトの力量は、その影響力の大小で計られた。
* この物語の背景にある武装闘争は、いわば権力側から強いられた戦術であった。60年安保の時代の大衆決起では見られないなかでのゲバルト方式が支配した。それはセクト間の抗争によって実体をつくりあげた。ゲバ棒と火炎瓶が主力であった。
* 東大の勢力の衰退のなかで、各派は全国全共闘会議を提起した。それは八派の連合であり、その秋の大衆行動の駒を用意する必要が先だった。
* 同志社大学は赤軍派をつくり、全国全共闘の八派体制に実力的に反抗して登場した。* 京大も中核派、第四インター、社青同などのセクトの牙城であったが、数か月にわたる闘いのなかで、少数ながらノンセクトを標榜する集団が京大、立命館大学にうまれていた。京大のL(文学部)を筆頭にC(教養学部)、A(農学部)のノンセクトは自然発生的に黒ヘルメット(無署名)で登場した。その数、約 300名、セクトのなかでは最低人数だった。しかしその指導者に滝田修がいたのである。
* 「反大学闘争事務局」の滝田修はセクト丸抱えの組織の前途に秋の闘争だけを射程にいれていることに強い危惧をもち「大学の解体(追放されることと同義語だった)ののちの市民社会のなかでの反権力闘争の組織論」として『共産主義的労働団・つまりパルチザン五人組』の組織を提唱した。それは「反大学」のあと、市民社会にちりじりになっていく運命を予感していた学生大衆の気持を一定程度汲み上げるものだった。闘いは大学拠点のバリケード占拠の夏休みの終わりからはじまった。
* 最初は理工系大学院の入試反対闘争だった。この制圧は簡単であった。試験会場を破壊すればよかった。
* だが軍事・武装を考えるには従来の運動組織ではアナーキーなだけで、集団行動の芯がなかった。ここで見様みまねの軍事訓練がはじまった。隊列行進が基本だった。自由参加のため、参加者は 100名を越え得なかった。
* おおくのノンセクト、すなわちパルチザンの同調集団にもその展望についての疑問があり、軍事訓練もマンガだとする批判者も少なくなかった。
* 「京大闘争」をどう終わらせるかは敵権力、学生セクトにとっても当面の攻防戦であった。京大の諸セクトは時計台のトリデ死守の力を絞った。パルチザンは公然とその名をなのり、市民を背後にした百万遍街頭闘争を組んだ。これも権力から強いられて闘争であり、敗北は眼に見えていた。
* この映画は敗北のあとパルチザンの展望の希薄ななかどう闘い進めるかの記録となった。