シベリア人の世界の構成 20001215 ノート <2000年(平12)>
シベリア人の世界の構成 20001215 

 この映画は私の企画ではない。当時の電通が二年を掛けて作り上げたプロジェクトだった。それは活字メディアは朝日新聞に映像メディアは日映新社にふりわけ、トヨタ自動車をスポンサーにしてシベリアをトヨタ車で横断するといういわばキャンペーンとして企画された。革命50周年記念、西側世界の取材としては第二次対戦後はじめてという画期的企画であった。シベリアという辺境の題材であることに興味をもった。しかし、今日のシベリアについての参考資料、記事、文献は皆無といえた。あったのは『今日のソ連邦』という日本語刊行物だったが、シベリアは少なかった。準備に二か月、そして撮影は1967年の六月から十一月の革命記念日まで、途中一回の帰国をはさんで、半年の旅と決められていた。
 そのフィルムはテレビ・シリーズに八本、そしていご長編記録映画に仕上げることが予定された。基本的には紀行映画だがシベリア人の実像に迫りたかった。それには対象を絞って人間観察する必要がある。しかしこの企画の枠ではその方法は困難であった。紀行映画には旅の初めがあり、終着点がある。その旅のスピードは決められていた。スケデュールが細かく一週間単位で刻まれる。いきおい短い出会いの中で一話をまとめなければならない。ほとんどぶっつけ本番の撮影の連続であった。
 当時の私は社会主義に人間の未来を託していた。それが遠い将来にせよその骨子と萌芽はシベリアに発見できるであろうと楽天的であった。だがその期待は瑣末なことで裏切られた。現地到着そうそうからコージネター役のソ連側は私たちの意欲をそぐようなチェック役に終始したのだ。取材地が多くの場合軍事要衝であったこともあるが、カメラのフレームまで口をいれ、用心をあからさまにする度に私たちはことごとに反発した。それが納得できれば妥協するのだが意思の疎通を欠くことがしばしばだったのだ。日本ロケ隊にスパイがいると考えられた節があった。思えば日本人の意識は反ソが主流ではなかったか
 記録映画が対象への信頼がなければ成り立たないことは当然であるが、その対象との間にソ連側“官僚”が入り、こちらの意図を取り違え、攪乱するのである。これには手を焼いた。地帯の大ロングや都会の俯瞰撮影なども、その遠景の山脈は撮影してはならないという。多分、要塞らしいものがあったのだろう。私たちにはかれらソ連側とスタッフを組めないことが、作品の上にマイナスの影を落とすことを警戒しなけばならなかった。
 この時期、冷戦の緊張に加えて、中ソとの国境紛争があった。極東ロシアはほとんど公開されていなかったのだ。私たちはやがておのずから中国びいきになり、断片で聞く文化大革命の正当性を信じるようになった。ソ連の硬直への反発であったろう。学生建設隊への辛口の批判も、文化大革命の一知半解の理解で生まれたものだった。いまは心痛む。
 ロケに入って二か月、撮影の打ち切りといった非常措置まで検討されたようだ。そしてイルクーツクでモスコワの指示を待つ為の休暇に入った。その結果ノーボスチは局面打開のため責任者を交替、再度調整の配慮を示した。女性のリーダーだった。これが功を奏した。それに加えて土本が強盗事件に会い、そのときの私の処理にかれらが感服したことによる。それ以後一転して協力的になった。作品のなかでブラーツクの若い市民の結婚の挿話などに明るい面が前面にでてきたのは当然の推移といえるだろう。ただラストの革命50周年の軍事パレードへの違和感はついに拭うことができなかった。辛口に終わった。ただシベリアの僻地の革命式典のなかにシベリア人らしさを見たのが救いだったと思う。
     
『シベリア人の世界』の構成 2000,12,17

1)プロローグ 1967年、モスコワのメーデーのスナップ(赤の広場)
字幕「1967年 ソ連邦は革命50周年を迎えた-今日もなお日ソ両国間に平和条約は結ばれていない。このことからくる制約はありながらも、これを機にはじめてシベリア取材を許可した」
(街角)字幕「この映画は社会主義ソ連邦をシベリア大陸にすむ人々の生活のなかにみようとした人間発見の旅の記録である」
スタッフ・タイトル 製作・堀場伸世/郡谷炳浚 撮影・山口貳朗 
           撮影助手・黒沢勇 演出協力・泉田昌慶 
           音楽・三木稔 解説・小松方正 録音・国島正男/安田哲男
           編集・太田百子 演出助手・片山龍峯 
           協力・リュドミラ・ボロズジナ/ノーボスチ通信社
           演出・土本典昭
 <ノーボスチ通信より4名のスタッフがついたが、うち2名はいわば監視役だった>
2)シベリア人の古いイメージ(歴史展示より複写)
 革命前シベリア人のスナップ。流刑者デカブリストとその妻の肖像。シベリア概説。
3)船上…ナホトカへ 「1967年 6月…」
 ナホトカ港のロングに、メインタイトル『シベリア人の世界』
 地図 行程図「広いシベリアにとっては点と線の旅であった…」
 <はじめ自動車によるシベリア横断5000キロドライブというふれこみであったが、現実には軍事地帯、非公開都市などのため、シベリア鉄道と空路の旅であり、ドライブは取材許可地点の周辺に限定された>
 シベリア鉄道起点のナホトカ駅発。
 「この辺り極東地区はいたるところが軍事地帯で上陸一歩から冷戦下の厳しい現実を縫っての旅となった」
4)国境の都会ハバロフスク
 アムール川は激しい対立を伝えられる中国との国境である(ホテル屋上から)
 <撮影規制は厳しく、ホテルの屋上からのカットは一旦没収され、点検のうえ返却された>
 気温27度の夏。町ゆく少女と人々「人ずれしていない」印象。
 アムール河畔の水浴。ボリュウムいっぱいのラジオがボイスオブアメリカの音楽を流している。ビキニ姿の女たち。
 土本の声「やっぱりいま流行は早いですよ。ハバロフスクでもジャズなどもうモスコワと全然かわらないんだな。もうこれはソビエトどこでもそうだ。とくに夏だからね」
 <土本の肉声は全編中で数か所使われている。ナレーションよりさらに主観的な場合> 国境の険悪を伝えられているのに意外とのんびりした風景に驚く。
 旧日本軍人の墓。
5)中ソ国境の町チタ。アジア色の濃い地帯。ナレーションでは「私たちはこの街でひとびとに問い質したい一つの思いがあった。
 それは同じ社会主義の国中国、いわば兄弟の国とのあいだに果たして銃をむけあうことがあるのかということ」とのべたが、現実にはこの種の質問要旨とここでの国境守備兵への取材とインタビューの要請はモスコワに照合の上、拒否された。
 平板な二つの質問に限る。「日本について/中国について」。新聞記者と労働者に問う。 だれの答えも慎重でどこか苦悩の感じがあった。
6)<ブリアートの首都ウランウデは現地到着後撮影不許可になった。軍事要衝の為>
 首都より 100キロはるかのブリアート人部落の訪問。総人口22万の少数民族の地帯のなかの1500人の牧畜の村である。外国人を初めて迎え、指導者たちの総出迎え。
 文化宮殿での歓迎の歌と踊り。小中学校での授業風景。
 小麦畑での飛行機による種の散布。遊牧の生活。ユルタでの暮らし。シャーマン像
 ユルタでの宴会。突然でた日本の歌、所望したブリアートの歌。
 羊毛刈りの風景。中学生の労働の模様。
7)バイカル湖、観光地でありながら汚染されていず、処女地の趣を残す。
 湖畔のシベリア最高のサナトリュウム。当然の権利として憩うひとびと。
8) イルクーツクの学生生活-ここには13の大学がある。シベリアの学生らしい夏の生活をの話題を追って、学生建設隊を取材した。
 学生建設隊の本部での指示。「自発的であること、自己犠牲的であること」。<中国の下放運動を念頭に入れてかれらの意識と行動をみようとした。そこに違和感があった> 19才のリュドミラ。アンガラ河畔の踊りと歌声に夢中の少女である。
 キャンプ地へいく。
 学生へのインタビュー。
 工場での労働現場。3000人のシェリホフ・アルミニューム工場。学生の働き手を要求する企業。学生と現場労働者の違いが浮き出してくる。干渉しない労働者。
 学生建設隊の主な目的「未来の指導者として労働者や大衆を指導する能力を養う事」とある。だが大人の労働者に一人前に扱ってはもらっていない。
 みどりのなかのキャンプ地。小川で水浴する女子建設隊員。
 土本の声「ひとりひとりの学生は真面目だし言う事ない。だけど外国の苦しんでいる学生たちを思うと、楽天的過ぎてね。アメリカや日本の学生は目をぎらぎらさせて苦しんで闘っている。そもそも学生がタイガにいくということは相当な自己犠牲とか自分を変えるとかという気持はあるかと思ったんだけど、キャンプにきて学生として楽しく過ごすという、それでまたよく働いている。いうことないんだけど…」と思う
 複雑な感想がある。かつての先進的な行動だった建設隊志願はいまでは学生の夏の制度的な行事になっている。やはりロマンチックな色が強いのだ。
9)シベリア開発の一角で汗を流す外国人学生の建設隊の道路建設はハードな作業だった。
 前に見たイルクーツクの学生建設隊にはなかったひたむきさが印象的だ。
10)アカデミゴロドク。科学者のお伽の街。人口は 35000人。急成長の新興学術都市である。11の研究所、一つの大学、そしてシベリア・アカデミーがある。
 完備されたアパート、豊富な品揃えスーパー。特権的な高級生活が保障されている。
 数学者の討論。純数学的な発見に勤しむ。蒸留水のような数学の街。「積分」という会員制のナイトクラブでツイストを踊るひとびと。今まで見たシベリアとは異質の街だった。ソ連邦に階級制度はないといわれるが特権的階層はいるとの印象だった。
 特別の天才児教育が日夜続く。すでに一生の仕事として数学を選んだ子供たち。教師としてアカデミー会員の相対性原理の講義。ひたむきなこどもたちの横顔。
 モスコワでは一度も展覧会の開けなかった不遇の画家マカリエンカの絵が堂々とかかげられている。
11)シベリア開発の最前線ブラーツク発電所の紹介。出力 450万KW。シベリアの最大の エネルギー拠点である。
 シベリア開発の理想的モデル都市といわれたブラーツク。人口16m万人に膨れ上がった。
 シベリア各地からの移住者。主婦も学生の若く、平均年齢29才。老人の姿はない。独身新婚者の世界である。建物はすべて新しい。ここでしか見られない社会である。
 託児所、組み立て式のアパート建設。40%高い僻地手当てを受ける。
 結婚、新郎新婦の紹介アナトリーとリューダ。彼女の月給 48000円,子供は二人に決めている。
 結婚式行事次第。一か月の考慮期間が置かれた上で挙式の運びとなる。友人の立ち会いしかない。アパートが与えられ、共稼ぎが保障されている。楽天的な未来がある。
 その披露宴、「苦いぞ、まだ苦い」といって二人のキッスをせがむひとびと。
 理想的か否かはさておき若い労働力を抱擁する都市生活があった。
12)地図ヤクーツクへさらに奥地ハンディガ。
 首都ヤクーツク点描。
 トナカイの群れを探す。トナカイの放牧中の消息は掴みがたい。遠来の客への最大の歓待としてトナカイに引き合わす。 800頭。いまは農業への手探りが続いている。
 野菜作りの試みの始まった村への旅。ここも外国人の訪問ははじめてである。
 川岸での歓待。手作り料理と歌での歓待。アジアのふるさとの音楽、友情の固めの踊り。
 土本の声「英語もなにも喋れない。アジアという言葉で分かり合うしかない」
 野菜はヤクートの歴史にはなかった。温室栽培という方法もここでは困難だった。寒地農業の経験を教えてようやく苗を育ててから短い夏の間に移植し実らせることに成功。 キュウリの採り入れ。いままで野菜をみたことのなかった生活のなかでは革命的だった。
 各自が当然のようにもいで食べる。かれらにとって革命とはこのキュウリと出会うことであったとすら思えた。
13)シベリアの奥バイカルに森林コルホーズを訪ねる。その町の人口1500人。この地の最も小さい集団のなかの革命50周年を見る為だ。
 寒い冬の訪れのなかでの伐採作業。
 伐採夫マモルコフさんの家の夕食。娘タマーラも学校で林業を学んでいる。
 コルホーズでのボーナス支給式。
 ピオニールのシベリア賛歌の詩。「シベリア、それは流刑の地。飢えと寒さにひとびとは悲惨な生活を送った。シベリアそれはこよなく美しい。シベリア、それは素晴らしく豊かだ。多くの革命家はシベリアに流され、そしてここで戦いを準備し、そして十月レーニンの指導の下、民衆は立ち上がった。その日からシベリアは夜明けを迎えた。そして限り無い未来が開かれた」
 シベリア人になりきって生きるひとびとを見る
14)モスコワ革命前夜。
 赤の広場
 その当日の朝。革命50週年の総仕上げの日、とくに最新兵器のデモンストレーションが焦点だった。この日の赤の広場は警戒厳重を極め、戒厳令下を思わせる。
 式典は国防大臣グチコフの総指揮のもとにおこなわれた。軍事パレードは赤軍時代から第二次大戦時代を代表する兵器の行進。それは過去を示している。そして式は現在と未 来を示す最新兵器の登場に至る。それ迄約一時間、休みなく続く大デモンストレーションとなった。<革命50周年がもっと民衆的に記念され祝われると想像していたわれわれには、この軍事色の式典だけではなにかが欠落しているように感じられた>
 その周辺の街角
 踊りを踊る市民たち。その日は祭りだった。一つの演説、一つのシュプレヒコールもでなかった。赤の広場にいける隊列は選ばれたエリートであった。民衆とは無縁なのだ。
 赤の広場は次第に巨大兵器が登場してくる。踊る市民。それを圧する兵器の行進、最後に人類のつくった最終兵器が登場した。<サウンドすべて消える>
 土本の声「やはりあれをみると素直に喜べないんだな。もしこれが爆発したらヒロシマ、ナガサキがあるし、地球が全部駄目になると。それでも受ける効果というの僕もロシア人もみな同じだと思う。そういったものを持たざるを得ない。それは分からないでは無いけれども、それを正面きって出して見せられると『そんなことでいいのか』つまりこの国が本当に先に伸びていくためにも、こういうものを無くしていく強い政治がないと誰も幸せになれないんじゃないかと」
 夜、広場に集まるひとびとの群れ。花火の舞う空。民衆 100万、時を忘れて立ち尽くし ている。
15)シベリア林業部落の朝。ここにも革命記念日がきた。大戦中モスコワ攻防戦に倒れた部落出身兵士の記念碑除幕式である。
 零下30度の寒さの中を部落のほとんどの人が参加していた。それぞれ自分たちで作ったプラカードを掲げていた。
 この行事は戦争を全く知らない戦後のひとびと青年共産同盟の手で行われた。
 ある戦没学生兵士ののこした言葉を思い出す。
 「私は社会主義の国にうまれ育ち、学んできました。社会主義は私の血肉のなかに食い込み、これなしに私の人生など考えられません。もし私が死んだら、祖国の解放のためにすべてを捧げ、あなたがたのために死んでいったのだと考えてください。私にはロシアがある」
 少女たちが絵葉書のレーニンを手に寒さのなか立ち尽くしているのが印象的だった。