2001年ゆふいん映画祭土本パネラー 座談会 <2001年(平13)>
土本典昭
いま野村さんがね、僕が頭に浮かべていたことを、先におっしゃってしまったので、頷くことが多いんですが。
僕が岩波映画に入ったころ、もう時枝さんなんか、二、三本作っておられた時代ですけども、東宝文化映画部出身の方が多かったんですよ。
東宝文化映画部からは亀井文夫さんが出ておられたり、岩波映画の指導者である、吉野馨治、小口禎三というような方が出ておられると。
じゃあ、東宝文化映画部というのはどういう謂れで出来たんだろうかとかいろいろ考えてみますと、どうも二つあるんですね。
一つはやっぱりドキュメンタリーの源流をそこで作られたという、後で考えるとそういう風に考えざるをえない、亀井文夫さんなんかの歴史を持っていると同時に、いま野村さんがいわれた「映画法」によって、劇映画と必ず文化映画をやることと。その文化映画が―当時、僕が小さい時に父親なんかに連れられていったときの文化映画というのは、記憶にあるのは戦争に関する、あるいは軍隊に対する映画だったりしたことが多いですね。―
たとえば、『空の新兵』(『空の少年兵』井上莞の間違いだとおもう)とか『轟沈』(渡辺義美)とか、その他にもちろんありますよ。『或る日の干潟』(下村兼史)とか『ある保母の記録』(水木荘也)とか、いろいろすぐれた記録映画がありますけども。
どうも「映画法」という国家の管理する映画政策の中で、ひと際、力点を国民の意識高揚に、戦争中ですね、意識高揚に向けて、それをさも解説を含めて、映画館の中で、劇映画で楽しむ一方ですね、そういうものを必ず見るようにというような、一つの枠組みというか、記録、文化映画につけられた、非常に負の一面も私の中には記憶としてあるんですね。
それで、あるいは遡ってドイツのヒットラー時代の映画には、文化映画という、なんとかカルチャラルなんとかというんですけど、そういうような伝統があったと聞きますし。
(「映画法」も「文化映画」も、当時の盟邦ナチス・ドイツがモデルである。1933年にヒットラー内閣が成立すると、映画を熟知する宣伝相ゲッベルスのもと、翌34(昭和9)年には早くも「映画法」が公布される。そのドイツで盛んに製作されていたKulturfilmを直訳すれば「文化映画」であり、代表的なニコラス・カウフマン博士監修の短編自然科学映画は既に日本に輸入され好評を得ていたこともあって、それまでの「教育映画」に代わって「文化映画」という用語が広く用いられるようになった。―出展は映像文化製作者連盟のHPで吉原順平さんが執筆しています)
なかなかそこのところでは、文化映画というのはスラッと僕にも頭に入りにくい。文化映画というと多分に啓蒙映画であったり、なにか一つのテーマがあって、それを噛んでふくめるように、子どもにも分かる形で解説する啓蒙映画という感じがどうも抜けきれない。
それで、記録映画という言葉が、早くから私の頭の中に主流を占めていまして、ドキュメンタリーというのはこの20年位前から、私の意識にはありますけれども、やはり記録映画という言葉が一番ピッタリくるというふうに思ってきました。
しかしながら映画というのは非常に多様であって、本当に文化をテーマにした、あるいは芸術描写をテーマにした、文化映画らしい文化映画というのも、松川さんの映画なんかはそうですけど、はっきりあるわけでして、そういった意味では、ドキュメンタリーの定義は曖昧なように、文化映画というのもまた曖昧なところを随分残していると。
しかし、ながら、こうやって文化映画というのをちゃんと見据えてみたいという時に、私は今日つくづく思ったんですが、例えば、『日本の鬼子』ですか、ああいった映画がほとんど上映の場を持てない。あるいは右翼の襲撃に曝されて、それを守る大衆的な上映組織がないということが、現実に片っ方にあって、こういう映画祭で取り上げられる、こういう映画祭でそれを支持する人たちがいるという時に、ゆふいんはやっぱりおもしろいなというふうに僕は思います。
5月のゴールデンウイークにも、いま問題になっております「ハンセン病」の映画を見たんです。これは有名な名の知れた監督ですが、中山節夫さんが二時間近い形で「ハンセン病の患者」をドキュメントした映画ですけど、上映会で聞いたことによると、ほとんど日本で上映の機会がないと聞いています。その映画はどういう映画かというと、いまの状況を先取りしたような立派な映画ですが、やはりそれを支持し守っていく、そういったことが作家側で十分出来ていないと、いうようなことを考えますと、映画祭として、文化映画、記録映画というものを軸においてやるんだということの意味は、やはり非常に大きいものがあるのではないかと改めて感じたりしているわけです。

※ 『空の新兵』(『空の少年兵』井上莞の間違いだとおもう)

※ 映画法の部分はのせるかどうかは、ご相談の上、決めてくださいね。インターネットでしらべていたらわかったんですよ。吉原さんはもと岩波映画の方だから、断れば大丈夫かもしれませんね。

社団法人 映像文化製作者連盟

土本典昭
そうですね。たまたま今度の映画祭で「『留学生チュア スイ リン』(1965年)というのをやっていただきますけれども。あの『留学生チュア スイ リン』(1965年)というのは、本来、言えば、テレビ局に、撮影して、編集して、納品すればそれで済むという、テレビの企画だったんですよ。
これは「ノンフィクション劇場」という名前をお聞きになったことがあると思いますが、東京でいえば、日本テレビ系なんですけれども、そこの牛山純一という優れたプロデューサーがいまして、彼のところで僕が仕事をしたときに、たまたま調べたテーマの中に、『留学生チュア スイ リン』(1965年)の原型があったものですから、私はチュア スイ リンに会って、テレビ番組を作ろうということでやっていたところがですね、非常に政治的な理由で、製作停止になったんです。
それで、明日お話しすることにしてますけども、かいつまんで言えば自分で作る以外になかった。それで、知り合いの、プロデューサー、羽田澄子さんのダンナですけれども、当時、藤プロダクションといったところの社長をしていた工藤充さんに相談し、それから瀬川順一とか、そういった仲間のカメラマンと相談して、ともかくもチュア スイ リンのために作ろうということで、作り上げたということが、偶然というべきか、必然的というべきか、こういった形のスタートになったということなんですが。
僕は、ちょっと、さっきから皆さんの話をきいて、僕の感じ方は特殊なのかなと思うんですが、僕はわりと映画人の多い町で育ったせいか、東宝撮影所とかいろんなところに見学に行く機会が多かったんです。東京の世田谷区ですけど。その時にいつしか頭に染み付いたことは、劇映画というのは、やっぱりなんていっても基本は、優れた監督は優れた脚本を必ず手にして、脚本を中心に台詞がきまり、あるいは撮影の日数が決まり、あるいはセットが決まり、予算が決まり、それの完成を待って、配給が決まるというふうにして進むわけですが、シナリオ抜きには成り立たない世界だと、その一行一行に凝縮されたものがあって、非常にうるさい監督、ラフな監督、いろいろあると思いますけど、基本が、計画的に作られるベースをもうけて、そこにいかに個性や創造性を発揮されるかということはあると思うんですが。
記録映画の場合はノートはあるんですけれども、いわゆる、これは「シーン1」であるとか、「シーン2」であるとかいうですね、かっちりとしたシナリオというのはおそらくみなさんそうでしょうけど、ノートはあってもシナリオというものはないと思うんですね。
漠然とした日数の制約はありますけれども、劇映画のように、カチンとした、逆算されたスケジュールはない。僕なんかの場合、特に、いつ終わるかがわからないけど、ともかく廻しているみたいなこと多くて、廻しながら、だいたいこの辺が話のまとまりどころだなと思って、それから編集というステップにいくと、そして撮ってきたものを徹底的に自分で相対的にみて、独りよがりはないか、あるいは無駄がないか、あんまり当ったり前なことを言ってやしないか、いろいろなことを考えながら、文章に言えば推敲していくと、その推敲の苦しみと楽しみの中で、撮影中の一番 自分が狙ったものが輝いてくると、ようなことがなんともいえない面白味でやっているということがあって、考えてみればそれはシナリオではなくて、スタッフ、カメラマンにしろ、録音にしろ、やはり一つの対象一つの現実とぶつかり合って、その点では同じように感応し、監督に働きかけ、あるいは対象に働きかけて、それぞれの仕事をしていくと、その全体が、まとめるのは監督であると思ってますけど、そのおもしろさはね、やはりみなに共有できているというふうに思うんですね。そういう意味でやはり、それが「遣らせ」があるとかないとか、劇映画と区別がつかないとかいろいろな言い方があるんでしょうけど、僕にとって、いわゆる一つのシナリオをもとにして展開して、そこで閉じていく世界ではなくて、まったくそういう意味ではプロセスがね、非常にユニークなものだと、それを私は、PR映画でもあまりかわらないんですよ、基本的にそういう形でやっていくものだというように思っているわけです。

土本典昭
僕は自分でキャメラを撮るのは嫌いじゃないんです。自分で撮ることについて、キャメラマンに対して申し訳ないとも思わないし、自分で撮って自分でまとめていくというようなことも嫌いではないんですが、どうも映画には、キャメラを覗いて考える脳の領域が、右とか左とかどっちかだとすると、演出を考える、例えばインタビュアーとなっていても、相手の心理をじーと読んでいく、そして質問を用意していく、あるいは相手の心の流れを見取るという部分の脳はこちら側だとすると、このサインでよかろうかと、キャメラを考えるのと、どうも右と左に分かれているのではないかという気がして。どうもキャメラと演出とは、やはり別な人格、別な神経、別な一つの働きの方がどうも良いではないかということがあるんで、私は出来るだけそうしたいと思っていますけれども。
最近のビデオの発達というのは、飛んで飛んで、映画の100年前に非常に似てきたんですね。ルミエールが、みなさんご承知のように映画を発明したときには、監督というのはいないんですね。キャメラマンが撮ってきて、キャメラマンが現像して、そして、キャメラマンが廻しながら解説していくと、いうことで映画を作るということではフィルムメーカーですけれども、一人がなんでもかんでもやってしまうと、その人の力量によって、人気があったり傑作が出来たりするというような時代が10年くらいあったのではないか。

その後、映画は商業化され、劇映画になっていくという皆さんもご存知のような歴史になっていくわけですが、現在のデジタルキャメラというのは一人で録音もできるし、かなり照明度もあるので、照明係もいらないし、重量も軽いし、フォーカスは合わせてくれるので撮影助手もいらない。※

最近のビデオを考え抜いた人は、かなり映像というものについて、クウォリティの高い考え方をしているので、それを、作られたデジタルキャメラを手にすれば、かなりのことが出来てしまう。それで、コストもずいぶん違いますし、やはり、また一つの新しいテクノロジーによる作家の参加の仕方が大きく変わってきた時ではないかと。これからどうなるかということは、一つまた僕は別の考えがありますけれども。
そういった、撮った者が上映し、撮ったものがしゃべっていくみたいなね、そういったわりと映像というものにスタートからつきまとっている問題が、いまやはり一つの夢を与えているのではないかと、デジタルキャメラを持つ人にですね、そういった時代だというふうに率直に思われます。

※ここでテープアウトしているので、平野さんが送ってくださった文章をそのままコピーしました。