講演『よみがえれカーブルの人びと』概要
私がアフガニスタンに興味を持ったのは、観光的にしか知らなかったその国に、1973年頃から反王政の動き、人民民主主義革命への胎動が始まったからである。それまで、アフガニスタンといえば、「シルクロードの東西文明の十字路」として知られてきたが、その現代史の知識は無かった。例えば、アフガニスタンには何故、鉄道がないのかを知るにも 100年前からに溯らなければならないと思う。
<ラフマンの時代- 100年前の国作り>
19世紀の後半、アフガニスタン王ラフマンはイギリスの保護領時代に、中央集権の国家を目指し、シルクロードの整備、再建をし、同時に郵便制度の拡大した。通商で生きる国家の構造ができたのである。人びとの移動には「通行料」が徴収され、商品には「関税」が掛けられ、その引き換えに街道の治安が保証されるという制度の原型を作った。
その時、彼は鉄道を求めたのだ。しかし、イギリスは帝政ロシアとの緩衝地帯アフガンに鉄道という「風穴」を開けることを許さなかった。しかも19世紀から20世紀にかけての40年間、他国がこの国に接触すること禁じ、実質的な「鎖国」を強いた。
<デュランド・ラインと英・露による国境確定>
さらに、イギリスは、1893年、使節デュランドを派遣し、当時のインドとの国境にいわゆるデュランド・ラインを引いた。このためアフガンの主要民族パシュトーンはこの線引きで二分された。ロシアも諸民族の言語、文化を無視して国境を策定した
以下、アフガニスタンの歩みを近代化、とくに婦人解放の試みを辿って語りたい。
<アマヌラー国王の時代>
ここでよく明治維新に例えられる1919年、アマヌラー国王の時代、アフガニスタンは、第三次対英戦争に勝ち、「独立宣言」を発表した。これに対し、レーニンのソビエト政府はどの国より早くアフガニスタンを承認した。日本では大正デモクラシーの時代であった。 アマヌラーは百年に及ぶバーラクザイ朝王権の成立基盤であった諸族長や聖職者などの王権に密着した既成の家臣を排して、当時、進歩的な「青年アフガン派」の活動家や若いインテリを登用した。
アフガニスタンの場合、女性解放と教育改革は密接に絡まっている。初等教育は義務とされ、首都に中学校が創設され、アフガンでは初めて女子学校もできた。その女生徒には制服が用意された。彼女らは「チャドリ」を着用せずに、外出することが許された。
また、アマヌラーは識字教育の創始者とも言われる。当時、非識字率90%だった。近代化と文盲一掃は彼の目標だった。彼自身が一つの識字学級を担当して教えたという。しかし女性への識字教育はイスラムの慣習の世界では困難であった。
<ザヒル・シャーと宰相・ダウド公の時代>
王制は権力争いのなか、1933年に殺されたナジル王を継いで、ザヒル・シャーは19才にして王位についた。彼の功績は第二次世界大戦中、あくまで中立を守った事である。
第二次世界大戦後、民主化の波が押し寄せた。議会は 120の議席のうち、進歩派が約50名を占め、出版の自由も認められた。だが、アフガニスタンには天然ガスと若干の非鉄資源しかなく、輸出品は羊の毛皮、皮製品、乾燥果実、絨毯などで、独自の資本蓄積はできない国であった。宰相ダウド公はソ連、アメリカなどからの膨大な援助、借款で経済建設を進めた。ソ連・米国は幹線道路、発電所、道路、運河、空港などに投資した。
<ダウド公時代の民主化運動、女性解放>
ダウド治世の10年間、義務教育の建て前にかかわらず、貧しさのため、就学児童の就学率は10%前後だった。識字運動は政策の柱とされたが、成果は10年間に5000人を越える程度、ことに女性層には殆ど手が付けられなかった。だが学生運動は激化した時期である。 ダウド公の女性政策はイスラム聖職者層から批判された。聖職者たちは「女性の地位向上に関するダウドの施策はイスラムの教義に反する」として、カーブルで反政府デモを行った。それはカンダハルにも飛び火し、数か月にわたってダウドは軍隊を出動させたという。そのなかで人民民主党は65年の普通選挙で女性候補を含む 4人を当選させた。
<人民民主党の公然化と学生運動に支えられ、共和制へのクーデターへ>
1973年、アフガニスタンは大飢饉に襲われた。餓死 8万人。それが政治危機に結びついた。ここに73年 7月、アフガニスタンを「共和国」に改革するダウド公のクーデターが起こった。流血は最小限であった。ひとびとは銃口や戦車の砲口に花を差した。いわゆる「カーネーション革命」といわれた。合法化された人民民主党もダウド公を支持した。
<人民民主党、やがて民主民族革命を掲げて四月革命へ>
しかし、人民民主党は65年の結党以来、「ハルク派」と「パルチャム派」に分裂していた。その違いは革命路線であった。やがて78年の「四月革命」へと進んだが、この党内の分裂が後々まで人民民主党政治の足をひっぱった。革命初期の誤った党の独裁と政治的反対派への強圧はかれらの武装反乱を招き、ついにソ連軍の進攻に至った。内戦が始まった。 人民民主党革命評議会の新政策の目玉は借金棒引きの「徳政令」と「土地改革」であり、「婦人の地位向上に関する布告」だった。男女同権を掲げ、女性を抑圧していた慣例を禁じた。例えば、多額な結納金制度を廃止するし、女性が自由に結婚相手を選べるように計った。一方、社会参加を奨励した。とくに識字運動への女性の参加はこの社会主義的政権のもっとも力を入れた政策の一つになった。これは85年、ユネスコに表彰された。
<人民民主党の成果と失敗-それを彼等の自己批判で辿る>
この時代を体制側はどう見ていたかを「10年後のナジブラ大統領の自己批判」の言葉から見てみる。そこにアフガニスタンの諸問題が率直に浮かび上がっているからだ。
例えば、89年、ナジブラは新憲法を作ったあと、党大会でいった。「人民民主党の初期のやり方には夥しい誤りがあった…教科書通りのやり方を機械的に適用し、政府計画の実現を焦りすぎた。聖職者の利害を考慮することなく、多民族国家の持つ民族問題からの逸脱も見られ、党が権力を独占した…このため大きな犠牲(内戦)を払うことになった」。
同様に、土地改革についての徹底的な自己批判やイスラム尊重への努力なども紹介する。
女性の教育と社会進出は革命政権の成果と言える。例えば教育費の無料。中学校の女性教師は1万1000人で過半数を占め、学校はもっぱら「女性の職場」であった等々。またソ連などの保険、医療施設への人的、物的援助は評価されるものであった。
ちなみにソ連首相ルイシコフによれば、アフガニスタン介入の総出費は日本円に換算して 9兆4500円という。もしこれがすべてアフガニスタンの社会基盤に投資されていたら、世界の歴史は変わっていた。今、この80年代を「歴史」として顧みる必要は無いだろうか。