講演『よみがえれカーブルの人びと』概要
ご覧戴いたビデオでお分かりの様に、私は人民民主党時代の人々を友好的に描いている。
私は社会主義のイディオロギ-に共感しながら学生・青年時代を送った。全学連が反戦運動と全面講和運動の一翼を担っていた時期、朝鮮戦争に反対し、60年安保闘争を専心した。その私がアフガニスタンに興味を持ったのは、「シルクロードの東西文明の十字路」といわれ、観光的にしか知らなかったその国に反王政の動き、人民民主主義革命への胎動が始まったからである。この時から新聞切り抜きを始めた。しかし、例えば「なぜアフガニスタンには鉄道がないのか」といった疑問を解くにも 100年単位でその歴史を辿らなければならないだろう。
<ラフマンの時代- 100年前の国作り>
1884年、王権を確立したアブドゥル・ラフマーン王はイギリスの準保護領とされているなか、ロシア・中国との国境を決め、まず、手がけたのはシルクロードの再建だった。平時の豊富な兵力を使って幹線道路の整備が行われた。オアシスごとに官営の「キャラバン・サライ(隊商宿)」が作られ、要所要所には軍の駐屯所が設けられ、関所が開かれた。
同時に郵便制度の拡大した。通商で生きる国家の構造ができたのである。人びとの移動には「通行料」が徴収され、商品には「関税」が掛けられ、その引き換えに街道の治安が保証されるというアフガニスタン固有の制度の原型を作った。その時、ラフマンは鉄道を求めた。内陸国アフガンの発展を強く望んだからである。
鉄道は内陸国に風穴を開けることを意味した。イギリスはアフガニスタンと他国との交流を嫌い、鉄道開設を許さなかった。この時代、この国に強制されたものは、英・露の緩衝地帯として、実質的に「鎖国」状態を維持させる事であった。19世紀から20世紀にかけての40年間、イギリスはアフガニスタンから外交権を剥奪し、世界的な進歩からこの国を取り残して顧みなかった。アフガニスタンの後進性の原因はこの「鎖国」にもあったろう。
<デュランド・ライン>
さらに、イギリスは、1893年、使節デュランドを派遣し、保護領下にあるアフガニスタンの王・ラフマンへ、年金授与の増額( 120万ルピーから 180万に)を条件に国境地帯を強奪することに成功した。これがデュランド・ラインとして、かつてのイギリス領インド、いまのパキスタンとの国境となった。アフガンの主要民族パシュトーン人総数1300万人はこの線引きで両分された。これがパキスタンとの絶えない紛争の火種となって、いまもパシュトーンの国を求める「パシュトニスタン問題」として、現在に持ち越されている。
多民族国家アフガニスタンは歴史的、地理的な必然ではなく、19世紀、英・露両帝国主義の侵略史の遺産であるという事はアフガン現代史を見るうえで忘れることはできない。
この「鎖国」を揺るがしたのは、隣接の国々、とくにロシアに起きつつ在った革命の動きであった。
<アマヌラー国王の時代>
ここでよく明治維新に例えられる1919年のアマヌラー国王の時代に移りたい。日本では大正デモクラシーの時代であった。
佐々木徹氏は「アマヌラ・ハーンは英明高き君主で、近代主義者だった」という。
アマヌラー国王の登場は世界史の激変期だった。1917年、アフガニスタンに南下政策を取ってきたツアーが打倒された。レ-ニンの率いる革命政権は権力掌握後、最初に「平和に関する布告」を発した。アフガニスタンは第三次のイギリス軍との闘いに勝ち、一か月で勝利し、ラワルピンディー条約によって完全独立が承認された。これに対し、レーニン政府はどの国より早くアフガニスタンを承認し、「アフガニスタンは世界で唯一の独立したムスレム国家であり、奴隷化された全ムスレム人民を団結させ、彼らを自由と独立への道に率いる偉大な歴史的課題をもっている」と書簡を送っている。同時にソ連は平和条約を批准させ、「現金その他の物質的援助」を約束した。援助額は 100万ルーブ、電信線の仮設と各種技術者を派遣した。アマヌラー国王がソ連と密接な関係を持とうとしたのは、革命への共感などではなく、イギリス帝国主義との対決において有利と考えたからである。
<アマヌラーの改革路線>
アマヌラーは百年に及ぶバーラクザイ朝王権の成立基盤であった諸族長や聖職者などの旧家臣団を排して、当時、進歩的な「青年アフガン派」の活動家や若いインテリを登用した。アマヌラー国王はヨーロッパ各地を視察した。そして「婦人の地位の向上」を掲げ、幼少時の結婚の廃止、すべての成人男女に選挙権を与える国会の設立をよびかけた。
アフガニスタンの歴史を通じて、女性解放と教育改革は密接に絡まっているようだ。
初等教育は義務とされ、首都には中学校が創設され、アフガンでは初めて女子学校ができた。その女生徒には制服が用意され、「チャドリ」を着用せずに、外出することを初めて許された。「青年アフガン派」出身者たちはこれを歓迎し奨励したと言われる。聖職者は公然と諸改革を非難し、とくに「チャドリ」を被らない若い女性への反発は露骨だった。国王が外遊中、お妃がスカート姿でいるときの写真がカーブルでばらまかれたという。
識字教育の創始者はアマヌラーである。当時、非識字率90%だった。近代化と文盲一掃は彼の目標だった。彼みずから教鞭をとって識字学級を担当したという。
1924年、聖職者と部族指導者による武装反乱が起きた。それは「婦人に対する公教育の実施、婦人への抑圧撤廃」に対する実力行使であった(エルネスト・ハーシュ)。このように婦人解放と識字運動は、その緒からイスラム宗教指導者に抵抗されたのである。
<ザヒル・シャーと宰相・ダウド公の時代>
王制は権力争いのなか、1933年に暗殺されたナジル王の跡を継いで、ザヒル・シャーは19才にして王位についた。彼の功績は第二次世界大戦中、あくまで中立を守った事である。
戦後、1946年、時の王族シャー・マフムード首相の時代、インドの独立運動や民族解放、民主化運動の波が押し寄せ、国会は当時 120の議席のうち、進歩派が約50名を占めた。
この王制のなかで歴代の首相は王族のなかから任命された。最も知られるのは王の従兄弟、モハメド・ダウド公は首相を10年続けた(1953-63)。彼はアメリカのわずかの援助を牽制するため、ソ連に接近した。米ソともに東西両陣営の優劣を競っていた時代である。
そもそも、アフガニスタンには天然ガスと若干の非鉄資源しかなく、輸出品は羊毛、綿花、皮製品、乾燥果実、絨毯などで、原資資本の蓄積の困難な国である。近代化には先進国の援助なしには成り立たなかった。アメリカやソ連が手を貸すのは当然…アメリカは大河川開発計画、ソ連はそれを上回るソルビ水力発電所、運河、道路の舗装整備、などだ。なかでもカーブルとソ連を結ぶ幹線道路に立ちはだかるサラン峠に3260mのトンネルを早くも64年に完成している。いわれるように79年のソ連軍の進攻のためとは言えないだろう。
<米・ソ援助合戦とソ連式国軍の整備>
ダウド公は米・ソからの援助を以て、国の基盤を確立しようとした。
米国は51年からの 5年間 200万ドルに対し、ソ連は54年に 350万ドルを与えた。ソ連のブルガーニン、フルシチョフらはカーブルを訪問し、友好関係を強めた。同時に「パシュトニスタン運動」への支持を表明、パキスタンを牽制した。
こうして新たに1億3000万ドルに及ぶ開発援助、武器購入に関する長期借款協定が締結された。空港の建設も米ソが競ったが、援助額ではソ連の方が圧倒的だった。1977年までの累積額では米国 4億ドル、ソ連が12億ドルと三倍の開きがあった。
少し溯るが、デュランド・ラインのことからパキスタンと国境線が問題になった。パキスタンは終始強硬で1961年には国交を断絶し、国境を封鎖したこれはアフガンの国際貿易の閉鎖を意味した。この失敗んからダウド公は首相を辞任し、ザヒル・シャーはようやく実権を手にいれた。
<王政の失政と民主化運動>
ザヒル・シャー治世、援助国の借款や援助は道路や飛行場の建設や総花的な公共投資に向けられ、民生部門は後回しにされがちで、人びとの生活は向上しなかった。主穀物・小麦の生産は 200万トンと変化せず、主要食肉の羊は1,500万頭を上下して増えなかった。
都市部の全国工場労働者は約 5万人、総賃金労働者数は13万人にも満たなかった。一方、公共事業汚職や援助金の着服、賄賂が王制官僚の間に瀰漫していた。
「義務教育」の建て前にかかわらず、貧しさのため、就学児童の就学率は17%だった。「識字運動」も政策に掲げられ、1968年、教育省の管轄で識字キャンペーンのための事務局ができた。だが四月革命の1978年までの成果は、10年間に男性で5000人を越える程度、女性層は僅かだった。依然として主婦の外出はイスラムの習俗に反するものとされていた。
政府は改めて、女性のための施策を強めたが、たちまち聖職者の層から反撃された。聖職者たちは「女性の地位向上に関する施策はイスラムの教義に反する」として、カーブルで反政府デモを行った。それはカンダハルにも飛び火し、蜂起となった。政府は数か月にわたって軍隊を出動させ、鎮圧にあたったという。
<激化した学生運動の時代>
ザヒル・シャーは新憲法を制定し、普通選挙が実施され、アフガン各界に自由と革新の気風が表れ、王政を激しく揺すぶるようになった。
翌65年夏、総選挙。これを期にのちに権力をにぎる人民民主党も登場した。バブラク・カルマルと女性のアナヒタ・ラテブザドらが当選した。党の指導者アナヒタ女史の登場は女性にとって革命的な出来事だったようだ。彼女は党の「顔」と言われた。
出版自由法も成立し、人民民主党系の新聞『ハルク』(主幹・タラキ)、ついで68年には『パルチャム』(主幹・カルマル)が発行された。ともに「社会変革なしにはアフガンの近代化は有り得ない」と論陣を張った。この主幹たちは10年後の四月革命を担った。
この時期68年には建築、運輸、繊維、セメント、石油などでこの国で最大規模の21ものストライキ闘争が起き、翌年には 1万5000人の大学、高校生が機動隊と衝突した。70年には女性たちが「権利の制限」に反対して街頭にでた。
69年10月、第二回総選挙が行われたが、不正な選挙に対する糾弾は国会開催とともに爆発、国会内での抗議行動になった。導火線になったのはカーブル大学やハビビヤ校の学生、それにイスラム原理主義の学生グループだった。その街頭デモに機銃掃射…抵抗は犠牲者を出したことで一層拡大された。アフガンの全学連時代ともいえようか。
<73年の大飢饉とクーデター>
アフガニスタンは乾燥大地での農業を高山からの雪どけ水に頼って営まれている。カレーズや農業水路が発達している。「山に雪が積もれば豊作」といわれる。そこに71年から、三年続きの大旱魃が襲った。飢死者50万人、ゴール州では家畜は殆どが飢え死にした。この危機に寄せられた外国からの救援金は腐敗した官僚によって横取りされ、救援穀物は小麦商人らに投機的に隠匿され、地主は売り惜しみで、いわゆる「飢饉成金」が生まれた。
この危機に際し、73年 7月、ダウド公は軍事クーデターを起こし、大統領兼首相となって「アフガニスタン共和国」を宣言、王制を廃止した。国王ザヒル・シャーは病気治療のためイタリアにいた時である。このクーデターの主戦力は空軍、陸軍戦車隊に所属する将校たちであったが、流血は最小限であった。カーブル市民は熱狂的にこのクーデターを迎え、兵たちの銃口や砲口を花で飾り、「カーネーション革命」ともいわれた。
そして社会主義革命を目指し、勢力をのばしつつあった人民民主党はこの「共和制」を積極的に支持、カルマルら4名が新内閣入りした。
<党派闘争を繰り返した人民民主党>
アフガニスタン国軍には人民民主党員とシンパが少なくなかった。とくに士官学校からソ連、ウズベックなどに年千人単位で留学した人たちである。そこで目の当たりにしたイスラム都市の近代化は、若い軍人たちに社会主義への眼を開かせたと言われる。
しかし、人民民主党は65年の結党以来、「ハルク派」と「パルチャム派」に党内対立していた。その違いは革命路線にあった。ともに一気に社会主義に行くのではなく、当面「民主革命」を目指すという点では同じであったが、「ハルク派」が労働者階級、とくに貧民や農民に近づくべきだとしたのに対し、「パルチャム派」は労働者階級はまだ未成熟であり、知識人、学生、軍、官吏に支持を広げるべきだとした。
この人民民主党の分裂は、77年に統一され、四月革命への道を進んだ。が、亀裂はあとあとまで党と民衆を苦しめることになった。
<ダウドの親ソ路線からの転換>
ダウドの共和国時代の1973年からの五年間は建国以来、続いていたソ連寄りの姿勢が米国寄りに転換する時期であった。特に米国と同盟を結んでいたイランのパーレビ国王は、世界第三位の石油収入をもとに「世界五大国への仲間入り」を夢見て、「ペルシャ湾・インド洋沿岸諸国の地域統合」を提唱し、アフガニスタンに接近した。75年には 7億ドルの巨額の借款を提供し、同時にパーレビはイランの秘密警察「サバック」を顧問として送り、ダウドの急進派の追放に関与させた。この時、米国のCIAも入ったと言われる。
ダウド公がイラン・米国寄りになるともに、人民民主党閣僚は罷免され、指導者タラキはじめ多くが投獄された。独裁的な体制に反対するイスラム主義者も牢獄に送られた。
そのなか、「パルチャム派」の指導者アクバル・ハイバルが射殺された。その葬儀には1万数千人が参加、「ダウド打倒」「イランのサバック・CIA帰れ」と叫んで激しいデモとなった。この勢いを駆ってか、10日後、1978年 4月、ダウド公とその家族を殺害、いわゆる「四月革命」が起こった。獄中にあったタラキが革命評議会議長として全権を掌握した。1978年 4月の「四月革命」である。これにより、1747年からのパシュトーン人ドゥッラーニー族のアフガン支配は終結した。
<四月革命と人民民主主義政権の誕生>
人民民主党の革命評議会はタラキを国家元首に、カルマル第一副首相、アミン第二副首相に新内閣を発足し、三大革命政策を発表した。
それは「農民徳政令」と「農地改革」、そして「婦人の地位向上に関する布告」だった。 7月、まず徳政令を実施し、農民の地主に対するすべての借金を棒引きにした。さらに抵当に取り上げられていた農地はもとの農民に返還されるとした。
ついで12月、農地改革を掲げて、一定以上の土地の私有を禁じ、没収した耕地の分配を開始し、一年間に60万ヘクタールの農地が30万戸の農民たちに分配された。
また「婦人の地位向上に関する布告」は男女同権を掲げ、女性を抑圧していた慣例を禁じた。例えば、男性側の年収の二、三年分という多額な結納金制度を廃止する一方、女性の方からも結婚相手を選べる自由を認め、また結婚前に処女を喪失した女性を罰する習俗を禁じた。そして女性が医者や教師や弁護士といったエリートだけでなく、一般の職業分野で働ける道を開いた。とくに識字運動への女性の参加はこの社会主義的政権のもっとも力を入れた政策の一つになった。
<カルマルのクーデターとソ連軍の時代>
これらの改革が、大地主であり債権者でもあった族長や聖職者たちの激しい抵抗を生み、その対応を巡って、早くも急進派「ハルク」と穏健派「パルチャム」の対立となった。
「パルチャム派」のカルマルは「ハルク派」によってチェッコ大使として左遷された。
この一年半の間に、アミンのクーデターで初代議長タラキは殺され、極左のアミンの独裁時代となった。のち、カルマルの時代の政府発表によれば「アミン(ハルク派)の時期に 1万5000人以上が投獄され、わが最良の革命家たち数千人が姿を消され」、さらに「イスラムを信じる敬廉な人々は粗暴きわまる手口で迫害され、侮辱された」という。
カルマルは79年12月、クーデターでアミンを倒した。これと同時にアフガンに進駐した。ソ連は武装反対派を支援するパキスタンとその背後のアメリカを牽制するつもりだったが、ムジャヒディンを結束させ、アフガン国内の国境地帯での内戦化は激化するのみだった。
以後、20年に及ぶ悲劇的な「兄弟殺し」の血塗られた内戦となったのはご承知の通り。ソ連の犯した誤りは彼ら自身によってのも語られている。しかし「傀儡政権」として国際社会から切り捨てられた「アフガニスタン民主共和国」時代の国民体験を語ったものは少ない。その良くも悪くも14年に及んだ実行支配の年月は切り捨てられるものだろうか。
最近、パキスタンのアハメド・ラシッド『タリバン』など、優れたドキュメントなどが次々に出ているが、これからアフガンの人びとの手で書かれた記録を待ってはじめてアフガン民衆史が完結だろう。それは何時か。アフガン人の「いつかは…」という時間の尺度は、最低10年という。それを待ちたいものだ。
さて、最近資料を再読して、例えば、指導者だったナジブラ大統領らの残した言葉から、革命の挫折の原因をかなり率直に語っているのを読み取ることができた。その言葉はやはり年月を経て初めて言えた幾つかを紹介したい。
<10年後のナジブラの自己批判>
89年、ナジブラは新憲法を作ったあと、党大会で言った。「人民民主党の初期のやり方には夥しい誤りがあった…法律に基づいて実施すべき民主民族革命の段階を無視し、教科書通りのやり方を機械的に適用し、政府計画の実現を焦りすぎた。それもアフガニスタンの歴史的な条件や、民衆の宗教的な伝統、さまざまな部族や聖職者の利害を考慮することなく、人民民主党以外の政治勢力を無視し、党が権力を独占、断行した…このため大きな犠牲を払うことになった」。いかに極左的、公式主義的だったかということだろう。
87年、党のなかの分裂と腐敗についてもナジブラーはいう。「党の分派主義と派閥主義はまさに党が結成されたその日から始まった。10年後のいまも残る派閥主義の根源はかつての業績の上にアグラをかいている指導者の存在にある。快適なポストを失うのを恐れている彼らは彼の支持者や親戚を党や国家の高い地位につけ、その忠誠心をあたかも大衆の支持のあらわれのように自己宣伝している」と前衛党にまではびこった縁故主義や氏族主義を批判している。
革命の目玉の土地改革についても失敗が指摘されていた。土地改革は貧農への徳政令と並行して行われた。時に農業問題に全く未熟な活動家が中央から派遣され、「小作農問題解決委員会」の指導員として土地改革を進めた。そして武装反対派に殺された。
89年、ナジブラはいう。「初期の土地改革に誤りがあった。農民の富農、中農、貧農などのランクづけにあたっては、その階層がさらに多様で、さまざまであることに注意が払われなかった。中規模土地所有者を大地主と混同されたりした。…アフガニスタンに於ける土地所有の上限を30ジェリーブ( 5ヘクタール)としたことも正しくない。地味によってはそれでは狭いのだ。科学的でもなく、中農の利害とも合致しなかった。他方でこのような措置は土地の細分化を招き、いたずらに灌漑用水を浪費させた。農業技術の活用や機械化もできず、農業生産は減少した。さらに農民はイスラムの慣習に従って、先祖伝来の土地を相続出来るように求めたが、このような事は土地改革にさいして考慮されなかった。82年、それらを改めたが、この結果、本来革命の同盟者であるべき勢力を敵に回し、そして穏健な勢力まで反政府側に追いやってしまったのである」と総括した。
<イスラム教徒への関係回復へ>
イスラム問題について、カルマル政権の首相ケシュトマンドはいち早く「イスラムを信じる敬廉な人民は粗暴きわまる手口で迫害され、侮辱された」と認めている。
人民民主党政府はイスラムに対しては、初期のアミン時代から、その尊重は謳っていたが、確かに青年党員による聖職者への蔑視や敵対的な行動があったようだ。
政府の発表では「アフガニスタンは98%がイスラム教徒であり、25万人から30万人の聖職者と 3万2000のモスクがある」という。
カルマル政府はイスラムへの優遇政策にいち早く切り換えた。そのテンポは急である。 88年の府の発表によれば、イスラム関係予算は87年までの 9年間で15億アフガニ(3000万ドル)という。これは革命前の50年間の支出の三倍に及ぶとの事だ。中身はモスクの修理、新設、聖職者から寺男までの給与、そしてメッカに延べ 2万5000人が国の一部または全額の資金援助などである。軍事費が政府予算の60%のなかで、国民和解のための配慮だろう。87年憲法では、その第 2条でイスラムを「国教」と定めた。なお同年、大学にスタッフ30人の「イスラム研究センター」を発足させている。
かつては党歌で始めた国会はコーランの朗唱に代わり、国旗も赤旗からイスラムの象徴図形である。活動家も数珠のようなタスベを手首から離さなくなった。
私は政府の数字を確認する事は出来ないが、ヘラート近郊の聖職者に聞いた限り、不満はないようだった。公務員並の給与を得ており、政府の援助で村からメッカ巡礼者もだしたという。
<識字運動は女性開放運動>
やはり人民民主党時代でもっとも評価できるのは識字運動であろう。
四月革命前は女性の98%、男性の85%が文盲だった。アマヌラー国王の1920年代からという「義務教育80年」にしては、この非識字率はあまりに高い。識字運動はすでに見たように、女性解放運動とおなじく、イスラムの保守的慣習の改革の歴史であった。革命政権にとって識字運動はただに教育ではなく、社会、家族、家長の意識を変える大事業であったろう。
女性を識字学校に引っ張りだすこと自体、夫や家長から反発があった。当初、その男たちを「反革命」として摘発、ときに拘禁した。のちに「識字運動で女をひっぱりだすことを強要したのが男たちの頭にきたからムジャヒディンになった」という話も真実だろう。 私が見るに、既婚女性は識字学校への往復にはブルカを被るのも現実だった。女性の識字教育は社会改革、男性の意識改革なしにはにっちもさっちも進まなかった。だが、84年には女性は年に 8万人以上が通うようになり、翌85年には「識字運動」はユネスコによって表彰された。
革命後の10年に延べ 195万人の男女が識字教育を終了し、80年代後半、年平均18万人が読み書きできるようになったという。最近の新聞によれば、識字率は男子40%、女子20%とある。これが本当とすれば、革命政権時代の識字運動があっての事ではないだろうか。
<女性の教育と社会進出> 。
「より良い生活には教育を」という自覚は女性に強い。それに教育費は無料である。
87年当時、アフガニスタンでは女学生総数44万人、中学校の女性教師は1万1000人で 7割を占め、学校はまさにもっぱら「女性の職場」になっている。カーブル大学では教師課程の学部は女子学生が 6割を超えていた。
革命は女性に仕事と政治活動に参加する機会を与えた。革命以前は5000人に過ぎなかったが、総数20万人以上の女性が工業、とくに軽工業、医療及び公共機関で働くようになった。教育庁では43%が女性職員と、政府機関では最高だが、しかし政府は「女性が指導部にはいない」と批判している。02年、新政権の女性省では女性が67割という。その点、過去を凌駕している(ここに私は最も希望を抱く)。
一方、母子家庭用の幼稚園兼託児所は革命前は国内全体でも12の幼稚園しかなかったが。88年、カーブルだけで 140園に増えたという。また、産休の後は90日の育児休暇が取れる。 最近まで産科の療養所はカーブルに一つしかなく、医者の助けで分娩するのはカーブル婦人の20%に過ぎなかったが、1987年に産科療養所ができ、婦人の50% が病院分娩できるようになった。女医は医者全体の 4割に達しているという。
<義務教育>
88年、「小学校の就学率はまだ半数」といわれる。生徒の貧しさと労働の必要からの不登校…として、朝食分としてナン三枚分の現金を支給していた。すべての生徒に制服とノート、ペン、鉛筆その他が無料で供与されている。これは全国で実施の予定というが、私の訪ねた農村部では見られなかった。そこでは女子のクラスも閉鎖されていた。カーブルや主要な都市は先進的なモデル地区とされていた。
87年夏には3000人の生徒がソ連・ウズベックなどの招待で初めて外国訪問をしたという。
<保健行政は国際支援で成立…>
私の体験談であるが、88年、カーブルで歯茎が化膿した時、ソ連の援助で83年に建てられた中央外来専門クリニックで手術したが、手術台は東独のシーメンス製だった。その治療費は無料、ただ鎮痛のクスリ代だけだった。また、名前の書けない市民むけの受付があった。ここは南西アジア最大の病院という。他にジャララバードにもヘラートにもソ連は病院、流行予防センターと母子保健センターを開設していた。
もともと無料の医療・保健・教育などは全くの非採算部門である。社会主義国間の連帯意識なしにはこの投資は考えられない。
当時、医学生4000人がソ連、社会主義諸国の医科大学に学んでいるという。こうした協力に、関係者は「無私、無欲の援助」と感謝していた。 ちなみにソ連首相のルイシコフの最高会議での発言によれば、80年から89年までのアフガニスタン介入の総出費は 450億ルーブル(日本円に換算して 9兆4500円)という。この分がアフガニスタンの社会基盤に投資されていたら、アフガンのみならず、世界の歴史が変わっていただろう。
<人材の国外流出・歴史への再考>
人民民主党のナジブラ議長は87年のローヤ・ジルガで 7年任期の大統領に選出された。 彼の中心政策は国民和解であった。彼の努力は政治的反対派・ムジャヒディンとの和解の為に憲法を度々修正して敷居を低めることだった。一党独裁を多党連合に改め、87年には国名をアフガニスタン民主共和国からアフガニスタン共和国として、「民主」さえ共産主義的と言われるのを避けてカットした。92年にはさらに党名さえ「祖国党」に変えて、ムジャヒディンの暫定政府への参加を期待したが、遅きに失した。反政府間の内戦は激化は止まなかった。
89年 6月頃から合法的にインド経由の亡命が許されるや、各大学の教授や講師の 6割が外国に脱出した。人材の国外流出は、四月革命の時、ソ連軍進攻、そして撤退時と三度である。どれだけ優秀な学識経験者や実務家、専門家、官僚経験者ら亡命したであろうか。
「ソ連軍が撤退したら1か月で崩壊する」と言われたナジブラ政権は後 3年維持された。 92年 3月「暫定政権が平和を保証すれば、喜んで引退する」と表明、暫定評議会の部隊のカーブル無血入城を見た。
ナジブラはその三年前の89年、言っている。
「はっきり言っておくが、アフガニスタンが国内のさまざまな民族意識を十分に形成し、ひとつに統一された国民性を作りだすに至るには、いまなお長い年月を要するであろう」。 それは人民民主党による実効支配14年の政治家としての認識であろう。今もリアルではないか。彼ら活動家は自分を「デモクラット」と言うのを好んだ。それは私には「イスラム民主主義者」とも言っているように思えた。
この1980年代、民主主義を理想として、国つくりに参加した人びとの体験を含め、アフガニスタンのかつての王政時代から現在までの民衆 100年の歴史から、明日への教訓を引き出せるのはひとえにアフガニスタンの人々であろう。
(2003,2,1)