映画『水俣』の背景「鉱脈」1月30日
ただいま御紹介にあずかりました土本です。昨日、一昨日と鉱脈編集委員会の方々のお力によりまして、この宮崎で映画会をもったことを非常にうれしく思います。昨日飛行機で着きまして、東京と比べて一カ月くらい明るい空と海を見ていましたとき、水俣を見た僕には、こういう美しい所を見ると、何か美しければそのまま手放しできれいだといってられないような、いつまでこれがつづくのかという不安があったわけです。それが、宮崎に初めてきた私の非常に小さな感想ですが、今日は、この映画ができるまでの中で、私にとって非常に印象に残っていることを二、三お話ししたいと思います。
実は、私はいままで岩波映画というところにおりまして、十六年ぐらい映画を作っております。科学映画とか医学映画をたくさん作っている会社でございますが、僕は科学とか医学にどっちかというと弱いものですから、公害といったものを科学的医学的にとらえるといった映画をいままで一作も作っておりません。それから、いわゆる公害のキャンペーンの問題その他について充分勉強したこともなく、現在でも水俣病の本当の科学的な用語を存じません。非常に不勉強なんですが、今度の映画は、そういう自分の不得意をものとは別なところで作ったように思います。やはり、記録映画をこころざすということは、現在の社会を凝視しようというか、ゆっくり見て、われわれの存在する社会というのは、果してどんなものであるかということを凝視のはてに見すえようということであるし、それは記録映画の一つの固有な作業だと思います。そういうことで、記録映画をやるものは、いずれの題材を選ぼうとも、社会の間題、社会の矛盾といったものに突き当るわけで、そういった意味ではやはり、公害問題について関心がなかったとはいえません。
私自身、非常にささやかな仕事ですが、いつも思っていたことは、現状に対する自分たちの憤りとその憤る一歩手前の踏んばりとかいうものを、いつも、実在するあらゆる労働者や学生を対象に撮ってきたように思うんですが、水俣については、撮る前に、非常に手に余るもんだという思いの方が強くて、素直に撮影に入ることができないでいたわけです。
何かにも書きましたが、昭和四十年ごろ、「忘れられた皇軍」とか「ベトナム海兵大戦記」とかいう番組でご承知と思いますが、日本テレビのノンフィクション劇場という、かなりズケズケものがいえそうな番組がありまして、私もそれに参加していました。当時は、記録映画を撮って世の中に出すということが非常に困難な時代だったものですから、テレビの中で記録映画の方法をぶつけてみたい、というモチーフがありまして、そのとき三つの企画を持っておりました。一つは受験生の問題です。ちょうどベビーブームで受験生が狭い門を雪崩を打ってでてくる。その殆んどが浪人生活をするといった状況がありまして、そういった大学受験を目ざす学生たちー大学受験という構造そのも人のに非常な疑惑が持たれているわけですがーを題材にする映画。もう一つは、留学生です。チュア・スイ・リンというマレーシアの留学生がいまして、この留学生は、祖国の英領マラヤがある程度の自主的権限をもってマレーシアという国に独立したときに、依然として軍事基地はあるし、イギリスの権益は多いしということで、日本にあるイギリス大使館に在日マラヤ人の学生の人たちがデモをかけましたときに、たまたま、その学生たちの組織している団体のキャップだったもんですから、母国政府から帰国命令がだされて、もう投獄が用意されているということでした。それに対して文部省が国費留学生の国費打切り、在籍している千葉大では、救援会の決議を経ないで、その学生を追い出すというようなことがあった。で、この間題もぜひやりたいと思っていました。もう一つは、水俣病です。ちょうど四十年というのが、水俣病が生まれて十年以上の歳月が経っており、その数年前に、胎児性水俣病が、脳性小児マヒと思われていたのが、胎児性の水俣病であると学問的を見解もで、その胎児性の子どもたちがどうしているかということを撮ってはどうかという案が出まして、それはぜひ撮らにゃいかんと決めたわけです。
そういうわけで、僕自身が半年間に追及すべき三つの題材のうちの一つとして、水俣病のことを初めて考えたわけです。大変に資料的にーあったのかもしれませんがー乏しい時期で、新聞の切り抜きとか、そういうものをいっさい見たつもりですが、ちょうど私が行きます二、三年前に、チッソの合理化反対の大斗争がありまして、第一組合と第二組合と分裂するという大変な試練を経て、組合斗争が斗かわれておりまして、そのことに隠れて、水俣病の問題というのはほとんど知られていなかったという時期ではなかったかと思います。
そして、それを調べるにつれて、その当時、熊大の先生たちによって、原因はチッソの廃液によるという説が、ある程度明確にされ始めていることを知りまして、僕は、そういう点は、あまり調べなくても確信するほうだもんですから、これは明らかに工場廃液によるということで、一種の安っぽい正義感みたいなものを持ちまして、闇雲に水俣にとんだわけです。そして、熊本で熊本大学の先生、喜多村さんと武内さんだと思いましたがーに会い「水俣病のことにつりて映画を、ついては、いろいろ先生方の研究したものも映画として撮らしてもらいたい」「猫の実験とかそういったものも是非撮らしてもらいたい」と、普通のテレビ屋の神経でやったわけです。それに対し、熊本大学の先生の非常に印象的だったのは、実は私たちは大体原因はつきとめましたが、ここに来るまでに東京から動員されてくる学者あるいは通産省やその他で用意している学者による学問的見解なりによって、熊本大学のこの地道な業績というのは、ほとんど無視去れてきた。その中でやっと、やっとここまできた、しかしながら、やはり自分たちは軽率にそれについての見解を述べるわけにいかない、だから、テレビ軽々しく取材協力できないというような返事があったことです。そのことは、後で考えてみますと、昭和四十三年に厚生省の見解がでるまでに、熊本大学としては地道にいろいろな研究を積み上げられたと思うんですが、東京工大の清浦教授とかそれから大島教授とかいう人たちが、腐った魚に上るというアミン説とか、戦争中の爆薬を海に投じたために、その爆薬によって生まれた科学的な毒であろうとかいう攪乱操作を行なったということは皆さん御承知だと思いますが、そういう中央の人々によってさんざん痛めつけられたことから、やっぱり、僕らが単純に、正義感だとか、あるいは真実がなんてことをいっている青二歳的なものに、全然開く耳持たんと、いうか、協力できんという非常に慎重な態度が表われたんだと思うんです。それで、こういう映画には最低限そういうた研究の業績を追いたいと思っていたんですが、それはほとんど断念せざるを得なかったというのが、そのときの私の率直な感想でした。
で、その当時、こういう切り抜きがあったわけです。熊本の短大のさる老教授が、自分の生徒たちとともに水俣に行って胎児性の子どもを見たが、もう大変気の毒である。従って、この子どもたちに対し絶えず贈り物を送り続けたいそれから、付き添い手当てというものがなくて非常に困難を極めているから、われわれの力で一人のケースワーカーを送り込みたい、その生活費や資金は熊本の短大が保証するようにしたいということで、若い短大の卒業間近い女子学生ーこの人は実際には後で、熊本市立病院のケースワーカーになられまして、いまもリハビリテーションに勤めているんですがーが、これから実習に行くからという話を開きまして、その人が水俣に入る記録を撮ろうというふうに考えたわけです。その当時の学生の意識を申しますと、それが全部だったかどうかは分りませんが、熊本短大の中には非常に生き生きしたはずんだ空気がありまして、私たちは水俣病の子どもたちに非常に関心を持っているんだ、この子どもたちを慰めなきゃいけないんだという、若々しいというか幼いというか、そういった気分が横溢していまして、カメラをもって部室に訪ねていきますと、皆んな非常に顔が紅潮して、自分たちの仕事のなんでも撮って下さいという形で、熊本で初めて水俣病のことを考えている人たちに会えたをという気がして、キャメラを回し始めたんです。それは水俣に行く前です。
当時、水俣病の実態を撮った写真がありました。大学を出てから二三年で、当時無名の桑原史成さんが、延べ百日以上だと思いますが水俣に滞在して、大変優れた写真をは撮っていたわけです。その写真を、学生たちが街頭展示とか学内展示用にパネルに引延しまして、部屋にいっぱい積んであったんですが、そのパネルをちょっと見ますと、全部、目のところに黄色いテープで目張がしてあるわけです。で、何で目張をしているのかと聞きますと、やはり当人たちに迷惑だからというということで、何となしに、その迷惑だからということが分ったような分らないような形だったんです。が、いろいろ考えて見ますと、やっぱり記録映画の中でこういった題材を撮る場合に、大変に迷惑をかけるということが考えられると同時に、やはり、犯罪者とかあるいは極端をプライバシーとかいう個人に帰する問題じゃなくて、チッソの工場のたれ流しによる、そのことが原因の病状であり、それによってもたらされた奇形化であり、病状だというならば、やはりそれはおかしな暗い処置ではないかというふうに、学生と討論しまして、それならば、これは僕たちが勝手に張ったんだからはがし取って結構ということで、実はその学生の討論を入れまして、その眼張をはがすシーンをキャメラで撮ることをプロローグにして水俣に入ったわけです。
私は九州は方々歩いていますが、水俣の美しさというのはその当時も変わないんですが、広い水俣に来てみまして、入った当座は市民の人にインタビューすることから始めたわけです。が、市民の人たちは、水俣病というと、やっぱり非常に特殊な反応を示す、で、中学生に聞くと、ほとんど、知らないという返事が戻ってくるし、大人とか労働者に聞いても、マイクがあると絶対言わないというようなことでした。まあ、他所の土地に行きますと、親しく喋れるのは買い物途中のおばさんだとか、喫茶店の人だとか、タクシーの人だとかで、そういうところから残念ながら話が始まらざるを得ないわけで、一挙に中心人物と話ができないもんですから、そういう人たちに聞きますと、やはり水俣病については、明らかに喋りたくないというふん囲気が非常に強いわけです。
で、彼女はケースワーカーとして水俣に人るということで、非常に胸をふくらませて、最初の、新任あいさつをしていったわけですが、市役所も、病院も回って、いよいよ各病室の患者さんに、私は今度四月からケースワーカーになります、にしきたゆみでございます。仲良くしましょうねというあいさつをしにいったわけです。私もその彼女とともにカメラで回ったわけです。病院に行って非常に驚ろいたのは、入口は本当に活気がある、ー病院に活気があったらおかしいんですがー受付は雑沓しているんですが、水俣病の患者さんのいる所は、そういう活気とはかけ離れた一番奥の病棟、市民病院で、あらゆる施療室の棟、それから立派な病棟が何棟かありまして、その最後の病棟に、水俣病の患者さんが押し込められているという感じで、入っていくと非常に分りにくいんです。それは裏口というのがあったのかもしれませんが、非常にわかりにくいし、普通だったら絶対に足を踏み込まない最後の果ての棟におられる、そして、そこに非常に大きい広間がありまして、胎児性の子どもたちが、あの時は六つ、七つ、八つくらいだったと思うんですが、そこに皆んな集まって遊んでいるんです。言葉にならない言葉をあげ、身体が自由にならない、物がつかめないという状態で七八人遊んでいるわけです。僕の驚ろきは相当なものでしたが、ところがその子どもたちはテレビとか写真とかいうのに非常に慣れているわけです。おそらくは、子どもたちは生まれた時から、報道陣も眼の前にいたでしょうし、新聞記者もきたでしょうし、あるいは学術的な写真や8ミリもとられただろうと思うんですが、キャメラというものも感覚的に知っているわけです。それから、マイクというものも何となしに知っている、ところが、キャメラに向かってどうこうするとか、マイクに向かって何か喋る真似をするという反応じやなくて、明らかに、そういう人たちが生まれたときから自分の身辺にいたという知り方をしているわけです。普通の子のように恥ずかしがるとか、拒否反応というものはほとんど見られない。そういった子どもでありながら、それでもやはり、僕たちのように外から入ったものに対する何とも物憂い反応がある。そして、その子たちが撮影を絶対拒否しないだけに、やっぱりこの子たちを撮ることについて、非常に心が痛んだわけです。が、その当時、何としてもテレビを作ろうという非常にスケベエな思いがあるもんですから、逆に言えば、この子たちなら映画を撮れるかもしれないというふうに思ったわけです。
それから、あそこに生きていた、生きている人形といわれている、今でも奇跡的に生きているといわれている松永久美子ちゃんっていう子がいるんですが、その子どもを見たときには全く絶句するしかなかった、生きているか死んでいるか確かめる方法というのが、いっさい僕自身持てないで、何か本当に水俣病の祖像というか原型を見るような思いがして、こればっかりは本当に直視しえない状態だったわけです。
そう、いった病室を巡りまして、最後に今度の映画の中でまた改めて撮りましたが、坂本タカエちゃんという人が入っている病室ー他に四人くらいいる女の病室ですーへ彼女があいさつに行くところを、マイクとキャメラで向かったところが、全員逃げて。逃げ遅れたタカエちゃんが、あいさつに来た彼女に向かってものを喋るわけなんです。が、キャメラがあってものを喋るわけですから、それは自然なふうにいかないわけです。ですから、タカエちゃんはベッドの縁にしゃがみこんで、顔を全部隠してしまう。もちろん、映画を撮りますということは断わりはしたんですが、もうそういうことではなくて、ともかく顔を撮られるのが嫌だと、いう形で蹲ってしまう。彼女も蹲ってしまう。結局カメラは、うずくまりながらもなおべッドのはしにかすかに出ている髪の毛の教センチを、つまり、それ以外ない白いべットだけを長く長く撮って終わったようなわけなんです。非常に思わぬ経験でしたが、そのことで水俣病とカメラとの関係をかろうじて保ったわけなんです。
それで、胸ふくらましてケースワーカーを志してきた西北さんにしても、僕にしても、水俣で働くとかあるいは水俣でケースワーカーになるとか、さらにそれとは達った形で水俣病のことについて何か役にたとうとか、映像で何とかしようとかいうことがあったんですが、どんなにかそんなに単純なわけにはいかないかということを思い知らされたか分らないわけです。結局その映画はキャメラならびに西北ユミさんの記録になってしまいまして、水俣病の患者さんを本当に掘り下げて撮るということはついにできませんでした。で、僕としては非常に手痛い教訓と失敗であったし、それから記録として撮るということは、自分の主体的な立場がどうでなきゃいけないかということを、端的に示されたような気がしたわけです。確か湯堂の部落に行った時なんですが、袋湾というのがあって、非常に風景がきれいな所をんです。そこに、きょうは風景を撮ろうということで、あゝだこうだ、天気がどうだってことで雲眺めたりしていましたが、急に、ある患者さんの軒先で、すさまじい騒ぎが起きまして、人に断わらんで撮るのかって、お母さんが怒っておられるわけです。今度行って、どのお母さんだったかなとつくづく考えたんですが、思い出せませんでした。それだけ僕も気が転倒したと思うんですが、日なたぼっこをしている小さな赤ん坊-赤ん坊といっても胎児性の子どもですから、幼稚園くらいの年頃になっていると思うんですが-を家に入れて、扉を閉め、子どもを置いて外に出てきて、怒鳴りつづけているわけです。それで僕は弁解するつもりで行ったんですが、とても弁解できない。弁解しようとするなら、これは風景をとっていたんだ、あなたのところを撮るとすればちゃんと断わるつもりだったというふうに言えるわけなんですが、そのお母さんの剣幕と、その時にやっぱり、そのお母さんが怒鳴っているだけじゃなくて、その隣近所のお母さんがその同じ庭先、遥かの庭先に集まって、やはり僕らを明らかに糾弾しているわけです。
そういったことで、つくづくと、自分の身の置きどころのない状態、つまり、自分は何のために撮りにきたのか、この部落、この町において必要な僕の行為というのは何なのか、ということを考えたわけです。考えてみると、割りと答は簡単なんです。テレビでよくいう正義のためというものです。ドキュメンタリー番組というのは大体そういうものはもっていて、別に取りたてての話じゃないわけです。しかし、やっぱり記録らしい番組を作りあげて放映すると、そのときから関係がなくなってしまう。東京からきた監督であり、東京で次の仕事をしていく、そういった立場で、その部落にたかだか二十日くらいきて撮るということは何の役にも立たんということを、実は患者さんの方で充分知っておられるということを感じたわけです。この体験というのは、割りと大きい体験でして、僕としては当分の間、こういったシリアスなものについてのドキュメンタリについては失語症になるくらいのきつい体験でした。
つまり、記録映画の本当の最後の部分というのは、カメラが撮る方にも撮られる方にも存在しないくらいの関係になってしまう、それが回っていても回ってなくても関係ない、即ち、カメラがあるっていうことは了解している、その映す人間がどうであるかということも了解している、それだけの交際があって始めてカメラが回るということであるわけです。これは一口でいうと簡単な構造なんですが、そういうことを抜きにして、ああいった困難なシチュエーションの中で、しかも外見的に非常に痛んだものを撮るということはできない、できないことだと思うわけです。そういう僕なんかが体験した思いをかいくぐってそのことが果せているかというふうに、参考意見風に、水俣の他の写真を見ると、例えば四十二年に岩波映画が水俣の映画を撮ったんですが、その中にとられている患者さんの顔を見ると、明らかにカメラに対して不快感を示している。もしそれが同時録音ならば、恐らく、あなた方失礼じゃないかといっていそうな口振りでとられている。それから、子どもたちはやっぱり、明らかにカメラに対して憤怒とか怒りとかいぶかさというものを持って映っているわけです。それを撮ったこと自身が、一定の社会的な、社会にそういった子どもがいる、こういう困難な現実があるということを示すのに役立つということは一定の意味ではわかりますが、明らかに映画をとる内部の人間の気持としては水俣の問題を本当にどこまで考えてこの間題をとろうとしているのか、ということについては、どっちもどっち、お前もダメなら、俺もダメだといった感じです。そういったことはいろんな題材ごとにぶち当るとは限らないわけで、水俣の場合、非常に強くぶつけられたということです。
そのことから今回の映画までの間に、四年、ほとんど僕としては忘れているといってもいいくらい時間が過ぎたわけです。一口にいって僕は水俣を撮れるタマではない、水俣のあれだけのものを撮れるタマではない、それだけの資格がないといいますか、そういった感じ、じゃあ誰がとれるかと開き直って考えても思い当りませんが、やっぱり自分がそのタマではないというようなことがずっとつづいておりました。
しかし、その間に大きな変貌がありました。昭和四十三年に、厚生省の遅すぎた公害認定というのがあって、それを前後にして、水俣の市の中で市民会議がスタートしてる。それから、これは噂で聞いたんですが、熊本のものすごく良い部分が告発という運動をやっている。それから訴訟を起した。その告発の運動は、東京に出てきてもいっぱしのことをやる男たちが、わざわざ熊本にひきこんで、熊本に根拠地をおいて、熊本から現代の精神の一番重たいところをバンバン、バンバン撃っている、それは『告発』を見れば一目瞭然だ、というような形で僕たちはその運動のいくつかの話を開いておりました。そういった動きが、四十年から次の映画をとる四十五年の間に、水俣にとって、幾つもの歴史的事件として積み重なっていた。やっぱり非常に大きな動きがあったというふうに思います。とくに、水俣病の患者さんとの関わりを持とうという、一人一人の決意した集団が、水俣病の周辺で、自分の問題としてこれを斗かっているということ、これは僕が行ったときには見当たらなかった。本当はいたんでしょうが、見当らなかった人たちであったわけです。
で、四十五年の初めごろでしたか、私の友人に不知火海に生まれた人間がおりまして・‥熊本県の宇土に生まれた男がおりまして、彼が石牟礼さんの『苦海浄土』を読んで、故郷を思い、そして、自分たちの同じ人間がこういうふうになっているということで、何とか映画を撮りたいと熊本の告発の人たちに接触をとって、われわれはぜひ水俣病について映画人としてのアプローチをしたいということを話してきたわけです。そして東京に戻って『沖縄列島』を撮った東とか、私とか、桑原さんとか、若干の映像の人たちと一諸に集まって話したんですが、どうも三人とも話が一致しない。方法的にも一致しないし、決意としてどうも一致しない。その根底はやはり、水俣病というものについて映画をあることの意味というのが充分明確につかめていないままの討論が多くて、場合によっては、変な言い方で言いますと、患者さんを全然とらないで、しかも水俣病の恐ろしさ、水俣病の非人間的なところ、水俣病の一切が表現できないだろうか、そういう方法もあるんじゃないかということを考えたりして、さらに、こういう映画をとりたいという企画とか、世にいうところのシナリオとかいうものが書けないということがつづきました。で、こんなものがとりたいということはできるにしても、私は、水俣病をどう考えるか、あるいは、まだ調べもしない水俣病についての想いが定まらないというようを時期がありました。
そして、ともかく、水俣と熊本に勉強に行こうじゃないかというところまで決めておったんですが、忘れもしません、去年の五月の十五日に、患者さんが東京に出てこられて、厚生相に会い、チッソの本社に座りこみをするという記事が、非常に感動的なー感動的というか、やはり記者自身が怒って書いている、厚生次官に会ったところがけんもほろろであり、患者を侮辱し、恥ずかしめた、これであってよいのかという記事が出まして、私は水俣病のシチュエーション、というのはこんなのかということを改めて思いましたし、何かが動き始めたという感じを持ったわけです。私はその時はまだ、いろんな都合がありまして、患者さんに会えませんでした。そして、五月の十八九日ぐらいに、私たちが熊本に行くということへの返事として、一任派といわれている人々ー皆さん御承知だと思いますが、公害認定後、厚生省=お上に一任すると言った人々ーに対して、補償処理委員会が結論をだすが、この結論のだし方、金額は水俣病の今後に決定的な影響を与えるであろうから、熊本の告発としてはそれに対して運動を組みたい、だから、石牟礼さんにせよ告発の連中にせよ主だった者は大挙東京に行くから、東京で待っていてほしいという連絡があったわけです。他の公害反対運動がどういうものか私はあまり勉強しているわけじゃございませんが、水俣病訴訟支援グループとして出発した告発にせよ市民会議にせよ、一人一人の誰が何をやっている、どんなことをしてきて現在どんなことをやっている誰が中心で、誰が東京に来るというようなことが具体的にあんまり話せない、つまり、何々組織と何々労働組合がというようなことが全くないわけです。皆んな一人一人の自立した大人が、一人一人名乗りをあげて東京へ出て来るという状態で、私は東京で待っておったわけです。
この時に、我々は東京として、水俣、あるいは熊本といってもいいんですが、その人たちから大きく問われることがあったということがあるわけです。というのは、東京にもすでにその時期には、水俣病についてかなり勉強している人もいたし、水俣に行って本当に学究的に調べてきた人もいたし、あるいは、東大都市工学の系統の人たちで、全共斗運動以後、何か実際の手さぐりを探しに水俣に行って、漁を一夏手伝いながら献身的に働いた、しかもその働きが非常に巧くて有能だというような実績を持った学生とか、そういう人がおりました。そして、熊本からは、これまた非常に面白いんですが、自分の一番信頼できる友人に激を飛ばして、告発する会の東京での行動を支援する組織を作ってくれというわけです。すると、その激を直接受けた人間、それからまたへ別個にいろんなルートから激をうけた人間がバラバラと、決して何々組合とかいう組織ではなくてバラバラといわれた場所に集まって、熊本の考えていることはどういうことだ、われわれは何ができるかということを検討したわけです。その時に、その後、巡礼姿で東京から水俣へ来たり、劇「苦海浄土」を上演した砂田さんとか、そういった連中と出会ったわけなんですが、僕たちが考えてたのは、せいぜい東京において水俣病の間題をアッピールして、それから一任派に対する不当な補償をやろうとするのに抗議するーつまり阻止なんてとてもできないだろう、阻止するということは具体的には阻まなきゃいけないわけで、それではやめて下さいという抗議ということにしようかと、常識的に言ったら抗議だろういうことで、かなりダレた、一生懸命なんだけれども、どっか一発ダレた発想しかできなくて、もたもたしていたわけです。その時に、熊本の告発の渡辺京二っていう人が、東京の、全く見も知らない、たった今日その日会ったばかりという関係のわれわれ十二三人のところに、ちょこんと座って、こうおっしゃったわけです (私が最近聞いた演説というかアッピールで、本当にあれだけ心をさしたものはないんです)
実は、水俣病の裁判が始まってから一年間にわたって『告発』を出し、その都度座り込みもしたり、デモもしたり、街頭カンパもやったりしてきた。しかし、どんどん活動は苦しくなり、追いつめられてきている。この一任派の問題についてわれわれがもし手をこまねいているならば、われわれは水俣病斗争をこれからやり抜くことはもう恐らくできない。何となれば、厚生省の公害認定がありながら、チッソは一切責任を認めていないし、自分で交渉に応じないのみか、補償処理委員会なるものをデッチあげて、そこにいくらいくらの補償金であるという査定を立てて、その査定については文句を申しませんというきめつけのあれが、後三四月で行なわれようとしている。これを何としても阻止する。私たちは阻止したいから阻止するんであって、これは討論やその他で決まるものではない。東京の人が自分たちはとてもそこまで行けないというんだったら、ビラまきとかすることができるならばそれでもいい、カンパを集めていただくというのならそれでもいい。自分たちはどうしても阻止したい。で、そういう文書を東京でまきたい。自分たちのこの行動は、水俣の患者さんの相談を経てきていない。患者さんの中には、やっぱり事を隠健にしていた方がいいんじゃないかという慮りもあったり、今度の一任派の間題で、これが通ったら、自分たちも裁判をやってるが、やはり金額的には同じレベルに抑えられるとかいろんな心配があるが、もし患者さんに相談したら、そこまではやってくれるなというふうに言われるかもしれないから、患者さんには黙ってきた。しかし患者さんのためにも、自分たちの一年間にわたる告発行動の当然の帰結のためにも、この歴史的な日において、われわれはやらなきゃ駄目だ。しからばどうやるかということだが、われわれは何も手にして斗う武器もいまない。ともかく身体しかない。だからこの身体をもって補慣処理委員が一任派の患者さんと会ったりするその席に行って、寝転ぶ。徹底的に寝転ぶ。つかまえにきたら、暴れまわってまた寝転ぶ。果しなくそれを繰り返す。そういうしかたで、この問題を徹底的に斗い抜く。そのことは自分たちが勝手にやるんであって、決してそれを了承してくれとか、反対の場合どうしてくれとか、あるいはそれに似たことをやってくれとかいうことは、絶対私は申し上げない。
これは非常に明解な論理でして、成程そういった真剣な人たちがーその人たちと.いうのは結局子どもが何人もいて、もちろん奥さんもいて、女房ガキ持ちの人たちばかりですが、そういった人たちが、生活を、仕事を休んで、東京に這い登ってきて、しかも何も持たないで、あんまり身体の鍛練のよくない人たちがこの身体でやるというときに非常に根源的に水俣病斗争というのは、運動の質といいますかそういったものが相当高いというふうに気がついたわけです。それで、僕ら何もできないが、ともかく同じ行動をとろうということで、人を選抜してといいますか申し出る人で隊を組んで、厚生省のその場所に下見をつづけたわけです。それから、当日は厚生省に大変な警戒網が張られる、機動隊も配置され、告発の連中が厚生省のどこどこに行くなんていうことは全く不可能に近いだけの防備をしいているという情報が、一昨年ぐらいに東大の全共斗の運動をやっていて厚生省に就職した元全共斗の人から、ビピッと入ってくるわけです。それで、そういうことであるならば、どこに隙間があるかということを皆んなで捜して、嬉々として準備をしていたわけです。当日は確かに警戒厳重でしたが、厚生省の補償処理委員会に、熊本勢を追う大多数の部隊で突っ込んで、あれよあれよという問に、五階か六階でしたかかなり高い所にある会場に行って、寝転んだ。徹底的に一人一人が寝転んだわけです。
寝転んですぐパクられたわけですが、その中で、やはり水俣病をめぐって一人一人が何をどういうふうに、どういう形相でしなきゃならないかということが、僕には非常によく分ってきたような気がするわけです。そういった中で、全国的に補償処理の問題について眼が集中したし、それがひどいことだってことも分ったし、そういうことに憤激している人々もいるということが分ったと思うんですが、別にマスコミ的に騒がれたということは全然念頭においてませんで、わりと特徴的なことは、その間石牟礼さんもずっと東京に詰めておられたんですが、新聞記者会見をして結果発表するなんてことは一度もしてなかったということです。あくまでも自分たちの斗いとして組むということ-こういうすばらしい人々の斗争が一体どこから発明されたか、つまり、つかみとられたかということが、僕にとっては一歩先が見えてくる思いがしまして、それで、ひょっとしたらこの人たちがこれだけの活動力を発揮するには、ただ単なる自己儀性だけじゃなくて、単なる献身、禁欲性などあらゆるそういったものだけじゃなくて、どっかで、そういうところに関わっている自分を信頼し、そういったものから遠ざかっていく自分を信頼しないというか、それをやっていることは自分の生き方の確認であるというか、つまり人のために同情でやっているというんじゃなくて、自分はそれをやりたいという根っこがあると私には思われたわけです。それでは、その根っこは何だろうか。その根っこが見つかったら僕も、おっちょこちょいのピークであったところのあのいまわしい記憶をふっきれて、少しずつ近づけるのかもしれないという、実はこの映画の最初の軌道はそんな単純なことにあったわけです。
それで、その時私もパクられまして、ま簡単に出てきまして、その後、もっと心を打ち明けていろいろ話すようになったんですが、その時に僕の心を射た言葉は、やはり熊本の人が誰彼となくいろんな言い方でおっしゃるわけですが、「患者さんは漁民です。不知火海の漁民です。非常に漁が巧くて、魚が好きで、そのことを話させたら尽きることがない。そういう人が患者であって、患者は漁民です。その漁民、患者さんは非常に魅力的なんだ。ぜひその患者さんに会って下さい。患者さんとお会いになったら絶対にそう思います」という言葉です。その言葉に、僕の映画がそこにたち至れるかもしれないという期待と信頼みたいなものを置いて、映画を撮り始めたというのが実際の話です。
普通映画といいますと、大変しきり直しが長くて、映画は段取の芸術だといわれているくらい、いろんな段取がいるものなのです。例えば、金についての見通しはどうかとか、器材をどうするかとか、フイルムをどうするかとか大変な段取りがあり、スタッフを編成するにも、ギャラはどうとか何じゃかんじゃ、普通の映画でもその段取りのためにへトへトになるもんなんです。逆にいえば、その段取りができたら映画がとれるといってる監督もいるわけなんです。今度の場合には、六月いっぱい、東京の方で、いろんな運動で映画を少しも回していませんでしたが、それから十日後くらいに、熊本で患者さんと全国の支援の方との交流大集会があるから、ぜひとってほしい、で、とりにこられるなら、患者さんに会える態勢とかお泊まりの態勢とかは全部やっておく、その後、映画をとりつづけるかどうかはまた考えたらいいじゃないですか、ともかくこれはいままで水俣病斗争いろいろあったが、これだけ大規模に熱心に、明るくやろうと思い、楽しく患者さんと焼酎飲む会なんてのそう何べんも持てないから、ぜひいらっしゃい、という連絡がありまして、じゃ、とりあえずそれということで熊本にとんでから、結局五ケ月間、ほとんど帰らないで水俣にいたようなわけです。
当然資金のこととかいろいろあれでしたが、熊本のそういった人々から個人的な借金その他で当座をしのいだり、そのうちだんだん東京で、資金の休制ができたり、器材なんかも、とりあえず三日間くらいの調子で借りてきたものを、長く借りられる器材と交換したり、当面良いテープレコーダーが手に入いりませんで、とりあえずカセットを持ってきておいおい揃えるということで、ともかく先に水俣に出てきてしまったという状態だったんです。その水俣も、町中じゃなくて、患者さんの最も多発している部落の、さっきの映画の中で最後に江頭をつかまえて思いのたけを述べる浜元フミヨさんという方の家に、頭から終りまで、そこを根拠地として映画をとるということをしたわけです。そういういくつかのファクターがあり、そして、こういう映画をとるならばこういうふうにしたらいいだろうなというみんなの意見を素直に受け入れるというか、それに即して映画の計画をたてるというか、そういうことで、これから映画を作ろうというんじゃなくて、その日その日が映画のために準備され、できてきたという状態で、金はかかったし時間もかかりましたが、いわゆる映画を作り上げる上の困難というのとはちょっと違って、やっぱり皆ではいずり回った結果がこの映画になったというような感じが、非常に強く僕には残るわけです。ということは逆に言えば、やはり僕らが映画をとったんじゃなくて、あらゆる眼に見えない声(というのはおかしいんですが)いっさいが僕たちに映画をとらせるべく動いていた、というふうに僕は思います。そのことは、五年前の状態と去年入った状態との間にあった歳月があるということでしょうし、患者さん自身が裁判を起こして斗い、斗かっていくことで熊本の人が眼に見えたり、大阪の人、東京の人が眼に見えたり、つまり、支援というものを具体的を人間としても見ていくというような体験をなさったりして、やはり、僕たちの映画というものについて、かって僕がテレビ局の雇われ人じゃなくて自立していったということも本能的にかぎわけていただいたということだと思うし、そういったことがこの映画を作る中で僕として非常に学んだことなんです。
映画を見ていただくと分りますが、とる過程ではいろんな派手な動き、一見斗争風の動きも随分あり、その斗争にはものすごく良いものがたくさんありたしたが、私としては、今度の映画では、そういうのは全部そぎ落して、いま頑張っておられる全国の公害反対斗争の仲間も、あるいは『告発』で頑張っておられる仲間も、どこの部分を見たから現在頑張りまた頑張らざるを得ないか、どの部分に心を揺すぶられていういう人間の事業をそれぞれが行なっているか、あるいは文字を書きあるいは街頭カンパに立ち、あらゆる仕事をしているか、その根元を世の中に差し示す、ぜひ見てもらいたいものとして出すということにしましたし、それだけでやっぱり今回としては、精一杯の僕のメッセージではないか、それが要求されたことではないかと僕は思ったわけです。
もちろん、後で考えてみますと、非常に不できな映画で、病気の説明をちゃんと医学的にしていない、歴史的にも述べているところが少なく、ただ患者さんの中からでてくるいろんな言葉によって構成したというようなことなんですが、ただ、その構成自身には一つだけ、これが僕の今度の映画における構成ですと、いうふうに言えると思うのがあります。それは、あの映画は、いいですか、見た順序ではなくて、撮った順序でつないでいるわけです。見たのはいろんな順序があります。例えば、一番最初にひどい人のところに行くし、一番最初に行きやすい人のところに行くし、そういう順序がありますが、実際には、僕たちが最初水俣に行っても、そんなに撮れないわけです。撮れるものを一生懸命写していくんですが、やっぱり胎児性の子どもさんをとるには、とるまでにある種の修行が要ります。カメラは物理的に撮れるんですが、それをとる撮り手の気特をカメラはやっぱり正直に反映するもんですから、それをとるのはなるべく後の方がいい。早くとったのもありますが、それもやはり力がない、われわれの魂がなくて使いものにならんわけです。それで、水俣病について一番何気なく語ってくれる人から入って、それから、本当に語ることができないだけに重たい人たちを撮り、それからだんだんに最後は、何らものを表現しない胎児性の患者さんの一連のシーンをとっていったわけです。そして、とることが可能をもの、何気ないものから、とることが本当に辛かったものの、歩み寄っていくその流れを、わりと正直に出そうとしました。それは、もしカメラがなければ、一個の人対人の関係であれば、もっとす早くズバズバとお会いになり、分っていただくことができるかもしれませんが、やはりカメラというものが介在し、それについての表現というものが介在する時に、僕たちはそういった自分たちの気持ちを映画の中に写していくには、自己カットといいますか、自分の気持の整理が必要だったわけです。その通りに出してみたらどういうことになるだろうかというのが、ほぼ撮った順序通りにつないだ理由です。例えば、一株運動なんてのも、僕たちが東京にいた時は何にも知りませんでした。水俣にきて一ヵ月目ぐらいに、東京でこういうのを決めたからというので、僕らの眼の前で問題を提起すると、僕らのいる間にあらゆるジグザグがありまして、最後にはああいう形で噴出するわけですが、そういった筋書きのないー実をいうと、水俣の大きなうねりがそこに見られるかと思いますがー中で撮ってきたのがこの映画です。
映画を撮り終って、やはり、この映画、というのは時代が要請したんだと思います。で、その映画の走り方を見ていますと、上映運動は必ずしも楽にできていません。水俣を聞くだけでつらいとか、金は払うがどうも二時間四十七分も映画を見るのはかなわんということで、これはわりとノーマルで一般的な考えで、もしそれが水俣だったらかねてから見たかったというふうになるとすれば、水俣斗争というのはもっと早く動きがあったと思うんです。やっぱり映画も同じ宿命をもって歩いています。しかし、僕たちもスローガン的には、見たい人がいる限り見せようと、大きいホールから人家の一室まで、スクリーンと映写機を持ち込んでやろうというふうに考えております。そういう上映の仕方で、少なくとも私が見た水俣というのを少しでも伝えたいというふうに、いまは思っているわけです。どうもうまくいえませんでしたが、ありがとうございました。