「ドキュメント 路上」について
この映画は1962年に製作されました。私にとって「ある機関助士」につぐ第二作で、記録映画として長篇への方向にむかった最初の作品です。この映画の企画意図は交通戦争の中にあって「交通安全」の教育的効果を期待され,警視庁の全面的協力でつくったものです。実質的にはPR映画の範ちゆうに属するものです。完成後,非公開となりました。
交通戦争では加害・被害が刻々と変るもので,其の加害者は,私たちをも包みこむところの文明そのものにあります。その視点からは,敵の見えにくいものです。従ってこの映画のとった方法は,映像をもって鈍化した交通感覚の麻痺をいかに自らぬぎ剥いで,裸の自衛感覚をとりだすかにありました。そのために,映画を通じてはじめて顕然化する都市の殺虫装置を外部に描き,内に生理的不快と痛みにいたる交通問題の粗放な混乱をえがきました。この映画ではナレーションを一言も入れません。言うにはあまりに現実は複雑で,ひとことで括れないからです。この映画は登場人物のあつかいにおいてフィクションと同じです。しかしその本質においてドキュメンタリーの構造をもつものと思います。私は「不快映画」「現実がわが身のやすり」となる映画をめざしては絶望的に作りました。従って,以後今日まで本質的に非公開です。ちなみにこの映画は翌年度のエジンバラ映画祭の最高賞を得、そののち芸術祭奨励賞を得るといった奇妙な評価軸をもって遇されました。その苦い体験を通って,この作品は私をして非商業的作家の方向をその後強いるに至ったモニュメントでもあります。