ただひとりの“存在”・松川八州雄 07/5/20 ノート <2007年(平19)>
 ただひとりの“存在”・松川八州雄 07/5/20 ノート

 “ただひとりの”と銘うつのだが、大した訳はない。ただ、畏敬の人であり、盟友、黒木和雄とも小川紳介ともひと味違った“心の友”として、一生をともにしてきたという実感からである。では、酒をしばしば酌みかわしたり、映画論を倦まずにに語りあう仲であったかといえば、そうでもない。私は水俣にいる事が多く、必要な時しか会わなかったからだ。
 私の友人グル-プは、いわゆる“青の会”や、羽仁進、時枝俊江、工藤充(プロデューサーで羽田澄子の同伴者)、そして先輩カメラマン瀬川順一といった岩波映画の人脈である。フリーの松川は“遠い存在”だった。が、作品を見て、彼を天性の美意識を持つ者とし、そして畏敬した。絵(コンテ)は玄人はだし、本の装丁(未来社など)も仕事にした。“好きこそものの上手なれ”というか、映画の枠に納まらない自由な美意識に、私は一目も二目も置いてきた。

 時に作品の完成試写に呼ばれた。そんな機会には忌憚なく感想を述べた。学生運動の同時代の仲間意識からか、気安さがあった。彼の人柄もそうだった。
 忘れもしない『不安な質問』の試写後、私は彼に賛意をこめて、「(長かったろうに)よくも短く切れましたね…』と言うと、彼は「みんなからは長い、長いと言われたが、それが分かってくれて、嬉しい…」という。
 彼はそれなりに苦労したのだと私は思った。どうやら映画の母体である「たまごの会」の仲間うちでは、「…やはり長すぎる」とか「分りにくい」という批判もあったようだ。
 それまでは彼はPR映画であっても、発想と描写のユニークさを認められ、自由奔放に作ってこれたが、この映画では彼の批評的な映画手法に戸惑う人もあって悩んだらしい。
 このテーマも技法は今も新しいのだ。いわば先駆的な生き方への共感、豊富なイメージは満々と湛えている。私は稀代の傑作になったと思う。…その時の彼のシャイな顔や、“友を得た”ときのすなおに喜んだ様子は、その後の私の“松川像”となった。

 思えば私はこの四十年、水俣病映画だけで十七本も作ってきた。水俣病は終わっていない。さらに西山正啓監督を助けて『不知火海水俣病の今』の構想を考えている。(現在新たに申請患者四千人浮上中…)
 幸い、今は自費で“私家版ビデオ”なら作れる時代だ。それの際、最初に彼のアドバイスを請うつもりだった。最晩年の彼の“政治映画”『吉野作造』、『中江兆民』に惚れ込んでいるからだ。“政治的主題”を個性的に表現し得ている彼に脱帽していた…それが今、永遠の別れを迎えるとは。

 取っておきの話をしたい。数年前の事だ。彼は親しい若いスタッフから「…土本典昭が突然死んだそうだ!」と言われ、ろくに確かめもせず、有り金全部を持って、取りあえず私の家に駆けつけてくれた。玄関に出た私はその顔つきに驚き、「どうしたのか?」ときくと、彼はあっけにとられ「…あれ!…他には誰も来てないの?」と、自分のそそっかしさを置いて、ひとをなじる彼。このとんちんかんさに私は噴きだした。
 誤報も誤報だった。げんに彼に前にピンピンした私がいる!
 彼は自分のそそっかしさにひたすら恥じ入りながら、「…せめて通夜の参会者の受付係でもやらせて貰おうと思って…」という。なんたる男か!
 彼の優しさに、心中泣けた。これは彼のすべての映画作品の基底にあるものでもあるだろう
 ひとには“笑い話”かも知れないが、私には生涯二度と得られない体験(友情)をした。それだけに彼の死の寂しさには言葉がない。
 …ここに今まで文字にしなかった私の“松川像”の一端を述べ、“松川映画のシンポ”に一員として参加させて頂くつもりである。