「不知火海水俣病」の今後を思う ノート
私が天草諸島、鹿児島県長島の東岸、つまり不知火海に面した漁村、そして離島の御所浦、獅子島、樋島、桂島などを水俣病映画の撮影スタッフで“巡海映画”と称した移動映画会の旅を組んだのは今から丁度30年前、1977年である。今回、水俣病センター相思社から設立35周年にあたっての手記を依頼されたが、その完成式典は映画『不知火海』(1975年、青林舎)の中に賑やかに描かれている。だから相思社の歴史と私とは切り離せない。例えば、上記の巡海映画を立案、実行した77年頃は、水俣病センター相思社には全共闘育ちの活動家が大勢いた時代だった。だから対岸天草に映画を持ち込む運動に大賛成だった。しかし、相思社は水俣市と芦北が活動の主舞台で天草は手の届き難い“辺境”だった。原田正純先生と若い医師グループがその離島で診察と申請支援の献身的な活動をしてはいたが、「水俣病とは何か」を知らせるメディアはこの地には無かったに等しい。かといって水俣病映画を運んで見て貰うのは相思社といえども難しかった。まず、水俣病とはどんな症状か知って貰うことがここでは第一、と分かっていても、「ここの魚に水銀汚染はない」として風評すら恐れる不知火海沿岸漁協や漁村当局の反発は必至に思え、とても人に頼める類いの仕事ではないと思った。だが、水俣病映画を一番見て貰いたいのは東京などではなく、潜在地域と言われるここ不知火海の漁村の漁民だ。そこであれこれ思案の末決めたのは、映画を作った自分達スタッフが上映して見せると言う事、つまり「われわれの作った映画です。見てください」と言って映画会を自分達でやる事、これしかないと思った。どうすべきか悩んでいた相思社のスタッフもすぐ協力を誓ってくれた。相思社は天草で思い付く人脈を私たちに繋げ、こまごまとした仕事に協力してくれた。不知火海学術調査団(団長色川大吉)の応援も大きかった。で、77年夏前後の五か月、『海辺の映画会』なるものを村々の浜辺、七十六か所で催すことができたのだ。
子供むけのアニメ映画も加えたので上映会場は子供であふれた。その子供らがいま、初老になって水俣病を訴えている原告たちであろうか。
話をもどそう。私たちは漁村全戸にビラ入れした。そこで家に閉じ籠った妙な病人に遭うことになる、口の不自由な人(構音障害)、夏でも炬燵で入っている老人(知覚異常)、小児麻痺様の疾患に兄弟とも犯されている子供たち(胎児性患者か)、ふらつきがひどくて漁船に乗れなくなった漁師(運動失調か)、すべて水俣病に見えたものだ。この巡海映画がその後の私の原点となった。“病める不知火海”をこの眼でしかと見た気がして、水俣病問題を考える私の“芯”となったのだ。
水俣病発見50年の去年(06年) 4月下旬から 5月上旬まで、かつて“巡海映画”をともにした西山正啓(今は監督)を誘って天草、離島を訪ねた。それというのも、05年10月の水俣病大阪訴訟の最高裁判所判決で「水俣病の見直し」が確定してから、あらたに3000人とも4000人とも言われる患者原告が出現している。95年の村山内閣による「政治決着」でいくつもの裁判を潰す代償に 260万円のいわば手切金で水俣病は“決着された”が、不知火海水俣病というべき不知火海漁民の長期の放置の実害は救えるものではなかった。その95年政治決着から十年、また水俣病対策の政治は破綻し続けている。そして新しい被害者集団の登場を見ている。彼等の殆どが水俣病裁判や闘争に無縁だった“新人”たちという。私たちは、どういう被害者が登場したのか実態を知りたかった。そこで真っ先に今、原告=被害者の組織を訪ねた。幸い、もと『水俣病被害者の会』の常任、中山裕二氏が顕在だった。彼から現在関わる『水俣病不知火海患者会』の活動を教えてもらった。そして裁判闘争の機関紙『 NPOみなまた』や、新冊子『ノーモア・ミナマタ』(北岡秀郎他)などを手に入れた。政治決着以後のこの新らしい被害者の実情を全く知らなかっただけに、どれも新鮮に読んだ。とりわけ患者の手記には胸ふさがる思いになった。かつての未認定患者の苦境そのままである。この四十年に知った患者の苦悩がそのまま再現された観があった。そしてこの患者原告たちは水俣病運動や裁判闘争に初めての人たちが多いというのも頷けた。というのは、胎児性患者と同世代の四十代、五十代の人達が、「自分を水俣病を認めよ」と、何千、何百人と立ち上がってきている事情が克明に記されているからだ。
思えばかつての政治決着がら十年になる。胎児性患者と全く同世代の彼等は長じて、子供を持ち、暮らしながら、水俣病を忘れたかった。子供も就職期、娘なら結婚適齢期になって、「水俣病と思うものは申し出るように」といわれても、背を向けた。「…あの時は子供の就職(結婚)を思うと、差別が恐ろしく、言い出す勇気はなかった」という。また、加齢性水俣病というべきか、「あの政治決着の頃(十年前)にはなかった症状が出てきている」とも。多分老化現象は普通より早いであろう。また生まれた時から微量水銀の(安全といわれた)魚をたべ続けた人間はどうなるものか、その前例は皆無である。まだ分かっていない…「水俣病の前に水俣病なし」と原田正純さんの説く言葉が恐ろしい意味を持っているのだ。
だが、不知火海にも水俣病の闘いが生まれようとしている。04年最高裁の水俣病判決は一挙に患者の迷いをふっ切らせている。かつて港などで水俣病の話などできなかったものだが、御所浦の嵐口などは飛躍的にかわった。地区住民の90%以上が水俣病と公然と名乗り、私の質問に自分の水俣病を語ってくれる人に出遭うことになった。つまり風通しが全く良くなったのだ。私は西山や妻と「これなら映画が撮れる!」と頷きあった。なんと暗い半世紀だったことか。不知火海が「人間復活の海」として記憶されることを願わずにはいられないのだ。水俣病センター相思社もそのあらたな“元年”をスタートさせて欲しい。
(07,6,10)