日本のドキュメンタリー映画のかたち ノート <2007年(平19)>
日本のドキュメンタリー映画のかたち ノート

■「私が伝えたいこと①-78年を生きてわかること」
2007年6月9日 ユーロスペースにて
 
■土本典昭
 
藤原:
 さっそくお話し始めたいと思います。何からお話しましょうか?
 
土本:
 僕は黒沢明さんの映画は大好きな作品もあるし、ピンとこない作品もあるんですが、あの人が自殺未遂をされた頃から、彼の考え方が変わってきたと思うんです。この言葉は僕が新聞か雑誌などで読んだ記憶があるんですが、黒沢明さんは「僕は映画というものがよく分からないんだ」とおっしゃっている。そういう思いで映画を作っていかれた晩年だったと思うんですね。
 僕は一度だけお会いした事があるんです。映画『トラトラトラ』を作る時に、共同監督の勅使河原宏さんが黒沢さんに『ドキュメント 路上』をみせて、僕を助監督に推薦したんです。戦闘機のシーンなどで僕に手伝ってほしいということだったと記憶しています。
 お会いしてみて、黒沢さんは「映画というものがよくわからないんだ」とおっしゃった、僕のイメージ通りの方だったので、大変感動して、好きになった記憶があります。
 
 黒澤さんの真似をしているわけではないですけど、僕自身が僕の映画について、ドキュメンタリーについて、どのように作るのが良いことなのか分からない。私が映画に入りました時が1956年で、羽仁進さんを初めとして記録映画の勃興期といいますか、たくさん記録映画が出来た時期で、それから現在まで約40年以上経っています。
 
 つい最近も、私の映画を『ゆふいん文化・記録映画祭』で上映して頂いた時に、フィンランドの映画監督のピーター・フォーンバーグさんにお会いしました。彼は「30年前にボストンで『水俣』の英語版を見ました」とおっしゃる。それで彼は『水俣』をフィンランドで上映したいとおっしゃるんです。
 フィンランドでは、いままで原発をつくらなかったのですが、今度、原発を作る事になって、フィンランドの沿岸が汚染されたら、たいへんなことになるので、これは絶対に止めなければいけない。
 そのためには、『水俣』が良いサンプルになるというんですね。それで元国際交流基金の石坂健治さんに相談して、英語版を手配していただきました。
 
 僕らが映画を作ったときには、映画の有効期間というか、映画が見られる期間はせいぜい2年から5年と思っていたんですが、これで何年になりますか?   
 
藤原:
 今年で37年ですね、『水俣一患者さんとその世界』が。
 
土本:
 そうですね。それが未だに現役としてね、自分たちの原発反対の運動で上映しようという国があることで、映画の命が長いのに僕自身が驚いているわけです。ドキュメンタリーは歴史がまだそれほどありませんから、特に戦後にドキュメンタリーを作って、こういう長く見られるというケースが生まれてみると、これからみなさんがどういう映画つくりをしていくかについて、初めて言えるようになってきたんじやないかと思います。僕は水俣の映画を17本作っているんです。特に最初からたくさん作ろうと思ったわけじゃないんです。
 
 よく水俣病は終わったといわれていますね。1995年に村山内閣の時に、1万何千人の被害者と国が“和解”して、これで“ケリ”がついたとなっていたんですが、“和解”に応じなかった大阪の患者グループが、最高裁で勝訴したんですね。被告は国、県、チッソです。最高裁の判決以後、水俣は大きく変わってきたんですね。これでまた5000人もの被害者が水俣病だと声をあげて、新たに環境庁や熊本県やチッソを相手に闘おうとしている。こういうふうに続くから、僕自身の縁も続いちやうんですが。
 
 2003年に、アメリカのフラハテイ・セミナーに招待されたんです。このセミナーの記録は藤原さんが撮影してくれました。セミナーのチューターは映画監督だったのですが、彼が僕を紹介するときに、僕の映画が、彼の選ぶ、世界の映画の10本のなかの…
 
藤原:
 彼のベスト・テンのなかで、唯一のドキュメンタリーが『水俣』だったっておっしやっていましたね。
 
土本:
 そうですね。彼自身の個人的な評価ですけど、それをみんなの前で発表するところから見ると、ドキュメンタリーは、そのように位置づけられている。チャップリンから何からを含めてですね、彼のベスト・テンの1本が僕の作品だったということでした。これには僕が驚きました。何故そうなるのかと。
 
藤原:
 ちなみに僕も映画史上ベスト・テンの中には『水俣一患者さんとその世界』でもいいけど『不知火海』が…僕の場合、ドキュメンタリーは2本入っているのが一本は『不知火海』です。あれはやっぱりとんでもない映画だと思います。
 
土本:
 今日上映される『映画は生きものの記録である』についてですが、初めから映画を作ろうと思ったんじやなくて、記録映画の研究会の記録だったんですね。そのうちに藤原敏史さんを中心に、プロデューサーの伏屋博雄さんが映画にしてしまった。僕自身は、これが映画として残るものになったのは、嬉しいような照れくさいような感じなんですが。
 
 ひとつだけ言えば、僕は映画の素人です。映画の教育は全然受けていません。映画に入ったのが28歳です。それまでは学生運動とか、日中友好運動とか、そんなことばっかりやっていました。
 28歳まで、キャメラどころか、写真機も触った事がなかったんです。
 ただ羽仁進さんの『教室の子どもたち』という名作をみて、こういうドキュメンタリーならやってみたいと思った。僕自身がジャーナリスト志望だったものですから、ペンでなくて、フィルムでこういう事ができるんだなと思って、岩波映画に入りました。キャメラマンになりたかったんですが、お前みたいに年をくったひねた奴にはキャメラマンは無理だって言われて、演出の世界に入ったんですが、映画をつくるための教育は受けていないんですね。何がドキュメンタリーやら、何が映画やら、わからなくて、僕自身がこうだろうと思うものしか作っていません。だから、そういった意味で、映画監督の仕事をみると「よくこれだけのものをお作りになるな」と未だに感心してしまうんです。
   
 僕は自分を“映画監督”と言ったことは基本的にはありません。今でも記録映画を作る人間という言い方しかしないで、“記録映画作家”と言わせてもらっています。ビデオカメラが出てきて、一人で撮影ができるような時代になってくればなおさらですが、5、6人スタッフがいれば分かりますが、僕と女房と、或いは何人かの親しい人と作っていればですね、それで映画監督と名乗るのは恥ずかしいですから、今まで“記録映画作家”と言ってきたのは正解だったなと思っています。それで青二才ばかりやっているうちに78歳になってしまったんです。が。まだ撮りたいですね。この歳で撮れるものをいま準備しておりますが。
 
藤原:
 それ、内容お聞きしてよろしいですか?僕まだ一切うかがっていないんで。何かやりたいというのだけは感づいておきながら、次、何をやられるのか。
 
土本:
 今、糖尿病があるので、1日4時間ぐらいしか仕事ができず、あとは療養生活ですから、その範囲で出来るものをやろうと思っています。僕にはとても面白い作品がありまして、25年分の原子力の新聞記事だけで映画を作ったんです。それは原爆が投下された8月7日のこんな小さい記事-4行60字のベタ記事からですね、それ以後の原発と核に関した20年間の記事ですが、『原発切抜帖』という映画にしました。“原爆”という兵器であったはずのエネルギーが、我々の足元に“原発”という再登場したという不気味さを描いた映画なんです。それが1982年ですから、もうすでに四半世紀経ちました。その間にチェルノブイリ事故が起きですね、日本でも原発事故が起き、日本は世界で2番目のプルトニウムの所有国になって、原爆が何千発できるか見当もつかない。わずかに2、3発の原爆の卵を作った北朝鮮に対して、世界中が徹底的にいじめまくっているが、日本は何100発できるかわからないだけのプルトニウムを持っている。このことは分かっているようで、なんでこんなことになったのかというのを新聞記事でもう一度たどってみたい。そうして新聞記事だけ使って映画を作ろうと思って準備をしていますけど。出来るかどうかよく分かりませんが。まあできましたら、研究会ぐらいには使ってやってください(笑)。
 
藤原:
 いや、できましたらぜひユーロスペースの北條さんと話をつけますんで(笑)。
 
(水俣の産廃の話)土本監督、今日はどうもありがとうございました。
 


■「私が伝えたいこと②―私の映画スタッフワーク論」
2007年6月16日 ユーロスペースにて
 
■土本典昭
 
●2回目 2007年6月16日
 
伏屋:(前略・挨拶)今日は2回目なんですが、土本監督のスタッフワークを中心に話を聞いてきたいと思います。一般的に言いまして映画というのは監督がいて、スタッフがいる。そして映画を作っていくということが、ともすれば監督というのは、いわばヒエラルヒーのいちばん頂点にいまして、その監督がいろいろスタッフに指図して映画を作っていくという傾向があるように思います。ところが土本監督はそれとはちょっと違うなという感じがあります。極めて民主的といいますが、スタッフのそれぞれの役割を認めた上で、極めてフレンドシップなかたちで、そして監督もスタッフの一員として映画作りをしている。そのスタッフそれぞれの力を発揮するような、そういう環境に持っていって、そのスタッフがかもし出すエネルギーを作品に集約させていくという形で、いわゆる一般的に考える映画作りとは、僕はちょっと違うんじゃないかと思います。土本さんはこれまで50年間、監督生活をされています。まあ土本さんを僕は今、監督といいましたが、自らは記録映画作家というふうに言われておりますが、土本さんのスタッフワークの組み方のなかで、一般的に監督というよりも映画作家であるというふうに自称されているというように思います。そんなところに土本さんの映画作りが表れているのではないかと思っております。まあ監督生活50年、これまで30本近い作品を作っておられましたが、その中で考えられてきて、育んでこられたスタッフ作り、映画作りというものを、今日は短い時間ですが語っていただきたいと思っております。では土本さん、よろしくお願いいたします。
 
土本:座って話させていただきます。短い時間ですので、私が日頃考えていることの一つをお話したいと思っております。
 私は、早稲田大学の史学科西洋史で、芸術とは全く関係ないです。しかも学生運動ばっかりやっていましたので、大学四年の時、あと1年で卒業という年に除籍されました。卒業はしませんでしたが。史学科西洋史志望だったということで、私は歴史的なものの見方が特に身についているんですね。そうでない見方っていうのは、映画をたくさん見て、映画を比較して、映画を勉強する方法があると思うんですが。
 
 私は、映画の歴史はせいぜい110年ぐらいしかないと思います。その前に写真の歴史がありますけど、映画は芸術として、媒体として若い芸術ですね。まだ未熟というか、熟していないところがあるように思っています。
 
 しかもこれがテレビになってきますと、基本的には映画と同じですけども、例えばテープレコーダーと同じように、録音していたテープを、或いは録画していたテープを何回でも使えるとか、テープが足りなくなれば、NGのテープを消して撮ることもできるわけですから、ずいぶんフィルムの時代と違いますけれど基本は同じですね。
 
 私が若い人との研究会に使うテキストは、コロンビア大学の映画の専門家で、記録映画の理論家のエリック・バーナウが書いた「世界ドキュメンタリー史」です。彼の代表作はアメリカが撮影した原爆のフィルムをまとめた、世界で最初の原爆の映画「ヒロシマ・ナガサキ」です。
 彼は学究的な人ですけど、四年ぐらい世界各地を回りまして、いろんな映画人にあってですね、それを歴史の観点からまとめた「世界ドキュメンタリー史」を書きます。私はこの本が大好きで何回も読んでいます。皆さんもその本を記憶しておいて下さい。アメリカから来た若い映画人は、必ずそのテキストを持っています。
 彼は、その本の中で、100年以上前からの世界の映画の先達について書いています。そして現代のところで、日本では僕、それから大島渚、小川紳介、亀井文夫と、この4人について書いています。私などが世界で知られているのは、この本に載ったこともあると思っています。
 
 私が、機会あるごとに映画の歴史を紐解いてみるのは、ひとりで作るビデオの時代になっても、どうも映画は違うと思うのですが。
 例えば映画の初期は音のない時代ですね。音のない時代は、ある専門領域を持っている人、例えばアフリカが好きだとか、あるいは原住民の生活に興味をもつような人が、自分の学問をしながら、あるいは調査しながらキャメラを買って、1年ぐらい専門家に使い方を教わって勉強して、そして原住民の生活を記録したわけです。これが1920年ごろ、世界の記録映画の幕開けだったわけです。
 映画に音がない為にですね、映像だけで非常に秀逸な映画を作ったんですね。つまり音がないから、音が聞こえてくるような画を考えたんですね。だから無声映画っていうのは、そういう特有の魅力があります。
 
 そして戦前の1930年代に、記録映画に音が入るのです。記録映画に音が入ったときに、撮り方が変わってきました。そのはしりを日本でやったのは亀井文夫さんです。戦前、劇映画がやっと音を獲得した時代に、記録映画で中国の戦線を撮るのに兵隊の声が欲しい、生の中国の民衆の声が欲しいと思った。その当時の録音機はたいへんに重たいもので、十何キロもあるような機械を運んで亀井さんは撮ったわけです。
 
 記録映画に音が入るようになってからですね、映画のスタッフは最低3人が最小単位になりましたですね。監督、助監督、キャメラマン、キャメラ助手。キャメラ助手というのは、カメラのピントの責任を持つんですね。自分で尺で計ったり、あるいは目で計ったりして、ピントをピッタリあわせる職人的に大変な仕事だったと思います。ですからスタッフが演出関係、キャメラ関係、音関係と、最低3人いる。この単位ができたことによって、いわゆる映画スタッフと言われるようになった。
 ですから、みなさんは今、ビデオカメラで音も採れる、それほどの照明も必要ない、自分のキャメラを持って、構えて撮っていく、そういった自分の記録性だけで映画が出来るわけです。
 出来るけれども、スタッフで作るというのは、つい最近まで熱中してきた映画作りの芯があって、それぞれのスタッフが専門的に、音は音のことを考える、音による表現を考える、画は画の表現を考えるわけです。それから記録映画の場合ですけど、演出家は文章では絶対に表現できないもの、つまり、なぜキャメラを持って映画で撮るかという事をとことん考えるような観点を持っている人、そういった人たちがスタッフを形成していくと。それが私が映画を作り始めてきた頃の、一番の問題だったんです。
 
 多少誤解を恐れずに言えば、日本の記録映画は、日本の劇映画に入れなかった連中が集まって、記録映画でも撮ろうか、というようなことがスタートだったんですね。つまり二流の作家、二流の技術者に甘んじていたところが残念ながらあるわけです。それを、亀井文夫さんが、自分の立場をはっきりと鮮明にされたわけですが、亀井さんの初期の『上海―支那事変後方記録』(1938)は、亀井さんは“編集”になっていて、“演出”とは書いていません。
 
 つまり“編集”というのはあっても、記録映画における“演出”という立場はありませんでした。次の作品の『戦ふ兵隊』(1939)から亀井さんも自信を持って、“監督・編集”という立場を出してきますけども。
 そのあと戦争が終わって、そして大変な混乱期を経て映画界がなんとか動き出した頃に、僕は映画に入ったんですね。ですから戦前・戦中・戦争直後の映画の世界の習慣なり雰囲気なりが、ものすごく濃かった時期だったんです。ただラッキーなことに僕が入ったところが岩波映画だったので、本の事業、活字の事業でやっていた会社が「これからは映像の時代だ」というんで映画に力を入れていた。だから、そこには、古い映画人もいっぱい契約者できましたけど、羽仁進さん、羽田澄子さんとか時枝俊江さんだとかが、岩波映画のもっとも中心におられました。
 彼らには、古い映画の習慣は全くないですね。というのは、岩波映画を作った人はキャメラマンだったからです。二人のキャメラマンが中心になって、そして中谷宇吉郎さんという雪の学者を中心にして、映画界の泥をなるべく持ち込まないようにして作った会社なもんですから、古い映画人がいっぱい働きに来ましたけれども、彼らに対して「古い映画を持ちこむな。映画の習慣を持ちこむな」ということをまあ言外に言っていました。僕らも、決して古い習慣に染まっちゃいけない、新しく自分たちで考えろということを叩き込まれました。ですから僕は、映画の古い習慣を知っていますけども、その習慣に染まる事はいくらか免れて、生きてきたんじゃないかと思います(笑)。
 
 スタッフ論を、かつての劇映画でいうと「何々組」なんですね。監督の下に助監督があり、そのまた助監督があり、それにぴったりとキャメラマンとキャメラ助手がついている。もうピラミッド型のですね、数十人の集団が「何々組」ということで、映画を撮りまして、ラッシュを見るときには、「スタッフ以外見るべからず」って書いてあるわけです。それほどにして、完成するまでは手のうちを明かすようなものを一切見せない、そういうセクト的なですね、閉鎖的な面があったわけです。
 
 そういう中から僕たちは、記録映画でしたから特にそうですけども、映画は横並びなもんだと。キャメラマンはキャメラマンとして専門でなきゃいけない。音は音で、やはり自分の領域を頑張ってもらわなきゃいけない。それぞれ頑張って創作していくなかで、スタッフの力を合わせて、まあアソシエーションという言葉が僕は好きですけれども、共同して作り上げて行く。これが映画の世界では非常に新しい思想なんですね。
 
 ですから、かつては監督というと威張ってですね、その人自身が威張っているわけじゃないけど、まわりが威張らせちゃう。監督の権威によって、まわりが監督の言う通りに動くという状態だったんですが、記録映画はそうじゃなくて、私たちが若い連中を、小川紳介さんなんかと一緒に育ててきたのは、スタッフは横並びだ、スタッフが各パートを真剣に考えながら、共通の問題については全く公平に討論していこうとやってきました。ですから私はあえて、映画はスタッフ論と言うわけです。
 
 映画っていうのは1人でもできますよ。1人でもできるけれども、本当の映画を作ろうというには、音のことを考える人、編集を考える人、それぞれのパートがあります。編集も録音もその他のパートも、それぞれに歴史があり、それを学んでやっていかないと、技術がテレビ番組のコピーになっちゃうんですね。僕はそういう点で、これからの人は映画の歴史、技術の歴史、各パートの歴史を考えてもらいたい。それは必ずプラスするだろうと思います。
 


■「私が伝えたいこと③―誰でもドキュメンタリーをつくれる時代だが・・・」
2007年6月23日 ユーロスペースにて
 
■土本典昭
 
伏屋:ではさっそく3回目、最終回になりました、土本典昭監督のトークを聞きたいと思っております。で、今日のテーマは、『誰でもドキュメンタリーを作れる時代だが』ということで、話していただきます。ご存知のように、フィルム時代と違ってデジタルキャメラが普及して、非常に簡便に、そして安く映画が作れるような時代になりました。ところが土本さんは、だけど、しかし、という注釈が入っております。それは何なのか、これから土本さんのトークでお聞きしたいと思います。それでは土本さん、お願いします。
 
土本:どうも。この10年ぐらい、多くの若い人の映画やビデオを、ずいぶん、たくさん見させていただきました。見れば面白くて、なるほどなとに思うんですけども、1本作ると全力投球しちゃうのか、意欲はあっても、第二作がなかなかうまくいかないっていうか、撮る方法が絞れないっていうか。
 それから、第一作にこれだけのものを作られた方が、どうして第二作はこんなに、成り行きまかせの編集なんだろうと思う事があるんです。それから、「私の撮ったのを見てください」といって、ひとつの出来事を3部作で4時間半ぐらいにして、「これを1時間半にまとめたいんだけど、意見を下さい」というようなケースも最近ありました。
 それは全部、僕は気に入らないんですね。やはりもっとドキドキさせてほしいというか、僕にも欲がありますから。
 
 だけど第1作を作って、第2作がなかなかできないという傾向は、僕が育った頃にはあまり無かったんですよ。
 それは、僕の時代の映画人が良かったとか悪かったとかじゃなくて、僕は映画を作るプロセスが革命的に変わっちゃったからだと思うんですね。以前は映画を作るのにものすごくお金がかかったんです。 例えば、僕が始めた頃、TVドキュメンタリーが多かったですが、例えば30分の映画ですと、1時間半分のフィルムだけしか使えませんでした。牛山純一さんの<ノンフィクション劇場>をやる時に、僕は思い切って5倍のフィルムをくれと言ったんですが、5倍のフィルムを得たことが、とても力になりました。
 
 どういう事を言いたいかというと、映画を撮る前に話を絞る必要があったんですね。何を、何日かけて撮るというようなことです。
 また、限られたフィルムを有効に使わなければ表現ができない。つまり、もう使っちゃってフィルムが無いから撮れないとは、プロはいえない。フィルムは非常に高いです、現像料がかかりますから。そういった経済的な制約によって、何が必要になるかっていうと「選ぶ」っていうことですね。考えて選ぶ。何をやりたいか選ぶ、焦点をはっきりさせて作るということです。
 
 それには二通りの方法がありまして、その通り作る人もいれば、僕のように、いくら決めたって、もっと良いものがあるはずだと途中で変えていくようなタイプの作家と、二通りあるわけです。いずれにせよ作る前に、とことん考えるという事を強いられた。それからこの映画はどういう映画でなければいけないか、どういうところで見る人に訴えなきゃいけないか、見る人とってチャーミングな画をどこにいれるか、そういうことをですね、無意識に考えさせられた。それでいて、やっぱりお金の事も考える。お金のことを考えるという事は、幾日間で撮るか、あるいは何時間で回すか、どういう場所で考えて撮るか、そういったことを考えなきゃいけなかった。
 
 ところが、これが十数年前から少し変わってきましたね。というのは、ビデオドキュメンタリーが大衆化してからですね。前は、個人用のキャメラっていうのは、プロの仕事には耐えないと僕は思ったんですね、ところが、自分でつかってみると最近のキャメラはわりと安い。僕らで買える程度のキャメラで、ブラウン管にかけて、テレビ局と同じような画質や音声のものができる。こういう時代が来てからですね、フィルムの制約と撮影時間から、解放されたんですね。
 それで、ビデオを100本使ったなんて話も聞くし、まあ20本30本はザラです。撮ったけど一度も見ないで捨ててしまうなんてこともある。考えてみれば「うわあ、贅沢な時代だなあ」って思います。
 
 私は昔のクセがありますから、あまりたくさんはカメラは回しません。撮ったものは、捨てません。中国の王兵という監督が、9時間の映画を作ったんですね。(中国の)東北の、街の鉄鋼工場の移り変わりを撮った、「僕は何百時間と撮りましたけど、使ったのは見直した部分だけです。どれだけ見直したかというと、数十時間ぶんです。つまり、あとは撮った記憶はあるけれども、見直す必要はない。使わない」彼にはそういう判断があるんですね。
 
 それだから、一定の時間で編集ができたと思うんですが、それを考えると、僕はまた分からないわけですね。つまり、どこで自分の撮るものを取捨選択しているのか?と。つまり撮って見直さないということは、選んでいないということですね。撮った時に、これは使えないけど、いちおう撮影しておこうと思ったに違いない。もう撮っている時に判断があるわけですね。しかし瞬間的に撮っている。そういうことが出来てしまう時代なんですね。
 そういうふうに映画の方法論が格段に進歩したと同時にですね、ゆるやかになってきた。ゆるやかになってきたことは作家にとってどうかといえば、僕は必ずしもプラスだけではないと思っています。
 
 まあ、外国の作家を見ていく場合に、外国のドキュメンタリストが、どういうふうに作っているかというのを、特にそこに焦点をあててものを読んだり、映画の撮り方を見ていると、日本の仲間でもそうですけど、やはり驚くべき工夫をしているんですね。それは仕上げる事についてです。
 いかに撮るかっていうことは、自分で撮ったり、信頼する仲間と撮っていますから、「好きなだけ撮ってくれ」って言って、好きなだけ撮ってもらって、それで編集していくんですけど、その際にやっぱり、ものすごく創作的な工夫をしていますね。
 
 例えばアメリカの女流作家のマイクハマーですが、撮ったビデオを選んでフィルムに直して、やっぱりスタインベックで編集するという事を自分に課しているわけですね。それは非常に手間のかかる仕事ですけれど、課している。
 それからワイズマンは、ビデオはやりませんね。最近少しやりますけど、やはり全部フィルムにして、ひとつの話を2、30分のロールにして、音のロールも作って、やはりスタインベックにかけている。
 
 なぜスタインベックでかけるか?これについては、彼らは「考える時間があるからだ」っていうんですね。やはり巻き取ったりですね、それをまた戻したり、いろいろするのに、ビデオのように瞬間的にできなくてね、必ず手間がいるわけですね、で、太さがいるわけですね。やっぱり画を巻き戻しながら眺めて、ジッーっとボヤッと眺めている時間がある。その時に実は、どうまとめようかという事を考えられる、というんですね。はあ、この人たちも、そういうことを大事にするのかっていうふうに思っているわけですが。
 
 その一番身近な例が、この間亡くなった日本の松川八洲雄さんです。この人は、全く職業的な訓練で出てきた作家じゃありません。ほとんど自分で作って、自分でまとめてきた作家ですけど、彼はフィルムの時代はですね、とことん字コンテっていいますか、字でですね、ワンカット目はどういうもの、ふたカット目はどういうもの、というものを書いて、全カット字で書いて、それをキャメラマンに見せてですね、その上で、これを読んで自由に撮ってくださいって言うんですね。これを読んでこの通り撮れ、と言うことは、彼は絶対に言わない。というのは、キャメラマンに対する人間的な信頼があるんですね。
 
 で、キャメラマンというのは、命令しちゃいけないということをね、とことん教えられたっていうんですね。それはどの人に教えられていたかというと、僕も教わったんですが、瀬川順一という人です。で、キャメラマンは、こうせいって言われたら良い画なんか撮れない。考えろと言われたら良い絵を取ると。そのことを頭にいれて、キャメラマンとそういう形で組んでいた。ですから、彼が自分でもちろん、だいたいのあらすじは話し合っていますけれども、撮影中には、あっち撮ってろ、こっち撮ってろとか、これをこういうふうに撮ってろとか、これぐらいのサイズで撮ってろとか、そういうことを言いませんね。僕もなるべく言わないようにしているけど、僕はどっちかっていうと、どうしても口が出ちゃう方なんですが。
 
 彼の場合にはそれをやっておいて、それを全部、最近はテープが多いんですけれど、テープの場合ですね、不自由なのは、カットの場合はこうやって(フィルムを手で伸ばす仕草)物質的に見ればね、このカットは何を撮ったかというのが、だいたいこう、透けて見えるんです。テープってこうやったって何も見えませんね。茶色だけで。だから、それをですね、徹頭徹尾画に変えて、画に変えてっていうことは字に変えてですね、そして自分で―絵のうまい人ですけど―絵コンテを書いて、こういう絵から、こういうふうにパンして、こういう絵で終わる何秒のカットというふうなことを、絵を書いたものにつけて、そしてそれから考えるんですね。彼は撮ったままのフィルムっていうのはですね、絶対に俺は採らない、採用しない。やはりそこには僕が考え抜いた軌跡がなければ編集じゃない。それに僕は大賛成ですけど、そういう考え方があるわけですね。
 
 それで彼は、こうやって見ても何も見えないフィルムですけども、全部あれにかけてですね、画を確かめて、そしてどういうところから始まってどういうところで終わる、というカットをね、全カット描くんですね。全カットそれをスケッチしてですね、そして壁にぶら下げて、そこからは亀井文夫の昔と同じです。亀井文夫は自分の撮ったものを全部絵に描いて、そして並べてですね、このシーンはここにあったほうが良いやというようなことで考えて作ってですね、それが僕らの頭にあるんですけど。テープになってから、そんな事はできないと思ってね、やらなかった。ところが彼はそれをやった。とことんやった。
 
 ですから、彼の画はですね、どうしてこんなふうに繋がっているんだろうっていう、非常な不思議な魅力があります。で、例えばですね、この話は面白くないからですね、俺が勝手に直してみようっていうプロデューサーがいたとしますね。プロデューサーは中にはそうする人もいますから、それでいじったら必ず分かるんです。おかしいんです。要するに、松川さんの画を見た時にはきちんと繋がって、潜在意識的には何の隙間もなかった画の繋がりが、その人がつないだものは、事柄としてはこの後にこれ持ってくる、この後にこれ持ってくるっていうように繋がっているように見えますけども、内在的な継続感っていうか、心理的なつながりがない、ブツブツのフィルムになっているんですね。だから僕なんか見ると、あ、これ松川さんじゃないなって、僕は分かります。
 
 で、それだけのムービー、映画ってものに対する愛情っていうか、それから創作の決意のある作家のものを見るのはですね、非常に楽しいことです。僕は、劇映画は羽仁さんの映画を繋いだことが、乏しい経験であるだけですけれど、劇映画の場合には、どうしてもシナリオがいりますね。カット何番というのがあって、そしてそれをあまり大きく動かす事はできません。まあ状況をどういうふうに入れるかとか、気づいたカットをちょっとどういうふうに入れてみるかとか、大きくは構成をどういうふうに変えてみるかってことはできますけども、ほとんどシナリオ主義です。ですから、僕と同じようにスタートした人間は、劇映画志望の、例えば黒木和雄にしてもですね、俺が(編集で)本を直しちゃうんだ、というのが若い時の売りだったんですけど、結局できません。最後には、シナリオを本当に大事にしなきゃいけないということを若い人に(話を)してですね、現場を本当にそういうふうに厳しく、シナリオ通りに撮るということに集中させて、晩年の何本かの作品を作った。そういうふうになっていくんですね。
 
 ところが記録映画は違うんですね。記録映画は、その作家の感じたもの。その作家と組んだキャメラマンの撮ったものをですね、どういうふうな表現に変えていくかってことですから、極めて映画的なんですね。
 僕は劇映画は、ある意味では芝居的というふうにも言えるし、演技のドキュメントとも言えるんですけど、記録映画の場合には、全く映画的ですね。どういうふうに撮って、どういう映像で、どういうふうに繋がっているかということでやりますから。
 
 ちょっと時間がなくなりそうですからあれしますけども、ですから僕は、これからの映画の面白さというのは、依然としてドキュメンタリーにあると確信しています。ドキュメンタリーこそ、映画でしかできないものに中心を置いています。劇映画の場合にはシナリオという、あるいは原作があったり、あるいは芝居があったりするのに基礎を置いています。で、それ自身の感動と、映画の感動とは、うまくくっつけば良いとは思うものの、どっかでシナリオですね、あるいは俳優さんに期待するところが非常に多い。ところが記録映画の場合には、全く題材によってですけれども、自分の**であったり、自分の周りであったり、自分の交友であったりですね、いろいろな事で物語を作っていくわけですから、それについてのですね、どこで撮りっぱなしじゃない、きわめて作為的な、悪い意味で言っているんじゃないですよ、僕は作為が無かったら作品なんかないと思っていますから。
 
 そういったものを作るかっていう場合に、やはり、前は撮る前に考えたものが、今はともかく撮った後で考えるというようになっていきますね。で、撮る時はね、うまく撮れているかどうかというのでですね、前は分からなかったんですけれど、今は撮ったらすぐあとにですね、見る事ができるんですね。自分たちの撮ったものを、これはダメだというのでそれは使わないという判断ができるわけです。だから何十時間回したといったって、その人の頭にあるのは何時間分の映像だと思いますね。何十時間分も丁寧に見て作るっていうような作家を、僕は聞いた事がありません。何べんも見直してですよ。そんな不決断なもんじゃないんです。やはり撮った人にはある決断がありますから、撮ったものはかなり絞られている。絞られた中でクリエイトしている。そのクリエイトが、もうほかのドラマでも芝居でも何でも無く、まさに映像のドラマ、映像であるという点で、僕はドキュメンタリーがまだやっていない事はいっぱいあると思っています。
 
 そういった意味で若い人に言いたいんですが、撮れた映画をね、テレビと同じように、何か抵抗感のないように見せるということは誰でもできます。で、それは多分面白いでしょう。しかし一遍(だけ)です。その人がですね、あの時が評判良かったからってもういっぺんやってみようといったってね、どうでしょうかね?
 
 やはり、自分は何をもういっぺんやるかというのがはっきりしなければね、そんなもの同じようなものは二度と撮れるわけがありません。それは方法に対する記憶が無きゃダメです。自分はこういうふうに作った。こういうふうに編集した。こういうふうに構成した。ここで苦労したという、その苦労したとこが、どういうふうに人々に訴えたかということが、自分で経験化されていないとね、理論化とは言いません。経験化されていないと、それを繰り返す事はできません。
 
 だから、そういうことをですね、ひとりでやるというのは、たいへん困難です。だから、この前僕が話をしたように、スタッフを大事にしなさい。スタッフとの討論でですね、自分らの作りたいものを客観的にわかるように、あと討論の対象になるようにしなさいというように言うのは、そこのところでつながっていると僕は思うんですけども。まあそういった意味でですね、「僕は人に判断してもらうほうが良いから、思ったとおりのもの、見たとおりのものを出して、あまり作為をしないで繋ぎました」というのは、これは僕には何のことだかさっぱり分かりません。
 
 そういった意味でですね、ものを作るということは、徹頭徹尾考え抜いて選び抜いてですね、そして、喜びをもって快楽にしていくことですから、そういった意味では、まだ映画は何も決まった形があるわけではありません。そういった意味で面白い芸術ですから、皆さんいろいろなものを見て当惑しながら、それで自分の撮れる力量で、自分の好きな映画を作っていってください。で、討論しながら作るっていうのはポイントですから、やはり仲間がいたほうが良いと思います。それは一緒に作る仲間という意味じゃなくて、一緒に同じことを考えている仲間という意味でもありす。よろしく、ひとつみなさん頑張って下さい。
 どうも生意気に、勝手な事言いましてすみませんでした。(了)