「水俣病はなぜ終わらないか」 <2007年(平19)>
 「水俣病はなぜ終わらないか」

 於 2007年7.21 第49回杉並区夏季教育研究会
 
 長い間、近所の永福小学校を眺めながら暮らしていましたが、特に、歳をとりますと小さい子どもが愛しくて、この頃は、必ず子どもたちの登校時間に合わせて朝の散歩するくせをつけておりまして、その折に、永福小学校の先生たちと顔見知りになりまして、今日のような機会をもたせて頂いたわけですが、ありがとうございました。
 
 水俣病の教訓がいかされていない、これは柏崎刈羽原発の脆弱さにも現われていました。
 
 それで、なにを話したらいいかと思いまして、僕のやっていることで1番感じている水俣のことを話したいと申し上げておりました。
 その後、新潟県中越沖地震よって、柏崎刈羽原発の脆弱な構造が明らかになりました。
 そして原発問題全般でも、40年わたる原発のあり方が問われることになりました。柏崎刈羽原発が活断層上にあったことがわかったとか、1980年代からそういった事故が幾つもありながら全部が隠されていたと、それがだんだん明らかになってきているんです。
 たしか地震があった直後は、「建物内部ではほとんど問題がないと思う」という、我々を安心させるためだけの、いつも通りの声が聞こえてきましたが、日が経つにつれて、「55箇所の破損個所が明らかになった」というような、それでも正直に言うだけましかもしれませんが、そういう電力会社からの報告がある。その上、消防の対応すら出来ていなかったということが書かれていますと、これは「水俣の教訓」はどこにも実践的には伝わっていないと思いまして、これは改めて水俣のことを振り返って、腹の立つ話をなるべく腹をたてないように、一言お話してみたいと思うようになりました。
 
 水俣病の映画を40年作ってきましたが、アメリカの映画のセミナーでびっくりされました。
 
 水俣病は去年 50周年をむかえましたが、非常に長い闘争の歴史があります。
 私は水俣病発生から10年くらいを除いて、40年ほどつきあってきました。
 私としてはこんなに長くやるつもりはありませんでした。
  1970年に長編の「水俣―患者さんとその世界」をつくりまして、その映画の中で言いたい放題いったものですから、水俣の問題はこの映画一本で言い得たと思うなんて生意気をいっていました。
 それはとんでもない思い上がりでした。医学としてのフォローが足りないとか、胎児性水俣病の子どもの話が少ないとか、上映して歩くたびに足りないということを突きつけられまして、それではトコトンやるかと思いましたのが、いまから23~25年近く前でしょうか。
 それから映画の描き方を毎回変えて、見る方があきないように考えたつもりですけど、水俣のテーマを14本作ってしまいました。
 最近、外国の著名な映画のセミナー呼ばれたんですが、セミナーのチューターの映画監督が「我々には考えられないことが日本に起こっている。土本典昭が一生の半分以上を費やして、一つのテーマ「水俣」を画いている、これは大変大きい意味をもっている」なんていわれたんです。
 これはアメリカのフラハテイセミナーといって、ドキュメンタリー映画の世界的セミナー、ですが、その主催者からそういう言い方をされますと、私が記録映画を作ってきたということはこういうことだったのかと、あらためて、その方々の驚き方を見ながら、思いました。
 自分は当たり前のこととして映画を作りつづけてきたんですが、映画監督の歴史というのは、たかだか100年余りで、小説家や学者に比べたら、それだけの歴史かありませんし、作家の仕事ぶりがシンプルなのですね。
 普通は代表作をつくると名前が残ってものなんですが、僕のように一つのテーマを30年以上かけて14本をつくってきている、いまでも自分で出来る範囲で作っているというのは稀有というか非常に目立つらしいのですね。
 私は新しく映画を選んだ人に申しあげるんですが、あなた方はもし著作家や研究者になったら、一つのことを一生かけてやるだろう、私はそれと同じことをやったにすぎない、それなのに記録映画の世界ではめずらしいことにされている、諸君も一本作ったら、次は目新しいことをやらなければいけないなどと思わないように、本当に考える一つの出来事を、その時々の作りつづけていくことは可能ですよ申し上げるんです。その一つの実例として私の映画をいまでも方々でささやか形ですが、上映して頂いております。
 
 水俣病の教訓を伝えることの意味。みんな歳をとるということです。
 
 いまでも映画を上映して頂く中で、私自身がみえてきたことは人間の寿命ということです。
 映画に登場する患者たちも、いつまでも生きているわけではありません。
 それから水俣病に責任ある行政の担当者、あるいはチッソ工場の首脳もそうです。
 ある一時期には、双方が全力をあげて闘いあい、時間が30年も40年たちますと、その人たちが亡くなり、やはり忘れられ、しかも何が問題だったかを知る人は少なくなります。
 私の映画に登場している、チッソと1番激しくやりあった70年代、80年代前半の患者は一人か二人になっています。
 チッソの会社にもいくことがありますが、水俣病の話をすると、「あっそうですか」という感じで、若い社員に伝承されていないんですね。知らないんです。
 またチッソの社史や会社のパンフレットにも水俣病の「み」の字がないですね。
 これは驚くべきことですが、会社の公的な書類から水俣病の歴史がきれいに削られている。特に悪意があって削ったんじゃないかもしれませんが、水俣病で会社の記録を振り返る要素はきれいに省かれています。
 こういったことから、水俣のことを繰り返して話していかなければと思うんですが、僕自身も記憶がだんだん寂れて、スクラップブックを持って歩かないと、お話するときに正確な数字が出なくなっているような始末です。
 
 水俣病を隠していたのは、患者自身だった。これにはびっくりした。
 
 この一ヶ月の朝日新聞ですが、「水俣病の今後はどうなるだろうか」という、こんな大きな記事が出ていました。
 それは自民党でも水俣病のことを考える委員会が、やっと二年がかりぐらいで、方針を出そうとしているもんですか、それにあわせて朝日新聞なんかもがんばって出していると思うんですが。
 その委員会のメンバーもすっかり新しい人です。
 この間自殺しました松岡農相は熊本出身で、その小委員会のプロジェクトチーフでした。彼は自殺する前に、水俣病については何も言い残しておかなかったですけど、このように水俣病を知っている人がどんどん亡くなっています。
 水俣現地においても、忘れられていくし、忘れたいんですね。
 ですから、私がいまから10年ちょっと前に、水俣病で亡くなった1000人の患者さんの遺族宅をたずねたことがありました。
 
 水俣病は生きている方の写真はいろいろな問題が多くて、手が出せませんけど、亡くなった方には慰霊の意味もありますし、「水俣・東京展」の会場に遺影を展示し慰霊するために、仏壇の遺影をカメラで複写させてもらったことがありました。
 ところが、亡くなった方だからいいだろうと思ったんですが、それをやってみて、初めて想像もしなかった水俣病の奥の深さ、複雑さがわかりました。
 奥の深さというのはなにかというと、水俣病を隠しているのは患者自身なんですね。
 「チッソ」じゃないんです。患者自身やその遺族が写真を出すことにOKしないんです。
 水俣病で亡くなった方は、1995年、当時1000人を超えていましたが、亡くなった方の全名簿というのが、県や水俣市にもないんです。全名簿はチッソだけにあることがわかりました。
 なぜチッソにあるかというと、亡くなると補償金を出さなければいけないし、それからその都度、慰霊の花輪を出来れば出したい、その点では律儀なんですね、古風な会社なんです。悪いこともしますけど古風です。
 しかし、名簿がチッソにしかないとうのは本当にびっくりしました。
 チッソはどっちかというと、僕にとっては批判の対象だったんですが、チッソは実務としては、1番確実なことをやっている。患者との約束で、葬式に花輪や葬式代をだすというのは決まっているものですから、それでやむを得ず出すのだとも思うんですが。
 そのことわかるまで僕は水俣で毎日毎日動き回わりました。
 県庁や市役所や周辺の町村を訪ね歩いて、一ヵ月後にやっとわかりました。
 水俣病で亡くなった人数はわかっていても、名前がわからない。患者の情報がわからない。情報がどこにもない。僕は生きている方の場合には差しさわりがあっても、せめて亡くなった方の情報はわかると思っていましたがそうはいきませんでした。
 なぜかというと、そこに水俣病の1番日本的な姿があると思うんです。
 50年前の水俣病事件の、被害の実態が今だにきちんとわかっていない。
 どの範囲でおきてどれだけの、被害が広がり深まったか、いまだ明らかになっていない。水俣病の調査をした医者あるいは行政、かなりよい仕事をしたといわれている官僚の記録においてすら、水俣病の患者の総数や被害の範囲が特定されたことはありません。
 
 不知火海の水俣病映画巡回上映の旅は、水俣病の被害と広がりを見極める旅でもあった。
 
 範囲が特定されたことがなかったものですから、私は70年代の半ば過ぎに、不知火海巡回映画会をやりました。水俣の対岸の天草諸島や鹿児島県の島に映画をもって見せて回りました。水俣病の実態を伝えるのは映画が1番いいからです。それは水俣病の広がりを見極める旅でもありました。
 私は「水俣―患者さんとその世界」をつくったおかげで、オーバーにいえば国際的に名の知られる監督にさせていただきました。それは僕にとっては望外なことでしたし、そこでやめても、僕の名前は残るかもしれませんが、私はやっぱり、この映画を誰が観てくれたろうかと思うとぞっとするです。
 僕の作った映画は映画館でやりませんし、労働組合や教祖にも足をはこびましたけれども、組織としてやってくれるというところはないものですから、
 僕は自主上映して見せていったんです。
 
 そして、遺影撮影の旅は、患者達の本音に迫る旅でもあった。
 
 しかし、これほど、患者自身がネガティブになっているということを想像しませんでした。
 亡くなった方を慰霊するというのは、遺族はありがたいと思うのではないかと傲慢にも私は思ったんですがとんでもないことでした。
 その理由がだんだんわかりましたけれども、やはり知られたくないんですね。もう新聞に書かれたような人ですら、その新聞は見ないでくれと、そのことはほじくらないくれと、という人が3分の一ですね、遺族の。
 住所もわかっていても、私はこの人たちはOKされなかった方はとりませんでした。
 
 私は遺影を集めようと思ったのは、「アウシュビッツ」の記録をみたからです。
 写真の数は多くありませんけど、亡くなった方の肖像がとても雄弁です。
 それから「ひめゆり」の方々の写真はそうですし、死者の像を永久に残そうということは、20世紀の後半には記録の主流になっておりますから、かなり撮れると思ったんですが、あにはからんや、1番それを嫌うのが患者だということがわかりました。
 その状態をみて、患者を非難するする人がいます。患者は勝手ではないかと、しかし私にはどうしてもそうは思えませんでした。
 というのは患者に擦り込まれた悲しみと屈辱は、やはりすごく深いですね。
 それは今日の話ではなくて、水俣病がようやく明るみに出始めた昭和30年代に彼らに与えられた差別と侮辱ですね。これがどんなに深かったか。
 ですから、人にもいわないし、子どもにもいわない、孫になるとまして言わない。
 私達二人が前もってOKをとってから訪ねますが、子どもが、仏壇の写真を撮りたいという僕らに対して、わけがわからないんですね。この人たちはなにしにきたのかな。家のおばあさんは自分が生まれたときにはとっくに死んでいる。このおばあさんはなにをしたのか。どうしてこの人は撮りにきたのかなということなんですね。
 その意味を子供たちから聞かれても、おばあさんなり、お母さんなりが答えることが出来ない。
 家で答える習慣がないですね。自分の家族が水俣の水銀によって、苦しんで亡くなったということを伝えることは、99パーセントの家でなさっていません。
 ですから僕らが訪ねたことは、家族とっては迷惑であり、どっちかというと鬱陶しいことなんですね。
 
 それはどこに根ざしているかというと、やはり自分が魚を食べた、獲ってあまったのを近所に配った。あるいは、売ったという体験が誰にもあるわけですね。そうすると汚染された魚と知っていれば食べもしなかった。獲って売りもしなかったが、それを知らなかったためにやってしまった。
 だれが先祖伝来食べてきたこの魚を、おかしいとか、毒があると思っただろうか。だけど間違いなくその魚によって私たちがこうやってきた。どの家も魚を食べていました。食べる量は、昔ほど 丼いっぱいなんか食べませんけど、魚なしにはいられなかったという生活なんですね。
 その獲れた魚をみて、この魚ならいいんじゃないかと、ものによっては市場に出した。そういう体験をみんな持っているわけです。
 後で解るんですけど、昭和40年代の半ば、つまり十数年の間、明らかに毒のある魚が海から獲れていました。魚を獲るなという行政の指導は一度もありませんし、自粛しろというだけです。自粛しても、売るか売らないかの判断は漁師に負かされている。結局10何年に渡って売りつづけてきた、自分も食べつづけてきた。そのことも心の奥そこにある、自分に対する悲しみというか、自分に対する自信のなさというか、自分も間違ったんじゃないか、そういう引け目というか、そういった気持ちが水俣ではとても根深いんですね。  
 
 ですから、亡くなってチッソから幾許かの慰謝料がでて、お墓を作ることもできた。弔うこともできた。ということがあったにしても、そのことはチッソの金でやったなんてことは知られたくない。そういった隠し事が水俣にはあるんですね。
 
 最高裁判決後、水俣病のマグマが噴出し、水俣病の最大の裁判がこれからやってくる
 
いまから10年前、1996年に政治決着がありました。 社会党の村山さんが総理大臣だった時ですが、水俣病の患者とは認めませんが、水俣病でいろいろ苦労なさった人ということで、260万さし上げる。そのかわり裁判は降りてもらうという、政治決着が行われました。その政治決着によって、水俣病患者の補償金の8分の一ですかね、260万という見舞金みたいなものをもらって決着しました。
 心ある患者は、自分達は絶対がんばりたいだが、自分たちはいつ死ぬかわからないから、生きているうちに解決したいからというのが主な理屈になりまして、理屈というか感情にありまして、手を打っていったんですが、しかし、それが決してそれで済まなかったんですね。
 僕も、初め111人だった患者が、一万何千人で政治決着したんだから、もういまさら水俣病と思うなんていう人は現われないとおもいました。
 ところが、「最高裁の判決」というのはすごい力をもっていて、たいした判決じゃないと思うんですが。しかし、国は水俣病の範囲を非常にせまく考えていた。水俣病の患者は、これこれの症状があれば、現行の認定基準にある症状がなくても、認めるべきだという最高裁の判決が出たわけです。それが二年半まえですね。
 日本人というのは最高裁がありがたいんですね。
 どんなに良い医者が水俣病はこういうものだといって、味方になってくれても、力にはならないし、最高裁には敵わない。
 最高裁がいままでの認定基準はおかしかったという判決を出すと、患者達はがらっと変わるんですね。
 それまで、一度も水俣病のことは言い出さなかった人たちが、今後も出てくるでしょうけど、5000人近くでてきているわけです。
 その中で、すでに2000人が裁判をやっているわけです。
 というのは、ふつう5000人が水俣病と認定してくれといえば、認定組織があってしかるべきですが、水俣病の認定委員会のお医者さんたちも、最高裁の判決のように認定基準をそこまで広げたら、いままでの水俣病に対する俺たちの努力はどこにいくんだということで、最高裁の判決はピンと来ていないんです。
 原田正純さんとか一部のお医者さんは、圧倒的に最高裁の判決を支持して、自分達が主張している通りだ、国やチッソはあやまるべきだといっています。
 現実には最高裁が判断を下したというのが大きいものですから、それ以来患者がどんどん出てきました。
 おそらく、6000人近くでてきているのではないですか。その中で二千何百人かが裁判に立ち上がってます。おそらくまだまだこれから裁判に加わる人が増えて3000人と4000人になると思います。
 そうすると、水俣病事件の中に随分裁判があったんですが、最大の裁判事件がこれからくるんですね。
 ですから新聞も水俣の裁判についての記事は減ってません。むしろこれからえらいことになるという予感があるのか、新聞は一所懸命書こうとしています。
 
 水俣病の全地域調査は一度も行われなかった。裁判においても、これが最大の問題でした。
 
 ただ、共通して言えるのは、水俣病の被害の広がりと患者の所在の証しをたてるような調査が一度もされていないという事実を変えるわけにはいかない。
 調べてなかった、手を抜いていたということを非難しますけど、調査していないんです。
 これは大きなことですよ。これは、我々が国に対抗できるだけの理屈をもっていないということです。
 そういったことを1番知っているのは患者です。
 患者は行政に対して、何回も調べてくれ、俺の家にきてくれ、俺が水俣病でないといっても、親父も、おふくろも水俣病で、兄弟も水俣病なのにどうして俺が水俣病でないんだ。
 こういって頑張ってきた人がその最高裁の判決や、この2年くらいの動きをみて、どう言っているかと言うと、「なんにもこれから打つ手はないというんですね。」
 「ジャーナリストや医者はいまからやりなさいというけど、いまから調べてもなにも出てこん。」「髪の毛は抜け替わって、水銀を調べるわけにはいかない」。「解剖でもしなければ水銀の痕跡はない」
 子どもを作ってしまった。非常に苦しいけど、生きてきてしまった。
 これからどういうふうに生きていけばいいのかむしろ教えて欲しいといっているのです。
 
 チッソへの恨みを乗り越えて、水俣病の教訓を伝えたいという患者が出てきた。
 
 1番典型的な例は、チッソの流した毒に父親を奪われ、兄弟全員も水俣病となった緒方正人さんは、チッソを憎まないんですね。かつては憎んだけど。
 もし自分がチッソに近いところに育って、チッソに勤めたら、俺は水俣病になったとしたら、自分はチッソを責めただろうか。自分はチッソの中にいてチッソに反対して戦っただろうか。とても闘う気にはならなかった。僕が加害者になるところだった。
 彼はある時自分に問い詰めて、そして「チッソは私であった」という本を書くんですね。
 チッソに親兄弟を殺されて、彼自身も百何十PPMという、普通の人の何倍もの水銀が検出された証拠がありながら、水俣病の認定申請を取り下げ、彼は「チッソは私であった」というエッセーを書きます。
 これを患者達はなんていうかというと、「あれは裏切り者だ」なんていっている人は一人もいません。
 「あいつは心がきれいだ」。「緒方正人はさすがに立派なもんだ」「俺たちの気持ちを言ってくれた」といっているんです。
 
 水俣病の患者は被害者であることを、片時もわすれていませよ。悔しい思いもうんとしています。
 しかし、彼らがふっというんですね。「でも俺は生きているもんナ」。「生きているうちはちゃんと生きて死を迎えたい」。「チッソをどんどん咎めても、なにが生まれるんだろうか」。「もう二度と水俣病は起きないという確かさを得ればそれでいいのではないか」。チッソにやさしすぎるのではないかと思うくらい、わかったものいいをするんですね。
 そのバックには、水俣病で敵味方にわかれて闘った何十年の歴史が自分にとっても辛かったと同様に、チッソの人たちにも辛かったろうという特有のやさしさがあるんですね。
 その気持ちが彼にその言葉をいわせているし、それが1番被害をこうむった人たちの心をうっているわけですね。彼の言う通りだと。
 これから水俣病がおこらないようにすることを一所懸命やっていればいいんだと。
 それに引き換えて、国や県がいろいろな理屈をならべて、彼らに対する補償金のことを慮って、チッソが払わなければ国が払わなければいけないとことを予想して、予防線を張って、患者にものを言うなというふうに動いている。こういったことを患者の方がみぬいているわけですね。
 
 最高裁判決以後申し出たひとたちは、中高年と老人、胎児性水俣病の世代
 
 実は私も10年前の96年の政治決着で水俣病患者で、問題のある人はほとんど入っていると思いました。
 私はどこかでもう水俣病の事件は、被害者は後始末をつけたなと思っていました。
 ところが驚いたのがこの2年くらいの動きです。
 その数が数千人になったときに、僕は水俣にいってちょっと歩いてみました、調べてみました。
 そうしたら驚いたことに、今回水俣病だと名乗り出た人は、いままで水俣病に対して一度でも申請したとか、棄却された経験を持っている人は二割でした。数千人のうちの二割です。あと八割は、始めて水俣病にかかわったひと。それまでは水俣病に関われと誘いがあっても、そっぽをむいていた、関係しないようにしていた。
 ところが今回は違う、最高裁が明確な理屈をいってくれた。
 自分達は水俣病じゃないかと前から思っていた、その自分の体についてピタリと解ることをくれる判決が下った。
 
 それからもう一つはこういうことです。
 今回 水俣病ではないかと訴え出た人は、40代から50代そこそこの人です。
 これはどういうことを意味するかと言うと、坂本しのぶさんと加賀田清子さんとか半永さんのような胎児性と同じ世代なんです。
 胎児性はそのやられかたが重かったので、見つけられて救済されましたけれども、同じ世代に胎児性水俣病と同じような被害がないはずがないんですね。
 「俺も実をいえば胎児性患者と同年配で、同じように魚を食ってきた」、そのことを百も承知の上で、じっと黙ってきたんですね。
 それはどういうことかというと、やはり自分の世代、あるいは自分の両親の世代でこうむった徹底的な差別ですね。社会的な徹底的ないじめられ方を、どっかでじっと見ていた人なんですね。
 水俣病でないかといえばとんでもないことが、とんでもない被害が、つまり自分も結婚できない、 自分も就職できない。
 ちょっと、体が悪いばっかりに休もうとしても、水俣病だからということで、辞めないかといわれるのではないか。あるいは女の人の場合ですが、結婚しようとおもっても、胎児性のような子どもが生まれるのではないかと疑われて、結婚出来ないんじゃないか、このことを恐れて実は十年前に発言しなかった人なんです。
 考えてみればその人たちは30才代ですから、まだ30代40代の頭ぐらいですから、まだ元気があって若いですから、その時はまだ俺はいい、私はいい、まだ子供も小さいというんで、隠したとおもうんです。しかし新しい事態が生まれてきて、自分も50代そこそこになってきている。あと何年生きるかわからないけど、それにしては体の弱り方がひどい。
 それから、自分の生んだ子供たちが、ちょうどいま青年期に達しますが、その子たちがまたひどい目に会うのではないかと思って隠してきたけど、その心配もなさそうだ。
 女の子なら結婚する人が出てきたし、息子ならば就職が出来る年頃になった。
 だからもう後は自分のことを考えればいいんだな。
 見渡してみると、みんなあの世代の人たちはどこかおかしいところがあって、体が悪いんですね。水俣病の症状が最近になって出てきた人なんです。
 
 そういったことで、10年前の政治決着にのらなかった人も、いま、世帯ごとごそっと出てきた。1000人単位ででてくるんですね。
 10以上の集落のうち、二つの集落に去年行っていますが、一斉に名乗り出ている漁家集落というのは、そこには水俣病について苦労した先輩がいるんです。
 つまり、水俣病としてちゃんと申請しなさいと言う人がいるかいないかで患者の出方が違うのです。
 集落ごとに情報が行き渡りかたが違っているのです。
 行政が怠けていますから、口コミで行き渡った集落が、お前もだせ、お前もだせ、という形で、9割くらい出している集落が離島であります。
 水俣病発生以来50年もたっているのに、まだこんな状態かと、みなさんもおもわれるだろうし、水俣でもそうです。
 ですから、これはあと5年から10年かかると思うんです。まだ水俣病事件として生々しくこれから登場すると思います。
 最近、新聞が水俣病の50年分くらいの歴史をどっかで睨みながら、狭いスペースですが、きちんといろんな形で記事を書いています。これは東京の新聞でもある程度わかるんですが、九州版ですね。特に熊本の地方版。水俣病の記事をボンボン出し始めています。それは、ジャーナリストはなにをしたという恐怖があるんですね予感がある。ですから一度は始末がついたと思っているけれども、この2年ほどの動きを見ていると、また一所懸命書き始めた、一所懸命調べ始めた。
 つまり良い意味でのジャーナリズムが動き出した。こういったことからみると、本当に理解を超えた動きが水俣にこれからおきるだろう。
 
 それが起きて、これから僕はなにをしたらいいだろうかということは黙っていてもわかりますけれども、僕の体力がそろそろ限界です。
 僕は酒が好きで、アル中になったものですから、アル中で入院したりして、いま糖尿病を患っています。今日も相当血糖値が高いので、あまり元気に仕事はできません。
 78才ですから、2年もすれば80才になると、だから出来ることは限られますので、
 自分の出来ることしかしません。
 
 水俣病の苦難歴史を克服して、水俣の若い世代に明るさが出てきました。
 
 はっきりいえるのは水俣病を闘った連中は全部が年をとりました。
 いま、事件のあった当時の学校の先生方と違って、若い先生が入ってきましたから、実に新鮮な目で水俣病を考えて、僕はそこがえらいと思うんです。
 水俣病の生徒だけを大事にするんじゃなくて、身障者全体、障害者全体も大事にするようなことを学校教育に取り入れていこうとしている。こういう動きがこの5年くらい出てきました。とてもいい雰囲気が学校に出てきています。
 考えてみると、水俣病で1番失ったものは部落の団結です。いまそれに変わるのは学校ごと、子供と父兄を含めた、自分達の受難や町の歴史、自分達の部落の歴史、わかりかた、そのことをいっしょに考えていく姿勢というか、そういったものがやっと出てきた。
 50年以上経たなければ出なかったかもしれませんが、僕はすばらしいことだと思っています。最近は子供たちの様子が違っています。かつては僕が水俣病の映画のプリントをさし上げても上映もしなかった学校が、最近はみんなビデオにして、クラスで上映して実に詳しく水俣病のことを知っています。
 しかも水俣病は伝染病ではない、遺伝でもない、汚染された魚を食ったことによっておきるということをわかっていますから。
 水俣病だからと卑しめられたから、きらって話題にもしない。知られることもいやがり、 隠しておいた世代は、ようやく孫の頃になって、終ろうとしています。
 僕はその人たちの顔をみていますと、非常に明るいです。物事がわかると顔が明るくなる。子供たちの顔は非常に明るいです。
 
 水俣の水源地に南九州の産廃処理場建設が計画されたが、賛成派の市長は落選した。
 
 いま、水俣で1番大きな問題になっているのは、突然、空からふって沸いたようなことですが。水俣病の水源地を買い占めていた人が、産廃業者にその広大な地域の山をすでに売ってしまいました。
 その業者は、その山の谷間を埋めて、九州南半部のゴミを集める置き場にして処理場を作ろうとしています。
 これがわかったのが一年半ぐらい前ですが。
 水俣では水俣病の運動に反対していた人たちも含めて、90パーセント近くは反対に闘っています。
 今年、産廃に賛成した市長が落選しました。水俣市民は世界や日本国内で非常に熱心に反対を訴えています。我々のだしたゴミは引き受けるけれども、九州の半分の産廃のゴミは引き受けない。しかも、一般の家庭のゴミはその中の、一割もないですね。
 
 水俣病の教訓を発信と教訓を生かした街づくり、そこに水俣の希望をみています。
 
 ちなみに、水俣はゴミをきちんと始末している市としては、全国で一位か二位ではないですか。非常にりっぱなものです。水俣市民は、努力して、自分達のゴミに対する考え方が世の中にみとめられているとことに希望をもっています。
 だからこれからの水俣の動きは、半世紀たって初めて被害が明るみに出てくる面と、水俣がゴミやなんかについて新しい考え方でどんどんと進めていこうとしている街づくりといいますか、海づくりといいますか、そういったものの動きがプラス面に出てくるだろうと思います。
 そういったものを記録する若い人を僕は身近に持っていますし、またみなさんに映画をお見せすると思いますけど。そういった形でたとえば水俣がチッソのためにひどい目にあったということは、たしかです。
 いま水俣はこれだけ多くの被害者を残し続けた責任の一半は、患者の受けた受難のひどさから、やっぱり自分達のことを言おうとしなかった、控えめさがこれだけ物事を遅らせたと思います。
 それだけに一方でもう二度と水俣病の苦しみを多くの人に味わせたくないという意識が、一人一人の自覚的にも持たれていくのではないかと思って、僕は水俣市民にある種の尊敬をいま抱くようになっているんです。
 みなさんがこれから水俣のことを考えていただくときに
 いま水俣はやっと1番根底からの民主的な動きが、人びとの間から出ています。そういったことが僕の希望になっています。水俣のことを新聞でみた時に、人びとの声に耳を傾けてください。
 かつてのように泣き言をいっていません。自分達がどうすればいいか町の住民はわかっています。そういうふうに動いていくと思います。そんなところで終ります。
 
 終わり
 
 記録 土本基子
 
 (テープおこししたものを、読みやすいようにしました。内容をそこねないように気をつけながら、言葉の重複や間違いを削り、言葉足らずで理解しにくいところは補足しました。その上で土本本人に添削してもらいました。)