水俣病の“知識”はもはやいらない患者さんの生身を見つめることだ「Iwanami Hall 2」 No.462月岩波ホール
私たちが映画「水俣~患者さんとその世界」を発表した去年1月,水俣病の認定患者の総数は死者46名を含め121名であった。わずか1年の間に,埋もれた潜在患者は今後,何百名何千名に達するか予知できない事態となった。「熊本・鹿児島両県公害被害者認定審査会」はその狭い審査基準にもかかわらずこの1年に死者3名をふくむ53名を新たに認定せざるを得なかったが,現在,医師診断書をそえ申請中の潜在患者はすでに144名,今後,アンケートや一斉検診により,県の試算でも1万5千人の患者総数が推定されている。10数年間,不知火海の海辺のひだの奥に封じこめていた患者を今や行政的にも処置せざるを得ない。認定という医学的処置が直ちに補償とつながるだけに,チッソだけでなく,審査会の面々は,今後いつ果てるかもしれぬ認定をつづけることに恐怖し,委員諸氏はチッソ・県・国の思惑と患者の怨みの渦中に立ち心中茫漠たる不安に佇んでいることであろう。去年12月初めから,東京のチッソ本社に直接交渉を求めて参上した新認定患者さんの行動を前に,島田社長や久我常務らの方策のメドも立たない忘失の顔も同様である。なおさらに見ていてこちらの胸もいたむのは,患者さんや支援の人々を排除すべく人垣として駆り出された「労働者」第二組合の人々のそれである。水俣病発生以来,無責任な会社の体質に合わせて,苦難の通過するのをねがい,千葉に新工場が出来て配転させられたのを機に,心機一転しようとした「従業員」たちは更に東京で水俣の海の幽明定かならぬ所から来た見知らぬ患者に「あんた!同じ水俣のものじゃなか!」と問われたのである。1月7日の暴行はまさに水俣の地縁のものの逆うらみであり,水俣のもんの仕打ちをしてしまったにすぎない。
映画を撮るためすごしたわずか5カ月,私たちはこうした顔にとりまかれていた。その「水俣」の「市民」の中にとけこめるものではなかった。それは患者さんを17年幽閉した人垣であり顔であった。私たちは,患者さんの多発地帯にすみ,そこの地点から出立した日から,差別と触りたくない無視の中に置かれた。それは分って,むしろその場を選んだといえる。しかし何とも水俣の公的社会,そして大部分の市民社会の壁は厚かった。そこに住み,水俣病者の側に荷担をした市民会議の人々ーその大部分は公務員・教員であり第一組合の人はめだって少なかったーの疎外感は,他人者のわれわれには想像を絶したものがある。患者さんのインタビューから,それを基底に工場の「労働者」に,工場責任者に,市の要職の人々に,病院関係者に,そして市長に,チッソの責任者にと這い上りながら取材しようとした志は,最後まで徒労に近かった。訴訟派の患者さんとたもとを分った「一任派」とよばれる患者さんは,骨肉の争いのようにけわしく分裂していて,親類でも相許さぬひきさかれ方をしていた。だから私たちにも同様であったが,初夏から秋へ,晩秋へと移るにしたがい,撮影や録音ぬきの場合には,招じ入れて茶菓をすすめるのである。そこには私たちのモチーフが「訴訟」にはなく,ひとえに「水俣病」にあることを,同じ病者であり,病者をかかえるものとして皮膚的に感得して下さったからであろう。
市民会議の人々はよく患者さんと話しあう。兄弟にもいえないことを打明ける。四重苦の胎児性児を抱きあげ,自分のこつばよう知っとると再確認する。その日々があればこそ,水俣病に関する限り城塞の外におかれたこの人々は聞えるのであろう。私たちはそれから学んだ。私達を支えたものは,患者さんをこの眼で見てしまったもの曰くいいがたい情によるのである。「市民」の垣の顔々,そのいわれない差別に萎えようとするとき,この人々が実は知識としてほほば完全に病気を理解しながら,実は1回も会ったことも見たこともないことに立脚してその無関心を保ち得ていることを知って,私たちは再び頭をもたげることが出来た。
映画の中に病院の数シーンが出てくる。これが許可されるまでに4カ月半かかった。病院長はわれわれに1回だけ許すにあたって条件をつけ,最重病児2名とその病室を撮ることを禁じた。「あの位のひどか子はもう訴訟の家で撮ったでしょうが‥‥‥もう撮らんでよか」病院長は,4カ月半目にはじめて許しながら,彼の知る最も重いもの,医学的にすらその生存は奇跡であり「植物的生命」としか形容しがたい患者に関して禁止した。
しかし私は違約して,その子らを撮影した。その一件の他,口と行動とちがえたことはこの映画に関する限りない。撮影後「違約しました」と報告をしにいったが会うことが出来なかった。映画の試写会にもこられなかった。私は詫びにいったが会えなかった。この撮影以後,一切の報道機関,一切のカメラは病院に立入ることを禁止されたと聞いている。院長は誰よりも患者を直感に見て知っている。見ない人々による市政的処理ともある時期闘った歴史があったろう。私は,公的社会の内部でただひとり映画への途を自分の責任で開いた院長に,お互いに患者を目撃したもの同志の曰くいいがたい情を分ったと思っている。
だが,元兇のチッソは事態の処理に当って,患者と直接触れあい凝視することがあったか。ほぼ皆無なのである。現地水俣は東京で世論が動くのとうらはらに患者さんの闘いを更に毒づき叩いていることだろう。名も顔も知れたチッソ城下町の忠臣どもは,全く患者さんを見ようともしない人々ばかりなのだ。映画はただ患者さんを見つめることに終始したのはそのためである。だからこそ,東京のチッソ本社で,会社の幹部の判断中止の呆然たる頭蓋骨を前に,「まず一晩でも俺ん家に泊って見ちくれんな,そうしたら分りますばい!」と親身のもののように語り聞かせるとき,この一見,もつれにもつれた“紛争”のいとぐちが,どんなに単純に見つかるか,それを外してはないいとぐちを,あきらかに,静かに,正確に,そしてやさしみさえこめて,患者さんは,敵に塩を送っているのだ。