水俣病患者さんのストックホルム旅情「GRAPHICATlON」8月号富士ゼロックス
彼らは見られるために外国に来た。そのことははっきりしている。出発前に政府筋から患者派遣の動きに反対との意向があり「何も日本の恥を外国に見せることはなかろう」という「日本一家」の発想をもって批判したが、患者さんだって、恥ずかしさで死にたいくらい、自分で知っているのだ。
坂本しのぶという少女は、十五才になった。二年前に女のあかしが始まったという。胎児性水俣病で神経を冒され、眼が望遠鏡で見るような視野の上、やぶにらみで片眼は殆ど機能しない。指はシャツのボタンをかけることができない。歩行は足首がねじくれているうえ、辛うじて前に進める脚力しかないので、自分の足首にひっかかってころぶ程だ。酔っぱらいのようにふらつきながら歩く。彼女にとって重労働は歩くことである。ただ耳は聞こえ、母の扱いのメリハリのよさもあって、知能は敏感であるが、口で表現することができない。また、その分だけ知能は深部で耕されて来たといえる。利口な子供である。
彼女が代表に選ばれ、出発間近い頃、親がもてあます程、行きたくないといって、「ごねた」という。「あんなききわけのないことはめずらしかった」と母親のフジエさんは言う。しのぶちゃんにしてみれば、自分の不具を知りぬいていて、できれば、水俣のはずれ、湯堂の海辺で、ひっそりとしていたいのだ。娘の盛りに年のみ近づいていくが、身長、体重は幼児期を脱したばかりであり、それでいて女の性徴があらわれるという最も不安定な思春期に突入させられている。
大人の患者の代表、浜元二徳さんにとっても、生き恥をかくことはもう十五年間の毎日であった。彼らのために、水俣の知恵者は英文の布製ゼッケンを作製した。本人は「何とかいとるか、いっちょう分からんかなあ」というが、胸、背のスペースにこう書かれている。”AN INDIVIDUAL CAN NOT BE REPLACED”(人間なるものは二度とよみがえらない)CHISSO MINAMATA DISEASE VICTOMS”(チッソ水俣病の犠牲者)そして、特に大きく"VICTIMS OF THE UNCONTROLLED MARCH OF GNP”(高度成長政策のコントロールなき行進のかげの犠牲者)
このゼッケンをつけていないと、浜元さんは、恥ずかしさだけになってしまう。彼は働きものの若い漁師だった。網元の末っ子で元気でわがままで、明るい浜一番の若衆だった。完全無傷の体であった彼が、今も、年一年歩行ができない。昨年会った時より、更に歩みは難儀そうである。はじめて、中継地モスクワについて一泊の日、彼は空港につくや、ゼッケンをつけてくれという。ここはスウェーデンではないから、新聞記者も誰もいないし、どうかなと言うと、「でも人は、何でこうなったか分からんもん、ぼくのびっこが……」という。
ストックホルムに着いたときは患者さんはそれぞれにアッピールまがいの英文を記したゼッケンをつけて並んだ。その字を拾うように撮ったカメラマンはひとりもいなかった。その中で、空港に出むかえた私たちの友人、在日一年余に及び、水俣にも泊り住んだことのあるオランダ人の運動者、アンドレ・シュミットか、一流の黒旗「怨」ののぼりを手に、その胸の字を声をあげて読み、その一字一字が、言葉の表現をもたぬ患者さんに背負わされた「水俣からの声」であることを分からせるように努めていた。そのあと、数人のカメラマンが、字をよめるように、アップで撮っていた。空港のあわただしい歓迎の一瞬である。さすが水俣まで行き、そこの海で泳ぎ、魚をたべた外国人としては希有の体験をもった男だけあると、ありがたくその気のくばりを謝したい気がした。
ストックホルムは、われわれの到着の前日まで、オーバーの要る程冷え込んでいたというが、その日は春をとびこえて初夏、汗ばむ程の暖かさがあった。空港から宿となった、郊外の日本人家庭まで数十キロの道のりの間、菜の花が咲きそろい、牧草はむれるような緑をみせていた。絵にかいたような風景に一同くちぐちに喜んだ。一応落ち着いて、市内見物をかねて車をセントラル(中心街)に走らせた頃、坂本フジエさん(しのぶさんの母)は、あらゆる街角に咲きほこるチューリップの花に嘆声をあげながら「これはどこが作っているのでしょうな?」と聞く。清潔な町、公園の中に建物があるような気配におどろいている。市が作っている、労働者が専心して花や木の手入れをしていると地元紙「エクスプレッセン」の女記者が説明する。勿論熊本市にも水前寺公園があり、東京にも新宿御苑や日比谷公園はある。しかし、限られた一画ではなく、あらゆる街路に花があるのだ。それは水俣市を尺度とする眼から見れば、根本的に人の住むところのあり方が、花一つの風情で分かるといった程のちがいがある。水俣に工場ができ、それにつれて、商店ができ、飯場まがいの工員住宅ができ、それにつれて女郎屋ができ、雑然と無計画に発展し、いつも工場のゴミと、油と煤煙が、市の中心にどっかと存在する町の構造をあるがままにうけ入れてきた眼からみれば、人の住む場所に花や草木の場所のあることに初めて「市」を見た思いがしたに違いない。それ程にフジエさんにとってチューリップの花の美しさはくり返しの感懐の種になるのだ。「よう手入れして!」「だれ一人花を折らさんもんな!」「これだけの花壇を作るとすれば大ごとじゃになあ……きれいかねえ。しのぶ、ほらみてごらん」とはしゃぐのである。
スウェーデンの新聞は、患者さんの訪問を、ある敬けんさをもってむかえたようだ。センセーショナルな記事で人気のある「エクスプレッセン」(夕刊)紙は、彼らのことをたびたび報じたが、とくに、国連側のアメリカ代表の一員としてきた女性使節シャーリー・テンプル(昔のハリウッドの名子役)と反国連側の日本の代表の女の子、坂本しのぶを対照させて、シャーリー・テンプルのベトナム戦争やむを得ずのおしゃべりをのせ、その反対の紙面に、チューリップの花の匂いをかぐ坂本しのぶを配し、無口のまま雄弁に公害を物語り、はじらいつつ、入目にさらされることに耐えている犠牲者といったコメントを書いている。
人口四十万といわれるストックホルムで、水俣病患者の三人の全身像を写真で知る人は多い。恐らく、全市民が知っていたことだろう。日本ではーとくに東京では、患者さんを見る眼の中には、冷然たるものや、低い好奇心に満ちたものもある。石牟礼道子さんが「東京の人の悪相」つまり、資本主義に骨がらみおかされた人々の悪相についてふれた象徴的な文章がある。時に水俣市民や、いますわりこんでいるチッソ本社前でみるチッソ社員の眼には、恐ろしい眼力をもって患者をとがめるごとくみる眼すらあるのだ。しかしこのストックホルムでは、およそその様な視線に会うことはなかった。好奇心のまなざしすら稀なことであった。深く案ずる眼とでもいおうか。ひかえめで、もし必要なら手だすけして手とり足とりしたいが、いまはそうしないですみそうだから、そのままにしておきます-とでも言っている心くばりにみちた眼にあうことが多かった。タクシーを止めると、日頃はユックリとドアをあけるであろういいおっさんが、ドアから飛び出して、殆どかかえるようにし、運転中も、スピードすらもセーブして、車内のゆれやショックを案じていることがよく分かる。
あるいは中には五クローネ(三百円)札を出して、これを受けとってほしいという。はじめは、こっちは乞食じゃねえや、と思ったが、札をさし出す人の顔をみると、一種の義務のようにさしせまった表情で、ことわると、困惑に満ちるので、そのあと受けとることにした。こうした親切は一体どこに由来するのかよく分からない。ストックホルム現地が、患者さんの到来について、”受難者”として紹介したこともあろう。「人類全体」が今度の人民サイドの(勿論国連サイドもそのつもりであろうが)テーマであり、地球を数えというグローバルな-どこかで抽象的哲学的な理念にすべりがちな問題提起の中で、日本から公害の被害者、英語でいえばVICTIMSであるーつまり犠牲者、政府企業の利潤追求の陰でひきさかれた犠牲者であるーということの他に、「私に代わって贖罪を受けたいけにえの羊」といった知覚が、この西欧の物の考え方の中にあるのではないか。私にはその親切の質が、正面きって正しいように思える。
またこれに応える患者さんの一瞬の態度について触れたい。日頃、日常の患者さんは、水俣の漁民部落の平凡な男であり、主婦であり、不具の少女-つまりただのひとにすぎない。気負いや、過剰な「代表」意識などすこしもない。水俣弁まるだしで、水俣気質あけすけで、若干猥雑な臭さを遠慮なく発散する人たちである。「こんな体で全くどもこもならん、世話ばかりかけて……」という負目も、体の不自由から人手をかりる毎日の生活の中から、しじゅうあらわれる。「公害」の「水俣病のおかげ」のという言い草は心の底の方に沈んでいるだけで、日頃はただの病人である。しかし、この長い闘いが彼らを本当につよい人間に鍛え上げたと思う節々に思いあたらせる。人の親切にあったとき、このストックホルムでは言葉はわずか「サンキュー」くらいしか知らない。それもとっさのことで出てこない。つまりありがとうの日本語をつぶやいて、眼で示すのである。感謝の気持をのべるまなざしには、尋常唯事ではない熱い、そして厚い心が、そのひとみにじたっと浮かんできて、相手の心にたしかにつたわるのである。ある日の午後、観光ボートでストックホルム湾を周遊したが、患者さんの分は料金を受けとることを拒み、これは、「私の会社からのプレゼントです」と窓口の女の子が頑張る。船の大男でふとっちょの船頭がしらは乗船や船室への乗り降りに威厳をこめて他の観光客を整理し、王子に仕える騎士のように折り目ある挙措で、坂本しのぶのびっこの歩行を見守り、もう触れんばかりに手をさしのべ、それが体が傾いたらすぐ支えるばかりにして、陰のいたわりをつくすのである。しのぶちゃんは、顔をあからめて笑顔をみせる。この子が他人の前で笑うことはめったにないのだ。そんなやりとりを見ていると、「いけにえ」となった患者さんは、自分の身代わりの受難者だと、理屈ぬきに分かる宗教の所在をみる思いがする。また、その時に、その親切を真顔で受けとめる患者さんの人間の背骨のでき工合もまた知らされるのである。
「この国は公害が出たら、すぐ分かるとばい、いつもきれいだからさ、目だつもん」と浜元さんは警句を言う。外国からかえりみて日本-とくに水俣の「市」の様をみれば、このひとことが分かる。
湾内で船にのった時も、岸壁をみて、潮の満ちひきの少ない内海湖であることを見てとり、手で潮の温度をたしかめ、風の匂いで塩分の殆どないことを知っていたのは、元漁師の浜元さんであり、網元の妻である坂本フジエさんである。ある日石油工場を見に行き、その岸壁をじっとみていた。ゴミも浮いていない、まして油膜も浮かんでいない岸壁をみつめていた。かつて水俣の百間港で七色のニチャニチャが流れつき、舟についた舟虫も、三日もつなげばきれいになる(つまり死ぬ)という奇怪な工場縁辺の海になれてしまったあと、その海の水銀に冒された。決してきれいな海から突然水俣病が生まれたのではない。工場の水銀ばかりが言われるが、工場からの煙と石灰滓や悪臭が全市をおおっている-今日もそうである-ことに慣れてきたむくいが、水俣病なのだ。-そのことは美しい街をどこかで一区画、一つのアパートごとにコミュニティー(生活共同体)という言葉が日常ふだんに使われて当然の市民のあり方について学ばせる。
ややこしい言い方を知らない人たちだが、「日本がこんな国になろうとするなら、何年かかるか、何十年かかるかなあーしかしもう手遅れじゃ、日本はもうしようがなかなあ」と言った時の浜元さんの眼には、恐ろしい程に知的な苦しみが光って見えた。