「水俣病」を撮る心 『公明新聞』 3月20日付  公明党機関紙局 <1971年(昭46)>
「水俣病」を撮る心「公明新聞」3月20日付 公明党機関紙局 ※残っている原本が不鮮明なため文章は完全ではありません。

五年後ふたたび水俣へ
 それは七〇年二月、いまこそ水俣病は再びその怨みともに浮上し、すむ私にとっては「寝た子」に見えた、波風の立たぬ風化した世界、私が水俣病をTⅤ取材のため訪れ、漁民村落の中に入りこみたいと願いながら、1日にみえぬ柵で断され、その一割についに入り得なかった記憶ともなる。私は「水俣」での挫折からドミニカ、キューバ、ソ連邦(シベリア)と海外に眼をむけ、再び日本に滞り、日本につくすより外に私の記録映画のモチーフはないとホゾかためて、またしても水俣という現罪に面をつきあわせることになったのを、ある感慨と共にうけとめざるを得なかった。
 その五年の間に、私事ながら、私は七歳になるを白血病で失っただけに、とくに生まれながらの胎児性子供
 それがチッソのからの毒であり発生以来十八年工場のインチキもあり、熊本県、ひいては環一連の企業軍国政策声の中で、水俣を出来れば「なかったもの」
 活動すら、権力のかこいこみを受けている。水俣病は、敵にとって幸いなことに、最もへんぴなはずれ、その水俣市にとってもはずれの漁村の家々の奥にとしめられている。「毒害、毒殺」であるにかかわらず奇病当時、声を大にして言われた「伝染病」「赤痢より死ぬの高い」という噂に、足の交流さえバッタリとそれ故、人の訪れることめったにないひとかたまりの村落。生けるまま化石になれと
 生はんかな態度や、「カメラ商売」では石もて追われるのか当然の世界の「日本」全体から疎外された想いで十八年を耐えた人々に、石をもて私たちを追うなと
 私たちが始めたのは撮る以前の作業からだった昭和四十五年五月、厚生省での補償処理による死者高四百万という「処理」に抗議してのすわりこみ、ビラまき、デモ、私たちスタッフはそれから始め体ごと運動してみて権力の壁が、患者さんの側に私たちを追いやる。水俣病の現業を直視すること
 水俣でもうつったものしか撮らないいう方法をまず決めた。村落から、水俣を、日本を逆に、私たちは水俣に出立した。

問われる"まっすぐな筋"
 いささかでも運動をしてきたこと「告発」の人々、私たちは出月村落や浜元ふみよさんという親を失い、弟をかたわにされたそのため四十までついにすることも忘れたひとりの家をそこに約五か月、準住人に入った。
 「わしは訴訟だじゃけん、かもうてくれるなと追いかえしたもんな」と語りながらも、心底では、言葉どおりに、いい切れる勇気を授かりたいというまなざしを私たちはみた。私たちがカメラにそうしたことは、患者さんにとってひとつの決着であったかも知れない。
 完成した映画を上映した際、それが個別に撮ったものにせよ、訴訟派二十八世帯全員が登場して一つ一つのパートを演奏してオーケストラに至るように、その別々の生の声が1つにして水俣病をのろい、告発するドラマに進展する、そのひとこまに場するおのれとおのれにうなずく人々、そのひとりひとりをみるとき、私は、この方法が、この映画の本質の方法であったと改めて「裁判でうんと金が欲しいじゃなか、ほんとうの筋が…ますぐな筋が観たいと一患者はいう。国のまっすぐな筋、ほんとうのとは、言葉をかえていえば、あなたのまっすぐな筋、ほんとうの筋として、私たちに問いかえされる。私はかって絵になりやすいに選んでプロの腕にたよって村落に入ろうとした。今は、問われるべき私として、ひとりひとりにあい、ことに胎児性の子供、思春期にさしかかる。