越えねばならぬ長城 『エコノミスト』 11月7日号 毎日新聞社 <1972年(昭47)>
越えねばならぬ長城 『エコノミスト』11月7日号 毎日新聞社

 実に些瑠ながら、近ごろ週刊誌で田中訪中の記録映画がNC社の手で作られていると聞いた。念のためだが「日映新社」ではない。NC社は私たちの間では、自民党のひもつき映画社であり、とくに防衛庁の映画を大量につくりつづけてきた、いわば最右翼の体制的PR映画社として有名である。オリンピックにせよ天皇訪欧にせよ、国民的合意を得ようとするとき、必ず大記録映画が随伴することはめずらしいことではない。いまや二〇社近い映画、TV、独立プロが、中国にむけての取材申請を行ない、息をひそめて待機中である。その第一弾がNC社であることにある感慨なきを得ない。
 かくいう私も、この一年近く、中国をテーマに映画の構想を考えないではなかった。というのは昨年夏、中国をはじめて訪れた若い諸君が、中国でみせられた南京大虐殺の写真、資料に触れ、すでに始まっていた独占商社マンの進出と重ねてみて、はたして時流にのって中国へ赴く人々が、戦時中のこの大虐殺の事実を知った上のことかどうか、もし無知のまま訪中するのであればその結果はどうであろうかーと考え、帰国後、ただちに、その点より出発した中国に対する日本人にとって知らなければならない映画を作って欲しいといわれたことによる。
 そうした日々、考えたことに二つある。一つは、日本にきている中国映画、とくに記録映画の学習である。一九五二・三年ごろより劇映画「白毛女」「梁山泊と祝栄台」以来、無数の記録映画が日中友好協会(正統)や中国通信社にきている。これは中国人民を背に負った中国側の記録映画である。これに面とむかって、日本を背負った日本人の作る「中国の映画」でなければならない-。いま一つは、日本学生の願う種類の映画をまず日本国内から作らねばならないだろうという予感である。広島や東京大空襲の事実は、消失から救われつつあるが、四万人にのぼる中国人捕虜殉難の歴史はまだフィルムに残されてはいない。秋田の花岡事件、北海道の美唄事件はもとより、酷寒の北海道で雪の下に一三年ひそみ、そのため歩行筋がとけて失せたといわれる劉連仁(強制連行中国人のひとり)事件すら映画にとどめられてはいない。
 田中首相訪中の際「小異を残し、大同につく」という中国側の言葉を、得手にして、日中国交回復は成った。「御迷惑」の語感の解釈で自民党派閥間のバランスをとって乗り切った。いまや中国と日本との間に、生活、風景、すべて奇とし異としつつも、過去若干の「御迷惑」の時期をのぞき、二〇〇〇年の交流史にたっての視点から「大同」映画がいっせいにつくられそうな気配すらある。些事ながら、NC社の映画アニマル的出現に「小異」にこだわる私がある。官許記録映画のまかり通るこのころであれば、一層の大事である。
 私にとっては映画を事として中国に赴くのであれば、その「小異」こそときあかすものでなければならない。”文化”はつねに政治のゆがみに対し矛盾をあばくものとしてあらわれる。まして、文化大革命を痛苦の中で試みた国・中国にむかって映画を作る話である。いかに一部の「軍国主義者の蛮行であり、日本人民とは別だ」といわれても、日本へ強制連行した中国人の慰霊すら始末できていない私たちには「小異」は大きいのである。私はいま事態いかんにかかわらず、中国にいたる映画の道の前に、越えなければならぬ歴史としての長城がみえる。
 しかし時流の赴くところ、とうとうと映画取材班は中国にゆくであろう。人為的に狭められた情報を交換し理解を深めることは、いまよしとしなければならぬだろう。それが「大同」に便乗し、「外交政策」や「経済政策」の覇権のあとをついてまわる官許団の「映像アニマル」であるか否かをきびしく点検したいのである。それは私自身への問責である。私事ながら、私は再び水俣、不知火海にむかうことになる。まだ「小異」が映画の核とならないからである。(記録映画作家)