序章 不知火海の“時間”とは ノート <1982年(昭57)>
 序章 不知火海の“時間”とは

 京橋の展覧会「ドキュメンタリー作家土本典昭」の準備を、私(土本基子)と岡田秀則氏(フィルムセンター主任研究員)と進めているときに大部の原稿用紙が出てきました。
 調べたところ、この文章は発表されていないことがわかりました。展覧会には、この原稿を展示しましたが土本典昭の仕事を知っていただくためにも、内容をHPで公開することにしました。
 
タイトル 全体を総称するタイトルはありませんでした。
 
書かれた時期 1982年ごろとおもわれる
 
原稿用紙の枚数 280枚
 
文章構成  章立てになっている
 
「序章 不知火海の“時間”とは」は土本典昭がつけたもの。
後半は章のタイトルがないので、理解を助けるために、簡単な章の名前をつけようと思います。

土本基子
 
序章 不知火海の“時間”とは
 
 映画をとるものとして、物事を手でたしかめたり、繰り返し眺めたり、人と何べんとなく会うことが、なかば職業の上のくせになっている。
 水俣病とかかわりをもってから十七年になろうか、その間何十ぺんとなく私は百間排水口のあたりを歩きまわった。今後十年もたてば埋めたてられ、風景の一変するところである。恐らく公園風の街路と広場、そして公共の施設と企業がレイアウトされるであろう最汚染地の根っこのところに百間港がある。
 
 最初水俣にきた1965年頃とそうは変わっていない。
 工場を背にして排水口の上の道路に立つと、すぐうしろには排水のためのポンプ小屋があり、前には石づみの堰でつくられた岸壁が、水俣湾にむけて次第に幅広く水路をつくりながらV字型に広がっている。今でこそ主な排水は工場の反対側から市街地やチッソの子会社の敷地を縦断し八幡残渣プールをへて、不知火海にじかに流されている。
 
 百間の排水口は一見きれいにろ過され、見た目には真水の澄み方をみせているが、そのヘドロ、水俣ではドベとよばれる工場からの永年の堆積物の黒くぶあつい泥の層にはまだ数百PPM以上の総水銀が検出される。水俣病発見の1957年頃には2010PPMという、水銀鉱山なみの水銀含有量のヘドロの滞留堆積していたところである。
 
 水俣湾の干満差は大汐のときで三メートル以上。みちしおのときは、湛々と水をたたえる百間港もしおがひくとその腐肉をさらけ出す。かっては木造船につく船虫やふじつぼをとりのぞくのに、底を火でやく手間にかえて、ここに一晩ふた晩つなげばきれいに死んでとれるといわれた。それほど毒性の悪水のよどむところであった。だからここ百間排水口だけは、生きものは半永久的にもどることはあるまいと思っていた。
 この排水口から一キロ、二キロと離れた水俣病の初発の部落でさえ、浜に死魚が漂い、猫が狂い盲いて海の中にとびこみ、鳥は足なえ、羽ばたきも出来ずに折れまがって死んだという記録を知れば、その最濃厚汚染地帯の、その毒性の吐しゃ口であった排水口に、まさか生きもののきざしのよみがえる日など思い浮かべることもできなかったのだ。
 
 最初に水俣を訪れた一九六五年、破船のめりこんだドベを撮っているが、細部の記憶はない。
 風景より人の悲劇に動憤して、それどころではなかったからだ。
 
 一九七〇年、『水俣ー患者さんとその世界』をとっていた頃、熊本大学の病理学教授武内忠男氏が「水俣にかもめがもどるかもどらないかが、自然のよみがえりのひとつのメルクマールですね。計石(水俣より北20キロの打瀬船漁の盛んな港)にはかもめが帰っていますもんね」といわれて、妙に感心したものだ。その眼でみても、当時百間港に一羽の鳥の姿も見つからなかった。
 
 同じ頃、ある患者が「百間で釣のしとるもんがおったなあ」というので、一笑に附した。
 悪い冗談を言うものだぐらいに聞きながしていた。
 魚がもどることも、釣をすることも、ともに承知できない事であった。
 
 というより、チッソの罪業の未来永劫消滅かなわぬ証左として、あの百間だけは、死につづけていてほしいというでもいうような錯倒した気持ですらあった。今思えばの話である。
 事実、魚影を見ることはなかった。また見つけるまで見とどけようという試みもまたしなかった。
 
 長編『水俣』をとってから三年のち、再び水俣に長期ロケをした。『医学としての水俣病ー三部作』をとるため約十ヶ月滞在した間に、はじめて私たちは百間に小ブナ程の魚の群をみた。それはボラの仔であった。
 
 水中のコンクリートの黒いぬるぬるしたものをなめているようであった。「毒なのに、あわれな生きものたち」といった気持でそれを眺めていた。しかし日のたつにしたがい、そのボラ仔は成長し、二、三十センチの“エビナ”になっていた。
 
 一九七五、六年頃からである。潮のひいたヘドロの泥沼の真中を蛇行しながら流れる排水の小川を、背びれを並べさざなみのように遡行する群れや、排水の落ちるところ、滝壺のようにえぐれて汐ののこる溜池のようなところで、菜餌行動して倦むことのない魚影をみるのであった。
 
 工場排水に酸でも混じっているのか、魚鱗のただれて白くふやけたような斑点がついたエビナが少なくなかった。
 かつて、水銀だけでなくセレン、タリウム、カドミニウム、砒素、そしてのちにはPCBと、ありとあらゆる重金属の混じりあった排水であったという。いまも外傷性の毒性をもった水質なのであろうか。
 
 良く見ると、その中の、体を横にしてしか泳げないエビナがいた。奇妙な回転をくり返している。
 回遊するのではなく、宙返りのような一方方向だけの回転運動を横泳ぎでくり返しているのであった。
 
 まる一年して、また同じ泳ぎかたのエビナを見た。次の年も同じ様態のそれを見た。
 そして、今年の春も百間の汐だまりに、全く同じおよぎ姿のエビナをみたのである。
 年一年その群はふえ、百間ばかりでなく、工場に近い遊水路にもエビナの大群をみるのであった。
 私はその中で横泳ぎのエビナを探すくせがついてしまった。
 
 有機水銀は人間の場合も好んで脳や神経細胞を冒すという。貝における実験においても、無機水銀は消化器や肝臓を冒すが、有機のそれは好んで神経節にとりつき、その細胞を冒すと元熊本大学医学部の藤木素士氏から教わった。
 
 ならばこの奇妙なエビナの横泳ぎとくるくる廻りは有機水銀による運動失調や、平衡感覚障害といった人間における水俣病と似たものではあるまいか、といった素人の憶測が生まれるのである。
 “魚の水俣病”といった考えから“慢性型の魚の水俣病”“微量長期摂取型の魚水俣病”といった発想がとめどもないのである。つまり死に至らないが、健全ではない魚の存在を思うのである。
 
 同じ頃、水俣病の最初の発見の時期、典型的患者を多発した月ノ浦、壷谷にカキが一つ二つと数えるほどにせよ附着しはじめた。
 一九七六年に発表した『不知火海』のプロローグは、それに驚きながら「こりゃ先になればもっと増えますよ」とうれし気な老人(田中義光氏)のことばで始まっている。もはや百間は半永久的に死んだーとする私の固着した観念は融解しつつあった。それが映画にも反映した。
 
 黒いヘドロの層の厚みは素人の探索では分からなかった。やはり映画「医学としての水俣病ー第一部資料証言編」の中で、渡辺栄蔵元患者互助会代表といっしょに、ふなべりからつきさした数メートルの竿は、軟らかにヘドロの層につき入り、底にとどかないことを実験したにすぎない。
 
 その折、その軟らかさが、泥というより化学物質のかすといった方がふさわしいことをあらわすために、いくつもの礫を投げ込んで、そのヘドロの飛沫のはね工合をカメラにおさめた。においもつよく、ねばねばしたそのヘドロの質感が印象にのこった。一九七四年のフィルムである。
 
 その後、私は水俣にいくたびに、同じ場所にたって、誤差があっても数メートル範囲のドベに、同じ重さの礫を投げてみるのだった。ややさっくりしためり込み方になった。そのヘドロの表面に、やがて、スプレイで一ふき緑をふきつけたようなこけが生えてきた。石を投げるとぶわぶわだった表層により砂質のものが多くなっているのが分かった。
 次にはのり様の草が生え、やがて、雨鳥と土地の人がいう海鳥も帰ってきてなにかをついばむ姿がみられるようになった。
 
 最近は礫があまり深くめりこまないまでにしまってきた。「これは自然にできた“かさぶた”だ」と思った。
 
 一方、水俣湾では、一九八〇年六月より浚渫埋めたて工事が再開された。湾の外まわりの新フェリー発着場予定地や、明神の鼻と恋路島の間でボーリング工事や、海底に敷布をかぶせ、ヘドロの捲上りや濁りを防止する作業がはじまった。
 
 大きなビニールシートを沈め、捨石をおもしにして、ヘドロの捲き上がりをおさえるという新工法は眼新しいものであった。
 だが実際に作業に雇われた水俣の市民の口から「なんの、上から砕石の投げれば、ビニールのはしからアンコのようにドベの出る」という実見談が真実味もって伝えられた。
 
 なんでこの“かさぶた”をかきむしってまた生き血を出さねばならないのか。
 水俣病が戦中の一九四一年頃より発生していたのにかかわらず、何故一九五四年・一九五五年と漸増し、一九五六年にいたって大量発症をみ、奇病として“発見”されるに至ったかについては、一九四九年よりの第一期水俣湾改修工事、一九五六年三月からの第二期工事によるヘドロひっかきまわしが、引き金になったという。
 
 今回、カッターレスポンプによるバキューム工法をとり、基礎は床掘りをせず、土砂、砕石によるサンドレーン工法、サンドコンパクション工法をとるとあるが、かさぶたの下のドベのネチャネチャ、ぬるぬるの化学性泥土質からいって、さきの市民の「アンコのようにわきから出る」話の方が信じられるのである。
 
 水俣湾における埋立ては事実はひきしおのとき、膚をあらわすドベの線を考えればよい。
 その露出の部分が埋立て境界線、つまり50PPm以上であり、25PPMの海底泥土の線内のヘドロをカッターレスポンプで、埋立地にあげ、沈殿凝固させ、上ずみ水をろ過した上で放流するというものである。(熊本県の答弁書)24PPM以下の水域はそのまま残される。そしてその湾内水域には磯があり、浅瀬あり、砂地ありの魚の孵化、生育の場所でありつづけることにちがいない。
 
 まい上がるヘドロの微粒子の中で魚族の生活はいとなまれるのである。
 
 微視的にみれば 水俣湾は決して狭くない。
 
 水俣湾とひとくちにいっても、かつて地曳きあみの網代が十五にわけられていた。いわしの回遊場所が岸辺寄り、恋路島寄り、岬寄りとあったからである。
 そして水銀汚染も、百間の数百PPMから湾口の数PPMまで濃淡がありながら、魚類は巧に棲みかを選んでいる。
 
 魚にとって水俣湾は広い海なのである。百間排水口の付近ですら生物がもどってきたのであれば、水俣湾全体の漁場は復活の過程にあるといえる。
 
 水俣病発生以来、八年間、この水俣湾は水俣漁協により操業が自粛されてきた。
 
 一九六二年二月、水俣病は終息したという医学者の見解(熊本大学、徳臣晴比古氏論文)がだされた。
 三月、水産庁は病因追及を断念、水俣病に関する疫学的調査、研究を打切り、翌一九六三年二月、熊大研究班は曲折をへて原因物質を「魚介類をへて摂取した有機水銀」と正式発表。

 それまで中止していた港湾工事のための浚渫埋立ての再会にあたり、市は熊本大学、故入鹿山教授から「もはや湾内のドベには有機水銀は検出せず」との回答と再開へのゴーサインを引き出した。
 
 その二年後、水俣漁協は湾内水域での漁獲禁止を全面的に解除した(一九六四年五月)。 同年度、浚渫八万三千六百立方メートル。
 漁協はその補償金一千万円を取得した。
 
 一方、入鹿山教授の市への回答より遅れること四ヵ月、熊本大学怱那医学部長は、熊本県に対し正式報告書をもって湾内十六ヶ所の表層に2PPMより713PPM(乾重量)の総水銀のあることを報告しているが、結果として警告にならなかった。
 水俣病の原因は有機水銀(メチル水銀化合物)であるという、一点に絞った同一九六三年二月の熊大研究班の正式発表によって、無機水銀は犯人視され得ず、総水銀のデーターでは対抗しえなかったからであろう。
 
 こうして一九七五年九月、熊本県の正式の漁獲禁止までの十一年間、水俣湾はいわば開かれてきたのである。
 その再禁止令はヘドロ埋立てを前提とした湾口部の汚染魚封じ込めとセットとして出されたものであり、以来、ここでの漁労活動は非合法下におかれ、海上封鎖に似た管理体制下にとじこめられることになったのである。
 
 その開かれていた十一年間、恋路島にカキうちにいき、仕切網地点でボラかご漁を盛大におこなってきた漁民は、この水俣湾に対する朝令暮改にふりまわされてきた。そして禁止による損失も大きかった。
 
 ボラは水俣湾の特産ともいえ、不知火海区では、八代沖、三角と首位をあらそう水揚げをあげていた(一九七三年 百トン)以後、食卓からもそれは消えた。
 とれたてのボラは刺し身の洗いによし、みそあえによし、あぶらののったボラ汁は旬のものの中でも最も美味であった。
 
 さきにふれたエビナの群泳は市内のドブ川、ため池、川口部いたるところに見られ、水俣のつり道楽は溜息をつくばかりのこの頃である。
 
 海の賑わいは水俣の人たちの心にどう映じたであろうか。
 ここでは詳しく立ち入らないが、仕切網設置、ヘドロ処理工事、それの施工への住民による工事差し止め仮処分申請、その住民側原告の完敗、工事の本格的再開という住民と行政との闘いの数年間があった。湾の命運はほんろうされつつ、確実に国・県・市の意味通りに進行を早めている。
 
 ヘドロ工事の再開のための住民署名は「猫の名前まで書かれた」といわれる程の数をあつめ、市民の総意の形がとられた。
 漁協が勝訴判決のとき大漁旗をおしたてて「お手を拝借」の喜び一色につつまれるといった大勢の流れの中で、海の年ごとの賑わいは深く、しずかに確実に進んでいた。それはとりもなおさず、水俣湾が、禁猟区となり数年の休漁期間をへて、その本格の再生をもたらすことになったからである。
 
 不知火海全体からみればその海面面積数百分の一にすぎない水俣湾と魚とヒトのエピソードが、どれほどの意味をもつのかとの疑問もあろう。
 しかし、不知火海全域汚染の源であるこの湾であるだけに、この湾での動向のディテールは不知火海全域の問題の端緒であることは確かである。
 
 行政にほんろうされるこの眇たる小さな内湾が、今日、装死することなく生きつづけるのを見るとき、これにはやばやたる死を宣告する行政と、各様の政治判断と、これに対し、声にならない漁民の反応のディテールを対することに私はこだわらないわけにいかない。
 まして、水俣病闘争を担ってきた人々の間でさえ、その本音とたてまえがゆれつづけているよう思える。
 
 水俣湾始末の一連の動きが、水俣病始末の体制の意志のあらわれであることを厳しく指摘するのも患者・支援者たちだ。
 その仕切網作戦のずさんさを暴露し、いまも高汚染の魚のいることを証明し、水俣病の危険の伏在をあきらかにし、不知火海全域への回遊を警告するのもその人たちである。
 それでいて、海の賑わいに相好をくずし、ときには夜づりで“汚染魚”をとり、さしみにして久々の味覚に舌づつみをうつのもその人なのである。
 そして同時に水俣湾の浚渫埋立の強行に反対しつつけているのだ。
 
 一方、行政、国、県、市は、汚染魚を汚染の元凶とみ、諸悪の根源と見なし、その絶滅作戦について市の漁協と固く協同作戦をとってゆるがない。
 そのためにも水俣湾の埋め立ては焦眉の急として、市民の世論を糾合することに心を砕いている。
 湾内のヘドロと魚を根絶やしにすれば禍根を絶つことが出来るという理屈で反対の住民、患者、支援者の孤立をはかり、現状“完勝”の立場に立っている。
 この大勢はまだ当分変わることはないであろう。
 
 景観の全面的変容、つまり水俣湾のヘドロを埋めこみ、岸壁を新らしくし、公園風の都市計画をはりつけ、しかもなお海と陸との新しい風景を保つならば、これ以上のイメージチェンジはない。
 水俣病事件は“風化”から、“無化”にすすむであろうそのシンボルたりうる―そんな意志の先どりを感ずるからだ。
 
 結論を急ぐ前にいくつかのエピソードを紹介したい。
 
○映画『不知火海』で体験した、汚染魚処理の仕事にたづさわった漁師たち―(メモより)。
 一九七四年、冬、仕切網内定置網の汚染魚をとる。漁師四人、漁協より日当で頼まれた人たちであった。
 豊漁であった。田中さんはついカメラの前で大威張りのポーズをとる。六キロのスズキである。
 
 本来一匹のこらず岸壁のポリタンクに入れるはずだが、バケツの一杯か二杯分の魚しかいれない。
 撮影のために頼むと渋々もう一杯。はしごでタンク頂上にのぼり、フタをあける。異臭。
 だがそれより驚いたのは魚がどろどろにくさってとけ、褐色の半流動体の汁になっている。
 さっき入れた新鮮な魚が身もだえしながら褐色の中を泳いでいる。乾咳発作に襲われる。漁師は怒気をふくんで私をみる。撮影出来ず。
 
 帰り道、漁師、黙々として甲板の魚を海にかえす。各人、いい魚をよって、家路に帰る。食卓に供するためのもの。
 大ぴらに両手にぶら下げて、である。
 
○一九七七年、春(メモより)
 百間湾にKナンバー(鹿児島県籍)のプラスチック船二隻、しばしばみかける。患者と支援者との飲み会で話題にすると「ナマコの密猟」とのこと。
 恋路島付近にナマコが大量発生し、いい値うれるので、それをめあてにして、夜な夜なアクア・ラングで潜ってとって、鹿児島の市場でうって“漁夫の利”を得ているという。いぶかしいのは「やり口がきたない」というが、毒の話ではない。
 むしろナマコの酢のもののつくり方、とりたてのナマコの口をチョン切って、チュウチュウ腸をすうとその味絶妙ということに落ちる。
 
○一九七八年秋、月浦壷谷のE家にいく。イイダコの煮つけを山もり出される。おじいさんから「遠くのじゃで噛め」とすすめられる。
 「仕切網から百メートルほどのところでとれた」のだから、遠いということらしい。ついやけぐいする。うまい。
 「水俣はよかでしょうが」と同意をうながす。
 
○不知火海総合調査団の春季合宿、恒例の石牟礼道子さん宅での“魂入れの式”(一生けんめい気張ってくださいという気持からのもてなしの宴)で水俣河口のアオサとビナ貝の料理。彼女自身、汚染についての毛すじほどの疑いもない。そのせいか皆針でせせって貝をたべる(毎年)
 
○一九八〇年春、湾内いっせいに汚染魚をとる。クロダイ、イシモチ、カサゴ百七十キロ。クロダイはどれも卵で腹いっぱい。漁師はそれをみて情けなそう。
 一匹5千円はするとつぶやいている。
 
○一九八一年八月、県は「水俣市内の魚屋の店頭の魚に基準値(総水銀0,4PPM、メチル水銀0,3PPM以上)をこえる魚がでた」と発表。
 カサゴ最高1,939PPM 他キス等。これは漁協員ではなく、一本釣の湾内での密漁であろうという推測を会わせ見解をのべる。

 「一本釣にも補償せよ」と運動する会のリーダーS氏によれば「一本釣の衆はヘドロ処理に反対だから、その勢いをそぐためのねらいうち」という。
 漁協は管理下に統制され、体制べったりである。
 
 その反対派、非加盟漁民である一本釣を悪役にするための汚染魚キャンペーンという。
 理由は、二月、五月の定期検査の結果をなぜ八月のタイミングをねらって出したのか、だからという。
 
○水俣、茂道のSさん(患者運動リーダー)船を買いかえ、こんご生活のウエイトを漁におくという。新船づくりがこのところ多い。
 「魚がもどって来たでなあ」という。

○同じ茂道ではタイ仔とりで一晩に百万近い水あげをあげた人がいるという。六月一ヶ月、タイ仔、モジャコ(ブリの稚魚)とりで不眠不休という。
 
○春もアオサとりに女の衆だけの船がでる。「すっかりカキがもどっとる」ので、カキうちをして一日「浜あそび」してきたと患者さんたち。
 皆生色よみがえっていきいきしている。(一九八〇年三月メモ)
 
○一九八二年春、日曜日、チッソの残渣プールの不知火海側岸壁、自家車十数台、つり人が十メートルおきぐらいに一せいに糸をたれている。
 クロイオ、ガラカブ、メバルつりという。
 「もう大ぶん前からですたい。わしらこけえくるとは…」チッソ敷地内の立入り禁止の区域であるが、一見、海のリクリエーションセンターの観がある。
 
 このような断片的なメモはきりなくある。それは水俣湾の日常であり、水俣の生活に奇異の感なく、自然になじんでいるものばかりだ。
 この十年、私のみつづけた最汚染地、百間港とそれを内にいただく水俣湾とその周辺の魚と人のつながりの変化はかくのごとくである。
 
 魚を“汚染源・汚染魚”とみなすか、“もどってきた魚、海のにぎわい”とみなすかで人びとはまっぷたつに分かたれる。
 私は後者であり生類のよみがえりとみる立場にたつ。
 口に出してこそいわないが、“汚染と死”に規定づけられた海に、魚がかえり、産卵し、孵化し育ちつつあることを、心よりよろこぶ住民・漁民の気持のたしかさの方にひかれるからである。
 
 しかし、手離しで海のよみがえりのきざしをよろこぶには重大なおとしあながある。
 海の生物の水俣湾への回帰、生育は、とりもなおさず、プランクトンから小魚へ、さらに成魚への食物連鎖の中で、確実に微量の水銀から濃厚な水銀への濃縮化の過程をたどるからだ。
 
 長命な肉食系の魚や底棲性の魚ほど、高い水銀値になることも疑い得ない。そして摂取上安全の暫定基準値とされる総水銀0.4PPMメチル水銀0.3PPM以内という数値にしても、これは国民栄養調査(一九七一年)による日本人の魚介類摂取の平均最大量を一日108.9グラムとして割り出されたものであり、水俣、不知火海周辺漁村の食生活の実情の二分の一程にしかあらたない。
 (熊本大学二塚信氏“水俣病の疫学的研究”青林舎刊「水俣病20年の研究と課題」102頁)
 
 一九五七年水俣病多発期のクロダイ(チヌ)24.1PPM、ボラ16PPM、カニ35.7PPMには遠く及ばないにしても、水俣市の店頭魚のほぼ2PPMは継承多食すれば、確実に発症する数値である。
 
 それゆえに県は81年夏、その汚染魚を摘発し、警告し、法規制に頭を痛めたはずである。
 だがその行政の上からの一方的“汚染魚騒ぎ”に市民は以外に冷静に対応した。魚のボイコット、不買のきざしすらなかった。
 そこには水俣的な魚の食べ方があるかのようである。たまに程よい量の魚を賞味するといった食卓の智恵があるのかもしれない。
 
 住民の提起した埋立て工事さし止め仮処分の中で、住民が工事によって起こる危険性についてあげた問題点に対し、県の答弁書はつぎのように答えている。
 「工事で浮遊した水銀粒子(5ミリクロン以下)は時間の経過とともに沈降する…しかもヘドロの中の無機水銀はほとんど硫化水銀で(無機)海水中にとけだすことなく…魚体内でそれがメチル化することはあっても、ごく微量であり…人体に蓄積した水銀は、生物的半減期によって減るので、計画の工法をもってすれば、発病にいたらない。」一九八〇年四月十六日、熊本地裁は大筋のおいてこの主張をみとめ、国・県に工事再開の途をひらいた。
 
 この主張通りならば、なおさら緊急にヘドロを処理する必要がどこにあろうか。二百三億の巨費を投じ、十年の歳月をかけ百五十万立方メートルのヘドロを浚渫埋立てる根拠がないではないかと原告住民はその矛盾を指摘した。
 
 時に湾内産魚を汚染魚として処理し、追及しながら、ときに無害に等しい旨の立証をする行政の姿勢を衝くものであったが、ほぼ徒労に終わった。
 
 この裁判について、私自身抱いた危惧は、ヘドロ除去についての市民の永年の願いについて抗しがたい大勢といったものであった。
 それを最もチッソに求め続けたのは他ならぬ原告中の患者であり、運動者であった。
 その行政のひっかき回しについて、私のさっきるるのべた百年の河清をまつといった類の、いわば傍観者的意見も“論外”ならば、この早急かつ杜撰な行政のやり方がどのように危険なものかの証明力の不足も明らかであった。

 原告住民といっても、少数であり、主に一本釣漁民のほか県、チッソのなすことに不信感を拭い得ない反体制派諸個人と労働団体であった。
 水俣漁協は早々と賛成を打ちだし、反対行動をとるものの除名を決定した。元訴訟派患者すら身動きがとれなかった。
 
 市当局が行政ルートを利用してあつめた署名は、市人口の九割をこえる三万三千八百九十にのぼった。「嬰児から猫の名まで記入した」と噂されたが、はやり圧倒的な市民がヘドロ処理早期着工に同意したことは事実であろう。
 約三万七千人の市民のうち三万四千人弱がゴウ・サインを求めた。
 
 少数の住民側の原告は世論において惨敗したことを率直に認めざるをえない。
 「浚渫埋立てによって、一区切りつく」といった水俣病事件への終止符の意図は巧にかくされた。
 と同時に魚の安全性が法廷において喧伝されたことは、魚の湾内回帰をよろこぶ住民の心にストレートに結びついたであろう。
 
 その判決直後、水俣病患者連盟の川本輝夫氏が逮捕された。
 たまたま環境庁の水俣病認定破棄者の理由説明会で、申請患者三人の代理人を委任された川本氏を認めなかったことにはじまる抗議の中で、審査会文書を持ち出しコピーしたとして、氏と相思社の社員、高倉史朗氏を公務執行妨害で拘留した。
 
 原告側は二重のダメージを受け、一審の“科学論争”の一方性に顧みて、「裁判所にこれ以上“ヘドロ処理の安全性”について判断をゆだねられない」として控訴を断念した。
 水俣病の五指に余る裁判の中で、最初の敗北であり闘争継続意志の放棄であった。
 
 以上、のべたことは、一九七三年の第三有明水俣病の幕引き以後、自信をつよめた行政が“水俣の再生を”旗印に、水俣病の切り捨て、ヘドロの処理によるイメージ一新のプログラムを確実に進行させているなかで、患者側、運動の側が後手に回らざるを得なくなった“時のうつろい”をのべたかったからである。
 
 行政の先手に対しそのあとを追って反撃につぐ反撃をこころみるにせよ、彼らのタイムスケジュール後追いであってよいのであろうかということである。
 もしそうだとしたら、私には空しく絶望的な展望しか描けない。
 
 一九七七年、不知火海の潜在患者をたずねて映画会をくり返した。
 水俣病始末の政治的力学に一矢をむくいるべく巡海上映行動したつもりである。
 
 そのレポートを本にし、ひきつづいて映画をつくろうとした私にとって、最も悩んだのは、どこで体制のプログラムのちがった映画の時間、映画対象の時間の間尺をつかみとるかであった。
 
 以前のように、チッソ対患者の相い対する闘いといった一すじの太い系ではなく、財界、チッソ、環境庁、熊本県当局、水俣市及び一部の市民、患者の分裂による負点を含め、あらゆる保塁からの患者つぶしの策動の多様さと連続的攻撃であった。
 彼らは一見錯雑し、不統一で、勝手に患者たちにむけて石をなげつけているかに見えて、実は統一した意志をもっていた。
 
 その象徴的事件は「ニセ患者発言」であり、この統一的ムード的スローガンのもとに、各パートそれぞれに患者つぶし、水俣病の幕引き劇を演じているのであった。これに対する患者側の応戦のしたたかさと、俊敏さとファイトはそれぞれに眼をみはるものであった。
 
 四つの裁判を打って出、度重なる逮捕、監置に屈することなく戦いつづけられた。だが、反患者オールメンバーの打者交替による連打に抗せるものではなかった。

 彼らはあきらかに水俣病始末のタイムスケジュールをたてており、そのタイミングについて主導権をにぎることの出来る権力者たちであったからである。
 あきらかに患者運動に金属疲労に似たつかれさがにじみはじめ、運動のフックはときによろけがめだちはじめた。
 
 冒頭よりのベた海への注視は、そのことをみつめなければならなかった私の眼精疲労を回復させるための、営為であったといえなくもない。
 かりそめにも十数年、患者の側でその闘いの一部始終を見てきた私にとって、事態はあまりに辛く酷に映じた。
 だが、その一つ一つの緒戦から過程から、そしてあえていえば敗北までを描いてなんになろう。
 
 勿論、川本輝夫、緒方正人、佐藤武春、浜元二徳氏ら、患者リーダーたち、その闘いを支援する水俣病センター相思社をはじめとする若い人たち、東京、名古屋、関西、熊本の支援者の闘い、どのひとつをとっても、勝利によってむくわれる闘いの組み方をしているわけではなく、その闘いの過程をまるごと生き方としている質の人たちである。それは確実に映画でとらえたいドラマの主人公たちの思えた。 だが私は撮らなかった、終わりなき闘いではなく終わりなき撮影におち入るからだ。
 
 いま体制のタイムスケジュールのはるか先に迂回し、できるならば自分たちのタイミングと自分たちのスケジュールで対峙できるみちをさぐりたかった。
 現実に彼らの手で鼻づらをひきまわされたくなかったのである。むろんその間映画をとらなかったわけではない。
 
 一九七八年、胎児性水俣病患者の初の社会行動ーといっても、石川さゆりを水俣によんで仲間に見せたいという素朴な動機から始まった一連の自主的活動を描いた映画『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱』

 一九八〇年、不知火海の漁法と漁民のくらしを月ごよみを軸に描いた子ども向けの映画『海とお月さまたち』
 
 一九八一年、丸木位里、俊氏の水俣の図製作にかかわる一年の遍歴を追った『水俣の図・物語』。
 
 これら三本は現実に生起している水俣病の政治的な緊張関係を描いたものではない。
 ひとつひとつテーマにそれなりの結びのあるものをえらんだ意味で、いま本流にみられる水俣病始末の連続的な攻防戦は避けて描いたものである。
 
 どの一本も、水俣、不知火海にかかわるそのときその局面としてのドキュメタリーの思想方法は辛うじて保ちえたとは思う。
 
 だが、ここ数年来、去来する“未知のドキュメンタリー”とは言えないのである。そしてそれは非力な私には今後ともとれないかもしれない。
 それにせよ、そこで映画を考えつづけ、思惟することが出来たら、それは私にとっての映画であろう。そう思わなければ元気が出ないのである。
 
 ならばそのよみがえりの間尺を探したい。ありていにいえば、映画をどう撮っていいか分からないあいだの時間をつかって、できるだけ水俣のよみがえりの姿をあれこれ考えることに費やそう。そう思ったときから気が少し軽くなった。 
 
 水俣での日々の闘いのあれこれからすれば間のびした話ではある。しかし、そうすることがいま私に出来る活性化の方法であることは確かだ。
 
 その基盤には死そのものと思われた水俣湾のよみがえりを凝視した作業がある。この種の作業を続けたいと思う。
 やがて海の生命の一呼一吸の間尺が、昨日、今日、明日の不知火海と重なって現実性をわが手にすることになるかも知れないと思うのからだ。
 
(以下 章より章までは雑誌「暗河」(一九七九年冬期号より一九八一年春期号まで)に連載したものに、今日、かなり加筆したものである。
 しかし、その時期とその時期の視界と深度には触れないように心がけた。これらはこの本の扱う時間の半分でしかないからである。
 それ以後のレポートによって、“いづく”かへ漂着してみたいからでもある。)