私の映画遍歴37年 季刊『水俣フォーラムNEWS』 水俣から水俣へ8 No.14 4月27日号 水俣フォーラム <2001年(平13)>
 私の映画遍歴37年 講演 季刊『水俣フォーラムNEWS』 水俣から水俣へ8 No.14 4月27日号 水俣フォーラム 

 私が水俣の仕事をすることになったのはまったくの偶然でした。一九六四年にテレビのドキュメンタリーをやっていたときには、いつも五、六本のテーマを頭の中に用意しておくような仕事の仕方でしたが、その中の一つに「水俣病」がありました。しかし、その当時、それが他のテーマと比べて特に重要だとは意識していませんでした。

 テレビ作品 『水俣の子は生きている』ー

 きっかけは新聞の切り抜きです。よく記事を読み込んでみると、チッソ水俣工場の排水のせいで、「生きている人形」といわれるような子どもがいるということが書いてありました。それから、桑原史成さんのまだ写真集になっていないゲラを見つけて、それで彼と話したりしているうちに、とんでもないことが起きているんだということがわかって水俣と関わり始めたんです。
 一九六四年というと、水俣のことが忘れられていたころのことです。初めて水俣に入る前には、正しいことを正しく伝えれば正しく伝わるに違いないと考えていたのですけど、大学の先生やジャーナリストから「水俣は入りにくい所だよ」「相手はしゃべらんだろう」「市民は嫌がるだろう」といわれて、おそれを抱きながら水俣にたどり着いたというのが実状です。
 患者さんは初期のころ、「避病院」といわれていた隔離された場所にある伝染病院に入れられていたんです。私が行ったころには、水俣病病棟が市立病院にやっとできていましたが、にわかに作られた病棟で、霊安室の隣だったんです。病院の一番奥にあって、その手前までは見舞いの人が行っても、そこを境にめったに行かない。病院によく行く人でも胎児性の子どもを見舞うとか、患者さんに会うことはなかったようです。
 初めてカメラを向けた患者は胎児性の患者でした。七、八歳になっていましたが、五、六歳ぐらいにしか見えませんでした。この子たちはお客さんが大好きなんです。たぶん、写真を撮りに行った人は手土産を持って行ってたんでしょうね。だからよくなつくわけです。ところが、大人の患者はカメラに背を向けて、写されることを明らかに避けていました。ケースワーカー志望の女性にこの映画の主人公になってもらったんですが、その方と話すときもカメラがあるとベッドの陰に隠れてしまって、映っているのは髪の毛だけという状況で、「テレビに写されても何もいいことがない」とか、「伝染病といわれて嫌われた」というようなことをおっしゃっていました。「生きている人形」といわれた松永久美子さんもいましたが、全然反応がなかったですね。
 ケースワーカーの人と初めて湯堂部落に入ったとき、人だまりの中に胎児性の子どもが一人いたんですが、私たちは気付かなかったんです。でもその子を写しに来たと思われてその母親を激怒させました。障子が閉められてしまった家の玄関で、私は三十分ぐらい彼女から問責されました。このことから水俣を撮る資格があるのか、自問自責に陥りました。
 『水俣の子は生きている』をかろうじて撮り終えた直後、再び水俣にカメラを持ち込むことも少しは考えました。これは身障者ものでもあり社会問題ものでもあり、あらゆる要素が複合していて、それだけに作らなければならないと思うと同時に、反芻してみると目の前の患者を撮れるかどうかまったく自信がなかった。このフイルムでは患者はほとんど撮れていません。
 これは一九六五年に日本テレビの「ノンフィクション劇場」で放送されました。この中で、ケースワーカーの方について「どこまで水俣病を背負っていけるでしょうか」というナレーションがありますけど、あれは自分のことを言っているんです。僕自身が映画としてどこまで水俣を追っていけるのか。完全に自信を喪失した状態でした。

 初の長編『水俣-患者さんとその世界』ー

 一九六八年に政府見解が出て、新潟の阿賀野川と水俣の被害は会社の排水が原因だということをはっきりと言います。そんなことは以前から一部では知られていたのですが、「やっぱりそうか」ということになって、患者さんたちの怒りが出てくるわけです。
 そして翌年に患者さんたちが初めて提訴して、いろんな支援の動きがでてくる。そこで映画を撮ってくれないかという要請が石牟礼道子さんからあったんです。熊本の「水俣病を告発する会」だけでは運動の幅が狭い。どうしても全国に訴えたい。テレビ局もやってくれそうにない。ぜひ撮ってくれということで熊本県の宇土出身の映画プロデューサーの高木隆太郎に話があって、そして『水俣-患者さんとその世界』を撮ることになりました。
 しかし、実際に撮ると決意するまでにはものすごい逡巡がありました。原告患者家族として二九世帯が一丸となって闘っておられる。誰か特定の人をピックアップして撮ることはこの映画の場合やってはいけない。全員を撮らないといけない。しかし全員撮るような映画の構成は考えもつかない。現地からは「撮りやすい状況になっているから怖がらずにいらっしゃい」といわれていたんですが、自分の気持ちが固まりませんでした。
 そのころ、東京でも水俣病患者支援のいろんな動きがありまして、三カ月間そればっかりやっていたんですけれど、一任派の患者に低額の補償を押しつけようとする策動阻止のため、私も厚生省に突入しました。逮捕され、ブタ箱に入れられました。しかし、それは逡巡していた私を決意させることになった意味で幸運ともいえました。というのは、患者さんの撮影に行くときに「腹を決めてやっている」と口で言わなくても済みますからね。そんなことがあって『水俣の子は生きている』のときと比べて患者さんとの距離感がなくなって、ほんとうに「撮れる」という感じがしました。
 この映画に登場して「タコ獲りじいさん」というあだ名がついた尾上時義さんは、タコを獲るのが生き甲斐のような方でした。腰まで海に浸かって捕まえて、タコの目と目のあいだの急所を噛んで腰にブラ下げるんですが、その量がものすごい。それでもそのときは、これぐらいでは大漁とはいわない、自分が探せばいつもこれぐらいは獲れるんだといいまして、驚きましたね。水俣湾内の恋路島のちょっと沖で、汚染は免れていない所だと思いますけれど、獲りたくて仕方がないわけです。患者さんであるもっともっと前に漁師であり、それよりも前に人間であるということがわかったシーンですね。
 もう亡くなりました上村智子ちゃんという胎児性で象徴的な患者さんは、そのころは弟妹四人には全然症状がなくて、お母さんも比較的症状が軽かった。この子が体中の毒を全部吸い取ってくれたんじゃないかとそのお母さんが言うんです。何回か撮影を試みましたけれども、カメラを向けると意識してひきつってしまう。当時はまだシンクロ、画像と音声の同時撮影機材を使っていませんでしたので、まず話をしている映像を撮ってカメラが回る「ジャー」っていう音が終わってから、もう一度お話しいただいたのを録音して、後で映像と音を重ねます。そのカメラの回る音に慣れてもらわないと撮れない。僕は胎児性の方の感性は人よりも研ぎすまされていると思っています。表現の方法は奪われていますけれども、喜怒哀楽は全部知っていると思いました。最後のころになってやっと智子ちゃんを撮れたとき、僕はあれだけきれいな顔の彼女を見たことがなかったんです。お母さんの手元にあって一番美しい顔でしたね。
 この映画を作ったころは、四日市ぜんそくだとか水俣のうねりがあって公害元年といわれてましたから、全国で本当によく見られました。少なく見積もっても二十数万人は見てくれたんです。
 一九七二年にはストックホルムで行われた国連人間環境会議にも行きました。海外の人たちにも水俣病のことを伝えようということで、患者の坂本しのぶさんたちが参加して、私はカメラも持たずに介助係として行きました。そのとき初めて世界中の人たちが、公害問題というのは人体を傷つける問題なんだと知ったんです。私の映画も「ショッキングフィルム」と言われて、ロシア、イギリス、オランダ、フランス、ベルギーなどから見せに来いとの誘いがあり、いわば、方々の国から引っ張り凧でした。

 速報のためだった『実録・公調委』『水俣一揆』ー

 翌七三年、患者さんたちの裁判が三月二十日に判決を迎えます。その年の一月に『実録・公調委』という作品を作りました。これは、七十年の環境庁裁決、大石武一長官時代の事務次官通知後に認定された、いわゆる新認定患者の補償問題をチッソの側が一方的に総理府の公害等調整委員会に持ちこんでまとめようとしていた。判決が出る前に公調委の金額を出させて低い金額で全体の補償レベルを決めたいというチッソの意をくんで、手続きが横暴に進んでいたんです。そこに熊本から水俣病を告発する会の学生たちが上京して何十人も公調委に押しかけるという知らせが来たわけです。それでとにかくカメラもありあわせのもので、みんなに手伝ってもらって一日こもって撮った。そのとき、すでに亡くなっている患者さんの委任状が出されていたというような文書偽造が明らかになって、それを暴露するフィルムになりましたので、早く世の中に伝えようと、ニュースのつもりで作ったのが『実録・公調委』でした。
 その後、水俣病第一次訴訟は勝訴しますが、私は非常にうかつで、勝訴すれば患者さんたちのチッソへの追求はひとまず終わって、あとはそれぞれに憩いの時を得たり、あるいは癒しを得たりして水俣は変化していくだろう。それを撮ろうと思っていたのです。ところが、水俣に行って話を聞いたら、勝訴しても東京に行くというのです。判決を得た上で東京に駆け登って一生の暮らしを問うという交渉が始まるとは知らなかった。それで急いで撮影の体勢を組んで撮りました。
 そうして作った『水俣一揆-一生を問う人びと』では、川本輝夫さんが島田賢一社長にずっと話しをする所もありますけど、全部で三十余人の患者さんが自分の言葉で訴えます。その全部に触発されましたね。浜元二徳さんは「慰謝料の一千六百万円とか一千八百万円だけで何年生きられると思うか」、坂本タカエさんは「身寄りもなく娘一人を抱えてこれからどう生きるのか」とか。チッソは生活年金を加えることや、新認定患者にも同額の補償をすることを極力避けていたわけですが、それを問いつめていった。この交渉によって、認定されればどの患者にも年金や医療手当を含めた同じ補償を出させることができるようになったわけです。

 『医学としての水俣病。三部作』と巡海上映-

 チッソと患者のあいだに補償協定が結ばれた後でも、映画を撮る上で二つの問題がありました。一つは、申請患者が急増してきましたがなかなか認定されない。そういうなかで原田正純さんたちが大変な苦労をなさっていた。それをどう記録に残すか。それからもう一つは、医学フイルムを大学が門外不出にしてたんです。患者さんたちを撮った映像が裁判なんかに影響を与えてはいけないということで押さえられてしまってた。それまで映画の中に医学の面は撮れていませんでした。裁判が終わった後に頼んでやっと使用解禁になったんです。それを使って一九七四年に『医学としての水俣病・三部作』を作りました。三本合わせて四時間半になる作品です。
 そうした映画を作りましたが、水俣で上映する機会が少ないんです。作ったときに二、三回上映されれば良い方で、僕らが上映して歩かないとほとんど見られる機会がない。僕としては、水俣病のことを何もわかっていない人にぜひ見せたい。猫がキリキリ舞っている状態や患者のフィルムを地元のみなさんに見て欲しいと考えました。予備調査をすると、その頃になっても水俣病の知識が汚染地帯の住民に知らされていないことがわかりました。特に漁村のある辺境ほど情報が届いていない。そこで不知火海の一番奥の、支援の連中もなかなか行かないような対岸や離島に行って上映会を始めたんです。
 水俣市を中心に半径三十キロの円を地図に描いて、その中にある集落はほとんどが海辺の漁村です。だいたいバス停ごとに八十カ所以上で、ほとんどが屋外での上映でした。子どもが来れば親も来るだろうと思って、マンガ映画もやったんですが、場所によっては大人は全然来ないで、船で仕事をしながら波打ち際での上映をチラチラながめているだけといった所もありました。
 わざわざ車を使って一家そろって映画を見に来てくれた家族といろんな話をしていたとき、おじいさんの手を見たら水俣病患者特有の手なんです。医者じゃないけど、僕も患者の手をよく見てますからドキッとしたわけです。水俣に入っていた看護婦の堀田静穂さんや支援の方を呼んできて実際に調べてもらって、結局このおじいさん、おばあさん、息子さん、姉、弟など一族十人が水俣病だとわかった。映画上映のおかげでこの人たちははじめて話を切り出せたんですね。
 水俣から一七、八キロの距離にある離れ島の御所浦の、そのまた離島の横浦島にいる岩本真実ちゃんは、一九六〇年以降に生まれたために胎児性とはなかなか認定されず、結局、認定されないまま亡くなったんです。直接的な死因も嚥下性肺炎、食べ物の飲み込みに失敗したための肺炎という特徴的なものです。そのお母さんは、この子がいるために映画を見に来られなかったので、特別に家まで行って上映して、いちいち映写のコマを止めては詳しく話をして、すっかり納得してもらって申請してもらっていたんです。ところが、九六年の和解の二ケ月前に亡くなったんです。お母さんにどうされたか尋ねてみたら、「もう死んだからいいです」と。そういう悲劇の所でした。そうした出会いを重ねながら海辺をめぐる「巡海上映」でした。
 一八〇日間で、全体で三万人くらい住んでいる所で八千人に見てもらうことができたので、かなり住民の話題になりました。一方、僕たちの調査記録も蓄積され、これを『わが映画発見の旅-不知火海水俣病元年の記録』という本(二〇〇〇年十一月に日本図書センターより復刻再刊)にまとめました。
 果たせるかな、私たちが巡回したところから、十年ぐらいしていわゆる第三次訴訟や東京訴訟の原告患者がたくさん出てきます。どこの家が何を商売にしているかまで、本には全部実名で書きましたから、照らし合わせて歩いて回るにはもってこいの資料だったんです。その裁判を支えた民医連ではこれを参考にして、水俣の共立病院の看護婦さんや医療スタッフが手分けして訪ねたと聞きましたが、「巡海上映」の甲斐があったと思いました。

 『不知火海』と胎児性患者の今-

 話は前後しますが、『医学としての水俣病』に並行して、もう一本『不知火海』という映画を作りました。一九七五年の作品です。その中で原田正純さんと胎児性患者の加賀田清子さんの会話があります。信頼している原田先生に清子さんが「頭の手術をして欲しい」というわけです。元通りの体に戻るということはないわけですから先生も困ってしまうんです。私の予想を越えた話でしたが、胎児性患者の肉声として、誰にも言いたくないけど言いたいという、深い願いをかなえることができました。一本の映画で終わるというものではありません。
 水俣の流れにそって十数本の作品を作ったのも映画に登場する人たちとのつながりゆえです。胎児性の人たちを措いた『わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱』で彼らとのつながりは決定的なものになりました。それが次回作『水俣の図・物語』につながっていきました。この人たちがいかに生きるかが、今の僕の関心の中心にあります。
 胎児性の患者たちの周囲には、今までつながらなかった身障者の方がおられます。そういった方と一緒の流れになって、互いに人生を語り合うようになれば、この先もっと楽しみができるんじやないかと思ったりします。水俣病だから苦しいし辛いのはわかっているから、それぞれが自分の日常の介助の問題、それこそパンツを自分ではくにはどうすればいいかっていうようなことを考えている人はいると思うんです。そんなことまで話せるようになればいいなあと思います。そういう芽が今、水俣でできかけています。「ほっとはうす」という共同作業所ができて一年二ケ月になりますが、まだ続いているんです。その運動を立ち上げた同じ思いをもった人びともいます。胎児性患者はまだ四十歳代で、これから三十年、四十年と生きなきやいけないから、そういうふうに人生を変えていって欲しいと思っています。私たちも「胎児性だから」と奉るのではなくて、きちんと対等のつきあいをしなければならないと思っています。

 本稿は昨年の八月五日、「水俣・東京展二〇〇〇」のホールプログラムとして、作品をダイジェスト上映しながら実川悠太を聞き手にお話いただいたものを、川村研治が採録し、石黒康と実川が構成した上で講師に加筆いただいたものである。