第2章 不知火海の“時間”とは
(2-1)原稿用紙の番号
「あんた、離島のもんは、橋でつながるかトンネルでつながるかちゅうときはですな、トンネルは好まんとです。
いくらメートルあまりの単価が安いっていったっちゃ、橋ん方を好くとです。橋が架かるでしょう。
島と島がつながるでしょう。海をまたいでな。その、眼で見ゆるちゅうことが大切ですたいなあ。
龍ヶ岳の高戸と樋島(町役場のある中心地と離れ島)をどうむすぶかちゅうとき、結局、眼に見ゆる橋が良かちゅうところで樋島大橋ば作ったですたいなあ(一九七二年完成)
それとおんなじで、水俣の、チッソのと眼ん前に見えとればですなあ、こん天草ももっと水銀ばおそれたかも知れん。
水俣は近くじゃあるばってん、あいだに島のある、かすみのかかるとなれば、もう別のこと。
なあんも考えんもんな、眼に見えんちゅうことはまこて頼りなかことですなあ」
(2-2)
前竜ヶ岳町長 辻本市之助の述懐である。私がこの町の潜在している水俣病患者のことでたづねた際、「いつの日か、お話のでくることを思い出すかもしれませんが…」といいながら、町長在任中の大仕事であった
樋島架橋に託してのべられたそれは心に残った。
水俣からは天草は霞のかなた、夕陽の没するところである。一九七七年 天草の不知火海沿岸を歩いていて、私たち映画班は戸別にビラをまきながら家々を歩いた。そこに何十人もの典型的な水俣病症状をもつひとたちに会った。
そのうちに十数人は水俣にすむ医療ボランティア、堀田静穂、谷洋一、伊東紀美代氏らの努力で、自主的検診に献身する原田正純、浴野成生氏らによって診察をうけ、全員、申請に至っていた。
元町長 辻本市之助の年に似合わぬ老弱の身も水銀と無縁でなく思えた。だが天草は足しげく通うには、まだ遠い島々であった。
そして、私たちが天草に映画をもちこむ一九七七年まで、県、国が行った住民検診の結果、水俣病と正式認定されていたのは“元水俣住民”で竜ヶ岳から北九州市戸畑にうつりすみ、みよりの家で病床につく大西進老人ただ一人であった。
(2-3)
この旅の見聞を一九七八年、雑誌『展望』(筑摩書房)に一挙百五十枚のスペースを得てまとめた。
翌一九七九年、更に単行本『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録』として上梓した。
その際、私はすべての実名を50人以上書かせてもらった。
どこの誰それという確かさで記したのは、救済と医療の手があやまたずその人たちにむけられることをうながしたい気持からだった。
環境庁はじめ熊本県、医事行政関係者にもれなく、それらを送付するかたわら、天草、離島の実名をかかせてもらった人たちに事後のおことわりをのべ、「この本を、あなたほか、町長、教育委員会、××病院、××氏らに送りました」という手紙をそえた(各百数冊)つまり『吹聴した範囲』を知らせるためであった。
(2-4)
天草には本屋は本渡、牛深の両市しかなく、偶然眼にふれて読む可能性はなかったからである。
以来、天草を年一回歩くようにした。私の実名主義によって、迷惑をこうむり、不当に差別されている人はいないか、行政当局(県、町)が何らかの手をうちはじめてはいないか、救済の手のほか逆に圧迫のケースも考えられたからである。
そして何より、行政に見捨てられた不知火海沿岸の水俣病患者の実情をいつの日か映画にとらなければならないだろう。
そのためにも、これらの人と人脈を保ち、太くしていかなければ―という考えでもあった。
私は良くも悪しくも、町当局や、区長といった人に渡った本によって、集落の中にいくらかは波立ったであろうと思った。
小さい世界である。話題のなげ返しあいがあろうと考えたからだ。だかこの貧弱な試みはヘドロの中に投じた小石ほどの力もなかった。
(2-5)
受けとった人たちからは、お礼や感想はかかれていても、“もめごと”をひきおこした気配は露ほども感じられなかった。
自分だけの世界でうけとめた気持をつづったものばかりだった。
例えば姫戸・牟田の区長・久保則義氏の手紙には「当 牟田地区から読み始めました。
記録物語の好きな私は、小説以上に興味深く読み続けており、龍ヶ岳、倉岳、御所浦など近町の知名の人々の名前などで興味は倍加され、あれこれ思い出しております」とあった。
パチンコ好きの氏は、月に何度か対岸八代市のパチンコ屋に船で通う。
「海の上で、あう人の顔は陸んときよりよう覚えるもんです」という氏らしい文面であった。
普通、くらしの枝葉まで噂になる集落社会の中で、ありのままのプライバシィに踏み込んだ記述が話題にならないわけはないのだが、こと水俣病に関してはその表層に出なかった。
「申請したらしい」「認定された金をどしこもろうたらしい」といったたぐいの話は水面下では飛び交うものの、公のなかではトップシークレットあつかいで、区の世話人すら面と向かって聞きただすことなどははばかられるという実情にかわりはなかった。
天草、離島の水俣病かくしの壁の厚さに本は紙のつぶてでしかなかったのか。それはやはり知りたいことであった。
(2-6)
天草にもっぱら関心をよせてきた一九七七年から一九七九年にかけて、水俣をなおざりにしたわけではなかった。
だが、一九七八年、胎児性水俣病患者といっしょに『わが街・わが青春―石川さゆり水俣絶唱』を撮った。
一九七九年に入って、生活の資を得るため私としては十数年ぶりの注文映画をいわゆる水俣スタッフでひきうけた。
(国際交流基金企画・海外紹介映画『日本の若者たちは今』“VOISES OF YOUNG JAPAN”)
いわば水俣の若者から飛躍して“日本の若者”をたづね歩くことになった。
水俣だけをみつづけた眼から、彼らを追って、北は青森・津軽の車力村から、伊豆大島、さらにフィリッピンのパラワン島まで旅をした。
この仕事を通じて、私たちは水俣以外の地方の変貌が相対的に比較の対象となった。
(2-7)
地方の近代化の進行はめざましかった。地方交付金や、農政への各種補助金、地方公共設備の大幅助成金、公共事業への国・県の投資が地方のイメージを一変していた。
市役所と公会堂、文化センター、図書館、学校、体育館、プール、福祉会館、老人コミュニティセンター、それに公園風のセンター・スペースと基幹道路といった都市の整備が一回り完了していた。
商店街の再開発、アーケードとスーパー店のセットによる、ショッピングセンターへの衣替えにならんで、ひときわ眼をひくのは“若者文化”青年むけの享楽街の群立であった。
農村にせよ、コンビナートにせよ、漁業基地にせよそれらを後背地にもつ都市には大都会なみのバー、スナック、インベーターゲームセンターから、モーターバイク店、レコード店、ディスカウントセールの電気店から、トルコ風呂までのワンセットが享楽街の一角に作り出されていた。
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高度成長の初期、不ぞろいだった都市機能が、一九七四年の石油ショックの停滞をへて、公共投資、地方交付金をテコに、一斉に再整備され、青年を足どめさせるに足る機能を抱きかかえて都市を作り出している。
津軽平野の米作、リンゴ園地帯の五所川原農業高校を取材したが、男子生徒たちの九割は長男、その誰もが、土地のあとつぎを認めていた。
農業の前途に不安はあっても農地への執着は別の動機からつよかった。一時あいつぐ離村者もあったが、沈静化した。
「土地を手離すことだけはしない」とこたえる生徒がほとんどだった。
だが、卒業後の進路はとりあえず勤め人、月給生活者になり、五所川原かせいぜい青森市に居住することを望んでいた。
東京にいきたいものは五十人に一人か二人、すでに都市志向をみたすには身近な街で充分であった。
いま四、五十歳代の父親が隠居したり亡くなったら、つとめ人のかたわら自家用車で通う日曜農民になるという。
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米作はそれで充分だし、りんご園は企業として考えてやるつもりだという。
人気職種は自動車の修理、農耕具メーカー、そして大部分がそれ以外にはスナック、喫茶店を経営してみたい―。
それがあながち夢ではないと思われる、都会の変容が彼らの身近に出来つつあった。
ついでながら若者にかぎり出稼ぎですら典型的な 暗いイメージとは無縁だった。
車力村出身の二十二歳の青年は、二トンの自家用ダンプトラックをもって東京近郊で働いていた。
その月収三十六万円、工事繁忙期、郷里から人手をよべばその手間賃こみで五十万円にもなる。
彼の夢は郷里に帰って土建請負の会社を作ることにあり、すでに一千万円近くためていた。
三年あとから始まる郷里の小都会の下水道工事の数ヵ年計画が彼の視野の中に納まっていた。
地方都市への定着型青年、ユーターン予定地型の彼等を見るとき、人口五万人前後の一地方都市のにぎわいが“地方の時代”への青い幻想の落とし子のように見えてくるのであった。
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水俣を離れて十ヶ月、こうした日本の均一・平均的な小都会から水俣を思うとき、水俣は、水俣病事件をかかえたこの二十五年、地方の時代の一般的進展の中で、ひとり水俣は陥没しつづけてきたように思えた。
青年の固執する海の仕事があろうか、彼らのうち長男だけでも受けつぐ田畑があろうか、若年労働力を吸収する産業があろうか。
水俣の街に青年を主客とするネオン街さえあるであろうか。私には古色蒼然たる街のたたずまいしか思い出せなかった。
一九七九年夏、十ヶ月ぶりに訪れた水俣は、不思議な変わり方を見せていた。病院の改築、増築のラッシュであった。
湯の児山頂に記念碑的に孤立している空洞、国立水俣病研究センターは別としても、0病院、K病院をはじめ、多くの病院の高層化がめだった。
水俣、芦北地区には五十六の個人病院、医院がある。
そのほかに市民病院、同湯の児リハビリテーション・センターそして明水園がある。
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ひとり医療機関が発展しているのにひきかえ、市の公共施設は、新築なった社会文化会館のほか、見るべきものはほとんどない。
病院都市と名づけるべきか病人都市というべきか、木造二階建ての市街地に隆起するビル群は大半病院、医療施設であり、それが水俣市の景観を新たにしていた。
若者のめざしてあつまる指標的建築物はない。数軒の喫茶店だけだ。
スーパー寿屋の進出がきまり、衣屋、水光社と三大スーパー産業が商圏の中心である。
裁判が結審をむかえる前後、一九七三年冬、いわゆる患者部落に落ちるであろう補償金めあてに、住宅建設会社、電化製品やインテリア、自動車のセールスマンが街中に店を新増築し、そこを拠点に患者宅の軒並み訪問をくり返していた。
その貯金を獲得すべく地銀や信用金庫、生命保険の勧誘員にまじって株屋まで日参した。
彼らの名刺の束が玄関のわきに十センチもかさだかに束ねられていた。
日をおって患者さんたちの、訪ねる人を見わける目つきがとげとげしくなっていくのを見てきた。
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そして、判決後、患者さんたちの新増築は申し合わせたように始まった。坪二千円だった辺鄙な多発地帯の土地は一年後には二万円になり、数年後には五、六万円になった。
奇様なほどの活況が市に訪れた。その消費の急膨張によるもうけ頭もまたチッソ傘下の水光社かもしれない。
売り場面積を増やすための拡張工事がつづいた。
一挙に補償金による消費ブームのおきた一九七三年、認定患者のうち水俣市在住患者は二百人ほどとみられる。
だが一九七九年現在、水俣市のそれは六百七十六名、申請者二千八百三人と合計三千五百人ちかい。
これは水俣市人口十一人にひとりの割合である。三世帯当たりの一人である。
患者は漁民層だけでなく一般市民、農民の他、患者かくしに力をかした漁協幹部からチッソの従業員まで含み、市きっての最エリート層ライオンズクラブ(ここは水俣病患者の入会を資産、地位を問わず断っている)の主要メンバーの家族すら発生しているという。
(2-13)
一九七八年二月の県資料によると、水俣の経済圏(商圏)にふくまれる隣町津奈木の百八十名を合わせると認定患者総数八百六十一名。
その補償金は家族への慰謝料をふくめ一件二千万円(注、チッソ資料といわれるもの)として、総額百七十二億円になる。
うち生存患者七百名前後、その人たちへの年金、医療費、温泉券、ハリキュウを含め、一人当たり年平均百五十万円(チッソの発言より)
とすればその額年間十億円余り。そしてこれは半恒常的に年々水俣市内部に留保され、消費され、還流される。
その安定した流れが水俣の商業と医業を支えつづけていると思われる。
そして更に患者増を見越しての医院拡張競争が進行すれば、水俣市の病人都市的相貌はさらにその特異さを増すであろう。
水俣は水俣病ゆえに命をながらえる運命であろうか。チッソの縮少と労働者の減少に反比例し、患者に渡された補償金の還流・再収奪でバランスをとろうといいうのか。
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私の水俣病闘争への加担の気持に、あるかげりが生じたのは補償金が出され、それが現実に機能しはじめてからである。
「この金なあ、俺の腕一本にも当たらんとばい。首から上もパアあい。眼もみえん。漁もできん。足もかなわん。
人から見れば、あいつ家にぶらぶらしとってっち、いわるるかも知れん、御殿ば建てくさってと悪口をいわるる。
しかしわしからいやあ、この家も、かなうならこの小指一本ぶんたい」とスカッと言い切る患者もいる。
本質的にはめげていない。
しかし、このような達意の人は稀の部に属する。業者にそそのかされてシャンデリアをつけ、聞きもしないステレオを買わされ、次第に御殿風にしあげられ、ならばついでに池でもつくって金色のまだらの鯉でもいれとくかといった風に消費に盲いていった人たちもある。
それでいて遁世風に内にこもった人生にひきさがっている人も少なくないのである。
(2-15)
さすがに訴訟に立ち上がり、支援の人ともまれながらチッソと正面対決したひとびと、胎児性の子どもをかかえる親たち、村八分にされ、孤立のなかから患者同志助けあってきた人たちは、ある種のつつましさが基調にあった。
だがまわりの人の金むしりがはじまる。
親戚縁者、兄弟までが補償金をあてにする。冠婚葬祭に分限者なみの割り当てがくる。
ゆすり、たかり、せびりの日常がはじまる。天文学的数字に思えた慰謝料もあれよあれよという間に減っていく。
そのあとに残るのは暗い空洞感だけのようだ。訴訟派はひとにぎりの人数である。闘いの経験もなく、社会運動の片鱗もしらず家にとじこもりの生活のまま、慰謝料を手にした患者の場合、金銭地獄はいかばかりであろうか。
そして、世上人の口にもてはやされるのは、一晩キャバレーで十何万円も豪遊した話。
遊び用のモーターボートを買い換えて一年でそれを費消した愚か者の話。
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貯金がわりに三カラットのダイヤモンドの指輪をはめ、着飾ることに浮身をやつしている女の話など枚挙にいとまもない。
たしかに金は人間を変える。まわりのそねみ、まわりの足のひっぱりあいが、確実に彼等を変える。
その変わりざまを一番敏感に知る立場にいるのがチッソであり、その金ゆえの人間の悲劇を、逆手に利用できるものチッソである。
チッソは認定された患者のところに、一番早く訪ねる。
認定審査会の決定は県を通じ、チッソに報らせられるからである。患者は心待ちしている。
そして、チッソは十中八九、患者から「ありがとうございました」という深々とした謝意をうけるのである。
なかには「よかったよかった、バンザイ」といわんばかりの家のひとびとのよろこびさえ見える。
こうしてつみ重ねた自信が、チッソのデーターに加えられ、チッソの次の策略の有力な材料になっていくのである。
むろん、患者が反会社的団体に加入することは防がれる。そして「認定されたら、動かなくなる患者」になるのである。
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かく会社側についた患者団体が、水俣市の水俣病つぶしのキャンペーンの最右翼に編成されていく。
その点、チッソはまさに無駄な金は使わないのである。
その最大の武器が慰謝料であり、患者を盲者とみなす根拠なのである。
ここからニセ患者=金の盲者のリアリティが生まれてくるのだ。
水俣病事件のうち川本裁判、行政不作為訴訟その他で弁護活動している後藤孝典氏が、ある時もらした言葉の断片が心にとまっている。
イギリスの近代法以前には“死に補償は生じない―死にいかなる財貨もあたいしないという意味で、死にもともと補償の立ち入る余地がない”というものだった。
死また死にまさる苦しみには死または死に準ずる苦しみの応報しかなく、それにかわるつぐないは、身体、精神の死より苦しいつぐないによってのみ代謝できる。
(2-18)
そこにゆるしがあり、むくいがある。死に換算しうる金はもともとないのだと聞いた気がした。
だから、かつて聞き、いまも耳にのこる恨みをこめた患者の言葉につらなる。
「金は要らん、会社のえらか人から順に水銀ばのんでもらおう」
「…わしの娘をひきとりなさい。水銀でくされた体の介抱をしなさい。二年でも三年でも。それをしきれば、金はいりません」
「もうよか、金を払わんなら払わんでもよし、わしの体を元にもどしてくれろ、そしたら一銭の金も要らん。」
「私を二号でも三号にでもして下さい。死ぬまで面倒見てください。年はとっても、私は処女でございます。わたしを社長の妾にしてください。」
理屈を超越したおそろしい思想の誕生の瞬間を私たちは目撃してきた。
それはどこかで“死に補償は生じない”という法理の永遠性を思わせるのである。
(2-19)
このところ、天草のひとと話しながら、事水俣病患者としての申請のすすめに至ると、「金をもらうとが見苦しかぁ」と何人もの口からきいたことであろう。
「死んだ親父の補償で、なんで家ば建てらるる。わしに恥をかかせるどかち、おこらるる」(竜ヶ岳、下樋川)という老婆の話を聞き、半ば分かりながらも頑迷固陋だなと嘆いたものだ。
「病気の難儀を少しでも忘れることが出来ますから…」とか「子供はあとに残りますでしょ。お金は子供の一生の支えになりますから…」などど、すこぶるたよりな気にいう自分がある。
彼我ともにこだわり思う補償金なるものについて、きわめて不確かな言い分しかいえない自分をみるのである。
まして「資本の制裁金懲罰金として、慰謝料をもらうべきです」などと天草のひとに説く気にはなれなかった。
水俣病全史を考えれば、私には制裁、懲罰としての補償金があってよいと確信できる。
(2-20)
行政がこの地の人びとを見殺しにしていることへのいきどうりがあったとしても、そのひとといま直ちに制裁懲罰の考えを同じくできるとは思わない。
先のまた先であり、正直、その共同などは、無期延期に近かった。
ある時、後藤孝典氏から「水俣病について国の責任を明確する必要から国家に対する賠償請求(略して国賠)をしようという意見が現地水俣にあるが、どう思うか」と問われた。
原告は、カルテの上でも間違いなく水俣病と断定できる死への経過を辿った故川本嘉藤太氏の子、川本輝夫氏、毛髪に九百二十PPMの水銀を検出していながら、何ら医事上の救済も、制度上認定の手続きもとらずに放置し、死に至らしめた天草の離島、御所浦の牧島の故松島ナスさんの遺族をはじめとりあえず、四、五人で第一段階の集団訴訟をしようというものだった。
私は「原告に天草、離島の被害者を加えることが一番、国賠の原告像をはっきりさせると思う」と答えた。
(2-21)
不知火海全域の汚染であるにかかわらず、しかも天草よりの離島に毛髪水銀調査表(一九六二年)のうち最高の九百二十PPM、六百PPMという住民の所在を知りながら、その御所浦町を水俣隣接町村と区別し、今もなお非汚染地帯としていることから、水俣病行政上の真空地帯ともいえる天草および周辺離島こそ、国の救済責任の放棄、患者見殺しのもっとも露呈している犯行現場であり、国も不始末の証拠の、そのまま残されている地であると思うとのべた。
水俣病をいわば“属人主義”でとらえるか“属地主義で”とらえるか、そのいづれが国賠の目的にふさわしいかの問題であった。
天草、離島に属する人びと、その属地性をきわだたせて水俣病放置の国の責任を問うことが、ひいては爆心地水俣のピラミッド型につらなる患者集団の基層の膨大な被害者群に照明をあてることにもなる、また天草から水俣を撃つといった逆位からの発想こそいまの水俣病状況を生き生きとさせるものであろうとも言った。
その点、私はまったくの天草びいきになっていた。
(2-22)
だが、天草には自らの疾病を水俣病と認めること自体を拒む人びとがいる。仮に認めたとしても申請に立つことにつよい抵抗感を持つ人がいる。
イギリスの前近代法の法理「死に補償は生じない」思想が根づいている地、判決以前の水俣病患者の体質の源流の地が天草なのである。
だが、チッソに刃向かうにも視界内での現実感のもてない天草の人にとって、まして、国家に刃向かうことは非現実に近い。
園田直、福島譲二の二人の自民党代議士が天草を二分している。
ともに自民党でありながら前者を革新派とみなし後者を正統保守派とし、闘いながらも、天草への郷意的忠誠心と地方利益を計ることで天草に政治の恩恵を注いできた。国家とは園田であり福島である。
彼らにどの経路をたどって叛き、「国賠」にむかえるであろうか。私には空想にしか思えなくなるのであった。
(2-23)
いま水俣から天草への架橋を構想する力量はないとしても、水俣天草、不知火海を一つに見たいと思う。
しかし、いま不知火海は私には大洋を抱く独立国の群立する世界に見える。
爆心国ゆえにひとり病める都として栄える水俣があるかと思えば、水俣病を敵視してやまない漁業の国でもある。
水銀汚染において一衣帯水の不知火海なら、その地図は破砕している。
それをたよりに歩くには自らの足で繰りあわせるほかはない。
(2-24)
一九七九年夏、二年ぶりで天草の不知火海ぞいをおとづれた私は、まず最初に当時、水俣病と思われ、気にしている人びとの消息をたずねることから始めた。
ちなみにこの二年間、天草・離島では申請者が増えていた。
とくに御所浦の町は水俣より海をこえて、原田正純氏とその若手医師グループと民医連のグループがそれぞれに検診をつづけ六百二十六名を発掘していた。
そして天草上島ではさきに巡海映画でみつけた網元一族の集団を中心に十九名に達していた。
その他は全く無風状態にひとしかった。
最初に訪ねた姫戸町で、二人の老人の消息をたずねたが、すでに死去していた。
この二人は姫戸町における水俣病患者の発生にいかなる必然性をもっていたかを物語る、いわば生き証人のような人たちだった。
今まで、水俣からは海上三十キロ隔たった姫戸町には水俣病は皆無とされてきた。
私たちと親しくなった町役場の浦本保隆氏だけが、私たちの二人の老人についての危惧をそのまま受け取ってくれた人であった。
(2-25)
だが彼らからの何の連絡もなかっただけに、この二人の死の報せをきき、たよりの綱のふっつり切れたような気がした。
その一人、鹿釜一造(八十二)の死は高齢のため天寿でもあろうと思ったがもう一人の堀江充松氏は六十三歳でみまかられた。
堀江氏については『わが水俣病発見の旅」に四頁にわたり不当な“棄却”あつかいをうけ、自ら錯誤のまま苦しんでいる人としてレポートし、去年三月その生存を確認していた人である。
ここ姫戸町は不知火海の湾奥部にあたり、水俣沖の潮流の影響をうけることは比較的少ない町だった。
だから、ここの被害者の場合は、この町の地先に海の魚で病んだというより、水俣とのかかわりをもったために水銀をとりこんだ例といえる。
ふたりとも姫戸から石炭(カーバイト原料)を船づみし、水俣の百間に運び、そこに停留して船上生活をしていた点で、この町には同様の生活歴を持つ人が少なくないだけに“ひとのゆききによる水銀汚染経路”といった一パターンを証言できる人たちだった。
(2-26)
チッソが水俣に工場を立地する条件のひとつに、石炭石の入手に至便な地であることが必要だったといわれる。
ここ姫戸の両龍岬は良質の石炭がとれ、チッソ直営の採掘、積出事務所がおかれていた。
この事務所で働く地元の人夫はチッソにとって労働力のプールでもあった。
チッソ事業が成長するたびに、この人夫の中から常雇いとして工場に吸い上げられた。
堀江氏も、鹿釜氏も原料運搬船をあやつり、水俣と往復した。
したがってこの町には、かつてチッソにいって働き、そこで魚を食べ、水銀をとりこみ、病んだ身を、ここで養うといったチッソ退職者(姫浦、辻本博氏)もいた。
水俣とは生活の上で太いパイプのあった町なのである。
(2-27)
鹿釜一造氏は町の漁家の中では名家の出だった。
幼いときから漁民として育ち、戦前はチッソへの石炭運搬船の船長であった。
戦後は再び漁師にもどった。
水俣が好魚場と知ったため、この町からは珍しく、長駆水俣沖でイカカゴ漁をやっていた。
そして発症したのは一九五九年(六十一歳)頃という。
以来急性劇症タイプの症状で苦しんだらしい。らしいというのは、見舞いを断られ、会うことも出来なかったからである。
そのむこ養子、鮮魚取引商の真氏によると「船にのるとに、よろけだし、道歩くのにもきょろきょろしだしたのは、昭和三十年頃、まだ六十歳にはなっていなかった。
手がふるえ、しびれもひどく、タバコの吸い口が口にはまらんし、マッチもすれない(企図振戦)か)
水を飲むとも、コップからはのめんし、ストローさして飲むが、一旦口にいれても呑み込みが悪うして、吐き出しては呑み、吐いては呑みでどもこもならんかった(共同運動失調か)舌もおかしかった。
(2-28)
味覚も狂ったのか水と焼酎の区別がつかんで水ば出しても本人は焼酎のつもりで飲んでおらした。
それに不思議も不思議、こん夏の熱かときにも、毛布を外さんし『寒ぶか』といって扇風機はとめるし、出しっぱなしのこたつに入ってスイッチを入れて、アカアカしたなかで、本人は汗だくになっとる。
熱さと寒さが狂っとるわけ、ぜんぜん馬鹿になってしまっとる。」
教科書通りともいえる、おそよ典型的な症状をすべてそろえた人であった。
もし死後解剖すれば間違いなく第一級の水俣病患者として認定されたであろう。
天草上島で認定患者たった一人、しかも元水俣住民大西進氏だけという行政の虚構は、この一例でも大きなダメージをうけるはずであった。
だがこの場合は行政の怠慢とはいえない。
鹿釜氏の弟が現姫戸組合長、息子も鮮魚商という漁民社会の中で鹿釜氏自身、水俣病になることを拒み、町の衛生部長、吉田歴造のすすめや、一斉検診の特に計った出張検診の申し出も断っていた。
死後、解剖ということなど考えもしなかったのである。
(2-29)
堀江充松さんの場合は大きく違っていた。
自分は水俣病と確信していた。
一九七一年、新聞が天草にも水俣病患者が潜在している可能性がきわめて大きいと書きたてたことに力を得て、水俣市立病院に足を運んだ。
そこで一医師の判断で水俣病ではなく脊椎変型症といわれ、それをそのまま“棄却”とうけとり、退院した。
以来、ムラ社会の指弾の的になった人である。
戦後まもなくから二十年間、運搬船船長として妻のシズノさんと一緒に水俣通いにあけくれ、百間岸壁に寝泊りし、その海水で米をとぎ、おかずには糸をたらして湾内の魚をとり、妻はてんま船で恋路島にカキをうちにいってたべていた。
「わしが水俣病じゃのうして、誰が水俣病かな」と吐いてすてるように語る人だった。
一九六一年発病以来、十六年病苦との闘いの一生であったという。
(2-30)
私が訪れた堀江さん宅では新盆らしい飾りつけの仏壇に、○けものがは山と積まれていた。
最後の一年脳溢血を併発した。老人医療費がタダになるにはまだ二、三年をのこしていた。(行年六十二歳)
出費の多いのを気にし、「わしを抱えちゃせがれも働き甲斐のなか、せがれに申しわけのうして」と口ぐせのようにいいつつ死んだという。
そのせがれの手許に私の本が届けられたのは葬式後十日ほどしてだった。
「むすこは一晩かかって読んどらした。
そんで『これだけ書かしたごて、わしが話しばきいとれば、反対せずに水俣病じゃちゅうことでおやじば死なすことができたかもしれん。
口惜しがっておらしたばってんなぁ』といいよらした。
もう死んでしまえば、ああた、なんもかも夢でしょうがって笑ったことでした」と妻のシズノさんは淋しく笑んだ。
その彼女も夫のなきがらを清めるさい、まころび、風呂のタイルに腰をうちつけて四つん這いのまま茶をすすめる。
白木の位牌に、浄徳院釈祐順信士とあった。またも間に合わなかったのである。
(2-31)
私のしろうと眼にも、それと分かる水俣病様患者の名簿の中で、あの人、この人が二年間に他界していた。
龍ヶ岳町の再汚染地区と私の想定する樋島の人たちがそうだった。
水俣から潮がこの離れ島にぶつかるように流れる。
浜に水俣方面からごみとおぼしき品物が漂着し、年二回浜やきしなけらばならないという下樋川の部落は全村民どこか健康異常に思われた。
その下樋川出身の桑原勝記漁協長の母親もリストの一人だったが、亡くなっていた。
父子どもども水俣病と人の噂にも上る野口俵太郎。塚夫氏は父子相伝のハエナワ名人といわれた。
二年前、五十すぎの塚夫氏にあったが、父にあわせてはくれなかった。
その彼自身ひどい「ねんばり口」(高音障害)である上、腰痛と心臓病で、やせ細っていた。
「バンドの穴がこの一年で三つ。二十センチはやせた」と笑ってみせたが、漁の話になると元気で私に講釈して倦むことがなかった。
(2-32)
こんど訪ねると家は閉じて不在だった。
桑原氏は「ああ 死んでしたがな。あのじいちゃんは、ことし新盆じゃろう。むすこ?ああ、あんむすこの方が先じゃったなぁ」
私はここでも、めたての証言者を失った。
このところ認定患者のなかの高齢者が相次いで死んでいく。
同じ水俣病と思われる天草、離島の老人たちが、黙ったまま、同じリズムで死に絶えていく。
おそらく行政は、ここ十年、手を拱いて黙視していれば事足りる。
水俣周辺であれば拾い上げざるを得ない病症、病状をそろえている水俣病の原像的犠牲者たちがこの離島対岸天草にいる。
国会や県議会で「総合調査」とか「検診の見なおし」とことばを交わす間に、その人たちはぼろぼろと亡びていく。
(2-33)
行政にとっては世論をかわしながら、あと十年の辛抱で足りよう。
だれの眼にもあきらなかな人体被害者は死に絶え、あとは「保留」「棄却」に相当する訴えの人びとしか残らなくなるであろう。
離島の人の話では、一九六五年前後、「あらかたの年寄りの病人は、狂ってもがいておっちんだ」(御所浦・外平)のである。
以来十年余、最後の生き証人たちが、相次いで死期をむかえているようだ。
「もはや手遅れ」の時間帯をたどっている…。それを承知で辿る外はない。
盆にはいった八月十三日(一九七九年)。
私はこの日しか会う機会のない胎児性水俣病患者といわれる橋本めぐみさん(二十二歳)に会うため、樋島、須崎をたづねた。
天草に患者が発生していることが騒がれだして八年になるが、胎児性水俣病は出ていないということが、力点をおいて指摘されていた。
もし彼女が水俣病として認定されたら、天草の各地にみうける障害児をもういちど洗いなおさなければならなくなると思うからだ。
(2-34)
一九七七年の巡海映画で、同じ龍ヶ岳、葛先の網元、森一族に二人、御所浦町横浦島に一名、牛深市深海に二名、胎児性水俣病様の患者をみたものの、すでに申請し、その検診をおえ、あと認定審査会の判断をまつまでに至っているのは彼女だけであった。
一九七四年から五年にかけての県の一斉検診の結果、検討をせまられた疑わしい患者十名のなかの一人である。
それまで数回、会おうとしたが、めぐみさんは施設に入っており、父親、弥生氏は出稼ぎ、二人が会うのは年に二度、盆と正月と聞いていた。
めぐみさんの母親は二年前になくなっており、家屋敷はあるものの家族としては崩壊していた。
なぜ永く保留されているか、その事態を父親としてはどう思っているか聞きたかったし、なぜ胎児性患者がこの樋島に発生したか
その生活歴をぜひ聞いておきたかった。
(2-35)
訪ねた家は旧い漁家に客間を近年建てましこぎれいな外観であったが、たったいま雨戸を開けたばかりの湿気の多いむれた臭いが漂っていた。
父親、橋本弥生さんは棒立ちのまま「昨夜、大阪から帰ったばっかり、なにもかもふっちゃけで上がってもらいもならん」と迷惑げだった。
1週間のお盆休暇に、苓北町(天草下島)施設に、娘のめぐみをむかえにいき、妻の三年忌で親戚にも触れて歩かんばならんという。
娘のことで来訪したのは私が始めてだったようだ。詫びて一旦辞した。
須崎には一軒、開業医がおられる。本田医院という。
本田医師の問わずがたりによると、自分の手にあまる、おかしい子が指折りかぞえて五指におよぶという。
うち二人はあきらかに脳性小児麻痺だったがそれぞれ十年から十五年前に死んだ(七歳、十一歳位)
もし生きていれば橋本めぐみさんとほぼ同じ年だという。
あと兄妹とも脳性麻痺、九歳と七歳で自宅療養。ほかに未熟児出産のためか、中学三年の障害児がいるという。
(2-36)
「みんな漁師の子です。病名は脳性小児麻痺ということになっとりますが、それにあてはまらん、おかしなとこがある子どもたちでしてなあ。
まあこの町で六人ですが、全国的にみて高かか低かかはわかりません。」
樋島二百十戸、人口千三百七十二中六名の胎児性麻痺の出現率が全国にくらべてどうだろうか。
日をあらためて訪ね、話を進めると、はなから話がちぐはぐになった。
橋本めぐみさんは現状、認定審査会で保留のまま宙ぶらりんになっているはずであった。
しかし父親は認定されているという。
「認定はされとります。されとるばってん、いろいろあるらしかで調べると聞いておりますが認定されたつは間違いなかです。」
認定されていれば慰謝料や医療費そのほかの手続きがあったはずだがとたずねると「それがいろいろあるらしかなぁ。お金ですか。お金はまだ来んとです。分からんとです。
もうぼつぼつじゃなかですか。町の民生委員にぜんぶおまかせでしょうが。(実はその委員からも保留と聞いたばかりだった)
しかし、もう認定になっとるです。熊大の先生がしてくれたんじゃから…。」
(2-37)
やはり事実は保留である。
父親は「水俣病の疑い」とかかれた診断書を「認定」と思い込んだままなのだ。
それから審査があり、のち行政処分として認定されるというややこしい手続きなど知るよしもなかった。
すでに三、四年たっている。
父親が補償金に執着するなら、その疑問を辿っていくだけで「保留」の壁にぶつかったであろう。
父親にとっての緊急な関心事は、娘の申請直後、妻に先立たれ、娘を不憫ながら施設にいれ、出稼ぎにいって金をかせがねばならないという
出郷―流れ仕事を変転する生活に対応することだけにつきていた。
(2-38)
妻の三年忌にやっと半ば崩壊した島の家にまいもどった宿なし男でしかなかった。
「魂のなか子じゃばってん、かわいそうでなぁ」と私にさえ相づちを求めるのであった。
亡妻の姉が近所にすんでいる。父と娘の家に入り浸って世話をやいていた。
その桑原ユキエさんと父親のかたるところによれば、橋本めぐみさんの胎児性水俣病を背負っての出生は宿命的であった。
やはり水俣通いの運搬船と水俣沖でのうたせ漁のさなかに生まれてきた。
一九五七年十月三十一日生まれである。
離島樋島須崎は今は鉄鋼船の造船所で知られるが、依然漁業の盛んなところである。
橋本弥生さんは、一九二七年生まれで十四歳のときから漁師として働く。
一九四五年頃から六十年頃までうたせ船をもって夫婦でのりこんでいた。
(2-39)
今は須崎の船だまりにただ1隻朽ちた形骸をのこす打瀬船も、その最盛期には百二十隻もあった。
帆をひろげ、汐と風のむきをみて底曳きをする帆船、それは白鳥のような不知火海の風物詩である。
このうたせ漁は、芦北町計石、津奈木町、出水市名護に百隻余のこるのみであるが、ここの打瀬船は利幅の多い小貨物船に転換して消えていった。
樋島のうたせ船は、漁期に専ら網をふき、漁のひまなときは運搬船を兼ねるよう、中央船倉に荷を入れる槽がつくられていた。
「七月から十二月までが打瀬専門。網をひくとは出水灘から水俣灘、佐敷の前まで引きよったなぁ。
一月から六月までは魚の産卵期、生育期でしょうが。漁はならんちゅうことになっとりましたから、同じ船で運搬船の仕事をしよりました。
わしの運搬したとは、水俣でつかう工事用の砂利ですたい。出水の名護で積んで水俣の百間にあげよった。
積トン数は十五、六トンじゃったが、砂利のつむとは、二坪五合か六号(一坪とは約六立方)わずなかもんでしょう。
運賃は一回が二千四、五百円ぐらいじゃったで往復で数でこなすわけ。
(2-40)
片道二時間とかからん距離じゃったで、朝、昼、晩と三回やっとった。かかあと二人で。
もうこけえは帰らん、出水か水俣にいきっぱなし。魚は泊っとるところで獲るわけ、釣でんして。
わしの二十七、八の時じゃで仕事は、はまったなぁ」
聞けば聞くほど不知火海の上で動いた橋本夫妻の航路が単純化する。
水俣沖で漁をし、水俣をめざしてピストンのように運搬船を動かしていた。
その船上生活の中でめぐみさんを受胎したのである。
樋島の打瀬船は多くこれと同じ働き方をしていたという。
姫戸の人とおなじく不知火海の人びとの糸は、どこかで水俣につながっている好例のひとつにすぎない。
伯母は言う。
「めぐみは生まれたときから、まるまるして、目鼻立ちの良うして、そりゃよかおなごじゃった。
わしはとりあげて将来わしんとこの嫁ごにしようと思ったほどじゃった。そめたとばい。
(2-41)
でなぁ、こんひとに『大将、こりゃ、よか、きれいなおなごになりますばい、大当たりじゃ』ちゅうたもんなぁ。
そるが一年ばっかしたっても、ああた、首もあげきらんじゃなか。
這わせても、くたあっとしてな、口も利きださん。ほいでから、わしゃぁ狂ったですばい、この2人の(両親)に。
『わっどまち、こん子にぼんのう持たんとか。もちっとぼんのうをかけくれば、こん子もこげん魂のなか子にならんはずじゃっで。
水俣通いばかしせんと、ちったぁ、この子にはまってやらんか』って、せつなかじゃったでなぁ。」
嬰時期の障害の経過は水俣できいた実例と瓜二つ、寸分の違いもなかった。
「この子にや、百万円ちきかん金を病院にかけたですばい。
金ばいくらでもつかえってですなぁ」その金かせぎに出稼ぎにでて久しい。
しかし、盆、暮、正月にしか帰らなくなったのは妻やよりさんの死んだのちである。
(2-42)
橋本めぐみさんの検診の際、彼女に水俣病のうたがいを診たとしたら、当然、母親も検診がされたはずだ。
「検査うけたっち?」伯母は大仰に手を横にふり「うけとりゃせん。言われもせんじゃなかかな。
第一、あんた、注射一本怖がる女ごじゃったでなぁ」
やよりさん一九三〇年生まれ、一九七七年四月死亡。行年四十七歳。
生前、手足がしびれるとか、頭の根が痛むとかいわなかったかと聞くと、夫は言下に「それ専門ン。しびれるんと、だらし痛みちゅうか。首の頭の痛かとは、しょっちゅう」
伯母も「耳も遠かったなあ。耳が悪かか、眼が悪かか知らんばってん。
わたしがこけえ(この家)遊びにきても、やよりの鼻の先にでん行かんば気のつかず…
『あれえ、いつ、きんしゃった』っち。『さっきから、こけえおるがね』ち言えば『あれえ気づかんじゃった』ちゅうがね。
だいぶ馬鹿んごとなとったなあ」。
以上の症状は一九七一年頃からという。
(2-43)
上天草病院の死亡診断書には「心不全、糖尿病、甲状腺機能亢進、消化管出血」とあった。
橋本めぐみさんは二十二歳になっていた。
父と伯母とのかたわらで静かにしていた。立ち居振舞いは足元がおぼつかな気だがひとりで動けた。
バランスのとれた体つきだが、中学二、三年生ほどの風姿にしか見えなかった。
ととのった顔に澄んだ黒い瞳、しかしわずかに斜視がある。
物を顔の正面にして見る、わきが見えにくい、視野狭窄の特有の所作である。
だが表情は童女そのもの、人への何のはじらいも警戒心も、ましてかげりもなかった。
父と離れ離れに暮らす苓北町の更生園でも、その無垢と可憐さゆえに、ひとに可愛がられ保護されてきたであろう。
土産にと少女雑誌『マーガレット』をわたすと、父親はヨメンと眼顔で私に知らせた。
しかし彼女はアリガトと受け取って一頁一頁くりながら眼を落としていた。
「あれえ、読んどるなぁ、一ちょう魂のなかち思っとったばってん。ううんうん。分る風じゃなぁ」と父親は満面でほころんだ。
「あんた。男は情けなかなぁ、うちん人(妻)が死んでからは、ものがどこさにあるか分らんし、こん子に食わする品物が分らんしなぁ。
こげん娘をかかえて、やもめになってみなっせえ。男はどげんもしてやれんです…。」
一瞬のあれこれ水俣の胎児性患者の家庭を思った。このようにさかれた親子のケースはなかった。
よく母親がいうように「わたしの生きとるうちはよか、私が死んだらなぁ、あとはどうなることやら…」と絶句するのを思い出す。
このめぐみさんは、そのたったひとりの生をいま生きているのであった。
天草なるがゆえに、行政の何の救済もなく、知らさるべき一片の情報もなく、まして水俣病闘争の熱いつながりに一触だになく、盆の数日ののち、ちりぢりになることを思うとき、その酷薄に耐えている天草のひとを思う。
だが天草すべての患者や家族に、不意に水俣病があらわれたとき、なべてこのように事態は見えず掴みどころなく、不安の中に漂うのみであろう。
私は水俣にいる医療ボランテイア堀田静穂さんの住所と電話番号のメモをわたした。
援けのいるときに必ず彼女に連絡するようにいった。
しかし現実感が湧かないらしく空ろだった。
「このひとはもともと樋島うまれの女ですから」といって、はじめてメモに眼を落とした。
(注、橋本めぐみさんについては、一九八二年5月現在、未だ保留である。申請以来七年経過している。)
(2-46)
一九七七年夏から晩秋にかけての巡海映画のなかで、最も印象にのこり、記録として書き、水俣にも連絡して手をうったのは龍が岳葛崎の森一族の集団的水俣病の発生だった。
行政の一斉検診にも逃げ隠れて、私たちが会ったときには、もはや症状の進行は仕事不能までに進んでいた。
隠居の身の家長森利則氏(七十四歳)は、一九五九年の不知火海沿岸漁協のチッソへの行動に率先、参加し、逮捕寸前までいった指導者だったが、以後、魚のうれなくなるのを憂い、近隣の漁協幹部とともに、水俣病かくしの盟約を結んだ人でもあった。
「二十年前、おるが大道の組合長をしとるときに、とめた。
そのおるの身内から今さらなんで水俣病を出さるるか」と一族の受診を拒んでいたのである。(『わが映画発見の旅』参照)
利則氏と老妻やすのさん。妹やえのさんの嫁ぎ先の大山一家三人(うち一人は胎児性水俣病のうたがい)
長男、森水産の現代表、則之氏とその妻みちよさん。次男孝氏、長女昭美さんら九人におよぶ一族の集団罹患である。
(2-47)
水俣病発見当時、専ら水俣市明神の前田氏と組んでキンチャク網漁を水俣湾内外でしていた。
イリコ製造が主体で、イワシ網に入った、太刀魚、グチ、スズキ、ボラなどを地元の身内、網子に分けていた。
その分配経路は網子を含め八家族八十名から百名におよぶと思われる。
森一族は網元であり、町会議員であり漁協組合長をつかさどる名門であると同時に、その汚染母体の頂点にあったのである。
当主則之、その弟の孝、姉昭美の三人は下半身麻痺におち入り、ともに筋ジストロフィと診断され、胎児性様の大山和登さんは、脳性小児麻痺として重症身障者施設(苓北)に収容されていた。
その家長、利則老人の翻意には家族、一族の逼迫した健康上の不安がもはや限界に達していた折、私たち水俣病の“映画宣伝隊”にであう一事が重なった。
以後、申請まで一気に進んだ。水俣の医療活動家、堀田静穂さん、相思社の柳田耕一氏、熊大の原田正純、浴野成生両医師の努力もあって、七十七年末までには診断と申請手続きをおえていた。
(2-48)
その後の一年半、審査会の検診を受けていたが、天草で相談する医師も支援者もなく、孤立していた。
その間、森老人はひきつけをおこして人事不省に陥るなどして、まわりは死後解剖まで思いめぐらした。
彼は水俣病の症状を典型的にそろえていると浴野医師は見ていた。
そのことから私は親戚筋の森つるよさんという人に、「もしこの老人が水俣病かどうか不明のまま他界したら、あとの兄弟は筋ジストロフィで片付けられかねないから、必ず水俣の相思社に連絡をとり、解剖を一族に説得なさい」と助言していた。
その上、老妻もけいれん発作の頻度がはげしくなっていた。
しかし、意外なことに家長利則氏にある元気さがもどっていた。
「やはり水俣病が原因ちゅうことがわかれば、一家の“家系の恥”をそそぐことが出来る」と力説しはじめたからである。
私の森家訪問にあわせて、水俣だけでも手のまわりかねる川本輝夫氏(水俣病患者連盟代表)に来てもらい、一家をひきあわせるとともに力づけてもらうことにしていた。
(2-49)
「天草にこんな汚染母体がごっそり残されているちゅうことは、いかに本人たちが拒否していたとはいえ、狭い田舎のことじゃっで分らんはずはなかなぁ、一斉検診の正体みたりちゅうことですなぁ」と川本氏は呆れていた。
しかし、天草に足をむけるには、中央、環境庁の水俣病対策の反動化しきりなこの一、二年、身を東京や、熊本県庁に運ぶことの方が多く、天草の患者をたづねる時間をつくれないでいたのだ。
森一族訪問に先立ち、私は龍ヶ岳町長に会いに行った。
贈った本は町長室の書架にあった。
田中弥太郎町長は本を読んでおられた。
そしてつとめてフランクなものいいでこう言うのだった。
「あん家は明るくなったですよ。こん間も息子夫婦がいっしょにおいでてな、水俣病の申請はしますばいとことわりにこらしたです。
もう体もきかんし、イリコ網で十四、五人ひとを使うとったけどやめたそうで。
八代にいっとる弟さんと組んで、魚の売り買いだけにするちゅうてな。
養殖だけでしょ、ありゃ女でもできますもんな、やれるとは。」
(2-50)
町長も前とちがってさばさばとして印象だった。同行の青林舎の米田正篤君が、一冊三万五千円の「水俣病―その20年の研究と今日の課題」の購入を願い出ると、いとも簡単に引き受けてくれた。
町に図書館の計画があるのである。
「あんおやじさん(家長利則氏)とも話ししたばってんも、こう言わす
『おれは金がほしいじゃなか、森家の家系をうんぬんされっとが残念じゃ。不具者がうまれる家系ちいわれるとがまこて残念でならん』となぁ。
あんおやじの先代も先々代も元気な人じゃったらしかなぁ。
水俣病に冒されて今のようになっとるちゅうことを世の中にみとめてもらえばいい、と言いなして、そりゃぁ口だけは元気にしとらす。
森家はあんた、旧家ですからなぁ。大きい船もって水俣に漁にいっとったんですから。一家全部同じものを食べとるんですから。」
(2-51)
黒板のスケジュール表に八月某日「水俣病対策関係町長会議」と書かれていた。
「ああ、天草じゃ、御所浦と当町が関係しとるんです。
いま十九人申請しとらすが一人も認定されとらんですもんな。
永かですな、待たされるとが。
じゃが、森さんが認定さるればあと、あっちこっち出てくるかも知れんとおもうなぁ。」
私はこの二年間の町長の変わり方にある感慨を禁じ得なかった。
川本さんはひよいひよいとした足どりで森家にやってきた。
テレビの“名士”のためか、話にあいさつの手間ひまはいらなかった。
「水俣病ちゅうとは、これがどこでも口に出して喋れることが、大事ですもんなぁ。
あんた水俣ですらですよ。誰が申請したとか、誰が認定されたとか、ちょっとも分らんですよ。
言わんもんね。私は出月ちゅうところに住んでおりますが、わしのすんどる出月でも、わしゃ知らんですよ。
誰々がそうなっとるかちゅうことは。これが癌ですばい。
(2-52)
水俣では茂道の部落だけ。あすこは『わしは、こうこうなったが、あん家はどうな』といいます。
あん湯堂はピシャーツと口をとじて言わんですもんな。眼と鼻の先の二つの部落でもこうも違うとです。
あとは女島だけじゃなかかな。みんなあけすけに言うとるとは。まこて私もせつなかじゃっで」
「あれ、水俣でもそげんですか。ひゃぁ」と皆おどろいてみせる。
川本さんの論壇風発は聞いていて快く、おかしみにあふれていて、腹をよじらせた。
天草の人には、テレビでいつもまな尻をつり上げて環境庁の大臣役人に迫る、ものすごい形相の川本さんしか知らなかった。
実際の彼は“自分ながらおかしいですばい”と、となりのおやじとの喧嘩話のようにえびす顔でしゃべり出すので、たちまちうちとけるのだった。
「ああ、一番話したい人たちと、いま彼は話をしている」と私は思う。
(2-53)
一族の中の世話焼きばあさんである森商店のつるよさん、(彼女が巡海映画の旅で話しかけてくれてことで、今日があった。)
「川本さんに始めておうたばってん、テレビじゃみとる。“おお怕か人”ち思うとったばってん。
ちがうもんじゃなぁ、さっきからわたしゃ、あんたの話にきき惚れてしもて」と七十歳ちかい婆さんが、しなをつくって切り出した。
「テレビでみとれば、あんた大臣さんに机ばぶった叩いたり、紙のビリビリ破いてふっちらけたり、すごかでしょうが。
あんたが人のためにされとることはよく分るばってん、もうちっと、あんた相手のことば考えてなぁ…」
川本さんは子供のように笑って
「ほんにあんしの前にいけば、誰でも腹の立つとばい。こっちは子供をかたわにされ、おやじをうち殺されてなぁ、黙っとれるかな」
「そりゃ、そうじゃばってん。ほんなこつ。」
「またテレビもテレビじゃ。なぁ、わしもはじめは大人しゅうやるばってん、
我慢しきれんで、ちったぁ口の悪か調子になるとき、ジャアーと撮らるるもんじゃで…」
(2-54)
顔をこうみて、家にこらして、こうして会うとれば、なるほどと思うばってん。テレビだけではちっとひどすぎち思うばってんなぁ。」
「口のちっと荒かでなぁ、わしは天草の茂串ですばい。牛深のむこうの。
水俣弁でしゃべるつもりばってん、天草弁もとびだすとじゃもんで。」
割れるような大笑いの間あいだに、川本さんはかんでふくめるように、県・国のいままでの水俣病つぶしを話すのだった。
大臣は狸に、知事は子狸に、官僚は狡猾な狐にみえてくる。
熊さん八さんの落としばなし風ながら、そこに限られた時間の中で水俣病の歴史のたて軸をかたり、森一族への励ましを忘れなかった。
(2-55)
「天草じゃここだけ。御所浦は六百人以上も申請の出とるばってん、天草のここ龍ヶ岳はあんたら入れて十九人、三人は早々と棄却されて十六人ですか。
このうち誰か一人でも認定となれば大事ですばい。天草をもういっぺん洗い直さなならんでしょうもん。
むこうも慎重ですばい。そりゃ県にしても容易ならんことと思うとるでしょうが、きっと。
しかしあきらめちゃならんとです。水俣病は申請せんば発言権なかじゃっで。
そこで寝たままでのたうち廻っとっちゃ、申請しとらんば、チッソは『あんたは関係なか人じゃで黙っとれ』でしょうが。
あんたんとこは、じいちゃんとばあちゃんが一番はっきりしとるようですなぁ。
あとんとは別の病名で外されるかも知れん。
それでもあきらめんことですなぁ。わしは二回も棄却されたっじゃで。
認定されても、わしの声がデカイちゅうて、ありゃニセ患者ちいわれるですもんな。
わしが夜、どもこも恐ろしゅうなるほど、しびれのきて、あちこちの痛むのは知らんですけん。
あん川本のあん弁のたって、あん口の利けるやつは、ニセ患者じゃぁっていうことですよ。」
(2-56)
皆、爆笑の中で、やりこめられる側の行政がこの川本さんにあえば、さもそういいたくなるだろうという思いも顔だして、笑いは二度三度とでんぐり返るのである。
水俣の患者が天草の患者に親しくあって情報を交換し励ましあうのはこれが始めてだった。
そして川本さんは全身で語り、森一族も思いのたけを話すことが出来た。
こうした語らいは、患者同志でなければ絶対に出来ないものであった。
私には、水俣のあれこれの患者さんが、天草に孤立している患者さんの宅をまわるといった情景を想像した。
励まされる天草の人のよろこびは今、まのあたりのごとくであろう。
むしろ、水俣の患者さんの方が、新たな元気を授かるように想えた。
天草の人の心のどこかで心待ちしている未知となる訪問者の筆頭はおそらく、水俣の水俣病患者、その先輩たちなのではなかろうか。
満座の賑わいの中で、ひとときそう思うのだった。
(2-57)
川本さんは両手いっぱいのイリコ、干物を土産に、当主のはからいで最短距離の御所浦本郷のフェリーまで高速船に送ってもらい、フェリーで水俣に帰っていった。
海路の一時間半の距離である。
龍ヶ岳の山頂に立てば、不知火海は一望である。
水俣灘を背景に御所浦の島々を配し、汐の流れが手にとるようにのぞめる。
昭和五年(一九三〇年)詩人野口雨情が詠んだ歌碑が立っている。
“阿蘇や雲仙・霧島までも龍ヶ岳から一眺め”とよみこみ都都逸の句だ。
そして一九七五年、天領時代の名称にちなんで、“砥岐の里”のシンボルタワーが建てられた。
それに辻本市之助の銘がある。
さきにのべた離島、樋島への架橋にあたり、なぜトンネルで通する方法を捨て、
より工事費の高くつく架橋を選んだかについて語ってくれた人である。
それは離島の人びとにとって、あのあたりにみえる存在として「樋島大橋」に託した、離れ島からの脱却のイメージについてであった。
(2-58)
その氏も一九七九年十一月に、六十歳あまりで亡くなられた。膵臓ガンであった。
一九六一年から一九七七年までの町長在任中の初仕事が、町立病院建設の悲願の成就であり、樋島架橋であり、本渡、松島とそれぞれむすぶ県道の国道昇格であり、九州本島、芦北町より海底水道をひくことによる慢性的水飢饉の解消といった、僻地性を解消するための行政努力をかたむけた半生であった。
『昨年十一月二十八日、主人市之助は膵臓ガンのため他界いたしました。生前の御交誼を感謝いたします。
残された長男両造を主人同様、今後ともよろしくお願いいたします』との喪のあいさつをうけとったのは、一九八〇年一月であった。
一九七九年夏におめにかかって、一しきり歓談したのが最後となった。
それにさかのぼる一九七七年、私が辻本市之助氏を強く意識したのは、氏が水俣病問題について、強い拒否感をもっていると聞いてからである。
(2-59)
天草全島のなかでも最良最高の町立病院を作り育てた開明の士がなぜ、水俣病について嫌悪の情を持つかについて疑問をもったからである。
半年前に町長の座を下りておられたものの姫戸から梅本までの各町に絶大な影響をもつ人とも聞いていた。
龍ヶ岳町と水俣病との交渉は一九五九年の第一次不知火海漁民闘争からはじまる。
不知火海沿岸漁協の中で実力行動隊の最強部分だったのは龍ヶ岳の旧三漁協(高戸、大道、樋島)だった。
そして樋島の桑原勝記氏は暴行罪で起訴され刑に服した他、宮川秀義、森利則(前述)氏らへの追求は烈しかった。
この事件後、天草上島の不知火海沿岸の九漁協は当時の町長、町議も加え、口頭で「水俣病患者を出さぬ」旨の盟約を結んだ。
一九六一年、町長森田久氏の逝去のあとをついで、辻本市之助がその任についた。
氏は水俣病を出さずの右盟約を継承しないはずはなかった。
(2-60)
辻本氏の町長就任と同じ頃、熊本県衛生研究所技官、松島義一氏は他の諸調査活動が一九五九年の「見舞金契約」成立を機に一斉に中止される中で、氏の毛髪水銀調査のためのほぼ個人的作業の形で続けられていた。
この間、龍ヶ岳はどの末端機関の手によって住民の毛髪の収集が行われたかつまびらかでないが、御所浦の場合同様、保健婦さんのボランテイア活動に近い尽力によるものと思われる。
その数は百余例の微々たるものにすぎないが、そこ総水銀百六十七PPMを最高に、当時発症のボーダーラインとされた五十PPM以上の毛髪所有者が六人記録されていた。
それが検査数わずか八十七名にすぎず、その中で、六・八九パーセント。当人の龍ヶ岳町の人口八千四五百人、漁家人口その三分の一としてみても、200人ほどの発症者がいても不思議はない。(一九七五年、龍ヶ岳町町勢要覧による)
同じ時期、水銀の恐ろしさを知らされた水俣漁民は魚の摂取を手控え、最高でも茂道に百四十七PPMの記録をみたにすぎない。
ちなみにこの時の調査により、離島御所浦町、牧島と嵐口にそれどれ、九百二十PPM、六百PPMという天文学的水銀蓄積をとげた2人の婦人が記録されていた。
(2-61)
これは公にされず、何らの医学的救済もなされずにきた。これが十年後の一九七一年五月、裁判闘争の課程で水俣病研究会会員、宮沢信雄(当時NHK熊本)氏の手で公けにされ、行政の水俣病かくしとして指摘されることになった。
このデータは町当局にも、のちに地域医療センターとなった龍ヶ岳町立上天草病院にも配布されることはなかった。
したがって一九七一年、この公表によって、データ上のこる天草の二町、御所浦と当町が潜在性水俣病患者の可能性ありとして注目されることになった。
辻本氏の町長在任十年目のパニックであった。
この機に県に手で行われた一斉検診は地元医には“通常の健康診断としておこなわれたい”との熊大医学部神経内科の権威者の心得があらかじめなされたため、その洗い出しは主に保健所がこれに当たり、要注意者への検診は、
もっぱら熊大医学部のみの医師団により行われた。
地元医はその圏外におかれたのである。
龍ヶ岳の上天草病院も診療室や宿舎の提供という協力にとどまった。
(2-62)
より大きい不幸が龍ヶ岳町を見舞った。
一九七二年七月六日、記録的集中豪雨が天草、とくに上島の姫戸、龍ヶ岳、倉岳三町を襲った。
龍ヶ岳町だけで死者三十四名、行方不明一名、重軽傷五十一人、家屋の全壊二百十八戸、半壊八十一戸(当時一七六二世帯、人口一七〇七人)の大惨事となった。
この衝撃はこの町の水俣病患者発掘よりはるかに大事件であり、その復興に要した努力に数年を要した。
復旧工事四十七億、海辺埋立ての整備についで、八団地二百三十一戸を建設しなければならなかった。
この惨苦のよって、かって青年町長といわれた辻本市之助氏は心身ともに打撃をうけ、半病人となられたのである。
一九七七年、巡海映画をこの町で行いたい旨、懇請したときの氏は困惑をかくさなかった。
まして告発運動や水俣病闘争といった系列の行動であれば許せないと言われた。
そして「あんたらのやり方がきれいすぎて文句もいいならんが…」と憮然としたまま、黙認したのであった。
(2-63)
折りしも豪雨の中、町の中学の体育館に身を横たえている私たちに「わしの家の離れにとまってはどうか」という伝言と五千円の寸志を奥さんを通じて届けられた。気品のある名家の御内儀風のつつましさの奥さんであった。
その後文通のやりとりがあった。
私の本の中の真実のあやまりを指摘する一文を頂いたからである。
私が辻本氏が町長選で争ったとしたのに対し、立候補を辞退したものだというものであった。
大変失礼なミスであり、いづれかの機会に訂正する旨のわび状を出した。
その返信の形で、水俣病発掘の熱意には感心するが―として「ご存知かと思いますが、昭和二十三年頃まで、この龍ヶ岳は全く外部との交通機関は船以外になく、現在町の各部落間も山を越すか舟しかないといった、全く孤立した部落であった訳で、近親結婚、性病等によるか存じませんが、かなり現在の水俣病患者が多くて、われわれ子供の頃「オロンベ」(意味不詳)「ナエ」(足萎え)と称して、「あの家にはオロンベが居る」とさげすんだもので、貴殿の名を挙げておられる水俣病患者のなかにも、その様な家系があるのです。
そこで町民一般に、水俣病に対する違和感が多いと存じます。
充分承知かと思いますが、一応ご参考までに。」とあった。
私は氏の誠実は対応に深く敬意を表しつつも、もしや氏が私の実名をあげて詳述した人を指しておられるのではないかと案じ、私の知り得る医学的所見(熊大医学部医学者)をそえて書き送った。
私の不充分な記述により両者に迷惑をかけることを恐れたからである。
再び返信あり
「ご返事いただき恐縮に存じます。なんと申しあげても水俣病発生の原因はまぎれもなくチッソですから、仮に日本農業の発展速度が落ちてもチッソは潰さねばならぬ企業であると思いますので、貴殿にはがんばってもらわねばと思っております。
梅雨晴れや チッソ(公害)の街に けむり見」
と一句そえられていた。
チッソとは肥料をつくっているという古典的なイメージをもたれたままの氏にして、その発展速度が落ちても「チッソは潰さねばならぬ企業である」といい切られたことは氏の隠された積年の覚悟の一端をしのばせるものだった。
最後におあいした折、氏は「じつはこの辻本家の先々代が、天草の他の庄屋衆とかたらって、野口遵(チッソの創始者)の困っとった時は、金をかしたり、天草の原石(石灰石)の採掘の権利を有利にしてあげたりしとっとですよ。
わしらもチッソの繁栄をねがっとったのも、そげん昔話があるとですから…」とポッツリ言われた。
(2-66)
彼のなかで、チッソは不知火海の一角にわが先祖の手塩をかけて育てた会社であったのだ。
それへの決別は本意なことではないであろう。
水俣病の注目の地として、時期おくれにこの地に訪れた私たちに対し、いかにいとわしいかったかを自分の体の話でこうのべるのだった。
「私は若い頃、満州におりましてな。奉天に。本気で満州建国を思いつめておったですよ。
そんときある人から言われたですよ
『本心満州国籍の人間になろうとするなら、夜寝ても満州の夢ば見るがよい。内地の夢をみるようではだめばい』と、こう先輩がゆうとです。
しかし満州の夢をみるには相当の年期をかけんと、夜な夜な満州の夢をみるようにはならんとです。
内地の夢ば追っとるですもんなあ。
それとおんなし、私はいまも大水害のときの夢をみっとですよ。寝てもさめても。
(2-67)
あの山の流れていくとを、屋根の上で救いの手をにぎっととをなあ。
朝十一時、電線も電話線も切れて、皆船で海に避難せねば。
あれ、保育園の子供はいまは帰しはならん。
家に帰れば埋まってしまう。
いつ、何分あとに避難命令を出したらよかか。
決断するとはむずかしかです。
三十六名じゃもんな犠牲者は。
水害のあと血尿を出して、一週間ぶっ倒れとりましたが、その間水害の夢ばかしみました。
それが今もです。
水害ボケ。いまはテレビも見たくない。新聞もよみたくない。何もこの耳で聞きたくない。
水害の夢ば見たくない。見舞いの人にもあいたくない。
こりゃいかん、転地でもせんとと思って脳波をとってもらえば、これはちっとも異常じゃなかそうで…。
まこて人に会うとがおとろしい。水害からずっとじゃもんなぁ」
もはやこの頃膵臓がんは進行しておられたであろう。
もうこの人に水俣病に関する話題は断つことにした。
水害がこの人をすでに廃人に追い込んでいる、その犠牲者への責任にうなされている、そのことが痛く分ったからだ。
(2-68)
「本当ならば水俣病が不治の病でさえなければなぁ。結核のやまいよりせめてカゼひきの重い程度であってほしかった。
どちらが善どちらが悪ということでなく。
隣人というか近くのものというか、その人たちがカゼひきていであってほしかったなぁ」
辻本市之助に会った最後の述懐は耳朶に残っている。その人の訃報に接し、またしても天草のひとを失ったという辛い思いがあった。
(2-69)
町立上天草病院は、天草の中でどこか華やいでいる。
人の出入りも多いし何より何十人という白衣の少女たちが鄙にはまれなあで姿を造作なく見せているからでもある。
一歩、病院に入ると、あの島、この島の顔見知りにあう。
御所浦町(離島)横浦島の胎児性水俣病として、最近申請した岩本真美ちやん(九歳)が母親におぶさって来た。
ひきつけがひどいという。すっかり身長ののびた彼女が背におぶさると、一度も地につけて歩いたことのない細いくるぶしが長く垂れて、
母親は前こごみに歩かなければならない。それがいかにも難儀にみえた。
「船できたですが。
こん子が船に酔ってですんなぁ、泣くとです」と母親は言う。
酷な表現をすれば水俣病だけ診ないが、あとはすべてカバーする総合病院になっていた。
(2-70)
ある日突然ワカメの大きな束をかかえ、机に両手をついて「病院長になってください。
ご承知いただくまでは頭を上げるわけにはまいりません」と迫った青年町長辻本市之助と、その熱意に負けて大学の有力ポストを振って赴任した青年医師岡崎禮治氏であいのエピソードはいかにも九州の男たちの話として私は好きだ。
一九六四年、医師四名、七十床で出発した病院を日本一の喘息病棟を含む二百床にし、医師、職員百五十名、高看生二百名余りをもち、周辺五万人全住民の地域医療をカバーする大病院に育てあげたのも岡崎氏なら、氏に自由に采配をふらしめた辻本あっての成果であろう。
岡崎禮治氏の文集「海と空と鳥」は氏独特の毒舌や揶揄にみちたものだが、次の一文は真摯である。
「…十年たってみて、辻本町長の病院に対する接し方は絵に描いた理想図ではないかと思うようになった。
私は公の席で町長を誉めたことは一度もない。
(2-71)
むしろこのような離島の小さな町では、結婚式や葬式などの時、私が町長の上席に座ることさえある。
たまたま病院新聞から与えられたこの機会を利用して、“辻本市之助”という名前に、町長本人の知らない場所でひそかに感謝を捧げたいと思う。」(同書八十二頁)
生前の辻本氏が小文を眼にされたかどうか知るよしもないが見事と思う。
院長に、私は私の知る水俣病情報はきたんなくのべることにしている。そして氏も歯に衣着せぬ話はもどってくる。
「まだここは死ぬ間際の病人専門ですよ。
この病院にかつがれてくるときは、死ぬのをとりあえずとめてくれろ、というところですよ、ここは。
よほどのときでなければ病院に来ん。きた時は死ぬ間際です。
交通不便のところですからなぁ、離れ島の多くしてですねぇ。」
氏だけで、一日百人以上診るという。
三分医療にならざるを得ないと率直である。
(2-72)
「ここの水俣病発掘には、その専門の神経医がひとりでいい要るんです。
それがここの水俣病対策です。
それにつきるといってもいい。
幸いこんど解剖の資格のある医師が来てくれました。
これからは水俣病の疑いのある人をここで解剖も出来ます。
それは一歩すすんだかもしれません。
ただここにひとりでいい、水俣病を読み取れる医師が貼りついてくれれば変わってくると思いますがなぁ」
剛柔あわせもつ気性の院長の具体的な意見である。
だが岡崎禮治氏の周囲に、それを望む緊急必要の声があろうか。
行政に聞く耳があろうか。
水俣病の症状の著名な患者が、どんどん死に減え、水俣病そのもの絶滅の時間をかせごうとする熊本の医療体制の中で、ひとり天草の意見をとりあげることは至難のことにちがいない。
(2-73)
医学書『水俣病二〇年の研究と今日的課題』を手に、たまたま倉岳の漁師町、宮田の小松診療所を訪れたとき、私は二十年近く前、例の「毛髪中水銀検査報告書」(松島技師、県衛生研)の記録中最高の九百二十PPMの毛髪保持者、御所浦町、椛の木の松崎ナスさんの臨終の前後の真相をきくことになった。
田舎にはモダンなモルタルづくりながら、来客用のベルを押すと棟つづきの居室から「ハイハイ」といって白衣を着ながら、消毒用洗面器で指先まで洗いながら「工合はどうですか」と聞いてくれるような町の医師、小松良男さんであった。
白髪まじりの五分刈り、いかにも漁民の一人一人の顔を覚えているといったお人柄だった。
九百二十PPMもの毛髪中水銀値に驚き、県衛生研の土井節生所長がじきじき松崎ナスさんを診察したといわれている。
それは熊大にも報告され、医学誌「神経進歩」(一九六二年3月号)に徳臣晴比古助教授(当時)ら四名の名で論文に症状が発表された。
(2-74)
「手はこわばり、ボタンかけがうまくない。
草履がぬげやすい。手足の力が弱くなりしびれているなどの神経症状がみられ、水俣病の可能性も考えられる」と記述されたという。
(一九七一年九月一八日朝日新聞)
だが、これに何の施療も、まして水俣病患者そしての認定、救済もなく放置された。
あと彼女をみとり、その死亡診断書を書いたのが、この開業医小松良男さんであった。
氏はさらにその夫松崎重一さん(申請患者)の臨終にも立ちあっていた。
私は町単位に物事をみていた。
松崎夫妻は御所浦町ゆえ、その町立嵐口診療所だろうと当て推量していたが、思えば彼らの住む牧島、椛の木から倉岳の宮田は指呼の間であった。
船路で二〇分ほどの距離である。
熊大医学部の出身で、水俣病の権威、病理学の武内忠男教授の教え子でもあるだけに、水俣病には関心をもっていたという。
その小松医師すら、自分が脈をとっていた松崎ナスさんが、記録上、世界最高の毛髪中水銀保持者であることを知らなかった。
「昭和四十二年(一九六七年)ですか亡くなられたのは。
あん毛髪水銀の九百PPMのなんのと知ったのはずっとあと新聞、テレビででしたよ。
そう知っとればですね。その眼で見たでしょうばってん、なんもそうして手掛かりはなかったですから、その当時は。
…それはひどい衰えようのまま、ながあく寝とられたですね、松崎さんの奥さんは。
…わたしんとこに看に来て下さらんかと頼みにこらしたですよ。
あん椛の木の人は、籾をするにも、船でここに来てやっとらしたし、塩、タバコを買うにも焼酎かうとにもこの宮田でしたもんね。
…昭和四十二年亡くなられたときは、間に合わず、私は息をひきとったあとでしたよ、船で。
もう完全な老衰と思って、そう書いたです。
…ふるえのしびれの、運動失調ですか?
もうそれらの分る段階じゃなかったですよ。
そもそも初めて船で往診したときはですなぁ。
へたって寝たきりで、馬鹿んごつなっとってですなぁ。」
(2-76)
四年前に亡くなった夫、重一さんの場合も老衰と記したという。
生前、川本輝夫さんの強いすすめで、申請する気になったものの、以後、消息は絶たれがちであった。
「そういえば、一ヶ月ほどまえ、娘さんちゅう人が、女房にカルテのうつしと死亡診断書をもらえんかというんで、
あれが渡してやったとです。」
娘とはいえすでに60歳近く、その人自身水俣病と思われる。
そのおぼつかない風姿を思い出してあわれさが心にこみあげるのだった。
頭髪水銀量の水俣地区での最高は、記録上、四十六歳男性の七百五PPM(一九五九年)であったといわれる。
(青林舎刊「水俣病―』一三七頁)。
松島義一氏の一斉調査の時点、すなわち一、二年後の一九六〇年から一九六一年度においては、水俣地域は最高でも百四十七PPM(茂道)と低下している(前述)。
同じ時点、なぜ天草寄りの離島に九百二十PPMの高濃度の頭髪中水銀保持者がいたかについては詳らかでない。
(2-77)
松崎ナスさんの毛髪採取は三回に及んだ。
第一回では2千PPM近くを検出し、それをあやしみ、毛髪の採取部分をかえて二回、(毛髪の先端と根元)。
その平均が公表値の九百二十PPMであった。
水銀分析のベテランであり松島技師ですら信じがたかった記録値であった。
「魚は好きでしたが、食のこまい人(小食のひと)でした」と長女は語った。
その夫、松島重一氏に聞けば、牧島の水俣側の長浦の親戚と組んで水俣灘でイワシ網をつづけていたという。
その網の中の雑魚を身内で分けた。
その頃の食卓には水俣灘の魚が多かったと思われる。
もし島の小山をへだて、天草側に入江をもつ椛の木あたりの魚だけをたべていたら、どうであったか。
必ずしもより安全だったとは言い切れない。
というのは、同じ天草よりの御所浦島嵐口の食堂経営者、藤野レイさんは好物のナマコ、タコ等を嵐口の港で好みのまま買い付け食べていて毛髪に6百PPMという、天草で二番目の高濃度の水銀をを蓄積しているからである。
嵐口の主漁場は島の周辺であり、必ずしも水俣灘の品物でなかったという。(藤野レイさんの回想)
基本調査が海況についても海底泥土にしても極めて不完全な現在、人体被害の実例からおしはなることしか出来ない。
もうひとつあれば、鹿児島県米ノ津の漁村の産婆さんから六百二十四PPMの水銀が検出された実例がある。
(鹿児島県衛生試験所一九六二年)
川本輝夫氏によれば
「田舎のはやる産婆さんは一生に二千人、三千人と取り上げられるという。
産婆さんは三日目か四日目にはかんたて祝いって、尾頭つきをよばれるもんなぁ、日にち毎日お頭つきの魚ばたべさせらるるもんなぁ。
またよか魚ほど水銀が高かじゃで、考えてみれば毛髪にたまるわけじゃが。
6百PPMものともなれば、生きとれるとしても重症の患者に間違いなしじゃっで、どうしておらるるか」
この場合も、水俣周辺の魚と固定できない。
昨日は東に今日は西にと漁家をおとずれ、そ報酬や祝い事のたびに尾頭つきのタイやクロイオなどをもらったであろう。
そのため漁家と同じく、もしくはそれ以上に魚を多食したことが推測されるのみである。
(2-79)
よく不知火海の総被害者の推定にあたって、「沿岸住民二十万人として、少なく見積もっても二万人、五万人前後になんからの健康被害があっても不思議ではない。」
(原田正純氏)といわれる。まさにその通りと思う。
しかし天草の現地で、そこの人びとに語る場合、説得ある裏附けに欠ける現状をいかんともしがたい。
さきの例ほか、意外な遠隔地、外洋部の漁師(阿久根漁民の死後解剖による認定例)
の場合など挙げるものの、天草の地からみれば水俣病ははるか対岸の災患である。
「不知火海で暮らしとるからといって、あの水俣といっしょにしてはもらいますまい。
天草で水俣病になっとっとは水俣にいかした衆ばい。御所浦あたりの漁師みたいに…」と必ず反発にあう。
まして沿岸二十万の五人にひとりは…云々の蓋然性など「聞く耳もちとうもない」話であろう。
(2-80)
詳説くり返すことは省くが、前著『わが映画発見の旅―不知火海水俣病』でふれた
“海の中の汚染の飛び地”がありはしないか、“恒流と干潮の潮の流れによってひっぱられた水銀ヘドロの遠隔堆積”がありはしないかという
素人の仮説は、主に弘田礼一郎氏(熊大理学部、プランクトン専攻)の一九七四年に発表された論文「有明海・八代海におけるプランクトン中の水銀量」からの類推による。
すなわち動物性プランクトンは水俣湾に最も高く、ほぼ同心円的に水銀量が距離にほぼ比例して低下しているが、植物性プランクトンに於いては水俣湾内のそれより、水俣から十三キロへだたる獅子島(鹿児島県)と御所浦の中間、元の尻瀬戸の海底の植物プランクトンの方がわづかながら高濃度であった、中間に低濃度の個所がありながら、それを飛ばして、高い数値を示していたというデータによるものであった。
(2-81)
漁師であった患者御手洗常吉(昭和三十年代湯堂)は「はえなわの漁」の名手で自ら湯堂一番の稼ぎ手と自任しているが、一九六〇年頃のはえなわ漁の体験から、私の仮説に応え「出水(鹿児島県側)の名護沖に千メートルの縄をのべていた。
それをたぐると海の底のヘドロが分る。
水俣湾でやればどこもかしこも縄にあの臭か、ねちゃねちゃしたドベがつく。
あれと一チョン変らんドベが、ところところについてくる。
砂のところの縄はさらさらできれいだった。泥のところも縄をみりゃ分る。
ところが、二すじ、三すじと飛び飛びにあのねちゃねちゃのドベにぶつかることがある。
やっぱあの匂いのするドベがついて、着とるもののひざが汚れて臭くねちゃつくのですぐ分る。
それが岩とか砂の隆起しとるところにはなく、泥とか沼の手ごたえのなかにあった。」
(一九七八年聞き書き)
名護沖といえば、水俣から十キロ、まだ外洋とつながる瀬戸とは遠くへだたった灘である。
(2-82)
しかし阿久根と長島のあいだ、あの黒の瀬戸をかむように引き潮のつつ走る“潮の道”ではある。
「大潮のときの潮の早さは、まるで川じゃなぁ。汐にむかえて眺めれば、一尋(一・五メートル)も二尋も水かさがせり上がって津波のよう。
櫓舟じゃ漕ぎきらんじゃった。(同じく御手洗氏)
そのような潮の流れは、天草よりの島じまの間の各潮戸、そして不知火海の汐の入れかえの五割がそこを流れるという八幡瀬戸にもあるのである。
すでに御手洗氏が体を病み、漁をやめて十数年、その間、海底に、百間港と同じく、“かさぶた”が出来たに違いない。
しかし、底質に汚染があった以上そこに低着した植物性プランクトンに依然として水銀が吸収されつづけていると思える。
あくまでこれは仮説であり、漁師の体験と、プランクトン学者の調査結果をきわめて粗くむすびつけての素人の見方にすぎない。
以来天草の人びとに飛び地のような汚染の心当たりをそれとなしに聞いてみるが、自分の漁場にそれをあれはめる事は決してしなかった。
(2-83)
「よくもって回った邪推をする」といった呆れ顔にぶつかるのが関の山だった。
そうした気おくれにあらがいながら歩いてみると天草で生き証人として挙げられると思われる水俣病様被害者たちは、訊けば訊くほど、その生活歴において水俣とのつながりが判然とするのである。
さきにのべた森一族(龍ヶ岳、葛崎)、樋島の二代つづきの病死者(龍ヶ岳)にしても、同じ島の胎児性水俣病の申請者にしても、またふたりの運搬船の船長(姫戸町)にしても、水俣病内外及び水俣灘に近づき、濃厚汚染をわが身にとりこんだ人びとであった。
つまり典型例は水俣より発することになる。
同心円的汚染の法則どうりに、爆心地水俣付近のきわだった超汚染を証明することになり、不知火海の他の海域の汚染、人体被害との落差がはっきりとするのである。
不知火海と水俣との関係をどう解くか。それに関して依然霧のなかである。
たまたまそう考えているときに次のような例ででくわした。
(2-84)
これも人が水俣に吸い寄せられ、そこで汚染し、天草に還り、病んでいる例であった。
天草上島、栖本の小さな平野部、栖本川でひらけた水田地帯、湯船原下に“農業”で生計をたてている一家の主婦に原田カヤノさんがいる。
大正十一年生まれである。
この人は水俣の患者多発地帯、出月の患者、浜元二徳、フミヨ姉弟の長姉といった方が分りが早いだろう。
父母ともに急性劇症で失っている一家全滅の一族のひとりである。
昭和二十二年(一九四七年)この栖本の原田家にとつぐまで、長女として家を助けていた。
そして水俣病発見の一九五六年、大騒動の実家をみとるため出月に帰り、看護にあたった。
その間「栄養分といえば魚しかなし、手に入れちゃ病人にくわせもし、自分もたべとりました。」
父の発病そして五十日余りのちの死亡、弟の二徳の重症、母の発病以来二年後の死とその間、
二、三年にあたって水俣暮らしを余儀なくされた。
浜元家にとりわけ世話になり、姉の原田カヤノさんを知る私は、この人の挙措から、水俣病と見なしていたし、年々辛さも増してきているだろうと思い、通りすがりには必ず訪ねることにしていた。
(2-85)
陽気で男まさりのカヤノさんはすこぶるあけすけである。
その口から自分の体の異常を語るさまは、粗忽ものの失敗談義のようだった。
この頃は道をあるけばつっこけ、店のしきいにつまづいてまころぶはで、自分じゃなかごとあるという。
手、足のしびれ、指先のまがり、足のもつれ、ひざのつっぱり―とその異常を部位を示しながら教えてくれるのであった。
“申請したら”という話は三年ほど前から、私と彼女の間にくり返しのやりとりであった。
「しかしなぁ栖本でしょう、ここは。百姓だしだれもうちかもうてくれんことは分るっとるがな。
しかしわしも見苦しゅうなってしもてですなぁ。
そりゃフミヨも二徳も『なんで姉さん、申請せんとな』というばってん。
こけ栖本にゃひとりも患者は出とらん風げななぁ。
もし申請して、もし通れば風当たりのきつかは、せんでも分るがな、申請してみんでも。」
(2-86)
話を自分で折って、彼女は「まだほかに近所にわしとおなじもんがおるで呼んでみようか。
あんたの話、ひとりで聞くこともなか」といって電話でよぶのだった。
つれだって、灸のマッサージのと、良か治療と聞けば、バスで一時間の本渡市までいっしょに通う仲という。
ものの5分して、小ざっぱりした中年の婦人がきた。鶴田房江さんといいやはり農家の主婦、五十五歳という。
症状はまったくカヤノさんと符合し、同程度なので説得を省く。
彼女は昭和三十年(一九五五年)から五年間、水俣、湯ノ児温泉の三笠屋旅館に仲居づとめをしていた。
「こん村からたくさん女ごが湯ノ児にゃいきました。」という。
その女ご衆のなかで何人もの同じ病気もちがおらすという。
皆、湯ノ児温泉の仲居とか、芸妓として働いた人たちだった。
(2-87)
水俣が盛えたおかげで、嫁入り仕度をかせぎに節季奉公にいくさきは水俣で事足りた。
それは恵まれた働き口だったという。
水俣病事件前も最中も、そしてその後も、栖本の娘たちは一人欠くれば、また一人と湯ノ児の働き口をうめていた。
水俣病の最多発期に奉公していたものも多い。その人たちも今は四十、五十の歳になって、栖本の農家のひとに還っていた。
「湯ノ児はほれ、看板が“温泉と太刀魚つり”でしょうが。水俣湾の魚が汚れて喰いはならんと聞いとったばってん、湯ノ児の沖さは、良かということになっとったですもん。
客にもそう言えといわれとったしなぁ。お客さんが気味悪がって喰べんといえば、わしらが『これ、みてみんさい、きれいかよ、ほれ』といって箸つけてたべてみせたですもん。
太刀のほかに、カラカブ、トンボ、クロイオ。
前の晩のおかずが残れば、朝も魚、ひるも煮付けや焼き魚にして、三度三度とも魚ばっかし、魚のなか日はなかったとですばい。」
(2-88)
多食も多食、旅館の商魂のままに、事件の波をよそめに、わが身で率先して魚をたべてみせることで湯ノ児を守ってきたのだ。
湯ノ児の水俣病かくしは漁民社会のそれとちがって、大旅館、チッソの奥座敷の御用遊興地だっただけに、この温泉郷打って一丸とする統制は厳しく太刀魚釣りの遊漁船船頭たちは、ついこの四、五年前からやっと一人二人と申請しはじめたばかりだった。
しかもその申請者は重症に限られ、救済なしには生きられないほど逼迫していた。
娘たちは嫁入り費用をためて天草に帰った。
彼女たちは農家の出が多かった。行儀作法が良いからと旅館に気にいられたからと言う。
一九七四年から一九七五年にかけての熊本県の一斉検診は、ここ栖本では漁村地区を住民のうち要注意者(病院入院者など)だけをピックアップして行われた。
検診の結果一人の疑わしい患者もなかったとして、栖本は非汚染の町として分類された。
この一斉検診は沿岸町村の漁村部だけが対象であった。
したがって農村部に散在しているこれらの湯ノ児温泉に働いていた最汚染の水俣の長期出稼ぎ女性群は全員検診の圏外におかれたのだ。
「湯ノ児に五年いて、ここにもどったとが、昭和三十五年、いっとき百姓しとって、結婚したとが昭和三十七年じゃったか。
(2-89)
昭和三十五年、いっとき百姓しとって、結婚したとが昭和三十七年じゃったか。
それが昭和四十年ごろから体のきつくなりだして、百姓仕事がどもこもきつかですよ。
病院がよいしだしたとは昭和四十五年、六年からです。こん体、どこにいっても医師が病名つけきらんということです。」
この十年、ふたりは本渡の堀田医院や下浦の渡辺ハリ灸師に通い、思いあまって、大分の祈祷師さんにもたよったという。
通院途中が心細いのでふたりつれだってハリ師に通う。
二日おきぐらいの通院に止めている。
バス代と処置料で一回三千円。その出費がつらいからという。貼り薬でしのげる日はしのぐ。
「水俣病に治るくすりはなかとばい。そう分っとっても、ハリ打ちにいかんや、動けんごっなるもんなぁ」
ふたりの交ごも語る話のシンは月何万円とかかる治療費とバス代だった。
「ならばなぜ申請をなさらんか、申請して一年たてば治療費も出るようになったでしょう。
(2-90)
あんたの実家は水俣の浜元家じゃないですか。
まずあんたからなされば」と半ば責めるように言うと、カヤノさんは気弱に笑って「やっぱ、ここは栖本じゃけ、天草じゃけ」とはたをみながら言うだけだった。
鶴田房江さんも「検診のあったとも人の話できくだけ。私から水俣におったち言えば、自分の口から水俣病じゃあなかですかというのと同じ、それがわたしから言いきらんもんなぁ。かくすつもりはなかばってん、水俣病の話はいいきらん。
じゃけん、まわりの人は、わたしがあん湯ノ児で働いとったことは知っとらすばってん…。」
私は手もとに常時もっている水俣病の認定用の申請用紙と、水俣の活動家谷洋一君のつくった「申請の手びき」を渡し、もし病名をつけきらんと医師にいわれるならば、せめて症状をぜんぶ書いた診断書をもらい、これをそえて申請しては…」
と二時間ほど話をしてようやくその気になったようだった。
ふたりはまだ心細いらしく同病の仲間の名をあげた。
「あんた家のむこうの××さんじゃろ、河内の○○さんじゃろ」と同病の婦人の名を指折るのをみれば五指にあまる。
(2-91)
かりに水俣から湯ノ児ルート、仲居、芸妓さんルートと逆にたどれば天草各地にどれほどの女のひとたちが居るかにわかに想像もつきかねた。
ちなみに水俣市市勢要覧によれば湯ノ児温泉、旅館数十六、宿泊人員千三百人、年間二十一万人」(一九七四年度)
天草の地元医にしてみれば「本籍、現住所とも天草郡であり、農村部の農家、農業」と聞けばカルテの上で水俣病とむすびつけることは千にひとつもないであろう。
かといってこの人たちは自分から水俣での生活を疫学的に語ることはしないだろう。
しかし、自分自身で水俣病と思案している分だけ、たしかなものとし水俣での日常の生活のディテールが思い返されているようだった。
カヤノさんには鮮烈な一家全滅の記憶があり、元仲居さんの房江さんにしても、湯ノ児の大旅館で太刀魚釣りから夜の宴会、そこでの太刀魚料理の華麗なこしらえ、そして朝のみそ汁、昼のおかずと、脳裏に魚ばかりの五年間がおりたたまれていた。
(2-92)
これを語りだすときは、わが身体の難儀を、シャバに“水俣病”として訴え出るときでしかないであろう。
私はふたりを前に「公害被害者補償法、認定申請者」なるいわゆる申請者を音読してみてはじめて次の字句に気づいた。
氏名よりはじまり病状概要の項についで、次の記入欄がある
「指定地域に係る水質の汚濁の影響により発病することとなったいきさつを記せとある。
ただ「発病のいきさつを記せ」だけで充分ではないか。
何故「指定地域」と限定するのか。
それは現状一市二郡しかみとめられていない。
水俣市と地つづきに隣接する葦北郡と出水郡(九州本島部)といった地域だけが現状「指定地域」とされている。
それには、より水俣に近い離島、御所浦町も入っていない。
今日七百名近い申請患者がありながら未だ、町議会の決議もかなわず、法定地域外にある。
まして天草上島ははるか遠い。
仮に彼女たちが決心しようと、天草の医師はこの項目に眼をとめるなら、そえるべき診断書の作成すら無為なことと思うに違いない。
(2-93)
このふたりに、いま申請の途は、ここ天草では絶たれているといってよい。
水俣の経験をここにはこびその運動として、まず第一階梯の“申請”の手助けをすることから始めなければならないのだ。
水俣で、私は一、二度はこの申請書を読み下していたはずだ。
しかしこの行政の詐術に気づくのはこの天草においてであった。
私はうろたえながら、やはり、この巧妙極まる“棄民”のトリックに立ち向かうには、「不知火海沿岸20万人」の総被害と言い切ってから、すべての物事を考えなければと思うのだった。