第3章 不知火海の”時間”とは
(3-1)原稿用紙の番号
かつて天草と水俣を逆のえにしでつなぎ、いまはその消息のつかみがたさと、水俣にかかわって二度の罪状を負いながら、いまはひとりで黙している人として、龍ヶ岳、樋島の桑原勝記氏は、私にとって天草人のなかで伝説的人物であった。
かつて不知火海漁民闘争の中で彼の勇姿を知らぬ人はいない。
その彼がいま汚名をニュースにしにもならぬ控訴審でそそごうとしていた。
一九七七年、巡海映画の折、他所者を入れたがらない樋島、とりわけ彼のすむ下桶川での上映を肯いたのは彼であった。
たまたま旧盆で賑わう村の浜では恒例の奉納相撲が開かれていた。
その相撲の儀式をとりしきり、近郷の名士を招き、その総代の貫禄を端然と座したまま示していたのも彼であった。
巨漢であった。
戦前戦後を通じ、元海軍相撲の五段であり、両国の力士に位して実力は関脇に伍すといわれたひとだ。
彼はことば少なの中にも、つねに自己紹介の枕にして次のように語りだすのだった。
(3-2)
「わしは戦艦、霧島にのっとったが、艦長に目をかけられ、霧島の一字をとって”霧が里”と名乗れといわれた。
国体にも六回連続出場した。はたちぐらいのときじゃったが…」
猪首に大きな面構えがすわっていた。
その潮焼けの顔に太い眉、長寿の相といわれる長い眉毛が十数本、ぴんとつっ立っている。
瞳は銀光りのように紅彩をもっていた。
体重はいまも優に百キロちがいであろう。
その彼が一九五九年(昭和三十四年)秋の不知火海漁民闘争の天草勢の総責任者として登場し、三人の被検挙者のひとりとなり、不知火海漁民の尊敬をあつめたころ、彼は四十三、四歳だった。
いま(一九八〇年)六十四,五歳になられたはずだ。
”人身御供”となったあとの二人、葦北郡、計石の竹崎正巳芦北漁協組合長、田浦の田中熊太郎(のちに田浦町長、故人)
とはともに海軍軍人出身者であったから、漁民の危難に対し、死なばもろとも、肝胆あい照らすという間柄だった。
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当時田中氏五十歳の分別盛り、竹崎氏は芦北町乙千屋の名家のうまれ、柔道七段、剣道は新陰流、免許皆伝の流れをうけ、体重八十五キロ、桑原氏におとらぬ偉丈夫であった。
その竹崎氏も近年、第二次漁民闘争ののち、あとでのべる事情により失脚した。
水俣病発見以来、二度にわたる漁民の闘いの指導者のうち主だった人びとは「横領罪」のもとに、最低の評価に失墜したのである。
これが水俣病闘争の全史のなかでどう位置づけられるかはもとより私の任ではない。
ただ心ひそかに惻隠の情を禁じ得ないのである。
そして寡黙なこの人たちに代わって、漁民闘争つぶしと疑われる一連の出来事を記したいと思う。
それらは視座を天草においてはじめて見えたものであり、彼らをひざつきあわせてみて知り得たことである。
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不知火海漁民と水俣漁民とのちがいを、かつて”水俣エゴイズム”ともいうべき評価で切ってすてた桑原氏をみていると天草にも天草を世の中に中心とする思念が宇固としてあるのがわかる。
それを見ないで、水俣、天草、不知火海とひとくくりに水俣病受難史をかたることは無謀にひとしい。
今、天草の指導者像をかたる前に、いわゆる第二次不知火海漁民闘争とはいかなるものであったか私なりに省みてみたい。
一九七三年三月二十日、水俣病裁判は歴史的判決の日をむかえた。
この判決は水俣病患者だけでなく、不知火海漁民にも共通の感応をもたらした。
チッソの過失責任を法的に確定し、見舞金契約第五条「以後、補償を要求せず」を公序良俗違反とし、無効とした。
この二点は漁民にとっても十九年前の不知火海漁民闘争の妥結のときにまでさかのぼる。
当時、水俣病発生の因果関係はあきらかにされないまま、患者との見舞金契約と同様「以後、補償を要求せず」といった条項を押し付けられていたからだ。
水俣病裁判はそれを断罪し無効とした。
ならば不知火海漁協とチッソとの条項もまた無効と考えたとしても何の不思議はない。
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だがこの三月の判決から、二、三ヶ月の間、漁民はいわゆる第五条を白紙にもどし、
あらためて補償を問い直す行動はとっていない。
それは次のような一連の衝撃が重なってはじめて生じたものだ。
判決の出た三月、熊大医学部、十年後の水俣病研究班の「十年後の水俣病に関する疫学的臨床ならびに病理学的研究」論文に、水俣、御所浦等汚染地区にたいする対象地区としてとりあげた、有明海側漁村、天草郡有明町、赤崎に、水俣病と区別できない患者が発見され第三水俣病の可能性のあることが指摘されていた。
これが五月二十二日、朝日新聞のスクープとなり「有明海に患者八人、二人に疑い、第三水俣病発生」と報じられた。
その三日後、五月二十六日、県当局は「水俣湾のヘドロに総水銀二千七百PPM(乾重量)、六十三地点中四十七地点から百PPM以上」と報告、水俣漁協は翌日に水俣湾の漁獲自主規制を九年ぶりに復活せざるを得なかった。
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以後、有明海、不知火海の魚価の大暴落、取引停止をひきおこした。
「太刀魚トロ箱一杯2百円」「三キロのエイが百五十円」といった買い叩きが熊本の市場で行われた。
のちに詳説するように鹿児島県長島東町の養殖大国が危機に陥ったのもこのときであり、佐賀、長崎、福岡の有明海の沿岸漁民、徳山湾の汚染による山口漁民をふくめ、西日本の全漁民をパニックにおとし入れた。
水俣漁協のチッソとの単独交渉が先行した。
七月五日より九日にかけて、十三億六千万円(組合員百四十七名)の補償を要求、その決裂を機に、海上封鎖と工場、正門裏門の封鎖、主力工場、塩化ビニール設備を操業停止(七月十二日)
ついで七月十八日、工場の全面操業停止にいたらしめ、二十日、四億円の漁業補償をもって妥結、封鎖を解除した。
水俣漁協は短期決戦で事を処した。
不知火海三十漁協がチッソに対し総額百四十八億円の補償を求めて立ったのは、水俣の妥結より遅れること十日のちであった。
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水俣漁協はこの回、一人平均二百七十二万円を得たことになる。
そしてチッソとの協定にあたり、わざわざ「水俣漁協は、今後も補償問題未解決三十漁協とは行動をともにしない」という一項を入れた。
(昭和四十八年、七月十六日朝日)
不知火海漁民はまたしても一九五九年(昭和三十四年)の漁民闘争のときと同じパターンを水俣漁協に見る思いであったろう。
あえていえば、当事者チッソ、斡旋者水俣市当局の共通認識として、水俣漁協と不知火海三十漁協との統一行動だけは回避したかったにちがいない。
地の利をもつ水俣漁協と他の漁協と手をむすべば、そのパワーは計り知れぬものであることを誰よりも知り、おそれていたからである。
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水俣漁協の分離に成功したチッソは不知火海三十漁協に対し、要求額百四十八億円の一割にもみたぬ(八、六%)十三億円を回答(八月六日)
交渉を決裂した三十漁協は翌七日から工場で入り口、専用港梅戸港の封鎖に入った。
三十漁協の要求額は三十漁協の漁民六千人にとって一人当たり二百四十七万円にあたる。
それは水俣漁協の既得した額のちょうど九十%の数字であったことに留意していただきたい。
(ただし要求額そしてみるなら、水俣漁協のそれは九百二十五万円であった。
不知火海漁協の要求はその四分の一に近い)
私たち(映画スタッフ)はその日々を記録する合間に、竹崎正巳闘争委員長を現地闘争本部にたずねた。
たまたまお客の時間だった。
座卓に大ざるいっぱいの赤エビのうでたのが茶菓子代わりに出されていた。
芦北計石のうたせでとれたものだが汚染エビそして売り物にならん品物だった。
そして皮肉にも、この年、赤エビは数年ぶりの豊漁であった。
9/6(3-9)
竹崎氏は「わたしゃ、これを五年戦争、十年戦争と思っとります」と語りだした。
まわりの各漁協役員にも聞かせるように「わたしゃ、この闘争にまけたら、不知火海漁民はもう足腰たたんと思うとります。
ひくわけにはいかん。
チッソがわれわれをまんまとだましぬいたことは裁判でよう分った。
とことんやらにゃならんと思うとります。
もし補償金を手にしたら、漁協としてその一割は天引きにして闘争資金に積み立てる。
そして組合員もそれを生活に使ってしまうのじゃなくてですね。
漁業の体質改善、抜本的な漁民の自衛というか繁栄のために共同してそれを役立てるようにしようと話しおうてます。
水俣病のおかげで、わしらはどれだけ遅れとるですか、全国の沿岸漁民とくらべて。
十年、いゃ十年たぁいわんぐらい遅れとる。
それを取り返さんばと思うとります。
わたしゃ、こんどこそは徹底的にやりますよ。見とって下さい。」
だだならぬ気魂であった。
あいさつのつもりで、カメラもテープも持参しなかったのが悔やまれるほどだった。
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十四年前の漁民闘争で罪を三人(前記)でかぶることを通しぬき、その労をねぎらうため、芦北漁協と熊本県漁連から贈られたそれぞれ二十五万円、計50万円の感謝金を、当時の竹崎氏は、補償金配分の少なかった漁民や、組合に加入していない漁民、および小学校、幼稚園、学校婦人会などに全額寄付しているという(色川大吉氏研究ノート「不知火海漁民暴動」)
その奇嬌、奇特の志を一歩すすめ、遅れに遅れた不知火海漁民の体質改善のテコにしようとのべた氏の言葉は実がこもっているように思われた。
不知火海漁協の現地闘争班は水俣漁協の応援皆無のなかで、市民の迷惑顔にとりかこまれていた。
暴力団の襲撃には気をつかっていた。
時に右翼も介入しているらしかった。
工場封鎖のピケットラインの持ち場持ち場はできるだけ一漁協または郡漁協でかためられていた。
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工場封鎖のききめの出始めた半月経過のころより、水俣の患者運動つぶしに用いられた新聞折込み作戦がつぎつぎにあらわれた。
―チッソの会社の意向のむきだしのラッパ管はチッソ水俣労組(新労)である。
○八月十九日、新労は「市繁栄の敵をみきわめよう」と題して、敵対組織、新日窒労働(合化労連)の漁民闘争援護の姿勢を叩き”チッソ倒産を深刻に考えざるを得ない”とし、ゆえに「旧労の支援者はマスコミ受けをねらった宣伝」とし「なにより生活の保証を」と訴えた。
敵とは漁民と合化労連新日窒労組だった。
―市当局の代弁者としてその意向を敏感に反映する”水俣を明るくする市民連絡協議会”の代表徳富昌文は
○八月十九日、「全市民は、チッソ並びに不知火海区三十漁協に対し、責任ある回答を強く要求します。」と表記しビラを以てチッソと漁民あて二通の申し入れ書を併記したが、その眼目は三十漁協の各組織ならび、その代表、竹崎正巳、桑原勝記、田尻実氏らにあてたものであり、とくに焦点を次にしぼった。
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「私達市民が第一に知り得たいことは、貴委員会の補償総額百四十八億五千万円の要求の根拠、並びに積算方法であります…
明確かつ具体的にご説明頂きたいと存じます」
―その注釈をわざわざ買って出たチッソ新労は
○八月二十日「『市民』と『労働者』の生活をいたずらに窮地に追い込まないで下さい」と題するビラに「…さきに、千葉県漁連一万二千人と、旭ガラス、日本塩ビ、千葉塩素との補償交渉が千葉県知事の仲介によって十一億円で妥結しいていることを考えると、不知火海漁民の百四十八億五千万円要求は(根拠)薄弱としかいえません。
即ち、水俣漁協の場合には、漁場が漁獲禁止区域となっており、実際に漁業が出来ない事を考えると、生活権を守ることから、多少過激になった事も、また、相当な補償がなされたことも理解できないことではありません。
(カッコ筆者)
しかし不知火海漁民の場合には遠く三角、松合(まつあい)、松橋(まつばせ)といったところも含まれていること、三十漁協の海は知事が何度も安全宣言をしたところであり、漁業が出来ることなどを考えると、千葉県連の例から見ても行きすぎといわざると得ません」
これにつづけ、漁民の要求の根拠を明らかにせよ、さもなくば市民、労働者の生活のために自衛手段をとらざるを得ないと結んだ。
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こうした合唱のもと、市民連絡協議会による、八月二十四日体育館における”水俣市総決起大会が組織される。
一方チッソの第二組合は、実力で漁民の座り込み封鎖を排除する旨大会決議を採択し挙市一致体制をとった。
同時に九州の某有力暴力団による裏面からの圧力と切りくずしが進行していたようだ。
これについて陰でこの介入に排除に努めたのが桑原勝記氏であった。
(これについてはのちにふれる)
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この一連のビラ合戦よりははるかに早く、不知火海三十漁協の実力行使の前日に配布された、右翼”郷土を守る行動隊”のビラをみてみたい。
○八月六日『漁連よ、補償全額を全市民に納得いくまで説明せよ!
物理的直接行動をやめ、互助精神のもとで話し合あえ』
の表記のビラほど、その後につづいた折込ビラ郡の”理論的根拠”をのべたものはない。
「魚がうれなくなった原因は
①マスコミであり、マスコミの誇大報道により消費者が何々PPMという言葉でまどわされたからである。
②共産党及び新左翼が、現体制打破のためにうった謀略のとばっちりを受けたのである。
その謀略に踊ったのが貴様達である。
③金と結びつく謀略にかかり自ら安全な漁業を危険だとして国民に恐れさしたからである。…
…この補償要求のさきは、チッソではなく、マスコミである、熊大の軽率な学者であるべきである。」
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そして補償根拠を示せといいながら、彼らの推測をのべる。
「要求額も、水俣漁協に補償した金額にただ、熊本県漁連の人数をかけただけという共産党戦術のお先棒をかつぐお粗末な要求根拠では、共産主義者や革命主義者ならいざ知らず、ただ平和をもとめ、ささやかな生活に満足を抱いている我々市民には理解のしようがない。
我々庶民のタンパク源提供者としての誇りをもつものの代表としての良識をもった行動をとってもらわない限り、孤立してであろうことを予言しておく。」
この引用の前段で、不知火海三十漁協の補償金総額の算定が、その1週間、水俣漁協のすでに取得した一人当たり二百七十二万円の実績に不知火海三十漁協的六千人を単純計算し、百四十八億五千万円としたであろうことは見抜かれていた。
それが各ビラに潜む主張「水俣なみとはおこがましい」との反発を誘い、集中攻撃を浴びることになった。
(3-16)
水俣市民が右翼の用語をもって発言したことは初めてであった。
だがこの”郷土を守る行動隊”の一文には、水俣のなかの”愛郷者”以外には書けない質の文書がある。
「真に、水俣を愛し、ささやかでも平和な生活をしている我々にとって、郷土は何者にもかえられない宝だ。
水俣を離れるときの駅頭の涙をみて誰もが分ることである。
他者によって荒され、これ以上の悲劇や苦しみが起こることは耐えられないことである。」
このビラは水俣で印刷されていた。
新労の機関紙を刷っている「あおい印刷」という。
このびらのターゲットは他所者・マスコミにむけられ、彼らに踊らされている漁連をともに撃つものであった。
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愛卿と愛国、市民と国民を重ねてプレスしたような排外主義でこりかたまっている。
この”水俣”に勝てるだけの漁民の思想がつむがれていたであろうか。
不知火海漁業の再生に夢を描く竹崎氏の抱負がその万分の一でも果たせたであろうか。
水俣で四面楚歌のうちで闘われた工場封鎖は、八月二十九日、二十三日間で幕を閉じた。
その間チッソの新労は闘争本部前で土下座して、「働く職場を返してください」と陳情する一方、警察の実力行使を水俣署に申し入れ、デモをもって座り込み漁民に肉薄した。
八月二十五日には市体育館に於いて水俣市民総決起大会が開かれ二千三百人が集まり、デモで漁民と尖鋭に対立した。
この間、水俣病患者は、東京交渉団代表田上義春氏の名前で「水俣病判決をもう一度読んでほしい。座り込みを違法というならチッソの殺人、傷害の責任を市民はどう考えるのか」一矢むいたものの、オール水俣の大合唱はいかんともしがたかった。
(3-18)
自民党県選出代議士、吉永治市が交渉再開の工作に入り、澤田県知事の斡旋による話し合いの場がもたれ、「チッソは回答額十二億を白紙撤回する。漁連は封鎖をとく」との合意により一つのテーブルにつくこととなった。
漁民にとっては思いがけない早い終息に思えた。
各漁協代表はチッソ不信に陥っている組合員の説得にてこずる一幕もあった。
あと交渉はチッソペースですすめられた。
七十八年秋、チッソ五井工場の爆発の痛手を口実に、患者への補償金支払さえ不能として”瀕死寸前のチッソ”を演じつづけた。
国、政府は有明、八代(不知火海)の安全宣言を急ぎ発表、秋には魚価が回復の兆しをみせるにいたった。
チッソは水銀パニックの沈静化をまち時を稼いだ、
同じ時期有明海沿岸の各漁連の対三井東圧、日本化工との交渉は更に苛酷に押さえ込まれた。
(3-19)
再封鎖すべしという声も組合員から幾度となく上がったが、解決の裏工作に中央政界の代議士連が動き、交渉に当たる三十漁協代表をつよく牽制し始めたようだ。
一九七八年十一月二十一日の漁業交渉の妥結、調印は東京永田町第二議員会館で三木環境丁長官及び数名の県選出国会議員の立会いのもとに行われた。
これに至る六回の交渉の席上、斡旋の主役、澤田熊本県知事は、殆ど沈黙を守り、交渉に強い影響を与える言辞をつつしんだという。
まさに中央政界主導による手打ち式の強要の観があった。
要求額百四十八億五千万円に対し、二十二億八千万円(うち八千万円は漁業振興資金)とまさに惨敗に終わったのである。
当日、熊本日日新聞によると竹崎氏は「妥協額には満足していない。当初の要求額はいまもなお妥当と思う」
「この補償金の一部を関係漁協でプールし、なんらか有効な方途に使いたい」と補償金の使途についてのべたといわれる。
(3-20)
約一年半たった七十五年七月三十日、各紙は一斉に竹崎氏の横領事件を報じた。
朝日新聞によると
「三千百万円を有力者への献金/チッソ補償金横領の会長」
―不知火海沿岸漁民にチッソから支払われた漁業補償金を横領した疑いで熊本県漁連会長、竹崎正巳(五十七)を調べている熊本北署は一億円を超す使途不明金を追求してきたが、この中に関係漁協役員で構成する、チッソとの交渉委員へ、竹崎が勝手に渡した慰労金二千万円、補償交渉のとき世話になった有力者への献金三千百万円などが含まれていることが分った。
調べによると竹崎が勝手に使った金の内訳は、自分名義の貯金などに千百万円、建売住宅購入費一千万円、関係漁協の実行委員への無断貸付七百万円、ほか貸付遊興飲食費に千六百万円など―竹崎は”献金”三千百万円の使い先について、相手の名前は「たとえ罪が重くなっても絶対に言えない」とこの点については堅く口をつぐんでいる。
(3-21)
天草の漁協幹部に波及した
○一九七五年八月十日、朝日新聞
「たかり横領千七百万円/漁協幹部五人も送検/チッソの『水俣病』漁業補償」
―熊本北署は当時の漁業補償交渉団体である水俣病対策委員会の幹部五人を業務横領の疑いで書類送検した。
送検されたのは特別委員会の副委員長で、現、龍ヶ岳、樋島漁協 桑原勝記(六〇)、龍ヶ岳大道漁協長、宮川秀義(六十一)<他三名略>ら五人。
―調べによると桑原は四十八年十二月二十二日頃、借金の返済にあてるために、竹崎を通じて補償金の中から百万円を横領したのを始め四回にわたり四百五十万円を、宮川は三回、五百七十万円をそれぞれ横領した疑い―」
(3-22)
三年一ヶ月後、その間公判のニュースはほとんどなく静かな裁判進行ののち判決をむかえた。
○一九七八年九月九日、熊本日日新聞
「五人に有罪判決、猶予つき/第三水俣病漁業補償の横領事件、熊本地裁」
―判決をうけたのは、△桑原勝記・懲役一年二ヶ月 △宮川秀義、同十ヶ月<他三被告略>
いずれも執行猶予三年(注、宮川氏は控訴ぜず、桑原氏は控訴するも一審判決通り、竹崎氏は分離裁判中でこれに入っていない)」
判決文は三十漁協の組織を次のように規定している。
「不知火海三十漁協(組合員六千人)は各組合長を委員とする不知火海水俣病対策特別委員会(三十人)と
その執行機関として実行委員会(十四人)を結成した。
―竹崎は両委員会の委員長、桑原は両委員会の副委員長、宮川は両委員会の委員で、実行委十四人にチッソとの要求交渉と、補償金受領の権限を委員されていた」
(3-23)
罪状は桑原の借金返済、宮川の養殖組合へ借金返済のためそれぞれ四百万、五百万を横領したとしている。
この金の性格について 同紙は「桑原ら五人は『実行委で決議されるなど、適法な手続きによる慰労金、謝礼金としてもらった』
と主張しているが竹沢裁判官は『実行委は執行機関であり、全組合員からなる対策特別委員会(注三十漁協長)の承認、決議が得られておらず、適法な手続きとはいえない』との判断を示した」となっている。
「しかし同裁判官は、すでに横領金を返済していることや、十分の反省が見られるとして五人に対し三年間の執行猶予をつけた」
以上が不知火海漁協幹部横領事件の顛末のあらましである。
(3-24)
第三有明水俣病事件に端を発した十四年ぶりの不知火海全域の漁民闘争であった。
そのひきがねとなった第三水俣病事件は翌七十四年「現時点ではシロ」有明海に水俣病患者ゼロと結着された。
熊大第二次研究班の報告は無に帰した。
魚の摂取量(安全基準)は猫の目のようにかわり、有明、不知火海の海域は水俣湾をのぞき安全基準が打ち出され、水俣湾内のヘドロ除去が日程にのぼった。
一九七三年は水俣病事件史の上で一九五九年(昭和三十四年)にそれに匹敵する画期、第三水俣病始末の年となった。
水俣の全市民的反撃をうけた不知火海三十漁協は国、県、チッソ、保守系の国会議員らあげての政治的結着にひきまわされながら難局においてたよったのは有力者であったようだ。
竹崎氏が県漁連会長となり、あとどのような動きを考えたかは分らない。
だが補償金を手にしてすっきりとした申し開きができない政治的な陰をのこしたことは確かであろう。
(3-25)
一九五九年、同氏、桑原氏、田中熊太郎(田浦漁協)の三氏が暴力罪として役に服し、多くの漁民が検挙寸前においやられ世上、”暴動”と評された。
そのみせしめの力は不知火海に長く機能した。
だが、彼らの英雄像もまた十四年の歳月の間、残り続け、再度、漁民と闘争のリーダーたらしめた。
誤解をおそれずに言えば、補償金を手にしてからの適法な手続きを欠いた金の授受は旧い漁協の体質上おこるべくして起こった”腐食”であったかも知れない。
だがそれに対し、一年半の内偵の結果、公権力は最低の罪名をもって幹部の一斉摘発にふみきった。
このときより、不知火海三十漁協の闘争の栄光は完膚なきまでに汚され、”英雄”は死んだのである。
水俣漁協はクリーンであったろうか、一九七三年十一月十七日朝日新聞は、水俣漁協長、松田市次郎氏を補償金の背任容疑で家宅捜索している。
同漁協を通じて津奈木漁協に支払われるべき四十万円を津奈木漁協参事某と山分けしたという些事を報じている。
(3-26)
そのためか、否かわからないが翌年、松田市之助は長い間の組合長を退陣、金子覚氏がこれに代わった。
新組合長の当面の問題は県のヘドロ処理にともなう新たな漁業補償の獲得であった。
竹崎氏や天草の桑原、宮川氏に対して司直が動き出している最中、一九七五年八月十二日、県の前回補償を上回る九億九千万円を呈示するが水俣漁協はこれを拒否、膠着状態に入る。
その間不知火海漁協幹部六人は起訴され、社会的に葬られる。
それを見届けてから、ということではないにしても、そのあと、十一月二十一日、県は水俣漁協との間に十六億九千万円(第三次水俣病の場合、総額四億円)の漁業補償をもってヘドロ処理にケリをつけた。
またしても水俣漁協の独り補償金を獲得していくことに対し、不知火海三十漁協より、何の発言もなし得なくなっていた。
(3-27)
桑原勝記氏にはじめて会ったのは一九七七年夏の巡海映画の折であった。
入口を酒屋むきに改造して商いを妻にやらせていたが、母屋は古い漁家のままである。
甚平をきてステテコのまま、冷やしラーメンをすすめながらとりとめない話からである。
魚価はほぼ回復していたが、この間裁判に痛めつけられ、仕事はうまくいっていないようだった。
心なしか陰をおとし、巨漢のまま面やつれしている風があった。
養殖を試みたが、まだ島をつなぐ樋島大橋の出来る前だったので、えさ代よりえさの運搬費がかさんでやめ、イリコ網をまたやろうかやるまいかと思案中であった。
80歳近い老母が這うようにして家の中におられたが「この下樋川部落でも毛髪水銀の検査では高い方だった」ということだった。
龍ヶ岳の町会議員歴二十年、樋島漁協二十五年、龍ヶ岳商工会議所議長二十年、彼の公の要職歴はほぼ水俣病発見後の時間と重なっていた。
(3-28)
「いろいろありましたが、もう今はチッソ会社を恨んではおりません。
水俣にとっても企業を全面的にこわすわけにもいかんでしょう。
むかしとくらべたらチッソもかわりましたな。
あんころ(一九五九年)は工場はわしらをなめとったもんです。
工場は嘘はひどかじゃった。
あの浄化設備の(注、一九五九年12月漁民闘争終息後)のことです。
『こんサーキュレーターは毒ばのこらずのぞく。不知火海に流すときはサイダーみたいなもんだ』
ほんとにそういって工場長がコップでのんでみせたもんだな。
それが嘘って裁判になったでしょうが。
こんど(一九七三年)の交渉のときは、まずそこんところをはっきりさせてから交渉にはいりましょうということでつめたでんすたい。
そしたら『あれはちがうものでした。水道の水ば呑んだ』と完全に自分の嘘ばみとめた。
十四年間の嘘ばみとめた。
会社はそこんことでは無条件降伏でしたな。
そいで今回はあれらも、誠意をみせようとしたわけでしょう。」
(3-29)
不知火海漁民闘争の要求に海の浄化が中心にあった。
サーキュレーター完成は闘いのむくいと思われた。
それが裏切られた。その○約は今は晴れたのだろうか。
「今はチッソも良心的になったと思うです。
汚物も流しちゃいけないという気になっとるしですね。
これ以上チッソをやっつけてやろうとう気持は失せましたな、やっぱり」
桑原氏の積年の水俣漁協への不信は前著でも触れたが、それは着工中のヘドロ処理への危惧にもつながっていた。
「いまのヘドロは爆弾をかかえているようなもんでしょうが。
わしらの眼からみりゃ、恋路島の外(湾)もあぶない。
水銀ヘドロが流れでとると思う。
水俣湾はおろか、津奈木湾ですらほじくられたくない気持です。
あの周辺の工事は、こっちの漁民はみな怖がっているのが本当でしょ。
わしゃせめて監視役に本当の漁民が入ってほしいと思うとる。
しかし水俣漁協にゃおらん。津奈木にもおらん。
(3-30)
津奈木は水俣漁協とつるんどる。
あん衆たちは補償金だけにたよって生きてきたじゃなかですか。
漁師じゃなか。背広の漁師、もう会社ゆきといっしょじゃなかですか。」
桑原勝記氏の話に、魚のうれないときの細部が出る。
この二十年余年間に、大きなパニックは二度、昭和三十年代前半と今回の昭和四十八年。
三十年代は患者がとびとびに発生するたびに出荷拒否されたり、買い叩かれたりしたという。
しかし、天草の魚はまだ比較的安全扱いされた。
水俣の鮮魚店が「水俣の魚は扱って居りません。当店のは八代、天草の魚を売っております」
という張り紙があるときいて、心中、感謝に耐えなかったという。
それで水俣市場には売りにいった。
「ここの漁師はみな困ったですよ。
ここん魚は水俣から泳いでさるくとはみんな知っとるもんな。
ボラ、太刀魚、スズキ、そやつらが、時期とか汐で寄ってくるですから。
(3-31)
そやつを獲って、有明海でとれたっていってもっていったもんです。
わしら自分で食ぶるとは、ここらの岩に棲んどる魚だけ、ボラのスズキのは喰わんじゃった。
じゃが漁師にゃほかの仕事はでけん。
ここは畑もない。
イモばっかりでは死んだ方がましじゃちゅうところで、そん苦しみを思えば最初の水俣病の補償金は右から左、楽した覚えはいっちょもありません。」
天草が補償金の配分に当たって、どのような地域格差に甘んじたかについて、昭和三十五年一月の県資料「水俣病漁業補償金内訳表」(天草)がある。
不知火海漁協(除く水俣)には前述のようにチッソから九千万円が支払われた。
水俣と地続きの隣接地域、津奈木、芦北、日奈久に至る九州本島六漁協五百六十戸で七千三百八万六千円、総額の八十一、二パーセントを割り振った。
天草は残る十八、二%、千六百九十一万四千円を十五漁協で分配している。
(3-32)
一つの町で漁協が二つと三つと旧村単位に分かれているためその数は細分されているが、町で言えば大矢野と松島、龍ヶ岳、倉岳、御所浦、栖本、本渡市(以上天草上島)、同じく下島新和町である。
戸数不明の町村があるために平均額は算定できないが、次の町毎のデータははっきりしている。
それによれば
姫戸漁協(一戸当たり平均)一万四千五百円
御所浦漁協(ゞ)一万五千円
嵐口漁協(ゞ)一万八千5百円
龍ヶ岳大道漁協(ゞ)一万八千円
龍ヶ岳日樋島漁協(ゞ)二万千三百円
ちなみに水俣の場合、一戸当たり平均、二十六万円、九州本島六漁協のそれは十三万五千円相当である。
当時の漁家の年間水揚げ高は一戸当たり平均、三十万円から五十万円
(芦北・島崎藤四郎供述書、色川大吉、研究ノート不知火海漁民暴動)であった。
水俣・九州本島部の補償額はそれなりに理解できる。
だが天草各漁協の補償金は闘争についやした日々の日当程度しかない。
(3-33)
その動員力と戦闘性から見ても、異常に不均等に思える。
三十四年までに、天草各地で、猫の狂死、浮漂死魚をみており、海の異変に不安を感じていた天草である。
漁民闘争にはじじばばまで参加し、若者の中から少なからぬ負傷者も生んでいた。
天草勢の大将桑原氏はじめ宮川氏の他多くの人が調印の三日後から暴動罪容疑で追求される最中でもあった。
何故この低率に甘んじたのであろうか。
あえて推測するならば、天草漁民が水俣病の汚染地図の中で、自らあえて一割分相当の微量汚染であると天草を分別したい気持が働いたからではなかったか。
「八代、天草の魚しか売っておりません」として、水俣市場や鮮魚店が天草の魚をひきとってくれたことは、天草を未汚染魚場として水俣周辺魚場とは一線を画していることを意味する。
それは海に生きる天草漁民の生命線を保つこともつながる。
そしてそれが必然的に「天草から水俣病の患者を出すな。出ても隠せ」という天草漁協(不知火海漁協九部会)の盟約づくりに帰結するものにもなったであろう。
(3ー34)
だが、この十数年の水俣病事件のなかで、すでに水俣病は「海を渡った」のである。
天草の水俣病患者発生をさめた眼で見据える人びとがいるのだ。
私は第二次不知火海漁民闘争において、三十漁協の補償金総額の決定に当たりなぜ百四十八億五千万円とはじきだしたかを知りたかった。
補償金の見積もりには複雑な計算法が近代補償手続きには介在するであろう。
その算出には時間もかかるであろう。
しかし、それは不知火海三十漁協の決起直前に妥結をみた水俣漁協の取得額、一戸平均二百七十万円に六千人近い不知火海漁民の数をかけたという単純極まる積算をもって事に臨んだとおもわれる。
この明々白々の計算こそ、水俣のビラ合戦が執拗に標的として弾劾したところであった。
「水俣ならいざ知らず、不知火海、天草にその要求は通じない」というものであった。
(3-35)
だが今にして思いあたる。
「水俣漁民だけが受難者ではない。
その被害の度合いが問題なのでなく、被害の有無とチッソの責任あるなしをはっきりしろ。
同じ難苦に同じ額では何が不思議か」と”水俣モンロー主義”にむつかって尻をまくった話にすぎない。
しかも”もはや患者のひとりも出ていない天草”ではなくなっていた。
御所浦町だけでも百名近い申請者がすでに出ていたのである。
天草の人びとがあえて身内の同族の患者をかくしつづけてまで漁を守り、一種の共通本能にまで凝固させてきた「反水俣病」の精神風土が足元からゆらいだとき、それまで、水俣の市場の”好意”を思い、水俣市の繁栄あっての漁民くらしを思い、暗々裏に貸し借りのバランスをとってきた自制心はうちこわれた。
「水俣漁民とビタ一文の差のない補償を」という意思表示は、チッソへの懲罰の意とともに、つねに悲劇を独占し、不知火海漁民との連帯を拒み続けた水俣漁協への批判でもあったろう。
(3-36)
この不条理に近い意思表示ゆえに、”オール水俣”への集中攻撃と、チッソへの経営者の論理の前にはひとたまりもないことは誰の眼にもあきらかだった。
水俣病事件史を永きにわたる漁業補償の歴史、金で換算する命の歴史とみるとき、元凶チッソならずとも一部の”水俣市民”と不知火海漁民との間にはプロとアマほどの差がついたし、それにもまして同じ被害民に対する分別、差別の思想は、水俣では”ニセ患者”キャンペーンの過程を通じ、いわば”負の完成度”にいたっており、その強靭な差別思想の前には不知火海漁民の一矢などなんの一触にも価しなかったのである。
一九七九年夏、私は二年ぶりに桑原勝記氏にあった。
その直前、上告審でも一審通りの有罪判決があったばかりである。
「わしゃ、もうつくづくいやになった。
人のためと思うて公務を二十年、三十年とやり、水俣病のことも人のためと思うて尽くしてきた。
(3-37)
それが裁かれるですもんなぁ。
その四十八年の漁民交渉のときも、三十四年のときも。
あんた、交渉ちゅうことにかけては漁民は情けなかです。
チッソによう物を言い切らんです、気ばかりせからしゅても。
そりゃひとりひとりは船の上では大将ですばってん、まとまって行動はいっちょう慣れとらん。
労働組合のなんのと違って、訓練されとらんでしょうが。
交渉の席できちんと話せるもんは何人しこおらん。
結局わしらが責任負うわけです。
こんども『目的達成のためには、なんの手段をとっても勝ち抜け』とが漁民の心じゃった。
金のことで、情けなかなぁ、経理に人をおいてピシャとやっとけば、こんなにもならなんだ。
わしゃ腹が煮えくり返る。」
私はあえて”横領事件”に触れるつもりはなかったが、氏から堰を切ったように述懐されるのだった。
「あん工場封鎖のとき、なにが怕いって、右翼と暴力団のテロが一番怕かったもんな。
(3-38)
警察は手出しせんと思うとった、会社のやつ(新労)が実力行使をするとも考えなかった、わしは内部をぴしゃっと統一しとったからな。
しかし、暴力団は別、これはすざまじかったですよ。
テントに糞は投げ込む、宣伝カーをとめて喚きちらす。
そして電話で『お前らの二、三人は殺す』とか『座り込みテントにダイナマイトぶっつくる』とか
『今夜、二十人ぐらい命知らずの若いもんを出してくるる』
それが夜中の三時四時まで。
わしの家にまでかけてくる。
女房は震えて気の狂うばかし。そん脅迫は。おうてみんものにゃ分らん。こやつらは警察はこわがらんのじゃから」偉丈夫の貫禄はあいも変らなかった。が、思い出しても辛い日夜だったようだ。
「わしは熊本のやつらの親分に会い、話をつけようと思っていった。
これはわしひとりで背負ったもんな。ウラのすじの話じゃ。
会ったら『金を出せ』という。
そん時はまだ補償金は下りとりゃせん。
しかし金を払わにゃ何しでかすか分らんちゅうことで、わしがよそから金ばかりて、借金ですたい、そいで五十万円渡した。
(3-39)
それで暴力団はどにかこにか手を引いたんですよ。
それがあとで警察で問題になってな『渡した相手を言え』ちゅ。
『わしゃ死んでもそれだけは言えん』という。
その仕返しに何をするか分らん奴じゃということはわししか知らん。
…警察の衆がいうた
『あんたそれだけ腕っ節がつよかとに何が恐くて言いきらんか』と。
わしはいうた
『わしの腕っぷしで済むとなら、金で解決もせんじゃった。あんたらも分っとろうが、相手がどんなやくざか』
そいで裁判の終わるまで、そやつの名は言わんじゃった。
検察は『言わんなら仕様なか。おまえが暴力団おさえに金を使うことは認めならん。それは横領ちゅうことじゃ』ちゅう。
そこんとこをどうにも認めんかった。
こんことは、他の漁協の大将らは知っとる。しかし証言はしてくれんじゃった。
(3-40)
…漁民のためにと思うてやっても、みんなが喜ぶとはかぎらん。
悪くとるひともおる。
結局馬鹿をみたちゅうことになる。
わしゃこん年になってもうこりごりちゅう気持を、生まれてはじめて味わいました。』
氏の言う五十年と判決にみる数百万円のちがいはいまはさておき、六人の被告のうち、彼一人上告しょうとした争点のかなめはおのれの侠気を認めよという一事につきるように思われた。
それが歯牙にもけられず、また仲間の証言も得られなかったことで、氏は心に深手の傷を負ったようだ。
「こん樋島、下樋川というところは漁業しかない。
漁業をぬいたらゼロというところですよ。
だから前の水俣病騒動のあと、思い切って五トン船をつくって外洋(そとうみ)へ出た。
ここだけでしょう。外に活路を求めたつは。
あと十九トン船に切りかえ、八パイ(隻)沖縄に出しとる。
最近五十九トンの新造船をつくって南洋までマグロとりにいかせとる。
(3-41)
一億何千万円ってかかった。
これは日本じゅう、どこに出しても恥かしくない船です。
あん、むかいの高戸(漁協)みてみんさい。
なん人漁だけで喰っとるもんがおるか。
百二十人の組合員があるちゅうても、いま本当に漁師は二十人か三十人おればいいとこでしょうもん。
樋島はちがう。
このマグロ船いれて外洋だけでも五、六十人は稼げとる。」
下樋川百四十戸、漁船百二十隻、ここほど漁業専業者の多いところは御所浦の外ない。
それだけに漁業改善事業の資金を眼一杯かりて外洋へのみちを拓いた。
そこには若者が乗り込んだ。
しかし部落に残る多くは漁業近代化の波にものれず、零細の漁業をつづけていた。
「わしには夢があった。補償金をもらったら、なにか皆でやれる新しい漁業を考えとった。
今度の漁民闘争でもらった金は一軒一軒じゃなんもでけん金です。
(3-42)
一番船(水揚げ高のトップの船)で五十万円、あと三十万平均、なかには二十万円というのもおる。
しかしわづかでも、その何割かづつ、みんなで出しおおて、設備にのこそう、
稚魚孵化場とか養殖場を作ろうって提案もしたですたい。
ふたり三人はついてくる。しかしあとの人は金をださん。
わしも漁民、わしは漁民自体を批判するわけじゃないが、漁民がほんとうに魚でごはんたべてくちう気持があるんかないんか。
今日のことだけでなく、将来も、子や孫の代まで漁民で暮らしをたてていく気持があるんかないんか。
そこんとこが分らん。
組合員のわしが漁民の心が分らんちゅうのも情けない話じゃが、何かが変わってしもた。」
桑原氏の心の揺れ動きは、私にはショックだった。
村の長、漁民の大将としての自信が根底からゆらいでいるように思えた。
そして、ごく一年ほど前から、漁とは別の事業に参加していた。
壱岐沖の深さ六十メートルの海底の砂を吸い上げ、土木工事の事業の砂として販売する企業である。
(3-43)
好調らしく、そのため多忙を極め、漁協組合長の席の温まるいとまもないほどに見受けられた。
氏自身、半ば漁師から脱しつつあるのだった。
「わし自身、なんども組合をつくり直そうと思うとりました。
今組合員が2百何十人かいるが、百人でもいい、かりに八十人になっても、それで固まって漁師の生きる道を一生懸命探した方がいいと思っとる。
今でもそん気持はあります。
そん信念はそうじゃが、ついてくるものは少ない。
その日暮らし。天草に何人かな、ほんとうに”組合長”らしかひとは、大道(龍ヶ岳)の宮川(秀義)君以外、あとは誰がおるか。
かっての仲間も信用でけん。
自分のとこの漁民の気持もわからん。
漁民はダメになった。
そういう気持になってはいけないんだけれども、もうあたりさわりなしになりがちで遣り甲斐が見当らんとです」
話題をかえてみた。父親も母親も水俣病だったとひそかに思う氏である。
(3-44)
ここ下樋川に病む老人がそこここにいる。
水俣病かくしの土地とはいえ、氏自身は醒めた眼で水俣病患者の命運を見ている気がした。
水俣で患者さんの中に検討されている国家賠償のことを話してみた。
「国家賠償ですか。そりゃ、国に責任はあっとです。
あれだけ人を殺すまで放といたとですから。
気持をうごかす人もあるでしょう。
しかし指導者は実際上、もういやでしょう。
漁民のためということでやってきて、あとでひどい目にあう。
わしはもういやじゃちゅう、こうした気持からぬけでられんとですよ。」
桑原勝記氏の言葉のはしはしに、かっての朋友の裏切り、背信を怒り悲しむ調子があった。
さらに身内の漁師への絶望があった。
そして彼自身、その”正業”はほぼ海底の砂の採集業者に変わりつつある。
一代限りの漁師ではなく子々孫々まで漁のできる途をいま残さねばという夢は、ここ数年の出来事によって、うち側から破れていた。
もはや不知火海の漁民の先頭に立つ氏の姿はみられないであろう。
一つの時代の終わりなのであろうか。
(3-45)
私は世にいうところの”横領”を無視するつもりはない。
新聞などで報じられる”罪状”を見ながら暗澹たる思いもした。
だが一方「そのぐらいのことで彼らを地べたに這いずりまわすのか」といった気持もあった。
そこに公権力の策を疑うからだ。
同時に一漁民あたり数十万円の分配しかない補償金をめぐって、漁協幹部が、どのように百万円単位の金額の裁量ができたのかは別口の疑問としてあった。
あくる日 私は龍ヶ岳町大道、池ノ浦に宮川秀義大道組合長を十年ぶりにたづねた。
もう六十五歳になる。
往年の精悍さは老いのなかに失せていた。
(3-46)
漁家には珍しく大きな書架があり、漁業法規や六法全書ほか漁業関係ばかりでなく文学書もあり。
漁民社会では読書家でありインテリとして、その事務的才腕を頼りにされたこともうなずけた。
一審判決に服し、執行猶予の身であったが、その村での生活は何の変動もないようであった。
その落着きをたよりに、あえて”横領”の事実を闘争の出だしから辿って聞いてみた。
「水俣病の裁判が決着っ決まりましたわなぁ。
四十八年三月ですか。
あの裁判で患者とチッソとの最初の取り決め(昭和三十四年の見舞い金契約)が無効というか、ご破算になったでしょ。
当時わしらの交渉にもあったんです。
会社は「将来、汚染原因がチッソにあるとなったとしても、新たな補償はもとめない」という一札が入っとったんですよ。
ですから、裁判がああはっきりしたもんですから、私たちも当然、あのときさしいれられた話は反古になったと一応思いましたな。
そうしとるうちに第三水俣病ですか。
あれは今までに一番苦しかったですな。
(3-47)
全然売れない期間が(指おりながら)二、三、五ヶ月つづいたんですから。
牛深まで影響をうけましたよ。」
ここ池浦の主力は一本釣、漁場は大多尾沖から牛深にかけての八幡瀬戸であった。
水俣、八代、天草の本渡の各市場の買い叩きは激しかったので牛深市場にあげたが、ここでも半値、四分の一と叩かれたという。
「ご承知のように、こんどの闘争のなかで横領事件がおきました。
私もそれにひっかかって、一漁民からも批難をうけました。
あの原因は、ひとつは謝礼金、慰労金ちゅうか、そういう金からあんな問題が出てきたんです。」
「あんだけ永びいた闘争でしょう(注、前後五ヶ月)頭からしまいまで、あん交渉にかかりっきりの専門の人(実行委員メンバー十四人)にあとで慰労金を出すちゅうことは決めておったんです。
どの組織?。うん、まず三十漁協の組合長で水俣病対策特別委員会をつくっていました。
三十漁協、三十人のメンバーで。
そん中から十数名で、実行委員会つまり執行部みたいなものをつくって交渉はすべてそこでやっとったわけです。
(3-48)
そこで闘争の終わり頃、三十漁協代表の対策委で、慰労金の総枠を5千万円ということを決めとったんです。
それが今度の問題の端緒なんです。
それが裁判では『慰労金を決めとったのは実行委の内部だけのことで、対策委でじゃ決めておらんだろう。いや決めとる。』
それが争点になったわけです。
しかし、対策委員会の議事録には『慰労金これこれと公に書いて出すのもどうかな』ちゅうことで残っておらんわけ。
しかし三十漁協全員、慰労金のことは知っとる。だから一応金額も、五千万円出したことは決算書に残っとるわけ」
宮川氏の話は淡々たるものだった。
頭に立つものが慰労され、謝礼の形で金をうけとるのは漁協内部の慣行であったようだ。
「実は、あの実行委員会で、内輪のこととして二十人あまり前借りしとったんです。
わしも当時、ハマチの養殖の餌代に困って、百万円の借用証書を書いて借りとった。
(3-49)
ほかにも、病院の入院代に困っているとかいろいろあって、そんなかで委員長(注竹崎氏)が前借りしとった部分が相当あって、それが先ずひっかかった。
そこで対策委員会(三十漁協)の総会を開いて『一応白紙にもどそう』ということで前借りはぜんぶ返してもろたわけ。
私も五百万円つくって返しました。
しかし世論はきつかです。
私も”一番幹部”だちゅうことで横領です。
しかしわたしは控訴しなかった。
なんちゅうても漁民が勝ちとった補償金ですから、漁民そのものから非常に不信をかったわけです。
一旦新聞でパアッとでると、あとの理屈や弁解は立てきらんですもんな」
欲得もない枯れた物のいいようだった。
借金もかえし、刑に服すことで償いもしたという弁明の趣すらなかった。
もめごとの解決にあたった人にいくばくの謝金、慰労金を出すという旧い慣行があった。
それに甘えた。そして罰せられた。
時代は変わったのだといった境地なのだろうか。
(3-50)
第一次不知火海漁民闘争以来、天草の知恵者といわれたリーダーは「もう私のことは、これで何もかも終わりましたわけ」という。
海に開かれたぬれ縁から、盆帰りの孫を抱いて海の鳥を眺めさせていた。
いまこの池浦には若者は四、五人しかいないという。
一本釣漁師たちも老い、このかいわいで一番の出稼ぎ部落となっていた。
にもせよ、この宮川氏は美しい風貌で老いつつあった。
海辺での風雪は悩み多かるべき人を、かくも柔らかげになごませるものであろうか。
昭和三十四年、ついで昭和四十八年、二回の不知火海漁民闘争を、この天草の地から背負って立った
二人の旧指導者の話を書きとめたのは、水俣病事件の中で横領罪として抹殺されようとしているからである。
そしてこのスキャンダルはふたりを確実に過去の人とした。
いまふたりと袂を別っている竹崎正巳氏にしても芦北漁協組合長を退いた。
「芦北高等農業学校に水産科を新設して、後継者をのこす教育をしたい」と在任中に抱負を語っていたが、それは今も変わらない目標として活動しておられると聞く。
三氏のあと、不知火海沿岸に次なるリーダーはどこからどのように登場するであろうか、登場しうるであろうか。
不知火海の大規模汚染、その漁場破壊と人体被害ゆえに結集し血盟した領袖たちは同じ闘争の結果、相憎み、不信しあう形で別れた。
そしてともに、信ずべき漁師像をもち得ていない。
この二十年、全国各地の漁業は企業化し、外洋化し、二百マイル問題を惹き起こす大きな近代化のひとうねりを閲してきた。
たしかに不知火海の大半は旧体質のままとりのこされた。
竹崎氏も桑原氏もこの闘争で漁業の構造的な改良を期待した。
漁業の再生の夢をもっていた。
だがそれはチッソという外因だけではなく、漁民社会の諸矛盾、内部の病因のよっても破れた。
「漁民は変わった」という。その桑原氏の観察は、いま不知火海にどのような形で進行しているのであろうか。