第4章 不知火海の“時間”とは ノート <1982年(昭57)>
第4章 不知火海の”時間”とは

『海とお月さまたち』

(4-1)原稿用紙番号
不知火海の中で、もっとも変わらない漁村をあげよといわれたら、私は八幡瀬戸に面する旧深海村、現牛深市深海町を挙げる。

そのメルクマールは漁法の守り方、残り方にある。

その点、エビ、カレイ、シャコなど潟(沼地、砂地)に棲む魚をとる芦北、計石の打瀬漁、カタクチイワシを地曳、まきあぐり網でとる御所浦島の三島(御所浦本島、横浦島、牧島)とタイ、フグをとる一本釣りの深海を思い出す。

戦後間もなくまで、各漁村はいうに及ばず水俣にもそのすべてがあった。
しかし、激減ないし全滅した漁法もある。
地の利、地先の海の特性に左右されたことが大きい原因かもしれない。

漁師にとって原点は一本釣りである。
網は魚との対し方ではフェアではないとう気骨がある。

深海は現状、その一本釣りで生計を立てているむらとして、つよい興味を抱いていた。
たまたま日本記録映画研究所(代表茂木正年氏)からたまたま子ども向けの企画をたのまれ、即座に、一本釣り漁師の世界を描く気になり、『海とお月さまたち』と題する映画を考えた。

(4-2)
お月さまたちたちとは、一つの月を新月、三日月、半月、満月のみちとかけとさまざまに形をかえる月を複数にみたてたものである。

その月の変化が汐の勢いをかえ、魚の生活を支配している。
人間はそのお月さまの暦を体得して、魚をとっている。
そうした自然との共生の世界を描くものであった。

その舞台に深海を選び五ヶ月間、下宿住いをして留ることが出来た。
しかしこの映画のなかでは水俣病はとりあげなかった。
それは後日に託し、漁業、漁法と生活を、うまれてはじめて、子供むきのメルヘンとして描くことにした。

深海といえば水俣から直線距離で二十六キロメートルへだたる。
その間、離れ島がいくつもへだて、水俣灘の汐の一部は、その島々の間の狭い瀬戸(元の尻、目吹、伊唐)をへて深海の前の八幡瀬戸をへて牛深市沖で東シナ海につながる。
一九五九年の疫学調査によれば、深海以遠の牛深で高水銀に冒されたネコが発見されているものの、深海は一九五九年、七十三年の二度の不知火海漁民闘争のつねに圏外に身をおいていた。

(4-3)
とくに後者のときは、岬ひとつへだてた河浦町、宮野河内漁協までが、いわゆる不知火海三十漁協に連判した(五十九年のときは新和町大多尾漁協までであった。)にもかかわらず、この深海で不参加の一線が劃された。

「深海の鯛」とよばれる名門の漁村である。
潮流河のように流れる魚場をもつここは、内海に連なりながらも、不知火海の汚染をわがこととしなかった。

そのことが私にはかってありえた不知火海漁民の生活と意識を色濃く残す漁村におもわれ、心惹かれていた。

七十七年、私はこの地で、ほぼ南限の巡海映画会をもち、水俣病映画をみせ、この地を含む水銀汚染の可能性について解説した。

参会者は多く、皆少なからぬショックをうけた。
しかし現地でショックを受けたのは私達巡海映画映画班だった。

(4-4)
一之瀬正史、小池征人君らはビラ配りの各戸訪問で胎児性様のふたりの兄弟の病臥する一家に遭った。

一九六五年頃、飼い猫が盲いた上に、温度感覚を失ったのか囲炉裏にころげこんでは火傷を負ったこと、その家の老人(子供たちの祖父)が歩行困難におちいり、難儀し、神経病として亡くなった事と結んで活字にして報告した
(一九七八年三月『展望』)

そしてこの掲載誌を地元有力者に送り、私のよってもってたつ立場をあきらかにしていた。

深海漁協長、浜下喜久男氏は私たちロケ隊の応接に迷ったようだ。
一旦協力の約束をして二日後、あらためてこう申し出られた。

「わしらあんたらを信用しとるばってん、こういうことはひとりでは決められんし、水俣病のことはうるさかじゃっで、牛深市の教育委員会にも聞いたですばい。

そこで、まぁよかが、深海の鯛を撮るちいいなさるなら宣伝にもなるちゅうことで。
まあひとつ、県庁にも電話したですたい、ほんなこて。

(4-5)
そしたら『あん人たちのことは信用してよかばい。協力してやんなっせ』といわるる。
気を揉んでいやしたが安心したわけです」

この間、あれこれと気に病んだ後の決心といった面持ちで「そうとなれば、あん健康な子供だけじゃなく、な、あん可愛そうな子供(胎児性の兄弟)もきちんと撮んなっせ。
これも深海の子じゃもんな」

あの子だけは撮るなといわれて当然と思われるのに、これは以外であった。

「…どこんでん不幸のもののおる。こん深海にゃ、むかし疱瘡が流行ったときな、あん下馬刀島(無人の小島)に流したちゅうこともあっとです。

生きとるものを島にうち捨てたですたいな。そんな悲しい話もあっとですよ。
あん子が水俣病じゃあとはわしらは思っとらんですよ。
思っとらんばってん、元気な子のかげに、可愛そうな子もいるちゅうことをとりあげんば。
それも深海の一面じゃけんな」

(4-6)
深海町は牛深市制のしかれた一九五四年に旧深海町から市に編入された。
下平、深海、浅海の三集落よりなる。
世帯数六百五十三戸人口二千六百八十二人。女性の方がやや多い。
うち漁家百六経営体、百七十一家族が漁業に従事している。

その漁家の百%が一本釣りを基盤としている漁法別分類によれば「自由漁業」である。

なわはえとともにどこに出漁してもよい特権をもつ。

その自由漁業をベースに、養殖漁業や吾智網、たこつぼなどの許可漁業が複合されている。

この一本釣り一色の漁業形態は外洋漁業基地の牛深市のそれとも、内海漁民の多様な漁法で保ち合っている漁村のそれとも趣を異にしている。

つまり”深海の鯛つり”として名を近隣にひびかせている一本釣りのむらなのである。

いまはフグ漁が盛んになってはいるものの、一本釣りであることにおいて変わらない。

(4-7)
何故でしょうと漁民に聞くと

「さあて。一本釣りだけで暮らしてこれたからでしょうな。
なにせ漁場が目ん前ですけん。
他の品物で魚を獲らんでも、一本釣りでとれるもんですけん」といった言葉しか返ってこない。

深海町のなかの船津部落(百三十七戸、五百六十人)に漁師の家がかたまっている。
ここは千七百年代(正徳年間)より定浦として漁業をみとめられた天草二十四ヶ浦のひとつである。

天草の漁民はこの定浦制度によれば「代官所に公便船などの舸子役(かこ)(水夫役)を提供し漁方運上(税)を納入するみかえりに、漁業をいとなむ特権を交付され、代官所の保護下、他村の地先まで、漁場の範囲を自由に拡張できた…船津の人びとは同じ村のなかでも、農業にたずさわる人びととはちがった生活環境のなかにおかれていた。

漁民はもちろん村民にちがいないから庄屋の年寄りの支配を受ける。

(4-8)
農業部落の百姓代にあたるものとして、船津組頭とか浦総代とかよばれるものがいた。
(一方定浦制度では古くから、弁指しをいう選挙制、任期一年の管理者がおかれ、その総弁指は世襲制で富岡の中本家が継承していた)

つまり漁民は船津~村~組という形で一般の村方支配に属している。
と同時に漁民は弁指の統率を受けた。

…漁民は総弁指~浦弁指という形で生活を支配された。

しかし一方では、こういう支配の形に服することによって漁場を確保し、自分の権利を守ることが出来た。」

(九州農政局編、熊本の農村統計協会編『天草の漁業―漁業史と近年の漁業動向、昭和五十年九月刊)

天草の漁村を知るにはこの天領時代の定浦制度を頭におかないと分らないところがある。

明治二十六年天草漁業組合の設立まで慣行として生きていたといわれる。

これによれば離農をふせぎ農民を農業に専ら従事させる天領時代の統治政策上、漁民に漁業権を与える一方、漁船による農民の逃散を防ぐという思惑もあったといわれる。

(4-9)
したがって「定浦以外のむらには漁民が皆無ということになり村民は目の前の魚族の宝庫を見ながらも漁業に従事できなかったのである。
ただ肥料用海草採取や婦女子による貝堀が許されるだけであった。」

海に近いむらなら当然古くから半農半漁であったろうという通念はこの天草では異なる。

キリシタンによる島原の乱(一六三八年)より原の篭城に参加し全滅した天草勢一万二千二百八人その他逃散者行方不明者が多く、天草島民は半減し全島五千人あまりまでにあったといわれ、初代代官は近国からの移民を求め、半ば強制的に農民を島に住まわせたといわれる。

その農民たちから漁業を奪うために、定浦制度が作られたようだ。
離島ゆえ交通手段は舟しかない。
その舟の公用便船の労力提供者の漁民を大庄屋と総弁指の二つの系統で支配した。

一方、海に面した百姓は農産物だけでくえぬため、漁農分離の法をおかして、”作間漁師となり””百姓網”をはじめ、定浦漁民としばしば争うようになった。

(4-10)
眼前の海が、地元漁民のものとなるのは明治維新であってはじめて可能であったという。

それまで定浦の漁民は百姓の逃散防止役という、他の不知火海九州本島沿岸の漁民にはない支配体制末端の役割をになわされる一方、その支配者の保護下に魚場を確保し生活権を守ってきた。

「定浦の弁指と漁民、また網元と網子との関係はすこぶるあつく、ある時は主従の如く、ある時は親子の如くであったという。

弁指は配下漁民の婚姻、葬式などの世話から、沖で遭難した漁夫の未亡人には再婚、遺児には独立の面倒までみてやるのがつねであった」
(前掲書)

ちなみに天草の二十四ヶ浦(定浦)のなかで不知火海沿岸は次の15漁村であった。

(4-11)
〔上島〕二間戸、姫戸、樋島、高戸、大道(龍ヶ岳町)、棚底、宮田(倉岳町)、湯舟原(栖本町)、御所浦(御所浦町)

〔下島〕樋浦(本渡市)大多尾、中田(新和町)宮野河内(河浦町)深海、久玉、牛深(牛深市)

これはそのまま戦争までつづいた旧村の漁協の母胎として完璧に重複している。
天草の各漁村にのこる船津とよばれる一画は色濃く弁指以来の漁家集落の形をのこしているのである。

水俣病の多発地帯の漁家集落は天草漁民にそのルーツをもつ人たちがほとんどである。

その人びとの気質、習俗に 天草漁民の定浦の影がどこかにないとは言えない。
そして深海からも少なからぬ人たちが水俣に出卿した。

出月の浜元二徳、フミヨ姉弟も父も、ここの生まれのひとである。
水俣がよいの便船も古くから水俣航路として1ルートを保ってきている。

やや定浦制度とその名残に低数を要した。
再び深海にもどる、深海町深海の船津こそ定浦時代からの漁師町である。

町内の下平、浅海両集落も、いまでこそ船溜まりもあり、漁港整備によるコンクリート護岸に漁船がみられるが百姓網から生まれた海村であり、いわゆる漁家集落ではない。だが一本釣りであることは変わりないのだ。

(4-12)
すぐとなりの旧定浦、河浦町、宮野河内はわずか数キロ北にかかわらず、刺網、双手キンチャク(イワシ網)吾智網、タコ壷といった漁法に分れ、一本釣りの生活がかかるといった構造にない。

同じ漁期、同じく八幡瀬戸にむらがりあつまる一本釣りの大船団のかたまりを分解すれば、やはり主力は深海の漁船団である。
ついで大多尾(新和町)、御所浦、そして上島ふくめ各定浦のなかの遠征組であるが、全村あげての出漁ではない。
深海の漁師にとっても一本釣りのライバルは気の荒いことで知られる太多尾の漁師たちだった。

牛深市に編入されているとはいえ、深海にとっては、やはり”牛深・久宝”の衆である他所の漁師なのだ。

(4-13)
牛深が東シナ海に面し、そこを根城に北上、南下する。
種子島、屋久島(略してタネヤク)方面、鹿児島県甑島(こしきしま)島沖、そして長崎五島方面である。

漁船の大きさは一目で違う。
深海の船がせいぜい三から四トンどまりに比べ、牛深のそれは最新鋭のマキ網船六十トン。

その九〇隻あまりを筆頭に、十トン前後の外洋操業型の巨船がひしめいている。
だがこれらは深海にとってのライバルではない。
漁場が内海、外洋と異なるからだ。

牛深市場の仲買いに訊けば
「牛深じゃ、一本釣のごつ手間のかかる、こまい(小さい)漁するもんはおらんたぁもんね」と相手にすらされていない。
日本の主要漁業基地のひとつの自負の声であろう。

むしろ深海の”敵手”は、同じ漁場を分かちながら、網で底曳く長島や獅子島(ともに鹿児島県)の小型マキ網、吾智網船なのである
(これについてはのちにふれる)
つまり深海は一本釣に固執する点で、最も本質的なところで変わっていない漁村の例であり、そこでの変貌の質とデイテールは全不知火海の問題点をくっきり目立たせるものであるだろう。

(4-14)
冒頭のべたように、水俣病事件に一触もしなかった深海について”一本釣の誇り高い根性”と即断していた
私は現実に深海の人びとと話すにつれ、早のみこみを恥じる気持になった。

根性についてのみ言うなら、網漁や仕掛けに投資した漁民の方がやる気充分で殺気だってすらいる。

同じ自由漁業でどこでもやれる延縄ですら、何千メートルのなわをのべるとなれば、縄のロスをおそれ、一段と寧猛なつらがまえになる。

ある日、不知火海漁民闘争となぜかかわらなかったのかと浜下組合長に聞いた。
返事は拍子抜けするほどのんびりしていた。

「水俣は遠かでしょう。
水俣の灘にいくものはここには居らんし、皆地先の海で釣るとじゃもんで。
水銀に鯛は関係なかもんな。
鯛だけは水銀騒ぎのあったちゃ、値段の一円と下がらんですもんな。

不知火海漁民騒動のときも、ここにゃなんの話もなかったですばい。
となりの宮野河内は自分の方でかたらせてくれろって頼んだっち聞いとるでなぁ。

あすこは網でんなんでん公海ならばどこでん。獅子島のむこうさ(水俣灘)までいきますからな。
多少影響があるちゅうことでかたったじゃなかですか」とさり気ない。

(4-15)
何故鯛は一円も下がらなかったかと聞くと「鯛は外洋から上って(北上して)産卵がすめばまた下がるとです。

わしらはそん品物を獲るわけですたいなぁ。
泳いでさるく鯛にはまず水銀はかかっとらんじゃろちゅうことで鯛だけは別じゃった。

こん辺でも他の魚はたたたかれですばい。
フグもおんなし。
ここは何ちっても鯛、フグの一本釣で喰うとるとこでしょう。
わしらが水俣にかかれば、じゃ鯛はどげんなとかえって疑われるでしょうが。

補償金をすこしばかしもらったっちゃ、鯛の値段の下がったりすれば、その方が痛かもんなそれでだあれもこん辺のものは水俣病にかたろうとする者はおらんじゃった。」

(4-16)
水俣を知っている人は少なかった。
さきの深海の出身の水俣、出月の患者家族、浜元一家の全員水俣病による全滅の話は知られていた。
船津では浜元姓はめだった。

いま水俣と深海は高速船ガルーダ号できっちり一時間。
以前ですら、上等の生活用品は水俣からはこばれ、買い物にいくにも水俣へいっていた。
そこの衣屋や水光社(ともにスーパー)の名には親しみがあった。
また急患の病人がでれば一直線に旧日窒(チッソの前称)の付属病院に船で運んだという。

「あん衆たちや、水俣さに行かんば、あんな難儀に遭われんですんだものを」といった憐れみの節も聞かれるのである。
それがまた深海のよいとこにも転する。
「こん町をどげんと思われるですか。
わしらが言うたちゃぁあれですばってん、みんな人のよかでしょう。

(4-17)
子供も見てみなっせ、いまどき珍らしかほど純朴でしょうが。
家に鍵かけるもんはいませんよ。
バスの通うごっなってから駐在(巡査)のすこしは戸締りについてうるさく言うですばってんが。」

駐在いらずの村のといいたいのだ。
今年になって二十九歳の若い駐在が一家で移ってきた。
カラフルなマイカーをもち、都会風の妻君と、標準語に近いことばを喋る坊やといったニューファミリーである。

年寄りは半ばあきれ顔で、「こん部落にゃ定年間際のおまわりでよか。
これからという前途ある若いおまわりの来てどげんする。

ひまでひまで釣じゃいろ、ドライブじゃいろしとるのみれば、若いうちは鍛えんといけんのに、のんびりしとって、ぼけてしもて。
あれじゃ出世もしきらんこつになるとになぁ」

そこには平和な村に対する自信が深くあるのだ。
電気の早く通電したのが語り草の深海だが、テレビは万博の頃に普及した。
そこで水俣病の報道をはじめて見た。

(4-18)
それにつけ、出卿の人がいたましく、かえりみて、むらの安らぎが思われた。
それだけに水俣病の話は対岸の火事であった。

水俣病を知る眼で見れば、年不相応に体の不自由な老人が船津には目立つ。
海べりの縁側や波止場に一日中うずくまっている。

聞けば六十歳代、「脳障害で足がまわらず足がなえたという。」
脳卒中によくある脳の片側をやられてなる片麻痺ではなく両側性、つまり両手、両足の運動麻痺と失調であった。

なにげなく年齢をきくと、むせるように泣きだす。
現役の漁師としてまだ働ける年である。

むかしの小学校の同級生たちが、一人前に魚とりで立っているのにくらべ、我が身のふがいなさに耐えんといって、悔しみを眼いっぱいに浮かべるのだ。どの病者もそうだった。

漁家集落はこの村でどんな位置におかれているのか。
農家出身で元漁協参事だった鶴長千秋さんはこう解く。

(4-19)
「家のごちゃごちゃ寄りあっとるでしょうが船津は、津ちゅうとは船の集まるところという意味ですたいね。
家の寄り方も同じ、しきりがなかでしょうが。
百姓んとは、まわりにこまかでも畑があって、しきりがあって、となりと並びおうとるですもんな。
ひとつ村で家のたたずまいで漁師と百姓の部落は一目で分るようになっとるですよ」

彼は元海軍将校のインテリ、戦後帰郷し、数年して海上自衛隊につとめ、八年前に定年退職しただけに”よそもの”のようにわが村を鳥瞰する眼をもった人である。
その彼も農家部落の多々良出身のものであることを話の節ごとにことわるのだった。

深海地区、バス亭ふたつぶんの海沿いの集落(三百三十八戸、千三百二十人)のなかにも農家と漁家は区分されていた。
そして農家の方が格段と上のようだった。

「うちのひい爺さんのはなしして聞かせたが、明治の頃までは、農家のものが通れば、漁師は土下座して通り過ぎるのに道あけたちゅですね。

(4-20)
わしの父の頃でも、農家から漁師にゃ嫁にゃやるなと言われよった。
漁師の女っごをもらうのは良かです。
農家の女子を漁師にやるのは嫌った風でしたな。

むらの行事にしても農家だけでやって、漁師の衆にはかたらんじゃった。

たとえば十月は神無月でしょう。
神様の出雲にいかす月ですもんな。

それで神わたしといって一晩じゅう神社で太鼓ばたたいて神をおくる、またお迎えする、そうした行事にも、よそもの漁師は入れんかったですもんな。」

この博覧強記の人によれば、船津以外の字名はすべて百姓しごとの名残りという。

多々良はたたら、つまり村鍛冶のあったところ、六郎次山(海抜四百五メートル)はろくろであり陶石の山でもあるという。

では漁師はその昔、どこから来たか
「多分。むかしですが、山から下りてきたり、薩摩からのもんと思うですたいな。

(4-21)
浜元の元は熊本では浜本と書くでしょうが、苗字のモトを元と書くとは薩摩ですもんな」

つまりよそものの流れという。
その身分差は厳然としていた例として「加勢どり」という旧正月の行事がある。

青年がわかめ一束、魚をもって家々の門口に立ち、柏手をうって詣で、餅をうけとるといった若衆宿のならわしももとはといえば、魚家のものが糧をうるために、農家の門口に魚を黙っておき、かしわ手をうってわきに佇むと、農家のひとは、魚をとり、かわりに餅をおく。
それを漁家のひとはもち帰って糧としてたという。

一種の物々交換ながら、ことばを交わして、やりとりするという対の関係はなかったという。(西山正啓取材ノート)

深海のもと村役場、現市役所出張所の中村譲所長に「村の有力者は。市会議員はどの階層出身か」とたずねたことがある。

漁民の町であれば、漁民出身議員のいるはずと思いこんでいたが、この深海地区の代表の四名の市会議員のことごとくが農業者で占められていた。

(4-22)
漁民分離の天草の支配図を見る気がした。
歴史的差別といっては大仰に過ぎるが意識に深く残るものに思える。

それを水俣の漁村の水俣病患者像を重ねてみるのは無謀であろうか。
天草沿岸の漁村、海村から新天地水俣をめざし、水俣湾ぞいに漁家を興した人びとが、いまの水俣漁民に多い。
二代三代を遡れば多くの天草の浦々につながる。

その水俣漁民が身にあらわれた奇病、一家に出現した神経どん(神経病の謂い)にどんなにいわれないほどの羞恥をもって水俣の陸の市民に対したか。

そのみぐるしさをかくし、身をひそめるように漁家にかくれたか。
業病といわれるものは天草にもあった。
その業病の始末について天草では、浜下組合長の語るように生きながら島にうち棄てる風習もあったのである。

(4-23)
また棄てられる人も、それを業として受ける宿命観もまたあったであろう。

とりわけ『馬刀哀話(岡崎宗賀市民)』として、深海町の社会科の副教材としてがり版資料にのこるそれはむらの伝説となっている。

深海の海の風景になくてはならぬ下馬刀島にまつわる話である。

この島は遠見にはバチカンの役僧の丸いつば付き帽子のようだが、近づけば土くれ一握りもない岩の塊である。

亡き棄て人の墓石も岩と化したか今はない。

岩と岩との隙間に雑木が根をはわせるほか水もなく風波をしのぐ洞穴もない岩礁である。

そこに天然痘患者が流された。

『馬刀島哀話』によれば、百姓、与吉が牛深から白くただれる病をもち帰った。
皮膚が壁でもぬったようになるので村人から「かべぬり」とよばれおそれられた。

それは家族へ、近所の家のひとへと枯草の燃えるようにひろがった。
そこで村のかしらにたつ人の相談の結果。病人をやむなくすべて島に捨てることにした。

(4-24)
小島の頂上に丸木小屋を組み、荒むしろを敷いたところに、甘薯や粟飯四、五日分を残して置き去りにした。
病人の大人は声を殺して泣いたが、子供は大声で泣いた。

その声は村まで風に乗ってきこえたという。
人捨て島伝説は哀話とされたが、流行病などは土地を読み込んだざれ唄になってからからと歌われた。

「深海のでんごに 浅海めた 山浦よごれに 大浦瘡…」
つまり、でんごとはヒイラリヤ、めたとは赤目のめちゃめちゃ。よごれはできもの、かさは膿みひからびたかさぶた(鶴長千秋)

こうした浦々の病いもあざけりの唄のうちは良い。業病ともなれば生きたまま死を待つ覚悟をもって人捨て島に運ばれるのを肯いた
―そうした共同体の共同記憶が、初期の”水俣奇病”のころに息をふきかえしはしなかったか。

(4-25)
熊大医学部の学用フィルムにのこる多発部落のたたずまいのいくつかのシーン、雨ふる傷だらけの画面に、電気もない家、裸の近い子らのあそぶ空地のかたわらで全盲の子が立ち、はにかむように笑んでいる。
そうした光景が深海でより鮮やかによみがえってくるのである。

漁師道特有のくねくねした路地の軒に「出征軍人の家」「遺族の家」という金属片の札がある。
墓地には「××××上等兵」などの碑銘が戒名より大きくほりこまれ、居間のかけ居には明治大正昭和三代の天皇の肖像が御真影のように掲げられているのをみれば、むらの共同行事にも疎外された漁民階層が四海平等の民を実感し得たのは、日本帝国軍隊の”赤子”となったときだけではなかったか。

石牟礼道子氏の記録によって残るエピソードを思い出す。
打ちすれられた水俣病患者をはじめて視察または国会議員を迎え、唐突に呼び出された「天皇陛下万歳」の声がいかに切実に四囲の壁のかなたの親へのうったえであったか、天草漁民のくになるものへの幻想的リアリテイのいかなる流露であったか。

それが天草でなく、水俣の地での差別であり、孤独であるだけに心に響くのである。

(4-26)
深海の一本釣の世界を描くと映画のものたちに迫られて、深海の人たちは「生活を説明する」のに悩まされることになった。
それに加えてあいにく今年は工合の悪い年になった。
フグも鯛も「絵になるようには獲れないのである。
「去年はフグのよく寄ってなぁ」とか「何年前はこんな大鯛の…」と言ってはみるものの「話じゃ映画にならんと」困り果てるのだった。

その間、いろいろ聞き書きも出来て私は退屈どころではなかった。
<月で汐をみるひとくちことば>がある
”月の出の八合満ち”(月の出には、満ち潮まであと二合残すまでになっている。つまり80パーセントの満潮である)

”月の三刻潮のわり”(月の出から六時間たったら引潮に変わる)

”月の入りの半満(なからみ)”(月の没するとき満ち潮は半ばである)

(4-27)
あの元海軍将校、鶴長千秋氏の作である。
月を知らなければまず舟を操れなかった。
魯で漕ぎ帆を立てるものの汐に乗ることが要であった木造の時代は月の暦だけがたよりである。

漁師であるより舟頭として技術がまず要った。
深海の目の前の八幡瀬戸は「機械船の十二ノットじゃ乗り切らん、十三ノットはなからんば」というほどの潮の早さで流れる。

漁協の慰安旅行で人吉にいき、有名な急流球磨川くだりを試みたが、スリルはなかった。
「なんの戸島の沖の大汐にくらべれば、何のことはなかった。」
戸島沖とは、近隣随一の汐の早い箇所である。

<魚はえさにゃつかんで 汐につく>
餌のよしあしさることながら、汐のうごきにつれて摂餌行動をする魚の習性を第一にせよということばだ。

(4-28)
汐のリズムを体得するにゃ十四歳ぐらいからせんと身につかんと老人はなつかしむ。

いまは機械船になって、逆流を切って港に帰りつける。
むかしは汐をよぎり、ときにうずまく汐の逆流・わくらじお(逆汐ともいう)にのって進退自在にあやつる苦労と技術はいまは無益となったに等しい。

「いまどきの漁師は楽なもんですたい、ぺラと漁探でやりよるんじゃけん」と老人は皮肉る。

しかしこの潮ゆえにフグや鯛はそれにのって一気に上る。
深海は豊かな魚道と、産卵期の雌魚を迎えることが出来るのだ。

水深六十から七十メートル、底は瀬と砂が入り込んでいる。
外洋性のプランクトンが豊かである。
イワシもイルカも入ってくる。

「三月、外うみからここに上ってくるフグはですな、海の底を腹でこするごてして泳いで来っとです。
メスは産むとに一生懸命で、めったに餌は喰らわんらしかですな。
そのまわりをオスが白子(精子)をひっちらかして受精しよるです。

(4-29)
オスんとは餌を喰うとです。
そんで釣れるとはオスばかり。
春先のフグは、そん上りをとるとです。

砂で腹はこすって血のにじんどるですたいな。
そんで不知火海で遊んで一、二ヶ月すれば、産卵をおえたフグどもがぼちぼち下って来っとです。
卵が出し切って、痩せてしもてですな。
下ってくるとは底よりすこし上を泳ぐ風で、上がりフグん時はちがうとる。
そんくせを頭に入れておかんばフグちゅう品物は釣れんとですよ」

初老の域に達した浜元重雄さんの話は描写的である。

海面下、六、七十メートルの世界をヨマ糸(元糸)一本で探って得たその具象的イメージは、近代的底曳き網の人たちでは把むことが出来ないものだと言いたいらしかった。

通常、フグがその生活習慣のまま八幡瀬戸に入って来さえすれば、決して獲りはぐれることはないと考えている。

それが、この二、三年とくにこの年(八十年)彼の予想はくつがえされた。

(4-30)
網漁の横行がフグを一網打尽にするだけでなく、フグの生活、習性を変えたからである。

今日、深海の漁師の生計はフグで支えられている。
年間の現金収入の半ばをそれに頼っているといわれている。
鯛には養殖種があるが、フグにはそれがなく、キロあたりの値は格段に高いからである。

ここで深海のフグ漁の短い歴史に触れておきたい。

驚いたことに昭和三十年代まで、ここの漁師はフグの本場下関は知っていたが、離島から下関に活かして運ぶ手だてはなく、下関のフグの仲買い商人も、ここがフグの好漁場であることに気づいていなかった。

毒魚でもあるし貧欲だし邪魔者あつかいでもあった。
浜元重雄さんの跡取り、牧男さん(三十七)は思い出しても馬鹿げた話と笑いながら「わしが中学出る頃までは、爺やといっしょに、鯛のガラカブの釣っとれば、フグが餌に喰うでしょうが。

(4-31)
糸ば切って,道具(釣糸・おもり)をみんなで噛んでもってってしまうとですたい。
『あれぇ またフグの悪さする』ちゅうて困ったもんですよ。

しかし大鯛の仕掛けは釣が太かでしょうが、そやつにひっかかって上がってくるとですよ。
怕かですよ。

釣ば外そうとすれば指が喰いちぎられるちゅうことで。
毎年何人か 病院にちぎれた指さもって『つかんとか』ってかけこんだもんですよ。
だいだいあん魚は毒もつでしょう。
自分の家で食いもでけんし、イケスに入るれば、他の魚を喰いちらすしな。そんでポンポン棄てよったですよ」

牛深市場さえ当時はフグを引き取らなかったという。天草南端からの輸送は困難をきわめたからだ。
「そんうちに下関の仲買いが船で買い付けにやってくるごつなったでしょう。
それが金になるちゅうことで始めたですたい。
下関のフグのレッテルば貼って。

(4-32)
昭和三十七年、八年頃は、失対の土方の日当が三百円か四百円のころ、フグ一匹が三十円だったですばい。
キロ当たりいくらの計算じゃのうして、5キロでんする太かとも一匹は一匹ちゅうことで三十円。
ほう、金のなるとばいちゅうことで、こん部落もみんなやり出したんです。

今にして思えばあん頃も高級魚、料亭に出す品物じゃなかですか、フグはけっこう高かったはずですばい。
あとになって、わしらは『仲買の一年やれば蔵のたつ』と腹かいて言うたもんです。

一九五三年(昭和二十八)以来,施行された離島振興法による天草の開発、天草五橋の開通を筆頭に上島下島縦貫道の建設、流通経路の開発、コールド、チェーンシステムの整備が深海にも光をあてた。
以後、フグ漁は深海のそれまでの漁期の構成を変えた。

三月から五月まで、全村あげてフグの一本釣にむかうことになった。

「わしらフグはいっちょう口にしたことなかです。生まれてこの方。」

と牧男さんの奥さんは言う。

(4-33)
「売れば高か魚ですけん」

この牧男さん夫婦は、一九七五年春、フグ漁のあいまに船上に三人と子供とたわむれる若い漁師像として映画『不知火海』の終章に描いた人たちだった。

聞けば当時一日の水揚げ平均、十数匹、キロ千円として五、六万円にはなった。

全漁期で総計五~六百匹、聡水揚げ百五十万円から二百万円になったという。

今年、三月から五月の全漁期を通じ、平均百匹前後、なかには四十から五十の水揚げにとどまったものもいる。

希少価値からキロ四千五百円の高値をうんだ。

その分だけ全額の目減りはめだたなかったが、フグ漁の先行きの不安はどうしょうもなくなった。

フグ一本釣の漁法を根底から脅かすものとして近代的な捲き網・吾智網の新船団が登場したからである。

だが深海には一本釣を維持してこざるを得なかった。
その理由のひとつは鯛の技術の上にたってフグ釣に移りえたことがあげられる。

(4-34)
だがもっと大きな理由は、フグは一本釣ないしはえなわという自由漁法でなければ獲れなかったからである。
深海にとっての眼前の海は、一直線の距離にあるフグ漁場は、残念ながら鹿児島県、長島の地先にあり、いわば越境して操業する場所にある。

毎年フグは変らず決まった魚道を通って回遊する。
その穴場はいつも八幡瀬戸の中間の県境の鹿児島よりなのである。
だから、網漁できるのは鹿児島の漁民に限られていた。

この事情は鯛の場合も同じである。
同じ海底につく。だから鯛にせよ、フグにせよ、一本釣でしか操業できない。

かつては長島の船でも同じ一本釣で、腕を競った。
このことは深海漁民の伝統からすれば得意とするところであり、むしろ僥倖といえた。
だから一本釣がのこってきたともいえる。

雌のフグは腹を砂にこするようにして上がる」という海底すれすれの生活である。
許す漁業である網漁にしても、底曳きは許されないのだが、たまたま「網に入ってしもたものを打ち棄てることもない」という
おめこぼしを逆手にとって、半ば公然と底曳き漁をする船がふえてきた。

(4-35)
捲き網のしかけもフグの鋭い歯にまけぬよう鉄戦入りまで考案された。

この年、異常低温のためか、三月上旬に上がりはじめるフグの群れの訪れは四月近くにずれこんだ。

八幡瀬戸の魚道で待ち構えていた深海の漁師を嘆かせたのは、外洋から不知火海に通ずる沖の魚道で、黒の瀬戸(鹿児島県阿久根)の新鋭捲き網漁船が、一気にフグを地曳き風にさらっているという報であった。

数人の乗り子で一昼夜に数十トン、水揚げ二億円という嘘のような話も伝わった。
夜陰の仕事であり、しかも鹿児島よりの公海でもあるので、底曳き漁法をとがめるほかは文句のいいようもなかった。

その結果、フグの群はこれまでに例を見ない拡散した体形をもって上がりはじめた。
網でおどされたためか、ちりぢりになりおびえのため求餌行動が鈍く、日の出の喰いの頃合にも手応えが少なくなった。

(4-36)
夕方までねばって二、三匹も揚げればいいところ、船団の半ばは空で帰る日がつづいた。

網と一本釣の確執はすでに数年前から表面化していた。
その前年も、この土地の人のいう”大多尾騒動”がおきた。
舷を接しての格闘であったという。

「もともと網は一本釣船団から千メートル離れてせろという決めがあった。

県では千5百メートル離せと指導しとったですよ。
それを大多尾の衆が破ったもんな。
わしらの釣っとるフグつりの網代(場所)と吾智網でたてまわしたじゃなかかな。

そんで引き揚ぐるのをみれば何百匹とおる。
そんでわしらは船何十船と周りば囲んで、うち殺してくるるとおめいたよ。
腹んたってな。なんの殺しやせん、船のへさきでどついてくれたぐらいじゃったが、怪我人は出たな。
網船はとうとう網きって逃げた。

(4-37)
八百キロがとこ品物があった。フグが。網んなかに。

たまがったなぁ。
じゃが、こっちが網を切ったちゅうことで、一本釣がきつう咎められた。
そんだけしても、あと懲りずに綱ひきよるがな」

だがその年はまたフグは獲れたという。
今年は不知火海の入口の魚道で、大規模な一網打尽が禍いしたのだ。
本来こうした紛争のためにある海区調節委員会はどうしているのか。

私たちの漁について教師役である元労組活動家、いま漁師をしながら不知火海の漁業誌を記録している浅田康爾氏の意見は明快かつ悲観的である。

「海区調整委員会ってのはいわゆる公選じゃないんです。
事前運動も出来るし、根回しも自由自在、罰則がないんです。
実力者の登場できる機関なんです。
だから「学識経験者」といえば元警察官僚だったり、漁業者代表といば網元の親方だったり。
とても一本釣の声の通るところじゃないんです。もともと。」

(4-38)
こうした網優位の漁場ひかきまわしに対し、有明海の大矢野町漁民らは「吾智網対策総決起大会」を開いた。

深海漁協も1週間後県への陳情書を作成、手渡すなど、ひかえめながら手を打ったものの今年のフグ漁不振の大勢は変わらぬことは覚悟する他なかった。

では深海では吾智網、捲き網への進出はなかったか。
やはりあった。しかし失敗に終わった。

浜下組合長と長老格の浜元国松老人の語るところによれば
浜元老人
「十年ほど前に『こんごは一本釣だけじゃ心細か。吾智網と両方やらんば暮らしが立たん』
ちゅうところで許可の申請するもんもおった。
金の工面のでくるものがそれぞれ県の許可をとって組合も承認にして十六パイ(船)吾智網船ができたとです。

ところが深海の漁業権のある海はですなぁ、海の底に岩の多くして、吾智網のひける浜(砂地)は少なかですたい。
ナイロン網を瀬にひっかけるなどしてでけん。公海ならよかちゅうことでやってはみたが、網にゃ慣れとらんでしょうが、

(4-39)
深海のもんには。
やっぱ大した仕事もでけんじゃった。

一人やめ二人やめしてみんなやめてしもうたですたい。
船は形ばかし一隻、波止につないであるばってんよう動き出さん。
もう吾智網はほっとけちゅう風になってしもうたですたい。」

組合長
「吾智網はやめたうちには、他の一本釣の衆への気がねもあったでしょう。
事実許可もたん家の組合員の反発もあったです。(老人『じゃっと』)」
網はフェアでなない。ルール違反だという1本釣の根っこの考え方が村うちの吾智網の全滅をむしろ当然と受け止めているようだ。

ならばと私は訊く
「”深海の鯛””一本釣り深海”って有名ですが、何か秘伝があるのでしょうか」
そこでふたりは考えこんでしまった。
やがて長老は
「それは無かです。むしろ他所の漁師のやり方を真似してきたとじゃなかですか。

(4-40)
わしらは海の底んことは知っとる。魚も知っとる。
汐も頭に入っとるとこで、それにゃ頭は使うとるです。

別に道具に工夫があるじゃなし。
タコ壷はどこんたぁも同じやし、イカの擬似餌も島原からきたちゅうし。

鯛つりのあのゴム(いく色かのゴムのひもの束に、エビやタコの脚をつけ、ひらひらさせてタイの眼をひく漁法)も支那事変まえに水産試験所の若い技師さんのこらして教えられしたもんじゃしな。

今やっとる大鯛釣りのイカの生き掛け(小ぶりの赤イカを生きたまま針につけ泳がせながらとる漁法)もあれは、長崎の五島がもとで、宮田栖本(ともに上島)の連中につたわって、こん深海はそん衆から教わったし。

何ちゅうか競争心ちゅうもんがなかけんな、この深海ちゅうところは。
遅れとるといえば遅れとる。
そこんとこを考ゆれば、ここはよくよく恵まれとったところちゅうことになるかも知れんなぁ
一本釣でどうにか食べてゆかれたじゃっで。」

(4-41)
この深海にも高馬力で軽い船足のプラスチック船が幅をきかしていた。
はえなわ専門の船は百二十馬力、快速をほこる便船がガルーダ号を楽々追いこす。

一足先の差も1本釣船も競うようになってはいた。
しかし、網船とくらべれば大人と子供の差が一目で知れた。

網船からみれば地先の海に、一本釣の自由漁業の特技だけを頼りにウロチョロされるのは眼ざわり存在にみえるに違いなかった。
亡びつつある漁法というのは酷であろう。

しかし不知火海で確実に亡ぼされつつある漁法に「ほこ突き漁」があるのだ。
そして現在残るそれはあきらかに差別されているのだった。
映画『『海とお月さまたち』の1シーンにこのほこ突きを予定していた。

(4-42)
下島、新和町中田にのこるこの古来の漁法は、

「元禄時代(一六九〇~一七〇三年)松平伊豆守が中田にこられたとき、その手練をめでてほうびを下さったもの」と脇坂浦輔老人は言う。

むかしはへさきに赤松のかがり火をたき、海底の魚を八尋(十二メートル)もの鉾でついた。
いまはバッテリーで二百キロワットの照明灯をつけ鉾を手に肉眼で魚を追う。
さざなみの立つときは箱メガネをつかう。

つき手は主、脇坂老の場合、妻が魯を漕ぐ。
夜の海に、一点のあかりをともし、静かな船の動きのまま眠る魚を突くこの漁は、海ぼたるの精のように幽玄である。

かつて、不知火海の各浦々にあった。
水俣ではこの夜ぶりにカーバイトをつかい、奇病の初期、カーバイトによる中毒をあやしまれたことのあるほど普及していた。
いまはこの中田に十数人のほこ突きが残るのみになった。

いま長崎県も鹿児島県もほこつきは禁止された。
中田のほこつきのため熊本県だけ許可しているという。

(4-43)
「なぜ禁止されるか、それがよう分らんとです。
鉾で突くとはどげん獲っても知れたもんでしょう。
鉾の長さぶんの海しか行かんし、手でつくとですけん。

アワビもナマコもとる。
鯛もカレイも何でも獲りますばってん、その邪魔するわけじゃなし。
薩摩(不知火海の鹿児島県側)に入ったら咎められうるるもんね、いまは。」

この撮影にはほこつきの漁師は皆協力的だった。
映画を町立歴史民族資料館に寄贈するという当方の条件もよろこばれた。
さて実際のロケ現場を選ぶにあたって近隣漁協から好い顔はされなかった。

「ほこつきなら自分たちの地先(中田)でやんなっせ。
うちの地先でやるなら、あとで揉め事のおこる。
理由はいわん。
鉾つきの衆ならぴんと分るじゃ。
わしがそういったといってくれんな」ととりつく島もなかった。

やむなく結論だけ話はじめるや、老人は察していう。
「嫌われとっとですよ、わしらは。

(4-44)
夜エンジン止めて、魯を漕ぐだけて海を這ってさるくとでしょう。
何をしとるか分りせんということで…
県内ならどこでも突ける仕事じゃになぁ」

私たちの助言者、浅田康爾氏はこう解いてくれた。
「まわりの漁師の方が変わったんですよ。
ほこ突きはおそらく漁業の歴史のはじめからあったはずです。
最古の魚(いお)とりでしょう。
百年も前にゃ不知火海のどこにもあった漁法でしょう。

漁師はいま海面かりていろいろやってますね、小型定置網や磯立網、さし網と。
また最近は養殖が多かでしょう。
太か養殖場では不寝番をおいとりますもんね。
その魚を盗られやせんかと疑うとるんですよ。

夜の闇に乗じてですね。
泥棒扱いですよ。
気の毒かですね。
ほこつきこそ、本当の漁師らしい漁師ですのにねえ。」

たしかにほこ突きは修業のいる技である。
魚の頭をねらい、即死させる。
つまり締めながら、刺身の部分に傷ひとつつけないのが上とされる。

(4-45)
水の中の光の屈折を読み、保護色のまま磯や砂に身をかくす魚をつくのである。
まさに名人芸といえた。
それがまわりの漁師にはもはや何の価値にもあたいしないのだ。

隣の県の禁止処置が決定的に彼等を不法者にしたてた。
差別され疎外される理由にそれはなったのである。

では一本釣の立場と鉾先とどうちがうであろうか。
「一本釣は魚のおるところはどこでん仕事のでくる」というのが誇りでもあった。
戦前、朝鮮から旅順、大連まで、魯と帆で遠征したという勇猛な語り草も一本釣りならでは特技としてであった。

だが鉾突きも一本釣も”どこでんいく”ことでは似ている。
海に縄張りなしということで生きてきた。
一本の釣り糸だけでとる、一本の鉾だけで突くという採取力の限界性ゆえに、大量捕獲漁法の巾をきかす今日、
なお”尊重”をこめて見守られていると思っていた。

網の養殖のという海面占有権をともなう、いわば海の私有化の広がる現在、
一本釣も鉾突きと五十歩、百歩の扱いをうけるようになりはしないか。

(4-46)
地曳網はほぼ亡びた。
浜の埋立てや、網の曳き手である共同体そのものの崩壊によってである。

しかし最も古い、原型的な漁法といえる鉾突きや一本釣が、今日までのこったのは、それが個人漁業であり、自由漁業であり、何より力倆本位でなりたつものだったからに違いない。

そうして原漁民像そのものが、いまなんの敬意も表されないばかりか、近代漁業の新たな秩序の中の”異分子”に転化されようとしている。

全村一本釣に托している深海にとって、そのまわりに大型漁法が海区漁業権を利して発展し、包囲するまでになった。
漁船を新造しても内海漁業、せいぜい外洋部の沿岸までの日帰り漁業むきの性能である。

八幡瀬戸の魚道で待ち伏せして、サバの切り身、エビ、イカをつけて、かかった魚を獲る。

(4-47)
そうした漁法では太刀打ちしかねる構造的な変異が彼らの海にたちあらわれているのだ。

獲れないことが、自然の生命力の衰えだけであるとしたら、さらに一歩ふみこんで、農業などによる海のよごれ、異常低温による海況の変化、またかりに水俣からの水銀汚染による―といった今までの体験の範囲でとらえらるものであるなら、深海漁民は、それまでの才覚のバリエーションで切り抜けられるかもしれない。
これまでもそうきいてきたし、つまり「漁は水もの」というあきらめのうちに入るからである。

しかし、今の危機の原因は、企業型大型漁法による”獲りつくし”にある。
その海底撹乱による魚族の異変にある。
深海漁民の敵は外洋底曳の同じ漁民なのである。

地曳網にせよ鉾突きにせよ、一本釣にせよ、内海型の柔和な魚族、弱者の自然に対応した在来の漁法でありそれにみあった生活があった。

(4-48)
それが近代漁業の衝撃波によってつき崩されようとしている。
自民党の漁業近代化の平均的漁民像は、むしろ小なりとはいえ一家親族経営による企業型漁業であり、
養殖であろう。
政治に即していえば、深海のほぼ百%は自民党支持である。

福島譲二派か園田直派かいづれに投票するかで加熱した選挙戦を演ずる漁師ですら「自民党政府は、一本釣には打ちあわんつもりじゃなかかな。
ほっといてもいづれなくなるちゅう按配じゃもんな」と見抜いている。

しかしその政治を遠景とすれば、眼前で、お互いに共同体をこわしあう破目に追い込まれている。
漁民の敵は漁民と、いわば漁民同志のせめぎあいが最大の矛盾として立ちはだかっている。
むらでの朝、昼、晩の生活のディテールでは、それしか見えないのだ。

(4-49)
深海の町と人びとの変貌のディテールを書きとめておきたい。
細部に真実が宿ると思うからだ。
とはいえ八十年春から夏にかけての四ヵ月、関心をこの町にむけてから数えても四年間でしかない。

だがこの地で得た人々との話や実見をつなげるとき、私には水俣病事件という広域かつ深刻な事件の舞台である
不知火海の一漁村の半世紀に一度あるいは、世紀に一度しかあらわれない一回性の変容に立ち会っている気がする。

水俣湾とその周辺漁民が漁業を失うにいたるいきさつは、ひとえに水銀汚染であり、その急性劇症型ともいうべき漁民社会の崩壊であった。

深海のそれは、不知火海の内海漁業の変貌の一典型におもわれる。
じわじわとそれも抜き差しならない流れに、ゆるやかにおし流されつつ、逼迫の度を年一年と強めている形において、水俣病の慢性型病像に擬したくなる。

それに自ら歯止めをかけたい。
一見なんの記録にもあたいしないような些事のつみ重ねで「深海の鯛」のこのむらの変容を書きとどめておきたい。

(4-50)
深海の街づくりは町の寸法にあっている。
等身大のままの衣がえといった観がある。

水俣に一箇所の浜あそびのできる海辺がなくなって二十年になろうか。
その海岸の埋立てや護岸は、ことごとくチッソの占有に起因する。
廃水残渣プールや子会社敷地の造成、工業港、専用原料港などといった工業都市型のいわゆる強制力による”外圧型”であったのに比べ深海のそれは、町機能の近代化、むらの公共部分の拡張といった”内圧型”ともいうべきものであった。

六郎次山を背負い、深海川の川すじに田圃のあるほかの平地ではなく、斜面地に軒を接してある
家々の間は歩行の巾しかない。
浜の船津地区も人の肩幅と魚の荷を通すのみ足るほどの漁師道があるだけだ。

バス通りは船津を横断しているが、かつては浜沿いの一本道であり、道を通り越して浜を少しづつ埋め立て並んでいた漁具小屋を長年かかって宅地にかえたという。

(4-51)
一本道をはさんで市街地が並ぶが、山からずり出た新しい地区が浜である。
だからバス通りは一つの生活空間となっている。
通りに面して、風呂があり、厠があり、魚を洗うマナイタの洗い場があったりする。

さぞもらい湯には便利であったろうし、祝い事でもあれば、道は煮たきの場所にもなったろう。
もともとこの道は漁民集落の内部につくられた通い路なのだ。

そこにバスが通い、朝七時頃ともなれば、牛深ゆきは勤め人と牛深高校の通学生でラッシュになる。
ついで、ダンプとコンクリートミキサー車が護岸現場にむけて走り出す。
モーターリゼーションの時代がその一本道を走り抜けるようになった。

新学期、深海小学校全校生徒による交通安全デモが恒例となり、登下校時一列に並んで、手をあげて横断する新入生の風景がみられるようになった。

(4-52)
道路わきの家の傷みは格別だった。
そこから住宅の新築、立替がはじまった。

格式づけのために旧小庄屋風の高塀をめぐらす網元もいたが、それは例外のつくりであり、多くは当世どこにでも見当たる規格住宅である。
土間が消滅し、網つくろいの空間がなくなった。

場所をとるはえなわの餌つけのしごとは青畳の上に漁船用ビニールシートをひろげてしなければならず、奥まった風呂場に足をふいて水気を切って上がる。

ましてもらい湯は気づまりになった。
縁とかまどから生活は外からまる見えであった。
「見えても、工合のわるかつは見えんかったことにするの」
というのが礼儀という。

おかずの鉢を手渡すすだれの窓はアルミサッシの網戸になった。
なんともマイホーム住宅は勝手のちがうもののようだ。

「気に入らんばってん、むかし風の大工のおらんもんね。
むかしは狭か家でも、屋根裏に道具いれるとこがあったり、土間には漁のいろんな品物をひろげるところもあったですがなあ。
漁師用の家ちゅうカタログはどこさがしてもなかもんな」

(4-53)
核家族むけの一戸建規格住宅はとしより用と若夫婦用と家を分ける。
いきおい過疎にもかかわらず宅地不足が深刻になった。

近年、中学校の新設をはじめ、老人ホームや消防車庫や郵便局、駐在官舎などが建てられたが、窪地の整地の他は海の埋立てによる土地造成しか余地はない。
その周辺は坪十五万円、町はずれの宅地用造成地でも坪数万円になった。

飲み水にも金がいるようになった。
簡易水道だが、水道料は「日本一」と土地の人は云う。
町営貯水池をつくり、長年の水飢餓を解消したが、細い水源を頼りにするため工費がかさんだという。
ロケ隊でかりた宿では水道代が別立てであった。
海の潮でねばっこくなった皮膚を洗い流すのがぜいたくに属することを知らされた。

棲むというだけならなん千円ほどのかかりしか按配しないですんだ暮しはあっという間に代った。

(4-54)
漁家にはえさ用に大きめの冷蔵庫が要った。
風呂がプロパン・ガスに代り、部屋数分の電灯だけでも「メーターのぐるぐる廻りっぱなし」になった。

座ってじっとしとるだけで、月三、四万はいるとじゃなかですか」と私の下宿のあるじは言う。
佐賀の人で天草陶石の事業所の主任として、ここを永住の地ときめた人である。

「昭和四十二年でした、私がここに来たのは。
新築の家は一軒もありません。
宿屋も船宿が二軒だけ、肉屋もなし。
テレビは三軒しかもたなんだ。

学校の先生二軒とお医者さん一軒だけ。
金のつらはあまり見んで済んどったんですよここは。
それがいま一家で一人当たり三万要るちいいますもんな。

三人家族で9万円ですか。
みんなたべもんは切りつめとるですよ。
外からは分らんし、そのくせ冠婚葬祭、あん交際費が大きかですよ。
何じゃかんじゃで、年に百五十万なからんば暮せんでしょうな」

(4-55)
道と公共用地と新築住宅が内圧となって、海岸線は乱暴至極と思えるほど変わった。
「離島振興法」の打ち切られる七十九年までに各工事を一斉に急いだと思われる。

二十余年間、天草における事業費千三百四十二億円、うち同法による国庫補六十四、四パーセント、その仕切り間際には政争とからんだ公共工事の黒い談合が牛深市制の中で、半公然で行われた。

牛深市の土建業者は急成長し、その不当利益は受注額六十億円のうち三億円、市長は1千万円の現金を収賄した。
これがいわゆる牛深市汚職事件(八十年五月)である。
地元の護岸、港湾工地、埋め立ての切実な要望にぴったり見あった構造汚職といわれた。

天草全土のブルトーザー的公共事業の推進のなかで、深海の海岸は百%人口岸壁となった。

それまで漁家と渚の間に砕石づみの堰がつくられていた。
深海から牛深にぬける、浅海、山ノ浦あたりは砂浜と堰が見せる独特の海岸線の景観美は、NHKの連続ドラマ「藍より青く」のロケーションの地にえらばれたほどだった。

(4-56)
そのあらかたはコンクリートに代った。
岬部をのこし海ぞいに走る県道の路肩も護岸がほどこされた。
海岸の子供の遊び場には遊泳禁止の札が立てられ、水泳は中学校のプールに限られた。

「以前もようつっこけて海にはまったもんですが、誰か見とるし、見えとるし。
コンクリートとちごうて石づみは子供でん手をかけ足をかけ上がれたもんな。
子供の遊ぶとにゃ誰も心配せんじゃった。
今は上がれんもん。」

「おかしかなぁ、近頃漁師の子でん泳げん子がおっとです。
わしら河童の子か何じゃやら分らん風に育ったがなぁ」

その岸壁で子供のスナップをしているときかんだかく「アブナカゾォ」と叫ぶ女の声をきく。
幼い子供のピクッとすくむ顔がある。
海を怕いものとして受けとる幼児体験が根づいていくであろう。

(4-57)
エビで鯛を釣るという諺がある。
切り立った六郎次山から流れでる深海川はエビの棲息地に適した砂をはこんで小さなデルタを形成していた。

陸の栄養を注ぐこのデルタには小動物が棲息している、ビナ、やどかり、それにハサミをチカとならす”チカチカ”がいる。
しかしエビはいない。

「エビはおらんごつなりました。
エビのおる砂は、しょっちゅう綱をひいて、とっとらんと悪うなるらしかですか。
放っとけば、藻やこけがついてエビが棲みにくくなるらしかですな。

エビは昼間は砂にも潜っとるでしょうが。
その潜る砂がよごれたり、藻のついたりすれば駄目じゃもんね」
適度に網をひいて砂を掻く。
それがエビのためでもあった。

「いま生きエビ、あん鯛つりや、鯛なわはえにつかうこまかいエビは鹿児島県興一ヶ浦まで買いにいくとです。
深海の鯛とりが、エビを鹿児島に買いにいくんですからなぁ」と老人は辛そうだ。

(4-58)
興一ヶ浦は離島、獅子島の漁村である。
自然海岸のまだ残る孤島である。
岸壁という決して大きな改修でもない。

繊細な生物ゆえにその変容に負けたのか。
あるいは陸から浜、浜から海との連続した生態系のチェーンのうち 浜というリングが見失われたためであろうか。
いづれにせよ、一本釣りの基盤は浜のミクロの世界に依拠していたのである。

あくまで滞在中の見聞にこだわって話をつづけよう。
一つの町としての単位的な様相をもつ深海の生活の変化にこの十年間の不知火海沿岸の近代化の過程を辿る気がするからだ。

町にはじめて鮮魚店が開店した。
エアポンプのついた生け簀に活き魚のいるものの、冷凍つきガラスケースの出現は目新しかった。
そこにやすいお菜(おかず)用の魚がならんでいる。
サバ、サンマ、ハマチ、キビナゴ、イワ、イカ、タコ、アサリ、それに生干しのひらきなど。

(4-59)
それまでも、これら大衆魚は野菜や果物などとともに行商車でうられにはきていた。
しかし、魚専門の商いが成り立つとは思わなかった。
しかも、農家の多い多々良地区ではなく船津のどまんなかに、漁師の手で開店されたのだ。
結構客がついている。

せんさく好きの元海軍将校、鶴長千年氏によれば
「十年前までは、いろんなしかけでいろいろの魚を採っとったんでしょう、一っ家(や)で。
お菜(おかず)とりといって。
それがいま養殖でしょう、フグ、タイの一本釣りでしょう。
高級魚(賣り魚)ばっかり掛かっとるでしょう。
自分の口にゃはいらんですよ。

売れば何千円、一万円ってなる品物ですからな。
ですけん安い魚ば買うとですよ。
いまどき女房もパートで働いて金をもってとらすからな。便利でしょうもん。」

年寄りの女たちは賣り魚を買うことは無駄使いに思えるのか、土方仕事の手伝いの手を休めてガラカブなどを釣っていた。

(4-60)
おもりもない釣りと糸だけで四、五匹はつっていた。
大汐の時、ビナをひろいにいくのも年輩の女たちだ。
若い妻君の姿はみかけない。

もっとも、彼女たちは、最近できたM縫製工場に働きにでている。
婦人下着のミシン縫いの下請け工場である。
五十人ほどの主婦の労働力をあてにした進出企業であった。
日給月給で平均七、八万円。
この仕事は、土方や真珠貝養殖よりこぎれいで、拘束時間は決まっており、若い主婦層に好まれた。

町はずれにあるため、朝八時近くになると、町から二輪車の列が出来る。
八割がいま流行のミニ・バイクである。
自転車でも七、八分の距離だがテレビCFの八千草薫風に、つばつきの白ヘルで颯爽と出退勤する風景は華やかに映る。

育児から解放された主婦たちである。
公立保育園ふたつ、私立幼稚園ひとつ、授乳期をおえた二歳児から託かる。
その収容力は都会のそれとちがってゆとり充分である。

(4-61)
主婦たちは年寄りに子供の送り迎えをたのんで心配なく働けた。
そこには家の中でする内職とはまったく別世界の労働のイメージがある。

彼女たちに比べ旧態依然たる真珠の仕事には婦人たち二百人近くが働いている。
天草海真珠と九州真珠の二養殖所が入江にある。
稚貝の手入れ、珠とり、珠入れと慣れた労働力を求めはするものの冬場、三、四ヶ月は冬眠し、婦人たちをレイオフする。

漁も冬場は暇である、その間の収入のないのが不満といえた。
だからここは中高年世代の働き口として残った。

この小さい町に、ほどほどのバランスをとって定着した縫製工場と真珠事業所が、婦人に現金収入の途をあたえている。
それが漁家の生活費の上で不可欠のものとなっているようだ。

消費型風俗のピッチはスーパー、マーケットの出現で早まった。
昔風のよろずやが鉄筋モルタル、全店冷房の店を開いた。

(4-62)
冷気を求めてか、セルフサービスの物珍しさからか、子供から婆さんまで一日何回となくのぞいたり、買いぐいしたりする。
とりわけコーラとアイスキャンデーの売り上げが急上昇し、「子供の小遣いが一日百円もする」当節となった。

その若主人はこの町育ちだが、しばらく都会生活をしていた。
あかぬけした妻君もそこから連れて帰ってきた。
都会では当たり前の配達サービスもここでは新鮮で便利に思われた。
「店までいかんですむもんな、電話一本で。まこて楽も楽。」とひとりぐらしの老人はいたく気に入っていた。
その店の卓上電算機の勘定書きが束になって彼の手もとにあった。

町の商業マップはこの一店の出現ですっかり変わったといってよい。
夕方、制服のままの工場帰りの奥さんが、バイクでのりつけ、軽く爆音をたてて家路につく。
その生活のリズムは都会型になったといえる。

(4-63)
この一、二年でスナックが一軒から四軒に増えた。
七十七年巡海映画で海ぞい漁村をまわったが、北は姫戸から南は牛深までの町でコーヒー店は深海にしかなかった。
あまりの急増で共倒れはしないか。

それら店のカラオケ装置は都会のそれと遜色はない。
なかにはビデオカメラつきの店もある。
鏡をはりめぐらし、シートは競って上等なものが調達されていた。
いづれも人件費のかさまぬよう若い夫婦やいとこ、はとこ、牛深に事務員として働いている娘のアルバイトで営業している。

それにしても人口二千六百、七百人のむらの中でこのスナック群が成り立つものかどうか危ぶまれたが、今のところ成り立っていた。
一軒にのみにいけばあと三軒顔を出す、義理固いお客ばかりだからだという。
狭い社会の縦横の客で成り立っていた。

夜ともなると、どこから降って湧いたかと思うほど青年が集まる。
郵便局員、小中学教員、農協、漁協事務員ほか、意外に牛深に通勤するつとめ人が常連の客になっていた。

(4-64)
Uターン帰郷者の少ないといわれている深海である。
ばらばらだった旧青年団が形をかえて復元しつつあるのかと思われるほどだった。
しかし決して青年団の再来ではなかった。
夜のレジャーに集まったひとりひとりの青年でしかない。

団結の場でもなく、青年団のルールや慣行の混じる場でもない。
そこは理屈ぬきにスナックであり、テレビカメラつきのカラオケバーなのだ。

かつて都会でしか味わえない要素のご当地のおける出現である。
いわゆる町外の”外貨”が入ったのではない。
”内需”のあらわれなのだ。
そのひとつに車社会の自由と不自由さがある。
”飲んだら乗るな、乗るなら飲むな”は不自由である。

「牛深にいくとも、ゆきも帰りも車でしょう。
帰りは酒気帯び運転ばっかしよ。
遊びはしたいしパトカーはこわいし。
ここでなら、いくらのんでも這って帰れるもんな」

(4-65)
ここに脂粉や香水で胸苦しくなる女っ気はない。
「女はおらんが、女と遊ぶとは熊本よ。
本渡も牛深も駄目、途中はどこにもなし。ゼロ。
熊本にいかな。

月に一っぺんは行くかなぁ。
酒のんで歌うとはここでよし。じゃなかですか。

東京の、大阪のって盛り場はひと通り知っとるばってん。
ここもちょっとしたもんでしょう。
ボトルも安かけんな」

あえてここだけの都市化とは言えない。
日本の水準的消費文化のパターンがここに達したまでのことである。
ただ驚くのは、変わり方は徐々ではない。
都市生活体験者の中に蓄積されている都市型のスタイルはへのあこがれは
古い生活をぶった切って新しいものに転ずるに当たって物すごいスピードを見せることだ。

消費型文化の染色力は強靭で即乾性をもって接着される。
その典型をこのスナック群に見る思いだった。
この若い人たちは牛深、本渡に勤めをもち、出来ればここ深海で暮らしたいという。

(4-66)
そうした生活を可能にさせる自家用車は誰もが手に入れている。
つまりと都市近郊型の意識をもつ勤め人たちといえるだろう。
彼らがあとを継ぐであろうか。
今、一本釣り漁法でみる限り、その可能性はないであろう。

一九七八年、牛深市教育委員会は、漁家の後継者を把握するためのアンケート調査を行った。
牛深は田畑のないまったく漁業だけで生きてきた町である。
人口二万四千八百八十一名(七千七百七十五世帯)うち漁業、水産養殖業二千三百人、働ける人口(産業人口)のうち四分の一近い。
漁獲量は七十九年、自然魚三万七千七百トン、養殖二千六百四十トン、産額推定七十七、八億円にのぼる(牛深市統計要覧及び市、広報より)
不知火海の漁協が年間三、四億円という水準に比べれば漁都というにふさわしい。

牛深市教育委員会のアンケートによれば、中学生中漁家子弟中、あとをつぐとするもの六パーセントであった。

(4-67)
深海の場合、アンケートはない。
それに代るものとして、深海小六年生の卒業文集を分析してみた。
卒業予定者の五十名中、漁家子弟十六名、その将来の志望のトップは勤め人であり、教員、保母、看護婦さんとつづき、
漁業をつぐとはっきり志望をのべたのは双生児兄弟二人、一家庭の子弟だけであった。
この兄弟、鶴長大作、祐作は成績もよく、ともに絵がうまく、熊本日日新聞の学童展で金賞銀賞を二人でさらっていた。

父親鶴長明秋氏は漁協の中幹であり、信望を得ている人で、二人を海になじませる育て方をしてきた。
だから跡継ぎになると答えたのは意外ではなかった。
しかし、文集をみると、ふたりとも”漁師”とも”漁業者”になるとものべているわけではなかった。

ひとりは「水産業のなかで働きたい」と書き、ひとりは「できれば鶴長水産という会社をつくり社長となりたい」と将来を描いていた。

そこに書く「水産業」とか「××水産」とかは、最近、この町にも数を増した養殖漁業者の用いるいい方なのである。

(4-68)
ふたりの将来はもはや一本釣りにはなく、養殖業、つまり水産企業者として一家を成そうとする志をのべているのだ。
この跡継ぎ志望の兄弟についてもうひとつのエピソードをかきとめておこう。

全町あげて年中行事は春の体育祭である。
この日老若男女までほぼ全員顔を合わせ競い合う。
弁当、焼酎つきで馳かだ。
十部落に分たれ、対抗競技になる。

漁民の多い船津は強豪ぞろいの町では歴代名門チームである。
誰もが自分の集落のチームを応援し、相手をこき下ろすのだか、子供レースの場合にはあの子、この子へのいとしさが声にでる。
みなわが子なのだ。

それが祐作、大作の場合はひと味ちがった。
漁師の衆のかれらを見る眼に、部落のうんだ駿馬を誇る風情があったのである。
走り競技にせよリレーにせよふたりは首位をとった。
「良か子じゃ」「いい若い衆になるぞ、あいつどまぁ」

(4-69)
文集に「大学を出て出世したい」とかいた坊主も、あるいは親のタコ壷を継ぐかもしれない。
しかし、この双生児兄弟におのずと備わった”むら長”の資質を船津の人たちはみつめている。
あとつぎ待望の願いが、この少年に伝わっていればこそ、少年はためらわず道を選んだ。
その二人にして将来は水産業なのである。

深海の養殖は対岸鹿児島の養殖に比べたら中企業と零細企業のちがいがある。
それでもハマチ、鯛を中心に十七経営体に達している。
夫婦の労働力プラス兄弟、子供のそれをもってまかなえる規模が多い。
それなら少年にとって手のとどく生活設計であろう。

深海湾の最適地には、二十年前から真珠会社がイカダを並べている。
いわば外来資本である。
更新期は十年区切であるが、先取特権のためほぼ半永久的に海面利用権をみとめている。
そこは養殖にとっての一等地である。

(4-70)
残る海面は陸側は生活排水のにごりがあり、湾口部は波浪に脅かされやすい。
いわば二等地に甘んぜるを得ない。
湾と入江の海面は十七経営体で分割し、限界一杯になっている。
あとは人工の消波堤でもつくり海面を増やすしかない。

深海の平均例とみられる浜元牧男さんは二年前千五百万円を投資して、
ハマチを八千匹、鯛を1万匹、クロイオ1万2千匹計3万匹を10台のイケスで養殖している。
二年目、ハマチは四,五キロになり出荷できるまでになっているが、鯛はあと二、三年かかる。
深海は吾智網のときもそうであったようによその成功譚のあとを追う。
だがそのときには景気のピークは下降していた。

「思案に二年かかったですばい。
親兄弟、漁協から金をかりてこれに踏み切った時分から、世の中は”魚ばなれ”でしょう。
値は上がらん。
ハマチ(キロ八百円から千円)
はだぶついてくる。

(4-71)
鯛も天然もん(キロ三~四千円)半値でしょうが。
安かもんね。
最近牛深種苗センターじゃカレイを開発した、やってみなっせとすすめてくるる。
いまは脚光を浴びとる風で。
養殖カレイは天然ものとそう変わらん値でうれたちうことで、仲買いもカレイじゃ、カレイばやってみんかとせからしゅう言うし。
新製品ちゅうとこですたいな。」

カレイについでトラフグ養殖の情報が入りみだれて入ってくる。
「こん深海で”一ちょうやって見るか”ち思う頃には世の中のほうが、ころんころん変わってしもうとるでしょうが。
何ば目安にしたらよかろうかというところが掴えきらんとです。」

牛深の「桜鯛」にせよ 長島、東町のマル東、「マル東」ハマチにせよ。
ブラントをつけて、直送直販の体制をとって成功している。

ここ深海にはそれがなく、各自に仲買いにうる。
そのめさきの功利と投機的要素に左右され、定点を失いがちにならざるを得ないのだ。

(4-72)
漁家も商家も農家もひとしく変わっていく。
現金経済を軸とする生活に音をたてて変わっていく不知火海の典型的一漁村をみるにつけ、
いわば現金経済の被害者である漁民が、現金収入の工夫に身を砕き、みずから現金信仰にとらわれていくのをみる。
人物評価も資力と無縁ではなくなった。

いつも賑わう漁協組合長人事も、この年はすんなり若い養殖者に決まった。
これまで一本つりの実力者と人望によって決められていた。
船津弁指のころからのむら長の座である。
それが養殖の成功者の”青年実業家”に変わった。
ほとんど異論なく、むしろ押し付けるように彼に託すことにした。

専従の事務職(参事)には月給が支給されるが、名誉職あつかいの漁協長には寸志ほどの手当が出るにすぎない。
それでいて長たるものの出費は少なくない。
それには資力のあるものが人選の目安になったのだ。
四十歳の新青年組合長の浮かぬ顔も了解された。
それは一本釣りから養殖への漁民の間の重点移動として特記される変貌に思われた。

(4-73)
深海はしかし、フグと鯛の訪れがあれば、との思いはつよい。
一本釣の漁師の長い生活史のなかに折りたたんで納われている。
「一攫千金」もまた、全くの虚妄ではないのだ。
養殖の一匹いくらの掛算のうちにある皮算用とはちがう質の夢である。

そこに海がある。
魚が来る。
それはすなどりびとの本性をゆすぶるよろこびであり、戦いなのだ。
金銭はその結果として還ってくるもの、千金とはその一攫の報酬である。
たしかに海の賦活力と人意を超えた海のしくみはいまも不知火海に漁民伝説を生み続けている。

一九七三年の計石沖の赤えびの大発生や七十五年のカタクチイワシの回帰による大漁、七十六、七年の大鯛の大回遊などは昨日の話のように生きている。

(4-74)
「一晩で夫婦で大鯛二百キロ前後つり上げる日が半月もつづいた」
「港に帰る時をおしんで三日釣りつづけて八百キロをあげた。」という。
上り鯛の時期だけで幾百万円を軽くかせいだことになる。

この大鯛大漁を機に、深海での新造船ブームがおきた。

内海、沿岸用の四トン前後のプラスチック船、四十馬力のジーゼルエンジンで、当時船体二百七十万円、
エンジンまわり二百二十万円、魚群探知機等60万円、計五百五十万円ほどであった。
漁民は二割を自己資金として作れば、あとは漁業近代化資金で低利(年五、五分)の金を借りられた。
五年間の分割返済は、当時の大鯛の漁況から見みれば楽なものに思えた。

しかし、船の甲板の仕様が変わった。
遊漁客のスペースがきっちりと取られた。
それまで夫婦にあと一人の操業の支様に切りつめられた船体設計とちがっている。

(4-75)
日よけの天幕をつけられるようになり客の二、三人もぐって俄かな風雨波浪をしのげるブリッジがしつらえられ船上の酒宴のためのプロパンガスから煮炊きの用具まで入れるスペースが作られた。
船のへさきも波きりのよい流体設計となり、エンジンも実力百馬力、百二十馬力のものまですえられ、スピードが競われた。

これはもし自由漁業が不振になった場合、遊漁船で稼ぐ才覚を見込んだのである。
しかし、この遊漁船化は、あくまで本業の一本つりの”保険”のつもりであり、遊漁客専門の船頭になるつもりではなかったであろう。

だがこの傾向を強め、組織化したのは、つぎつぎに増えた民宿だった。
十年前二軒しかなかった釣宿は新規を加え5軒となった。
新たなそれは漁師の副業としてであった。
宿の主の船だけではシーズン中まかない切れない。

そのため宿の部屋数(客の団体数)ぶんの船と船頭を準専属として系列化した。
××荘の○○丸といった風に。
こうして漁師は××荘所属、△△屋所属とおのずから分たれ宿から手配によって動く駒となった。
半日燃費と餌代こみ一万五千円である。

(4-76)
そして遊漁客のめあては、やはり深海の鯛なのである。
フグではなくまして雑漁ではない。
五月頃、ときに熊本県知事沢田一精氏ら一行がおしのびで鯛を釣りに来る

「やっぱり深海に来らすもんなぁ、よそにはいかれん、まっすぐここにこらす。
深海の鯛ちゃ知られとるばってんなぁ」と漁師たちは相好を崩すのである。
宿から船つき場まで砂がまかれ、ぬかるみが修理される。
まさに大名の舟あそびの観がある。
それが深海の観光漁場化への快い刺激ともなったようだ。

高級魚中の高級魚、季節の桜鯛をとるとなれば、趣は、水俣沖の太刀魚つりとはがらりと変わる。
湯ノ児の太刀釣のように抜身の刀のような銀鱗の手ごたえをたのしみ、夕景のなか舟上で刺身を賞でるといった風雅さはここにはない。

(4-77)
昨今の客は自分のつり上げた鯛のキロ数にうるさい。
時価に換算するのだ。
刺身にして食べもしたいが、欲も出す
「売ればいくらな。
あんた市場に売ってくれんですか」

最近とみに趣味と実益をかねたセミプロや中には料亭の板前さんなどが「ぜんぶもって帰ることはなか、宿代、酒代なと浮かそう」とこうじゃもんな。
そりゃわしが釣ったごてすれば漁協は何もいわんで引きとってくるるがな。
板前さんなんぞは大きな声じゃいわれんばってん魚河岸値段で料亭にひきとらすちゅうもんな」と声は曇る。

漁師にもおなじみさんができる。
どうだ釣れだしたか、いってもいいかと電話がくる。
もともと天気と漁況は時の運、来させればいいのにと私は思う。
客のあるなしにかかわらず鯛をさがして舟を走らせている
鯛がつれなきゃガラカブ釣、イカ釣もまた楽しみではないか。

(4-78)
「来てもろて、鯛の一匹も釣れませんでしたではすまんばい。
わしら漁師が天職でしょうが、船頭は船の上じゃ大将ですばい。
釣れんのに遊びに来て良かとは言いならん」ときっぱり言う。

また、客が来たら来たで、船頭も釣る。
客が手ぶらの場合にもたせて帰すためだ。
客が仮につれても「まあ持って帰んなっせ」とボックスにいれてやる。
そんなことは深海の漁師ならだれでもしていることだという。

「なぜかちな。
そりゃ船頭の手間賃はもう客から貰うとるでな。
そん鯛は、そん客に縁のある魚じゃちゅうところで…。」

客に縁のある魚ということばに、私は心の中でむせんだ。
全国どこの遊漁船にこのような”文化”があろうか。

もともと好んで客商売をしている訳ではない。
客の釣は魚には痛かろうという想像からはじまる。
「鯛にも魂のあると思うときがあるですよ。
一ぺん痛か目に会った鯛は二度とは釣にかからんとです。

(4-79)
わしゃ息子から聞いたばってん、養殖のイケスの鯛ば釣ってみたことがあったそうな。
ひっかけて揚げれば何とも物言いならんです。
鯛どまがな。
ほかの鯛も餌につくとです。

じゃがいっぺんわが口にひっかかって痛か目にあって逃ぐればあの鯛もどげん待っていても食わんそうで。
ちゃんとほかの鯛に知らせるらしかですな。

…わしゃ思うたな、ああ鯛どま魂もっとるとな。
…で、わしは遊漁船の仕事は本当はしとうなかです。
客人がひっかけちゃ逃げた逃げたといわるる。
逃がせば鯛は懲りて次は喰わん。

ちゅうことはわしらにはねかえってくるですもんな。
漁師としてこれを考えゆれば、あんた、夜の寝れんことがありますが、まこて」
魚心にどこかそむいている後暗さが老人にあるのだった。

しかし、新造船は客をあてにして作った。
その建築費の返済のためにも、夏場から秋半ばにかけて、客を待たなければならない破目にある。

一日1万5千円の遊漁船収入は漁家の生計のひとつの柱になっているからだ。

(4-80)
もともと天草の観光の目玉はキリシタンと釣である。
それが主に外洋をのぞむ西海岸に陽が当たっていた。
観光マップを開けば、定って本渡の天草四郎像から西海岸の下田温泉、そして周遊海岸自動車は大浦、崎津の天主堂にいたる。

それにひきかえ、不知火海側は観光開発が立ち遅れてきた。
その要因に水銀汚染による、汚染魚さわぎ、水俣病が影を落としてきたことは確かだ。
そして観光処女地として深海に光がさしこみはじめたいま、漁民の期待も現実味を帯びてそれをむかえようとしている。

深海はフグをとることになってから暮らしが変わったという見方もある。
浜元重男さんはこう解く
「フグは深海のもんには自分でくわん魚じゃった。
フグをとらんでも、ここは鯛のくる、ガラカブのおる、甲イカ、岩ダコ、なんでん棲んどらすもんな、こやつどま。
道具をかえれば、遊んでいる間はなかじゃで。

(4-81)
フグは食わん魚じゃが高ううれる、金にゃなる。
こりゃいいということで研究したり教わったりしてやってきたでしょうもん。
フグは鯛とちごうて、大きければ大きいだけ金になるもんな。
鯛は逆に味の大まかちゅうとこで安くなるもんな。
年々フグの値段の高うなって、暮らしの楽になったとですよ。
くらしの中心になってきたわけ。

そんフグがとれんとなりゃあんた、生活ば落しもならん。
そいで金になることならなんでもとびつくとですよ。

外で吾智網で何トンとフグを捲きあぐる、こっちはとれんとなれば、遊漁船でもせんばくらしの立たんということになる。
そうじゃなかですか。
フグは金よ、魚じゃなか。」

ならば鯛も金ではないか
「深海の鯛ですばい。
鯛は不知火海に来んばならんとです。
不知火海がなからんば鯛にとっても困るでしょう。
産卵の仕事はここでなからんばでけんとですけん。
フグも同じお産して子供ば育てるとこですよ、ここは。

(4-82)
稚魚ば育てばそとに海の出る。
五、六年となってまたわが家を思うて帰ってくる。
じゃが困ったもんで網をひく、稚魚をひくでしょうが。
稚魚のうちにとってしもうて。
自分で自分の首を締めるといっしょ」

「イケス養殖にゃ何千匹とまっ黒か色した鯛が泳いどるでしょう。
あん目と鼻の先のイケスに。
イワシのサバのばっかり食うて群れとるでしょう。
それば横目でみながら、わしは天然の鯛ばとろうと海を這って去るいとる。
天然ものをみとるものにはあん黒い鯛は気色の悪かもんなぁ。
たぶればサバの脂の味のしとる風で。
そんで、あの桜色の綺麗か鯛をとるとに、生け餌のイカ、生きエビ、蛸の足のと、
美味かろうと思うもんをつけてそれでやっと一匹の鯛をとる。

1本釣りは智恵も根もつかうとですよ。
片方は何千匹か知らんが黒か鯛をやしのうとる。
それもわしの家内のもんが。
わしらは時代遅れちゅうことですかなぁ。
考ゆれば変わりました。」

(4-83)
老人は養殖の網の値段が半値と嘆くもんのおるが、天然魚をとる手間を考えれば、一丁前の値ば言うなといって苦笑いするのであった。

「1本釣りは早う死ねというのがいまの政府の本当の気持じゃなかですか。
養殖業者にゃ金をつぎこんだ分だけ情もかくるが、自由気ままな1本釣りは好きにやれちゅうだけじゃなかかな。
わしの一代限りかもしれん」
一本の釣りの終末観は一代限りのことばにつきる。

しかし明日のことは明日でなければ分らんと、海潮八幡瀬戸の魚道に船を走らせ、あるいは一攫千金との夢を楽しむのも彼らなのである。

ここに数枚を費やして深海の変わり目を詳しく見たのは、内海漁民のなしくずしの受難をみることで、水俣病事件のそれによって起こった
水俣漁民の受難を相対化したかったからである。
既にのべたように、不知火海の三数余年の漁協のなかで、深海は水俣病事件の渦中にも組しなかった。
鯛を柱に独自の漁業の途を生きてきた。

(4-84)
その変貌因子に水銀汚染、水俣病はないと少なくとも彼らは考えているにちがいない。
その深海の一本釣漁民社会の地くずれ的な変貌をみるとき、資本と政治は、つまるところ水俣病患者、水俣漁民に対すると同質同様の差別と無視、放置をもって深海を荒廃の淵に追いやっているかにみえる。

一九八〇年三月をもって、天草への離党振興法は終わった。
さきにのべた牛深の選挙がらみの構造汚職に、深海漁民は一向に無頓着であり、麻痺していた。
地方の保守的派閥に連なるボスたちは離党振興のための国費をほしいままに政治利権に利用しぬいてきた。

だが、その離党振興政策に切実に、その内実を求めたのは避遠の地の人びとであった。
可視的に道路となり橋となり、護岸となり、港湾となり、学校、公共施設、漁業施設となって、実現した。
この二十七年間の離島振興法を通じての政治操作の一環として、水俣病事件の波及を防ぎとめてきたであろうし、今もなおその抑止力は働きつづけている。

(4-85)
かつては深海へのゆききは海上の道を通じてであったろうが、いまモータリゼーションにとって代った。
巨大な消費財の流れは熊本市から天草のすみずみに至るのに半日で足りる。
それまで日本の全国平均的文化の思恵を待ち望んだのは僻遠のムラの人びとであった。

しかしそれは、ムラの固有の文化に時をかけてしみ入るごとく入るのではなく、土砂流のように到来した。
その流れの一方性の前には、逆の選択技はあり得ようもなかった。

家の衣服も食生活も一通り変わり、都市化が一巡するにつれて現金窮乏欲望の飢餓感がムラをおおうようになった。
生活の根底の漁業が内部崩壊し活力を失ったことがそれに拍車をかけている。

このわずか十年ほどの現金経済中心の生活様式への強行転化のつけはまだ十全に出てきていない。

(4-86)
しかし内海1本釣りにたよってきた深海漁業の将来は生き残る少数の”水産企業者”の下で被雇用者として働くか、観光遊漁船の船頭として働くか、いづれか、あるいは両方を支えとしない限り成り立たなくなっていることはたしかに思える。
それは一本釣りを成り立てせてきた基盤そのもの、人の生活といきものの生態系そのものをさらに汚し、弱め、はずかしめ、うちこわしていくことになりはしないか。

水俣における漁業崩壊の因果関係はほぼ鮮明である。
元凶にチッソがみえていた。
だが深海の内海1本釣漁業のそれの前面の”敵”は同じ漁業者の近代大型漁業であり、濫穫者であり、海水面の独占者たちなのだ。
複眼的にみない限り国とチッソの影はない。

漁師の一代限りの思いほどその衰弱の本質をあらわすものはない。
それは海の衰弱にもとずくものであろうか あるいは国と資本が水俣に対して行った暴虐、つまりかれらの棄民の意志に抗いたいからであるか、
あるいは漁民の敵が漁民になったからであろうか。

(4-87)
もしかりに海の衰弱に仮託して、因果を論ずるならば、不知火海に生きる人びとはこの海を棄てざるを得ないだろう。
国と資本に、あるいは”漁業者”が敵であるならば、その内外の人為と戦いつづけなければ未来はない。

だがその戦いにあたって、一代限りの海ではなくもっと巨きな時を生きる海そのものを見つめてなければならないであろう。
水俣の海ですら、死から再生へのパルスを送りつづけているではないか。
(以上で『暗河』誌に連載した小稿を終える、まさに手さぐりで沿岸被害者や漁協指導者のその後をフォロウし、一典型漁村をミクロ的に見た記録である。)