第5章 不知火海の“時間”とは ノート <1982年(昭57)>
第5章 不知火海の“時間”とは

不知火海の総合調査について国県それはついに今日までない。
それに対して不知火海総合学術調査団が色川大吉氏を団長として結成され、5年間の第一次調査活動を終え現在最首悟氏を団長として第二次調査団が後をついでいる。

前者は社会科学的研究に重点がおかれ、後者は自然科学、医学に力を注ぐ陣容である。
その調査団のお手伝いをしながら、門前の小僧さながらに資料よみの意外な面白さを味わった。
だが根本的には非科学的な些意性をもってする資料解読である。

それはいつに不知火海は死ぬのかどうかの推理であり、海の蘇えりへの主情的な願望からの資料よみである。
しかし、データーはそれなりに忠実にあたったつもりである。
そのなかで不知火海の漁業を一つの海として調べるだけで、公の総計、つまり二県の統計をもってしなければ、不知火海の輪郭の出ないことに気づく。

不知火海は東西と北部が熊本県であり、南は鹿児島県である。

(5-2)
つまり二県の総計がいる。

しかも、外洋と内海、その不知火海のなかでも水銀汚染のつよいと思われるところ、水俣を起点に半径三十キロの範囲に限るとすればその範囲の各漁協の魚種別、魚類別の基礎資料で再構成しなければならない。

そして各漁協の水揚げの記録も、属人、属地、つまり漁協組合員のとれ高の集計と、その漁協への出荷の集計と分かれており、専門家でも正確に漁の実態を把握するのはむつかしいと思われた。

ただ、その内海、水俣から三十キロの漁協のデーターから、いやおうなしに地先の海の魚の分布、回遊や漁協ごとの漁法の特性、ひいては、その漁場の海底のちがいと魚の好む生活への推理は立つ。

それを年毎に縦でみつめ、地理的に横で眺めるうちに不知火海の不死鳥のような活力が浮かび出てくる気がするのだ。

不漁といい、海のおとろえという。
とりつくし漁業ともいえる近代化漁法の発展を、ひとたび日本全国の中で見たらどうであろうか。

(5-3)
たまたま私は昭和元年から五十四年までの魚類別の生産量の累年別統計を開いてみた。
そして昭和元年①を基にして、何倍の生産量に達しているかを第二次世界大戦直後の昭和二十年(A)、
戦後の飢餓の時代、昭和二十五年(B)、
高度成長期の昭和四十年(c)、そして最新の昭和五十四年(D)の四つのポイントでとってみた(昭和元年を100とし)

  (A) (B) (C) (D) 現在量
にしん 57 31 9 1、2 (百分の一) 約7千トン
いわし 49 106 90 390 (約四倍) 二百六万トン
あじ 338 312 2420 800 (八倍) 約十九万㌧
さば 118 266 948 2000 (二十倍) 約百四十一万トン
さんま 8 336 616 740 (七倍余) 約二十八万㌧
ぶり 179 113 203 694 (七倍) 約二十万トン


(沿岸、近海もののうち網で取られると思われる前記の魚の半世紀の倍率はさばの二十倍、あじの八倍をはじめ効率である。
にしんは壊滅している。

それとともに(A)=戦時中に漁獲高は一線に減退しているのが分る)

遠洋、外洋ものは

  (A) (B) (C) (D) 現在量
にしん 57 31 9 1、2 (百分の一) 約7千トン
いわし 49 106 90 390 (約四倍) 二百六万トン
あじ 338 312 2420 800 (八倍) 約十九万㌧
さば 118 266 948 2000 (二十倍) 約百四十一万トン
さんま 8 336 616 740 (七倍余) 約二十八万㌧
ぶり 179 113 203 694 (七倍) 約二十万トン


(大型化、企業化、遠洋化が三十年代からはじまっている)

(5-4)
沿岸ものとして

  (A) (B) (C) (D)    
たい 18 53 65 67 (約七割) 約四万トン
いか 94 405 432 458 (四倍半) 約五十三万トン
貝類 114 166 335 392 (四倍) 約六十六万トン
海草類 51 63 91 145 (一倍半)約六十四万トン  


(海岸性の海草は実質的にのびていない。高級魚のたいは1本約低調、横這いを物語る)

獲る漁業を育てる漁業を比較すれば

  (A) (B) (C) (D)    
海面漁業 58 108 211 314 (三倍) 九百四十七万トン
             
海面養殖 152 120 950 2197 (二十二倍) 八十七万九千トン


養殖の急伸は千九百六十五年、昭和四十年から昭和四十五年までの五年間にめざましい)

(5-5)
昭和初年の漁法がどのような水準であったか不勉強で分らないが、
動物性蛋白質は主として魚に依存していた点で昭和十年代の漁業の必要生産量を物語るものとして、
仮に措定すれば、この半世紀間の獲りつくし漁業のすざまじさと養殖の急伸はすざまじいものがある。

また戦時中の漁獲低下、敗戦時の(A)の指数は示唆的だ。
漁師が兵隊にとられたこと、遠洋、外洋にいけなくなったこと、加えて、網漁の人手が不足したこと、
魚市場の機能がいわゆる闇ルートにとって代られ、数字が正しく反映していないことなどが推量される。

その反面、この戦争中、沿岸、近海,内海の漁族にとっては、休漁年ともいえる産卵の生育のほしいままな時期ではなかったろうか。

(5-6)
不知火海の五十代、六十代の漁民には「あの敗戦後の魚の多かも多か、手づかみでとれるほど魚のおった」という共通の記憶がある。
その豊かさが、彼らを漁業にひきよせたという。
日窒をやめるなどサラリーマン稼業から故郷の海にもどった話は、この世代からいくらも聞くことができた。

戦時中、老人や女、子供でも釣ったり、とったりできる、アジ、サバ、イカ、貝類は減っていない。
それは沿岸の人びとの需要を満たし続けたであろうと思われる。

不知火海の戦後の漁業統計を調べたいが、熊本県庁にある資料は昭和三十六年から漁業統計しかない。
肝心の水俣病発見当時より五年後のデータである。
しかも熊本県全県の漁業統計で不知火海だけを分けられない。
有明海も天草外洋も含む。(データー表別紙)

これによれば、熊本県の水産業は約二十年の間にゆるやかに倍増しているのが分る。

(5-7)
昭和五十一年からの増加分はマイワシ、カタクチの回遊が大きく、有明、不知火海の貝数の多収穫が作用しているが、
魚類は不振、横這いを見せている。

ながでもわかめ、あおのり、あおさ等天然海草の収穫は十分の一に落ちている。
自然海岸の急激な消滅と比例しているようだ。

その一方で養殖のりの大規模養殖は急伸している。
同様のタイ、ハマチ、アジの三種の養殖魚はこの十年余りに二十倍に増えている。

しかも養殖魚はキロあたり平均約千円であり、自然魚介数の平均キロ2百数十円と比べ値段から見ると四倍に近く、
生産量は20パーセントにかかわらず一般海面漁業の総生産額に迫りつつある。
こののっぺりした統計から水俣病事件のあとを意味づけがたい。
熊本県全体だからである、その不知火海の分だけでも経年的につかめればよいが、
それが可能なのは、昭和四十八年、第三水俣病事件の年からである。

全熊本県の生産額のなかでしめた二十三パーセント(昭和四十八)から昭和五十四年の11パーセントに落ちている。
比率では半減だが、自然魚介類生産量は一万五千トン台をゆっくり上下している。

熊本県側の不知火海だけの資料でみる限り、横這いのまま、よみがえりも死滅の道いづれをたどっているも即断できない。

(5-8)
熊本県の水産概要(一九八一年版『熊本県の水産』県林務水産部刊)によれば
「不知火海は、八代、芦北及び天草東岸によって囲まれた総面積千二百平方キロの内湾で湾奥部は東岸に干潟が発達して内湾性が強く
北部で水深二十メートル、中央部で三十から四十メートル、南部の深いところで五十から七十メートルとなり外洋に通じており、
湾中部(注、水俣芦北沖)から以南は徐々に外洋性を帯びている。

そこでの潮流は六ノットに及ぶ所もある。
この海域の特性としては、湾奥部と沿岸浅海部は主要漁族の産卵発生とその成育場となっており、
中南部は外洋性と内湾性魚類の種類が豊富である。

…不知火海では湾奥部一帯にクルマエビ、ガザミ(注、カニの一種)アサリが多く生息し、
湾南部にかけて太刀魚、マダイ、クロダイ、カタクチイワシなどの魚類も多い」

(5-9)
この熊本県版の不知火海のスケッチに、鹿児島県に属する、南岸、出水市及び長島の東町のデーター(表)をあげ、
補ってみると興味のあるこの海の状況がうき上げってくる。

これは水俣からコンパスで三十キロのラインをひいた範囲の漁協である。
これには八代沖や天草、大矢野島、三角周辺はふくまれていない。
潮流からみて、水銀の影響が少ないと思われるからである。

この十九漁協の総生産高は養殖を含め二千八百七十六トン。
この範囲での水産物の生産のうち市場を通ったものであり、これに自家消費分として、
一日×百グラム×二万人(漁村人口)の七、八百トンを加えれば、二万一~二千トンが年々再生産されていることになる。
その中で水俣は僅かに一、二%にすぎない。

そして最大の生産量を誇るのは東町であり養殖魚を加えると四十五、八パーセントと半分に近い。
所属漁船五百二十二隻(18パーセント)でこれだけの収穫をあげている。

(5-10)
今まで水俣病をめぐる漁業の説明の中で、この東町のしめる比重について欠落していた。

それは熊本県よりみた不知火海だったからである。
そして水俣からながめれば潮流のよせ、またひく南方に見える島である。
その間に無色の県境ラインが引かれているが、海はひとつである。
だが県の単位の政治、経済、情報が海をふたつに分けてきたといわずばなるまい。

東町の養殖については海の再生の一局面としてあとに触れるが、自然水産物の収穫量の四割が実にカタクチイワシとマイワシなのである。
そして漁師だけの町、御所浦、大多尾、栖本など、中幹漁村の首位は、これらイワシ、とくにカタクチイワシで占められる。

不知火海の漁村のいとるところに、レンガづみのエントツがみえる。
イワシを煮る釜とくど、そして干し場をもつ網元のたたずまいが見える。

この内海に早春をまって入るこのカタクチイワシは夜の海に産卵する。

(5-11)
はじめのうちは海の表層を浮遊し、のちに沈降する。
カタクチイワシは不知火海を回遊し、秋にもう一回産卵することもある。
こうした浮遊卵から稚魚がかえり、シラスとなり、幼魚となりこの地方の有力な産物、
煮干やシラス干しとなって漁家経済を支えてきた。

そしてこのカタクチイワシを追って、魚たちが入って来る。
水俣沖の太刀魚は刺身にさけば腹いっぱいのカタクチをたべて成長しているのが分る。
イワシあみにはこれらを追って群がった太刀、スズキなどがかかる。
このカタクチは他の魚にとっての生命につながる食物連鎖の環といえる。

これが外洋系とすれば、内湾にエビやガサミ、シャコなどの内海性の“環”がすんでいる。
不知火海の沿岸部、とくに河口部や北の湾奥部の砂や泥地にそれらは産卵をくりかえす。
底棲性のプランクトンとなり稚魚となり、カレイやフグ、タイ、スズキ、クロイオ、甲イカ、タコの餌となる。

(5-12)
浅い海のため、ときに水温三十度近くになる。

北部のおだやかな海は稚魚にとっての成長を助ける。
そして浅い岸辺は天敵から身を守るのによい。

内海の島々のある湾央部には、漁礁としてかくれる都合のよい岩礁、曽根や磯がいたるところにあり、すぐれた漁場となっている。
そしてこの湾央部には外洋性のプランクトンが流れこみ、極めて豊富な魚群を抱きかかえるのである。

<魚類>
カタクチイワシ、マイワシ、タレソ、イワシ、マアジ、サバ、ブリ、マダイ、クロダイ、チダイ、スズキ、コノシロ、グチ、サヨリ、カワハギ
グチ、クチゾコ、ボラ、フグ、太刀魚、ハモ、アナゴ、カレイ、ホウボウ、エイなど

<水産生物>
甲イカ、ヤリイカ、ミズイカ、クルマエビ、アカエビ、クマエビ、シャコ、ウニ、ナマコ、タコ、カザミ、イセエビなど

<貝類>
アサリ、ハマグリ、タイラギ、ヒオギ貝、アワビなど

<海草>
テングサ、ヒジキ、ワカメ、アオサなど

(5-13)
ときにイルカやクジラまで入る。
まさに不知火海は“日本の魚”の宝庫なのである。

「タイは深い岩かげに卵をうむ。
その稚魚は卵からかえって、まっすぐ上にむかう。
その海のおもにエサの卵のなからば、つまらん」という。
フグにしても、カタクチイワシなどの浮遊卵をあてにして産卵する。

稚魚は群をなして岸辺や浅瀬に育つ。
そうした稚魚群にとって、不知火海はすべての条件をそろえた海である。
水むるむ頃、外洋より産卵にくるタイやフグやイワシの群にとっては、水銀汚染があろうとも、
必ず一路めざして流れいる胎盤のような内海であるといえる。

まさに母なる海そのもののような自然条件をそなえた不知火海であるだろう。
故に一魚種が欠けても、その生命の連鎖のリングのこわれるもろさをもつ。
カタクチイワシが豊かに群れているかどうかは他の魚にとって死活の問題のはずである。

そのイワシ群がかつてのように内海に入らなくなったという。

(5-14)
周期的な回遊の差もあろう。だが次のような事実もある。

不知火海の入口にあたる鹿児島阿久根市の漁協のデーターによれば、
この阿久根漁協だけでイワシ類二万四千トン、アジ、サバなど群泳魚だけで一万二千トン、
それらはこの年間生産高の実に九十パーセントに及んでいる。

もう一方の八幡瀬戸の入口にある牛深漁協も右魚類で二万四千七百トンで全生産高の八十五%。
これらはもっぱら敷網、棒受網、一般まきあぐりといった漁法になる一網打尽である。

波あらい外洋部で操業のため大型化し機械化されている。
これらの数量はそれぞれ一漁協分で、優に不知火海十九漁協の全水揚げを凌駕しているのである。

勿論許可漁業であり不法なものではない。
しかしこの外洋でのとりつくしに近い漁法の影響は、まさにフグ釣りを破綻に追いやった構造とあまりに似てはいないだろうか。
この阿久根の操業の事実も不知火海の中からだけでは見えがたい“他県”の話なのである。

(5-15)
より正確に言えば外洋の様子は関心のそとにある。

マイワシやタレソ、イワシが来なくなって久しい。
海の水温の変化かもしれないと漁師は言う。
しかしカタクチイワシは別の習性があるのか、必ずのこ海には入ってきた。
ゆえにそれを内海漁業の柱としてきた。
外洋を不問とする分だけ、この内海のことはひだのひだまで知りつくし、わが庭としてきた。

(5-16)
かつて水俣湾とそれにつながる袋湾、茂道湾に二十一のイワシの網代があった。
水深十五メートル前後、岸辺に岸場あり、海に裸瀬、中瀬をもち、天然の産卵場であった。

水俣湾の入口に横たう恋路島とそれにつらなる明神の瀬、二子島ノ瀬、大戸ノ瀬、更に水俣川河口の浜瀬あたりは
ありとあらゆる魚類のあつまるところであり、とくにボラは大挙おしよせる所であった。
その沖、水俣灘は泥状の沼地をなし、エビ、イカ、カレイの棲息地である。

内湾性と外洋性のプランクトンの入り混じる海域に接し、黒の瀬戸から入る成魚の産卵に巡ぐる第一の足場の海であれば、
不知火海の漁民が、鹿児島の長島からも対岸天草からも、離島からも、めがけて水俣沖に出漁したであろう。
事実「水俣沖さにいった」という言い方には漁師なら当然といった響きがある。

そして獲れた魚を売る市場としては、この一帯でももっとも手なれた住環のみちであったにちがいない。

(5-17)
漁師たちにとっては、町境も県境も漁師間のとりきめとしてあったとしても、
不知火海をひとつの海と感得していたに相違なく、そこの汚染は、海全体の汚染と考えをひろげる形でなく、
自分たちの主な漁場の汚れとして共有の痛みをもったことであろう。

水俣病の多発地帯の漁家を二、三代前にさかのぼれば、天草、薩摩の島人であることが極めてしばしばである。
その縁者をたよって、“共同”して漁をしていた人が多い。
許可漁場権を要する網漁せよ籠漁にせよ、水俣の縁者の漁業者と組んで仕事をした。

新しい技術を教えあい、力をあわせて水俣の漁場を開発し、そして再び生地の海に帰っていった人々の
交渉史は枚挙にいとまがない。

天然の良漁場と人口を増し、市場として隆盛する町をあわせもった水俣が、不知火海の南半部の漁民にとって、
いかに密接な中核の地であり地先の海であったか想像を超えるのだ。

(5-18)
水俣病がまだ発見されて間のない頃、その第一号患者の発生地をつけて月ノ浦奇病といい、ややひろげて三年ヶ浦奇病といった。
水俣と冠せられたのはそのあとであった。

しかしよりその拡がりを自在ならしめたいい方は「猫おどり病」であっただろう。
水俣奇病との名称がつけられる以前に、患者発生のまえぶれとして、芦北郡合串、福浦などで猫が狂った。
それをあの「猫おどり病」と人はよんだ(昭和三十一年七月)

人体被害の発生に先立ち、あるいは頃を同じくして、「猫おどり病」は離島、獅子島、御所浦の離島から、
鹿児島県境をこえ出水の米ノ津にまで至っていた。

この猫の発症はついに牛深までに及ぶ(昭和三十四年)
その点「猫おどり病」は水俣をはるかに離れ不知火海の拡がりをもっていた。
ゆえに水俣病は当時の歴史的な命名であったとしても、その実質はもっと適確に応用されてしかるべきであったと思う。
新潟水俣病、有明海水俣病、カナダ水俣病と同様に、“不知火海水俣病”としてとらえるべきであったろう。