亀井文夫と私
撮影は極力拒否したんですが、プロデューサーには、亀井さんの映像を将来のこしたいということがあるらしくて、後で全部カットしてもいいからともかく撮らせてくれということで、5日ほどもめたんですが、「なぜ、おまえは人を撮るのに自分を撮らせないのか」という非常に致命的なことをいわれまして(笑い)
まあ、今日はしょうがないという事で、こういうあわれなかっこうになっております。
私自身が罪深い商売ですので、今日はさらし者になるつもりでおります。
亀井さんの映画について私ごときが語れる立場にございません。
楠木さんはここにおられますけれども、私の30年来の友人で、私に亀井さんのことを本当に教えてくれた人です。早くから伝説上の人物だった亀井さんについて教えてくれた数少ない方の一人です。
ここにある辺境という、宣伝じゃあないんです、ほんとうに良いから紹介するんですが、亀井さんについて、亀井さん自身がかかれたものは非常にすくないと思います。
それでこの辺境の二年前の号に、映画にシナリオの採録と、楠木さんの論文がのっております。これは非常に良い論文ですのでぜひ読んでください。
それから次の「記録」に亀井さんあらゆるエピソードを思想的に追った原稿が発表されます。
百何枚というたいへんはボリュームでですね。私は先に読ませて頂いております。それから近く谷川さんという方が非常に記録映画にくわしく、資料性が高いんですが岩波新書で本をだされるときいております。
そういう点でお手元にお配りしたのは、彼を一番知っている野田真吉さんのエッセンスのような紹介文です。
ついこの前、新しく「日本映画監督全集」という改訂版が出たんですけど。その改訂版には遺作となった「トリ、ムシ、サカナの子守唄」の紹介が加わっているほかは、むしろ縮小されております。故人というかたちで縮められておりまして、これが長いものですから参考にお持ちしました。
それから、もう一枚ございます。三木茂さんというのはこの映画のカメラマンです。
非常に作品歴が少なく書いてございますけれども、実際に膨大な劇映画のカメラマンとしての業績があります。そこにもちょっと触れられておりますように溝口健二,伊丹万作、そういった方々の代表作といわれるものはこの人の手になったものです。いまご覧になった映画について私はとやかく申し上げる事はございませんが、ただひとつ言えますのは,野田真吉さんなんかともいろいろ話したり、それからこの映画の現在では多分現存者としてはお一人だとおもいますけど、この映画の時、カメラの助手につかれた、つまり三木茂さんの助手につかれた瀬川順一さんは私の映画にはいった時からのお師匠さんです。その方の記憶をたどりますと、シーンが一つ,二つ抜かれているということがはっきりしています。
それからもう一つは、さっき影書房の松本昌次さんと話したんですが、私は「この映画は非常に残念ながら良くないと」。つまり良くないというのは映像は良いんですが。
ある録音スタジオの片隅にほこりをかぶって眠っていたフィルムが発見されたと、それがたしか1975年だと思います。作られたのが1938年から9年ですから、40年近く眠っていたと、それから切られてもいたと。
それが全部で3本焼いたそうですが、一本は戦争直後の「戦争と平和」という亀井さんと山本薩夫の共同監督の劇映画がございまして。有名な「ふるさとはどこ」という流行歌にもなりました中国の戦争の被害を受けた人々を舞台にした、戦後民主主義的な映画の奨励の中で生まれました映画、その映画の中の中国のシーンにだいぶ切ってつないでしまった。
もう一本はこれはまったく行方知れずですが,今日でました中隊のシーンの中隊長が「ぜひ自分の国の鹿児島でやりたい」と「俺は鹿児島では有名なんだ」とうことで、一本くれとというんで、焼いてさしあげたということがわかっています。それは行方知れずでわかりません。
それで今一本はこのフィルムで,東宝が戦争中にこの映画が発禁になりましたけれども、最後の最後まで出そうと思って、彼らの手できり縮めたものだと,亀井さんはかんがえておられるようです。それが残っていたと。
どういうシーンを切ったのかといいますと、丁度真中ほどにございますが,戦死してしまった友人に郷里から家のものからの手紙が届いたというところなんです。
そこで遺品をみせながらそこで本当に哀切きわまりない、その手紙がよまれたというシーンなんです。そのシーンのあとに,突然、録音的にはおかしな個所がございます。それはそのシーンのあとに「大君の辺にこそ死なめーこの言葉を思うとき,兵隊の感情は美しく昂揚する」という字幕がでます。
その後に野辺で、亡き兵士の亡骸を焼くシーンが確実にあったと、その炎によって浮き出された戦友のシルエットがある。そのシルエットと火の燃える音にダブって彼らが自然に口ずさんだ君が代がある。その君が代は実に調子はずれであった。パチパチという音と君が代とで,自分は撮ったときも編集したときも感動したんだと、何もいわないでそれをただ提示して見せたと、それがカットされている。
今日の注意してみましたら、サウンドが確かにおかしなふうにプツリと切れておりました。
多分その個所だ思うんですが、亀井さん自身のこの映画における一番好きなシーンをもしあえて上げろというなら、亀井さんは馬の倒れるシーンとある兵士の亡骸のシーンが一番好きだ。その兵士のシーンが切られてしまった。俺は実に情けないということを、情けながら言う人ではないですが、やはり、自分の作ったフィルムの運命というものについて,後年,自分のフィルムに再会したとき、やはり,命をこめてつなぎあげたシーンが企業によって切られているということに、たいへんな悲しみをおぼえられたということだと思います。
このフィルムが我々がこうして見れますのは、亀井さんのなんていいますか、普通、東宝で、戦争中、映画をつくった監督が,自分のフィルムをもっていても、発表することはできないんです。もし、発表するとすれば、それは名画座なんかの配給ルートと同じように、大変なお金を東宝が請求します。
今でも例えば黒木和雄さんの「とべない沈黙」をいま借りても、腰の抜けるほどの貸し出し料をとられます。
これは映画が発見されたときにネガがないわけです。ネガがバラバラにされてしまっていてない。結局、かなり見られる形で残っていた。しかし、映写されたたて傷にある35ミリフィルムから反転で。反転といいましたがどういう風に作ったかわかりませんが、ともかく複写して、16ミリを作ったわけです。
その16ミリが亀井さんの手に渡された。世の中に公開されていないフィルムで世評はたかい、誰が貸すかという場合に,ある種、亀井さんの人徳といいますか、そういった形で、亀井さんのところに一本のフィルムが残された。それは今日はこうやってみられるわけです。なおビデオもあります。
先ほど、画がよくないといいましたが構図とかそういうことではなくて、そういったコピーであるために白黒で本当にすばらしい画調に仕上がっていたであろう。本当に白黒で色を感じるということがあるわけなんですが、カラーを見慣れていますと,白黒のよさが改めたなつかしいんですが、おそらくゾクゾクするような画面だったとおもいます。
それから録音も、オリジナルなサウンドからとれていないためにたいへんにくぐもった、聞いていてちょっとつらい音声になっていると、例えば露営の根拠地でいろんな病人もいる。そこで、みんなそれぞれが食事をつくる。そして負傷兵は、いろんな手術を受けるシーンでメスを研ぐシーンがあります。そこにメスを研ぐシーン音が入ってします。この音は当時の映画を見た人が総毛だったといわれる音なんです。つまりその音が次の順番をまつ兵隊の顔のシーンにダブって,黙々と研いでおると、レントゲンフィルムがその負傷兵の骨折なんかを見せているというんで、その音はたいへんショッキングだった。
しかもそれは後で作ったものでなくて、現地で取った音ですよね、ですから例えば似た音は馬の蹄をうつ音とか、そこでやすりをやる音とか、それから中隊のシーンなんか、完全に同時録音でとっています。いまのようなテープは在りません,昔のレコードを吹き込む時のようなデイスクというものをつかって、とったそうです。そういった点でもっと原版だったらもっと、清爽なフィルムであったと,ご想像願いいたいと思います。
それで亀井さんについては,非常に長い人生のドラマがありまして、私も楠木さんが今度辺境で出されます論文ではじめてしったんですが、どういう生まれをしてどういう家柄でどういう体験があってとういうことを、事細かに、読ませていただいたんですが、というのは楠木さんは亀井さんの最後の弟子といういって差し支えないと思うんです。
僕は孫だとおもっています。つまり亀井さんといっしょに仕事されたかたの伝聞によって、そしてフィルムによって,亀井さんをいかに学ぶかということを考えている人間で,僕と丁度年が20歳違います。
僕も今年,還暦になりましたので、現在はされておれば80歳のはずです。
そういった方で、私は子供の世代であるんですが、作品的には孫の世代であると思っています。
私は一般に鑑賞者として、一般観客として、ただの男としてこのフィルムをみたいとおもうんですが、やはり、これで7から8回みていますが、毎回吸い込まれながら,この映画がどうしてできたのか。どうしてこういう傑作が生まれたのかとうことをさぐりたいといくか、なぞをときたいと、それからなんとか自分のものにしたいと思うんですね。
そういう助けになりましたのは、実はこの数年前からキャメラマンの、先ほど申しましたような70歳80歳になられる戦争中のドキュメンタリーといいますか、文化映画を体験された方々の最後に後輩に残そうとする仕事、その後輩というのはカメラ助手、あるいは若いカメラマン、あるいは自分の周辺の撮影部の方そういった人達に、さかんに残そうということで、昔の資料をですね、いろいろ集めて、1987年に,今から47年前ごろの資料をですね。いくつか、どこか図書館で見つけてコピーしてきます。私がたまたま岩波の日本映画講座の中で,亀井文夫との対談、ならびに亀井文夫さんについて書けといわれて私ごときがというので,固辞したんですが、亀井さんと本格的に対で話したのはその対談だけになってしまって、なくなられる前に病院にお見舞い申し上げたぐらいしかお付き合いはありません。
その際に,私が一つの小文を書きました。それは実をいうとそのカメラマン達が撮影部がやっている勉強の中味を僕なりに追体験してみようと、カメラマンがどこで亀井さんを学ぼうとしているのが、どこで亀井さんに対してある意見をもっているのか。それはどういう質のものか、それはドキュメンタリーにとってどういうものか。
まずそういう事を非常に気になったわけです。それでこの中で「戦う兵隊」の前作の「上海」という映画と、それから彼がまとめましていま現物が全く見当たって降りません「北京」という映画とそれから「南京」。南京は亀井さんではありません、構成は秋元憲という方です。それから「戦う兵隊」がどういうふうにこれが進んできたのかという事に、その点だけに限って今日はお話してまだ足りないとおもうんですけど、なぜそういう作品設定で「上海」から「戦う兵隊」まで私が話すかというと、そこには実は今でも記録映画として、改めて討議したいような諸問題が実にぎっしりつまっているような気がするんです。
それはある意味ではいつの時代にもわれわれが勉強しておかなきゃいけなかったこと、本当はその中味を自分のものにしておかないために、どんな回り道をしているのか、どんなに回り道をしてしまったかというように思うんですね。その端的な例が,1975年に初めてフィルムが見つかりまして日本映画新社のご好意によって、確か35ミリでみました。
その時に私はものすごく興奮したんです。というのは、もしこれを僕が戦後すぐみていたら、私の映画の作り方が変わったろうとつまり、この映画には早くも僕がこころみたいとかあるいはこういうふうにしたいという事が見事にやられている、成し遂げられている。このお手本をどうして僕達はみれなかったのか、感銘を受けると同時にものすごく惜しかったし、悲しかったし,又、なんというか探究心というか、なぜこんなフィルムができたんだろう。たとえば今でこそ画面と音が同調しているのは当たり前になってますね。テレビ、ビデオ、カメラでも映像と音声がバラバラなんてことはないわけです。ところが私の作品で言いますと,水俣シリーズの最初の頃は,音と画とがそれぞれ別にとって、それを苦労してなんとか帳尻を合わせるように合わせてやると、カメラも今、撮っているカメラは全然音が出ませんでしょ。前のカメラはものすごい音がするわけです。
回転音がじわっとするわけです。その為にカメラが回っている時には、マイクをまわさないわけですね。キャメラが終わると「じゃあ,話を聞いて良いか」とカメラをやるから,口が会うわけがないんです。ですからその時に映像に写っている顔としゃべっている事は同じトーンで同じフィーリングの時には、かろうじてこの顔の時にこの言葉が出たんだなというふうに納得してもらえますけど、しかし厳密にはうそです。
つまりその時の顔でその時の口でしゃべった言葉はないわけですから。この事が大きい制約でした。もちろん経済的に許せば、そういう機会はあり、そういうことは試みられたんですけど、私が水俣を撮ったころには、そういう条件は自分の手元にありませんでした。1973年になんとか真似事にように,機材の無理をお願いしてそしてシンクロという方法をとりました。それは僕の作品で言うと,「水俣一揆」で、一つの部屋で会社と水俣病の患者さんがものを言い合うと,怒りあうと、怒り狂うと、それを受けて立つというシーンだけでなりたっている映画なんですけど、そこで初めてシンクロ撮影をしました。
それから二年後に「戦う兵隊」をみたわけです。その時すでに戦場におけるサウンドとかいろんなシーンの音と画がぴっちり取れていると。その事によって亀井さんが大変なやっぱり、玉虫色という人もいますが、僕は玉虫色とは思っていません。非常に明快な主張を持った映画で,玉虫色どころではなくて,黄金虫だと思ってますけど、玉虫色に見えるフィルムだというふうに、よく人がいうんですけども、そういうふうにいわせるものはなにかというと、作者の本音を言わないで,字幕には字で読んだら、いくら検閲官がみてもどぎつい言葉はつかっていない。非常に短い言葉で戦争を遂行しいくことにさまたげになるような字句は使わないで、字幕にかたらせている。そのかわり音響的には,映像とかさなり合わせる時に、我々の方で彼のいわんとするところを獲得出来ると、それはナレーションでいわれてわかったというのではなくて、我々が亀井さんの構成力と編集,三木さんの映像それから音の卓抜な撮影に行く前の計算ですね。
それから構成編集、録音におけるみごとな作業によって、我々はいつのまにか、観客として画面の中に入っていって,亀井さんのいいたい主張を、主張はいうまでもありませんからいいませんけれども、そういった映画的なメッセージを確実にうけとれるという方法をとっていると、こういったことは実は亀井さんのその後のフィルムにもあっただろうか。そういう意味では見ていません。まだ「上海」と「戦う兵隊」あたりで、僕ウロウロしていますけども、というのは戦後はみているわけです。戦後はみてますけれどもこの「戦う兵隊」ほどでシャ-プにその事を僕にせまったフィルムはないように思っているわけです。
これは勉強の幅がまだ「上海」から「戦う兵隊」までですから、そのつもりで聞いて頂きたいんですけど。そういった意味で対談をさせて頂いたときに、「録音はどういうふうなお考えになったんですか」と聞きながら「いやあ、それは君、ものすごく大きな機械で、キヤメラより大きい機械だけど、一台遊んでいたから、それを4人がかりで持っていった」と。それはいろんな仕掛けがありまして、重たさも重たい、たいへんなものだったと思います。それをあえて持っていったということがあります。音楽は古関裕児而がやっています。
僕が子供のころ、一生懸命歌った軍歌じみた歌の作曲者でもありますけれども、あの映画では記録映画で第1回目の音楽だといっておられました。記録によりますと40数名のオーケストラを使って,男性コーラスを20人つかって、つまりこの音楽的編成は,大劇映画の一級品と同じ音楽構成です。
知名度もあったがどうか知りませんけど、古関裕而という新進の人に思い切りやってもらうという事で,冒頭の火をつけられて焼かれている民家とか、野の仏とか、ああいったシーンに流れている男性コーラスというのは、やっぱり一箇所しかでてませんけど、その為にコーラスも使うと、つまり映画としては当時の稀に見るていねいな金をかけた仕上がりになっているというふうに、そのことでいえると思います。
それで亀井さんには「戦う兵隊」で現地に行っております。時に病気で上海の軍の病院に入院したということはあるそうですけど,現地に行っているフィルムです。「上海」というフィルムは彼は現地に行っていないんです。「北京」というフィルムにも現地に行っていないんです。後の作品は「小林一茶」「伊那節」は見違えるように彼は現地に行って撮っている,その分かれ道が『戦う兵隊』なんです。
彼として彼だけでなくて,やっぱりその時の同輩達の息吹きが,昔の座談会とかそういうものに出ておりますけども、つまり演出家は現地に行くことができるようになってきたというのか、昭和15年『戦う兵隊』を作ってロケしてから2年『戦う兵隊』を完成してから翌年ぐらいの昭和15年くらいにそういった流れが記録映画の中にでてきたということなんです。
キャメラマンの人たちの勉強の基礎になっているのは一つ未完の不発の論争があります。その論争はキャメラルーペ論争というのです。それは亀井さんの言葉から三木茂さんが反論し、それに対して亀井さんならびに秋元憲という方が反論し、それに三木さんが再び反論するということで、論争は燃えさかることなく終わりました。しかし、そのことが未だに現在の、瀬川順一さん、それからこの前亡くなった瀬川治さん「落とし穴」なんかのカメラマンですね。それから若いカメラマンの方々のなかで未だにあの論争の今日的な意義を論じられているということなんですね。そこのところが私は作家として一番興味があるところなんです。
というのは私が演出家ですから。私は自分でキャメラを廻せませんし、映像というものを本当にわかっているわけではないです。演出家としてあるいは構成、編集者として映画をスタッフといっしょに作っている。ですから、その時代の亀井さんがどうやって『上海』をつくる、あるいは上海をつくるまで、どういうふうに処遇されていたか、あるいは演出家というものは記録映画における演出家というのは,どういう位置にあったのか。その以前に昭和ひとけたに日本の無声映画は世界の第一線に伍する水準に行っていますし、トーキーとしても名作が次々に出ており,丁度太平洋戦争に入る前は、いろんな意味で日本の映画のピークをむかえていたわけですね。たいへんないろんな映画伝説が生まれている。たくさんお金を使ったとか,巨匠像とか,神話とかそういうのが累々と映画に残されています。映画史に残されています。
当時もあったとおもいます。撮影所におけるスターシステムが完成し松竹カラーというものが定着し,東宝がなぐりこみをかけていると,その他、俳優さん中心の嵐勘十郎という人とか、坂東妻三郎とかそういう人たちのスタープロダクションが劇映画でよい仕事をどんどんなすっている時期で、記録映画という言葉があったかという事です。それを当時の文献で見ていると,当時の文献といっても、記録映画の文献は東宝にありました東宝文化部のものしか充分に残されていません。後は厚木たかさんの仲間の方々とかそういった方々のがありますけれども、やはりなんといってもその当時の文化映画の最先端をゆき,戦争中のニュース映画をほとんど構成員の7から8割を占めていたのは、東宝記録映画部出身の人たちです。その中で多くの「戦記物」が作られてきました。
亀井さんに即して言うと分りよいと思いますけど、手元に年表がありますけど、彼がソビエトにいって勉強し、絵を勉強にいったのが映画に非常に感動して映画に可能性をみつけて帰ってきたとそれから3年ですか、肺結核で療養しておられて、それからもう一回ソビエトへいこうと思ったんだけど、昭和8年に話があって東宝にはいります。その東宝にはいったと、その時期に昭和10年ぐらいから映画ということが国策上非常に重要視され始めてきます。例えばゴジラの映画で有名な円谷さんとかそういった人もふくめて、まだ皆がわかいころ、映画をつくるチャンスを狙っていた時に、ある程度長編という形で映画がつくられたのは、軍の考え出したプランによる映画であったようです。しかもそれが成功して興業的にも一流館で上映して、しかも飽きずに人がみにくるという現象がその後に作るにつれて,長編記録映画といまだったらいうんでしょうけども、いわば海軍の例えば「足柄」という最新鋭の巡洋艦によるヨーロッパ周遊記とか、あるいは何とか言う軍艦、わすれましたけど、円谷さんがキャメラマンとして、あるいは監督もかねてのりこんでアジア各地を回ったフィルムとか、そういうのが長編にまとめられました。最初に亀井さんが電力会社のフィルムとかいわば短編ですね。短編だから一挙に長編を手がけたのは昭和11年ですか「怒涛をかって」という
そういったやつの構成編集において,非常に頭角をあらわすと,一挙に亀井さんの名が知られるということになってきます。その成功が映画人の中の文化映画をやっていた人たちにものすごい衝撃を与えてゆきます。そういう事で劇映画の栄光の影で、いわば時代的な要請によって社会教育映画的なものとか、あるいは生活改善とか、あるいは伝染病防止とか、あるいは電気のつかいかたとかそういった短編を、それをやっぱり非常に数がでたものですけれども、そういうものを作っていた世界から、言わばドキュメンタリーらしい試みが、作家の側に歩み寄ってきたというふうに、そういう時代だったといえると思います
それで戦争は昭和12年、1937年に、もっと前から始まってますけど、映画として、東宝が意図的に長編の戦記物を作ろうと思ったのは「上海」からです。
当時の記録によりますと「上海」「北京」「南京」という三部作を作ろうということで、その第一作が「上海」だと、その「上海」はキャメラマンと録音の方しか行っていません。それについて、だいだい亀井さんが編集構成するというふうに決まっていたと思うんですけど、彼は現地にあえて行っておりません。三木茂さんはそれ以前に「黒い太陽」という皆既日食を撮影して、そのときは二人のカメラマンで撮影しておられます。林田重男さんだと思いますけれども、二人とも大変な名手です。しかし撮影歴からいったら三木茂さんがはるかにあついわけですけれども、どういうすごい事をやったかといいますと、月の動きと太陽の動きがいっしょになって、皆既日食になるわけですね。真っ黒くなるわけですね。ところが雲がかかったらそれは見えないわけです。ところが皆既日食になる瞬間を誰も予想できない。しかしそれは何10年に一遍しか日本ではみられないということで、つまり太陽の動きを確実に追う特別な設計をしたんです。それはたいへん長いレンズで、望遠レンズですから、少し揺れても風邪がふいても、車が通ってもこんなに動いちゃうわけですね。それを動かないようにしながらしかも太陽の動くスピードに合わせて、雲があっても太陽にうごきを予想して、雲が晴れた瞬間にど真ん中にいるという離れ技をやったんですね。その為にたいへんな準備と金をかけて、今まで見た事もない皆既日食の映像をとらえたと。それはそれ自身が方法であり、それ自身が技術であり演出であったという事がいえると思います。それを三木さんはなぜ劇映画をやめて記録映画という文化映画をやるようになったかとうことがあるとおもいます。なぜ若い亀井さん達のようなすぐれて人たちが、他日を期してやっぱり東宝の文化映画部にいたかというと事があります。それについては皆さんがちょっとドキュメンタリーの歴史をお調べになればすぐわかると思いますけれども。ソビエトの「トウルクシブ」という有名な建設記録があります。つまり社会主義建設の記録映画です。それをみて、つまり我々が黒沢明をみて映画をやるといっても、今僕の世代にずいぶん多いいんですけど、その当時映画をやろうか、特に劇映画じゃない映画の可能性をみつけた人が、よく口にするのはこのソビエト映画なんです。それからジガベルトフのかいた理論ならびに断片を衝撃を受けて受け止めた。
それは1920年代の「カメラを持った男」というので、今の日本にあります。四谷のイメージフォーラムにプリントがありますけれども、ぜひ機会があったらご覧になったらよいと思いますけれども、1920年年代の中ごろにジガベルトフという人が「映画の眼」と(キノアイ)と英語でいいますけれども、「映画の眼」という題名、あるいは「キャメラを持った男」という作品をだします。これは映画はどれだけのことができるのかという可能性を全部えがきつくしたフィルムです。それは今では普通になったフィルム、普通だと思われる移動撮影があります。
飛行機で飛ぶ空中撮影があります。それから早回し、あるいはゆっくりまわすということで、人間の目では獲得できないものの動きを短い時間の中で表現してゆくとか、あるいは肉眼では絶対にありえない引き伸ばしをやるとか、そのなかには赤ん坊の出産シーンまであります。つまり女の人が自分で出産の瞬間は見られないという意味で出産シーンがあります。ガリカリにひっかいてメチャクチャになっていますけれども、その意図は人間の目をこえたまなこをキャメラはもつことができるという宣言的な意味で。自分では背中がみえないと同じように自分の子供の誕生の瞬間がみえない。だけど映画はみせられるんだという意味で、そういうカットをもっております。非常に強烈な映画宣言で、これに影響を受けなかった映画人はいないと思われますけれども、今見ても映画はなにができるかということをほとんどしてしまっておられます。ジガベルトフとか、そういった人の理論をやっぱり亀井さんはむこうで聞かれただろうし、それから日本で公開された「 人生案内」とかいろんな、あの「戦艦ポチョムキン」はたしかに戦後なければ公開されなかったとおもいますけれども、そういったのを外国で見てきたり、その当時の映画はソビエトの表現が最先端をいっていたと、そういった事をレニングラードでみてきた亀井さんがおられる一方ですね、やはり日本の中の昭和一桁の若い青年たちは、なにかいわゆる「スター、チャンバラ」じゃない我々のドキュメンタリーを作ろうということで、映画にはいってきた。この前亡くなった加納竜一さんは、原爆のフィルムを占領軍の命令に背いて密かに隠匿して、占領が終わった瞬間から日本でそのフィルムをとりだして発表していたということですね。いわば軍事裁判を覚悟して。自分達の撮った広島、長崎のプリントをアメリカは全部没収したんです。全部没収して日本にひとかけらもないと思ったフィルムをほぼ完璧な形で残していただいた・撮影もされたし、現地撮影のプロデューサーもされたし、そのフィルムの保存に責任をもたされた加納さんがおられて、たいへんにいろいろな豊富な記録映画の人材を育てられた人ですけれども。その人の手記をみても京都大学から親のいいつけに背いて映画に飛び込んでしまったというのはそのソビエト映画の影響。それから衣笠貞之介の「狂った一頁」という非常に前衛的なフィルムというようなものの、そういったものが映画の青春だったころにやはり飛び込んだということがあると思います。だから三木茂さんは「なぜ自分がきたか」という事で、記録映画の方法の方がはるかにおもしろくてはるかに自由だと、自分は「上海」という映画で延々たる移動をやったと、戦場の移動ですね。それから延々と長いパンをしたと「気持ち良かった」というんですね。つまり劇映画ではそういう事がないわけです。スターがいるところからスターがいるところまでしか撮らないし、特にセットですと、ギリギリまでマイクが来たりしていて、ちょっと動かしてダメ、もう約束ごとですね。キャメラはスターと芝居を通じてね。固定されていると、キャメラマンがもちろん「自分はこれを撮るんだ」ということで、かなり力をもってますけれども、思いきりキャメラを自分の思うとおりに撮ってみたいということは、しかもそういったキャメラで写したものが一つに作品となって、自分の気持を表現してくれるんだというようなことをやってみたいというんで、たいへんな高給取りであった超一流の技術者から記録映画の方にこられて、さきほどもうしたように「黒い太陽」を作られたわけです。岩波映画をつくった吉野けいじさんと方がいますけども、その吉野さんという人も劇映画で一流のキャメラマンだった人なんです。羽仁さんのかいたものによれば「なぜ吉野さんは劇映画の世界から記録映画にいかれたんですか」といったら「君、トーキーが出来てね。マイクが一番えばるんだよ」というんですね。マイクで音をとるためにキャメラがよっていけないとか、そこをキャメラはこういうふうに動いてもらったら、その当時のマイクが性能が大変だったと思うんですけど、トーキーということが売り物ですから、音がついているというのは驚天動地のことでしてから、そういった世界になるにしたがって、無声映画時代にもっていたキャメラのみずみずしいキャメラのアクションというのは固定されてくると、音が大事か画が大事かといつもいやというほど毎日あじあわされているという世界になって、やはり記録映画は映像で語れる世界にしたい、そういった思いのキャメラマンのたいへん優秀なひとが東宝の文化映画部に移籍をきめます。ところがたいへんな劇映画の監督で、その当時記録映画にいった人は一人もいません。つまりそこでルーペ論争が非常に感情的にもつれにもつれてしまったというか。僕からみていると野次馬的におもしろいケンカになるんですけれども。そのやり取りの中で、たいへんに重要ないつくかの事がズルズルと芋ずる式にでてくるわけです。ということはたしかに「戦う兵隊」を撮ったあとの座談会ですけども、その座談会の新年号のですね。トップに記録映画の座談会が登場します。これは1940年、昭和15年一月号の巻頭の座談会なんです。それは「日本文化映画の初期から今日を語る」というんで、登場人物は亀井文夫がトップです。それからキネマ旬報からは石本統吉という、この人はたしか作家ですけど、石本統吉さんが出ており、あと東宝の若手の秋元憲さん。それから同盟というニュース会社がありましたけど、その田中よしじさん、それから評論家の上野耕三となっているんですけれども、この人の戦後に映画を作られた人だと思います。その5人による座談会があります。そこで亀井さん「トルクシブ」や「上海ドキュメント」「幸福な港へ」三本などをみて大変影響されてはいったということがありますけど。映画法というのが昭和15年に出来まして、文化映画は必ず劇場で劇映画といっしょに、短編物は併映されるということで、一挙に保障された量産時代がきます。そしてしかもそれと並行して長編の記録映画の成功がでてきます。そういった中で「上海」が生まれ「北京」が生まれ「南京」が生まれ「戦う兵隊」が」あいまになっている。
しかし「戦う兵隊」は万という人が見ているんですね。かなり自信を持って東宝が売りに出そうとしてましたから、もうその当時の観客動員というのは、娯楽がありませんからたいへんなもんですから、一万ぐらいみせた。そういった中で亀井さんの今度の写真はすごいということはあったと思うんですが。だからこの年は32歳ですかね。1908年生まれの1940年の発言ですから32歳です。32歳の新進気鋭の亀井さんがやはりあの「我々はこれから本当にドキュメンタリーを作らなくちゃいけないと、しかも作家を中心とした、作家の映画を作らなければいけない」ということをいうあまり、その前にこういう事があります。その前年に厚木たかさんのの翻訳でポールローサのドキュメンタリーの理論書が初めて翻訳されます。原語ではその2から3年前にきていたわけなんです。イギリスの代表的ないわゆるイギリス流ドキュメンタリーの中心的な人物で理論家の女のかたです。それは若手の演出家の厚木たかが翻訳した、古典的な本なっています。
ここにもあつたと思いますけど、その本がでてバイブルになります。みんながポールローサがどういった、ポールローサの本にどう書いてあるということがこの座談会でもしきりにいわれます。この中のやりとりでおもしろいのは、亀井さんの「戦う兵隊」をみたある批評家が「あれはポールローサの本ができたからああいうのが出来たんだね」というふうにいっても、彼が憤慨するところがあるんです。「俺が「戦う兵隊」でロケに行っている間にでた本だ」と、俺は読んでいるわけじゃないと、ポールローサの方が俺のに似ているんだというんで名啖呵をきっているんですけれども、その中で直接の主題でいいますと、キャメラマンは本当にいろいろなところをみてほしいと、かなり終わりのほうにポロットいっちゃうんですけどね。亀井さんの「戦う兵隊」のおかげて監督が撮影者について行く傾向が相次いで現れてきた。これはとてもよいことだと思うと、ドキュメンタリーにとってとてもよいことだと思うと、ということでみんなで意見を本当にうれしくしゃべりあう時に、亀井さんがポットとカメラマンはルーペからしかものをみていない、ルーペというのはファインダーですね。その当時はキャメラの脇に映画の画面とほぼ同じフレームのルーペというのがありまして、そこで今フィルムにどういうものが写っているかというのを判断するわけですけども、それは距離のバラドックスといいますか、距離による誤差を全部修正できるもので、キャメラマンの命ですね、そのルーペというのは。
そのルーペのことを、キャメラマンはルーペからしかものをみていない、自分ののぞいている世界のなかだけしかみていないと、それは悪い意味でいうわけです。「目隠しされた馬のようなものだ」というんですね。「キャメラを預かっている以上それは当然のことなんだが、だからこそ演出家が後ろや側面の世界をみるために必要になってくる」というひとことをいうんです。この一言しかいっていないんです。
それに対して猛然たる反論がでてきます。その反論は三木茂さんです。三木茂さんの反論の立場といいますと、彼は功なり名をとげベテランとしての、キャメラマンとして、あえて自ら選んで劇映画ではなくて新しい見地で文化映画の世界にきたと、これはたしかに亡くなるまでその通り生きられた方です。
その三木茂さんがかなりおもしろいことをいっているんで、ちょっと紹介させていただきます。やはり映画の雑誌にそれに対して反論をいたしまして、文化映画演出者への手紙という。長いからはしょりますけど、その中で亀井さんは、かくかくいっていると、演出家が前方をみるんだと、横もみるんだと、キャメラマンはルーペしかみていないと、この言葉は現在のキャメンマンとって痛いところを指摘されたようなものだ。自分は仮に演出家でもそのように思うかもしれない。ということを多少エクスキューズしながら、それからがすごいんです。そういう資格があるかと、ルーペもしらない演出家が多いと、彼らについてちょっとものをいいたいといって、この背景にその当時の若い人たちのいろんな言動が感情的な要素を除けばあるとおもいます。
ちょっと読みますと、「劇映画から文化映画にはいってみて、まず第一番におどかされたことは、演出者には誰でもなれるということだ。要するにバカでもチョンでもなれるということをいっているわけです。このことは私の持っていた演出家という概念とまったく違うと、劇の経験があろうがなかろうが、資格がなかろうが、そんなことは問題でなく、理屈の良い人なら誰でも監督になっていると、演出者になっているというのが、今の文化映画の世界の現状だと、あえて私が亀井君のルーペ説を肯定するかわり、そんな演出家のゴロゴロいることを指摘したのは(ゴロゴロははかいてありません)そんな演出家によって、キャメラマンのセンスを論じ、キャメラマンの技術を論じられたら、たまらんと思ったからだ。黙っていればいいかねないのは、現在の演出家諸君の態度であることも知っているからであります。私はキャメラマンとして批判されることに対して、いっこうにかまわない、
悪いところがあったらドシドシいってもらいたいとおもっているのだが、それをいいうる人だけ言ってもらいたいと思う。映画演出の教養の低い、そしてルーペのなんたるやも知らない演出家にとって、キャメラルーペ論を鵜のみにされることは現在一群の演出家の態度から断じて認めることができない」
ということはマンスリーの雑誌ですから、それが発表された時にやんやと手をたたいた、亀井さんの意見に賛同する若い野心的な監督達がいたと思います。それが三木さんのこの意見の裏にあるとおもいます
それからキャメラの主張にはいります。「なるほどキャメラマンはルーペからものを眺めようとする。そしてルーペからものをいおうとするが、ルーペからものをのぞけ、ルーペからものをながめることができるまでに、少なくとも6年から10年かかる、そういう歳月を修行しなければルーペがのぞけないんだということを知ってから、キャメラルーペ論というようなことをいってほしい。目隠しされた馬のようになるまでは並々ならぬ苦労がいる」という痛烈なパンチをいっています。
「キャメラマンがキャメラの側からものを見たがる原因がそこにあるのだと演出家の諸君はいうかもしれない。しかし、キャメラでものをみせるという技術はキャメラのルーペを心得ていなくては出来ないということをいったい君は知っているのであろうか」という形で、いわば真っ向から反論します。
これに対する亀井さんの返事は率直にいっておりますからおみせしてもいいんですけど、体をあまりなしていません。「あなたとだいたい俺も同じことなんだけど、言葉がちょと間違った」というような中味によめる言葉です。そのことでは刺し違いになっておりません。
それに変わって、秋元憲という彼の同僚、30歳の前半だとおもいますけども、三木茂さんの手紙を転送するというんで、若い人たちの雰囲気を代表して「なぜ自分たちは伸びられないのか、なぜ自分達はのびやかに出来ないか」ということをしやべります。
それは三木さんの意見には対する直接的な、反射的な反論ではなく、いまの東宝文化部がかかえている体質の問題を論じます。それはこういうふうにのべています。
テープB面
ある程度それは本当のことだと、残念ながら私はこのことに反対する理由はみいだせない。文化映画が演出家の現状はいかに身びいきに考えてもたしかにそれ以上だとはかんがえられないというふうにまず前提して、それから体制の批判に移ってきます。
その時に文化映画をやっている人の位置が見えてきます。以下ちょっと紹介します。「あるスタジオでは助監督の劇映画監督への登竜門そして、ためしてまず文化映画を撮らせてみる。そしてよしと見込みがついたら、さっそく文化映画から足を洗わせて、劇映画へと出世させてやる」という言葉が流れているということでしょう。
「あるいは助監督がだんだん古くなってそろそろなんとかしてやらねばならん。しかし劇を撮らせるほどは認められないという時の、文化映画が義理はたしの手段に使われる。」つまり古手の棄てばだということですね。「だからそんなところでは文化映画部はスタジオの中の姨捨山の感をていしてくる」とこれはキャメラマンについていっているんじゃなくてそこにいる構成とか編集とか企画とかいうような人たちの世界だとおもうんです。キャメラマンのことは厳然と区別していっているとおもいます。文化映画は役者やセットを使うことが少ない比較的安い費用で仕事が始められる。だから失敗しても、犠牲がすくなくてすむ、否、注文仕事さえしていればまず金は確実に回収される」PR映画ですね。「こんなところから無責任なインチキスタジオが、雨後の竹の子のごとく、あたりかまわず毒気をはきちらす。ひどいのになると待合の2階をプロダクションの事務所兼仕事場にしているようなはげしいのでまである」たくさんのプロダクションが輩出したということをいって居ると思います。そこでは彼は「演出家が現場へいくような権利を会社から与えられていないと、それから自分達に対する労働の評価ということは非常に少ないと、劇映画ももっとも低能な監督ほどにも報酬がむくいられてきたであろうか」というふうに書いて自分達はそういった企業の中の蔑視に対して争いをいまはじめたところなんだと、そのことをわかてほしい」と、いまの会社の体質ということを中心にすえていきます。じゃあこの会社の体質というのはどうして作られたかというところにくるんですが、そこにドキュメンタリーの会社にも、いろいろな流儀がありますけれども、東宝文化映画というのは、一応決まった評価だとおもうんですけど、あの時代におけるもっとも合理的で、ある意味ではリベラルなことが出来ると思われていた会社です。もっとシャープな芸術映画社というのありますけれども、東宝の内部に居た人は、この会社はそう悪くないと思っていたふしが多いんです。しかしながら企業はどういうふうに東宝映画文化部の人材をあやつっていたかということについて、ちゃんと理屈があるんですね。それは「上海」という映画のプロデューサーであった松崎啓次という人がいます。これは後年プロデユーサーで松崎プロというのをおこした人だとおもうんですけれども、その人が当時ですね、カメラマンがともかく、現地にいって現物を撮ると、それを監督ないし、演出家が現地にいかないでまとめるとそういうシステムがよいんだと、それをどういうふうにいうかというと。ハーゲンベックシステムというふうに自分でよぶんですね。それはハ-ゲンベックサーカスからきているそうです。けれどもいろいろな役割分担があって、猛獣使いは猛獣使い、道化は道化、つまりきれいに受け渡してゆくというかそういた事をなぞっていったらしいんですが、意図的にキャメラマンと音はまだいっていないでしょうね。キャメラマンと助手にいって画を撮ってきてもらって、そして監督は行かないほうがよいんだと、だからまず第一に安くあがるということが一番基本にあります。
石本統吉が「撮影者の精神についてめぐる諸問題」というややこしい題名なんですけど、その論文の中で、東宝のことを分析しています。つまり今の演出者または監督にあたる人間は現地にいかずにプロデユーサーのオフイスでシナリオを作りあげ、これをもったキャメラマンが現地に行き、そのシナリオを書いた人間が編集録音して仕上げるというのであって、この場合シナリオを書き、あとに仕上げをするものは、脚本家であり、編集者でもあるし、キャメラマンは単なる撮影者である以上に演出家がねていたともいえる。
つまり現場はキャメラマンしか行かない。
どういうものが撮れるのかはキャマラマンに演出力が要求される。撮影者が現地にいて、よいものが撮れるというのがきめてなんだ。
持っていくわけです松崎啓次という人はですね。
彼はアーノルドファンクの心酔者であり、いろんな記録映画の可能性を、製作の可能性をまさぐっていたんだけれども、監督がむしろ現場にいかないほうがいいと、現場の現実に幻惑圧倒されないうちにシナリオを書き上げる方がよいと、たいへんムチャクチャなんですけど、現場に行かないで、現場へふれないうちにシナリオを書けというんですね。そうして取り上げたフィルムをなるべく現場の空気に執着しないものはカッテイングした方がよい。けっきょくその作品の創意を首尾一貫して押しとおすことが出来る。つまりあるこの映画のテーマを現場にあまりみないで本に書いてしまえ、現場にいく必要がないと、監督は編集者は。撮影者にたたきこめと、それを撮ってきたものを編集者は現場に執着しないであらかじめ決まったテーマのように仕上げればよいんだと。このことはくそリアリストでない限り、一概に棄てかねる物をもっていると石本統吉さんは、このシステムをいっているわけです。
そのたとえになぜ現場にいかないほうがよいかと、つまり撮ったらその人は現場に行ったら撮ったものを切れなくなっちゃうだろう。だから昔から日本にこういう諺があると、要するに木の間伐といいますか、大きな木を育てるために木を間伐しますね。その言葉として、間引きは敵にやらせろという言葉がありそのとおりだと。
編集者はクールでなければならないとそれは現場をしらないほうがいいと、こういった方針で腕力のあるカメラマンをどんどん現場にいかせて撮るということが「上海」まで東宝文化映画部の空気だった。それをあまりおかしいとおもわなかった。亀井さんもそれが特におかしいとおもっていたとは僕はおもいません。そして三木さんが演出力が充分にある人ですから、「上海」を撮ってくると、彼が指示した「上海」についてのスクリプトは非常に簡単なものです。つまり、有名人の戦死した場所をできるだけ撮ってこいと、碑があれば撮ってこいと。つまりその「上海」の時の新聞による情報、ラジオによる情報はあえていろんな有名人が「上海」で名誉の戦死をとげたと、散華したという話がどんどん載っているわけですから、そういうところを落とさないで撮ってこいと、それから危険なことはするな、だけどおもしろいものを撮ってきてくれというかたちで、三木さんはほとんど箇条書きくらいなものでいくわけですね。そして帰ってきて自分のみた戦跡の衝撃を本当にすばらしい映像で出すと、ところがいわばそれをいっしょに見た試写室の人たちが、どういう映画になるかさっぱり検討がつかない。ともかくダラダラダラダラと焼け跡とか戦跡のあとばかり人気のないところを延々と撮っていると、その映画はどうなるんだという時に、亀井さんは「これは出来ます」ということで、有名なエピソードですけども、この映画は傑作になるということをいって三木さんをはげまして、そして彼がつないで、そして松井翠声という、その当時の有名な語り手に語らせて映画に仕上げたと、その仕上げの中で、今までの中国兵の弱さ、あるいは日本皇軍の本当にかくかくたる戦果という風につたえられた上海が、実は頑強な反抗にさらせれての大変な苦戦が、多くの日本の兵士がそこで闘い倒れていったと、しかも当時の上海にはまだ太平洋戦争で敵国としてませんから、イギリスの租界があり、フランスの租界があり、そういうところの租界を背中にしてキワキワの租界の、租界には日本軍はいれませんから、その租界を最後の交戦地にして徹底的には日本兵を市街戦で倒すというその後に撮ったのがハイライトになっているわけです。そのフィルムは亀井さん自身がビックリするほど評判をとったと、亀井さんに非常になんていうか予想外のことをいわれる人ですから、「あれは映画が良かったという事があるかもしれないけれど、あの当時、映画で自分に親戚や自分の息子や子供があるいはでてやせんかというので、ともかく出征兵士の遺族は全部来たから当たったんだ」というふうにおっしゃるけれども、そんなものではなくて、やっぱり三木さんの映像でどれだけのことが語れるかという、ギリギリのことを描いていると思います。ただそこで一つ「上海」でいえるものはやはり日本の皇軍の心やさしさとか、中国の民衆に対する八紘一宇的な愛とか、そういうのを少しそこにこめなければならないと、そういう事で随所にチラットそういった軍の喜びそうなシーンがはいっています。しかし、それが一番印象に残るのは、ラストのいわば敗者の子供達にたいしてやさしみを投げかけて終わるという構成です。でその一歩前に勝ち誇った日本軍の行進の背後には見物がいます。その見物の最前列が全部日本の上海にいる同盟と言われている人です。婦人あり中国浪人あり、いろんな日本人がいる。その背後に中国人がいるわけですけれども、その中国人を延々と横移動したその列の最後に後列に、すごい目つきの民衆がカメラを凝視しているという有名なカットがあります。そのカットが大きくいわれますけども、そのカットはすごいカットです。そのカット自身でたいへんな衝撃力を持ってますけど、構成としてやっぱり一定の戦争の中で軍部とのある種の妥協をあえて目をつぶってはかったという風に思われる。いまになってみればですよ。そういうふうにおもわれるその時代の影があると僕はおもいます。その時に三木さんは彼の本領を発揮されたと思うし、そのことは次に「北京」や「南京」を作るとき、また演出家が行かない方法を会社に採用させるきっかけになるんです。すでに北京では日本のつまりもう傀儡政権が北京には誕生してましたから,日本の人はいつでもいける都市であり、上海はもうすでに映画の背景にあったように攻略していると「南京」のためには,南京のおとす日をだいたい目測して、ちょうちん行列の用意までしているという最中で南京の撮影があるんですが、その時キャメラマンが白井よしおという人です。そのキャメラマンがキャメラ助手その他と合流し、「上海」のスタッフから機材をかりうけたりして、リレーしたりして南京にむかっています。その彼が南京で大虐殺を目撃します。キャメラが撮れなくてふるえます。なにも撮れなくて南京で彼は手も足も出なくなってしまいます、カメラマンとして、演出家は行っていない、相談相手はいない、しかしどうしても必要だというんで,城壁によじ登って日章旗をたてるのを後でやってもらって撮ってかっこうをつけると、その写真が発表されたのに対して,今はフィルムはありませんけど,野田真吉はなんともいえないダメな映画だったというように,彼の非常にすぐれた「日本のドキュメンタリー映画の全史」のなかでいっています。それの構成者が秋元憲という,本当は現地に行きたかったキャメラマンなんです。行くことを本当に望んだ、つまり南京の場合シナシオが決まっているわけです。つまり皇軍は上海だけじゃなくて,北京だけでなくてついに南京を落とした南京は大変激戦だったけど旗をたてた。皇軍はやっぱりたいへんなもんだというシナリオがすでにきまっている、そういったふうにしかつなげないということは分っていながら演出だったら何が見るものがあるんだろうということで、秋元憲という人はしきりに行きたいといいます。その当時の言葉で「鋼鉄脚本」という言葉があるんです。「鋼鉄脚本」つまりそのときに東宝映画で要求されたことがそこににじんでいるわけですけれども,完全なテーマと筋書きを戦記ものでは作れと、それにあわせるように撮ってきて合わせるようにつないでと、つまり変えるなと鉄のコンテですね、そういった言葉を鋼鉄といったようです。それに対して秋元憲は、シナリオというものはある程度必要だけれど,現場で変わるのが記録映画だと、だから鋼鉄脚本というのは基本的に、基本的に矛盾していると記録映画に鋼鉄脚本なんかありえない。それからやっぱりそのことを現場でかんがえているのが演出家の仕事だ。だから演出家としていかなければだめだということをいうわけです。
同じ時期にもう一斑「北京」という映画を亀井さんがやることになります。これは川口というキャメラマンですけれども、その北京という作品はありません。そのかわりシナリオだけあります。このシナリオは」「上海」と違って、ものすごく饒舌にみちたものです。亀井さんはどこかに書いていますけれども、「上海」とは違って今度は甘美なる街との北京という街を愛する恋愛感情みたいなものをこめた映画にするんだというんで,京劇の世界であるいは京都の伝統的な話をいろいろかきながら日本の侵略をどこかにシンボリックに想定して、イナゴの大群におそわれた北京というのをかきます。そのイナゴや台風が北京を席捲するというシーンをかきこみます。その最後に最前線で飛び立ってゆく荒鷲といいましたけども、兵隊のシーンをさりでなくいれた本でおわるというものです。それはあえて相当長文にわたるシナリオをかいて、そしてカメラマンに託します。その結果は当時の映画評によれば津村という人が書いていますけれども、「ちっともおもしろくない」と、つまり戦争協力の映画になっていないことはたしかです。そういったものになってます。その辺の消息はこの岩波の中に書きました。多少書き直したけども。その中でキャメラマンのルーペ論争に現れたようないろいろな事が、モゾモゾと起きてきて、我々は文化映画を作るあるいは長編記録映画ということを戦争を舞台に作れると。「上海」というようなものを亀井さんが作ったし、われわれだって作れるんじゃないか、そのためにはやはり本当に記録映画を勉強したいポールローサも研究したいということで、若い人たちが動き始めてそういった雰囲気のなかで彼は「戦う兵隊」についてはあえて自分で現地にいきたいということでいくわけですね。三木さんと組んで、現地でかれ独特の人脈をつくり、兵隊とコミュニュケーションを作り、現地の観察をしながら即興的なシーンも豊富に撮っていくと、そのなかで中隊のシーンなんかは彼が自分の文章で書いてますけど、あれは再現のいわばやらせである、しかしそれは実際には三日前あった出来事を再現してもらったと。三日前にあった「負け戦」なんですけど、そのことをやるのに一人にいたるまで、ほんとうのことを再現するんだから、なんの演出もしなかった。カメラもすえっぱなしで撮ったと、その中隊長とは人間としてはにくめない人であれだと、これだけ長いこと歩いても中国民衆に対する愛を自分は,差別を全然持たなかったし、本当に「戦う兵隊」にはいろんなことを考えながら撮ったと。有名な例えば、偵察機が出てゆく後ろでススキがプロペラの風でなぎたおされそうになると、普通はワンカットですむところを2カット、3カットぐらい使っています。しかしアップとして寄って,ああいったところとか、蝶とか、馬のシーンはあまりにも有名ですけども、つまり生きものに対する、戦場でも生きものに対する最後に目配りも、人への目配りも焼け跡で生きようとしてゆく人々にも同じ愛情をそそいだという彼の演出、現場でさらにさえてくるとここでビックリするのはラストが「上海」と「北京」と「北京」は見てませんけど、シナリオしかみていませんけど、まるっきり違うことです。
最後に皇軍ですね、皇軍にたいするこればっかりの賛美もありません。ラストシーンは疲れた兵隊のあと音楽が変わって、中国の民衆の姿をなるべくきざみながら最後はこんな奥深くの揚子江に最後の地まで、それ以後、日本は奥地までせめていけてないんじゃないですか。ようするにそこまでつっこんでしまった日本、しかもあそこにいる軍艦はあの当時は読者は誰でも知っていますけど、全部列強の軍艦です。つまり次には戦争になっていくわけですけれども、日本の横暴を監視するために、いくつかの国の軍艦がずらっとならんでいる俯瞰で終わると、つまり日本はどういうかということを見る人が見たらわかるという形で終わっているわけですね。自分の考え通り現場で演出し、やはり創作で徹底的に練り上げられた表現的には並大抵でなの集中力と自己検証をとげたものであろうというようにおもうんですね。
そうことで突破できると、この検閲の中で突破できると思った。ところがついに突破できなかった。東宝はやはり彼を冷遇してとばすのではなくて、彼の才能をおしみながら金にはあまり不自由をさせないように首をきって、次の仕事場をあたえて未練がましくフィルムを今度は監督に許可なくいじるわけですね。それでパチパチという火の中で戦友の死骸を焼くと、そこにみんなとぎれとぎれの君が代を流すというシーンがみごとにシーンとしてポコットきられてゆく。もし疲れた兵隊のシーンをきるのはたいへんなことです。これは切れません。あの音楽の連続性とあのシーンの流れからいったら途中できることはできません。だからおそらくはそれは一つの一個の完璧なシークエンスを形成していたと思うんですね。だから音もそこから始まり、音もそこで一応終わるというシーンで、自分の一番言いたい映像をたたきこんだと、そのために見事そこは東宝のプロの編集マンによって、御用編集マンによって、軍部のご機嫌をとるためにきりとられながら、なお「戦う兵隊の全体の体躯はみなさんの見られたように今日のような映画として凝っている残っているということだとおもいます。
やはりこの映画をみると映画作家が映画をつくったと、しかし手元にはなくて、人にきられて、しかも残っているのは奇跡的みたいなもので、無残になくなっていくと、しかも資本によって改変されてゆくというそういった事について抗議もだせない。それが戦争だけの状況かどうかです。今の時代がまたきてやしないかです。だから亀井さんの最後の一作までつらぬくところの映画の精神というのは、まだ亀井さんが論争したときからそう進んでいないと、われわれはいっぱいのものをここで学んでなければいけないと、今の時代はたいへんこわい時代だというふうにおもいます。そういう点で亀井さんをもっと勉強し亀井さんの世代と同じ世代が苦しんだキャメラマン論、あるいはスタッフ論、そういったものをいま改めてつくりあげていかなければ、われわれはヤバイということがいえるんじゃないかといえるんじゃないかとおもいます。あまりうまくいえませんけど今日はこれで。
終わり
テープおこし土本基子