遺影の展示について 講演 水俣川口展 水俣フォーラム
ここに展示されております500の遺影を集めた裏話というか、その話を申し上げたいと思います。いまから7年8年前に、東京で水俣展を立ち上げようという話があったときに、その中味をどうするかという最初の話し合いで、亡くなった方の遺影を出来る限り集めて出そうということが水俣の活動家からでました。誰もがそれはいいことだと、それは当然だろうと思ったんです。ともうしますのもいろんな先例がありますね。アウシュビッツにいけばもちろん限られた枚数ですが、そこで亡くなった方の写真が壁面を飾っている。それからアウシュビッツの記念館には、通路に亡くなった方の写真がある。それから沖縄のひめゆりの塔には、ひめゆり部隊の亡くなった方の写真があるとか。戦没者全員の名前を記録した平和の碑があるわけですけれども。やはり20世紀の歴史の中で、記録すべき事件を人の名前なリ肖像なりをはっきり出していくとことには意味があるとみんな感じたと思うんです。それでやろうじゃないということに決まったんですが、だれがやるかということになりますと、なかなかすぐにはそれは俺がやるという人がでてこない。東京展には当時はまだ形もなしてませんし、予算もあるわけではありませんし、それから時間の都合のつく写真家もいませんでした。
つまり水俣における死者の像をあつめるというのは最低一年かかるだろうと、それから最低一年間の時間と金を考えるとやる人が限られています。
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私はそれに参加しながら会をかせねるごとにだんだん絞り込んでいくうちに、これは僕しか出来ないんじゃないかと思ってきたんです。というのも患者を知っているという経験からいうと、私もたいしたことはないんですが、かなりの患者を知っています。それから患者と会った時の感じもつかめないわけではありません。それからそれがやさしいことだとも思いません。
しかしなんらかの方法が見つかるだろうと思って、最後のとどのつまりは私のいくというふうに名乗りをあげて、今日ここにきていますつれあいと二人でやることにしました。
やる前に患者さんたちに訴えたことは、先ほどもうしましたようにあなた方の体験をこれから展覧会でやりたいわけだけれども、私たちはなくなった方に深い祈りをささげたいと、しかしその前にその方々を記憶しなければならない。その記憶の方法としてはみなさんが仏間に飾ってある写真をコピーさせていただいてそれを会場に移してやることがいいと思う。ぜひ協力をお願いしたいというのを発表したんですが、私としてはたいへんな誤算がありました。水俣病で亡くなった方のリストはどこかがちゃんともっていて、その事情がわかれば公開してくれるもんだとおもっていたんです。ところがそれには水俣にいって段取りをしなければいけないということで水俣にいって亡くなった方の名前をあつめたんですが、一番たよりにしていた相思社とう患者団体がありますが、そこには位牌も飾られてるわけですが、そこでつかんでいる亡くなった方の数が、その当時なくなった方の数は1060人といわれてましたけど、相思社のつかんでいるのが100にみたないんですね。ではいったいどこで亡くなった患者さんの名前がわかるのか。撮影のお願いするのはこちらでおねがいするけれども、なくなった方の所在を知りたいというので市役所にもいきました。チッソにもいきました。それぞれこういう答えかたです。
例えば市役所は水俣市において亡くなった方は知っているけど市役所から名前をあきらかにするのは患者さんにたいして申しわけない。なぜもうしわけないんですかと聴くと、プライバシーがあるからとこういうわけですね。これは県でもそうでしたけどプライバシーがあるからと。それから私たちがもしある程度調べて、それを確かめるための協力はしてもらえるかといったら、あなた方が名前がわかった分については協力できるかもしれない。
でも、それは水俣市の患者だけなんですよね。とても不知火海に全体にちらばった人たちの亡くなった方の名前を記録している組織がないんです。そういった母体がないんです。いろいろつきつめてみますと、チッソしかもってないんですね、亡くなった方の全部のリストをそれもリスト化されたんじゃなくて、無くなると必ずチッソは花輪を出し慰霊金をだしますから、そういう書類として残っているというとがあるわけです。ところが市は私たちが始めたニ三年前から毎年5月1日には慰霊祭をやるわけです。慰霊祭には大きな柱に水俣病の犠牲者の霊という碑はあるわけですが、まつるべき被害者の名前肖像は実は主催者ももっていないということなんです。ただ全慰霊者にささげるという形の木の札があってみながお参りするという慰霊祭でしなかない。では本当に一人一人の被害者についてどういう考え方を実際として持っているのかというと、さっきもうしましたようにプライバシーがあるから名前はもうしあげらないということなんですね。
しかし水俣病はここまであきらかになったのには亡くなったかたの一人一人の苦しみをお聞きし、体を解剖させてもらい、あらゆる研究をして水俣病がここまでわかったんじゃないですか。だからこの人達たちでなければ水俣病はこれだけあきらかにならなかったはずだと、そういった意味ではこの人たちの存在を記憶にとどめると同時にやはり名前も肖像もあきらかにしていくということは大事なことではないですかとどこででもしゃべるんですが、違うんですね。それで市役所は一番おそれることは患者さんの名前を市でわかっている範囲でも僕に教えてそして教えたことによって僕たちが写真をとりにいくと、そのことによって患者からどういうふうな批判は突き上げがあるか解らない。それが怖いというということなんだなと思い当たりました。
これには水俣病の歴史が色濃くあるわけでですね。死者の扱いについて水俣病では秘密にしてきた、隠し事にしてきたという歴史がだんだんわかってきたわけです。一度だけ市は慰霊祭で家族から写真をもってきてもらってやったことがありますけど、それは亡くなった患者数が40人くらいの時期でした。そのときには全患者の写真があったんですが、それから20何年経た今日ではもはや水俣病の患者はその名前をださないようにするという全体の雰囲気ができていたんです。僕たちが写真をとることについて公然とは反対できないけれど、非協力という線がありました。チッソは患者さんのボスに、それぞれ派閥がありますが、ボスがOKをすればおみせするけどそれがない限り出来ないと、そのボスに了解をとりましょうということでやるんですが、そのボスにはぜんぜん近づけないボスがいます。
水俣病については運動的なことには協力しないというボスがいます。結局その人達の了解は得られない。チッソもその人達を楯にしてOKしない。結局僕らは死者の名前と遺族の所在をたしかめることからスタートしなければならなかった。それであらゆる運動の中に浮かんだ患者さんの亡くなっていそうな方をリストアップしたけど、400くらいしかわからないんです。1060人のなかの400人くらいが浮かび上がったらまだわからない。それから私たちは熊本日日新聞の水俣支局にいって、そこである時期まで水俣病死者何人目というベタ記事を調べるのをおもいついて全部の新聞を昭和30年代からの全新聞をくってみました。それだけ調べるのに10日以上かかりましたけれども、そして400人くらい新しく名前をみつけました。その名前とどこに住んでおられた方かというだいたいの当たりをつけてそして市役所に行きわれわれはここまで調べたけれどもど、もし苗字を違えたり人違いをしたらこれこそ大きいことだから、あなた方がもっている資料で裏づけをしてほしいと、私たちが調べた範囲でいいからその人たちについて教えて欲しい。そういうことでやっと市の協力を一部だけうることができました。そして全部で解ったのが900人ぐらいだと思います。それをゼンリンの住民地図を手に入れて印をつけ、患者さんの協力的な人のところにいって知っている人の名前や亡くなった人の名前をきいて裏づけをしてそれから遺影を集め始めました。そうしてみてわかったんですが、患者さん自身で自分たち一家に患者がいたことを誰も問題にしないだろうと思って、僕達のようにたずねてくることを予想もしない。それはお断りするという雰囲気がかなり濃厚にあるわけです。
たずねてみるとうちはよかばい、それ以上はもう私のほうでもなぜですかというのはきか無いようにしたんですが、結論をもうしますと、三分の一の患者は自分の家族の名前をだすことをことわりました。三分の一の患者はわかりますありがとうございますともいいます。なかにはほんとうに亡くなった人のことを偲んでくれていただいてありがとうと僕たちにお布施をつつんでくれるような人もいました。あと三分の一は私たちが一言でも二言でもお話してそして出そうというように判断された人です。そのことでわかるのは水俣では水俣病の患者は恥なんですね。あるいはチッソが長いことかけて植え付けてきた水俣病のことをがたがたいうんだったら、チッソは撤退すると、水俣から立ち去るということが患者の頭に入って市民の意識にも入って、市民の意識にもはいっていわゆる水俣病のことはなるべくいわないようにしようと、解決できないいろんな問題で運動は起きるけれども、もう水俣病で補償されたものはそれでよしと、後一切水俣病のことを浮き出しになるようなことはしないでおこうという雰囲気が水俣にはぶあつくありました。そのことはおどろくことではありませんけど、やはりはっきりと歩いてみて、次々に断られていくと、その断り方などをきいているとやはり水俣病ということを胸をはって私の家族に水俣病がおりましたといえる人は少数であって、多くの人がやはり押し黙っていると、いう非常に暗然とした雰囲気がありました。それはいまでもあるでしょう、いまでも水俣にあります。そういった中で一日かけて歩いても一人もOKをとれないということがあって、胃が痛くなるような思いをしましたけれども、時には離れた部落ですけれども、そこの世話人が尻をからげてとびまわって東京で写真をだしてくれるそうだとお前のところもだせ、お前のところもだせととびまわってくれたケースもありました。そういったいろんな反応を見ながらいくとやはり裁判とかそういうことで戦った患者は非常によくわかっています。東京展の意味もわかるし自分たちの故人の遺影をだそうと理解をしめす人がいますけれども、そうでない派閥に属していた患者、あるいは運動とはまったく無縁だった患者には水俣病のことをだまっているという雰囲気が非常にありました。
こういう言葉がありますこれは亡くなった川本輝夫さんがしきりにいったことですけれども水俣病患者自身の患者隠しとこれが水俣病運動の癌だったと、どうしてみんなきちっと背筋をのばして自分たちは水俣病の被害者といわないのかと、川本輝夫さんが引いた例は東京都の公害研究所の所長をしておられた戎能通孝さんという方が水俣病患者は人類の一番ひどい被害をまっさきにうけて明かにしてくれた意味で国の宝だ。人間国宝まではいわないけど国の宝だ。といわれた例をひいて、世界の悲劇を記録する意味で自分たちに対する見方をかえてくれることをいっておられました。その川本輝夫さんが市会でしたけど、市議会での発言ですが水俣湾を世界の文化遺産に登録すべきだという提案をしましたけど、その基本的なか考え方は人類の至宝として水俣病をかんがえるということで、その立体的な配慮は必要だということから、彼は文化遺産として水俣湾を全体を世界の遺産に登録すべきだという意見を出された。そういった意味でここに集めました500の遺影はそういった水俣のなかからかろうじて提供していただいた一枚一枚非常に大切なもので、いま市で慰霊碑がありまして、その中に名前だけ入れておくボックスがあるんですけど、市が長年かけてもまだ200名しか名簿がはいっていません。ですから500という数字は少ないようで一つの線であったと思っています。
いま撮り足すという動きが水俣でおきていますけど、いづれやります機会には僕たちが集めた時以後の患者さんがでるだろうと思います。お祈りを捧げるにあたり、一人一人どんな人たちだったのか、患者さんにはどんなひとたちだったのか、どんな人生があったのかを偲んでいける遺影の展示を今後どこでやろうとやっていただきたいと思っています。