映画について 講演 水俣川口展 水俣フォーラム
撮る側と撮られる側の関係性
水俣は苦しみの深さというかあるいは人びとの苦しみの深さとその表し方というのがやはり他の事件と比べてきわだっているものがあったといえるんです。
記録映画にはいつもつきまとう問題として、プライバシーの問題があります。活字や小説ならば人物をつくりあげることができますけど、記録映画の場合その人を撮らなければいけませんから、その場合その人との関係がきちんと出来ているかどうか、その人が撮られることを納得しているかどうかということは非常に大きい問題で、それも時代とともに変わってきています。特に最近はもっとも厳しいと思いますけど、水俣病の問題も頭からそういった撮られる事、あるいは撮ることについての葛藤が映画でもあったし、写真家の世界でもあったと思います。それぞれに非常にいろんな考え方で人びととつながりながら、写真も撮られ映画も撮られてきたと思いますけども。
思い上がって失敗した最初の作品
私の場合最初は大失敗するんですね。いまから37年前ですが初めて水俣にまいりまして、テレビでしたけれども、私は大変に患者から怒られた記憶がございます。
ある集落の庭先で何人かのお母さんと子供が日向ぼっこをしながら網の繕いをしていたんです。私がなにげなく撮ったんですが、そこに胎児性の子供がいたんですね。そうしたら母親らしい人がその子を抱いて家の中にかけこんで、そして家の中から怒るわけです。
「なんばして断りなしに撮ったか。なんばしてうちの子を撮ったか。いくら撮られても家の子は病気がよくならんばい。あんたはどういうつもりで撮ったかな。」
いちいちぐさっとくることをその母親からいわれて、障子をしめたまま、もんくをいうわけですが、その声を玄関先で僕は首をうなだれて聴いていたということがあります。
その時に水俣を撮りに行く際に忠告されたことが思い返されるわけです。例えば熊本大学の先生達は「医者である僕たちですら患者になかなか会いにいけない。君は水俣を撮りに行くというけど、患者を撮るというのはどんなにむずかしいことかよく考えてやったほうがいい。」
そういわれて僕も考えました。いきなり患者を取材するんじゃなくて、患者と関係をもっているケースワーカーの仕事を撮りながら患者を撮ろうと考えました。そして「水俣の子は生きている」という題名で、胎児性の子供の世話をする女子のケースワーカーを主人公にして撮ったんですか、こちらの気持としては撮りたい一心で、撮ることがなにかの意味があると思い込んでいるもんですから、やはり非常に思い上がった結果だと思うんですね。
時代が映画に味方した
その最初の作品は僕の心の中に傷を残して、また相手の人にも傷を残して終わりました。そんなわけで、水俣のことは撮らないといけないと思いながら、実は映画に記録する、ちゃんと記録映画として撮ることについて考え込まざるを得なかった。そして手も足も出ない何年かがすぎました。
そしてそれから五年後の1970年になって、初めて本格的な記録映画の「水俣―患者さんとその世界」を撮ったんです。これが撮れたのはまったく時代です。時代が映画に味方をしたというか、表現に味方をしたというか、それは写真の方もそうだと思います、文学を書かれた方や、記録を残された方も、その時の患者のおかれた時代的な様子というのは彼らが仕事をしやすいように動いていたと思います。
私が水俣にいって大失敗した時には、水俣にはなんの運動もありませんでした。水俣病は終わったとされている時期で、撮影することは寝た子をおこすようなものだと何回も指摘されました。ところが私が四年後に映画を撮りにいった時は時代がまったくかわっていた。というのは、1968年にチッソの有機水銀が原因で水俣病がおきたという国の判断がでます。私が映画を撮ったのは1968年から2年後ですけど、国の判断を境に時代は大きく変わりました。いままで患者は原因がはっきりわからないと、たぶん工場の排水らしいけど因果関係にお墨付きがないという中で、チッソからのわずかな見舞金でしのいできたわけです。しかし、国が厚生大臣園田直の名前で原因はチッソだということをはっきりとのべました。やっぱりそうかと、企業が犯罪を犯したんだということが誰の目にもはっきりしまして、それから患者が動き始めるわけです。それまではおかしいと思っても動けなかった。それからやっと動き出した。
そして小さい輪ですけれども、支援の輪も広がって、いよいよそれが裁判という形になります。裁判をするのにあたって患者は組織が分裂します。一本にまとまっていた患者互助会は、裁判をする少数派と厚生省に一任するという多数派の二つのグループに分かれます。その少数派のグループはもちろん貧しくて裁判する力もありませんから、熊本を中心として支援の組織が出来ます。その支援の組織の中で一番動いたのは石牟礼道子さんとか渡辺京二さんとか物書きです。「告発」という機関紙を発行して、「水俣病を告発する会」を作って大運動を展開します。
その中で映画を撮るなというよりもむしろ映画を撮って欲しいと、ぜひこの事件を日本中にしらせてほしい、水俣病に対する人びとの目を開いていくような映画をつくってほしいというふうに流れがかわりました。
その流れの中で僕は初回の大失敗をへて本格的に映画に取り組むということになった。それが私の水俣病との関わりの最初です。結果として私は30何年の間に水俣関係の映画をテレビを含めて16本つくっていますが、毎回中味が違いますし、表現も違います。しかし一つのテーマで16本の映画を作ってしまうというのは外に例がありません。
なぜ16本も作品ができたかというと、絶対に見逃してはならない歴史的な事件をきっちりと撮っておく必要がありましたが、何年もかけて撮りためて発表するという余裕はありません。さし当たってこのことだけははっきりさせようとでテーマをたてて撮ってきました。そして一本撮り終わって2、3年すると次のテーマがでてくるという形で、ついに16本の映画を撮りました。最後の作品は2年前に亡くなった川本輝夫の生涯を回想した作品「回想川本輝夫」を作りました。
患者さんのやさしさに励まされて
そんなわけでわたしが映画を撮ってきましたけれども、非常に強い要請によって映画を撮り始めた。その要請の流れによって次々に映画を撮ってきたという意味で、私はある意味で患者のやさしさに励まされ、患者さんの気持にそって映画を撮るチャンスが与えられたと思って非常に幸せだったなと思います。
撮っていた時のエピソードを申しますと、ある歳をとった患者がこういうんですね。
「水俣病になったのは不幸なことだけど、こうやって映画にも撮られる、君とも話しが出来る。もし水俣病でなかったらわしらはに片田舎のなんでもないじいさんとして、他所の人ともつきあわずに自分の悲しみを自分でかみしめるだけで死んでいったに違いない。しかし、水俣病というのは不幸だけども、水俣病になったおかげで全国の人と結び合える、映画にも撮られる。つまり水俣病は非常に悲しいことだけれども、それにあまりあるほどの付き合いが出来た。これは自分にとってうれしいことだ」といいました。最後に「俺は水俣病になって幸せばい」というんですね。これはちょっといいすぎでないかと耳を疑いましたけど、そのおじいさんの顔をみているとほんとうに水俣病のことで人と語れ、東京からも人が訪ねて来る、親しげに名前を呼んできてくれる、あるいはキャメラをもっておじいさんにつきあっていく、そのおじいさんも自分が写った画面をみるわけですが、非常にうれしいんですね。俺が死んでも俺のことは残るばいといいます。映画に撮られた人は誰もが何回も映画をみている思いますが、自分は残ったばいという形で表現してくれます。
というわけで、テレビなんかでよく顔をぼかしたりして登場人物を出している場合がありますが、映像でその人を記録することが非常にむずかしい時代になってきた。その中で水俣で思う存分映画が撮れたのは、いつにそういった時代が日本をあげて表現記録ということを非常に大事にした。そういう時代の只中で私が仕事を出来たことだと思います。
今日の夜には「水俣病その20年」を上映しますし、2日後には「水俣一揆」という一回しか撮れないような水俣の闘いを撮った記録映画を上映します。
そういった形で時間はたっても機会があるたびに見ていただける映画を残すことができたことを非常に幸せに思っています。