土本典昭監督 講演会 04、11・14(日) 高知県立美術館ホール 講演
浜口: 本日は、土本さんの講演というようにしていましたが、こういう形でお話をお伺いすることになりましたことをご了承下さい。
土本さんに高知までお越しいただいて大変光栄です。
土本: こういったフィルモグラフィ展をこれだけ大きい形でやっていただけるのは僕として稀なことで大変に感謝しております。ありがとうございました。
「土本監督の弱者を見つめる暖かい視点」
浜口: 土本さんの作品はたくさんありますが、午前中「水俣-患者さんとその世界」を上映しました。今作品を見直してもまったく古くなっていないと感じました。これは土本さんが根本的に持っているアソシエーション、自由で自立した諸個人の共同社会というように土本さんは書かれていますが、それがあるからだと思います。
土本さんというのは、対立の一方側に立つ作家という面が強調されていると思うんですが、土本さんが本来持っている反権力の姿勢、弱者を見つめる暖かい視線といったものがこの作品には良く表れています。これは今まで多くの場所で語られていますが、そういった土本さんが培ってきた視線というものはどういった所から出て来たんでしょうか。
土本: 弱者を取り上げるっていうのは、わりとそういったメディアのお仕事は多いんですね。例えば労働組合なんかが大きい闘争をしますと結構そういったものに対してキャメラを向けたり、話題にしたりすると思うんですが、結局そういう事が過ぎてしまうと、あまり後に残らない記録が多いんですね。
やはり弱者をみつめるというのは、わりと表現者としてはやりやすい仕事だと思うんですが、本当にその弱者をどういう観点で眺めて観る人に訴えていくかという場合にですね、大変にいろいろ考えさせられる題材ですから、ひとつの対立が世の中にあってその中で権力を持っている人と持たざる人との闘いというのは多くあるんですが、やっぱりそういう際には敵か味方かっていうふうな、逃げるのでは必ずしもないのですけれど、やはり一番言いたいものを持っている側の人の意見を見つめていこうという事から、そういう風になったと思うんです。
これは僕自身の正義感でもなんでもなくてそういう人たちの生き方考え方に学ぶ所が多い。よく考えてみればとっても面白く深いものを持っているという経験があるものですからね。
浜口: そういった視線は第1作の「ある機関助士」から本当によく表れていると思いますが、いろんな作品を経て、土本さんの大きな転機となったのがやはりこの「水俣-患者さんとその世界」だと思います。
最初「水俣の子は生きている」で土本さんは水俣に行かれて、逃げて帰ってきたんじゃあないですけど、映画が撮れるかどうかという所までなって、そしてまたこの作品で行かれたと。今の目で観ても作品としてすごく面白いんですが、当時の水俣の状況が分かってないと、なぜこれ程までに土本さんが水俣作品を撮られていたのかなっていうのが少し分かりにくい部分もありますので、簡単に当時の水俣の状況をご説明いただけますでしょうか。
土本: ずっと見てきてこれはやっぱり間違いない事だなって思うんですけれど、公害問題というのは大きい公害から小さい公害までいろいろありますけれど、水俣病のような公害というのは、明らかに大変な国家の命運とつながったそういったタイプの生産をチッソがやっていたと。それはプラスチックですね。そういった新しい素材の科学的な到達。チッソは大変な所に行ってたわけですね。その大変な所に行くためには有機水銀を使い、それを垂れ流すという強引な事をやらなければ出来なかった。その結果水俣病という環境汚染によって大変な事件が起きたんですが、チッソに言わせれば海に流すと大抵の物はきれいになるんだと。あるいは空気にさらされ、波にさらされて毒性が無くなるんだと。そういう言い方を根本にはしていて、そして海に流した事についての罪悪感というのはほとんどなかったんですね。
ですから水俣病に対する政府の考え方もチッソの考え方も、患者に事故が起きた事は認めざるを得ないかもしれないけれども、それは本当に我々の責任だろうかという考え方があるものですから、患者さんの闘いはいつも水俣では公安の仕事なんですね。共産党の動きに対する警戒と同じ警察のセクションが水俣にあると。それから漁民の運動が起きますと治安問題と同じになってくるんですね。つまり国策に反する。チッソに反対するという事は国策に反する。ですから例えば患者の指導者で有名な川本輝夫という人がいるんですが、それがちょっと暴力を振るうと暴力患者。暴力患者って言うのは左翼的暴力患者なんですね。その根本的にはやっぱりアカ。田舎では一番差別しやすい。そういった中で映画を撮ってくるという事でしたから。この映画も全体にはそういった流れの中で初期には大変に区別されたというのが実情です。
「水俣-患者さんとその世界について」
浜口: この71年当時は俗に水俣病というのは終わっていたんだと。そういう状況の中でまだ認定されていない患者さんたちを土本さんが順番に回って撮影されて、それを水俣を含めて世界で上映して、新たな水俣病の運動が起こっていったきっかけとなった作品だと思います。土本さんは撮った順番に編集されたという事ですが、そのあたりのお考えというのはどういうものだったのでしょうか。
土本: 水俣病を描くのに、水俣病を研究しつくして、啓蒙として映画を作っていくのなら順序はそのような教育映画的な分かりやすさっていうのは必要でしょうから、そういう編集が必要なんですけれど、僕の水俣との体験は分かっている事は分かっているんだけど、分からない物があまりに多いから、そういったものを探っていくというか、ひとつひとつ撮影しながらこういう気持ちなのか、こういう所は本当に腹が立っているのか、こういう所でみんなが集まるのに不自由だったのかとか、いろんな事を撮影しながら分かっていくんですね。
その分かっていった事をあんまり天の声のように頭の中で構成して編集して作り変えてやるんじゃあなくて、やはり自分がその時に持っていた能力、それで分かった事、それは旅だと思うんですね。ひとつひとつ歩いて分かっていった事、それをそのまま見る人に分かってほしいと。その方法としては大まかですけど、出来事に沿い、その出来事に対する僕の感動のあり方を率直に縦の時間軸といいますかね、そういった所から編集の方法が出てきたと思いますけどね。
浜口: 上映時間は3時間近くになり、当時とすれば3時間近いドキュメンタリーというのは破格の長さだったと思いますけれど、作られた当時の反響はどういったものだったんでしょうか。例えば水俣だけではなくて東京などでも上映されたわけですよね。
土本: 二通りありましたね、つまり「水俣-患者さんとその世界」はついに映倫を通しての映画館での上映はしなかったわけです。それはお分かりいただけるように、映画館としては非常にやりにくい長さなんですね、題材もやりにくいけれども。普通映画は1時間30分ぐらいでローテーションを組んでいくのに、2時間40分というのは非常にやりにくい。そういう事もあったと思うんです。そういう中で、商業的な映画の組織からはやはり排除されたという一面があります。
一面ではその長さを気にしないであらゆる角度から描いた記録を見てみたいという意見がありまして、飽きない限りは、例えば外国なんかでは字幕が付いてないと駄目ですけど、外国なんかを含めてこの長さについては分かるという分かり方はあったと思います。
今これだけ経ってみますと「水俣-患者さんとその世界」で言いますと外国語版は2時間に短縮してあるんです。その短縮した物がいいと言う人と、やっぱり長い方がいいと言う人と二通りあって、希望によってそれに答えれるようにしてます。
でも記録映画はたくさんここでもおやりになったと思いますけれど、アメリカのワイズマンにしろ、クロード・ランズマンの「ショア」という映画もありますけれども、もう驚くべき長さになっている。それは映画館なんかで9時間なんていう映画を頭から最後まで見るなんて事はほとんど出来ない。しかし作家がそれを作るのはやっぱりビデオとかDVDの時代に、時間のある限りゆっくり見てくださいというね、俺はこれだけの事は言いたいんだというそんなような時代が今は映画に訪れているように思います。
「ビデオやDVDの製作について」
浜口: ビデオとかDVDのお話になってしまったんですが、今、ビデオカメラがありますので、撮影もスタッフを組まなくても自分一人で撮れるようになっていますよね。この前山形国際ドキュメンタリー映画際でグランプリを取った「鉄西区」なんかも1人で撮って編集してという風になっているんですけれど、そういうような動きもありますが、土本さんはインタビューする時に、インタビューしながらカメラを回すんじゃあなくて、自分はインタビューに専念したいというのを読みましたがそのあたりはどのようにお考えでしょうか。
土本: これからね、映画の長さ作り方については、僕も意見を言いますし、多くの人は違った意見を言いますし、これから賑やかな論争が出てくると思うんですが、今度世界的に注目を浴びている中国の作家で王兵が瀋陽のガタがきた巨大コンビナートの周辺を撮って「鉄西区」という9時間の映画を撮り、それが山形国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを取るというような事があってですね、中国にこの間行きましたら、あの映画を俺たちはどういうように観たらいいか分からないんだけど、日本の山形国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを取ったというのは注目せざるを得ない。だけど自分たちがああいった長い映画を作るだろうかといった事でいろんな考え方があると思います。
僕は映画を編集する時にいつも仲間と一緒に編集するんですね。出来れば一緒に撮影したキャメラマンなんかと編集したいんですが、撮りながら、その撮ってる長さが明らかに見る人にとってはもう充分に分かったと言いながらなおかつ廻しちゃってるものがあるわけですね。それを見せていきますと見るには見るんだけれども、何を言っているのか、もう自分はこういう事だと思って掴んだはずなんだけどどうしてこんなに長いのか、どうして繰り返しなのか、そういう事に意味があるんだろうか、という風に考えるとですね、何となしに見ちゃうんですけれども、僕の考えとするとスタッフでお互いに編集について意見を言い合うと。この長さは充分に長いんじゃあないか、こういう風に構成した方がいいんじゃないかとかそういう意見を編集でお互いに突き詰めあうという事によってやっぱり緊張した映画の時間が出てくるんじゃあないかという考え方に立つものですから、一人で俺はこういう長さが必要だと思うっていうんでですね、延々と流しているような映画については僕は非常に懐疑的なんです。
映画というのは一人で作ろうと一人半で作ろうと、基本的には観客と作り手との間の意思の疎通の問題だと、出会いの問題だと思うんですね。そういった意味では仕上げにおいて主観主義、一人だけの感じに溺れる事なく見る人を意識し、見る人の心を読み、その人たちに問いかけていくって事で必然的に煮詰まった編集といったものが必要だろうと。
そういった意味ではただ一人で撮って、一人で編集出来るという流れだけではあまり賛成しないという事を思っています。中国でも韓国でも台湾でもそういう事を言ってきましたけれども。
「土本監督の製作スタイル」
浜口: そこの地に行ってそこで撮影をしてという土本さんの製作スタイルはどの作品あたりで生まれきたんでしょうか。
土本: 僕としては割と早くから、「水俣-患者さんとその世界」の前にもテレビの作品でいろんなドキュメンタリーを作ってきましたけれど、行ったその場所で、感じた事を撮っていく、撮ったもので考えながらまた繋いでいくと。
記録映画にもいろんな形がありまして、シナリオを書く場合もあるんですが、やっぱり撮っていく事で見えてくる世界、学んでいく世界、知っていく世界というのはとても事前には出来っこないんですね。やっぱり撮影行動というものの中で出来てくるもので。
僕としては水俣というものはいろんな経験の仕上げ、あの当時としたら仕上げとして作ったつもりですけど、僕の学んだあらゆる方法をそれに叩き込んで作り上げたという風に思ってます。
浜口: そういう意味では、土本さんの作品は土本さんというイメージがすごく強いんですけれど、キャメラマンや、音楽も含めて、例えば「水俣の図・物語」では武満徹さんが音楽を担当されていますけれど、回りのスタッフの力がすごく出ているように感じます。例えば音楽をつける場合なんかはどういうスタイルをとっているんでしょうか。
土本: 僕は監督という言葉を言われると体がすくむんですけれど、どうも記録映画で監督というお山の大将というものは無いものだと思ってるんですね。仲間と一緒に自分の得意なキャメラだとキャメラ、音なら音、演出なら演出をわかち合ってお互いに、擦りあっていく、ぶつけ合っていくといった中で映画が出来るんだというのは僕のあまり変わることのない考え方なんです。
そういう点でいいますと、シナリオを書いて済む話なら本を書いた方がいいんで、やっぱり映画を撮るからにはキャメラマンの写したもの、拾った音、そういったものについてはもういっぺん演出としての読み方、見方があると思いますね。ありふれた言い方をしますけれど、言葉に出来ないから映画を撮っているところがあるんですね。
写したもので感じ取ってもらう事、それがひとつの表現ではくくれないかもしれませんが、例えば「水俣-患者さんとその世界」で言いますと、嵐の日に漁師さんがボラをいけすから出して頭を針で刺して絞めるんですね。殺さないと味が落ちますからね。そんなのは物語り全体にはあまり関係ないんですけれども、何となしに、漁師が魚を殺し続けていく事で漁師は成り立っているわけですね。生きて生かす事も出来るけれど、食べる前には必ず一番残酷な形で殺していく。それを平然と毎日やっているんだと。
それが何となしにやっぱり撮っておきたくなるわけですね。撮ったけれどもどこに入れていいかなかなか分かりません。そのカットは自分たちが患者になったばかりに親兄弟にも寄り付いてもらえず、お店に行ってお金を渡しても触ってはくれず、そこに置いといてくれと言って後で洗ってその人がしまうみたいなことを露骨にされたという差別の長い話の中にそのカットを入れるわけですけど、それはある意味で言えば、話の説明にはなっていませんけれど、ある種の人間の残酷さという意味では漁師の知っている体の中にある生き物との付き合い方の中の残酷さというものはそれによって表せたんではないかと思います。
だけど口で言っても理屈にならないんで、映画としてそういう風に入れてみて、目で観た感性として話とどうつなげてより深く感じ取ってもらえるかというのを期待する以外ないんです。
それから音楽とでは、僕はよく分からないんですけど、映画音楽というのは非常に雄弁なんですね。場合によってはナレーションで喋りまくるぐらいに音楽が付いてると、映画がよく分かっちゃうと。これは悲しいシーンだなっというのもその映画が始まるとそれはちょっと悲しい事が始まるらしいとなるように、非常に感性を支配するものですね音楽というものは。
「水俣」の場合は悲しい音楽は付けたくなかったんですね。彼らが愛した自然、愛した魚取りの仕事、そういったものの中にあるトーンを音楽で代表させたいと思って、南米か何かの先住民の音楽ですけど、ああいったフルートを流したりしたんですが。それから御詠歌ですね。延々たる御詠歌、これを何回も繰り返してラストシーンまで御詠歌でやったんですが。こういった音自身の持ってる世界ですね、そういったもの組み上げてみたいという事から音楽を使ってるつもりですが成功しているかどうかはよく分かりません。
土本監督の原動力
浜口: 土本さんは「ある機関助士」から40年以上活動を続け、作品はたくさんありますが、これだけの数の作品を作り続けている原動力、エネルギーはどういった所から出てくるんでしょうか。
土本: 僕はどっちかと言いますと、誰かが囮になれる題材、それからテレビっていうのは非常に広く見られますからね、テレビでおやりになってる題材、そういうのは僕がやる必要ないと思ってるんですよ。たいていの場合、これは僕しかないなあというと風にね自分で理屈になって来るんですね。これは他の人には無理だろうなあと。そんな事からそれに手をつけるという事はあるわけなんです。
この間もアメリカで言われましたが、一人の作家が30年以上にわたって10何本の同じ水俣の映画を作ると。しかも1作、1作その時のテーマにしたがって撮り方も変えながら撮っていくと。こんな事はちょっと比較する人がいないというような事を言われるんですね。僕としてみれば、その時々撮っていく人がいたり、テレビ局がフォローしてたりしたらね、こんなに長く撮ってないと思うんです。違う事やると思うんですね。
環境汚染という場合、非常に難しいのは公害を起こすような所は、開発されたり工業化されたり一歩進んだ所に公害が起きるわけですね。前のように鉱山から毒物が出たとか自然の毒が散るわけじゃあなくて、人類の知らない毒を作っていく工業が生まれた時代の話ですからね。そういった点で言うと目が離せない、この事件がどういう風になるのか、どういう風に人類の教訓になっていくのか、それを見ておきたいというのがありましてね。それで映画をそのつど作って来たというのに過ぎないのであって、特に考え方に意地があって撮ったというのではないんです。
それと水俣の患者さんにしろ、原発問題でいろいろ取材をした漁民にせよ、自然と一緒に生きてる人は一番基本ですね。やっぱり食べる物を作ってくれる人の感性といいますかね、これは十年一日百年一日のごとくかもしれませんけれど、彼らの意識、感受性というのを本当に学び取らないと、そこでおかしい物は後で大きい公害を引き起こす事になるんですね。水俣病にしろ、もっと早く漁民の直感を信じて魚が危ない、だから水俣湾に毒物を流すな。原因はよく分からないけれど、工場は休んでくれと。こういった事を早くやっていれば本当に何百人の被害で済んだかもしれないですね。
やはりそういった生産者の感覚をないがしろにしたっていうのが一番いけないと思いますね。そういう事を何とか映画で言おうと思って、そういう患者さんをあまり痛々しい患者さんとして描くんじゃあなくて患者さんの中にある漁師さんの精神というか、人間としての誇りを持って仕事をしてきた人たちの姿、そういうのを映画で捉えながら作ってきたつもりです。
浜口: 土本さんの言われる、人間を尊敬する気持ちが画面の中から出てきていますので、今観ても凄く感動できる作品に仕上がっていると思います。
質疑応答
「海とお月さまたちについて」
質問: 4日間見せていただき、この後も見せていただきます。ありがとうございました。54歳なので「パルチザン前史」なんかは切ない思いで見させていただきました。
感想を言わせていただきます。「ある機関助士」を見て労働者の誇り、自分が労働者である事の誇りが生き生きと描かれていまして、現在そういう誇りを持って生きている労働者がどれぐらいいるのかなと思いました。
「留学生チュアスイリン」最初のうちは支援者がいなくて後で支援者が出てくる、この間新聞で見ましたけれど、親子ばらばらで強制送還されるとか、排外主義が非常にはびこっている現在の状況がどう違っているのかと思いました。
「海盗り」先ほどの生産者や漁民の意見とかを聞いていたらもっと違ってたんじゃないかという事ですが、かくねんにしがみつく今の資本とか政治のあり方というものを考えさせられました。
「はじけ鳳仙花」を観ていて、本宮ひろしさんの漫画の中で南京虐殺を削除していくという動きがあります。それから一連の水俣の映画を拝見してまして国策という言葉が出てましたが、患者さんが職員を送る場面で君が代が流れる所があります。そういう部分が非常に印象的で、現在そういう中で公害というものは続いていると感じました。
「アフガニスタン」の部分を見ていて、現在のイラクのファルージャの状況とそれを支援していく小泉さん、このもろもろの抗議の声が、上がらないのか上がっているのか分からないのですが、地方にいては見えてこない。先ほどの発言の中で、弱者を取り上げるメディアが非常に多いというお話でしたけれど、地方にいたら報道されているのか分からない、マスコミでさえ上がらない、例えばイラクの状況に対する東京の集会で、労働組合が集会をやっているのにマスコミには上がらないという状況があります。
先ほど土本さんが言われたような、これは僕しかないというような作家なり、表現者なりがもっともっと出来てほしいなと思っております。また「海とお月さまたち」は小学校の教材にならないのかなと思いました。
土本: 「海とお月さまたち」は教材で使われていました。長い事いろんな映画を撮ってきたように思いますけれど、例えば「海とお月さまたち」というのは本当に5,6歳から小学生の低学年に、本当に人間はお月さまの力をどういう風に見て、そのお月様の暦で生きている人が地球には半分近くいるんじゃあないかと。陰暦期というか、中国の暦というか、それが全部お月さんに関係があるんだよという事を分かってほしいという事で。それをひとつの村の漁師さんの生き方ににじませて撮ったつもりなんです。
いろいろ水俣の映画をたくさん撮ったんですが、今度東京でフィルモグラフィでやってみると、凄く若い人が水俣の映画で自分にはやっぱり「海とお月さまたち」が一番よかったみたいな事を言われますとね、やっぱり子供たちに見てほしいと思います。今水俣病の起きたいくつかの町村、小学校の数で40校ぐらいに全部ビデオで僕はプレゼントしました。学校で小学生に見てほしいと、すでに失われた漁業やああいった漁を出来ない漁師さんがいっぱい生まれてますけれど、養殖なんかに様変わりしちゃって、養殖だとサラリーマンみたいな生活が出来ますから、養殖に替わっていったというのが現在ですけれど、20年ぐらい前の時代には本当に魚の姿をきっちりと描いて魚の気持ちまで分かって漁をしていた漁師さんがいたんだと。その漁師さんの脳裏にはやはり海とお月さま、そういった自然と生き物、全てが頭の中に入っていた。そういった事を何とか子供たちに読み取ってもらえる、感じてもらえるような、そういった映画としてあの作品はあるなと僕は思っています。
「ある機関助士について」
質問: 「ある機関助士」の事ですが、この映画に関しまして、この作品は国鉄側から土本さんにいい意味で国鉄をPRしてもらいたいという依頼とか意図が伝わっていたのかという事ですね。
そういう事であれば、乗務中に煙草をふかして、緊張の後という意味では映画的ないいカットと思うんですが、安全という意味ではやや不安なカットかなあと思ったりしました。当時の国鉄からの意図と土本さんの意図をお教え下さい。
土本: あの映画は、あの時代の国鉄の労働者の意識の高さ、あるいは国鉄本社の事故に対する責任感というものが交じり合って、ああいった映画が世の中に出てきたんだなと思うんです。あの映画が出来た時に、記録映画の批評家の中で非常にPR映画についていろんな能書きを言う批評家が、この映画はちっとも国鉄の趣旨である安全を謳っていないと、むしろ日常動いている機関車には絶えず危険が付きまとっているという事を訴えた映画じゃあないかと。その意味でこれはPR映画として作られたんだけれども、PRとしては邪道であり、私は公開を賛成しないという人がいたんです。
その意見に逆らう批評家がほとんどいなくて非常に情けない思いをしたんですが、あの映画の最後に、あれだけ過密な中を運転して来まして、3分の延着時間を上野に着く時には定時まで追い上げて、そして仕事を終わった事の報告に、「上野定時到着特に異常ありません」というナレーションを付けたんですが、これが鉄道員を描いた映画としては大変にいいナレーションだという風に僕は受けとらえられていると思います。
英語ではこう言うんですね。定時到着と英語で言った後「ノープロブレム、問題ありませんでした」とナレーションが付くんですが、それをアメリカでやった時ですけど、見た人は全部分かるんですね。これだけの仕事をしている人の簡単な報告が、問題ありませんでしたという言葉で締めくくられている。こういった日常が毎日である所の労働者の生活。そういったものが描けているかどうかだと思うんですが、やっぱり「ある機関助士」をそもそも作り始めたのは三河島事件という百何十人という一般人が死んだ事に対するお詫びとして企画されて、国鉄の安全を何とか世の中に知ってもらうという企画の意図でしたから、その意図にはぴったり来なかったかもしれませんが、私としてはそういった事故が労働者の過失じゃあなくて、基本的にはぎりぎりに組まれている過密ダイヤだと思っていましたから、その事を撮影しながらもいつも念頭においてやったつもりです。
あれは労働者が本当によく分かって出演に参加してくれたんですよ。後日談になりますけれど、あの映画を作った後、国鉄はどんどん人減らし、あるいは合理化といいますかね、そういうのが進んだ中で助士を全部なくそうという制度、いまはもうほとんど助士はありませんけれど、そういう助士制度廃止の中で、俺たち親会社国鉄は「ある機関助士」という映画を作ったじゃあないか。それは必要だから作ったんじゃあないかと。もう矛盾しているというんであの映画を上映しながら自分たちの仕事を奪われていく事に対する反対運動を助士さんたちがやったというのを何べんも何べんも聞きましたけれどね。そういった不思議な時代が作り出した一種の映画だと思っています。
「水俣を撮り続けた理由」
質問: 胎児性水俣病の方たちと大体同年代ですが、自分たちのところで公害と関わって生きてこられた方たちがたくさんいるなと改めて考え直しました。
昔「典子は今」というドキュメントではなくて映画としてサリドマイドの方たちが出演した映画を観て、その方たちの生きていく姿も印象に残り、その後の人たちの姿の情報というのは少ししかないのですが、先生のおっしゃったこぼれてきた、私たちに伝わって来ない、それぞれに体験した人たちの生き様が現在もつながっているというのが、今回映像を見させていただいて改めてつながってきました。
そして先生のおっしゃる自分が分からない、疑問だという所から自分が問いただしながら映像を作って来たというお話を聞いて、映像が改めて意味を持ってきたなというお話をお伺いしてよかったなと思いました。
また水俣の患者さんの普通の障害者とは違う大変さが、日本人の持っている水に流すみたいな、その時の映像だけで流すみたいな、日常から目に触れないと忘れられた存在になってしまうというのが今日のお話で思い直したところです。これからの水俣との関わりで構想などありましたらお話ください。
土本: とっても的確なことをお尋ねになってると思いますけれども、僕がテレビの人間だったらある程度世の中に警鐘を鳴らして事終われりという事だったかも知れません。被害者の人にも、僕はあなた方の事をちゃんと世の中に訴えましたからね、じゃあこれでさようならという事が言えたかもしれません。しかし僕はフリーですから、僕自身の映画が世の中で観られていくにしたがって、やはりそれについての責任という事をやっぱり考えます。
それから時間が大きいですね。僕が水俣を最初に知ってから40年経ちました。だから胎児性の子供がこんな小さい頃から、もう結婚も無理な一人暮らしのまま、ああいった病室で40代の後半に入ってます。ずっと見てますと、最近水俣病の人たちがどうなっているか誰もあまり聞かない。つまり水俣の患者として不当に扱われている人の裁判の話は出ますよ。水俣病になってしまって体はちっとも良くならない、悪くなるばかり、それでいて長い間の水俣病は、アカだの反体制運動に利用されただけだとか、そういうのに乗っけられて全国に恥をさらして水俣の名前を辱めたとかいうような事を言われっぱなしで来た水俣病の患者が、今いろんな裁判の結果、彼らは食えるようになりました。医者も病気すれば医療費はかかりません。それでいながら彼らに対して人間として扱う場所の提供はついには支援の人たちのささやかな物しか生まれませんでした。
つまり僕が今言いたいのは、本当に水俣病で苦しんだ人間はどうやってその人生をまっとうできるかっていうと、あなた方のおかげで我々はいろんな事を教えてもらったありがとうね、苦労したでしょうねという眼差しがあればいいんです。それが本当に忘れられなければいいんです。
彼らはやはり影になって生きていきたくないんですね。パチンコもしたいし、あるいは若い時代の胎児性の子供なんかは、変な話ですけどセックスの経験なしに俺は死ぬのかって悶えたんですね。どうしたらいいか。トルコ風呂ですよ。そういうのにも案内がいりますね。支援運動は彼らを連れてトルコ風呂に案内して、口が聞けませんからその担当の女の子によろしくお願いしますとやった人がいたんですね。僕は感動しました。
つまり、全ての点で彼らが生きる世界、そういったものを提供して行くような細やかな神経というのはこれからもいるんじゃあないかと。彼らは被害を受けた気の毒だった、我々は本当に気の毒だというふうに言います。という事で終わってしまったんでは駄目なんですね。とことん彼らの人間的な領域を広げていく、基本的な権利を広げていく、そういった事が普通のこれからの我々の生き方になっていくんじゃあないか。これだけ公害が多ければ、至る所にいろんな形の被害者がいますし、これからも出るでしょう。それに対して我々が差別しないで生きるという事はどういう事なのか、そこの所が一番大きい問題でしょうね。
公害が何も異常な事ではなくて普通の事になってしまった時代を我々はどう描くか、どう生きるかそういう事が問われていると思います。これからもどう描いていくべきか考えたいと思っています。
ただ最近若い人の映画の意見を良く聞かれるんですが、面白い映画が出来てますよ。つまり僕らだったら、例えばハンセン病の患者を描くのに、もの凄く手がやられ、顔が崩れている人の記録なんですけれど「熊笹の遺言」という映画ですが、その映画を観終わると、僕らの隣に住んでてもこの映画と同じように僕らも世話するだろうなと。何も気負わないで普通に世話するだろうなというような、そういった感情を持たせるような映画なんですね。
それはどうしてそうかというと、その映画が頭から、珍しい人、ひどい人、情けない顔になってしまった人っていう風に全然描いてないんですね。その顔をアップで撮っておきながら普通の会話をしていくんですね。病気に対する会話じゃなくて。そのことに対して普通に答えていく。そういった顔をキャメラにさらしながら喋っている人の様子を僕らが物珍しげに見るんじゃあなくて、いつの間にか普通の隣人として見ていくような姿勢に作られている事を発見するわけですね。
それは身障者の映画がひと頃たくさん出て、身障者を描いておけば何かドラマになった時代じゃあなくて、今は身障者とどう生きるかという事をどれだけの人間としての達成として描くのかというのが課題になっていると思います。そういった意味で僕は若い人たちがいろんな試みをしている時代が来たなと思っています。
浜口: もっとお話をお聞きしたいんですが、時間が来てしまいました。先ほど土本さんも言われましたように、若い世代も新しいドキュメンタリーをどんどん撮っていますが、まだまだ土本さんにも素晴らしい作品を作っていただきたいと思いますのでいい作品をお願いします。今日は本当にありがとうございました。
土本: どうもありがとうございました。
(了)