カナダインデイアンと土本典昭 ノート <2000年(平12)>
カナダインデイアンと土本典昭

1、
1974年から1975年
アイリーンがアメリカに居るときに、カナダに水俣病の疑いがあるので、来てくれと言う便りがあって、アイリーンがカナダにいって、「これは明らかに水俣病だ」と土本典昭たちに連絡してきた。このころ日本ではカナダに水俣病というのは半信半疑だった。

1975年3月
「世界公害調査団」(団長 都留重人、宮本憲一、宇井純、原田正純各氏)現地にいき、臨床研究、環境調査をおこなってカナダ・オンタリオ州政府に水銀汚染の重大さを警告
アメリカ帰国中のアイリーンスミスが現地活動家ジル・トリー氏とともに全コース同行。

1975年5月
アイリーンから土本典昭に国際電話かかる。二つの居留地代表で水俣見学団を組織し訪日するので、訪問記録を記録映画にとってほしい。それをカナダに持ち帰らせたい。
水俣に入る前に『医学としての水俣病―三部作』の英語版を彼らに見せたい。

1975年5月23日~29日
「われら地球家族」東京新聞、連載

1975年
青林舎が『医学としての水俣病―三部作』の上映で体力、資力を使い果たしていたので。友人のテレビプロデユーサーに同氏のドキュメンタリー枠をとってもらい、そのプリント一本を放送後報告用に持ち帰れるように依頼。
こうして「カナダインディアン水俣訪問の記録」と「現地報告用フィルム“HANDS JOIN ACROSS POLLUTED WATERS”が作られることになった。

1975年6月7日~17日
「美しき地球のために」中日新聞 連載

1975年7月17日
カナダインデアン来日。アイリーン同行。トムキージック
患者同盟と「告発する会」は全行程の旅費、滞在費500万円をカンパなどで賄う。
新潟見学
東京の小川町シネクラブでインデアンに『医学としての水俣病―三部作・第一部資料・証言篇』英語版をみせる。

1975年8月
第二次世界環境調査団のうち医学陣(臨床・疫学関係)二居留地で本格的検診と疫学調査にはいった。メンバーは宮本憲一団長、原田正純、藤野糺、赤木健利、中西準子、飯島伸子、この調査報告は「公害研究」76年冬期号に特集された。

1975年9月15日
川本輝夫、浜元二徳、浜田岩男、付き添い大石裕子、森田明博が20日カナダに滞在した。
土本典昭と大津幸四郎は帰国報告の八ミリだけを携帯し、水俣病のフィルムを7本(40キロ)を携帯する。

カナダ水俣病を追って



参考文献               

〇「いまなにを<敵>とするかー水俣・鹿島・六ヶ所のことなど」対談土本典昭・石川次郎 
月刊 東風 1975年 9月号

〇カナダミナマタ病を追って
「映画運動(試写室)通信」1975年9月1日 映画運動試写室                                                       

〇 カナダインデイアンの水俣体験―本当に人間をそこにみた
エコノミスト1975年 9月2日号

〇何故水俣病は第三世界に起こるか 
「新日本文学」1975年10月号

〇水俣―カナダ上映の旅  
「映画運動(試写室)通信」1975年11月1日

〇山紫水明のカナダでインデアン居留地に水俣病が発生している
「週刊ポスト」1975年11月7日

〇汚染地のインデアンに“神経どん”が蔓延しつつある              
「週刊ポスト」1975年11月14日

〇蝕まれる“森と湖の国”(グラビア)
「週刊ポスト」1975年11月21日

〇カナダ・フィルムツアー(1)-なぜカナダに行くにいたったか
「映画運動(試写室)通信」1976年4月1日

〇『水俣』のフィルムのかついで見た世界―映画上映・全カナダ横断の旅(1)
季刊 不知火1976年4月

〇カナダ水俣病の問うもの―カナダ横断フィルムキャラバン
「展望」1976年7月号

〇わが映画発見の旅―不知火海水俣病元年の記録
筑摩書房 1979年5月24日
       
〇土本典昭―わが映画発見の旅―不知火海水俣病元年の記録 (人間の記録―128)
日本図書センター 2000年11月20日