水俣と映画の間 『毎日新聞』 6月23日付 毎日新聞社 <1973年(昭48)>
 水俣と映画の間 『毎日新聞』 6月23日付

 患者さんの”語り”

 人間の生命とかひとの一生とかに的をしぼった交渉というものがあるとしたら、水俣病患者とチッソとのここ数十日に及ぶ交渉は、まさにそれであった。六月下旬に発表の「水俣一揆ー一生を問う人びと」はそれをモチーフにした全編、言葉と表情の映画である。交渉場所に限定された舞台の中でテーマは「どちらが加害者かな、被害者かな……一生の面倒をみてくれるのか、みないのかな」という一言に要約される。患者さんはたてまえの論理に拠(よ)らず、いつも身を捨て.恥をさらし、一点かくすことのないわが身の真実をときあかすことによって百の堆弁に代えた。一つの暴力もなかった。が、時になぐりなぐられた方が安らぎであろうと思われるほど、生死を問う青葉は重く、痛く続けられた。
 交渉がデッド・ロックにのり上げると、患者さんは青葉ではなくだれに聞かせるともない語りに変わる。「私にも嫁にいく機会がありました……女子(おなご)は立派な男をとのぞみます……それが人間です……」(浜本フミヨ)。自分の中に不定形にあった情念の一切をカイコの糸をつむぐごとく吐露するのである。

 現代の悲劇の典型

 怒号から一瞬のうちに変わって美しい人間の声が聞こえてくる。「何もかも知りたかばってん……あんたの座右の銘はなんですか?趣味は‥…」(川本輝夫)
 これはチッソの首脳にも突き刺さるのがわかる。「これはすなどりのひとの心だ」といくたびも思った。魚心すら理解し、魚とさえ語らった人々である。社長といえともわからないはずはない、と竪く一心に信じているおおらかな人間の声である。
 しかし、水俣病を会社の側で抱え処理してきたチッソの首脳。患者家族の名まで記憶している実務家の重役、チッソの中でも、もはや最終処理はその人をおいてないと財界もみとめる唯一の手駒、現チッソ島田社長はこの語りの前ですら、人間として自由に対応出来ない。文字や言葉が資本の論理以外になかった人にちがいない。チッソなりの弁明、説得。一見、因果のすじみちをたてた理屈も、つきつめると「ひとのいのち」を見失った果ての彼らの言葉である。これを文章にすると、あるいは何とかにも三分の理ということになろう。しかし、映画で彼らが音と画の世界にさらしてしまったものは「人間なるもの」についての固執がゼロに等しいということである。映画はチッソの言い分にも、充分にスペースを割いたつもりである。だが資本と常民とのすれちがいがはげしい亀裂(きれつ)音をたててゆくのが見える。「水俣病」をはさんで、すでに二十年余、ぬきさしならない現代の悲劇の典型を見、それが描けたと思う。

 ”同調”こその効果

 この映画で、初めて「画面」と「音声」がぴったりと合う同時録音のシステムを使用できた。フィルムとテープが一秒の狂いもなく同調(シンクロ)する方法である。「何を今さら・・・…」と、言いだす自分もおかしくなるが、前作「水俣-患者さんとその世界」を撮ったカメラとカセットテープでは不可能であって、そのシステムのためには資力を要するのである。TV界では、ほぼこのシステムを常態とするようになり、その技術水準から、新人教育をしている。また、観客としても「唇のうごきと言葉が合う」などということは、改めて意にするまでもないほどの常識であるが、私たちにとっては資力からいって高根の花であった。仲間でそれをわがものとしたのは小川プロ(三里塚)である。小川紳介とスタッフは、研究心と求道力においても抜群である。すでに二、三年前、「叛軍」シリーズを製作した岩佐寿弥が「飛翔・女優にとって自由とは・・」でオール・シンクロの映画を発表して「映画宣言」ともいうべき提示をしたが、これをドキュメンタリーの分野で画期的に駆使したのは小川プロであった。カメラと録音機に改造を重ね、激しい撮影現場向きに作りかえた機械をみる。
 取り組んでいる「不知火海」のプロローグの一のシーンのつもりで、これが「水俣一揆」-という作品になるとは予想していなかった。裁判が終わったその足で、はじめておのれの一生の始末をつける……そうしたひたむきな患者さんと共に、水俣からカメラをかついで東京に騒けのぼった(帰京ではなく)時に、この映画は一つのテーマを孕(はら)みはじめたといえる。
 恐らく一室の中だけで語られるやりとり、患者さんの世界、チッソの固執す世界を撮るには、技術的にシンクロ撮影以外になかった。東京から知合いの一切の機材の応援でカメラを回したのである。

 未知の世界へ肉薄

 この方法によって、変化のほとんどない「交渉」現場から、沈んだドラマを映画としてとり出すことが可能となった。これがどんなに私をうったかわからない。「水俣」と向き合うことは、実は私たちにとっての「映画・表現」と向き合うことである。もし旧来の手法で、この闘いをとったら、大きく失敗したであろう。これから撮る「医学としての水俣病」(仮題)そして「不知火海」の準備として、スタッフのひとつの関心はカメラとマイクにある。より全人間的な表現力が可能である武器を手に、水俣にいま一つ、未知な水俣の世界を、映画として表現したいからである。水俣と映画との間はゆけども、達し得ぬ世界だとしても、である。