書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」ある映画プロデューサーの証言ー土本典昭フィルモグラフィは、いかに作られたかー高木隆太郎/時枝俊江/土本典昭 <2005年(平17)>
 書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」ある映画プロデューサーの証言ー土本典昭フィルモグラフィは、いかに作られたかー高木隆太郎/時枝俊江/土本典昭

 土本典昭 まず、僕からお二人をご紹介します。
 高木隆太郎さんは、岩波映画の監督仲間の間でいろいろ話題になった人です。普通の会社でいうプロデューサーのやり方とだいぶ違う、作品にのめり込むタイプで、会社の管理の中にいるけれど、あまりそれに忠実ではなく、自分のやりたいように進めていく人だという噂を聞いていました。高木さんを一番手こずらせたのは私の『ある機関助士』で、予算をオーバーしたために大変苦労されたと、あとになって聞きました。しかし製作の中では、本当に作家のやり方を理解して進められておられた。
 東陽一さんがフリーになって、どうしても沖縄を撮りたい、その製作を、岩波時代の一番の友達である高木さんに依頼したことから、高木さんも岩波映画を辞め、そのプロデューサーになられた。それが『沖縄列島』という作品です。日本ではじめての沖縄のドキュメンタリーです。
 僕が高木さんと実際に知り合ったのは、その後、水俣の映画の始めからです。彼は熊本の宇土出身で、学生時代の友達も多い、その中から水俣の闘いを。全国区にするために映画が欲しいということで、映画作りを高木さんが頼まれたという経緯がありました。それから高木さんとの付き合いが始まりました。ともに血気盛んで、時に壮絶な喧嘩のやり取りというか、それでいながら深く信頼し合っているというか、欲得なく水俣の問題についての作品を作ってこれたと思います。
 時枝俊江さんは、僕が岩波映画に入って以来の仲間で、中国取材の記録映画『夜明けの国』はじめ多くの文化映画や教育映画を手がけてきた岩波映画の最古参で中枢の監督です。近年は高齢者医療の問題に取り組まれ、『病院はきらいだ』などの作品を作られています。
 僕は何かやろうとして、岩波映画の人だったらどう考えるだろうかと思う時に、一人か二人の顔が思い浮かびます。相談したいと思う人が必ずいます。僕は時枝さんに、一番多く相談して、意見を聞いてきたように思います。岩波映画にはある精神の形が漂っていて、いろいろな人にそれを見かけますが、時枝さんに一番強く引きつけられたのは、岩波の何かをきちんと持っている人であるからです。彼女が「私だったらこうする」と言う時に、ほとんど間違いなく、「やっぱり岩波だなあ」と感服することが多い。岩波映画の持っているあるスピリットといったものを時枝さんは示してくれていたように思います。
 今日は、時枝さんに進行役をお願いします。

『やさしいにっぽん人』と『水俣ー患者さんとその世界ー』の同時並行の中で

 時枝俊江 このお二方は、よく殴り合いをしたと聞きました。どういうことで殴り合ったのかといったことも含め、身近にいた者として、ざっくばらんにお話を聞きたいと思います。
 高木さんは岩波映画に一〇年ほどいらしたあと、辞められて自主製作のプロデューサーとしてお仕事をされてきました。自主製作を始められたあたりのことをまずお聞かせください。

 高木隆太郎 私自身が、岩波映画での仕事が行き詰まって、先への一歩が出なかった時期に遭遇していたのだと思います。これは、あとから考えてみればということです。そういう意味では非常にいいタイミングで、東陽一さんが「俺のプロデューサーをやってくれ」と誘いをかけてくれた。私から言えば、自分で岩波映画にいられないから飛び出そうという踏ん切りをつける前に、東が岩波を辞めさせた、今からの人生が間違うかうまくいくか、すべて東陽一さんのせいだと言えるようなことになったわけです。岩波映画の特徴だったのかもしれませんが、PR映画の仕上げのプロセスで、必ずスポンサーと監督の意見の対立があり、性懲りもなく事件がその都度繰り返されていました。
 例えば『ある機関助士』で、機関助士の青年が一風呂浴びてから、休息室に帰ってきて、足の親指の爪を切るアップがありました。スポンサー・サイドからそのシーンをカットしろと言われるが、監督は切れないと言ってもめました。そうした意見の対立が必ず岩波映画のPR映画では起きていました。ほかの会社もPR映画はたくさん作っていたから、スポンサーと対立までしないのが通常だったと思うのです。ところが、岩波では必ずそういう対立がありました。演出家たち、あるいはキヤメラマンたちは、スポンサーとPR映画に対して不満を持ち続けている。スポンサーのほうから言えば、岩波のスタッフは言うことを聞かない。そして必ずそのあとには、金は俺の会社が出しているんだよということになる。そのへんがずっと溜まりに溜まって、演出家たちが岩波映画を飛び出してフリーになっていったのだと思います。
 プロデューサーの私がなぜ出たのか。私は作品に恵まれていて、したいことができました。映画を作るということで言うならば、ちっとも不満がなかった。最後に行き詰まったというのは、自分自身のスランプの極みで、突破口が見つからなかったのであって、やりたいことをやらせてくれないということではありませんでした。岩波映画というところは非常に民主的なところで、そういう点では文句のつけようがなかった。結局、東陽一さんの誘いに乗って、会社を裏切って在職中に、外に出た彼の映画をプロデュースした。会社のほかの人間はみんな知っているのに、私の席のすぐ後ろに座っている小口(禎三)社長だけ知らない。社長にだけついに言えなかった。『沖縄列島』のシナリオハンテイングが終わり、スタッフも帰ってきて、クランクインするという時までの数カ月間、社長だけがそれを知らなかった。それで小口社長が激怒して、「いかに俺といえどもクビにせざるを得ない。俺は一生に一度だけ社員のクビを切った」と彼は言いましたが、彼にクビを切らせたのは私であって、誰にも恨みはありません。しかし岩波映画はおかしいというか、嬉しいというか、ひと月もすれば暮れのボーナスが出るからボーナスをもらってから辞めろという。本当に不思議な、変な会社で、今でも好きです。

 時枝 『沖縄列島』で高木さんは「借金で映画を作り、映画で借金を返す」とおっしゃって、自主製作ー自主上映を始められ、続けて水俣のシリーズをプロデュースされることになったわけですね。

 高木 「借金で映画を作り、映画で借金を返す」って非常にきれいです。そういうことが夢だった。『沖縄列島』の当時、自主製作の世界では、カンパで映画を作るというやり方がありましたが、それには抵抗がありました。
 「借金で映画を作って、映画で借金を返す」ということを掲げた時に、東プロダクションという名前を仮につけたのですが、スタッフみんなが話し合って、東プロダクションは『沖縄列島』一本で解散すると決めました。そのようにしなければ、映画が完結できないだろうという考えがありました。そういうことをみんなで決めてスタートしたのです。ところが、水俣病が大きな社会問題として出てきた。『沖縄列島』を熊本で上映した時に、「おまえは熊本県人だろう。水俣病がありながら、なんで沖縄だ、なんで水俣病をやらないのか」とかなり迫られた。東陽一さんのほうに『沖縄列島』に続いて『やさしいにっぽん人』をやりたいというのが先にありました。配給の展望を持っていない劇映画を作るのに、劇映画だけでは決して成り立たない。運動的な手がかりを持つドキュメンタリーと一緒にやらなければ、片方だけでは成立しないという見通しが本能的にあって、劇映画の『やさしいにっぽん人』とドキュメンタリーの『水俣ー患者さんとその世界ー』を並行してやることになったのです。
 もう一つは、中学・高校の同級生で『熊本日日新聞』の記者、直木賞作家でもある光岡明さんから、水俣病の患者さんたちを東京に連れて行って、東京の人たちの前で彼らの話を聞いてもらいたいという相談を受けました。そのようなことがドッキングして、次にやるドキュメンタリーは水俣しかないと思った。それを持ちかけたのが土本さんです。ところが、土本さんは、もう水俣の地には足を踏み入れたくないという状態のようでした。

 土本 その数年前に、僕はテレビ番組のために作った『水俣の子は生きている』の撮影で、大変手痛い記憶が残りました。それが拭いきれなかった。水俣の問題は映画でやらなければならないと思いましたが、僕自身はやれるような精神状態にありませんでした。もっぱら高木さんに知恵を出す、あるいは東さんの次の演出作品として作り、僕が脇で助けられたらという形で話に参加していたと思います。しかし、なかなか話が固まってこなかった。ある時、手痛い経験をした僕自身がやらなければやれる人はいないのではないかと思い直し、助監督志望の寺本君を通じて、高木さんにサインを送ったということから、この話が転がっていったと思います。

 高木 私の中に、水俣という映画の動機はあったが、中身は何もない。悲惨な事実は縷々あるけれど、映画としての中身はないわけです。何もないのを映画にするのは、土本さんがやってくれると思った。最初は引き受けてくれなかったのです。しばらくして寺本君から、「土本さんはやる気があるのを、あんたはなぜ知らないのか」と言われて、もしそうならばやろうと。その時から、私たち二人の間でやろうかやるまいかという迷いはもはやなくなった。一方で、患者さんたちが東京に攻め上ってくるというムーヴメントが進んでいた。「水俣病を告発する会」という非常にラジカルな団体が熊本にあり、その人たちが東京に攻め上ってきて、東京にいる仲間たち、あるいは仲間のかけらでもあれば、全部糾合して結集したいという動きがありました。そこにノコノコと出かけていったあたりから、もう私たちがどうするというよりは、運動の波にどんどん引っぱられていった。これは私の勝手な実感ですけれど、そういう感じでした。
 いろいろな経緯はありますが、土本さんで製作して、ドキュメンタリーとして非常に素晴らしい作品ができた。自主製作でみなさんに見てもらえて、こんなに幸せなことはなかったと思います。

 時枝 土本さんは一度は断られたあとに引き受けられて、どのように水俣と向き合っていったのですか。

 土本 熊本市の運動の中心人物で、しかも石牟礼道子さんを見続けていて、石牟礼さんのことなら何でもやろうと思っていた思想家の渡辺京二さんが、「水俣の問題だけは一生触るまいと思っていた、しかし自分は告発という形で参加してしまった」と、二回ほど文章に書いています。絶対にこれだけはやるまいと思ったという理屈、中身はよくわかりませんが、これに引き込まれたら俺はどうなるかわからないという、人間としての直感的な怖さみたいなことを言っておられるのだと思います。あとから考えれば、僕の場合にも、非常にそれに近いものがあった。
 やることを決めて、熊本に提起される運動にはいつでも付き合おうと思ったけれど、すぐに東京で起きてくる運動にはキヤメラは回さないことを決めました。キヤメラマンの大津幸四郎君にも運動の仲間に入ってもらって、デモといえば大津君が届けの係をやったり、厚生省に突っ込むというので僕が下見をしたりとか、直接運動には参加していました。二人で言っていたのは、「まず運動しよう。キヤメラを回すのはまだ早い」ということでした。
 一九七〇年の五月下旬、熊本の人が一〇人くらい東京に出てきて、厚生省に座り込もうとして捕まる。三泊四日でしたが、その時から始まった東京での闘いの波みたいなものはドラマティックでした。しかし、それはほとんど撮らなかった、撮らないことによって、水俣のことをやっていく資格があるかなと、自分を点検していたのだと思います。僕のほうから高木さんに「やりたい」と言ったことはない。阿吽の呼吸の中で、そうするよりしょうがないところにいったと思います。決めた時には腹をくくっていました。どういう規模で、どういうお金の作り方をするか、まったく先が見えないところでしたから、大変な決意だったと思いますけれど、わりと劇的な日々を経験して、撮影段階に突っ込んでいったという記憶があります。

 高木 東京でキヤメラを回さないというのは、確かに決めたんです。土本さんが決めて、それに僕も同意したのだと思います。あの時の渦巻きのような運動、座り込み、牛蒡抜き、それこそ軒並みパクられて、四日間でしたけれど、宇井純さんなんかも一緒でした。さきほど話に出た渡辺京二さんのいう「これだけには触るまいと思っていた」のを「つい踏み込んでしまった」というような人たちの運動でしたから、思想的に非常に透徹した人たちの運動だったと思います。運動については、土本さんは大ベテランですから、パクられても何でもちっとも動じない。段取りかなんかしちゃって、軍師としても役に立っていたと思いますが、私は運動のただ中にいて、キヤメラが回るというよりも、見ていて新鮮で新鮮で仕方なかった。
 そこで、攻め上ってきた患者さんたちと合流しちゃったわけです。私たちが映画を作りたがっていることを知っていた人もいましたし、中には映画を作れという人もいました。当然、映画を作ることになるという準備がその中からできて、石牟礼道子さんなんかが、水俣に行って宿舎は浜元フミヨさんの家に段取りしたよ、とおっしゃったり。撮影を始めるところのお膳立てをしてもらっちゃって、行ってみたら、焼酎が一〇本くらい買ってあるという恵まれた条件がありました。どうしてあんなことになったのかわからないのですけれど。
 みなさんがつくってくれたフィールドの中にスタッフが入っていった。怖くて触れなかった、もう再び入れないと思っていた所に入れるようになったというのは、いたずらにフィルムを回すことを我慢したからだ、そういう意味で、正解だったのかもしれない。それで信頼が得られたのかもしれません。

 時枝 お金の工面はどうされたのですか。

 高木 製作資金は、全部借金でした。何かの時にカンパをくださったものをいただいたことはあるかもしれませんけれど、カンパを募ったことは一度もありません。

 土本 最初に、告発する会が、みんなで五〇万円、何も口を挟まない金だから使ってくれといって、水俣に着いた時に波辺京二さんから渡されました。それで水俣に入れた・・・。

 高木 それ、俺もらった?

 土本 僕はもらっていない。

 高木 たぶんそうなのでしょう。覚えてないですね。次から次に金が必要になります。その時は16ミリの白黒のフィルム、しかもシンクロ撮影ができない古いタイプのキヤメラだった。そうだ、テープレコーダーを小川プロから借りたんです。疑似シンクロにもならない状態だったと思います。

 時枝 そうやって始まった映画をまとめる段階になった時に、土本さんが八時間で観せるとおっしゃったのですね。たまたま岩波映画にお二人が見えた時に、当時の演出部長だった高村(武次)さんと何人かでご飯を食べていて、土本さんが八時間で観せると言い始めて、その話が延々と続いたと聞いています。その決着はどうなったのでしょうか。映画の長さについて、土本さんは、『映画は生きものの仕事である』(未来社)という本に書いておられますけれど、なぜ普通の商業主義の規格にしなければならないのかという疑問は、すごく持っておられたようですが。

 高木 切れないわけないですよ。切れるわけです。勝手な話なんです。八時間の映画をどうやって観せたらいいかつて、とてもじゃないが、私にはイメージも何も浮かばない。なぜ切れないかを、土本も言わなかった。私もかくかくしかじかの故に切ってくれとは言わなかったと思います。ただ、切らない、どうやって観せるんだというだけで、それを延々とやっているのに、たまたま関係のない岩波にいたメンバーがお茶を飲んでいるのに付き合わされた、もう勘弁してくれということはあったと思います。寄ると触ると、八時間を切るか切らないかというのが、一週間や一〇日間は続いたのではないでしょうか。顔を見ると、その話にならざるを得ない。最終的には、こちらの言い分を聞いてくれたんだと思う。二時間四七分にあなたがしてくれたんだよね。

 土本 二〇〇三年の山形国際映画祭でグランプリをとった中国の映画『鉄西区』や、クロード・ランズマンの『ショアー』といった長い作品が出てきて、僕の考えたことも空想的ではなかったのではないかと思います。あの時は、二一時間か二二時間あったラッシュをまとめていくと、七時間くらいで一つの「観たなあ」という感じのものになっていく流れがあったのです。休憩を入れるとかいろんな工夫があるだろう、そういうのがあっておかしくないのではないか。
 事実、熊本や水俣でそのままの長さで観せたら、長いといいながら、みんなよく観てくれたので、できるのではないかという思いがありました。特に熊本では告発の仲間に観てもらった。「これは切れんなあ」という。しかし自主上映の現場を考えると迷います。
 僕が切ろうと思った決定的なことは、金を貸してくれた本屋さん、津村さんという方に「土本のわがままだ、これに協力したみんなの気持ちを思ったら、上映できる長さ、回転できる三時間以内にするのが至上命令だ」と詰め寄られた。まなじりを決したその顔を見て、この人も一生をかけてこの映画を支援してくれたのだと思ったのです。この映画を成功させて製作資金を回収しなければいかんと、それでは、やってみようかということで、あとは自分のテンポで切ったつもりです。

 高木 まあ、この時に切って、ある程度資金回収できたから、あとの作品ができたのかもしれません。ちょっと付け加えるならば、水俣病がカナダインディアンの人たちの間に発生しているという時、一九七五年でしたが、土本さんらがカナダに映画を持って行きました。その時、私は郷里の叔母が亡くなって熊本にいたのですが、かなりへべれけに酔っぱらっていたところにカナダから電話があった。カナダでは昼間かもしれないけれど、こっちは夜中です。それで土本さんが二時間四七分の映画を切りたいという。そのための理由もあるし、切れば切ったなりの一つの作品としてのイメージが土本さんの中にはあったと思いますけれど、私は酔っぱらっていたし、二時間四七分にするのに、もしかすると血が流れるかもしれないような思いがあった。なんで、さらに切りたいなんて勝手に言ってるんだと、電話で激怒しました。
 監督がフィルムを長いとか短いとか、切るとか切らないとかの攻防には、本当は何の正当な理由もない。その時の気分とか、その時のイメージとか、またそれによってしか映画はできないと思いますので、不当だとは思いませんが、映画の長さというのはそういうものだということです。

 『医学としての水俣病ー三部作ー』の製作から資金回収まで

 時枝 高木さんに言われたというより、土本さんはそれなりに納得して縮められたのでしょう。その次に『医学としての水俣病ー三部作』を製作されましたが、医学映画は資金回収が難しかったのではないかと思います。どういった経緯から製作が決まったのでしょうか。

 高木 これは快くお話のできることです。『沖縄列島」も『水俣ー患者さんとその世界ー』も、借金で映画を作って、映画で借金を返すというサイクルが見えそうな作品でした。ところが『やさしいにっぽん人』やその他の劇映画は回収が困難でした。患者さんたちと一緒になって作った映画であると同時に、ちゃんと対価として買ってもらえる映画、商品というのは抵抗がありますが、そういうものとして考えた。水俣病は医学教育にとって大事な教材、教材という言葉を使うのはいけないかもしれないが、今まで世の中になかった病気、自然界になかった化学物質が引き起こした症状が典型的にある。それを医学の教材としてきちんと作ることが、我々にはできるではないか。それを買ってもらえる。非常に嬉しい企画というのか、納得できるものでした。企画のイメージがきちんと成り立っている、プロデューサーとしては、これだ、というようなものでした。それで、それぞれ三〇分の資料・証言篇、病理・病像篇、臨床・疫学篇の三部作として、ちゃんと売れるものを作ろうと言ったのです。

 土本 水俣の映画の中で『医学としての水俣病ー三部作ー』は、僕にとっては不思議な思いが重なる映画です。水俣病というのは、ムービーでなければ記録できない。写真ではわからない。震えたり、歩き方がおかしかったり、様子がおかしいところを丸ごと撮らなければ、学会にも発表できないことから、教授が自分の医局で16ミリキヤメラを買って記録していた。予算は誰が出したか知りませんが、教授は自分のフィルムだと思っている。自分の研究発表には使うけれど、国の財産にはしない。私たちがそれを見つけた時には、フィルムはほとんどボロボロでした。ネガフィルムからポジフィルムを起こす通常のタイプではない。ネガから即ポジに反転するタイプで、それは一本しかない。キズが付いたら終わり、放っておいたら貴重な水俣病研究の映像が全部、どこへ行ってしまうかわからなかったのです。どのフィルムもそうでした。
 私たちは「まず、それがある」ということは知っていました。しかし裁判に影響を与えるからという理由で医学部部長が凍結していました。ですから「いつ発表してくれるか」を暗に各教授らに問いかけますと、「裁判が終わったら大丈夫でしょうけれど」という返事でした。本来、これはあるタイミングを見計らって、国とか医学の学術団体が公の金で永久保存すべき性質のフィルムでしょう。人類に一つしかない映像かもしれない。そこで二人で相談して、どんな切れっ端までも、全部復元してキープしようと。どう使うかよりも先に、まず、学者先生からフィルムを出してもらおう、そこで考えようということを決めた時に、作品として一つの分水嶺がありました。どう映画的にうまく作るかより、この消滅、あるいは廃棄されそうなボロ資料を活かすのは俺たちの仕事だと決めてかからないと始まらない。放っておけば、消えていく、ボロになり、クズになっていくという恐怖がありました。
 それを絶妙なタイミング、といっても裁判の患者側の勝訴という画期的な契機を経て、手に入れられたし、それに関係する医学者の人脈をつくりました。そして、医者の一人ひとりと話していくことができました。はじめは、商売にするにはいい企画だと、僕も思っていたけれど、やり始めてみたら、とんでもない。国家的プロジェクトであるべきものを、小さいプロダクションでありながら採算を度外視してやらざるを得なかった。その相談相手は高木さんしかいなかったんです。

 高木 先生たちに、みんな補修した再生フィルムをあげたよね。モノクロのリバーサルの8ミリフィルムだったりするのを、全部16ミリのデュープを起こして、みなさんのお手元にお返しした。そういう意味では喜ばれたと思います。
 我々はまったく名もないプロダクションで、土本さんなんかはかつて運動でならした猛者の雰囲気を持っている。そういう我々が、熊本大学の医学部の教授に話をして協力をお願いするわけです。水俣病の原因が(チッソからの)水銀だと言ったばっかりに、一時は学者としての発言の場も奪われそうな苦境に立たされたり、それがまだ挽回されていない状態の時でした。とにかく訪ねて、目的をお話しする。最初に警戒されたのは、左翼反体制運動に利用しようとしているのではないかといった懸念があったためです。中には、原田正純先生とか、最初から理解してくれた人もいました。そういうところで、一人ひとり、保守の固まりのような臨床の医学部の教授などに話をしに行って、協力をお願いした。誠心誠意お話しして、こちらの映画を作りたい意図、目的をわかってもらって、協力してもらうことになった結果が、あの映画になっているわけです。信用の裏付けになるようなものは何もなくて、自分たちで信用をつくり出しながら映画を作っていったのだと思います。

 時枝 出来上がった映画は、高木さんが最初に考えていらしたのよりずっと長いものですが、大学に売れたのですか。

 高木 各部が一時間三〇分前後、病理・病像篇が一番長い。プロデューサーの甘さもあるのですけれど、大学の医学部に売れると思ったものが、特殊な例だからと、ぜんぜん買ってもらえませんでした。大学が教材を買う予算は非常に小ぢんまりしたもので、三部作で合計四時間半のフィルムはまったく対象外でした。時間で計算するとかなり膨大な金額になるプリントを買ってくれというと、みんなキョトンとしているのです。企画の段階で、素晴らしいものがやれそうだと思ったのが、今度は奈落の底に落ちたように、その年の正月はまったく暗い正月で。半纏を着て、石油ストーブに背中を当てている、その私の友はミーという猫一匹だったという記憶がある。そんな正月の三日か四日に、京都大学の病理学教室の翠川修さんという教授から買いたいと言ってきました。嬉しいというより、なぜだろうと思った。なぜ買うことになったかを聞きに、私は京都にふっとんで行きました。そうしたら、いとも簡単に、学生が買ってほしいと言うので予算をとりましたと、それだけのことなのです。これならば、全国の大学に行って、学生に買ってほしいと言わせて、予算をとってもらえば売れるじゃないかと思いました。あとで考えれば、翠川先生は特別な先生だったのですが、それをヒントに北は旭川から南は鹿児島まで、映画を持って行商したわけです。映画の行商というのは、もしかすると世の中にはあまりない珍しいことかもしれません。三本合わせると、フィルムの重さは一五キログラムくらいでしょうか、それを担いで行きました。二年目は車に映写機とフィルムを積んで、「この前はご挨拶に来ましたけれど、今日はご覧にいれに来ました」と見せて歩きました。
 「医学としての水俣病ー三部作ー」を作る発端は、自分では素晴らしい企画だと勇躍して取りかかって、これは恨み言をスタッフに言うべきか、それとも必然だったのか、とにかく売れない映画ができてしまった。それで、担いで日本中を行商して歩いた。まるで売れなかったのではなく、ポツリポツリ売れて、最終的には、そんなに滅茶苦茶ではなかったと思います。行商である程度手応えのある製作費の回収をしたという経験をして、私の中では非常に満足感があります。

 土本 いわゆる医学映画というのは、すでに結論がわかっている病気にどういう対症療法があるかとか、どういう薬を飲めばいいとか、因果関係の要点だけの短い映画が適当なのです。教課として教室で上映し、専門家が解説する。それで若い医学生に関心を持ってもらう。それで十分です。ところが水俣病は違っていました。まだ現在進行形で、どういう病気なのか、どういう障害なのか、その全体像が問われ、解明途上なのです。しかも完治する見込みはない。体内の有機水銀を取り除くことはできない病理です。患者から言わせれば「毒をもらって障害を受けた。裁判でその因果関係がはっきり確定した。自分の生活、健康を補償しろ」ということになるわけで、そのことがもめにもめている渦中での医学の話なのです。
 医学者にとっては自分の判断に絶えず補償金が随伴する、認定審査制度での認定には、チッソの補償能力も考慮せざるを得ないという暗黙の政治的要請にぶつかります。一方では、そういうものと無縁な原田正純さんたちが徹底的にフィールドワークしていく。汚染環境のフィールド、疫学調査と無縁に、ただ臨床的に慢性発症患者や非典型的患者を診ると、典型的なかつての急性劇症の患者との違いから「これは他の病因では」と態度留保、判断停止に追い込まれていく。まして被害者の老化によって運動失調や視野狭窄、言語障害も老化現象とされ、特に手足の末端の感覚傷害は水俣病以外にもいくらでも起こり得るというような、逃げ道がいっぱいあるのです。認定即補償金、これがのしかかっています。
 資料の使い方によってはえらいことになっていく時代に、あの映画を作ったのです。有機水銀中毒の典型症状は、急性激症の多発した一九五六年前後には水俣病の解明に役に立ったのですが、患者さんの裁判勝訴後、急増した水俣病の申請患者には非典型患者もかなり含まれていました。認定制度は彼らが水俣病患者であることを否定し、棄却・否定していく。しかし誰しも汚染魚を食べたことはあきらかでした。そうすると、三〇分くらいの映画で典型症状をコンパクトにまとめていくことは、非常に難しい。いま医学者が解明しているそのプロセスの記録しか撮れないではないか。それならば水俣病医学の”中間報告”のドキュメントにしようと頭を切り換えました。
 同時に、これは高木さんの予想とはずいぶん違って、売るのには苦戦するだろうと思いました。ある意味で水俣病は一過性の事件とみられている。私たちはこうした環境汚染は全国の問題だ、どういう中毒事件が起きるかもしれない。水俣病がその解明に必ず役に立つと思います。フィルムは各県の大学医学部、医科大学に売りたいわけですが、各地の医学者、医学教授はフィルムを備品とする現実感はありません。「私らの県で水俣病があるとは思えないから・・・」と言われたらそれまでです。その中で、高木さんは歯を食いしばって、少しずつ売って回収していった。それは肝に銘じています。

 高木 私の思っていたものとまるで違うものを作ってしまったと聞こえたかもしれないけれど、作りながら、私は反対しているのではなくて、そういうものにならざるを得ないところを共有していたと思う。だから、そうなることを支持していたし、こんなものを作りやがってという気持ちはまったくありませんでした。そういう覚悟は、途中でできていたと思います。
 これは土本さんには話したことがないかもしれないが、東大の図書館にも売り込みに行きました。日高六郎さんが私たちの映画に協力してくださっていたことから、東大図書館の稲葉館長にも、日高さんと同じような感じでお話しできるだろうと思っていた。そんなに偉そうなことは言わなかったけれど、館長の本音かなと思ったのは、”東大図書館”という権威を知っているか、この映画がどんな中身の映画であろうが、ステイタスというか。自分たちの映画の分を知っているのか。と言われた。非常にショックだった。俺たちの映画の社会的な位置づけは、東大という権威の前では、そういう位置づけであると認識をしました。そういうことが社会的にあるのだと思います。
 
 『医学としての水俣病ー三部作ー』とワンセットとしての『不知火海』

 時枝 『医学としての水俣病ー三部作ー』の資金回収に苦労されていた最中に、『不知火海』ができたことになりますね。

 土本 最近、僕の「映画は生きものの仕事である』という本が復刻されて、その「あとがき」に書いていますが、『水俣一揆』や『不知火海』は、予期せぬ過程で作品になったものです。『水俣ー患者さんとその世界ー』が終わって、とりあえず、水俣病裁判の判決の日から始まって、その後、一生の補償を求めてチッソ本社に駆けのぼり、あとに退けない闘いに入っていきました。その数週間の記録を一本の映画『水俣一揆ー一生を問う人びとー』にまとめた。これは闘いに間に合うように仕上げを急ぎました。ニュース速報のつもりでした。このチッソとの直接交渉はいつまでかかるか、少なくとも数カ月以上の長期戦になると思っていましたから、緊急のニュースでしたね。
 『水俣一揆』は『医学としての水俣病ー三部作ー』のプロローグのつもり、その導入部に裁判のシーンが必要だろうと、そんな気持ちで回したものが、独立した一本の映画になった。その意味で、あらかじめ企画された映画ではありませんでした。
 世間では水俣病裁判で勝訴し慰謝料はもらったはずだとして、なぜまだ闘うのか、という声もあるだけに、上映運動でこの映画をフルに使おうと思ってました。だが予想以上に早く、映画の完成から一カ月余りで、チッソが患者の要求を呑んだ協定書に調印した。つまり映画を闘いに役立てたいという緊急性はなくなりました。それから本格的に『医学としての水俣病ー三部作ー』を撮り始めたんです。
 しかし、先に申し上げたようにこれを教科書的に撮ることはできません。何せ、水俣病は解明の途上でした。認定審査会で保留や棄却された患者を撮る場合などは問題だらけです。棄却理由に、「病名不詳」とか書かれていることもある。「多発神経炎」や「脊椎変形症」などと素人には理解できない病名もしばしばで、患者本人や家族には理解できないのです。例えば親父は水俣病と認定されているが、息子は違う病気として棄却される。棄却理由に脊椎変形症とある。同じ浜で、同じ家で、同じ鍋で魚を多食した事実は明らかです。これは疫学的、環境的に見てもやはり水俣病と疑って診断すべきではないか、私らはそう思う。その根拠に海に生きる彼らの生活、魚獲りに明け暮れる暮らしなどを克明に撮ることになります。とりわけ原田正純さんたちの自主検診の現場が一番面白い。
 それらを疫学篇に入れるつもりで撮るのだけれど、材料が豊富過ぎてどんどん膨らんでいくんです。生活の中に刻まれた水俣病、あるいは風景にある水俣病みたいなものが撮り溜められていくわけです。それは医学映画の三部作の枠に入りそうにない。スタッフみんな悩みました。
 一〇カ月ほどのロケが終わる頃、忘れもしないけれど、高木さんとゆっくりと話をした時に、私はスタッフの気になっていたこの『不知火海』の映画について「「医学としての水俣病」のほかにもう一本映画ができそうなんだけれど、どうだろうか」と切り出した。高木さんはだいたい察しているんです、土本はやたら漁や漁民を撮っていると。しかし止めないんだな、このプロデューサーは。むしろ高木さんからアイデアを出してくる。「それなら、(自分の生地の)宇土半島のこういう浜に面白い漁がある」とか、「ここに行って俺の親戚の網の仕掛けを撮らしてもらったらいい」という。だから医学映画の枠からはみ出て、でかいブロックが作られてしまったことは、察していたと思う。それで「もう一本できる。どうしようか」と聞いた時、あんたは即答したんです。OKでしたね。
 これで医学映画の企画書になかった”番外編”の『不知火海』が日の目を見ることになったんです。
 だから、『医学としての水俣病ー三部作ー』と『不知火海』はワン・セットにして一つ作品だという感じがありました。合計七時間あまりの上映です。そのへんを日高さんが岩波ホールでの上映の際、『世界』に立派な論文を書かれて、「たとえ一日を費やしてもこの映画を見なさい」と訴えてくださった。二〇日間くらいの上映予定でした。はじめはバラバラの観客の入りだったのが、この論文が口コミを生んで、後半には連日満席、終わりの二、三日は通路にも椅子、舞台の両袖からも座って観る、最後には映写室の小窓からも観せましたね。これは高野悦子さんの思い切った決断でしたでしょう。この時の手応えが、その後に僕たちが水俣を連作する基盤になりましたね。

 高木 『不知火海』は、私の念願だった作品です。不知火の海を撮らせたい、ある種の私の田舎自慢というか故郷自慢がずっと底流にあって、例えば「医学としての水俣病ー三部作ー」は売るために作るとしても、究極は不知火の海を撮ってもらいたい。それは念願だったから、問わず語りにというか、相呼応するものがあったように思います。あそこまで映画を通じて関わり、そうでないところでも関わっていますけれど、プロデューサーは映画を作る条件を作るけど中身は作らない、監督は中身を作っていく。その関係が両方綯い交ざって一つの関係ができていくとすれば、あれだけやっていくと、そのような通じ合いというのが、どこかであるのでしょうね。撮れてくるラッシュを、例えば土本さんが疫学篇には嵌まらない、違う角度かもしれないけれど、不知火海そのものが撮れてきていると思っている。これが余ったらどうするのか、膨大なラッシュ、中身の非常に濃いものが溜っていたら、映画になりますよね。だから、そんなに決断なんてものじゃなかった。自ずから撮れてくるというものがあったということだと思います。

 土本 あんたにどう言って打ち明けて、OKを得るか、大変スリリングだったね。

 たまには殴り合いのコミュニケーションも

 時枝 そういう相呼応する関係に、殴り合いも含まれていたのですね。

 高木 その時、その時は、頭に来たり、何で俺がこんな思いをしなきゃいかんのかと思ったりはしたと思います。よく殴り合いをしたと思われているようですが、度々したわけじゃなくて、一度、見事にやったなあというのはあります。それも、僕が殴るのならわかるのだが、そうではなくて双方で殴り合うことになってしまった。それでも殴り合ったら解消しちゃった。今は原因が何だったかは忘れてしまっているんですけれど。土本さんから夜中に電話があって、もう許し難い、一切終わりだと思うようなことがありました。無礼な、しかも言つてはならんことを言いやがってと思った。翌朝日が覚めたら消えてなくなっているどころか、ますます覚悟を決めて事務所に行ったら、私が何か言う前に、ちょっと屋上に来てくれと土本さんが言うのです。屋上に来いという、直感もなくはなかったけど、昨日は無礼を働いたと謝るのかと思いました。ところが、もういい年齢をしているのだから、お互いに拳で殴るのはやめようと言う。ケガをするから、平手で一発ずつ殴ろうという。そんな殴り合いがあるかと思ったけど、まあ提案ですから、お互い一発ずつ殴って、二〇発くらい殴ったかな。時々ちょっと手が滑って、爪が当たったような感じがする時には、ああ、ごめんごめん、とかね。
 本当に変なことになったのですが、それはおそらく、知恵だと思います。これはもう謝るとか、言葉で何か言うとか、そんな領域を越えている、あの無礼はそういう領域ではないと。しかも当人は相当に酔っぱらっていましたから、何を言ったか覚えていないと思います。きっと直感的に、これは体と体で話をつけるしかないと思ったのでしょう。そこは学生運動から百戦錬磨のたいしたキャリアがあって、直感的に、お互いに殴り合うしか解決の道がないという結論に達する。そんな人は今どきあまりいないだろうと思います。それを直感的に、明日の朝はこれしかないと思って、会った途端に屋上に行って話をつけようと勝手に思っているわけです。殴り合いはその一回です。僕は、とても快いんですけれど、今。

 土本 聞きながら、原因は何だったか考えていたのですが、私の方が悪かったのに違いない。ただ、高木さんには殴る時には、手心を加えるなと言ったんです、殴る時に、ちゃんと殴れと。

 高木 平手で、と言ったんだよ。

 土本 でも、かなり痛かったけどね。みなさんにもお勧めするけど、どうしょうもない時は、ルールを決めて殴り合ったほうがいいですよ。

 高木 俺もそう思う。暴力は本当にいけないと思いますが、身体同士のコミュニケーションということは成り立つと思います。ルールを決めてと言いましたが、勝つに決まっている奴が相手を圧迫するために腕力を使うのは卑怯、卑劣ですけれど。平等に、これ以上どうやってもお互いの突破口が見つからない時に、身体同士でぶつかるのは、暴力ということではないと私は思います。こういう体験に基づいて言っているわけで。

 時枝 製作資金の回収でお金の苦労をずいぶんされてきた高木さんにとって、一番辛かったのは、どういうことですか。

 高木 あるのかなあ。売れる映画として作ったものが、まるで見当違いになっちゃって、十何キロもあるフィルムをどうしようと思って、ストーブに背中を向けてという図は、絵に描けるような形で、辛かったというよりも、どうしようもなかったということだと思います。辛かったというようなことはないように思います。

 時枝 そう思われるから続けてこられたのでしょうね。水俣では、運動との関わりもあったと思います。高木さんは熊本のご出身でもいらっしゃることから、運動と映画製作の間で辛い思いをされたこともおありでしょうか。

 高木 水俣病センター相思杜に泊まって帰って来た私の息子が、「うちは運動で喰っているのか」と私に聞いたことがありました。水俣病センター相思社の誰かに言われたらしい。この息子の問いに私はかなりのショックを受けました。水俣病の映画を、水俣病の運動の渦中で撮っている時に「お前たちは運動で喰っているじゃないか」と言われた土本は「俺たちは運動で喰っていない、映画で喰っているんだ」とズバリ言った。それは監督であったから言えたのだし、土本さんであったから言えたのだと思います。作り手というのは、実際にキヤメラを回して撮れてきたものを繋いで、何度も切っては繋ぎということを繰り返して作品にしていく。これはもう女性が子供を自分のおなかから産むのと同じだと思います。プロデューサーと監督の違いは、そこにある。私は「運動で喰っている」とはさらさら思わないけれど、土本さんが言ったように「俺たちは運動で喰っているんじゃない、映画で喰っているんだ」と、息子にガチッと言えなかった。それは、もしかすると私自身の、いつも自信のないところで生きているようなところ、あやふやなところに由来しているのかもしれませんけれど。ただ、狭間で悩んだというようなことではありませんでした。

 プロデューサーとは作りたい映画を成り立たせることである

 時枝 若い方たちに、プロデューサーとはどういうものなのか、高木さんからお話しください。

 高木 プロデューサーは映画が世の中に生まれ出る、あるいは生まれ出た条件、環境と言ってもいいのかもしれませんが、それが成り立つ条件をつくる役割を持つ者だと思います。男と女で言うならば、赤ん坊を産むのは女です。それはどうしようもなくプロデューサーではないと思います。プロデューサーをやってみたいという人に、敢えて言えば、今、金があるから作るというような、金で作った映画はダメだと。そんなんで作った映画はろくな映画じゃない。とにかく作りたい映画があるから、一所懸命金を作って、その金で映画を作る。映画というのは、そういうものです。ここに金があるから、いくらの中身の映画を作りましょうというようなことで作れる映画は、もしかすると、それは映画なんでもんじゃない。映画は作品です。作品というのは、作りたい、あるいはさっきからの話で言うと、作りたいものはチャンと見えていないかもしれないけれど、作る方へ、作る方へいかせるものがある。成り立たせていくためにお金が必要で、そのために作る金で映画を作らないと。お金があるから、これで映画を作りましょうという映画は、たぶんろくな映画にはならないと思います。

 土本 僕の立場からプロデューサーについて言うと、どうしても高木さんの一番いい時代、ピークの時の話になりますけれど、金の欲得の話を監督に意識させることはなかったですね。志というのか、それがあって、その志を貫けば、金はどっかでついてくるという考えがあったのかな。それが実現できた時期は意気軒昂でしたけれど、実現できなくなったら意気消沈したということはあったと思う、なかなか今は難しいところです。高木さんの強みは、水俣、不知火海の仕事は俺の仕事だというのがはっきりあって、監督も仕事もへったくれもない。特に『医学としての水俣病ー三部作ー』を担いで、息子さんと二人で車に泊まることも覚悟して行商していたのを見て、これは希有な男、だと思いました。そういう人が映画界に生き残れた、一つの珍しい存在だったと思います。そうした点で、本当に励まされて作ってきました。

 時枝 土本さんの考えは本とか、話を聞く機会があって、知るチャンスがありますけれど、高木さんの話を今改めて聞いて、昔とぜんぜん変わらない高木さんがいて、懲りた気配もないし、だからこそできたなという気がします。こういうプロデューサーがこれから生まれるかということは、極めて疑問で、初めの終わりじゃないかとさえ思います。こういうプロデューサーになり、こういう監督になったのは、お連れ合いが抜群に支えたということを、お二人はたぶんおなかの中ではご承知なのでしょうけれど、これは欠かせない要件だと思います。
 高木さんは一九八〇年代の半ばくらいに、自分の区切りを見つけて水俣の仕事から撤退されましたが、ほかの運動を見ても、八〇年代に入ってからの社会情勢は本当に変わったと思います。六〇年代後半から小川紳介さんの三里塚のシリーズと土本さんの水俣のシリーズが自主上映運動を繰り広げ、それは私たちにも大きな影響を及ぼしました。八〇年代に入って、映画の自主上映の形態がまったく様変わりして、ある種の自主上映運動の転機を迎えていった。高木さんはその終わりまで付き合ったと思います。自主製作ー自主上映について、高木さんは今どう考えておられますか。

 高木 「借金で映画を作って、映画で借金を返す」と言った時から、映画で製作費を回収するサイクルをなんとか作ることができないものだろうか、できるはずだというのがだいぶ長いことありました。それはついに夢のまた夢であった。真理として不可能ではないかと、今は思います。商業主義に乗れば別で、商業主義をきちんと編み出していかなければいけない、それはそれで決して間違っていないけれど、あのように自主製作で、借金で映画を作って、映画で借金を返す、健闘したとは思います。相当なところまで返して、だけどそれが累積していって、二〇年の間にじわじわじわじわ溜まって、にっちもさっちもいかなくなった。最初の理想は全うしなかったということです。上映活動、運動が様変わりをしたということは、私の経験だけに限られるかもしれないけれど、『沖縄列島』は京都、青森、東京で常設館、映画館でかけてくれた。たいした金額ではないけれど、配給収入ももらえました。『やさしいにっぽん人』『日本妖怪伝サトリ』など東陽一の劇映画はATGでかけてくれた。しかも企画をATGに持ち込んだ時、支配人の葛井欣士郎さんが東宝の重役さんに企画を勧めるに当たって、「この人たちは私たちが配給をやろうがやるまいが映画を作っちゃうんです」と言ったら、東宝の重役さんが「じゃあ作ってもらって、よかったら買おうじゃないか」と、一言で言えばそういう状況がありました。『沖縄列島』を読売ホールで一〇日間上映をした時は、一銭もない。貸す約束はしたけれど、一銭もないのではホールは開けられないというので、毎日上がりの中からホール代を一〇万円払うからやらせてくれと言ったらやらせてくれた。毎日、当日売りの上がりの中からホール代を払って、ある程度残りました。その時に、私たちが何を思ったかというと、作りたいものがあれば、なんとか金を作って映画を作る。作った映画は這いずり回ってでも、なんとかして回収して、製作費の近似値くらいまで持っていけばなんとかなるという感じがありました。
 ところが、一九八三年くらいからでしょうか、歯が立たないというか、諦めざるを得ない、上映運動を全国ですればするほど上映費用で赤字が増えるようなことになりました。客観的な状況なのか、私たちがくたびれてきてそうなったのかわかりませんけれど。ドキュメンタリーを映画館でやることが、まずあり得ない。水俣病の全部の作品を岩波ホールでやってくれるような希有なことが実現しましたが、高野悦子さんが自分のことのように一緒にやってくださって、二〇〇席ほどのホールで二〇〇〇円の高い入場料を取っても、ホール代が出ない。そのようなコストの問題から言っても、上映運動というのが成立しなくなったような記憶があります。上映運動の変質と、社会の変化を時系列で並べてみると、もしかすると面白いレポートができるのかもしれません。上映運動の変遷は、世の中の変化と関わりがあると思います。

 時枝 プロデューサーと監督の関係というのは、プロデューサーが経済的なことの責任を持つ、監督は映画の質の責任を持つというような分業として成り立っている、まあその間での葛藤はあるのが普通ですけれど、高木さんのような型破りなプロデューサーは、私が知る限りでは例がありません。土本さんが水俣シリーズを作り続けられた、その陰には、土本さんもおっしゃったように、高木さんの水俣の仕事にかける意気込みがあったと思います。土本さんに、再び水俣の地を踏ませた高木さんは、水俣を撮るために生まれたプロデューサーであったといってもよいのではないかと私は思います。