書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」日本のドキュメンタリー映画に未来はあるかー新しい表現の可能性をもとめてー今田哲史/藤原敏史/鈴木志郎康/土本典昭 <2005年(平17)>
 書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」日本のドキュメンタリー映画に未来はあるかー新しい表現の可能性をもとめてー今田哲史/藤原敏史/鈴木志郎康/土本典昭

 ドキュメンタリーの未来を語るとは

 司会・代島治彦 今日のテーマについて、まずお話しください。

 今田哲史 日本映画に未来はあるか、ドキュメンタリーに未来はあるかというテーマは、とりもなおさず、僕自身に未来はあるかということです。みなさんのご意見をうかがいながら、自分の未来を探っていく手がかりになればと思っています。

藤原敏史 日本のドキュメンタリーに未来はあるかという問いは、日本の未来はあるかということとほとんど同じではないかと思えます。その社会が何らかの活力を持っていたり、新しく発明していこうという力を持っている時代においては、その社会を批評的に直視し、表現しようとする芸術作品、映画に限らず、何らかの表現が常に存在してきた。例えば、帝政ロシアの時代であればトルストイがいて、ドストエフスキーがいた。エリザベス朝のイギリスであればシェークスピアがいて、クリストアァー・マーローがいて、彼らは時代ものの芝居を書きながら、同時代のイギリスについて極めて批評的な眼差しを表現していた。日本で言えば、平安時代の最盛期には紫式部が『源氏物語』という、すさまじい男社会批評を描いていた。フリツツ・ラングは劇映画の監督ですが、一九一三年の『M』を彼は”ドキュメンタリー”だと考えていた。一九六〇年代、七〇年代の日本には、例えばドキュメンタリー作家の土本典昭がいたり、小川紳介がいて、日本社会とはどういうものであるかを見せる映画を作っていた。劇映画でいえば、大島渚であるとか、吉田喜重といった作家がいた。
 時代を批評的、分析的なまなざしで見せる表現が今後もし日本に成り立たないとしたらー、つまり日本のドキュメンタリーに未来がないとしたら、たぶんこの社会は没落の一途を辿るのではないか。二〇世紀の歴史の中で、批評的、分析的、時代をドキュメントしようという欲求を持っていない映画が作られたのが、例えば四〇年代のドイツです。三〇年代半ばにナチスが成立してフリッツ・ラング、あるいはベルトルト・ブレヒトといった人たちが亡命してしまったあとのドイツで作られていた映画の大半は、今の日本映画で言えば『世界の中心で愛を叫ぶ』みたいなベタなメロドラマか、非常に軽いコメディ、いわゆる逃避的なものです。
 そこでふと思うのが、今の日本で少なくとも当たっている映画というのは、逃避的なものが多い。テレビドラマも同じでしょう。これは実は、大変に恐ろしいことではないか。

 鈴木志郎康 僕は未来はあんまり考えたことがないのです。今はけつこう面白い時代かなと思っています。今のお話にでた未来とか日本とかいうのは、僕の関心の外だなあという感じがしました。現在、主に多摩美術大学とイメージフォーラム、そのほかにもいろいろなところに呼ばれて行っています。そこで教えていると言われているのですけれど、僕は教えたことはない、勝手にやったらということで、いつも若い人と付き合っています。毎年二〇〇本から三〇〇本ぐらいの作品を観る中には、印象に残る作品がいくつかあります。それは全部、三〇歳にいかない人たちが作った作品で、僕にとってはすごく面白い。そういう作品と付き合っていると、映画館に行って映画を観るという気が全然しなくて。映画館で映画を観ると、これは映画だと思って、それでわかった気になってしまうんです。問題は、僕が面白いといって、その作品をほかの人に勧めても、みんなは観るに耐えない、これはなんだということになるに違いないことです。それは、それでいいんですけれど。僕が面白いと思うのは、現時点でみんな映画が作りたいとか、映像で何かやりたいとか、自分の人生で解決しなければならないことがいっぱいあって、それと向かい合いながら、何か生きていることです。その人たちは、ずっと何かしら作っていくのではないかと思います。それがどうお互いの間の結びつきをつくっていくのか、どういう受け止め方をしていくのかというのが、ちょっと不足している。それは一人ひとりの作家が考えることもありますが、受け止める側の人たちも、そういう作品があるのなら、少なくとも若い人たちは上映会をやれば必ずビラを作って、配っているので、こまめに観に行くことをやってもらえれば、面白い作品、面白くなくても、こういう奴が生きているんだという感じが受け止めていけるのではないかと思います。

 土本典昭 「日本のドキュメンタリー映画に未来はあるか」という題名で、ちょっと、こんな怖いシンポジウムはあるのかと思います。未来志向で映画を作ってきたとは思えません。自分の仕事を考えていますと、これをやりたかったからやったという、いわば、自分の中で何年も温めていて、本当にこれをやる状況を考えて作ったという映画は一本もないのです。敢えて言えば『原発切抜帖』がそうだつたかなという気がしますが。
 社会的に要請されて、つまり企業であったり、スポンサーであったり、あるいは友人であったり、同人的な集団であったり、いろいろケースは違いますけれど、どれも断ることはできない立場でしたから、まず引き受けて、そこから・・・引き受けながら考えるというようにしてやってきたと思います。その都度、私は自分の作るものに自信がなくて、まして未来には悲観的というか、気の弱いところがありました。それでいて今まで四〇年間、なんとかやってきたことを振り返ると、どんな仕事であれ、それとまともに付き合って考えていくことの中で感じた映画固有の喜びとか、楽しみとか、そういった思い出が残っています。ですから、「日本のドキュメンタリーに未来はあるか」というふうには立論できません。しかし、やっていけば必ず拓けるものだろうと思っています。
 映像で表現する者として、スクリーンはもとより、ブラウン管から小さい携帯電話の液晶画面にまでテレビが映るような時代、あらゆる情報がこまめにあとを追いかけてくるような時代に、消費に耐えて映像を長く記憶にとどめる作品を作りたい・・・どこか無いものねだりですが・・・。
 情報が”商品”として多すぎる”ニュース”でなくて”オールド”、ニュースの反対をオールドと言うかどうかわかりませんが、一つのことを考え抜くような、そうした映像を、僕の課題にしていきたいと思っています。

 今田 『熊笹の遺言』という作品は、日本映画学校の卒業製作で、三年時の担任だった原一男さんの製作総指揮のもとに作ったものです。日本映画学校は生徒を現場に行かせて、どんどん撮影をさせる自由なタイプの授業が多かったですので、当時は原さんとじっくり喋る機会はなかったのですけれど・・・原さんには、特に編集の時、随分とお世話になりました。
 群馬県草津町にある、栗生楽泉園というハンセン病療養所に通いながら、約七カ月取材して撮った作品です。今、セルフドキュメンタリーがとても多いので、そういう作品じゃないということで、若い人がなぜこの作品を撮ったのかと言われます。僕の場合、理由は簡単で、周りにそういう大事件とか因果関係とかがあまりなかった。
 実際に『熊笹の遺言』を製作するに当たって考えたことというか、なんで撮ろうと思ったかという経緯を話しますと、熊本地裁の裁判闘争があって、あれをずっと見ていたのです。実は、僕は障害を持った方、頭にこぶがある方とか、手の指がない方を見るのがすごく苦手だったのですけれど、あの時はずっと裁判闘争をテレビで観ていました。なぜ自分はこんなにハンセン病に興味を持っているのかと考えた時に、自分が今までそういう方たちをいかに遠ざけていたのかという後ろめたさもありましたし、ずっと観ていると、なんて言いますか、あの問題はいろんな問題を含んでいると思うのです。それは絶対主義的天皇制であったり、日本の昭和史の今まで引きずってきたものとか、障害者問題とか、そういうものが含まれていて、それを自分は今までいかに遠ざけていたかということを痛感したのです。自分がずっと避け続けてきたそういう問題に、一回でも真つ正面から取り組んでみたい、そういうふうに思って作ったわけです。
 まず一人で療養所に行って、つてもありませんから、とりあえず行ってみたわけです。草津から歩いて二、三キロのところにある療養所ですから、当時は草津駅まで送られた患者の方々は、歩いて療養所まで、病気の体をひきずるようにして行かなければならなかった。バスには乗れなかったという、その距離を、僕はタクシーに乗って療養所まで行ったのですが。熊本地裁の判決からちょうど一年後、二〇〇二年五月でした。判決が出た時にあれだけ盛んに療養所の中に入ってきたキヤメラは、一台も見あたりませんでした。実際に療養所に行くと、まだ五月で寒い時期ということもあったかもしれませんが、元患者の方たちは、本当に外に出ていないのです。中を歩き回って、どうしようかなと思いながら、声をかけなければならないと思って、外に出ている方にとりあえず話を聞こうと思って、一人ひとりにお話を聞いたところ、結局、今でも本名を名乗れずに偽名で過ごしている方がほとんどでした。
 裁判をやって、一丸となって裁判に向かっていったという印象が僕にはあったのですが、そういうことは全然なくて、本当に一部の方たちが裁判闘争をして、最終的には、なし崩し的に原告は増えたけれど、結局、熊本地裁の時に全療養所に住んでいる方の半分も積極的な原告にはならなかった。そういう事実とか、裁判に勝利したけど、故郷に帰れないという事実を、一日聞き込みをする中で知っていきました。ああ、これは大変だなあと思って。なんというか、ハンセン病問題というのは、裁判勝訴によってある程度終わっていたという意識があったのですが、全然終わっていないと思いました。
 上映して、東京で一六〇〇人くらい、大阪で五〇〇人くらいの方が観てくださいました。微々たる数字ですけれど、観てくれた方が、僕の映画がハンセン病患者の人のすべてではないと思うのですが、これを観たことで療養所へ行ってみたいとか、患者の方に会ってみたいから紹介してくれませんかということを言われました。特に若い人たちが予想以上に多かったのですが、そういう人たちを連れて何回か療養所を訪れたりという経験をしました。
 映画を撮って終わりというわけじゃなくて、そういうことが今でもできていて、それがすごく嬉しいです。できたら、土本さんのように、ずっとやっていきたい。どういうふうに次回作を撮るとか、そういうことはまだ考えていませんが、今でも一緒の時を過ごすということを大切にしていまして、それはいいことかなあと思っています。

 鈴木 ドキュメンタリーに関わっていたことを、ちょっとお話ししておきます。僕は一九六〇年から一八年間、NHKでキヤメラマンをやっていました。自分としてはダメキヤメラマンを志向して、なるべく華々しいところには出たくないという気持ちがありました。ドキュメンタリーをいくつかやって、企業の中にいてドキュメンタリーを撮るというのがどういうことなのかは、そこで十分味わったわけです。
 土本さんの作品は、NHKで広島にいた時期に、『ある機関助士』を当時の国鉄の中国支社から借りてきて観ました。若いディレクターやキヤメラマンが勉強したいと思って借りてきたものの一つです。その頃はフランスのアラン・レネの作品などを、つてをたどって借りて、局内で上映会をやったりしていました。『ある機関助士』を観て、すごいドキュメンタリーだと、びっくりして、こういうのが撮れればいいなあという感じで、土本さんに憧れたわけです。その後『留学生チユアスイリン』を観て、またびっくりです。
 NHKは不偏不党で、どっちについてもいけない。まあ、嘘なんですけど。実際には、現場に行けばそんなことはあり得ないわけです。例えば公害で被害のある所に行けば、そっちのほうに気持ちがいくのは当たり前なんです。工場側に加担するという気持ちにはならない。同じ働いている人間ですし、権力を持っていないのですから、当然、そういう気持ちになる。でも、放送というところになると、ちょっと違ってくるということがありました。『留学生チユアスイリン』を観て、映像で現実をどんどん組み立てていってしまうのかと思って、びっくりしたわけです。実際にあとで土本さんに聞いてみたら、テレビ番組で始まって、そこから逸脱して自主製作になったという話を聞いて、うらやましいなあなんて思った。
 その頃、小川さんの映画もいろいろ観て、高崎経済大学の闘争の映画も観て、これもまた、びっくりで、こういうのを撮るのがドキュメンタリーなんだと思って、それからたくさんそういうものを観て、文章にするようになりました。
 小川さんの全作品を一挙に借りてきて観たこともあります。一日八時間で四日くらいかかって観て、小川さんの作品は土本さんの作品とまた違って、三里塚の作品だったら、これは本当は内戦があったんじゃないかなと思いました。民衆と権力の内戦があって、それを単なる農民運動と捉えてしまってはいけないのじゃないかという感じがするくらい、小川さんのキヤメラの視線は鋭いものがありました。
 詩を書いて世の中にも出ていたもので、文章で書けるということもあって、NHKの中で二足のわらじで矛盾して、要するに二重生活、どっちつかずです。それをずっとやって、あるところまできて疲れて、文章でも食えるかなと思ってNHKを辞めたんだけれど、結局食えなくて、映像を手がけてきたこともあって、大学で映画の話をしたりするという立場になったわけです。その一方で、僕は社会がすごい苦手で、実際に現場に行っていろんな人と話すのが苦手で、でも映画はすごい好きなので、自分の身の回りを撮った『日没の印象』というのを作りました。自分の家族、子供を撮ったホームムービーですけど、実はホームムービーではないもの、セルフドキュメンタリーという言葉は最近発明された言葉みたいですが、そういう言葉で言われるものの一番最初のほうをやり始めたということになるのかもしれません。
 セルフドキュメンタリーというのは、本当はもうちょっと、きちっと考えなければいけないと思います。キヤメラが普及して、誰もが映像を撮れる時代になっている。一九六〇年代は、誰もが映像を撮ることはできませんでした。フィルムはすごく高いし、16ミリキヤメラも同録のエクレールで撮ろうと思ったら八〇〇万円くらいするキヤメラを使います。今でも16ミリフィルムは三分半で一本五〇〇〇円、現像してラッシュをとると二万円くらいします。とても普通の人がドキュメンタリーを撮ることはできない。8ミリフィルムを使って撮ることはできます。工夫をすれば十分に多くの人に観られる映像はできますけれど、そこには限界があります。そういう時代を経て、今はみんなができるわけです。
 編集もダビングとか編集ルームを使うと、フィルム編集ならば一時間数万円です。ところが今はパソコン一台あればすぐに編集ができる。人に観せるのならば、撮ったままではなくて、そこには何らかのメッセージ性が含まれてくるわけですし、何かしら共有できるものを作っていかなければならない。それはある一つの工夫であるし、形だと思います。それを個々の人たちができるようになっている時代ですから。そこから出発して、この世の中は多様な世界でいろんな人がいるわけで、いろんな人がいるというのが出てくればいいかなという感じです。
 大学などでは、指導しているという意識はまったくなくて、手探り状態で困っている若い人たちに、こういうふうにしたらいいんじゃないのとアドバイスする。学生たちは、どこに行ったら撮れるかということで、一番困る。例えば、野犬や犬を処理する場所を撮りたいという学生がいました。保健所とか、そういう施設があるわけで、その施設を探して、ただ行ったって撮らせてくれないから、どういう理由で撮るとか、企画書をちゃんと持っていけとか、そういう知恵を貸してあげる。一般に、普通の生活をしている学生だから、表現ということを目指していても、現実の日常生活から離れたところに足を踏み入れるのは、すごく難しくなっている時代です。
 もう一つ、付け加えておきますと、今の二〇代の人たちは、僕から言うと身体派が増えているんです。身体派というのは、自分の体をつかつて、壊すというか。掲示板に自分の体をぶつける、歩道橋の階段をごろごろ転げるとか、体をどのくらい、限界まで使えるかというようなことをやったりする。そういう子たちが増えている。僕としては、体を使うのもいいけど、頭も使わないと、ダメだよという話はしていますけれど、そこからいろんな工夫が生まれてくるかなとは思っています。
 若い人の作品は、当たりはずれがあるから、はずれた時はがっくりしますけれど、愛情をもって観てあげると、そこから若い人が元気づけられます。上映会で、今日何人来たと数えているのを見ていると、本当に行ってあげたほうがいいと思う。機会があれば僕も観に行って、一言いうともうそれは元気になって、そこには未来があると僕は思うのです。一言いわなければ未来はないかもしれないけれど。
 ドラマ、ドキュメンタリー、これは実験映画という色分けを、学校の先生たちがやるんです。それは違うと思います。映像が好きだからやっているんで、映像はどんなことをやったっていい、僕はそう思います。

 何を撮るのか、どう撮るのか

 司会 今、日本で何を撮るのかということは、どのようにお考えですか。

 鈴木 映像作品は、撮っている人の意識の問題もありますけれど、それを支えるのは観る人がどう感じるか、作る人ははっきりと意識していなくても持っていると思うのです。僕が土本さんの最初の頃の作品を観てびっくりしたというのは、言ってみれば、僕が心の中に持っていたある意識があって、それに訴えかけるような作品として登場してきたわけです。僕にとっては、そういうふうに見えた。そこが一番問題だと思うのです。NHKでキヤメラマンやっていて、毎日撮影して、映像を撮っている。それはある種のメディアとしてのNHKという、テレビメディアを通して送り出す。そこにはかなり、いろんな条件がつけられている。局側の言葉でいう普遍性というのがあって、それは義務教育を終えただけの知識である程度理解できなければいけないとか、政治的にあるいは宗教的に偏りがあってはいけないとかいうことです。その一種の普遍性というのが抽象化されてある。一人ひとりのキヤメラマンとディレクターは生活しているし、生きている人間なのだから、そういう普遍性では生きられないんですよね。食べ物一つとってもわかるわけで、普遍性のある食べ物は何か、お米であったりパンであったり肉であったり、それぞれ自分の好みだったりするわけです。それと同じように、生きている時の心の持ち方というのも、それぞれの人がみんな違うものを持っているわけです。
 そういう中で、土本さんの映画がでてきた時に、僕も二〇代から三〇代にかかる頃で、社会的にも日本の国の中で、その当時の言葉で言えば、体制、反体制、あるいは資本の側、労働側、あるいはもう一つの言葉で民衆の側、その両方に組み込まれない人たちがいて、そういうある種の枠組みの中で、どこに自分を帰属させていくのかということがあります。土本さんの映画に驚いたのは、自分の帰属させている意識が分裂していく、その片側を支えてくれるものとして、イメージを提供してくれたのです。普通の生活をしている場合だと、それをイメージとして明確に持てないけれど、イメージでこういう人たちがいる、こういう運動がある、現実に世界ではこうなっているということ、ある種のイメージがそこで示されたことによって、自分の持っている心の何かの支えにできたということではないかと思います。
 若い人の作品は、何が支えになっているのかと言えば、もう体制、反体制、宗教あるいは政治というところの枠組みでは収まりきれなくなっていて、その暖昧さが行き渡ってしまっている中では、一人ひとりの人間が自分とじかに向かい合わなければならなくなっている。その自分と向かい合うところで、自分が生きていくうえでの、自分のイメージもありますけれど、社会のイメージというものを持ちたいというか、そういうところでできてくるのかなと思うのです。土本さんのほうは、土本さんのほうである驚きがあって、若い人の作品にも驚きがある。体制とか反体制というところの、一つの政治的イデオロギーに結びついていくんじゃないけれど、映像というものが、映像というのは見えているものしか撮れないのですが、見えなかったものをそこで一つのイメージとして見せてくれるということに意義があるのではないか。見えなかったことを見せてくれるところで、僕はいつも驚くということになっているのだと、自分では思っています。
 政治的なものというのは、今はすごく見えない。実際にイメージとして見せてくれるものは、なかなか見あたらないと僕は思います。ただ、今田さんのフィルムを観ると、体をもとにして差別というのが起こってきて、彼も言っていましたが、それが日本の深部にある天皇制とかそういう問題に触れていくんだということがある。そういうものが観せられてくれば、驚くと同時に、世の中のイメージがあって、日常生活はみんな同じような日常生活を送るのですけど、それとは別に、ある種の、心の中に起こっているものを求めるような行動も生まれてくる可能性はあるかなという感じは持ちます。
 僕の本の中では、ドキュメンタリー映画を社会イメージというふうに書いたのですが、もうちょっと、イメージ戦略というふうに捉えたほうがわかるかなという感じはします。というのは、今テレビなんかに流れているのは、ある種のイメージ戦略として、商品を流布させていくための戦略としてのイメージが氾濫していて、一方では、自分をもとにした映画というのは、自分自身というのはどういうふうに社会の中で存在を獲得していくのかといううえでのイメージ戦略と言えるかもしれないのです。
 イメージ戦略という時、戦略ですから、それぞれの帰属する何かが、どうやってイメージから生まれてくるのかというのが、僕は課題ではないかと思っています。上映会があったら観に行ってほしいと言っているのは、まずそこから始まらないと、そこで共有した何かしら、帰属していく何かが生まれてこないのではないかと。その時に、映像の表現というのは、すごく漠然としていますが、ある種の力を持っているのではないかという気がします。
 夏の最中にイメージフォーラムの卒業生が、中野の古い映画館、光座というポルノ映画館で上映会をやりました。冷房がない映画館で、蒸し風呂に入ったような暑さなんですが、そこにけつこう観に来ているのです。やっている作品の一本が『戦争』という映画でした。この作品の中で終戦の勅諭でしたつけ、天皇の言葉が全部流れる、その時にイメージが消えているのです。終戦の時に天皇の言葉をじかに聞いているのは、あそこに来ていた中で僕一人だったと思うけれど、スクリーンは真っ黒で、天皇の言葉だけがずっと流れていて、蒸し風呂のような暑さだったので、あれ、こういう偶然が起こってくるというのは、映像が持っている一つの、何ていうのか、映像はスクリーンの上に上映されてみんなで共有する現象なんですね。その現象が起こっていて、それを求めて来ているから、暑いのに帰らないのです。あんなに暑いのに、帰らないでみんな観ているのが、僕はちょっとびっくりだったけれど、そういうのが何かといえば、映像が好きだ、ほかの人たちが何を考えているのか、そこに行ったら何かしら共有できるものがあるんじゃないかという、それがあるからだと思います。一九六〇年代って政治的な思想とかあって、運動が激しかったから、そういう社会の動きにもいろんな意識が喚起されて、それなりにみんないろいろなことを考えたり何かしていたと思います。今はそうではなくて、もう一つ前の段階にいっちゃって、表現って何かということを問う仕方のところで共有する何かをお互いにもっていかなければいけないのではないかというのが、今の僕の感じです。

 今田 僕がハンセン病の裁判を見たのが二年生の時で、その時にすごく自分の心の中にひっかかり続けたものがありました。一年後、マスメディアはもう見向きもしないようになっていました。じゃあ、あの気持ちは何だったんだろうと思って、自分の個人的な思いからハンセン病を撮ってみたいと思ったのです。特にずっと企画探しをしたというより、ずっと撮りたかったものです。社会的なものをやりたかった。社会的な人間ではなかったので、そういうものに挑戦したいという思いがありました。ずっとやりたかったということも含めて、ちょうどいいなと、わりと安易な考えで『熊笹の遺言』は撮ったのです。
 実際のところ、最初は元患者の方々を直視することさえできませんでした。とりあえずハンセン病療養所に行ってみなければ何も始まらないと思って、わりと家の近くに多磨全生園という療養所があって、そこにふらふらと行って、アポとかとらないで突然入っていきました。入ると、予想以上に開けていた。どの人がハンセン病の方かわからなかったのです。裁判の時に画面に出ていた人は重度の後遺症を持っている方が多かったのですが、実際あれほど重度の方はなかなかいなくて、そこらへんのおじいさん、おばあさんも散歩しているので、元患者さんと近くに住んでいる人の区別が最初はつきませんでした。それで、困ったなと思って、ぐるぐる回って、歩いていた時に納骨堂というのがあって、この人はハンセン病の元患者の方だなという方がいらして、ブラウン管で観ていただけでもショッキングだったのですが、目の当たりにしたときに、はじめは怖いなあと思ってしまった。その人が四阿にいたのですが、なんとなく、話しかけなければいけないんだけど、話しかけられずに、四阿の周りをぐるぐる回りまして、それで勇気をもって話しかけに行った、そういうところからの出発でした。
 それがだんだん、一緒の時間を共有するというか、ご飯を食べたり、買い物に行ったり、散歩をしたり、そういう中で、慣れていく、後遺症というものがぜんぜん気にならなくなったのです。
 出てくれた方は本当に後遺症の重い方たちでした。この人たちを描く時にどうすればいいのかといった時に、どこから見てもハンセン病の方たちなので、その方たちをハンセン病者としてとらえてもしょうがないと思いました。一番最初に出ていらした、浅井あいさんという女性をはじめ、本当にチャーミングなおじいちゃん、おばあちゃんなのです。すごくきれいな生き方をされてきた方だと思って、きれいな方をきれいに撮れたらいいなというふうに、だんだん変わっていって、それでこういう映画を作ったのです。

 土本 僕は、あなたの作品を観せていただいて、のっけから感心したのは、画面で顔を見ると同時に、話の中身がすぐわかるのです。彼が喋りたがっている話が、きちんと伝わる。そうすると、ものすごい顔になっちゃうもんだなというようなことが浮かんでも、すぐ、僕の関心がその人の一番言いたいことに向かいました。浅井あいさんにしても、谺さんにしても、みんな話の中身がある。人間がきちんとしている。それを見てくださいというふうに映画ができていました。ハンセン病を見るのは本当につらい、というふうに思っていましたけれど、彼らの話を聞くと引き込まれていきました。
 見終わって、一五歳の少女時代の気持ちのままこの晩年を迎えている人がいる、と思いました。佐藤忠男さんのコメント、「こんなに美しい人はめったにいない」という言葉がありましたけれど、突き詰めれば、そういう感じのする人々が描かれていると思いました。こういう映画を撮ったことから、あなたがこれからも連作しなければ・・・なんてことは、あまり意識されないほうがいい。これは自分でなければ撮れないなというふうに話が転がってきた時に、怖じけることなく、またあの人たちにキヤメラを向けていくということでいいのではないかと思います。
 話は飛びますけれど、小川紳介がまだ生きていた時、一九八九年だったかな、第一回山形国際ドキユメンタリー映画祭でシンポジウムがありました。実は当時僕は長期入院から間もない、精神的・肉体的にもネガティブな時期でしたが、そこでアジアの新進作家と一緒にいろいろ話した時に、とっさに思ったのは、この若者たちが記録映画をやるなんて本当に破滅的なことなのに、と思いました。食えない人生を選ぶのか、無茶苦茶になる人生なのにね。小川紳介は煽るけど、記録映画をやったら大変なんだ。僕自身で一言尽えば、いろんな人の助けがあって、なんとか破綻なく食べてきて、人生を送ってきたようですけれど、実際には並の生活はないと思わなくてはしょうがない。それから、普通並の、なんというか、栄誉・・・そういったものはないと思わなければいけない。いくつかの断念めいたことはその都度してきました。むしろそうした選択をすすんでしてきましたから、何ともないんですけれど、これから映画を選択する方にはついそういう心痛なしには、そこに同席できませんでした。
 今田さんのハンセン病患者との出会いはいい話ですね。その対象とのつながりというのは、何か楽しいことがなければつながらないですよ。つらい義務感ではできない。それから、優れたスタッフに助けられなければ絶対にできない仕事です。そういう意味では、僕はキヤメラマンの大津幸四郎さんとか、プロデューサーの高木隆太郎さんとか、いろんな人に恵まれました。その人たちのほうが大変だろうなあと思いこそすれ、自分が大変だとは思ってこなかったから、わりと気楽に仕事を続けてこられたというふうに思います。
 今、若い作家たちには、テーマ主義から離れてほしいです。これは撮るべき映画だ、みたいな、”ベき論”。これをまったく無視しろとは言いませんけれど、なるべく早く離れて、本当に面白くなったら撮ったらいいのです。
 自分のフィルモグラフィをやって、そこのところを考えるのですが、どうも土本には二種類の映画の作り方があると思われているようです。一つは『ある機関助士』とか『ドキュメント 路上』のような実験的な作品。もう一つは、自然主義そのものというか、題材に沿った映画で、奇も衒いもない作り方。この二種類というふうに言われ、僕もそうかなと思ったりしますけど、いろいろ考えてみると、作り方の基底はまったく同質なんですね。ただ『ある機関助士』と『路上』には、PR映画、スポンサー映画の枠、制約があった。制約はあったけれど、登場した労働者、対象との関係性においては、あとの映画『留学生チユアスイリン』の時に学生と連帯し、あるいは水俣映画シリーズでは水俣の患者さんと連帯したのと同じでした。二作品とも現場の労働者や労働組合と心を通わせて作ったフィルムです。
 『ある機関助士』は、単純に言えば安全PR映画です、面白くもなんともない。だけど、話を安全ということに決めて、実際に機関車に乗って動いてみると、風景が全部違って見える。人間の目というのは、いつも何もかも見ているように思いますけれど、気をつけて見ると全然違って見える不思議なものです。例えば、機関助士の目に映る蒸気罐とか、扱う手鎖や床に転がった豆炭とかすべて労働の対象です。飛び行く風景の中の信号と、信号を見る時間の長さとか、そのバックにある背景、目に飛び込んでくるいろんな景色をより分けて、正確に運行していくということ。それが日常の仕事になっているわけです。あの映画の中で、作為的な設定は、起点の水戸を三分遅れで発車したということにしたことなんです。それは、ほとんどみなさんの印象にはないと思います。なくていいのですけれど。乗務規則に、三分遅れまでは機関士の努力で原状回復するように、ということがあるのです。三分以上の遅れはダイヤの線を引っぱり直して修正する。でも三分以内であれば努力して取り返すこととなっている。しかし、時速六〇キロから九〇キロで走っていて、地形に合わせて機関士と機関助士の頭で、スピードを割り出して三分を縮めるというのは、どんなに大変なことか。僕はそれを十分に描けませんでしたけれど、そういった大カツコの労務の全体像がいかに反労働者的な、反人間的な職場になっているか。そこで頑張っている人たちは、どんなに頑張っているのかということを描きたいから、その細部を機関士や機関助士と話し合うわけです。すると、そのことまで描いてくれた映画はない、そこを描くには・・・と、彼らの知恵はそこから出てくるのです。
 『路上』でもそうです。シナリオはありましたが、仕掛けと枠組みのためのものです。細部は現場から組み立てました。タクシーの労働組合が自主管理して頑張っていたメトロ交通の労働者全員に出てもらって作った映画だからこそ協力が得られました。彼らの話を聞いてみますと、自分たちが交通事故の加害者側、だということをよく知っています。同時に、被害者にもなる。自分たちが一番怖いのは何かということを、彼らはどこかで意識的に言葉にすると、自分より大きいタイヤのきしみとか、危険な積み荷のトラックとか、あの映画のようなシーンになってくるんです。あの映画は、鈴木達夫の極めて優れたキヤメラによって表現されていますけれど、あの膨大なショットのヒントは、タクシードライバーの生理の観察から得たものです。そういえば信号がやたら多いとか、Uターン禁止とか駐車禁止とかいうのがなんで三〇メートルおきにあるのかとか、子供が親に手をつながれているかどうかまで一瞬に見ているとか、いろんなドライバーの表情を想像を交えて読み取ったものです。
 この映画の場合、二つ前提を立てたのです。一つは、都会の道路は人間にとって殺す装置だということ。昆虫採集者はご存知でしょう。ガラスの瓶の下に青酸カリみたいなものを入れて、そこに採った昆虫を入れると死にますね、都会の空間は人間にとって見えない殺虫装置だ。それからもう一つ、あの速さで走る車は、中にいようと外にいようと凶器だ。この二つを忘れないようにしようと思って撮ったのです。だから、スポンサーであるはずの警察にとっては実用性のない、チンプンカンプンの映画だったようですけど、僕らにとっては思ったとおりに撮れた映画だと思いました。そういう意味です、誰から教えられて、誰の神経で撮ったかということははっきりしています。非常に楽です。水俣の場合も、それがどこかでスタッフに共有できた時に、みんな大変助かったと思います。

 藤原 撮る対象はいくらでもあるのではないでしょうか。ただ我々にそれを見つけるだけの眼力がないだけなのでは?鈴木さんは政治が、世の中が見えなくなっているとおっしゃったけれど、それは実は、単に我々が世の中をよく見ていないからではないか。社会のあらゆる局面に政治的なことは明らかに出ているし、その政治的なものを見抜く眼力というものを、むしろ我々が失っているのではないか。例えば、土本さんが『ドキュメント路上』についておっしゃった、都市は殺虫装置である、これは極めて重要な政治的なステートメントです。それが政治であるということを、なぜか今の世の中は言わなくなっている。ドキュメンタリー作家としての仕事というのは、もし問題があれば、問題を提起することでしょう。
 例えば『原発切抜帖』。原子力発電というのは、作り始めた時から、放射性廃棄物をどうするのか、古くなった原子炉をどうするのかという問題を抱えていた。我々はそうした政治を日常生活に関係ないと思っているかもしれないけれど、ここにきている電気も原子力発電からきているかもしれない。原子力発電がなかったらここまで豊かに電気を使う社会にはならなかったかもしれない。
 ところがこれを指摘したとたんに出てくる理屈が、対案を出せ、ほかにどういう発電方法があるのかだったりする。確かに石油が枯渇すれば火力発電はできなくなるわけで、水力発電にしてもダムの環境破壊の問題がある。しかし対案を出す専門知識はそもそも電力であれば電力会社の専有物であり、そこも含めて彼らの責任でしょう。そこを無視して「対案を出せ」というのは、権力側の言い逃れにしかならないと思います。
 この前、美浜の原子力発電所の事故があった時、テレビで原子力関係の専門家が、原子炉はかつて三〇年寿命説があったが、今では六〇年寿命説が主流になっていると言っていました。記者が「科学的根拠はあるのか」と聞くと、その専門家は、科学的な根拠はまったくないと。対案がないから、三〇年の設計で作ったものを六〇年に延ばす。いったいこの日本の社会はどうなっているのでしょう。
 ニュースに散発的にでるといっても、さきほど土本さんもおっしゃいましたけれど、時間をかけて考えなければならないものが、一過性の情報として消費されてしまうというのは、非常に問題がある。対案がないからといって、問題を先送りする。日本が太平洋戦争に突入した最大の要素はそこだろうと、密かに邪推しておりまして、いずれそれをテーマにドキュメンタリーを作ろうと思っていたりもするのですが・・・。
 対案がないから、反対してはいけない。これでは権力側の無責任を放置することにしかなりません。問題を見つけたら、問題だと言わなければ何も始まらない。その問題をどう解決するかを社会全体で考えるのが民主主義というものであって、その意味でもドキュメンタリーの社会的な意義は大きいはずです。そこで、土本さん『原発切抜帖』のことをぜひ話していただきたいのですが。

 土本 八〇年代のはじめ、あの冷戦の危機意識から反核運動が西欧で叫ばれてきましたが、反原発運動はまだともなっていませんでした。しかし、スリーマイル島の事故の衝撃はありました。原爆と原発との関係は歴史を逆に辿れば歴然としている。しかし、私は実地の見聞がありませんでした。そこで原発を撮ろうということで、まず原発に近付く工夫をしました。例えば美浜とか大飯とかの原発の臨時点検とかいう機会があると、そこに行き、下請け労働者が寝起きしている宿に泊まったり、安い食堂に行ったりして、アンテナを張ったのですが、ダメですね、すぐにばれるのです。あの野郎は映画撮る人間らしいとか、あるいはどうも目つきが詮索好きだなというふうに、すぐに警戒されちゃうんです。当時、サングラスをかけていたのですが。結局、彼らが闘っている現場に入って、原発そのものを撮ることができないと諦めたのです。ほかに方法がないかと思っていたら、手元に原発関係の切り抜きが一五年分くらいありました。バラバラとめくっていたら、まあ、あるわあるわ、すごい量の記事があるものだから、この早めくりで一本の映画にならないかと思った。
 それからヒロシマの原爆以後四〇年の記事を探すのに一年かけました。一万何千点の記事を探しましたから。だけど、調査費とコピー代とアルバイト代程度ですから、非常に安くできたんです。確か五〇〇万円くらいじゃないかな。『朝日新聞』をはじめ、関係の新聞社に版権料は払って、安くしてもらいましたが、全部クリアしてです。要するに、入れない原発に対する悔しさから新聞記事を使ったというのが、ミソのところです。

 藤原 実はそこで東北電力から、土本さんのお父上にいろいろ圧力があったそうですが。

 土本 僕の親父は東北電力の東京支社長をしていて、その当時はすでに定年・退職していたのですが、人脈は太かったらしい。その親父に、どうも息子さんが下北半島の東通村の原発予定地に立ち入って映画を撮っているけど、もし映画が反対運動の拠点の漁村住民を刺激したらえらいことになるから、撮影を止めさせる方法はありませんかという頼みがあったそうです。親父は、その時は僕に言いませんでした。「息子は息子でやっているんですから、しょうがないですよ」といって、放っておいてくれた。映画ができてから、そういうことがあったと聞きました。

 デジタル化で得たもの、失ったもの

 司会 ドキュメンタリーの未来ということから、今後の可能性、あるいはどう作るのかという点をどのようにお考えですか。

 鈴木 これからのドキュメンタリーの可能性といった場合に、まず作品があって、受け止めていく人がいるという感じになっていますが、その間に流通とかそういう機構ができてくると思います。以前は、小川さんの映画なんか特にはっきりしているけれど、自主上映組織が全国にあって、それが土本さんの映画、小川さんの映画をあるところでは支えていたと思うのです。今、それがあるのかどうかよくわかりませんが、それがなくなった時に、流通させるのが商業主義だと、商品として作品が流通しますね。商品として作品が流通する、そういう一つの特色、形を持っている映像というものがあると思います。もう一方には、形だけで売るのではなく、もうちょっと違った側面、さっき僕が土本さんの映画に感動して憧れて、心惹かれていったという側面もあると思います。そこが分かれていくのかなあという気がするのです。分かれていく時の、分かれ方が、以前ですと自主上映会という形になるから、会場で上映会をしていく。今、インターネットが入つてきたり、昔はフィルムで上映していたのが、今度はDVDだと一本の映画がそのまま入ってしまうとか、流通の在り方が変わっていく中で、作品の持っている意味合いが問われていくことになるのではないかと思っています。
 僕は商品としての映像とか、そういう概念があまりないから、よく言えないのですが、そういう仕方でだんだんと映像というのが出てくるのかなという気がします。当然、片側ではマスメディアがあるので、作家としてアイドルのようにもてはやされたりする人が出てきたりするのかなという気もします。マンガの例で言うと、片方でメジャーの秋田書店とか小学館、何百万部という部数の雑誌をやっているところがあって、もう一方で『ガロ』のようなちょっとマイナーな感じの媒体がありました。そういう二極化するというか、そういう形が今後出てきて、その形がもっと広く、観る人の拡がりとして生まれてくるのかなと思うのです。
 土本さんや小川さんの映画が、当時作られたといっても、観る人はかなり問題意識を持っていたと思います。問題意識のない人にどこまで訴えていくかという、そこのところが、当時のことだと、若干あったかなと思います。問題意識のない、普通の生活レベルだけで、いろんな職業をやったりしている人たちの間に、もうちょっと入っていく可能性が、メディアの変化によって生まれてくる可能性があるのではないかと、僕は考えています。可能性はあると思います。実際に、若い人たちの作品を、囲い込むと言うとおかしいのですが、いろんなところで目をつけていく、うちでDVDにしないかといった形は徐々にあるような感じがします。

 司会 土本さんや小川さんの作品の上映運動をしていた組織がミニシアターとなって、地方で成長しています。そうしたミニシアターが今でも上映を支えています。今では五〇代になっているんですけれど。ユーロスペースもそういう劇場の一つです。技術的にはビデオに変わっていますが、上映して人に観てもらうということは変わらないと思います。
 
 今田 この映画をなんで撮ったのかと、いろんな人に聞かれました。撮ったばかりの頃は、本当に自分でもわからないというか、なんで撮ったんだろうと思ったような映画でした。それが上映会を重ねることによって、いろんなお客さんの反応を見て、対話をすることによって、自分の中で解きほぐれたというか、ああこんなことを考えて撮ったのかなというのが、あとから考えて、出できたりしました。そういうのが、とても励みになりました。映画を撮るのは、そんなに難しい作業ではないと思うのです。お客さんに観てもらうとか、そういうことのほうがはるかに難しいと思います。
 ですから見せるという行為自体のことも考えなければいけないんだけれど、自分がどれだけ撮り続けることができるかということのほうが、自分の中では問題で、自分がどれだけ撮っていけるのかなと、そこでの勝負をしたいと思っています。

 土本 デジタル化によって、撮るのも観せるのも、間違いなく可能性は拡がりました。ただ、拡がり過ぎちゃいませんかね。何でも撮ると、僕のところに送ってくる人がいて。結局、映画というのは、観る時間の要る芸術です。観るに値するかというのは外側をひっくり返してもわからないから、一応頭だけでも観て、これは観ておこうというふうになれば観ます。ちょっとその辺は、自由になり過ぎているのではないかと思ったりします。
 今の僕の年齢で言うのは、ちょっと弁解がましいのですが、僕は今、自分で好きで作品を作るようにしたい。そういう条件が、ビデオだとできるのです。
 前は一度作ったフィルムをいじり直すなんてことは大変なことだったけれど、今はオリジナルがあれば、ビデオで編集、いろいろ試行錯誤ができる。これはとても助かることです。今回、フィルモグラフィ展をやりながら、ああうまくいってないフィルムだなと思ったりします。これを、死ぬまでに、何とかお許し願える程度までに直して、ビデオでDVD化して残したいと思う。
 僕としては、ビデオで作ると同時に、やはり集会で観たいです。暗い画面と対峠できるところで、人々の呼吸を耳元にしながら観たい。同じ場で同じものを観て、そこで認識をしていきたい。そういうスクリーンと客席との関係性、人数ではなく、その関係性は最後まで確保していきたいと思います。

 司会 デジタル化によって、可能性が拡がった反面、失った側面もあるのでしょうか。

 鈴木 フィルムはコストが高いのです。実際に撮る時にシュートと言ってがーっと回す、フィルムが回っていくと、僕はキヤメラマンをやっていましたから、すごく気にするわけです。ああ、どんどん回っちゃったと。キヤメラマンだとフィルムの回る音が耳に聞こえて、フィルムが回っているということが、意識の中に働きますから、対象を探して撮っているという時の緊迫感があります。そこでの緊迫感が、キヤメラワークとかそういうところに出てくるわけです。ビデオでは、それがなくなりました。シユートと言って撮っていく時の緊迫感がなくなってきたかなというふうに思います。
 もう一つは、今のビデオは走査線を使って一秒三〇フレームでやっています。一フレームが走査線のインターレースにより二つのフィールドで交互に表示されるため一秒が六〇フィールドで間断なくイメージが表示されて闇がないのです。その闇がないということが、一つ問題ではないかという気がします。普通の人は意識しませんが。フィルムだと二四コマで、一コマの映写時間が二四分の一秒くらいだから、どうしてもスクリーンに闇がある。上映時間の半分が、実は闇で、その闇の間に脳は働いているみたいです。フィルムだとその闇があるけれど、ビデオだとだーっと流れてしまって、のっペりした映像になってしまう。そこである種の形式というか、映像というものの持っている意味合いがやや違うかなと。その二つの点は、僕ははっきりとフィルムとビデオの違いだと思います。

 藤原 僕は一九七〇年生まれで、九〇年代頭くらいにアメリカの学校で映画の編集をフィルムで習いましたが、フィルムだけで編集を学んだほとんど最後の世代みたいですね。その頃からだんだんAVIDであるとか、ノンリニア編集が映画編集の主流になっていった。僕自身も今はノンリニアで編集しているわけですけれど、フィルムの編集をムビオラで習ったので、コトコト自分の体を使って回している、体のリズムみたいなものはいやというほど覚え込まされました。しかし今の学生はいきなりコンピュータでノンリニアですからね。フィルムで撮っても簡易テレシネでDVにしてノンリニアで切らせたりする。フィルムで切っている時のようなリズム感を自分の身体に染み込ませるということが、なかなかできないのではないか。

 鈴木 多摩美の場合ですと、一年生に必ず16ミリフィルムを使いボレックスで撮らせます。一応現像も全員にやらせて、プリントは写真でやらせますが、要するにそういうコマの概念とグラデーシヨンの概念はしっかり掴ませるということです。実際に一回フィルムでやると、フィルムやりたいという子がけつこういる、ぐっとフィルムにのめり込んでいくのです。今はそこがもうちょっと高度というか、進んできて、撮影はフィルムでやるけど、上がりはビデオでやるという子が出てきました。それは、二つ理由がある。一つはネガテレシネにして編集すると、編集しやすい。要するに、ラッシュプリントとるとお金がかかる。そういうやり方で倹約するのと、上映する施設が映写機をもっている会場が少なくなっているから、自分で持っていかなければならない。そういうことがいろいろ絡んでくるので、フィルムの映像の質感は欲しいからフィルムで撮影して、上がりはビデオで公開するという、けつこうそういう子が、うちの大学の場合は出ています。

 今田 日本映画学校の場合、僕はドキュメンタリー・ゼミだったのでフィルムはぜんぜん触れなかったのですが、撮影部とかは触っていたみたいです。一年生の時に、16ミリフィルムをはじめて触って。そういうことはありましたが、フィルム独特の緊張感とかいうのは、自分ではわかりません。やろうと思っても、フィルムを触る機会がありませんでした。

 藤原 ドキュメンタリーを撮る時に極端に違うのは、回す時間でしょう。例えば今、三時間のシンポジウムで二台のカメラを回しているので、六時間分回っていますが、フィルムだったらそんなこと絶対にできませんよね。いくらお金があっても足りなくなる。ビデオだと、どうしても何でも撮っておこう、とりあえず撮っておこうということで、あとで編集の時に素材を観るだけでもえらく時間がかかってしまい、苦労するハメになるわけですが・・・。土本さんの『水俣ー患者さんとその世界ー』の頃の作品はだいたい、完成した長さに対して、回したフィルムの長さはどのくらいだったのでしょうか。

 土本 六、七倍くらいでしょうね、もっと少ないかもしれません。

 藤原 ビデオになって、テレビの仕事とかで、一人でできるんだからいいじゃない、機材も持っているじゃないということで、非常に少ない予算でやらされることもあります。一人でも一応できてしまうことのリスクって、けつこう怖いと思います。
 現在、土本さんを撮るのは、小川プロ出身のキヤメラマンの加藤孝信さんをはじめとするスタッフを組んでやっていますけど、一本目の『インデイペンデンス』は自分のキヤメラ兼監督でしたし、『土本典昭 ニューヨークの旅』も、旅費の関係で僕しか行けなかったので、一人で撮って、自分の撮ったものを編集しました。自分が撮った画を自分で編集するのに時間がかかるのは、自分が撮った画を客観的に見ることがやはり難しいからでしょう。ダメなものはダメだと自分に厳しく言うだけでも、けつこう大変で。これはドキュメンタリーの面白さだと思いますが、キヤメラの前の状況を我々が自分でコントロールしているわけではないから、撮ろうと思ったのとは別のものが映っていることが必ずあって、それに気がつくだけでも時間がかかる。他人が撮った画だったら、何が映っているのかを冷静に見抜けるのが、自分がキヤメラを回していると、撮った時の自分を客観化するというか、対象化するのにえらく時間がかかってしまう。それで悩んでいた時に、土本さんから、二人が最低単位だよと言われました。
 ドキュメンタリーの客観性という問題があります。あるいは、主観的な表現とは何か。個人映画、プライベートフィルムという区分けに対しては多少反発を感じます。例えば僕が撮ったものはいつも他者を対象としていますが、全部プライベートフィルムですよ。観てる人間は自分であり、自分の観たものを通した自分の思想や主観しか表現できないのですから。それを作品として観客に提示する時に、ある種の客観性というか、他人が観てちゃんとわかる段取りというか、そういうのはやらなければいけないし、観客が見た時にも、もしかしたら、自分が見ている以上に深いものを観客が読み取ってくれるくらいのものをやらなければならない。そうでないと、たぶんドキュメンタリーではなく、プロパガンダにしかならない。あるいは自己陶酔かもしれない。過去二〇年くらいのドキュメンタリーをいろいろ観て、自分が面白いと思う作品は、そういう作品ですね。単視眼的でなく、観客の思考と解釈に開かれた重層的な表現。
 客観と主観のせめぎ合いを内包している映画こそ本物のドキュメンタリーだと言ってしまってもいいのかもしれない。例えば『存亡の海オホーツク』の、NHKの方のナレーションと、土本さんのナレーションが交互に入ってくる面白さであるとか。結局、我々が見たのだから主観なのだけれど、それをどう観客に提示するのかについて、土本さんのお仕事は非常に勉強になると思います。

 土本 最低二人というのは、映画は画と音が基本のファクターですから、どうしても、作品に即して、音は音で徹底的に耳を澄ませて考える人がいて欲しいし、その音にとらわれずに、画を徹底的に見極めていく人がいて欲しい。それがお互いに協力し合って、映画作品を作っていくというふうに考えています。そういった、映像と音声の二つの能力を分かち持つということを前提に、スタッフを組めば、誰が演出で誰が撮影かではなくて、音を追う人、画で表現する人ということで、新しい分担の形が見えてくるかもしれませんね。
 どうもアメリカのワイズマン監督なんかの話を読むと、彼がマイクを持っていて、何かあれば咄嗟に自分の手元の録音をスタートさせ、手で合図してキヤメラマンにシュートを促すといった現場のようです。これはよくわかります。彼は音からも演出を作り出している人だという感じがします。そんなことで、僕は最低、映画のスタッフは音と映像と二人は要ると。どうも、思考と感覚はそれぞれが使う脳の神経は違うみたいですね。自分でマイクの付いたビデオキャメラを使ってみて解ったのですが、ファインダーで画を見ていると音が疎かになる、音を意識すると、画の構図に対する集中がとぎれるといったことがあります。ですから画と音、そのそれぞれに右脳とか左脳という脳の使いわけがあるのではないかと思います。

 鈴木 ドキュメンタリーというような形で僕は撮っていないので、僕自身が映画を作る時には、録音の人は別にたてません。僕は自分で身の回りのことを撮った映画を作っていますが、キヤメラマンの経験からいうと、映像って、実は映像ではないという感じが僕にはあります。ある種の関係性の定着というような感じであって、キヤメラマンをやっていた時もそうですが、体で動いていかないと、キャメラも動かないし、音も採れない。ばらばらには考えていないのです。体で動いていくというのは、その現場の中の関係性をどういうふうに自分で感受していくかということであると、僕はずっと考えています。キヤメラマンとして一八年やっていたので、それが身についている。音が聞こえてくると、音のほうを活かす画を撮ろうという仕方になっていくというような感じで、自分の中で聞き分けて体を動かしていくという感じになっています。
 もう一つ言えるのは、僕はほとんどやったことがありませんが、対象がいる場合には、必ずマイクをきちっと使うこと。キヤメラ用のマイクと録音用のマイクは必ず、ビデオでも使います。キヤメラのマイクで採ったものは、幅が広かったり狭かったりして、すごく音にむらが出てくるので、対象の人の声は別マイクで採った録音を入れ替えるという仕方。例えば自分が作った映画でも、インタビューをやっているような場合は必ずそういうふうにしてやっています。

 今田 対象がいる場合は、マイクはつけなければダメだと思います。キヤメラのマイクは粗悪品というか、ぜんぜん役にたちません。一人で撮ることなんか、いつでもできるから、一緒にやってくれるスタッフがいるという時は、せめて録音の方はつけたほうがいいと思います。

 藤原 経済的な制約から一番時間がかかるところは一人でやるしかないということはありますが、いろいろな局面で、人と一緒に作業をするのはとても大事なことだと思います。例えば、これは通常の映画作りの順序としては非常識なやり方ですが、『インデイペンデンス』という僕の最初の作品では、音楽をつけたあとで、編集を思い切り変えました。フリージャズの巨匠で、ロバート・クレイマーの映画の音楽でも知られるバール・フィリップスに音楽をつけてもらったのですが、彼のつけた音楽によって、自分がそれまで編集したものと、実はこの映画はもっと違うことなんだと気づかされた。僕が見ないで、音楽をやったバールが見てくれていた。そのことをバールの音楽が語っている以上、この編集では間違っている、と考えるしかなかった。映画って、個人映画といっても一人で作るだけのものではない。
 土本さんはお若い頃はまさに喧々囂々議論をされていたということを聞くんですが、そういう共同作業だからこそ生まれてくる重層性というのも含めて、やはりスタッフは大事だと思います。そう思いながら、学生の共同作業を見ていると、全然議論してない。一緒にやる、それぞれの個性を活かすということは、喧嘩することも辞さないくらいの覚悟は必要なはずなのですが。先生をやっていた時には、なんでそういうことやらないのか不思議でした。驚くほど従順で、ちょっとした衝突でもすぐ逃げてしまう。もっとも、この点では学生よりも同僚の教師、講師たちのほうがもっとひどかったのですが。とにかく人に嫌われまい、仲良く、としか考えられない。

 作り手を育てるものは何か

 司会 ドキュメンタリーの未来を考える時、作り手はどこから生まれてくるのかということがあります。

 鈴木 学校から生まれてくるかどうかを言えば、ある年齢があると思います。高校を出て、一応意識的に自覚して、自分なりに何かやってみようと思って、映像で表現をしてみようという。その時に、土本さんとか、僕なんかより一世代上の人たちは、映画会社があった。映画会社がそれなりの教育機関として機能を果たしていたと思います。メジャーの劇映画を作っているところが五社あって、助監一〇年と言われたくらい、それなりの教育的なものを持っていた。それは今、もうほとんどなくなっている感じがします。うちの大学を出て、映像の会社に勤めても何しても、そこで育てようという気があまりないみたいです。では大学や専門学校は何かというと、高校を出てから自分たちが進む道を探して社会に出るまでの緩衝地帯みたいなものだと僕は思います。そこで、企画して作れとか言われて、それなりに映像的な表現をするのはどういうことかを学ぶ。学ぶというか、むしろそこで触れる。そのチャンスは拡がってきていると思います。
 現実に、韓国に刺激されたのかどうか知らないけれど、政府が映像のソフト・人材を育てなければいけないと、いろいろ国立大学などに映像学科をつくっています。大学について言えば、国立大学に一個も映像学科がなかったというのは、日本の国っていうのはすごいなと僕は思います。これは、どういう感覚というか、考え方なのかわかりませんけれど、今作るというようなことをいって、あわててやっています。できたとしても、そこは緩衝地帯として、稚魚が泳ぎ回るようなところとしてであって、今まである専門学校や大学とそうは変わらないでしょう。
 そこから生まれてくるかどうかは、機関の問題ではなくて、人の問題だと思います。そこに入ってきた中で、どのくらい今の大学や専門学校のやり方に批判を持てるか、批判精神が持てるか持てないかの問題だと思います。現実には、けつこうみんな批判精神があります。去年、うちの卒業生が卒業発表会をやった時に、うちの大学だけでなく、武蔵美や日本大学(芸術学部)などいろいろなところから卒業生の作品を借りてきて、それぞれの学生が自分の学校について語るというのが一日ありました。僕は冷や冷やしたのですが、けつこうみんな批判していました。授業の在り方とか、教員について、ものすごい厳しかった。みんな、唯々諾々としていなくて、批判精神に富んでいることは、僕はとても心強く思いました。それがある以上は、そういう批判精神を持っている、跳ねっ返りは必ず自分の表現の中にはね返って来るに違いないんです。そういう意味で、今の専門学校や大学は、作品を作るやり方はお金がかかるから教えられない、西欧とか中国のように莫大な金を出して一本作品を作らせるというようなところではないと思います。だったら、映画を作ることを教えるのではなくて、単に触れさせるということであって、その触れた中から、一人ひとりがどのくらい自覚を持ってやっていくかだと思います。その自覚を持った人を、今度は受け取るほうが育てなければならないと思うのです。さっきから同じことを言っていますけれど、育てるのは、観る人がいてはじめて育っていくのであって、そのへんのところをどういうふうに考えていくのかということ。作家のほうは作りたいという思いがあるから、それを受け止める側、どういう人たちがそこに出てくるかが、これから一番大切なところではないかなと思っています。

 藤原 僕は二年間ほど、早稲田大学芸術学校というところで先生をやっておりまして、鈴木さんのお話をうかがって、非常に羨ましいなと思います。僕の見た学生の大部分は、まったく学校を批判しなかった。自分自身を含む学校に対して最も批判的なのが講師である僕であったほどで。「君たち、これでいいの?授業料もったいないじゃない」とか扇動してたり・・・。で、学生も不満はあるのに、僕にしか言わない。学校側の主任は不満のある学生を面談で呼びだしては、圧力をかけ懐柔する。この人たちはいったい何なんだろうかと、すごく不思議だった。学生も結局、主任教授の言うことだからしょうがない、で納得してしまう。鈴木さんの教え子にそういう子がいたということは、僕が見た狭い範囲だけで判断してはいけないんでしょうね。先生だから偉いんだ、言うこと聞かなければいけないんだ、みたいなことだけに留まらない人でないと、例えば土本さんが水俣であるとか、日本の当時の社会的な主流のイデオロギーを敢えて批評する映画を作る意識は持てなかったのではないか。

 鈴木 ちょっとそこで言いますと、先生には反発しませんよ。全部いい子になっている。今の子は、全部、先生にはいい子。教室を出ていったら、ぜんぜん違います。教室では何を言ってもそのまま受け取る。だから、僕、指導していないというのは、言ったら、そのとおりになってしまってダメなんです。そうじゃなくて、自分の中から何かかき立てるものをもっていなければダメなんで、そういうものがあれば、学校でいい子になっていても、どっか飲み屋さんに行ったら、ぜんぜん違う顔ですよ。小学校一年から高校三年まで、先生にはいい顔をしなければいけないと教育されてしまっているから、これはダメですよね。そうじゃなくて、外側の顔を持っている子がいるのです。

 今田 卒業製作は、うちの学校はお金をけつこう出してくれるんです。僕の作品にも六〇万円出してくれて、あと16ミリにするキネコ代と、翻訳の字幕、全部学校が出してくれました。僕、一年生の時からわりと監督とかやらせてもらえていたので、学費の元は取っているんです。払っている学費より多くもらった。そんなに教わったという気分はないのですが、すごく自分で撮らせてもらえました。映画学校で巨匠は生まれないと、よく原さんとかおっしゃいますけれど、三池崇史監督とか、本広克行監督とか、劇映画のほうはわりと出ています。ドキュメンタリーはどうかというと、残念ながら二本目がなかなかみなさんできないということです。自分にとってもそれは危機感で、やらなければいけないんだろうなと思っています。ただ、そんなに悲観的には考えてはいません。
 セルフドキュメンタリーを撮った人が次の作品をなかなか作れないのは、卒業製作を作る環境がすごく恵まれていて、お金もわりと出してもらえて、自分の周囲のものを撮っているのだから、これほど恵まれた環境はないのです。映画学校から出て、次にぽっと作れるかといったら、それ自体が、そんなことはないですよね。実際に、一番撮りたいものを最高の環境で一回作ると、なかなかじゃあ、次回作はってことにはなりませんよね。僕自身は、二本目が撮れないとは、自分では思いません。だから、ドキュメンタリー作家が映画学校から出ないと言われても、肝には銘じなければいけないなとは思いますけど、そんなに危機感はありません。
 ハンセン病はこれから、物理的な問題で人々の記憶から消えていくということもありますが、僕が撮った作品の中で、一人の方はもう亡くなって、もう一人の方はアルツハイマーになってしまったんです。消え去っていくしかない運命にある。今はどういうふうに撮りたいという考えが思い浮かばないので撮りませんが、またいずれそれはちゃんと撮りたいと思っています。ほかにも、いろいろやりたいことはあります。僕は、メキシコに行ってプロレスラーになりたかったので、若いうちにメキシコに行って、ルチャリブレを撮りたいという思いがあって。そういう、撮りたいものはいっぱいあって、あんまり危機感はないですね。どうやってお金にしていくかということを考えなければいけないけど、なんとかなると思っています。

 土本 あなたの話の答えになるかどうかわかりませんけど、自分の作品の規範を、今のテレビの番組のいかなるものにも当てはめないほうがいいと思います。当てはまらないはずなんです。しっかりやっていくと、作品の寸法や時間が合わなくなったり、テーマが規範とは違ってきたりしますから。ところが、どうも作っていく方の最初の見本はテレビ、せめてテレビの水準の作品でありたいと思うでしょう。やはり真似ることは大事ですから、テレビに非常に近いものができてくるんだけれど、それをあまり良しとすると、大きく違うと思います。
 九時間半におよぶ中国の王兵監督の『鉄西区』を観ましたが、テレビと無縁・・・、絶対にテレビで放映するチャンスはないということを承知のうえで作っています。いくつかの労働者の集団や青年の集団が出てきますけれど、本当に選び抜いて、その人たちを追っているのかどうか不確かですし、ましてメッセージ性は非常に少ない。ただ、本当に即物的に自分の親しんだ瀋陽の工場地帯と人々を徹底的に撮っています。いつ話が終わったかわからないようなラストで全三部が終わって、びっくりしました。これはフランスや日本での評価は高いものでした。僕は端倪すべからざる映画と思いながら、一方で王兵監督は褒め殺されなければいいなと思いました。彼は、誰にも褒められる作品を作った気がしていないと思うのです。ましてテレビに売れるなんていうことは、毛ほども思って作っていないですね。ビデオ時代、デジタル編集の時代の作り方をトコトンやったなという感じです。
 映画の長さですぐ連想するのは、ランズマンの九時間半の『シヨアー』ですが、構成と完成度の点でも、『シヨアー』とはぜんぜん違います。ともかく、街、その工場、その集団の中にいることのできた青年が、いつもしっかりとキヤメラを持っていたみたいな映画で、インタビューもしないし、ナレーションも音楽もない。中継映画というものがもしあるとしたら、そうした映画です。何も始まっていかない、何も進行していない、何も選択していない、そして何もその終末まで確かめない、といった不思議な映画です。製作現場から見れば、”個人映画”とも言える性格の映画ですが、ラストに延々と編集協力はじめ二、三〇人スタッフ名が出てくる。みな、仕上げ段階の熱烈参加のようです。
 しかし、この映画には不思議な魅力があります。まったくその世界に自分も在住しているかのような感じに引き込まれます。これを観賞する時間の長さは、映画の歴史でもまれなことでしょう。まして一挙放映はテレビの時間枠では期待すべくもなかったでしょう。ストレートに言えば、非テレビ的映像です。そういったテレビとまったく無縁なところに自分の創作の腰を据えたという点で、日本にはない、何とも新しい映画作りと思います。
 ここにいる若い方々。テレビはお手本ではありますけれど、”自分のこの作品はテレビ並みの水準に達しているか”とか、”その放映枠に受け入れられるものか”などにとらわれる必要はない。むしろ、早く捨てたほうがいいと思います。生まれた時からテレビを観て育った若い人と、映画の歴史を曲がりなりにも共にした僕らの世代の言い方かもしれませんが、中国のドキュメンタリーを観ていろいろ考えさせられました。

 鈴木 観る人が作り手を育てるということで、もう少しお話しします。僕の考え方で言いますと、観客のほうがある種の価値観を持っていれば、そこで価値観との関係が、新たに作品が出された時に創出されるという関係を生んでいくと思うのです。観客がどんどん増えていくということは、観客の要求が多様化していくということだと思います。ただ、多様化していくけれども、観るほうが、作品に対する向かい方をきちっと自覚して、評価していくという作業をしていかなければ、観客は観客として育たないという感じは持っています。そこの関係の作り方が、ある時代までは、ある種の権威主義的なものによって、価値観が決められてきたと思います。その権威主義的なところ、どこにどう権威があるのかわからない形で日本の社会は進んできているところがあるので、実はそこが一番問題だと思うのです。観客がどう自分でしっかりと価値観を持つのかが問われる。受け止めるほう、観客がものすごい怠惰になっていることは確かですね。怠惰にさせているのが、実を言うと、マスメディアだと思います。観客が、自分の置かれている、マスメディアに浸されている状況をどういうふうに自覚して、自ら観る目をどう養っていくかという自覚が要求されるのじゃないかと思います。それは、ある種の、それぞれの価値観をつくる運動だと思います。観客が、今度は運動をつくって、価値観を創出するという仕方が、ここからは要求されるのではないか。現実に、上映会やなんかやれば、お客が来たり来なかったりする。上映会の一つも組織して、やってみれば、なんで来ないのかと考えるのです。考えたところで、はじめて価値観の始まりがあると思います。今は、ほとんどマスメディアに受け身にさせられて、のっペりとなって、怠惰な中にいると感じます。僕も一人の観客だから、必ず行って、批評するという行為をやっていかないと、作家は育たないと思います。ただ、観て面白かったな、刺激があったなというくらいで帰っていくと、温度は低下していきますから、観に行ったら必ずそこで作家に声をかけて話したり何かしていくことで、初めてそこで共有できる価値観が生まれてくるので、観客がこれからはそういうことを要求されるだろうという感じがしています。