チュア君と私たち
◎映画「留学生チュアスイリン」は一つの運動の産みだしたものです。暗雲にスタートしたのは今年一月、そして今日ここに一つの映画がまとまるまでには、多くの好運がありました。まずチェア君を知ったことです。私は、かつて日本の軍国主義軍隊が占領し支配したアジアの国々からの留学生には、”罪の心”からその勉学が成功するよう如何なる援助もおしんではならないと思っていました。たまたま最も不幸な例としてチェア君のことを聞きました。留学中に半亡命の状態になったということは経緯はどうであれ、日本人の責任でしょう。私はフィルムで、そのことを果そうと決意しました。とはいえ、映画はひとりで出来ず、お金もいるので窮していると、友人のプロデューサー工藤氏が、がん張れるところまでやってみようと、ものの五分で即決し、またキャメラの瀬川順一氏が一日のロケでチユア君に絶大な人間的みカを感じてしまいました。
◎私達がチェア君と会った頃(一月)今にして思えばチユア君が最もこどくな時期だったと思います。大学は追われ、月々三万円の国費を去年九月に絶たれ、シンガポールからの帰国命令を拒否していることからくる危険もあり、悪戦苦闘していました。A・A各国の留学生はひとりのこらず同情的でしたが、日本の文部省を恐れてなかなか立ち上れない事情がありました。そして日本の学生はまだよくこの問題を知らず、何より母校千薬大学の教授、学生の支援が殆どない時期でした。
◎チユア君は英国紳士的な礼儀正しさを身につけていました。しかし、その当時、すでに、自分を守ってくれるのは、裁判や、懇願だけでなく、日本の学生の支援しかないと思っていたのでしょう。それだけに、眼はするどく日本の同じ年代の青年学生の中にシンパシーをさがし求めていました。そして彼は全く見とうしの立たない時期も明るくつとめ、微笑と礼儀正しさを失いませんでした。私は、文部省や千葉大当局のいう法理論は別の分野でおねがいするとして、映画では徹頭徹尾チェア君に「加担」しようと決心しました。そしてチユア君からはなれないようにしました。
◎これが”客観性”も欠いているという声もありましょう、又こうしたつくり方では、最近の日本政府のマレーシア接近政策からみて、一言で「反マレーシア映画」とらく印で押され、公開が困難であろうことも想像しました。しかしプロデューサーもスタッフも、「加担」の映画をつくろうと終始一致してきました。私も他のテレビ番組の仕事中であり、それぞれ仕事をもつスタッフばかりでしたが、映画にはそれぞれひとりひとりが運動への”参加”としてやつてきたつもりです。
◎本気とも冗談ともつかず、私はこれはチュア君のため「巨大な八ミリ」だ。つまりチュア君個人にプレゼントするフィルムだといってきました。私はチュア君の不幸に胸が痛みます。そのお返しに、彼が帰国し、フィルムを彼の友人に見せることの出来る日がきたら「日本で不幸なことがあった。暗い失望にみちた日々もあった。しかしそうした日本の中にも、私はたしかな友人をみつけた。アジア人であるということで結ばれた人々を見た」と伝えてくれれば、それでいいと話しあってきました。丁度その頃はチユア君同様、事態は全く好転を見せない二月ー三月頃だったのです。私達にも暗い撮影の日々でした。
◎しかし今、この映画をふりかえって私たちに欲が出ました。多くの蔭の人々の努力がみのり、そして予想もしなかった千葉大全学あげての記念すべき四月の行動があり、日本とアジアの青年の間に兄弟の感情が激しく流れ交うのを見たからです。私たちは自らの不明を詑びつつ、おどろき、よろこび、この人問的な斗いにカメラをむけつづけてきました。スタッフ全員、学生の一人になって、ときに怒り、悲しみ怒鳴りあってきました。だれもカメラを意識するものもなく、空気の中のように皆が自然に息づいてきました。私たちはチユア君のためにこのプレゼント・フイルムが考えていたいくつかの結末の中で最も望む形で出来たと信じています。そして、間違いと無関心にみちた留学生問題に抗し、最前線で斗つたチユア君に対し心から敬意をもち、今后も問題があれば、直ちに続編をとろうと思っています。そして、ただチュア君だけでなく、今では一人でも多くの日本人に見てもらいたいと思います。
◎チユア君と会うすこしまえ、留学生に対する日本側の冷い受入態勢を批判して、あるアジア人留学生は私にいいました。「日本はアジアに背をむけている。日本にきてこの実感をかかえて祖国にかえる限り大半は反日的にならざるを得ない。」この時、胸一ぱいにひろがつた苦しさを忘れることが出きません。この映画が、留学生への広い関心をよぶ一助になってほしいと熱望します。未熟ですが、私はこの映画がつくれたことを誇りとします。それは何より、私自身、そしてスタッフ自身、アジアとアフリカの子であることを自覚させてくれた記念碑的映画であるからです。なお私たちと共に働いてくれた若林洋光・宗田喜久松・福原進等数多い若い映画人諸君に対し、私はここに感謝の言葉をおしみません。(一九六五・六・四)