書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 対談 瀬川順一+土本典昭 「映画を私有する」とはどういうことか 対談 <1988年(昭63)>
書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 対談 瀬川順一+土本典昭 「映画を私有する」とはどういうことか 対談 <1988年(昭63)>
 書籍「ドキュメンタリー映画の現場」 対談 瀬川順一+土本典昭 「映画を私有する」とはどういうことか 対談

 東宝争議前後

 瀬川 僕は公式の話というのは苦手なんだよ。何か言うと悪口言ったり毒づいたり、罵倒したりしてね(笑)。というふうにやらないと思ったことを言った気にならないしね。

 土本 喋らないと出てこないものつてあるでしょう。今、(映画)「論」を立てようとは思いませんが・・・。なぜ今、瀬川さんかというと、瀬川さんはドキュメンタリー映画の出発に立ち会った世代だし、そして僕の世代、そして次の若い世代となるわけでしょ。やはり僕は瀬川さん、亀井文夫さんたち世代の記録映画に教わってきたと思うんですよ。世代的に瀬川さんから一つ飛んでいる若い次の世代に、瀬川さんの「ドキュメンタリー・キャメラマン論」を語ってもらいたいと・・・。この「映画講座」にはフラレましたけど(笑)。僕と出会った鉄の映画(製鉄PR映画、昭和三十年代前半)以前あたりから・・・。

 瀬川 鉄の映画ねえ。あれはしかし大変だったなあ現場は。真っ赤に焼けた鋼片のギリギリ近くにカメラを据えるわけ、アイモ(米国製ニュース撮影用カメラ)なんです。遠隔操作できる仕掛けして据えて撮る。ところが、うまくいくかどうかはファインダーを覗いてから決めるわけでしょ。耳もとの機械がギィーコギィーコもの凄い音・・・今でも僕は耳が鳴るんだ。で、スタッフの声が聞こえないと困るから耳栓はしないでしょ。もともと声がでかいうえに怒鳴りまくったりして。面白かった。でもこんなことやってていいのかなって思いながらだった・・・。その前と言えば、戦後の数年間、東宝でずうっと争議をやっててね、組合の役員をやらされて・・・。撮影現場の仕事ができないんだよ、根っからのキャメラマンのくせにさあ。骨がらみのキャメラマンだったから仕事したくでしょうがないわけ。
 当時「独立プロ映画運動」が動きだして、例えば亀井文夫も劇映画を撮りはじめた、『戦争と平和』とか『女の一生』『無頼漢長兵衛』とか。僕も亀井文夫と劇映画を一本撮った。東宝をクビになった後ですけど、『母なれば女なれば』、独立プロで僕の撮った作品はあれ一本しかないんですよ。あとはみんな友人のキャメラマンに出番を譲ってしまって。それに撮影所細胞(日本共産党の支部)の指導部だったし、仕事とはいえ何カ月もは抜けられないわけ。手にする金は行動費にも満たないんで、うちに金がない。もうカミさんは大変だった。
 あの昭和二十三年春の占領軍の戦車や武装警官隊に撮影所がグルツと取り巻かれた東宝大争議のとき、「それっ、暴力的に出るんだったら暴力で」って、城壁のようなバリケードを築いて「入つってきたら実力で闘おう」って、もう落城寸前の撮影所に立てこもった時に、悪気があって言うわけじゃないけど、突知として「至上命令」が来たんだ、「対決を解け」ってね。つまり代々木からだった。でも組合員は何も知らず闘う構えだよ、平党員だって。僕は青年将校って感じかな、東宝労組連合会事務局長をやっていたから。
 その「戦闘中止命令」を僕に伝えたのは宮島義勇さんですよ。非常に優秀なキャメラマンで闘争委員長だった。彼が僕に「俺たち戦争をやっているんだ。日本の全体的な階級闘争の一部分をやっているんだから、一組合の部分だけから見て、勝手な闘争をすべきではない」。とにかく分かったような分からないような話なんだ(笑)。つまり俺たちの戦線の役割は代々木から見れば、「終わった」という話なんだ。

 土本 それは現場が余力を残している時にですか。

 瀬川 余力というか・・・。それは見事に団結していたわけ。その当時撮影所の従業員は約二千人、うち党員が二百人ぐらい居たんですよ。これは非常に強かった。この連中が争議を指導するわけでしょう。これはやっぱり分裂するよな、共産党の思った通りいくんだもの。少数派は分裂して新東宝ができた・・

 土本 その人たちは「自分たちはともかく映画を作りたい」ということで?

 瀬川 そう、そのことがエサだね。新東宝へ行って映画を作るって。で、作りたい人は大勢いるわけだ。話がちょっとわきにそれるけどね、東宝という会社の中で、いわば工場は撮影所ひとつでしょう。後は全部、本社でしょ、営業、配給それに支社。これ、考えてみりゃ全部「営業部」なのね。お店なんだ。番頭さんなんだ。だから撮影所がストをやるつてのは非常に難しいわけね、映画界のストっていうのは。その人たちは商売できなくなるし、会社は給料が払えない、そういうところからどんどん第二組合ができてくる。当たり前なんですよ。だけど実に見事に長いこと団結してたんですよ。
 不思議なのはあの時です。バリケードの中で、みんなやろうと言っている時に、代々木という指令部から一発指令が来るとさ、突如として「やめた」ということになって、ワーッと撮影所から出ていくんです。機動隊に城を明け渡すように出てくんです。アメリカ兵も入ってくる・・・。まさに戦争みたいなものでね、戦闘指揮官が「退却」といえば全部退却する。それにしても見事に退却したね(笑)。あれは何だろうか。時代なのかね。その時「反対」と言う人はいないんだよ。それほど指導部には統率力があったし信頼があった。個人的魅力もあったでしょう。弁舌も立ったし、人格も善かっただろうし、なによりそれぞれの仕事が良かったんだよね。ここが撮影所の組合のちょっと違うところなんですよ。宮島義勇は日本一流のキャメラマンでしょ。亀井文夫はアナーキーなところがあって、指揮系統には従わない人だったけど・・・。伊藤武郎は名プロデューサーですしね。僕なんか「青年将校」も撮影所現場では恥ずかしくない仕事をしているわけですよ(笑)。監督たち、例えば衣笠貞之介、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、それから黒沢明、丸山誠治・・・これらの名監督は全部組合を支持してくれたしね。

 土本 占領下、レッドパージ(占領軍による「共産党員狩り」)の前でしたね。

 瀬川 レッドパージの前触れですよ。東宝争議は占領政策としても一番宣伝が効く。一番派手なわけですよ。撮影所なんて、日本全体の政治とか経済とか・・・つまり”域”としてはそれほど戦術的意味はない。だけど一番宣伝効果があるわけ。共産党にとってもね。だからここで双方が対決したわけですよ。当時、海員組合は強くてね、撮影所に応援にきてくれた。東芝も来てくれて交替で泊まり込んで、ちょっとした労働者学校のようになった、撮影所が。ダンスパーティーあり、話し合いあり、いっぱいサークルなんか出来てね、女優さんなんかも例えば岸旗江なんか映画スターというよりも組合運動のスターですよ。歌声運動は起きるしね。だから期せずして撮影所が一大労働者学校になっちゃったわけ。
 まあ一年以上の争議を閉じて、退職金を集めてみんなでプロダクションを作った。映画を一本作る金を会社との交渉でかちとって、キヌタ・プロダクションというのをね、僕はそこの経営者になっちゃった。そこで亀井文夫の『母なれば女なれば』を僕がカメラを回して撮ったんだ。山田五十鈴主演でね。
 亀井さんとは『戦ふ兵隊』以来の仲だし「順チャン、回せよ」てなことになって、ガッタガタのカメラで回した。製作費は四百万円くらいしかなくてね。これはとても公式主義的な、ソビエト映画を日本に置き換えたような映画が出来てしまった。その前に、今井正の、前進座と組んだ『どっこい生きている』、あれが独立プロ運動の第一回作品だったげど、その時出来た配給組織にのせて上映したわけ。収支決算はどうなっていたかよく分からないけど、なにがしかの資金を残して、次に亀井文夫の『女ひとり大地をいく』というスメドレーの小説とそっくりの題名の映画を、炭鉱労働組合にお金を出してもらって作ったわけ。釧路の太平洋炭鉱や夕張炭鉱をロケ現場にして、これも山田五十鈴主演でね。ロケ半年、完成までに一年かな、北海道に半年いたんだ。キャメラマンは仲沢半次郎。
 僕は製作をやらされていたけど一部分僕も回した。話はね、戦後の炭鉱で子どもを抱えて選炭場で働いているオバサンがいて、そこに争議が起こる、そのヤマに中国に抑留され、すっかり筋金入りになった労働者が復員で帰ってくる・・・これが宇野重吉。面白かったよ・・・宇野重吉が線路を歩いて帰ってくるという設定でね。パツパツパツパとSーが近づいてきて、かれはパーツと避けると汽車はパアーッと行く、チラッと見送ってまた線路に上がって汽車の後をトボトボと北海道に向かって歩いていく、というシーンをとったんだけどこれは悪くないね、これは(笑)。

 名キヤメラマン・三木茂のこと

 土本 瀬川さんみたいな骨がらみのキャメラマンが映画労働者として戦後の府余曲折をそのまま生きてこられた一方、戦中からキャメラマンとして劇映画とドキュメンタリー映画とを歩き分けて来られた。そんな歩き方には東宝映画文化映画部のたとえば三木茂さんや吉野馨治さんなんかの影響はありませんか。劇映画キャメラマンとしてある達成を見た人が記録映画の開拓をなされましたよね。ソビエトやイギリスのドキュメンタリー映画に触発を受けて。そういった先輩がおいででしょう?

 瀬川 あのね、厚木たかさんの訳でポール・ローサの『ドキュメンタリー映画』という本が出たでしょう、『戦ふ兵隊』が発表された頃に。僕がまだ駆けだしの撮影助手で西も東も分からない時分に出た本なんですよ。これを読まなければ一人前に扱われないような時代でしたよ。ちょっと読み返してみたんだけど、書かれていることの中で、キャメラマンについての部分は、違うなあと思った。こういうのね、「キャメラマンは雇われてきているんで、映画運動に参加しているわけではない」とね。これは違う。これは研究してみる必要がある、「映画運動とキャメラマン」というテーマでもよいからってね。

 土本 つまり「演出」というものの中でしかドキュメンタリー映画が論じられていなくて、キャメラマンは圏外にいると・・・

 瀬川 圏外にいる。これはキャメラマンというものはふだんは宣伝映画を撮ったり、写す仕事で商売をしている。ドキュメンタリーを作る時には呼んできてやってるのだ、だから「この連中は・・・」というように見ている。「脇」にいるわけだ。これは明らかに『水俣』のキャメラマンの大津(幸四郎)君や一之瀬(正史)とは違う。僕なんかは似ているけど(笑)。だからポール・ローサにしてもキャメラマンは記録映画の運動の中に組み込まれていなかった。しかしソビエトでは組み込んでいたんじゃないかと思うんだ。

 土本 ジガ・ブェルトフなんかまさにそうだよ。

 瀬川 そうそう、革命後、ソビエト社会主義の建設にキャメラマンたちは参加しているわけね、エイゼンシュテインと組んだテイツセにしてもウラジミル・ニールセンにしても、戦後のソビエト映画の名作のキャメラマンはみんな記録映画出身なんですよ。

 土本 三木茂さんなんかもソビエトの初期の建設記録映画『トゥルクシプ』を見てドキュメンタリーに興味を魅かれたと読んだ記憶がある。

 瀬川 僕もあの人には興味が尽きない。「三木さんは何故・・・」って。かれは一流のキャメラマンで溝口健二の映画では軟調の絵の名手で鳴らした人でしょ。ギャラも最高だし、そういう位置にあった三木茂(ミキシゲ)さんがその地位を捨てて、どうして記録映画の世界を選んだのかと、それが知りたくて今若い人たちとやっているキヤメラマンの「研究会」でも取り上げているんだ。トーキー時代になってからの『滝の白糸』(監督・溝口健二)や『おせん』(監督・石田民三)とかが最後でしょう・・・。

 土本 こんな独自がありますね。「私は劇映画で習得したあの自在なカメラの動きをドキュメンタリー映画に移したいと考えている。いままでの記録映画は、劇映画のもつ情緒とかカメラ固有の美しさ、ライティングというものが(生かされず)全く原始的であったし、それと逆に劇映画のなかにもドキュメンタリー的カメラを持ち込んでいいほど虚構的になってしまっている。僕は両方ともその試みを移しかえてみる事は、今の日本映画にとって決して無駄でないように思う・・・」(「三木茂映画譜」)。また記録映画作家の野田真吉の疑問に答えて「いまの劇映画ではキャメラマンは監督の絵づくりにただ奉仕する職人の域をでていない。ほとんどキャメラマンの創造的参加がシャットアウトされている。だが記録映画では腕の振いどころが充分にある・・・」。

 瀬川 あのね、僕はこう思うんだ。当時(昭和十年代初頭)の映画状況がある。劇映画の製作過程が非常に合理化されてきていたし、配給機構との関係もあると思うんだ。「何月何日の封切りまでに上げてくれ」って。でも当時は、いまのテレビの製作スケジュールのように役者のテツパリ(掛け持ち出演)はなかった。主役なんか抱きつきりだったし、監督も「イヤだ」といったらカメラを回さないということもあった。それが大きく変わった。キャメラマンにしてみりゃ現場主義の技術スタッフの中心として、一定のスケジュールのなかで、一定の予算で、一定のフィルムで合理的に仕上げることにはめ込まれてしまったんだね。だから、キャメラマンの感性とか技能が生き生きと作品に結集するということが、映画の製作の「仕組み」によって非常に不自由になったと思うんだよ。これはカナワンと思った・・・と。
 僕は溝口さんに一遍もついたことがないけど、三木茂さんは溝口組だろ。名匠ですよ。うまくいかないとセットのなかに座り込んじゃって駄々っ子みたいに動かない人だし(笑)。その間にあってキャメラマンは合理的な製作の仕組みにあわせなきゃならない立場と、それと芸術的な表現、つまり「表現の私有」の問題があると思うんだよ。三木茂さんはもっと映像の可能性の拡大を目指したんだと、僕は思っているわけ。
 よく批評家でも評論家でも、つい「土本のカメラは・・・」と書くだろう。だけどキャメラマンは厳然といるんだよな(笑)。記録映画にキャメラマンの存在が見えてきたのは三木茂さんの時代からで、大変なもんだと思うんだよ。
 三木さんは大正時代からやってきた人でしょ。昔はキャメラマンが一番偉い時代があったんですよ、写すのが大変だったから。話は簡単ですよ。監督がいくら威張ったって、監督じゃ写らないわけ(笑)。今の機械、便利になって、監督でも写せるんだよな(笑)。

 土本 いや瀬川さんと現場で撮影していると、いつ僕が「私有」しようかと汗かいている(笑)。ところでトーキーに移り変わった時代のキャメラマンの話ですが、羽仁進さんが岩波映画の吉野馨治さんから聞いたそうです、「どうして劇映画をやめて・・・」って。すると無声映画のころはキヤメラマンがフレームのなかで自由に構図を考えられた。トーキーになったら、録音機材のせいもあったでしょうけど、マイクが前に前にと出てきてやりにくくってしょうがないこともあって、と答えられたそうです。なるほど「トーキー式」映画がセールス・ポイントになった時代に自由をもとめて記録映画というか、文化映画を選ばれたんだなと思いましたよ。
 やはり日本の記録映画史の上で、東宝映画文化映画部の時期、狭くいえば亀井文夫の仕事、瀬川さんに即していえば『戦ふ兵隊』、キャメラマン三木茂、撮影助手瀬川順一なわけで、「記録映画とキャメラマン」といったテーマにも進んではどうでしょうか。
 瀬川 もう少し三木さんに拘泥してみたいわけ。例えば『滝の白糸』ね、泉鏡花の。その後の彼の『上海』とか『戦ふ兵隊』と比較すると同じキャメラマンが撮ったとは決して思えないほど異質なんだよ。『滝の白糸』は軟調の美しい映画ですよ。入江たか子の女手品師が学生にいれあげて・・・やがてその学生が検事に出世する、そして、自分に学資をだしてくれた女を裁く・・・つてあれです。それとすぐ後に撮った『黒い太陽』『上海』『戦ふ兵隊』はまるで人が生まれ変わったように違うわけ。「劇映画の技法をドキュメンタリーに活かし、記録映画のカメラはもっと劇映画に活かされるはず」って相対的なことをいっているけども、三木茂にとっては劇映画は反面教師だったと思うんです。劇映画にはいろんな約束事がある。入江たか子はあくまで締麗に撮らなければいけないわけだ。このスターで、このホン(脚本)、この監督でやればいくら興行収入があがるか、ちゃんと計算できる時代に、キャメラマンとして見事に対応した。そのあげくドキュメンタリーにいくわけだ。スター・システムのからみから自分を引きずりだしたというか、それが三木さんには解放だったと思うのね。だから、やがて自分で演出もしますよね。これが当然なんです。監督がいて「ああじゃない、こうじゃない」と言われても三木さんには出来ないわけですよ。で、亀井文夫ともぶつかって「ルーぺ論争」となる。ある葛藤がはじけるんですよ。

 亀井文夫・三木茂の論争

 土本 あれはちょうど「戦ふ兵隊」の後ですね、亀井さんが「キャメラマンはルーぺ(ファインダー)からしか物を見ない。それでは「目隠しされた馬」だ」(昭和十五年、『文化映画研究』)と発言したのに怒って、三木茂が反論しましたね。その中身は当時のキャメラマンの言わんとするところのそのものずばりだったようですね。亀井さん御本人に、亡くなる前に聞いたら亀井さんは「目隠しされた馬つてのは悪い意味で言ったんじゃないよ、それじゃあ、馬に悪いよ」って、禅問答みたいでしたけどね(笑)。三木茂さんの当時の筆鋒は僕が助監督時代に読んだらしばらく足腰が立たなかったろうと思ったほどですよ。「経験があろうがなかろうが、資格があろうがなかろうが、ともかく理屈のいえる人なら誰でも演出者になれるというのがこの世界の現状のようです・・・。ルーペから物を眺めるだけで六年~十年は掛かる。目隠しされた馬になるだけでも並々ならぬ苦労がいる」って、記録映画の「監督」なるものに迫っていますよ(笑)。僕も眼高手低というか観念的というか頭のなかでイメージを作って「これはちょっと望遠で・・・」などと言いかねなかったからね。三木さんは、「カメラで物を見せるという技術は、カメラのルーぺを心得ていなければ出来ないということを君たち(文化映画演出者)は知っているであろうか。そういう君たちこそ「目隠しされた馬しではないのか」という反論で、これには勝てない。あるいは「不滅のテーマ」かなと(笑)。

 瀬川 そう、「不滅のテーマ」というか、解決が無いんじゃない。つまりキャメラマンとしていえば「イヤなもの、写したくないものは、写したくない」んだ。監督なるものは権力者だと思ってもらっては困る。同じ人間だよ。舵は取ってもらいたい。しかし、撮りたくないものは撮りたくない。自分の感性にあった撮り方をしたい。それでどうも僕はこうなんだよ、現場であんたが首をかしげていようと、あんたがイヤなもんでも時に撮る。後で、酒飲んでカラまれると、いま揉めてんのはアノせいかな、なんて思うけど(笑)。
 『海とお月さまたち』の時だったかな、狙ってる中学生のバレーボールの撮影の時だ。あんたはボールにつけてカメラを振れというでしょう。そうすると忙しくてね。ボールはどこへいくか分からないし・・・。その中学生の漁師さんの子どもが大事なのね、だからカメラはじっとしててボールを待つ。来た。取る。相手が外したら、彼の表情がちょっと変わるとか、そういうふうに撮るべきだと思ってたのね。そうしたらあなたは「あっちだ、こっちだ」って。その時は言うことを聞いてあげようと思ったがうまくいかない。で、スイッチを土本さんに入れたり切ったりしてもらってカメラを振ってたら、なんだか猿まわしの猿みたいな気分になって(笑)。「馬鹿らしくって、こんなことできるか」って、「一之瀬君、撮ってよ」って、彼に撮ってもらったけど、覚えてないかな。

 土本 思い出した(笑)。僕は肉眼だけで勝負してた。申し訳ない(笑)。

 瀬川「カメラ・ルーぺ論争」は「論」の形をとっているけど、それには亀井さんと三木茂さんとの現場での葛藤があったんだ。『戦ふ兵隊』の時にね。あの当時皆若かった。亀井さんは三十一、二歳、三木さんは三十五歳でしょう。現場でこんなことがあった。
 あれは『戦ふ兵隊』というけれど、敵に向かって鉄砲を撃ってるのはヤラセで撮ってる。本当の最前線で”戦ふ”兵隊は写してないわけです。機関銃や大砲の音がドーン、ドーンときこえている後方に軍用トラックでさしかかると、小さな田んぼのある谷間で子どもたちが稲刈りをしていたんだ。十歳ぐらいの男の子とその弟や妹たち都合四人だったと思う。親は出てこれないんです。日本軍に捕まっちゃうから。稲は放っておけないからね、確か十月ごろでしたか。そこで亀井さんが「止まれ!」って。僕はパルボ(カメラ)をトラックから下ろして三脚を立てて準備していたんです。すると子どもたちがふうっと稲のなかで立ち上がったんですよ。僕らは皆カーキ色の服を着ているわけね、軍服じゃないけど、カーキ色のニツカボツカを穿いていた。子どもはやはり日本兵だと思うよな。それに見たこともない機械が三脚にのってて自分たちのほうに向いてるんだもの。で、弟や妹たちは兄ちゃんに寄り添って怯えてるわけ、で、逃げようとしたんです。そしたら亀井さんが一番年上の子を捕まえた。そうしたら子どもの顔が引きつってね、もう・・・。「三木君、これを写せよ、これを写せよ」。そうしたら三木さん、気が動転してしまって写せないんです。「三木君、早く、早く撮れよ」って。「亀井君、君の手も入るじゃないか。そんなもの撮れないよ」って言ってるわけ。
 その時、亀井さんは怯えている中国の子どもの顔を撮りたかった。それだけが欲しかった。だから抱きかかえた。三木さんはびっくりして撮れなかった。とうとう写せなかった。あの人は助手にはキツイけど戦場で大砲の音の聞こえるところではブルブル、ブルブル震えてね、恥も外聞もなく怯えてしまう。臆病丸出しなんだ。「なんとだらしのないキャメラマンだ」とその時は思ったよ。「回せばいいのに」って。
 その晩、宿舎に帰ってからそこで始まった、論争が。三木さんは「亀井君、きみはエゴイストだ。よくあんな残酷な事ができるな」って。亀井さんは「いや、そうじゃない。絶対に撮るべきだ」と言うわけ。僕は聞いてて「俺なら撮るな」と思ってた。それからの二人の論争は細かなことからすべてのことにわたるわけ。「撮るか、撮らないか」についてね。
 ありていに言えば三木さんは撮れなかったと思う。亀井さんのいう「それが必要なら回すべきだ」というのは正論でしょ。正論だと思うでしょ。あなたも経験があるでしょう。例えば水俣の悲惨な・・・とくに子どもさんなんかにカメラを向けるときにね。僕も原爆の被爆者にカメラ向けたことがあるんだけれども、お医者さんは「ハイ、撮りなさい」って、着ているものをピヤツと捲るんだけどさ、その時「ごめんなさい」という気持ち、ドキツとしてね。そんなズケズケと撮っていいものかと思うことがあるでしょう。三木さんはそういう時に回せなかった人なんですよ。「回せないものは回せない」、このことを含めて「カメラ・ルーぺ論争」はあったと思うのね。ルーペのなかで考え悩み抜いているキャメラマンというものを知れ、ということがあったんじゃないかな。
 『戦ふ兵隊』のあの映像は実に優れている。しかしホンは軍部に出したシノプシス(梗概)だけ、亀井さんが書いた罫紙に四、五枚のもの、それを見たってどんな映画ができるか見当のつけようもないものです。それで現場にいくわけでしょう。しかも亀井さんはアメーバー赤痢にかかっちゃって上海の病院に入院、ロケの現場責任の大半は三木さんにかかっちゃった。
 で、三木さんは、というと自分が見て感動したものだけを撮っている。僕はそれまでは劇映画の撮影部育ちの助手だったからね、一つのカットを撮ったらその前後関係のカットを、とか、記録映画だからストーリーとまではいかないけども、「絵」の流れを繋げるカットを撮るとか、いろんな約束事がありますね。三木さんは全くそれを無視して自分の感動したものだけを撮ってくわけです、断片、断片を。それを帰ってから亀井さんが編集したんです。もっともところどころヤラセはあります。その辺のお百姓の爺さんをつれてきて、祠を拝んでもらったり、カメラを見なさいってそのアップを撮ったり、農家の壁に銃弾のあたるのを兵隊さんに頼んで、弾がパツパッ、パツパツと飛ぶのを撮ったりね。ヤラセですけど約束事じゃないんです。ほとんどのカットは戦場で見たもの、考えたものを拾ったものなんですね。病馬が荒野で倒れるシーンなんかもたまたまそうして拾ったもんです。「あっ、記録映画ってこういうものか」「現実の中には宝物がいっぱいあるなあ」と思ったわけ。それでちゃんと映画が出来るんだ・・・。僕は「これはひょっとしてキャメラマンになれるかな」って思ったんです。三木さんから学んだものはそれでしたね。
 当時の外国のドキュメンタリー映画ではロバート・フラハーティの『アラン』ね。波の締麗な映画でね。あれはやっぱりキャメラマンの映画ですね。いまでは波を望遠レンズで撮るのは常識ですげど、海も浜辺もみな望遠で撮ってる。男たち漁師が荒海にボートを出す、海っぷちで女房子どもが待っている・・・。大波にポートが沈んで、しばらくしてチャプンと浮き上がって来る、それを望遠で見事に撮って。波はまるで音楽が映像になったような映画だった。僕なんかあれの影響が大きいね。あれと三木茂の影響ね。
 
 鉄を役者に仕立てて撮った、『日本の鉄鋼』

 土本 瀬川さんの劇映画の仕事は『ジャコ万と鉄』とか『銀嶺の果て』で見ていたわけですげど、瀬川さんのドキュメンタリーの映像を初めてとっくりと見たのはあなたの岩波映画の『日本の鉄鋼』だったんですね。それを見てから初仕事の九州は八幡製鉄のロケ現場に行った。初対面で挨拶したら「ああ、全学連の人ですね」って、それだけ。つんのめってしまったけど(笑)。

 瀬川 いやあ、ロケ宿にまるで刑事コロンボみたいによれよれのレインコートにハンチングかぶって。僕人見知りのたちだからあれだったけど全学連にはある慣れをもってましたよ(笑い)。

 土本 僕も瀬川さんがあの東宝大争議のって、知ってましたよ。だから、『日本の鉄鋼』を見る前に正直いってこう思っていた。「共産党員が大独占資本の映画を撮ってる」ってことはどういうことか。どんな撮り方をしているんだろうかつてね。自分もサヨクの出身だから敏感だったのかもしれないけど。独占資本の謳歌だったらという危慎がありましたよ(笑)。ところが吉野馨治さんも誰彼もみんな「あれはいいよ」というでしょう。僕も見終えて「ああよかった」と妙に安堵したんです。「鉄」の映画だったからです。
 鉄つてなんと蠱惑的なんだろうと思ってしまう。蠱惑的というのは鉄そのものより撮り方、見せ方なのね。キャメラマンが鉄と一緒に踊っているような、お手々つないでダンスしているような映画でね。鉄が走ればカメラも走り、鉄が焼ければ、自分も熱くなるような、つまり鉄とカメラの詩といったものなんだなあ。資本のパワーでも、工場の設備の説明でもないのね。やっぱり瀬川さんは鉄を女優さんだと思ってる(笑)、スターだと思ってる。だから鉄にトラック・アップしていく感じなんかは、ヒロインが物を言おうとするときに絶妙なタイミングで寄っていくカメラ・ワークのようでね。「擬人法」かなあ、それだけではないですね。瀬川さんの衝動とも生理ともいえる美意識が働いているんだなと思ったんです。

 瀬川 それはそうだよ。役者のようにしよう、擬人法でって撮ってたね。あれを撮る前に他人の撮ったPR映画を見たら、なんにも面白くなかったのね。これじゃあ駄目だと思ったのね。本当は当時の僕としては働いている人がどんなふうに一生懸命やっているかを写したかった。けれどもそれは岩波映画もスポンサーも要求するところではないんだな。それでも写すには写したよ。例えば圧延されたばかりの鋼板にちょこんと弁当箱がのっかつてたり、余熱で昼弁当を温めているのね。面白いなと思って撮ったけどそういうのはどんどんクレームがついて外されるわけ。それなら徹底的に鉄を撮ろう。鉄の映像美みたいなものを撮ろうと思ったんです。

 土本 こういうふうに想像してたわけ。「鉄」のPR映画でもないかぎり、鉄をこんなに自由に思う存分撮れるチャンスはまたとない。大資本、大工場をステージ、セット、大道具、小道具に変えてやりたい放題やると。つまり「資本に負けていないんだ」と。僕はともかく映画の現場は初めてだったから、目を皿のようにして見てましたよ(笑)。大体、製鉄工程のラインは隙間なくガチガチに装置が詰め込まれていますよね。そこにクレーンから、移動車、撮影用エレベーターで割り込んでね、あるいは跨っちゃって撮っている。この根性というのは、ある種「転向」と闘っているからではないか(笑)。「転向」に対する括抗というか、「独占資本の映画をやっているが、俺は俺の映画を撮る。この俺を見よ」という宣言映画のような気がしたのね(笑)。

 瀬川 いやあ、「独占資本の寵児」って言われたよ(笑)。これが岩波映画の支えにもなって、僕も二、三年これでメシ食ったんだよね。それまで、さっき話したように、争議やってて仕事も出来ない、したがって一銭もお金が入ってこない生活がこれで潤ったのね。先輩の吉野馨治さんに救ってもらってさ。「しかし、俺はこんなことやってていいのかな」って、あんたが入ってきた時分に酒のみながらやってたんだよな(笑)。

 土本 また「擬人法」に戻るけど、文字、文章で書ける擬人法は確実にありますよね。「鉄はあたかも何々のようだ」とか「何々に見える」といった・・・。だけど映画は違うのね。即物的な凝視、発見で、即物的なものに忠実であればあるほど、そのキャメラワークに人間が浮かび上がってくるといったような・・・物を人間に擬して描くんではなく、強いて擬人的なものを造形してそれに人間的なリリシズムを重ね謳うんでなくて、瀬川さんの場合は、鉄を見詰めたときの破廉恥なまでの興奮とか対象そのものに憑かれたようになるとか、それをどう映像表現するかで悩んだりする、そういう瀬川さん自身の擬人法だとおもうけど。またそういう「擬人法」が工場を撮影所のセットに変えちゃった・・・(笑)。

 凝視にたえる映像

 瀬川 僕の仕事の中身はなにかということなんだけれども、それは「戦ふ兵隊」からPR映画、それに土本さんなんかとやったりした今日まで、変わらないのは、とにかく観客がジィーッとスクリーンを見てギユツと凝視する。その凝視に耐える絵を撮らなければ駄目だということなんだ。亀井さんでもあんたでもカットを短く切っちゃうからね、本当に切り刻むからさあ、そんなことをさせないよというような(笑)・・・、十分間見せたってちゃんと見られるような絵を撮ってやろうと思ってき。
 「凝視に耐える絵」っていうのは何かというとね、人の顔なら顔、物なら物、なんにせよやっぱり質感なんだよね。人間の質感の場合、ニキビができているとかシワがあるとかいう具体的な質感だけじゃなく、もっと内面的な質感までね、撮りたいんだ。それをどう撮るか、何ミリのレンズで、どのアングルから、どういう光線で撮ったらというね・・・。記録映画にはいろんな現場的制約があるでしょう。しかし人間の顔を撮っているとき「今だ」というときがあるでしょ。そういうところがどうしてもキャメラマンを辞められないところでね。来た、来た、来たって(笑)。
 いま恰好の例を思い出したよ。あんたの『水俣の図・物語』でね、チッソ排水口近くの百間港のところで、丸木位里さんと俊さんが埠頭に赤い毛布を敷いて石を重しにして、水俣湾の恋路島をスケッチしているのを撮ったね。もの凄い逆光だった。ギャーッとくるんですよ。海もギラギラ反射して。位里さんの後ろ姿がいい、手にした筆がシルエットで見事に浮いてね。ここから回すかなと思ってたら、土本さんがね「ジィーッと見ている位里さんの眼鏡の脇から眼鏡のタマ越しに向こうの海と島を撮れ」って言ったね。位里さんの見た目というのかね。ところがそのためにはカメラは位里さんのほっペたにくっつくところまで持っていかなくちゃならないんだ。滅茶苦茶なんですよ。「こいつ、また変なことを言い始めたな」と思ったけど(笑)、まあやってみようと思った。で、眼鏡にピント合わせたらね、位里さんのこめかみのところの白髪がぐっと見えてきた。逆光の海に位里さんの年輪が映ったんです。あれは見事な絵になった。あの時は逆らわないで撮ってよかった(笑)。
 つまりこれはうまくいった例だけども、演出家との間には葛藤がなきゃね。そりゃいい演出家とやりたいよ。僕は撮ったものは演出家にわたす。そこまででいいんです。そのシーンを確実に読み取って欲しい、に尽きます。そりゃ、録音、構成、音楽といろいろあるし、そこが映画の面白いところでしょ。それぞれが映画を私有すべきなんだ。縄張り争いみたいなことになったとしてもだよ。現場的にはときに異質な、ときに邪魔なことだってありますよ、キャメラマンには。エイゼンシユテインがねーこれは宮島義勇さんからの聞き覚えなんだけれども、そのモンタージュ論にね「まず現場的に最初の障害はキャメラマンである」って(笑)。これは大事なことですよ。つまり演出家との間でも葛藤をいかに展開し、いかに克服するか、つまりアウフヘーベン(矛盾統一)するか(笑)。僕にいわせれば撮影を本当に「私有」させてくれというわけ。「共有」ということをよく言うね、あんたも書くね「スタッフの共有」ってこととかさ。「共有」ってことは、皆でともに持つことじゃなくて、皆が一つの事を私有することだろ。だからキャメラマンの「私有」も許してもらいたい。そうすることによって、キャメラマンはいい仕事をするよ、生き生きするよ。なぜならキヤメラマンつてのは何かといつも闘つてなきゃね。「初めに、現場に葛藤あれ」かな(笑)。

 土本 演出の足場が壮絶にバラバラにされていくようだけれども(笑)。瀬川さんの仕事についた後、テレビドキュメンタリーにせよ、自分で演出する日のために、スタッフのことは一番考えましたね。キャメラマン、録音なんかと演出との関係をどうつくっていくか。皆で「青の会」という、まあ「がぶ飲み集団」だったけれども、そこで映像を各パートで徹底的に分析しあう、そのなかで「共有」の核を探っていくということに没頭した時期があったんです。劇映画ならシナリオというか、「鉄のコンテ」(カット割り)で各ポジションの表現の狙いを集中的にしていくんでしょうが、ドキュメンタリーの場合、現場での感じ方や物事の発見は当然各人各様なわけでしょ、話やテーマは分かっているにしてもね。それをシナリオやコンテに固めきれないわけ。とくにPR映画の場合なんかその文字面では変哲のないものでも、絵で言いたいとなると、シナリオ主義にはなれないんですよ。変な言い方ですけど、こちらの底意がバレちゃうから(笑)。面従腹背なんだ。

 瀬川 ハラにイチモツあるわけだ。

 土本 イチモツねえ(笑)。まあいいや。つまり現場での、やりたい幅というか、変更のキャパシティーを少しでも残したいと思うわけね。狡いんだなあ、そこが。で、スタッフとはロケさきで喋りあって共通のイメージを作る。それがまたキャメラマンや助監督のアイデアでワクワクするほど膨らんでくる。これがなんともドキュメンタリーの醍醐味でね。うまくいくと怖いほどの絵になる。ところが現場で急に気が変わって「それじゃなかった、これだった」となるとキャメラマンを困らせるわけね。でもその気紛れに何かあると思って執着する。その現場変更というか、迷いが僕には多すぎる。申し訳ないといつも悩むんですけどね。迷いを引きずりながら言ってんだから。

 瀬川 それはねあんたの言う通りだよ。前の晩の打ち合わせが翌日ガラッと変わるっていうのは、ドキュメンタリーでは当たり前の話でね。「現場に行って、この男どう変わるだろう」って(笑)。変わるか変わらないか・・・そのことに興味をもたなきゃ。そして、その時、俺はどうするかと思わないと。だからこそキャメラマンは自立していなきゃいけないんです。監督に隷属しちゃいけないんです(笑)。ガラッと変わる楽しみも大いにあるんだよキャメラマンには(笑)。

 土本 半分ぐらい安心しました(笑)。いや、またまた怖くなったかな。
 (一九八八年一月四日 採録 土本)