ドキュメンタリーの精神 亀井文夫/土本典昭 対談 『講座 日本映画第5巻 戦後映画の展開』 初版1月14日 岩波書店 <1987年(昭62)>
ドキュメンタリーの精神 亀井文夫/土本典昭 対談 『講座 日本映画第5巻戦後映画の展開』 初版1月14日 岩波書店

PR映画しか撮っていない

土本 亀井さんの時代とは比べようのない次元の話ですが、僕なんかがドキュメンタリーを撮りはじめたときは、昭和三二、三年ですからね、もうPR映画以外撮らせられない、まともに自分のやりたいことはなかなかできない、そこをどうするか、そんな僕たちのつくり手としておかれた制約と表現の葛藤を重ねますと、戦争の時代によくここまでやられたなという感じがしました。『戦ふ兵隊』を一〇年早く見ていたら、僕の映画のつくり方は変わったろうと思うぐらい、ああ、何と回り道しちゃったんだろうという感じが、手法的にもしましたね。

亀井 その点はおんなじだね。僕もつまりPR映画以外にやったことないような気がする。『戦ふ兵隊』は国策PR映画でしょう。その前は東京電燈の『電源地帯』とか。PR映画だと、こっちが暴れ回っても、土俵からはみ出さないようにみんな気をくばってくれるから、気楽なわけです。だからそういう点では、PR映画であるからこそ、個人の自由な発想というものを、何とかして出そうという気になるわけだ。
 そういう点で、よくいうけれども、ハングリーというのはある意味では、自己主張を助長してくれる。だけど、外側のしめつけが限度を越したときには、もうそれはできないわけです。八分通りまではできるけれども、徹底的にしめつけられだした場合には、これはやめなければいかんということになる。 僕はいつも、軍人でも何でも、スポンサーと仲良くなっちゃう。そして仲良くなると軍人が人間になっちゃうわけだ。たとえば、『戦ふ兵隊』の中に出てくる田中軍吉という前線の中隊長ね、あれとも非常に仲良くなって、「亀井君とおれとの違いは天皇のあるなしだけだ。あとはみんな同じ人間族だ」というんです。つまり皇国社会主義だというんです。あの男は戦争中に髪を切らなかったように、ちょっと破天荒なんだね。
 彼はある日突然除隊になってー将校の場合も除隊というのかな、日本へ帰ってきて、大きなポスターや、レコードをつくって、それを持って、アメリカへ乗りこんだんです。『戦ふ兵隊』に出た後・・・。

土本 だから太平洋戦争の起きる前ですね。

亀井 そうそう。それで、アメリカへ行って演説会を開いた。レコードをならしながら、ポスター張ってね。そうするとアメリカのジャーナリストが集まってきて、日本は南方に野心があるのではないかと質問するわけ。要するに石油資源を確保するという日本の戦略をちゃんと踏まえた質問をするわけです。いや、そんなこと絶対ない、南方なんか行かない、日本の狙っているのはここだといって、アメリカを指すみたいな非常に挑発的なことを言ったり、そういう、まあ変わり者というか、アブノーマルな人なんですよ。
 漢口が陥落したというときに、花束かなんか持って町の中を歩いていましたよ。それで音楽会をやってやろうかとぼくら撮影班にいうんですよ。ほう、音楽会いいじゃないかというので、それで軍楽隊のシーンを最後のほうで写したんですがね。

中国人を敵と思わない

土本 『戦ふ兵隊』にしても、『上海』にしても、中国民衆の許さざるまなざしをカギにして、軍の上層とか、作戦の英雄じゃなくて、中国の現地の農民の一カットの表情とか、兵隊の描写も一番現場の兵卒をにらんで全体の構成にひろげていくといった一番理解したい、つかみ出したい対象をいつもベースに置いておられるような気がしましたですね。

亀井 ぼくは中国人を敵だと思ってないんですよ、一口にいえば。やられているほうの痛さがわかるから。敵・味方意識は、いくらあおられてもなかなか出てこないんですよ。

映画は組み立てだ

土本 亀井さんの『戦ふ兵隊』とか『上海』以前、東宝第二製作部(のち東宝文化映画部)時代、監督は必ずしもロケに行かなくて、構成者が自分の意図で映画を構成編集していくということが一般的だったのでしょうか。

亀井 それはやっぱり両方あったんじゃないかね。自分で行って撮る必要はあるかどうかといえば、やっぱり行かないのは不安ですよ。僕は「砂川闘争」に行って実感したんだけれども、何万人という人間の叫び声だの何だの、現場というのは喧燥の中にあるわけです。しかし、そいつを写して帰ってくると案外喧燥はないわけですよ。それで、あ、こんなんじゃなかった、もっと迫力があったはずなのに、というでしょう。そこに基本があると思った。
 ドキュメンタリーに限らず、映画の場合では、撮った一つ一つのカットを組み立てによってどういう建築にもできるみたいに、材料の組み立ての一つの部品だという考え方が強いんです。だから、だれが撮ってきたって、それは部品として生きるし、予定しないで撮ってきたものは、別なところへ使えるというふうに考える。
 一番必要なのは、その撮ってきたカットにキャラクターがあることです。だから、三木シゲ(茂)が撮ってきた『上海』のカットはほんとにみなメソメソしているんですよ。それで東宝のプロデューサーや、重役たちががっくりいったわけよ。勇ましいのを期待してたから。ラッシュの試写を見たときに、「大丈夫だ」と僕は大きな声で言ったんだ。というのはカットにキャラクターがあるわけです。戦争の悲しい画面がたくさんあったから、やっぱり戦争をエレジーとして見る僕の気持ちにぴったりだった。これれはうまくいくということを言ったら、みんな安心したわけです。安心したのは逆だったのかもしれないけれども。

ドキュメンタリーと現場

土本 さっきの質問ともつなげたいのですが、たとえば伊勢長之助という編集の方に少し教わったのですが、おれは現場にいないはうがいいんだ、写ったもので自分が判断できる。だけど、現場を知らなきゃいけないからたまには現場へ行って、ジツと腕をこまねいて対象を見ている。だけど、演出には一切タッチしない。それがおれの流儀だとおっしゃっていた。それが東宝の記録映画のころからの、一つの編集者としての流れとして受けとっていました。亀井さんはキャメラマンの撮った絵は編集にとってのいわば部品とおっしゃったけれども、キャメラマンの個性のできる限り濃いものを撮ってきてもらって、自分の編集台の上でまたひとつ再創造するというようなことが、一つの流儀としてそのころおありになったのかどうか。

亀井 そういう感じはあったんですね。というのは、モンタージュというものを非常に重要視したんです。一般にその当時の日本映画界はモンタージュということに対してあまり理解してなかった。特殊な編集の間の効果みたいなもの、余韻みたいなものを言っている傾向があった。
 僕はそうじゃなくて、モンタージュというのは要するに編集だ、組み立てだ。A>Bとつなぐか、B>Aとつなぐかで効果の違いが出てくる。それで実験してみるとまさにそうなんですよ。笑っている顔を、悲しいモンタージュの中に入れてみると、泣いた感じがするわけだ。ここらはみんな経験していると思う。あるいは、若い夫婦が子供を火葬場へミカン箱へ入れて連れていくなんていうのは、よく当時プロレタリア文学なんかにあって、そのときに空はものすごく青かったとすると、この青さというのは本来生の喜びでありながら、その二人にとっては悲しみの透明なものだというふうにとれるでしょう。だから、置き場所によって違うわけ。
 確かにいろいろな喜びのはずのクローズアップを、編集すると悲しく見えるわけです。以前成瀬巳喜男の映画を映画館に途中から入ってみた。そうしたらさっぱり乗れないんです。感動がないんですよ。感性に訴えてこない。役者のアラだけが見える。だけども、せっかく金出して入ったのだから、頭の部分だけ見ようと思って、もう一度見た。次の上映のときには映画の中にはいれた。こっちのほうで感情が鳴りだすわけです。鑑賞者の頭の中の琴の糸が響き出す。そうなると響きを、ただチョンチョンと、成瀬巳喜男は、ちょっと力を加える程度のことで、そこには何らりきまなくても、こっちが勝手にどんどんイマジネーションを働かして、非常に心を打たれた経験があるわけです。
 一本の映画の途中から見ようと頭から見ようと、感動が全部映画のワンカットの中に投入され、含有されて、実在しているものなら、それが強く感情を打つはずでしょう。そうじゃないところをみると、カットというものの中にあるのは、ありきたりな普遍的な素材で、伊勢長(伊勢長之助君は学生の頃から、映画青年としてぼくのところで手伝ってもらっていたんです)がもしそういうことを言ったんなら、伊勢長は現場へ行かないでキャメラマンが撮ってきたカットを、観客大衆の一人としてみて、ああこれはかわいそうなシーンだとか、あるいはカットだと思った場合には、ほかの人もそう思うだろうということで、感じ方の一つの共通点を発見できるから、行かないというのも、モンタージュを考える場合、悪くはないということじゃないのかな。でも、それが主流ということはないでしょう。

『上海』の方法

土本 『上海』というのはそのときの撮影のスケールからいっても、作品のスケールからいっても、力を入れたシャシンだと思いますが、そのときに演出家を派遣するというような制作の意図はなかったのでしょうか。それから『戦ふ兵隊』のときには亀井さんは現場に行かれたという、その二作の違いはどのへんなのでしょうね。

亀井 『上海』の企画を持ち込んできたのは、松井翠声という売れっ子の弁士なんです。あれは戦争ジャーナリストのはしりですよ。上海で戦争が起こったというんで飛んでいって、いろいろなエピソードを取材して、写真入れて、小さな本を出したんです。そして東宝へ飛んできて、こういう上海ルポの映画つくったら当たるというようなことを言ってきた。そうすると、じや早速というようなことで、あのころの東宝の場合には、何かしら雰囲気としては劇映画が非常に中途半端だったんじゃないかな。むしろドキュメンタリーみたいなものをみんなが望んでいたんじゃないかしら。三木茂なんかも劇映画をたくさんやっていたんですが、それが東宝へ移ってきたのは、東宝がああいうものをやっているからなんだと自分でよくいってましたけど、やっぱりそういう憧れがあったようですよ。それで『上海』という企画を、会社ですぐやる気になったんでしょう。当然それは国策映画として。
 東宝の内部の雰囲気からいうと、重役の森岩雄自身がリベラリストですよ。僕は森岩雄によくいわれたですが、政治家が汚職しても国を誤ることはないけれども、軍人が政治に口を出したら国を傾けると。そういう点で、軍国的な風潮に反対していた。僕もいい気になって、そんな気持ちでいたんだけども、そのうちに、大体フィルムの配給制とかなんとかいうことが起こってくると、どうしても国策の方向へ向かわざるをえなくなったでしょぅ。ですから、僕は、これからはそういう勝手な考え方をもっていたら無理だ、やっぱり気をつけたほうがいいとたしなめられていましたけどね、森さんに。
 僕はそのときの体験でいまでも忘れられないんだけれども、『上海』の企画会議のときに、森さんはずうっと海外を回ってきて、そして上海へくるとホッとする、それで軍艦旗を見ると涙がこぼれるという。つまりアメリカからヨーロッパを回ってくると、当時は日本人というのは軽蔑されていたわけだよ。差別されていた。それで上海へきて初めて自分、たちの祖国の旗が翻っていて、自分たちも羽を伸ばせるというので、涙が出るというんだ。そこで「軍艦旗を見て涙が出るというのは支那人のほうじゃないですか」って、僕が言ったら、そうしたら、シーンとしらけちゃってね。
 そして、じゃどういうのを撮るかということになってきたら、ジャーナリズムにしょっちゅう取り上げられている問題、爆弾三勇士の塔とか、毎日のように新聞のエピソードに出てくるようないわば戦場のスター的名跡があるんです。そういうものをみな撮ってくればいいんだといった。僕は撮ってくるものを原稿紙に個条書きに、いわゆるシナリオじゃなくて羅列して書いたわけですよ。それは翻ると、日本人のもっているひとつのセンチメンタルな感性的な面を拾いあげたわけよ。赤い夕陽にというようなね。そういうものだったらいくらでも発表できるしね。そうしたら三木茂さんが一生懸命そういうものを撮ってきたわけですよ、えんえんとね。壊れた建物だとか、卒塔婆があっちにもこっちにも立っていたり、ただ、理由なくバーツと撮ってきているわけよ。
 そういうカット群を組立てることで、僕は一番最初、戦場の中に、自分自身が個人として埋没するのではなくて、戦場をもっと俯瞰的に見るような編集をしたいと思った。そして時の流れというものをあらわそうとして、まず導入部に上海埠頭に大きくつきだしている税関の時計を撮ってきたのがあったから、それを二度使うことを考えた。文字盤が真昼の時刻を指してる。地区が燃えてる。次も時計台のコピーで同じ時刻を指してる。その時の流れの間に廃墟になっている。それで時というものはこれほど変化させるものだということを表わした。戦争の中に埋没するのではなくて、戦争をむしろ芭蕉みたいな感じで出して、プロローグを設定した。それから後はできるだけ克明に上海というものの政治的な複雑な姿を示す。そしてその中に日本軍がいかに苦心してもがき苦しんだかを考えさせる。一〇一部隊という予後備の老兵たちの運命を考えさせる。一番生きのいいのはまだ使わなかったんだ。召集兵は真夜中に、あっちもこっちも地図もわからないところへほうり出される。しかも相手はすごいトーチカから何からうまく築城したところへ、ほんとに何というか餌を送るような形で日本兵が突撃していく状態。それを見ると、ほんとに日本の兵隊の哀れさというものを感じると同時に、中国人の異様なほど国民的に結集して日本軍を迎え撃っている徹底抗戦の構えが感じられる。

東宝のリベラリズム

土本 当時の東宝はわりとそういった意味では、自由なやり方がまだ可能だったわけですか。

亀井 東宝は映画会社の中では一番リベラリズムが残っていたんだ。だから、僕が辞めさせられるときも、法外な退職金くれたよ。

土本 つまり所望されたんですか。

亀井 いやいや、辞めてくれないかというんですよ。もうこういう時代になってきて、風当たりも強いからと。そのかわり特別に、君の退職金だけで重役会開いて決定するから、という。それで重役の一人がうちへそれを持って、頭下げて、辞めてくれないかという。結構ですと、世話になったんだしね。
 『戦ふ兵隊』がダメになったときも、金指さんという記録映画のほうの重役さんが、僕をアラスカという一流のレストランへ招待してくれて、ご苦労だったといって、責めなかったよ。
 その点では、現在の東宝のほうがはるかに政治的ですよ。というのは、いっとき東宝は争議を中心にして、非常に政治的になったから、それの反動でね。だから、いまでも僕ら東宝にとっては戦犯かもしれないよ。
 戦前の進歩勢力に対する日本の反動というのは、食うだけは人間だから必要だということで、食うだけのことをいろいろ心配してくれた。その点は、何というかな、敵に塩を送るという風潮が残っていたんだ。やっぱりひとつの民族的な仲間意識があったわけだよね。ところが、アメリカが占領して、多民族のほんとに階級社会の先鋭化したものを持ち込んだ。ことにレッド・パージのときは干乾し作戦を主張したんです。食えなくしてやるのが一番降伏させるのにいい。すぐ経済政策でしめつけということをやる。

火葬のシーンはなくなった

土本 『戦ふ兵隊』を三、四回見せていただいて、これ、どこか切られていませんか。亀井さんが何かに書いておられた兵の屍を焼くところが・・・。

亀井 あすこないんだよ。あれ、どうしてなくなったのかね、僕もわからないんだ。

土本 夜の駐屯地の室内のシーンで、ろうそくの下で兵隊が死んだ戦友の奥さんからの手紙を読んでいるその前へんにあったようなのに・・・。

亀井 うん、あの間へ入っていたんです。画面はそれほどむずかしくないんですがね。

土本 あのメラメラというのは、外の火葬の炎?

亀井 外の風景ですよ。兵隊が芝や枯れ枝をたくさん集めてきて、そこへ死体を乗せてあるんですよ。最初画面は真っ暗なんです、そうすると「君が代」が歌い出される。この「君が代」がまたいいんですよ、ハスキーでね、調子っぱずれでさ、いかにも、泥くさい兵隊の歌だからね。野戦的なね。そして歌いだすと、兵隊が火をつけていくの。火がボーッと燃えると、十数名の戦友たちの捧げ銃の姿がシルエットで現われる。パチパチパチパチッと木の枝がハゼるんですよ。もちろん焼いているのが本物の死体なんです。中隊長が、これがほんとの皇国軍人の火葬だといっていた。彼の発想らしかったね。あれどうしてなくなったのか経過は僕は知らないんだ。

土本 あったらすさまじいでしょうね。

亀井 そのパチパチパチパチッて火の粉がはぜて、それでシルエットに出てくるところが、なかなか格好いい、いただきなんだよ。映画の組立てのプロポーションとしては、前半のヤマが馬の死ぬところ、そしてこの火葬が映画全体のヤマ場ですから大事なシーンだったのですが・・・。

音の問題

土本 その音の点でも、非常に勉強させてもらったんですが、シンクロカメラ使えるようになったのは、僕一五年ぐらい前からですよ。あの当時の技術水準からいうと、機材が大変だったと思うのですが、現場に音でも、自分の表現の領域をちゃんともとうというふうに意図的に同時録音を、難儀でももっていこうと設計されたのですか。

亀井 簡便な録音機なんかむろんない時代です。でも苦にしなかったですよ。録音機もっていけるということだけでね。

土本 キャメラより重たいでしょう。

亀井 キャメラより重いよ。だけど、スタッフが四人がかりで運んでいった。それを戦場へもっていったわけだ。それは、ここが大事なんですよ。いまの人はやらないんですよ、便利でないと。つまり便利なものがない時代は、人間の力でどれだけのことができるか、できる範囲のことをやろうという気になるから、苦にしないでもっていった。たとえばロバの鳴くシーンというのは、揚子江の戦闘に参加した人たちはみな記憶に残っているわけだけれど、変な鳴き声なんですよ、気持ちの悪い、ガッグッガッグッというようなね。それで、ロバはいつ鳴くかわからないでしょう。藤井慎一君が録音だけど、あの人は機械屋さんなの。現地へ行ってから故障したときに、ミキサーじゃ手におえないだろうというので、機械屋が録音に行ったわけです。枕許の寝ているところへスイッチだけおいて、全部セットして、ウトウトしながら、鳴いたときに回すと自動的に音がとれるように、自動装置を考えて、ほかの人は寝ていたけれども。だから、工夫いろいろするよ、僕ら。

土本 移動撮影なんかもお聞きしたかったんですが、何回も移動がございましたね。

亀井 あれは人力車を戦場で拾ってきてね、助手の瀬川君が曳くんだよ。まず、占領地へ行くと、都会だったらたいてい人力車がおちているんですよ。タイヤなんかないんだよね。だけども、そいつをまず拾って、そこへ機材を乗せて、ただ歩く。きょうはあそこを撮影しょうなんていうんじゃなくて。目に入った適当なシーンをひろい撮りする。焼けた後の人力車だから、スポークというのかな、こういうのが柔らかになっているから、ちょっと角度を悪くひくとぐちゃぐちゃっとつぶれてしまう。そういう人力車に移動撮影のときは三木茂が乗って、それを瀬川君が引く。撮影所の完備したところでやるようなことを、現地でどれだけのことをできるかということを工夫するわけよ。うまくいかなくたってもともとだということでね。

土本 そばに鉄路がありまして、トロッコでもつけて移動したのかなと思って・・・。

亀井 『上海』のときはそう。

土本 『上海』はそうでしたね、明らかにそれはわかるようになっていました。そのときの録音のシステムは、キャメラと同調するようなシステムだったのですね。

亀井 音だけをとったり、上で映像、下で録音か、シングルというやつ。シングルの場合は、帰ってきてから音だけを一旦は分離するわけだ。そのあとでダビングする。

土本 その音を絶対に不可欠のものとされた中には、ナレーションなんかで語ったりなんかじゃなくて、現地の絵と音と、それで伝えようという方法的な掛け算が相当意識されていたのですか。

亀井 そういうことじゃなく、トーキーだから音をとったほうがいいというだけのことと、もう一つは音と絵との対位法、コントラプンクトというか、それは必要なもの、つまり絵は明らかに一つの表面に出た現象だけれども、その本音を伝えるのに音が必要だという場合に音を、そういうことだから、音はあったほうがいいという考え方は頭からある。

土本 『上海』のときもそうですか。なんかシンクロがありましたね。

言葉の問題

亀井 『上海』のときのシンクロは、「海の荒鷲」なんかのところです。あれは一人一人みなあの当時は新聞ダネのスターですよ。そいつが顔を出してくるだけでも、国民の関心をひくから、その連中がしゃべるのを、三木茂が写したんだけれども、いかにも、あれこそ”やらせ”だよ。それで”やらせ”がよくわかるわけですよ。だからワザと使った。
 捕虜尋問で「食事は満足しているか」というと「満足です」とかね。いろいろ言いたいことをちゃんと言わせているでしょう。その”言わせ”をそのまま、これはなかにはわからない人があるかもしれないが、たいていわかるでしょう。しかし、その後で、チラツとでもと思って探して食事の場面を出すわけだ。そうすると箸つけない兵隊がいるわけですよ。そういうのを、いまだったらあすこだけ拡大して、アップにするところだけれども、アップにすると、これはダメだからね。
 なぜそんなことまでしてまで撮ったかというと、みんな真剣に見てくれるんだ、その当時の映画観客というのはね。いまの映画観客というのは、退屈だったらみんな眠っちゃうでしょう。あのころは、自分の親が、あるいは兄弟が、あるいは友人が、この中にいやしないかとか、そんなことを考えながら内地では見ているから、実によく深読みしてくれる、裏読みというのかな。
 だからこっちはあまりよけいなこといわなくたって、読んでくれるから、それでこっちは、”物言えばくちびる寒し秋の風”、なるべく言わないほうがいい。しかし言わないでも観客をある方向へ誘導したい、悲しい方向へ誘導したいと思うなら、それに近いような短いスタイルとかが必要だ。『上海』のときも非常に短い言葉にした。あれは松井翠声が読んだけれども、彼はどっちかというと、オシャベリの多い弁士だが、なるべくしゃべらせないで、ただ「登校の時間です」とか、一言ぐらい言う。そうしたら、これはまたつむじ曲がりというか何というか、当時の批評家は、松井君が抑えに抑えてなかなかかえっていいとかなんとか言ってたけど。しゃべると雰囲気が違ってくるでしょう。効果がちがってくるでしょう。
 それを『戦ふ兵隊』のときはもうしゃべらなくしちゃったわけよ。それでタイトルだけにして。タイトルの言葉を読むと必ずしも悪くないわけよ。まずメインタイトルが「戦ふ兵隊」でしょう。だれも文句いえないわけですよ。そういうふうに文句いえないような言葉をずっと並べて・・・。「大君の辺にこそ死なめーという言葉を思うとき、兵隊の感情は美しく昂揚する」とかね。兵隊自身は自分のやっていることに対する大義名分というか、確信が、ほかにないわけだよ。だから兵隊はあの言葉をたよりに生きていたわけだ。これは考えてみれば大変なむごいことだけれども、しかしこれもすべて自分のためじゃないんだ、大君のためにやっているのだ、崇高なことを自分はやっているのだ、というので自己暗示をかけながら兵隊はずうっと行動していたわけでしょう。しかし、その自己暗示が、現地で個人として生活しているとしょっちゅう崩れるわけだ。そして人間兵隊が出てくる。だから、そういう自己暗示をかけながら、自分を励ましていながらも崩れていくというところに、日本の兵隊の本質があるという考え方で、あれはあれでいいと。あすこで下手なことを言うよりは、どっかへ引きつけておかなければいけないからというのであれをやった。あれはやっぱり文句言えないわけだよ、検閲もね。

事前検閲はなかった

土本 あれは字幕の言葉は検閲はあったのですか。

亀井 いや、言葉一つ一つには何もいってないよ。

土本 事前検閲というのは、あの時代にはまだなかった?

亀井 ないない。だから、タテマエはいい言葉をね。本音はご想像にまかせるよ、といった風にね。

土本 『戦ふ兵隊』で廬山とか、ああいったほんとに奥底深い風景に「歴史の一頁を刻んでいる」というような、戦いすらその一頁にすぎぬ、中国はまた元の歴史に戻るだろうみたいな暗示が、大変にこう・・・。

亀井 そうです。若干向こうが気にしたのは、兵隊は名誉を思わないとかね。軍人というのは名誉を最大の目的にしなければいけない。ところが、もう名誉を思わない、疲れちゃって、ただ眠りたいだけだ、名誉なんかないと最初に書いたんだよ。だけど、それじゃちょっとね・・・。

土本 それは残ってるんじゃないですか。

亀井 いやいや、それで「兵隊は荒涼とした戦場を超えてきたのだ」というようなことをつけ加えて、だからもうジーツと秋草にたわむれる蝶の姿を見つめてる兵隊の顔で印象づける。その点は、大変考えたね。上手に魚釣る餌を考えるみたいなもんでね。それが愉快なんだ。あの映画は『肉弾』の桜井忠温なんていう軍人も絶賛してくれた。

再現シーンの臨場感

土本 その点でまた聞いて確かめてみたいのですが、例の前線の中隊の作戦を引きのショットで撮っておられますね。ともかく人の出入りが自然で、室の外も音がちゃんと録られているのか、外の兵士たちのやりとりも聞こえてきて、室内にもアクションを引き起こすわけで、僕は再現シーンだとしても、非常にやる人が全部わかってやっているというか、伝令にしても臨場感がありました。あれはどういう演出されたのか・・・。

亀井 演出じゃないんですよね。僕はあれをやる前に、二とう口の飛行場というところへ行っていた。そこに戦闘司令所というのがあるんですよ。これはあれよりもっと簡単なテントのね。飛行機がワーツとおりてくるでしょう。そうするとそこへきて、こうやって偵察機なら偵察機が、「ただいまどこそこで支那軍の軍用列車がどっちの方向に向かっているのを、しばらくついていった」ということを報告するわけです。僕もそばで聞いていて、ちゃんと情況わかるように言う。そうすると「それは何時何分か」というと「何時何分」。「いまから行ったら十分にどこそこあたりで追跡できるな」「できます」「じゃすぐ行け」なんていって、そいつを聞いていると、飛行機で自分で行ったよりもよく整理してわかるわけよ。あ、これラジオドラマじゃないかと思ったわけよ。何もカット切り刻んで迫力出さなくたって、じっくりと考えてもらえばいいんだと。それで田中軍吉中隊長に戦闘日誌というのを見せろといったんです。それを見ると、とても出入りの多い部分があるんだよ。ここを再現できるかといったら、任しておけというんです。それで僕のほうでは、キャメラだけをうごかすから、あとは勝手にやってくれといって、全部勝手にやったの、連中が。つまりあの連中の体験したそのものなんだよ。だからそれはわかっているんだよ、兵隊の一人一人が。その中に負けた場面の状況もある。「三角山はとられました」とかなんとかいうとこね、これがいいわけだよ、戦闘日誌読んでてもね。ドラマになるわけだよ。勝った勝ったじゃないからね。中隊長が「三角山は?」ときく。「三角山はとられました」「敵は?」「二銃」というのは最初みんなわからなかったんだけども、要するに二丁ということだ。二つ。「二銃ある」「チェッコか」。

土本 僕は二〇丁あるのかと思ったな。

亀井 そういう銃の数え方。それを言っているわけだ。そして「撃っています」というんだよ。「どの程度だ」「むちゃくちゃに撃ってます」なんていっているのが、田中角栄の「ヨシャ」みたいに、その状況でなきゃ出てこないセリフだから、これそのままでいいからといって、そのままやっているの。だから、これを”やらせ”といえば”やらせ”だ。つまり映画というような一つの表現手段は、しばしば虚構の上に成り立っているわけだよ、残像。リアリズムとはいいながらも、その手法は、このごろの言葉でいえばメディアというのかな、これは虚構の上に成り立っている。つまり観客の一つのイマジネーションをたよりにしているわけだよ。あれはまた観客の体験に火をつける、琴を鳴らすようなというのかな、そういうイマジネーションを非常に重要視している。それがわれわれ日本人の映画だということを僕はしょっちゅう言っていたけど。
 僕らの映画はお客の中へ種をまいていく、そういう映画だということで、あくまでお客の鑑賞能力、機能というものを一〇〇パーセント動員するということだから、客のイマジネーションを非常に重要視する、それをたよりにしている。だから、家畜化された人間にはちょっと通用しない映画だけれどもね。しかし、そういう映画が日本映画の中で主流であるべきだというようなことを、昔から唱えていたわけだよ。エッセイにそんなのよく書いた。こっちが考えた以上にもっとオーバーに感じてくれる人も少くない。

印象に残る農婦の顔

土本 部隊が去ったあとのシーンで農家の普通の生活が始まって、農婦がうしろすがたで、髪をくしけずっていたり、そういう描写はよくわかるのですが、農民の真正面のクローズアップが、至近距離で撮られているとか、それからボケていても、子犬を抱く子供のカットを使うとか。日本の兵隊を撮るのとは全く違ったフィーリングが撮るほうにあったのではないか。すまないという気持ちもあるんだけども、そういうコミュニケーションもなりたたないでしょうし、その不安定さが不思議に印象に残るんですが、ああいうのを撮るときの感じはどんなふうだったんでしょうか。

亀井 いままでのニュース映画は日本兵の一部分しか伝えてないから、こっちが何か特別なことを伝えたことになるわけだ。要するにニュース映画が偏見なんですよ。だから、偏見を捨てれば当然出てくる素材ですよ。国策のプロパガンダというのは、それを偏見によって組み立てるわけだね。その偏見を捨てただけのことでね。偏見は日本映画館にはあり余っているから、偏見じゃないものを送る気になったわけです。それだけのことでね。
 戦争中にプレスコードがあったっていうんだよね。火野葦平が何かに書いていたらしい。こういうものは出しちゃいけないという一つの枠がね。これは文学者に対するレポートを対象にして出来ていたのだけれども、映画だって同じ制限をうけるわけです。一、負けているところを書くなというんです。二は、戦争の暗い面を書くな。三は、作戦の全貌を書くな。四は、部隊の編成、部隊名を明示するな。五、敵をいやらしく書け。六、軍人の人間としての表現は困る、というんだ。これはおもしろいよね。部隊長以下は別として、それ以上は、つまり部隊長以下のものは人間としてちょっとした過ちやなんかあってもいいけれども、部隊長以上の軍人を書く場合には、人格高潔にして勇敢でなければならない。だから女々しかったり、勇気のない連隊長なんかがあってはいけない。こういうものがあれば、そういうふうに思える画面があれば全部切ってしまえということ。七、女を書くな。これはおそらくは二つの女だと思う。つまり中国の女性を強姦するということは日常的なわけだし、それをできるだけ防止するためにパンパンというか、ピー屋というんだね。当時の言葉では。ピー屋をみな連れて行くんですよ。そして性的な充足を兵隊に与えるんだけれども、これを書いてほいけない。これはみんな知っているかどうか、朝鮮人と日本人の女と両方を連れていく。日本人の女は主として天草辺りの芸者、もっぱら将校用。それから朝鮮人の女は、朝鮮の愚連隊みたいな頭が女たちを狩り集めてきて、みんなにふとんを背負わせて上陸してくるんだよ。部屋は全部軍の部というのがちゃんとつくって、ベッドなんかもつくって、このクッションいいぞとかなんとかいいながらね。だからピー屋の設営は兵隊にとっては最も楽しい一瞬だったけれども、こういうものは出してはいけない。
 そんなようなのが幾つかあるんだけれども、考えてみると『戦ふ兵隊』は全部コードにひっかかっているんだよね。僕は知らなかったんだ、こういうものがあるということは。これだけのものがあるということを知っていたら、またやりにくかったろうね。

ピントは後であわせろ

土本 キャメラマンの三木さんと、キャメラ・ルーペ論争というのがあったそうですが。意図的に三木さんも論争を挑んだという話を、御本人も書いておられるのですが、あれはかなり長続きした論争なんですか。

亀井 そうでもないですよ、三月ぐらいじゃないかな。要するにルーペ論ということは、当時のキャメラマンの習慣として、カメラのフレームに切って現象を見るわけだ。実際は、さっきも話したように臨場感というか、現場というものは四方八方いろいろなものが影響し合っている。ところが、キャメラマンというのは絵になるとかなんとかとルーペでものを見ているから一面的になりがちだ。それを裏から見、表から見てそいつを統一するのが演出家じゃないかと。そのときに言葉が走って、キャメラマンを「目隠しされた馬のようだ」と言った、その「馬」がよくなかったわけだ。馬だと言ったので、カッカしたわけでしょう。
 僕は、映画のつくり方というのは、かなり広範なものの中から一つの本質を抽出してくる仕事なんだから、現代のキャメラマンはもっと現象の本質に迫ってほしいと願っていたから、あんなことを言ったわけだ。そうしたら、彼にいわせれば、演出家だといったって、映画なんかつくれる技能なんか持ってないのが少なくないというわけですよ。それは確かに非常に低かったわけだ。彼はフィルムを扱っている点では、非常にすぐれた技能をもった大ベテランだ、当時のね。だから、彼は現実の問題として反発したくなるだろうけど、僕はもっと広範な意味で言っているというようなことだったんじゃないかな。だから、彼はその言葉は否定はしてないんだよ。だけど、そいつをいいことにされたんじゃかなわねえということなんだよ。相当ひでえこと言ってたよ。

土本 その点で、僕なんかもキャメラマンのもっている感性というか、視覚的な感覚、そういったものにものすごく期待を大きくかけるほうなんです。ことばに表現できないけど、こういうのを撮っておいてくれということがあって、しかしキャメラマンとしては説明がなければ撮れないとか、いろいろなこともあるのですが、映画のように複数の人間でつくる以上は、特にドキュメンタリーのように編集の最後において「映画」となるような性質のものでは、キャメラマンと監督との関係をどのように見ていくかというのは、どういうふうにお考えでしょうか。

亀井 僕はぼけたフィルムでも使うというんだけど、これは決定的チャンスというのは、ドキュメンタリーの中でも重要な姿勢だよね。決定的シャッターチャンスをつかむために、僕はだからキャメラマンに、ことに助手さんなんかに撮影してからピント合わせろという。

土本 ああ、シュートしてから。

亀井 うん、シュートしてから。これはそんなバカなことというわけだけれども、それほど決定的な瞬間をとらえるということは、そういう素早さがないとできない。だから、たまたまとらえたのがぼけていても、それが一つのキャラクターをもっているのだったら、これは使えばいいのだ。ところが、ぼかしたというだけで、キャメラマンの減点幾つになるというわけで、そんなもの使ってもらっちゃ困るとキャメラマンはいいがちなんだ。しかし、いや、キャメラ美だけのために映画つくっているんじゃないんだということで、僕は使うわけですよ。そういうことでよくキャメラマンとやり合ったこともあるけどね。
 そこで一つ大事なことだけれども、監督だって、何から何までわかるから監督だというんじゃなくて、趣味も偏っている場合だってあるんだ。しかし、僕の場合は、撮りたいものだけ、これだけは撮ってくれといって、それを撮り終わって、何か君が撮りたいものがあったら撮っておいてくれという。そうするとキャメラマンがこういうのはどうだろう、そう、いいじゃないのといって撮ってもらう。使えるか使えないかわからない。しかし、それはキャメラマンがそこでまた一つの材料を増やしてくれたわけだから、編集のときにこれを生かすことを考えると、たいてい生きてくるんだよ。だから、お互いに制限するんじゃなくて、お互いに豊富にするという共存なんだよな、ここで。競争じゃなくて共存の原理になってくるんだよな、両者の関係は。

劇映画の演出

土本 私は東宝砧撮影所に近い祖師谷に住んでいたんですよ。東宝争議の時なんかしょっちゅう遊びに行ったりしていました。そのときに亀井さんの現場はぜんぜん違うと。つまり劇映画の演出をやっておられたとき、やり方がプロの演出家や、巨匠みたいな、そういう人とぜんぜん違うという話をチラッと小耳にはさんで、記録映画やっていた人は、やはりスタジオの中で縦構造の中で仕事をしてきた人と、ぜんぜん演出方法が違うものだなと感じたんですが、そのへんはドキュメンタリー出身でありながら劇映画をおやりになって、どんなふうでございましたか。

亀井 違うというのは、蒲田が生んだ一つの監督スタイルは権力支配だからね。たとえば有名な溝口健二の武蔵野のススキというやつね。武蔵野のススキでなきゃダメだってセットに入ってから、小道具にいちゃもんつけるわけですよ。溝口監督がそういうことを言ったのはつまり演出プランを深めるための考える時間をほしかったためでしょう。あの人は現場で俳優も並んで、セットもできて、いわゆる立ち稽古の段階まできてないとイメージがなかなか決まらないわけだ。そうすると武蔵野のススキとか、この茶碗は仁清でなきゃダメだとかね。映像になって仁清の本物と二セモノを区別することはできないよ。骨董の中で二セモノが八割横行しているんだからね。彼らにいわせりゃ、ホンモノだということだと役者が緊張する。だから、そういう意味で真剣のほうが緊張させる。じゃ、こんなこと言っていたら、殺すときどうするんだ。やっぱりそれらしく見せることで処理してるじゃないか。
 さっきから映画は絵空事だといっているのは、残像をつなぎ合わせて動いているみたいに見ているけれども、映画は一コマ一コマはひとつも動いてないわけです。そういう錯覚を起こしている。さっきのモンタージュ論じゃないけれども、泣いている顔と笑っている顔とどっちでもいいと、極端にいえば。
 そこのところでちょっと補足するんだけれども、モンタージュ論というのは、カットカットに分解したときの話で、カットカットに分解しないで総合したカットがあるわけだよ、シーンが。当然その中にはコンフリクトというのか、対立があるわけだよ。そいつを分解していると対立しないものだけが残ってくるわけだよ。だから、シーンの中では対立はあるから、それは俳優がその気になると、俳優の腹の中が役に生きるというか、スタニスラフスキーだよな、それはあるんだよ、確かに。何とも言えない、どこだか知らないけども本物のような味わいのあるところが出る。だから、それを狙うのは非常にいいことだけれども、基本的には錯覚だということだと、武蔵野のススキも大体において本物でなくていい。本物のごとく見せるところに監督のマジシャンの才能が機能するわけだから。溝口監督はいつも時間稼ぎなんだと思うね。時間稼ぎして悪いわけはないよ、考えに考えるんだから。だけど、そのときにほかのことにこじつけるというのは、映画界ではよくあるわけだよ。撮ってきたものが悪いと、天気が悪かったら天気のセイにする。だったら待っていりゃいいじゃないか。だけども予算があるからと。おれだったら、雨の日なら、雨を生かせばいい、脚本書き直したっていいじゃないか。できるだけやって、それでできなければダメだし、金を使うよりも頭を使うのが先じゃないかというようなことまで言うわけです。
 そういう意味で、時間稼ぎをやっているということを考えると、まあ絵空事やりながら楽しんでいるという範囲で、もうそれ以上許されないのだったらそれでいいんじゃないか。態度としてはそんなところじゃないかな。
 だけど、よそはすごい権力主義支配だったようだか、僕らの場合には一番大事なところは、スタッフがある意味では同レベルで一つの仕事に参加するんだけれども、目的は一つだということで、どうだろうねえ、演出の方法として違うというのだったら、そういうところから出てくる違いじゃないかな。

日本ドキュメント・フィルム時代

土本 日本ドキュメント・フィルムというプロダクションをやって、一九六〇年頃に『人間みな兄弟』あたりをつくられた、その後、経営のためにPR映画もつくられたと思うんです。僕は亀井さんのさしあたってできることから撮っていくという手作りのようないまのつくり方が納得がいくのですが、いくらプロダクションが民主的でもプロダクションには採算ということがあるでしょう。そういうことで、いい映画をつくるために、みんな我慢してPR映画つくっていても、それがローテーション化せざるをえなくなってきたり、持続を考えると、どこにもあるような逼迫がくるわけですね、経済的な拘束が。そのことについての見きわめというか、はやばやと決断されたというか、映画を辞めようと思われたときの思いはいかがでしたか。

亀井 日本ドキュメント・フィルムというプロダクションをやったとき、僕は最初から、これは露店商だと宣言したわけだ。最初からつぶれないプロダクションをやろうということで、だから封筒もつくるなというわけだよ。判こなんかは最小限要るけれども、普通一般の人々はすぐ封筒にプロダクションの名前を刷って、格好つけるでしょう。それよりは中身でお客をとったほうがいいからと。そうしたら、大阪の電通が仕事の半分ぐらいを僕に背負わしちゃった。僕はしょっちゅう大阪へ行って、スポンサー回りするわけだ。もちろん電通がちゃんと献立していてくれたんだろうが、本ぎまりになるのは、僕が行って、スポンサーの重役だの何だのの前で、こういう映画でどうの、内容のことを言ったりなんかしながら、五人ぐらいの電通のスタッフがそばにいて、ときどき相槌をうって、それで決まっちゃうんです。その当時PR映画というものはすごく儲かった。大体半分は楽に、粗利が出たわけだ。
 そのときに、いまの自分とスポンサーとの関係はどうかというと、たとえばある会社のPR映画を受ける。そうして会社の現状はこういうわけだときくと、それを一〇倍ぐらいいい会社のイメージをつくっちゃう。そうすると、その重役たちが見て、うちの会社はこんなにはよくないなといっても、ニヤニヤして黙っているわけだよ。従業員たちも、なんかすげえいい会社だなというわけだよ。つまり一つの理想の形象をつくる。その会社にケチつけたりしないんだよ。
 そういうことをしてPR映画やったんだけど、しかし、トップが承認するとそれでいいんだけど、ある時期になってきて、CIとか何とかいう運動が起こって、各メンバーが自主的なアイディアを発揮して・・・。

土本 自己提案制度かな

亀井 ああ、そうそう。それを主張している担当者がいて、それの言うようにやったら、今度はトップがこういうのはおもしろくないと言い出したんだ。最初はものすごくトップが喜んだんだよ。ところが担当者が提案したものを取り入れてやったら、僕がおもしろくないのをつくったみたいにいわれて、じゃ直しましょうといって直したら、今度はトップは喜んだけれども、担当者はおもしろくないわけよ。結局そこはうまくいかなくなった。
 そういうのが幾つもあって、どうもこれはPR映画では扱いきれない、といって一方では、社会的なテーマもダメだということになってくると、八方ふさがりだよ。だからここでさらばということで、ちょうどうちの娘婿がひきついでもいいと言うので、そっちへ全部任しちゃって、日本ドキユメント・フィルムの仕事から遠去かった。
 それよりは儲けがうんとある商売にぶつかった。画や骨董が儲かるんだ。あんな儲かるものないよ。ビックリした。素人が絵を商売にして、金庫の中へ札が入らないほど儲かった。踏んづけて金庫の扉を閉めるんだ。そういう時代があった。そのとき僕は骨董に手を出したんだよ。あれはギャンブルだ。株屋がやっていた仕事に参加したわけだ。

映画づくりを辞めた

土本 ドキュメンタリーとしては『人間みな兄弟』(一九六〇)を最後に、そういった映画をおつくりにならなくなりましたが、ちょっとお辞めになるには早すぎるのではないかという感じが当時しきりにしましたが。

亀井 そうね、早すぎるというより、一口にいえば、自信がなくなったんだよね。われわれの時代というのは階級闘争というものが重要な第一義的な課題だったわけですよ。階級を均衡化することによって大衆の生活というものを安定の方向にもっていかれるということは、それを聞いたときに大変なフレッシュな感銘を受けた。だから、マルクスボーイなんていうようなものまであらわれた。マルクスボーイじゃないと、あいつ頭が悪いんだといわれちゃう時代だ。僕もマルクスボーイだよね。ところが、いろいろなことを考えているうちに、やっぱりたとえば僕はモスコーへ行っていて、大げさなメーデーとかなんとかいうことになってくると、なんかピンとこないわけだ。もうひとつ人間的なものの欲求がある。だけども、体制としてはいまはこれでいいということね。
 もう一つ、革命家というのがいたわけだ。革命家というものを非常に感動的な、そういぅ点で信仰に近い、神のごとく思っていた。ことに非合法の革命家なんていうと神のごとく純粋でね。河上肇も非合法活動している人たちに対する態度を一目おいて書いているんだね。これなんかほんとによかった。たいていの知識人というのは、もぐっている連中に対してやっぱり一目置いていたよ。ところが、僕らの友達なんかもぐっているのが、立派だなと思っていたけれども、だんだん性根出してくると、まあ普通なんだよね。そういうことで、普通だとわかるまでにはだいぶ時間かかったんだよ。やっぱりひとつのイメージをもっていたわけだよ、勝手な。当人たちにとってはあたりまえなことなのに、他人が神格化して、またそれに裏切られたような感じをもつとかもたないとかというのは変なことだということで。 この中で一番ショックだったのは中ソ対立だよ。毛沢東とスターリンが会談した写真なんかを自分の部屋へ飾っておいて、スターリン批判だ何だといってもおろさなかったよ。ところが、中ソで戦争始めたわけだよ。一枚岩といわれたのが、そんなに細分化されて、というのは、僕が信じていたことは、敵はバラバラになって、味方は団結するというのが、反対になってしまった。何でこんなバカなことをやるんだろうと、考えた結果、人間そのものが欠陥動物なのではないか、と気がついた。人間というものと人間以外の生物を比較するようになった。
 もともと僕は、人間以外の生物に、映画でも『戦ふ兵隊』でも、いろいろな生物、それこそチョウチョからコウリャンの植物までが戦争という嵐に巻き込まれて苦しんでいるというふうに描いてあるように、非常に関心はあったわけだ。だけど、ランクとしてどっちが上でどっちが下だというと、やっぱり人間のほうが上だと思っていた。それが崩れちゃったわけだ。
 原爆をつくったよりつくらないほうがよかったのではないか。何で原爆をつくって、自分たち人類を苦しめる機械をつくって、それが文明として、あるいは知恵として上なのかというと、価値判断が違うのじゃないかというふうに思い出したんだ。

『生物みなトモダチ』

土本 いまつくられている『生物みなトモダチ』は、二六年ぶりのドキュメンタリー映画ですね。

亀井 いま核兵器で大変な時代になったんで、最後の発言というんだな、辞世というのかな、そういう映画を計画したんですよ。
 いまの核兵器は広島、長崎ぐらいの量で使っていると五〇〇年間使えるぐらいを蓄積したとかなんとかといって、五回地球の生物を殺すことになるらしい。僕は一回で足りないらしいのがフシギなんだ。あとの二回目からだれが一体それをつかうのか。そういう時代になってきたら、ここらで人間様よ、もう少し客観的立場で考えてみたらどうですかというんだ。やっぱり人間の大脳の働きというものには限界はあるわけだ。たとえば文明も過剰になってくると災難になる。文明の初期にはこっちも楽しみもしたけれども、それを文明は進むほどいいんだという考え方をいまだにもっている。二一世紀は、何もしなくても口の中へ餌が入ってくるみたいなことをいって。
 しかし核問題は、資本主義、社会主義の枠を乗りこえた次元で考えなくてはならない。核兵器を自分でつくって自分でもて余しているということは、人間の愚かさの表現でしかないし、無駄である。その無駄を一番貴めなきゃいけないわけだ。こいつは最高のテーマだと思う。その差し迫ったテーマを後回しにして、路地裏の愛情をどうのこうのいったって始まらない。路地裏の愛情までそいつは響いてきているんだからさ。
 だから、みんなが取り上げる筈のテーマだから、僕はただ口火を切ったパイオニアみたいなもんだけれども、もう年齢からいっても最後だろうから、ここで言っておきたいと、それだけのことで、これはね。
 子供のとき僕は、地球は冷えてくるという、やがて生物は人間もダメになってくる、そんなことを教わった。いま、マグマのどろどろの上層に、人工の都市を築いてこれがおれの土地だと喜んでいるわれわれ。不安の象徴のような超高層ビル群を建てて得意になってる人間生物。いまの科学至上主義やハイテクを尺度にしているのではダメだ。地球だとか、生物だとかのもっている自然界の尺度みたいものをものさしにしてやらなければならない。だから、今度の映画は大げさなことをいっているようだけれども、最後に締め括りがあるんです。人間万事腹八分というか、八分通りに抑えておけと。例の酒の話「初めに人が酒を飲み、中ごろ酒が酒を飲み、しまいに酒が人を飲む」酒に飲まれる酒なんかというのは、たくさんだというふうに生きようじゃないかということを言おうとしているんです。

土本 いま不知火海を撮っていまして、海は死んだと何べんも人にいわれた不知火海で、生物は何とか蘇ろうとしているのを映画の中に少しずつ取り込もうと思っているのですが、結局僕はこういうふうに思うのです。人と自然との関係が第一義ですね。しかし、僕のできるのは、その自然を手掛りにして人と人とが生きなければならない、そういうことに気づいた人々を撮るのがいまおもしろい。どうも口では、魚だとか、生物だとか、微生物だとか、蘇りだとかいっても、そういうのをやろうと思えば撮れる条件がそろっているのに、そっちへ頭がいかない。やっぱり人間にいっちゃうというところが、僕のいまのカベなんですけどね。

人間は生物だ

亀井 人間は特殊な生物じゃない。生物にはランクはないわけだ。自然界では人間も自然界の構成物質だ、ということだから、人間を、見つめようとすれば、当然のことだが人間以外のかかわりの深いものから、だんだんかかわりがないようでいて、実はかかわりがあるもののほうへ目が向いていく。人間以外に自然の空間が別にあって、そこへ人間が出入りするというものじゃなくて、人間も自然の一部分だから、人間研究ということは自然研究でもあるという、そうしてくると初めて人間が山川の中でずいぶんバカなことをしているということが見えてくるわけで、原子力発電所事故で、世界じゅうの人がそれをわかりつつあるんだと思う。

土本 今度の映画はそういったテーマセあるだけに、どういう人たちがこれを、我が身をもって感づいてくれるか。その映画の巻き起こす何かというのが非常に興味ありますね。

亀井 巻き起こしてくれるといいけれども、おそらくは耳を貸さないほうが多いかもしれない。だけども、いま貸さなくても、あっ、あんなこといつか見たことがあるなという、みんなの脳の中にそういう種だけは残したいなというわけです。