実写映画を見る 『講座 日本映画第1巻 日本映画の誕生』 初版10月23日 岩波書店
実写映画の時代
「初期のドキュメンタリーをみる」が与えられたテーマだ。だが「ドキュメンタリー」ということばじたい、後年のフラハティ『ナヌーク』(一九二〇)やグリアースン『流網船』(一九二九)の頃からつかわれだしたことばらしく、記録映画という言い方もカメラマン白井茂によれば関東大震災の記録を氏自身の手でとったあたりから、ニュース映画よりもうひとつスケールをひろげた作品性をもつものとして想到されたようだ。
本章の前半にのべる明治・大正初期のそれは、一般に「実写」活動写真、活動屋仲間では「出来ごと映画」と言われていた。いまふりかえって実写映画がドキュメンタリー映画の概念にはまるかどうか、私には大いに疑問である。
この時期のものとして私のみたもののうち『旅順開城と乃木将軍』や後年それをリメイクした『不滅乃木』(撮影は明治三八(一九〇五)年と思われる)や明治三二(一八九九)年にフランス人の撮った『明治の日本』、明治四五(一九一ニ)年発表の『日本南極探険』、大正四(一九一五)年の『大正天皇御大典』映画などがいわば初期ものにあたるだろう。共通するのは無声映画で一秒十六駒のフィルム回転速度でとられたもので、字幕なしか、あってもごく初歩的なものである。明治・大正時代のものをそのまま初期とはひっくくれないし、「昭和のドキュメンタリー」なるものもない。映画の発達史は連続的なものである。国家、企業などの社会的需要によって波打っており、その社会的背景を色濃く反映しているものだからである。
これらのフィルムを見るには国立フィルムセンター(東京・京橋)に申込むか、特別企画による一般公開をまつしかない。私が本稿のためにその一連の代表作品を見られたのは幸いであった。だが率直にいって、明治のフィルムから明治の時代、明治時代の映画的営みを追体験してみるということはむつかしかった。この眼でしかとつかもうとするのだが、トコトコと画面は流れる。むしろ、幕末の志士の写真や近年、一般から愛蔵写真をあつめた『日本百年写真館』(朝日新聞社刊)の方が静止画像であるために眼でディテールが拾える。むろんこれらの映画も現実の事象を撮ったものに違いなく、レンズはあますところなく街や人物を写しているのだが、それが動くためにかえって非現実に見えてしまうのである。
まず一秒一六駒という当時のフィルムの撮影スピードを、当時のまま一六駒で上映するのではなく今日の映写機にかけて一秒二四駒で上映するために、すべての動き、カットの長さがいやおうなく三分の二に縮められる。そのため初期のチャップリン映画のようにすべてが喜劇映画風のテンポになってしまう。画面の人物のうごきや街の流れを読みとる前に、まずその動きや流れの滑稽さに気をとられてしまうのだ。当時はそれを一六駒で上映したために通じあつたであろう時間感覚が、いまの機械的規格、二四駒と人工的な変換がなされていることで、一からげに「サイレント映画」の時代感覚に染められる。当時の時間が再現されないのだ。
この時間・テンポの狂いをいくら大脳で調整しようとしても、それは全く不可能である。映画は時間芸術でもある。その調整不可能の強制力こそ映画の魔性である。これが後年意図的なコマ落しやハイスピードなどのトリックが発明されていったのだ。私には明治の時間、テンポ、リズムがつかめなかった。さらに、無理のない話だが物理的な損害がひどい。画面のすり傷やクランク・スピード(手まわしのフィルム送り動作の速さ)のむら、それに現象のむらが加わると、あらかじめ珍品骨董の類いをみる、好事家の心境になる。動きやよごれは別としても、写された芸事や芸能などが、解説ぬきでは了解しがたい条件で撮られている。
芝居と映画
日本映画史によれば、リュミエール兄弟のシネマトグラフが大阪南地演舞場で公開されたのが明治三〇(一八九七)年一月、エジソンのヴアイタスコープが東京歌舞伎座で公開されたのがその年の二月、その二年後、明治三二(一八九九)年に芸者の手踊りや歌舞伎『紅葉狩』『二人道成寺』が撮影され、これが日本で初めての映画となったという。
『紅葉狩』(明治三二)は見ていないが、仏人技師ジュレールによる『明治の日本』にも、同じような歌舞伎の所作事がとられている。『紅葉狩』などと同様、庭にまん幕を張った一隅で歌舞伎が演じられているのだが、舞台、いわゆる板の上の芝居ではなく、花道もない。舞台の広さが定められているわけでもなく、背景や装置もないところで演じられるのだから、およそ様式美も出るべくもない。そのうえ、所作は駒落しとなっているので、あれよあれよという間に一幕がドタバタのうちに終る。二重にデフォルメされているのだ。
当時、フィルム感度が低いことからくる苦肉の策であることは当然である。だが大蝋燭であかりをともされた舞台でこそ効果を生んだ所作、衣装、くまどり化粧も白日のもとでは花見酒の余興としか見えない。フランス人カメラマンの眼でとらえられたお茶のおてまえも、芸者の手踊も、座敷や茶屋の中で行われてこそふさわしい興趣が、日なたの縁側や玄関先の庭に場を移して演じられるのだから、ただでさえ平べったい化粧をした芸者の顔も白いお面のように見え、茶道のこまやかさも子供のままごと風に矮小化されざるを得ない。筋立てのある剣劇ものなどならまだしも、身についた芸の表現であれば、これではぶちこわしである。揺籃期の映画の試みとして、芸能、芝居、狂言を記録することから「劇」映画が発想されたに違いなく、マキノ雅弘自伝『映画渡世・天の巻』によれば、明治四二(一九〇九)年、牧野省三が尾上松之助の「狐忠信」の実写をもって活動写真『碁盤忠信』を撮ったという。このときも、板の上の芝居、つまり舞台あってこそ役者の芝居と信じ、土の上の芝居は乞食の芸、役者の堕落と大いに尻込みする松之助に、省三は撮影場所の京都・大超寺境内の「土の上に」一面ござを敷いて、これが舞台となだめたという。
すでにその一〇年まえに、歌舞伎の名優のおどりの型を残すべく九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎の『紅葉狩』などが実写されている。
だが、何といっても当時の人びとの耳目をひいたのは戦争の実写であった。明治三三(一九〇〇)年の北清事変に柴田常吉、深谷駒吉が現地に派遣され、一〇本のフィルムが錦輝館その他で公開され、つづいて日露戦争映画(明治三八)が受けに受けたという。それは人物を配した風景、戦場空間の活写にすぎないものではあったが。
『明治の日本』
それにひきかえ『明治の日本』には風俗と人間がうつされている。ある異和感はすでにのべたが、しかしこの『明治の日本』から見えてくるものは少くない。驚くほどカメラをカメラとして意識していない子どもや老若男女が映し出されている。東京や田舎、北海道のアイヌ、そして芸者や役者にいたるまでそれぞれに自然である。『日本百年写真館』にのこされた幕末から明治初年の写真に共通するものは凝結したように不動の姿勢と眼の据わったこわばった表情である。当時、板の乳剤(エマルジョン)の感光度が低く、順光線のもとで二〇秒・三〇秒と息をつめていたためだ。だが、この映画の時代はシャッタースピードが少くとも何十分の一秒以上の感光度をもつフィルムが出現しはじめて到来したものであろう。カメラマンはのぞきからくりのような箱でクランクを手でまわしている。およそレンズの前では一瞬、動きのすべて止ったような撮る側と撮られるものとの写真撮影の雰囲気とは大きく趣きを異にした。
活動しているものを撮る。同じ芝居にしても動きの少い科白のやりとりは非活動写真的である。大ぶりの立ち廻りや斬ったはったの方がはるかにシネマトグラフィクだったであろう。
こうした新発明の映画カメラの前に立った明治の人びとの文明開化への対応ぶりが、物にとらわれない自然さをうんでいるのだ。芸者衆の手おどりにしても、庭先で演じているため一向にしまらない。ふっと恥らい笑いする半玉、勝手のちがう場で見せ物になっていることに尻をまくったようないなせの年増芸者の風情など、どこか卑猥な賑わしさをみせている。
写真と活動写真との差があるとしたら、撮られる方に活動が許され、それが心のゆるみ、思い通りの体の動き、表情の自然さを誘ったことにあるだろう。同じ頃の写真にはこの解放感はない。
この『明治の日本』は近年、フランスから日本の国立フィルムセンターに寄贈されたものだ。画質もよく、フィルムの痛みも比較的少い。
このフィルムは明治三二(一八九九)年京都の実業家・稲畑勝太郎がオーギユスト・リュミエールからシネマトグラフを手に入れて帰国し、同行した弟子ジュレールがとったとされるが、一八九五年にできたこのシネマトグラフは、「重さわずか五キロ、エジソンの発明した撮影機の百分の一の重さであり、小型のスーツケースのように簡単にもちはこぶことができた」。さらに「このマホガニー製の優雅な小函で注目すべきことは、それをちょっと調節するだけで、プロジェクター(映写機)にも焼付機にもなることであった。」(E・バーナウ『世界ドキュメンタリー史』映像記録選書)という。なお弟ルイ・リュミエールはこの発明と同時に二年間に数百台のシネマトグラフと数百人の技師をリヨンなどで養成、一気に全世界「南極以外のあらゆる大陸」に送ったといわれる。技師は撮影・焼付現像とともに映写技術も修得していた。
さらにこの前掲書に極めて興味ある記述がある。
「派遣技師たちにとっては、即席の工夫は常識になっていた。撮影でも映写でもクランクを手で回していたので、彼らはじきにスローモーションや早回しを使って、滑稽味や劇的あるいは象徴的な味をつけることを覚えた。映写中にシークエンスを逆転させておかしさを出したり、意味深い効果を与えることもできた。・・・これはシネマトグラフの上映ではお定りの呼び物になった」
当時映画はいかに見られたか。日本でも初期の実写映画会での主役はまざれもなく上映技師であり、解説者だったにちがいない。一つのエピソードがフィルム一巻一〇分以下、ときに数分の場合、それは一回だけの上映ですんだであろうか。手かえ品かえての上映方法や、弁士の語り口の工夫がなされたーそれまでののぞきからくりの大道芸や、寄席の講談、軍談の伝統をいかしての日本独自の解説のしかたが工夫されたであろう。最近西独フランクフルトの日本映画回顧展でサイレント時代劇映画を日本より招かれた活動弁士が朗々と日本語で弁じ、大喝采をあびた。サイレント映画の時代はどこの国にもあったであろうに、ドイツの映画人は、これは日本独特のものだとしてつよい興味をもっていた。その上映会場は州立のシネマ・ミュージアムで、シネマトグラフの実物や、その実演まで観客に許す新しい映画博物館であった。
日露戦争の実写
初期の実写映画を正しく見直すにはこうした歴史博物館のような展示、公開の方法で、より製作時の原型とその上映のしかたに近づけ、追体験できればと思う。それは原作プリントに手を加えることでなく、浮かび上らせるためだ。
これに反し、原作に手を加え、徹底的に新作にとり入れた例がある。乃木将軍ものといわれるものだ。その原作『旅順開城と乃木将軍』はもともと外国人カメラマンのものといわれる。
このフィルムを芯にして、昭和初期に『不滅乃木』がトーキー・四五分版としてつくられた。製作セカイフィルム、原案駒田好洋、編集加藤敏一、解説岩藤思雪である。これはいわば修身教科書映画である。
さらにもう一本、昭和八年に『三月十日』という反ソ的時局広報映画が作られた。これも実写映画をネタ(種)としつつ、日露戦争の奉天会戦で日本が勝利した三月一〇日を「陸軍記念日」としたいわれを説きながら、乃木将軍がロシアをこらしめたその日いらい三〇年、赤色ロシアが再び満州の地をねらいつつある、先人、乃木の戦いをふり返り(アニメーションをまじえ)ロシアの南下に備えるべきだというものである。これは朝日新聞社製作、指導陸軍省新聞班・陸軍少佐松井真二、監修景山誠一、撮影林田重雄、構成監督鈴木重吉というスタッフ。とくに注目をひくのはプロレタリア映画の傑作といわれた『何が彼女をそうさせたか』(昭和五)をつくった鈴木重吉のモンタージュでつくられていることだ。それだけに『不滅乃木』の浪花節調とちがって、ドライで煽動的な論理構成をもっている。
ローゼンシャール撮影とされる実写映画の代表的シーンは、日本海をゆく艦隊、艦砲射撃、旅順港封鎖、そして二百三高地をめぐる攻防戦、そして水師営におけるステッセル将軍と乃木との会見などである。これらのシーンに共通するのは、戦闘も砲撃も、両将軍の会見も風景のように静的にとられていて、いささかの愛国主義も入りこむ余地のないものである。シネマトグラフの実現いらい軽量化された手動撮影機をかついで、ボーア戦争があれば南アフリカにいき、極東に日露戦争あれば日本・ロシア双方のルートから撮影技師は戦場に赴き戦況をカメラにおさめ、世界中に売った(日本人技師たちも吉沢商店、横沢商店、広目屋、博文館などから派遣されたが、そのフィルムは残っていないという)。日露戦争は新発明の映画にとって格好のネタとり合戦場であったようだ。
巻ゲートルに軍靴の兵隊たちがはたらき蟻のように集団として描かれている。
だがここにも活動写真の被写体となった人びと、ひとりひとりの兵隊の日常性がかい間見られるのだ。旅順要塞攻略の二八センチ砲を数十人で山麓にはこび上げる兵隊たちの苦役のシーンに運動会のつなひきの応援団長風の下士官や、山車をひく祭礼の若いもののように白い歯を見せるおどけた兵隊がうつっている。
この二八センチ臼砲は当時の最大口径の砲であり、日本の兵器技術の粋をあつめた、極めて絵になるものだが、一発ぶっ放すのに数人が爆風にふっとぶといったすさまじいもので、砲座を定める苦労はいかばかりかと思わせる。だが、不思議なほど肉弾戦による死傷者(日本軍一〇万人のうち六万余、ロシア軍三万数千人のうち一万二千余といわれる)がでてこない。大砲合戦の図のように描かれている。
有名な水師営の会見場のシーンもそうだ。カメラは日本とロシアに等距離の眼でとっており、会見のあとか先か、きわめて平静な幕間のようなひとときが庭先スナップとしておさめられているだけだ。肩を並べていて風貌服装で弁別しなければ、どちらがロシアでどちらが日本か分らない。つまり勝者としての乃木将軍のアップもなく、将軍ステッセルの敗残も映っていない。和やかですらある。そこには当時の戦争における合戦と和議の、ふたいろの雰囲気があっけらかんと出ているようだ。
第二次世界大戦のときシンガポールで山下奉文大将がイギリス軍司令官パーシパルに「降伏するか、イエス、オア、ノウ?」と迫ったニュース映画の有名なシーンにくらべ、何とも牧歌的ですらある。
「庭にひともとなつめの木」と小学校唱歌にうたわれるのは後であるが、この会見で敵将から贈られた白馬を自分のそれまでの二頭より賞でたといった逸話の残るように、異邦人の将との交歓の思い出のシーンといった方が分りやすいかも知れない。それにしても、厖大なフィルムが撮られたであろうに、最も戦場や殺戮のイメージとほど遠いシーンばかりが残されたものである。そしてこれらの風景的ともいえるシーンをもとに昭和の時代に数本の乃木ものがリメイクされるのだが、これらはともに復元でなく新作として装いをかえているので、この章の後半で論及することにしたい。
『日本南極探険』
さて明治時代の代表的な実写映画は何といっても一七分の、いや本来二六分の『日本南極探険』(エム・パテー商会、撮影田泉保直)であろう。これは自瀬轟海軍中尉以下隊員の明治四三(一九一〇)年一一月よりはじまる南極探険の七カ月の記録である。あらかじめ探険のいちぶしじゅうをとるべく企画された作品としては日本ではじめてのものといわれる。これこそは当時の一秒一六駒で再現して見ねばならない作り方がされている。芝浦出港に先立って、機関員から厨房士にいたる一人のこらず紹介している。これは万一の場合遺影となることまで考えての全人物紹介のシーンとなっている。だがくどいようだが駒落しのためじっくりと見ている暇がない。そのとった意図だけは伝わる。芝浦出帆の模様も克明である。アイヌの風俗から学んだような素朴な防寒衣や足具、そして船内の厨房までとられている。だが、肝心の南極到着後のシーンはものたりない。
準備されたフィルムは二千尺という。一六駒で撮影しても三三分である。うち二六分ぶん使用されているから、ほぼ全カット使用されているだろう。だが何という少い手持フィルムだったことか。
エム・パテー社がフィルムをけちったとは思えないし、まして田泉カメラマンが手びかえたとは思えない。(E・バーナウ『世界ドキュメンタリー史』によればこの頃まで生フィルムは一巻六〇尺、ちょうど一分ぶんだったという。)三〇数巻ほどの生フィルムは重荷ともいえない。だとすれば、この時代、一つのはなしがせいぜい一〇分前後だったことを考えると、逆に破格の分量のフィルムを用意したことになるのかも知れない。今日、五倍、一〇倍のフィルムを用意しないではいられない私たちの常識では推し計れないものがある。
とはいえこの『南極探険』には記録を念頭においたカメラワークがある。流氷や巨大な氷山、そこでのペンギンの生息にもカメラをむけている。だが恐らく、手もちフィルムが窮迫していたに違いない。はじめての航海記録、南極接岸のプロセス等に興味をもちつつも、残りのフィルム量を計算しながら全体の構成も考えたであろう。そうした苦心のあとがこの作品からつたわってくる。二十数分は当時としては画期的な長篇であった。そのことは二年後国技館で公開されたという発表舞台のスケールの大きさでもうかがえる。そしてこの『南極探険』はその解説者によって確実に観客を湧かせたであろう。南極の臨場感とその証明が映画であった。撮れたフィルムはすべてつながれ、如何ようにも解説の材料となり得たにちがいない。写っていないとか、破損したといった技術的NG以外はほぼすべて上映された。それが当時の映画の観客の求めでもあったかもしれない。奇妙にもそれはその点で田泉保直は日本で最初のドキュメンタリー映画の試みに苦しんだ先駆者であったといえよう。起承転結を考え、旅と冒険のドラマを予想しつつ日々を撮った彼の撮影記録ノートがもし残されていたら、日本記録映画の黎明期を早めえたに違いないと思う。
いささか余談に近いが、当時、劇映画としても、わずかしかなく、『ジゴマ』の公開に先立つこと一年、つまり映画撮影や編集もすべて手探りの時代であった。この事情は八ミリ映画を始めた初心者の必ず通る体験と瓜二つである。撮ったものにはすべて想いがある。フイルムを捨てることがもったいなく、観るものに口説くように語ることでスクリーンと人間との間に映画的空間がうまれてくる。たかだか百年に満たぬ歴史しかない映画の初期の感動をさぐるよすがは、案外個人の八ミリ狂時代に思いめぐらすことで想像できそうではないか。
大正天皇の映画は・・・
実写映画に日本の皇室ものが登場するのは『大正天皇御大典』(大正四年)が初めてである。そこで選んで観る気になったが、大正天皇が一カットも出てこないのに驚いた。製作は帝国興行株式会社である。のちに文部省・宮内省じきじきに昭和の皇室ものが製作されていくのに比べ、映画は全然、皇室行事の記録に組みこまれていないことがわかる。むしろ規制されて不自由極まる格式の中で撮られたもののようだ。映画として評にもあたいしない六分ものである。
年表によれば、さかのぼること四年の明治四四年、文部省は通俗教育委員会を設け、「幻灯及び活動写真フィルム審査規定」を定め、認定制度をとりはじめる。
そして大典の翌々大正六(一九一七)年警視庁は「活動写真取締規則」を公布、フィルムの検閲、観客席の男女別席制などが実施される。すでに第一次世界大戦(一九一四ー一八)下にあり、この年ロシアにおいてソヴィエト十月革命が勝利している。
一挙にとぶが今日に到るも日本の記録映画運動に影響を与えているとされるプロキノ運動はこのロシア革命後のソヴィエト映画に触発され、大正末期に準備され、昭和二(一九二七)年に公然化し、いくたびの弾圧をへて昭和九(一九三四)年までつづいた。これについては他の筆者にゆずる。
白井茂の仕事
カメラマン白井茂のすぐれて記録性にとむ自伝『カメラと人生』(ユニ通信社刊)には随所にその年代ごとに使用した新型撮影機、ニュータイプのフィルム、照明、現像技術とそれによって開拓されたカメラワークが記されている。
「大正九年の始めに映画界に入って、和製のカメラでオルソクロマティック・ネガフィルム(整色性のないフィルム)をつかい、無声版で毎秒一六駒を手でまわしたのが初めだった。-カメラも、外国製のゴーモン、パテー、ユニバーサル等が輸入される。-フランスからパルボのカメラがやってくる。そしてベルハウエルカメラが全盛になった-そしてフィルムから音が出るトーキー時代が出現する。そんな頃ハリー三村がアメリカから帰ってきてセット照明装置に一大改革を教えた。そして手現像時代が去って自動現像時代になった-」これは大正八年から昭和七、八年までの一三、四年間のカメラ小史ともいえるスケッチである。
大正一二年九月一日の地震被害を記録した『関東大震災』(企画文部省、製作東京シネマ、掘影白井茂)は私の見た、限りある試写フィルムの中では日本で最初のドキュメンタリーフィルムといえる。そのカメラは、まだアイモなどない時代(大正一三年)だから三脚つきの大きい箱型のユニバーサルカメラで助手とふたりでなければ扱えないものであったようだが、天災としての地震のすごさ、第二次災害の大火災、都市機能の崩壊、有名な街角の惨状、避難する人々の流れ、人体被害の実情、死体の山などあたかもその項目をそらんじて、その都度、その視角で切りとってカメラをむけたと思われるほど直截で正確な映像である。九月一日当日、白井茂は埼玉県熊谷で仕事をしていて、撮影は翌二日からの三日間というが、ときにフカンで広い東京下町を鳥瞰し、その中心にカメラを近づけるといった冷静さを失っていない。地割れは地割れとしてあくまで即物的に撮り、逃れる人の流れには三脚をすえてじっと凝視している。それらのロングショットや俯瞰ショットこそ、この映画の記録性を高めている。カットのつながりはとった時間の順序で、一カットも編集上の前後をしていないように思えた。このことはあとで資料として検索していく上でつよいよりどころとなるものだ。
焼死体にも「いちいち黙礼して」撮影したという。広い東京の中で、最も激甚な被災地は火の海となった下町である。そのなかでももっとも悲劇を生んだのは被服廠あとである。カメラは隅田川にうかぶ死体をとり、最後に屍るいるいたる被服廠あとにきて、数カットその地獄を見せたあと、エンドもなく終る。
白井茂が折にふれ語り記したところによれば被災者たちが「朝鮮人だ、殺してしまえ」といってつめよってくる。ここで撮れなくなった。あと兵隊によって仮留置所に入れられ、とったフィルムは治安上よろしくないからと没収される。だが渡したのは最後に入れ替えたフィルムの後半だけ、つまり未感光の白いフィルムを渡して、撮影分は守った。そのカットがこの映画のラストになってブッ切れのエンドになっているのだ。カメラワークもさることながら、ドキュメンタリストの能力と才覚と勇気と健脚をあわせもった白井茂をこのフィルムで見たのである。
同じ白井茂による空撮記録『航空船にて復興の帝都へ』が三年後の大正十五(一九二六)年につくられている。霞ケ浦の海軍飛行場から純国産の航空船にのって撮ったものだ。字幕で東京の地名を示してその上空を撮っているのだがカメラがすこぶる自由でないー、低空で飛べないー。カメラのポジションが風圧にさらされているー。乗員席がプロペラのエンジン部に近すぎるー。こういった悪条件を実はもう一台のカメラで撮っている。したたかな映画的弁明といえる。それにしても灰燼に帰した下町、上野、浅草、両国、被服廠あとは上空からみた限り、一切、惨禍の跡をとどめていない。省線(のちの国電)が走りビルが建ち、品川・大井の港湾埠頭が白い線で海を劃している。たった三年後にかかわらずその一望する限りの復興ぶりは驚異的に思えた。第一次世界大戦後の市場好況と大陸への植民者として培った地力がこの東京復興に結実しているかのようで、このあとにつづく帝国主義日本への猪突を予感させる不気味ささえも覚えた。
皇室ものの連作
大正末期(一三ー一五年)の教育映画業者八二社、製作・発売六一一本のほかに、文部省作品九〇本と年平均二〇〇本(四〇〇巻)以上となる。うち社会教化、宣伝劇一五七本、軍事三三本(大内秀邦氏による)とある。めざましい急伸ぶりといえよう。
これにうちつづく昭和初期、プロキノ運動を左の視界に入れつつも、学校教育、社会教育用のフィルムが競ってつくられるなかで、文部省と肩をならべて軍の関与するフィルムが視野の中に大きく入ってくる。さらに、皇太子(摂政官殿下)即ち、今の昭和天皇の実像の実写が登場する。国立フィルムセンターのものを拾っても『皇太子の(欧州よりの)御帰朝』『摂政官殿下活動写真展覧会御台覧実況』(以上大正一〇)、『皇太子殿下御成婚の御儀』(大正一三)、『大正天皇御大葬御儀』(昭和二)。これら皇室ものの製作は民間の映画会社から、政府じきじきに移っている。
私はこのどの一本も見ていない。だがフィルムセンターの番組解説に興味ある指摘がある。「この一連の皇室関係映画を見ると、皇室の行事はすべておびただしい陸海軍人将官に壁のようにとりかこまれた中でとり行われ、軍服以外の一般人はもとより、政治家でさえ近寄れなかった状況だった事実が明瞭にわかる。・・・民衆娯楽のひとつである活動写真展覧会にお出でになった時も、イギリス皇室はじめ、平和な親善の旅であった欧州から帰られたときも、殿下の服装はつねに軍服であられた。・・・世界の眼が日本を軍国主義の権化のように見ていたのも、これでは当然であろう。そのときどきに、ありのままに撮影される記録映画は、ありのままの事実を証明する、歴史の証明でもある」
乃木もの
皇室ものの連作のあと、さきにのべた乃木ものがあらわれる。『不滅乃木』『三月十日』などがそれである。ともに乃木の実与を芯にしていることに変りないし、天皇への忠誠と軍国主義の教育映画であることに変りない。
この二作を比較すると同じ時代(昭和一〇年代)にどうしてこうも違った感じの作品にリメイクされたのか不思議である。スタイルも前者が浪花節とすれば後者は鋭角的な手法である。
誤解をおそれずに言うならば『不滅乃木』はその発想・展開においてどうしようもなく修身教科書的でありながら、ひとり乃木に固執し、その生涯と記録と身辺雑事のディテールまで撮りつくし、長篇化したことで、一篇の人間記録としてあるトーンをもって成立している。それは荻の生家の紹介からはじまり、殉死の部屋の実写におわる。ナレーションには当時の時局とむすびつける好戦的言辞はない。
むしろ明治の軍神へのひたすらな回顧に終始しており、時代志向としてはうしろむきである。一時間に近い長篇の中で、遺された院長時代の学習院内の起居の一室、その生活什器、日課と信条。「毛布三枚に敷布一枚、一日、飲料水はしゃふつした湯ざまし水とう一個、洗面用の水、手桶一ぱいぶん」といった調子である。乃木邸のシーンでは殉死の死体のあとに白い印をおき、その覚悟をしめす遺文、簡素を極めた少い家具、妻のつかいふるした小さな鏡台、それにひきかえ本宅よりよい厩舎など、これでもかこれでもかとその質朴にして規律ある生活ぶりを視覚的に展開する。かつて弁士だった岩藤思雪の詩吟、和歌朗唱をまじえた感傷的なナレーションに重ねて、それにぴたりとはまる写真や文書をくり出してつなげる。「彼は死んだ勇士たちのあまりに多きを恥じて、写真にとられることをきらい、気付くとかげにかくれて写真にとられることをいつも避けた」だから、とスナップを拡大し、彼の肖像をストップモーションでみせる。
「生前の声の録音はこれしかありません。「私は乃木であります」というものです。二度くりかえしますからお聞きのがしないように」-とのべてレコード盤の中からひとこと二秒にも足りない「私は乃木であります」「私は乃木であります」を聞かせる。失笑とあっけにとられるが何か残る。
前出の『旅順開城と乃木将軍』に重なるシーンに、更に探し出したフィルムを加え、難攻不落な牙城に対し「多くの兵を死なした」事実を数字をあげて裏付けし、兵を愛してやまぬ彼の、死ぬまで悔恨を抱きつづけた後日談をつなげる。ステッセル将軍とのシーンでも二人を拡大しその肖像を強調しつつ、「よくぞ敵ながら闘いし」と賞め、その妻子の帰国のシーンや捕虜のロシア兵への慰めも忘れていない。こうした武士道精神を基に話は明治天皇への恋慕に近い忠誠に至る。そして「名将ときに輩出するといえども、忠臣は少し、楠木正成以来の忠臣乃木」と人間と神との間に乃木をおきつつ、天皇に殉じた武将の、人間としての生活訓をひき出す。いわく質実剛健、謹厳実直。これこそ日本右翼の典型的作品といえる。乃木に托した日本的浪漫主義映画なのだ。
この映画の吸引力は乃木への集中的構成にある。乃木の忠誠を通じて明治天皇がイメージされる。明治の元勲たちも乃木への思いで秤量している。乃木夫妻の遺した生活のディテール、その物をして「不滅なる乃木」を語らしめる手法に、虚実のはざまで記録的スタイルを選んだ演出がある。と同時にこのフィルムに別のナレーションを引きあてること不可能なほど因果性のある構成・編集がかたい。この映画にはカッコつきながら一つの時代の生んだ記録映画性を見ないわけにはいかない。ちなみに製作は民間映画社らしい。軍部の関与は見られない。
これにひきかえ『三月十日』は陸軍省指導の映画である。あきらかに満州国建国の大義をうたうものとして企画された。構成者に鈴木重吉、あきらかにエイゼンシュテインやジカ・ベルトフの映画を学んだ新鋭監督で三年前まで「傾向映画」の旗手のひとりだった。
冒頭荒木陸軍大臣の長広舌がつづく、カメラアングルが彼の膝下からのあおりのため、はなから威圧感がある。ついで日清・日露の領土的葛藤と史的背景がアニメーションで示される。そして、日露戦争、とりわけ乃木将軍のシーンが、総攻撃戦や陣地戦ごとにアニメーションで補われ、本来乾ききっている実写フィルム(主にローゼンシャール撮影のもの)に戦争記録、資料が重なり歴史の再構築が試みられる。ここで日露戦争で獲得したものがどんなに犠牲の払われたものかを説く。それに今日までに獲得された権益が、赤色ロシアの五力年計画の達成により、いかにより脅威を受けつつあるかを啓蒙する。
特徴的なのはアニメーションが歴史的認識を分析したり総合したりする役目をもたされる。実写のうち乃木ものは感情移入の系でつながれ、ラストには非常時日本の軍事体制の誇示としてニュース映画のショットから艦船、軍用機などがモンタージュとして威勢よく叩きこまれて終る。ここでは実写部分が人間的共感を誘うものとして扱われない。軍隊というマスとして、物量と戦闘力として描かれている。スターは地図上の占領マークである。そして地図は旅順奉天から旧満州そして中国アジアへと拡がる。そのアニメーションがこの映画のねらいであるかのようだ。テクニックは宣伝扇動に徹している。加えて音響・音楽の処理で一方的に迫ってくる。ジカ・ベルトフがこれを見たら何というであろう。彼らの開拓した映画的言語が反人民的な軍国主義の語り口に職人芸をもって駆使されている。だが映画としてのこの手法が挑発的な分だけ浮き上り、映画自身を深く傷つけている。にもかかわらず時局に寄与したことはあきらかだ。この『三月十日』には、同じ映画人としてある種の戦慄を覚える。転向のすさまじさを知らせる。
記録的フィルムの断片がいかような思想のもとでリメイクされるかは戦後もナチズム時代のフィルムをつかった、反ナチズム映画や日本ニュースの再編集ものでみてきた。と同時に国家や主権者は、いざという時には映画をつくり出す。しかも記録映画のもつ「事実らしさ」を利用しつくす。戦争映画はもとより戦後の天皇行幸、皇太子御成婚、東京オリンピック、天皇訪欧米、大阪万博、海洋博、そして筑波科学博に至る一貫した映像重視の流れを思い起さないではいられない。
芥川光蔵と円谷英二
映画における作家とは何か。その作家性の保持と表現の確保はどうしたら果せるか。あるいはどうして破り去られたかを考えさせるものとして昭和七年から一〇年の間、いわゆる日支事変勃発前の映画二作品に触れてみたい。
芥川光蔵の『草原バルガ』と円谷英二の『赤道を越えて』である。芥川のフィルムで今回もう一本『建国の春』(昭和七)を観たが、これは清朝皇帝の末裔ゆえに満州国の皇帝にされた溥儀の即位式の記録である。満鉄広報部の企画により作られている。画面に皇帝よりクローズアップで登場する関東軍首脳の要請でつくられたものであろう。いかにもなげやりな作り方で、この頃としては少い一六駒、サイレント映画である。
『草原バルガ』は音楽と字幕によって説明される外コメントはない。コロンバイン地方の草原とそこに生きる蒙古系遊牧民の生活の記録である。関東軍駐屯地も申しわけのように二カットほど遠景でうつされるが風景の中に埋めこまれている。その風景のポイントは大草原ではなく、それをおおう空・雲におかれている。白黒フィルムゆえに効果のあるフィルターをつかって雲の連なりを地平まで描き出すことで大陸草原のはてしなさを強調し、その中の点在にすぎない羊たちと人びとの生活を描こうとする。この空間への映像者としての素朴なまでの感嘆がこの風景描写にこめられている。「草に臥し、草にねむる遊牧の民」などと美文調の字幕が丁寧に重ねられるが、映像の流れを損ってはいない。既婚の女性と処女の髪かざりとターバンとのちがい、男の仕事、女の仕事の分れ方。羊に曳かれて移りゆく生活だが、ときに羊を殺しあますところなく血も肉も食糧として蓄える。遊牧しつつ、毛をかり、乳をしぼる。
遊牧民のために草原にパオのラマ教説教所が建ち、信心する人びとが教典をよむ。タテ書きの文字である。道祖神・オボのまつりに近在の草原から湧いて出るのかと眼をみはるほどのにぎわい、そこで騎馬戦や蒙古すもうが演じられ、娘たちがはなやぎを見せる。彼にとって最も解放的な映画空間がこの草原にあったのであろう。
異文化との出遭いにあたって、芥川は生活民である彼らに自分と等身大の生活者像を見ている。カメラのとらえる一家の男、その妻、娘たちは芥川に親密感をかくそうとしない。それだけ彼らの中に入りこめた証左である。群衆シーンにもやらせはなく、観客の座からの視角をベースにしている。
彼には『秘境熱河』『娘々廟会』という作品がある。ともに満州の風土と人々の民俗性を描き『草原バルガ』を越える傑作といわれる。
芥川光蔵(一八八四ー一九四一)は満鉄入社後、満州日日新聞に移り、一九二八年再び満鉄にもどり、いらい新京(長春)で客死するまで満州をとりつづけた。満州事変(一九三一)、満州建国、そして満蒙開拓の国是のもとに映画をつくったに違いない。植民地主義者のエリートの地位にあったことは事実だ。にもかかわらず、満州の国ではなく民族と自分との関係に映画を位置づけたようだ。
『建国の春』は一国の成立と初代皇帝の即位という稀有のイベントにかかわらず、何の美化や権威化もない。日本の皇室行事の撮影ではありえないカメラポジションをとる。たとえば溥儀を手もちの横移動でとったり、前に先まわりしてフォローしたりしている。「ただの人」の撮り方だ。そして皇帝の復活をよろこぶ旧清朝の老幕臣たちや横柄な関東軍の将軍連中を時、所かまわずスナップしている。一抹の嫌悪感さえただようショットである。こうした即位行事を進行順につないだままで一丁仕上りといったフィルムである。これには建国讃美の志向は全くうかがえない。『草原バルガ』にそそぐまなざしとは比べものにならないのだ。
彼には彼の満州がある-国ではない。彼は満州に職を得て、そののち映画を手中に入れた。後年には国営の満映にくみこまれたが、いらい彼の満州ものは制約がきびしく、ノモンハン事件(一九三九)の国境問題画定の経緯をかたる『満蘇国境設定』一作で映画生活を閉じたという。体制内のアウトサイダー、日本の映画界の傍流に位置し、満州を映画的に私有することで前記の作品系列をのこし得たのかもしれない。
『赤道を越えて』(昭和一一年)はいわゆる支部事変直前に発表された映画で、製作太秦発声映画・横浜シマネ、後援海軍省、監修海軍中佐酒井慶三、編集解説青地忠三、音楽指導飯田信夫、伴奏海軍軍楽隊と海軍一色のなかでつくられた円谷英二の構成・撮影である。円谷は数年後『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮監督として登場した。
この映画は、昭和一〇年二月より七カ月間、海軍練習艦隊「浅間」と「八雲」が東南アジア、豪州、太平洋諸島、ハワイを一巡したときの記録である。これに三名の皇族士官(見習)が同行し、映画の中でいつもくり返しクローズ・アップされたりするが、基本的にはカメラの見た眼でつづる「一人称映画」に近い構成である。カメラマン円谷の眼が随所にあって、いわゆる八紘一宇の精神でまとめるつもりの構想(総指揮池永浩久)を、映像として喰い破っているカットが散見されて面白い。前にふれた『草原バルガ』が異文化とそれを育てた草原なる自然と住民を前にして、カメラが解放されたように、島国日本を離れてアジアや英領オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、米州ハワイ、そして日本統治下のサイパンと一巡するなかで、旅するものと、むかえる他国の人との接触が、いやおうなくカメラを心やさしくしていく一瞬があるからだ。ひそかに近い将来の南方への軍事進出を計画していた軍部にとって、いわば偵察旅行であったかもしれないが、国際連盟を脱退し孤立感があったにせよそれらのくにぐにとの外交関係が細く残っていた時期である。海軍は国威発揮を期待したが、海軍の兵、士官にとっては海外旅行のチャンスである。
それまで外国人といえば軍事的侵略(ロシア・中国)の地で占領者として接するか流民同様の移民としてしか接触体験のなかったふつうの日本人にとって、この「国際交流」はカルチャーショックであり、おのずと日本帝国国粋主義の根幹をゆすぶるものがあったろう。たとえば歴訪地のタイに大きくスペースをさき「先の国際連盟の脱退の際、日本に味方し、唯一「棄権」で同情をよせた国」と解説している。タイの寺院やタイの踊りによせるカメラ。これに対し、日本芸能団の「東京音頭」をとったカメラにはその安手の踊りに対する辟易がある。
逆にインドネシアでは氾濫する日本商品(自転車、衣料品、陶器、缶詰など)に手ばなしの喜びようで、伝統的な女性のサリーもいまはメイド・イン・ジャパンだと言う。その地の日本人移民の「死んでもジャワは離れません」ということばをそえて、移民との交歓をもり上げたりする。
しかし最もショックだったのは日豪主義のオーストラリア訪問である。白人国家だから日本人移民は殆んどいない。八紘一宇の国是にとって敵性国人である欧米諸国からの移民国家である。コチコチになって上陸する日本海軍の訓練生をむかえるオーストラリア人、つまり白人たちの天衣無縫な歓待に、一様に眼を瞠る。親善パーティ、交歓ダンス、競馬場。金髪の少女にあこがれの情を示すカメラ。スタイルの良い海軍士官候補生にサインをせがむ少年たち。日本字でとサインをたのまれ「金時」「桃太郎」などと書く。「白人にもてた」というはしゃぎが画面にでる。カメラは酔ったように異人種との交歓図を撮るのだ。ここに全篇中もっともスペースがさかれている。つまりカメラが生きているからだ。
ハワイではアメリカ人社会にとけこんだ二世のアメリカ化にみとれる一方、神社や寺まで建て、かたくなに日本を身にまとって歓待する老人たち一世を描く。「ほとんど日本!どうしてここが異郷の地か」とナレーションは言う。艦内見物の一世の姿に「陛下の船、甲板たりとはいえ、ここはわが国土」とかぶせる。
しかしこの映画の後半、オーストラリアやニュージーランドでの白人との交歓の興奮の余韻を抱いて映画は帰国シーンで一まず終る。
カメラマン円谷英二のドキュメンタリストとしてのカメラが、確実に太平洋の人々との体温をつたえるのを見た。ここで映画が終れば、奇妙なチグハグさを含みつつ優れた親善紀行映画となりえたであろう。だがこの終りに新たに総括の章ともいえるグロテスクなシーンがつけ加えられた。
またしても日本列島の図が出てくる。門の絵が出て扉をしめる。「三百年前に日本は鎖国した・・・」そして世界地図がでてくる。ヨーロッパの英仏、オランダから魔手がのびてくる線画がでる。「太平三百年の日本の眠りのうちに、列強はアジアを支配した」。そして太平洋の一巡した国々の地図とアニメーションに「この黒潮流れる太平洋の盟主たるべき国に、いますこしの領土も残っていない。この三百年の立ち遅れをいかにとりもどすか」と叫ぶ。
これより乃木ものから最新のニュース、満州建国から満州事変、それら戦争ニュースと帝国陸海軍の偉容をモンタージュして、八紘一宇の理念をとくのである。おそらくこの章に円谷英二による新撮部分はない。主役は線画(村田安司)であり、地図上の覇権のイメージが主役である。それにトーキー時代にふさわしく海軍軍楽隊のマーチが鳴りひびく。
いまも聞くような論理が展開する。
「われわれに領土的野望はない。平和を望んでいる。しかし資源のないわが国はそれを海外に求め輸入しなければ生きられない。輸出も然りである。この貿易の安定と海上輸送の安全を確保するため海の防衛線が必要なのだ。欧米列強はわが生命線をおびやかしている。一方赤色ロシアは虎視たんたんと満州・シナをうかがい、シナ軍閥はこれとむすばんとしている。アジアに平和を。アジアは結束して外国のくびきから立ち上れ」
この十数分のつけ足り部分で、この映画はそのもつ映像の質を完膚なきまでにしめ殺されたといえよう。「国際交流」によって育れた小さな芽が最も非映画的手法で否定されていた。
もとよりこの企画をひきうけたときから、円谷にも軍への配慮があったであろうし、不必要なまでに皇族士官を追うシーンなども散見される。それでも足りなかった。そして円谷は演出と仕上げの責任を外されたであろう。タイトルには構成・撮影とある。代って海軍広報部が監修となり国粋主義者が総指揮のタイトルで登場する。これに円谷が抵抗したか否かの記録はない。
かわってフィルムセンターの解説書はこう記している。
「円谷英二は各国の民俗や近代風景の撮影に重点をおいたが、愛国志士を以て任じる太秦発声社長は、かつての『海の生命線』と同じ海軍少将や青地忠三を迎えて、国防映画として構成し、「海外発展と国威発揚に対する国民的自覚をよびさますため」の経国警世映画としてこれを世に問うと声明した」
観る人が見ればひとつの映画的事件である。これに直接関わったものも関わらなかったものも、この事件に無関心ではいられなかったはずであろう。これ以後日本のドキユメンタリストはどのように自らの映画をつくり出していったか、あるいはつくらなかったか、それは第四巻で語るつもりである。