新たな手さぐりの日々-ロケ記『医学としての水俣病』 『水俣』第53号 12月 水俣病を告発する会
大津・一之瀬カメラマンと小池助手、それに熊本の有馬君に一之瀬夫人と六人、患者さんの御好意で与えられた「遠見の家」を根城に再びカメラをまわしはじめて二十日になる。また新たな手さぐりの日々である。今度の映画は「医学としての水俣病-三部作」で、今までの記録では撮り切れなかった医学を主題とするものである。幸い熊大の水俣病に深くかかわられた諸先生の協力を得ることになり、作品のいとぐちは開かれた。医学について、あるいは科学について極めて疎遠であった私たちにとって、いつも患者さんそのものに帰って、描くべき医学のテーマを洗いつづけることしか確かな方法はない。親しくしている患者さんに病者をつよく意識しないことが前作の姿勢であったとすれば、その人から水俣病が何を奪い去ったかの視線に変らざるを得ない。遠見の家に遊びに来る石田君がいつもノートと鉛筆を
もち、彼の”字”を克明に書いているのをみると、水俣病の水、水銀の水の一字は確かにかけるのである。この青年の努力しつつある精神がノートに象徴され、しかもノートの字が水俣病そのものの無惨を彼の字は記録している。
大学での諸先生のインタビューや原田正純氏の検診を撮る合間に、水俣での主な作業は、目下申請中であったり、保留、棄却といったボーダー・ラインの患者宅を訪れることである。なまじ水俣病を知っているつもりのために汗ばむ程の自戒に迫られるのはこうした人々からの訴えであり話である。たとえば、津奈木のある漁夫の妻から「水俣病、奇病ってきいたのは十何年も前のことで、最近有明にも出たちゅうて、魚のとれんようになって……いえいえ魚はずっといっちょ変らんで喰うとりますばい、そう奇病の噂のひと月かふた月位のもんじゃろ、たべんじゃったのは……」その家は医師のすすめで申請して、一人は認定、老婆は申請中だという。水俣と隣接するこの浜部落、狂死、重症者の出ている地帯のただ中での話である。行政の中枢の、「水俣附近の魚摂取の警告」は全然届くべくもないのである。
この八月、原田正純氏が保留中の胎児性水俣病の疑いある子供を出月の山田ハルさんの家にあつめたとき、一堂に会した病児をみたときは、異常であった。ほぼ昭和四十年前後の出生である。その病状は三十四年前後の患児といささか趣を異にすると原田氏より訊いた。だが、その発生率は推定としても他地域と比べ酷烈であろうことは分る。在水俣の伊東、堀田、谷氏らの接触したケースであり、重症児はここに足を運んでいない。米ノ津に二人の「脳性小児マヒ」の兄妹がひっそりといた。一言も発せず、眼もほぼ盲目であろう。親は「寒かときに検診にやるにはしのびない」といって検診のための入院を肯んじなかった。こたつの上の薄い板を触角のたよりに、二人が息をかぎあうように顔をこすりあってるのを見て、私は言うべきことばもなかった。夫は夜ぶりのすきな農夫であり、母は月ノ浦育ちである。私たちの映画はこれを避けてゆくことは出来ないと思ったものである。「水俣病のことは患者に訊く」という原田氏の言葉を反芻することが映画となればと思うのだ。